月世界跋渉記
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著者名:江見水蔭 

「それじゃ僕だけここに留守しているから、皆んなで支度をして来玉(たま)え。」
「では頼むよ。」
と月野博士は助手を率いて引返した。
 種々の道具を担いで再び大急ぎで、かの洞穴に帰ったがどうしたのか待っているはずの桂田博士がいない。
「どうしたんだろう。」
と大きな声で呼んだが何とも返事がない。五人声を合せて博士の名を呼んだ。それでも何とも答はない。
「多分そこらへ一人で探検に出かけているんだろう。もう程なく帰って来ようから、吾々(われわれ)は少しも早くここの空気の逃げ出さないようにしなければならない。」
と自ら道具を取って石を動かし始める。二少年も助手とともに働いたが、この月世界で物体の軽い事は驚くほどで、馬二頭でやっと運べそうな大石が、杖の先でも手軽く動く。いやそれ処じゃない掌にでも乗せられるくらい。
 間もなくそこの工事も出来上ったので一同は一まず飛行器の処まで帰って、晩餐の用意に取り懸った。
 やがてそれも出来上って月世界第一回の晩餐会は始まった。
 本気で食事をしていた晴次は急に顔を上げて、
「叔父さん。」と博士を呼びかけて、
「桂田さんはどうしたんでしょうねえ。」
「さよう。きっと最先に一人で探検に出かけているのだろうと思う。」
「そうでしょうかしら。僕は何だかこの月世界の中にほかの人類か動物が生存していて、桂田さんは、それに見付かって捕われたんじゃないかと思うんです。」
 博士は笑いながら、
「そんな事があるもんか。どうして空気のない処にそんなものが生存して行けるものか。」
と言うと、光雄は横から、
「だって僕らが今こうして生きているようにほかの者だって生きているかも知れないでしょう。」と一本遣りこめる。
「そりゃそうだけれども少なくとも月にはそんな生存したものは一疋(ぴき)だっていないという定説なんだから、そんな事はあるまい。もう程なく帰って来るだろうから、それよりは飯でもすんだなら吾々の住宅(すみか)をあの洞穴の横に造るんだ。」
「家を? だってどうして建てるんです。材木も何もありゃしないじゃありませんか。」と又晴次が口を出す。
「何もむつかしい事はありゃしない。この飛行器を皆で担いで行くんだ。」
「飛行器を? 五人や六人で出来るもんですか。日本だって人夫が二十人以上も要ったのでしょう。」
「そうさ。しかしお前は今あしこの穴を塞ぐ時にあんな大きな石をコロコロ転がしていたじゃないか。空気のない処じゃ石でも羽根でも重さは同じだ。飛行船だって己(おれ)一人でも持って行ける。」と説明すると、
「そうですねえ。」と感服して、
「それにしても博士を探しちゃどうでしょう。僕らが迎いに行って来ましょうかしら。」
「さようさ。今に皆で出かけよう。」

    月のアルプス山に於ける紀念碑

 五人は色々な話をしながら食事を終った。暫時(しばし)休息した。
 もうここに着いてからかれこれ二十四時間以上にもなるが夜が来ない。絶えず昼で朝も晩も何にもない。
 しかしいずれも身体は綿のように疲れているので、シートの上に寐(ね)るや否やぐっすりと寐込んで了った。
 かれこれ三時間もたった頃博士はまず眼を醒しほかの者を揺り起した。
「ああ眠い眠い。もう何時でしょう。」
 晴次は目を擦りながら尋ねる。
「何時も糞もあるもんか、一日が二十四時間より長いんだから僕らの持っている時計じゃ訳らない。さあいよいよそれじゃ博士を捜索に出かけようかな。」
と空気自発器に薬品を補充して再びそこを発足した。
 今度も矢張首をグラグラさせながら歩いて前とは少しく方向を換えて山を見かけて進んだ。
 その山の高い事といったら想像も及ばないほどで、その下は一面に広い凹地(くぼち)になっている。
 博士は手帳を出して、
「あそこに見える高い山脈は月世界のアルプス山脈で、今吾々の足下に拡がっているのが、ベポアー海だ。」
と書き示すと、二少年は吃驚(びっくり)して、
「海ですって?」と声を出したが、前と同じくさっぱり聞えない。
 余儀なく鉛筆を出して、
「だって海といっても水は一滴もありゃしないじゃありませんか。」
「昔はこの凹所に水が溜っていて海だったのだが、永い年月の間に全然(すっかり)乾き切って終ったんだ。しかし一度は海だったのだから、天文学者は矢張今でも海とか山とかいうように名称をつけて図を作っているのだ。」
 こんな話をしながら一行はいつとなくこの海を渡って、いよいよアルプス山の麓に出た。
 遠くより望んだよりはさらに一層の険峻で、岩は悉く削ったように聳(そばだ)っている。それを伝って段々と昇って行ってやっとの事で絶頂に達した。
 晴次は何やら見出して、不思(おもわず)また「ヤッ」といったが、気が着いて博士の袖を曳きながら、頻りに先方(むこう)を指差すので、そちらを見ると如何にも石碑らしいものがある。
 無人の境に石碑!
 いずれも審(いぶか)りながらそちらへ駆け付けて見ると、一間四方もあるような四角な天然石を立てて、それに何やら彫刻してある。側によってその字を読むと、英文と日本文とで、
明治四十年十月大日本帝国月世界探検隊この地に達す、一行の姓名を刻んで紀念となす。
工学博士 桂田啓次
理学博士 月野 清
日本少年 星岡光雄
同    空地晴次
助手   山本 広
同    卯山飛達
と記してある。
「博士はもう一番にここまで来たんだ。」
と一同はその無事なのを知って、いずれも安堵の胸を撫で下したが、晴次は又、
「それにしてもここからどちらへ行かれたでしょう。」
「さようさ。」と博士は四辺を見廻していたが、
「とにかくこの山を向側に越して、今少し行って見よう。」
と、その紀念碑の裏に廻った。こちらは足の掛りもないほど急で、頂上(てっぺん)から下を見ると眼も眩むばかり幾十万丈とも知れぬ深さだ。
 光雄はその一番先きに突き出している岩の上に這い出て下を見ていたが、立ち上ろうとする途端によろよろとして底知れぬ千仭(せんじん)の谷に真倒様(まっさかさま)に落ちて終った。
 晴次はこの有様に吃驚して、どうしようと度を失っていると博士は手帳に、
「さああの後に蹤(つ)いて一同(みんな)も飛び降りるんだ。」
「え? ここから」
と晴次が吃驚するまもなく博士は勢をつけて飛んだ。
 乱暴※[#感嘆符三つ、35-上-18] 乱暴※[#感嘆符三つ、35-上-18]
 晴次はますます驚いていると、助手が、
「貴方何も心配なさる事はありません。空気のない処じゃ羽根のようなもんです。いくら高い処から飛んだって平気なんです。」
「さあ一緒に降りましょう。」
と晴次の手を取って否(いや)がる奴を無理に谷底見蒐けて飛び込んだ。
「もう駄目だ。死んで了(しま)うんだ。」
と思って晴次は眼を閉じたが、どうも千仭の谷底へ落ちているとは思われない。まるで風船にでも乗って下っているよう。フワフワとして気持のよさったらない。
 不思議に思って眼をあけると、不思議※[#感嘆符三つ、35-下-10] 不思議※[#感嘆符三つ、35-下-10] 助手が教えてくれたように、春風に鳥の毛が散っているくらいの速力(はやさ)で、そろそろと下降しているのだ。
「これは面白い。」
と横を見るとほかの連中も莞爾莞爾して同じく気持のよさそうにキョロキョロ四辺を眺めながら降っている。
 次第次第に地が見え出すと、下には博士と光雄が笑いながら、三人の飛び降りるのを見上げて待っている。
 やがて地に着くと、粉微塵になると思ったのが大違い、花火の風船玉が落ちたくらいに音もせず一同無事にそこに立った。
 互にその不思議な現象を笑いながら、なおも人々と進んで行くと、また大きな平原=否(いや)海原に出た。
「ここは何という処ですか。」
と晴次が聞くと、
「ここはツランクイリチー大海の痕だ。」
と博士は手帳に書き示した。
 一同は又そこを横切った。
 かれこれ半ば頃にも達したと思う頃、遥か岩の影から一塊の黒い物が現われて、それが段々とこちらへ近づいて来る。
「何でしょう。怪物じゃないかしら、」
「鉄砲を忘れて来ちゃった。どうしよう。」
と二少年はもうそろそろ騒ぎ初める。
「何でもありゃしない。鉄砲を発(う)った処が、こんな処じゃ一寸も利目はありゃしない。あれは多分桂田博士だろう。」
「博士でしょうかしら。」
と、語りながら、少年は尚怖々(おずおず)と見守っていると、その黒い物は次第に近くよって来る。
 矢張人間だ。
 それが半布(ハンケチ)を振り出した。こちらからもそれに応じて各自にハンケチを振った。
「博士だ※[#感嘆符三つ、36-下-3] 博士だ※[#感嘆符三つ、36-下-3]」

    数万丈の谿谷に博士と再会

 近付くのを見ると、いよいよ博士だ。二少年はバラバラと駆け出してその側によると、桂田博士は微笑しながら、
「どうだ大分元気がいいじゃないか。」
「僕らは愉快で愉快で堪らないんです。」
と筆談をやっている中に月野博士も近づいて握手しながら、
「君が不意に居なくなったものだから、どうしたのかしらと思って大変心配したさ。それで今探しに来た処なんだ。」
「そうかそれは済まなかった。」
と軽く会釈して、
「とにかく、それじゃ帰りながら話しをしようじゃないか。」と先に立って、
「君らの来るのを待っている中にあの山に昇って見ようと思って、頂上に行くと石の恰好のいい奴があったものだから、ナイフで紀念碑を彫(きざ)んで、それから後ろに行くと谷から落ちたんだ。」
「そうか、あの紀念碑を見たから君が無事だった事を知って安心したのだ。それから僕らもあの後ろの崖から飛んで下に降りたのだ。」
「面白いですねえ。」と光雄は横合から鉛筆を引手繰って「僕はあの石を踏み外した時はもう死んで終ったと思ったんだけれど、どうも変だと思って眼をあけるとフウワリと落ちているんでしょう。どうしたんだかさっぱり訳らなかったんです。」
「ははあ。そりゃ吃驚しただろう。」
と打ち興じつつ、今度はアルプス山の谷間を伝うて一まず飛行器まで引き上げた。

    月世界の日課。探検と修繕工事

 一同無事に打ち揃うて引き揚げたが、次に起る問題はまず吾々の地球へ帰るために飛行器の修繕だ。
 空気は前に空気孔を発見したので、二月間は支える事を得るが食料は一月足らずしか貯蓄(たくわえ)がないのだから、どうしてもそれまでにはこの飛行器を修繕しなければならないのだ。
 評議の末六人を二組に分け、一方は月世界の探検、一方は飛行器の修繕とした。勿論、月野博士が前者を率い桂田博士が後を受け持つので。それに助手を一名ずつ、それから二少年の中、晴次を月野博士に光雄を桂田博士につけて、いよいよその日から定めの日課に取り懸った。
 まず月野博士の一隊は二十日の食料を分割して各自の腰に結び付けて出て行った。後には桂田博士が二人を相手に一生懸命、羽根の破れやら、器械の破損などを一々修繕している。
 三人が一心になって働いた揚句は、地球でいえば十八日目に、目出度(めでたく)出来上った。
 博士は一応詳く検査した上で、
「よし。これなら大丈夫だ。初めよりはよくなったくらいだ。これで探検隊さえ帰って来ればいつでも出発出来る。」
「何日くらいで帰れるでしょう。」
「まず一週間だね。」
「じゃもう十日ほどで又日本へ帰れるんですね。」
「どうだ。もう弱ったか。」
「何弱るもんですか。」
と元気よくいって窓の処へ覗いたが、
「やあ帰って来ました。帰ってきました。」
「そうか。」
と博士も助手も一様に窓に出ると、如何にも三人の探検隊は各自に山のような荷物を背負って意気揚々として帰って来た。
「どうだ。結果は。」
 まず桂田博士が尋ねると、月野博士は快活な調子で、
「余程変った現象があるですねえ。」といいながら、包を下して、その大風呂敷を拡げると、中から出たのはいずれも地球上でいまだ見た事もない珍奇な物ばかりだ。修繕方の三人が驚いて見ていると、博士は得意気にまず、珍妙な形をした人形の土器を出して、「これが、例のヒマラヤ山の後方から二十里ばかりの処に石塊の間に転がっていたのです。余程珍らしいもので、これが僕の一番の土産です。これによって見ると、始めにはきっと月にも人類が生存していたに違いない。でその人間は地球上の石器時代くらいの程度まで進化して滅亡したものらしいです。」
と幾十となき古代遺物をさらけ出しては、宛然小児が珍らしい玩具でも貰ったように、一人でホクホクして喜んでいる。
 博士は暫くその獲物に夢中になっていたがやがて思い出したように桂田博士の方を振り向いて、
「貴方の方はどうです。」
「僕の方も先刻出来上った。」
「そうですか、それは何より目出度い。いよいよそれでは明日にでも出発しますかな。」
「さよう。それでは一つ祝杯を挙げようじゃないか。もう空気などありたけ吸う気であの空気孔で大に胸襟を開いて飲もう。」
「賛成※[#感嘆符三つ、38-下-14]」
といずれもその洞内に赴き、ありたけの蝋燭を点じてその中に坐り、各自にブランデーを注いだ洋盃(コップ)を高く差し上げ、桂田博士の音頭で「日本帝国万歳※[#感嘆符三つ、38-下-17] 月世界探検隊万歳※[#感嘆符三つ、38-下-18]」
を三唱すると、その声は遍く洞内に響き渡って、谺(こだま)はさながら月がこの一隊を祝するように、「月世界探検隊万歳※[#感嘆符三つ、39-上-1]」と唱え返した。
(「探検世界」明治四〇年一〇月増刊号)



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