成長が生んだ私の恋愛破綻
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:伊藤野枝 

 いろいろな困難が一つ一つ自分の身にこたえ、考えが一つ一つ自分だけの考えになってきたのは、子供を生んでからでした。子供が出来てからようやく私は一人前になったのです。私は子供がどんなに可愛かったかしれません。そして子供の母親として観、子供の母親として考えるすべての事は以前とはだんだんちがってきました。
 彼の頑固なまでの利己的態度をはっきり見得るようになったのはその子供に対する態度からでした。私は子供が少しずつ育ってくるにつれて、彼にはとうてい頼れないと思ったのでした。自分がどんなに無力であるかを考えると私は心細くてたまりませんでした。しかし子供を持った三十を越した男が、今もまだ、自分が何をしていいか分らないといって手をこまねいているのを見ると情なくもなりましたが、どうかして自分がしっかりしなくてはならないのだという心持に鞭韃されるのでした。
 私のこの心持が強くなってくると同時にTの心持はますます隠遁的になってくるのでした。彼は家の中の、私と母との間のちょっとした感情のこじれやその他のチョッとした事にも、自分が口を出すことを厭がるようにまでなったのです。それでも、私はまだ、彼と別れようなどと思ったことはなかったのでした。また、彼の利己主義に絶望してはいませんでした。私もまたそれに同感していました。
 けれども、私の日常生活においては、彼との距離はだんだん遠くなってきました。私は子供を抱えていると、世間に対してはだんだん積極的な心持になってくるのでした。そしてこの私共が相反した道に進むのと同じに、母のTに対する不満もだんだんにひどくなってき、それが私にも及ぶようになってきたのです。私共一家の者の心持はみんなそれぞれに別になってきました。
 Tの心持がますます隠遁的になり、母の気持が露骨になるにつれて、私は時々、ひとりの生活を夢想するようになりました。私はその時分から、自分の結婚を悔やむような心持になりかかっていたのでした。そしてこの心持はTがたよりないと思うほどつのってくるのでした。どうかすると、私は家の中に満ちている不快からいっぺんに解放されるためにはどうかしてひとりになろうというつきつめた心持から子供を背負って出て見た事もあったくらいです。
 しかし、私をこうした心持に導くのもいつも子供でしたが、この心持を抑えるのも不思議にまた子供だったのです。それと、もう一つはTのあの深いメランコリアです。私は彼がその深い憂鬱に捉えられた時の顔は思い出すだけでも憎しみを感ずるほど、苦悩を刻み出します。私は私の去った暗い家の中にその顔を想像する恐ろしさに堪え得られないのです。
 けれども私は幾度決心したかしれませんでした。一度独りの生活を思いますと、事につけ折にふれてその夢想が浮かんでくるのでした。そしてまた、その考えを助けるような事柄ばかりが非常によく見えるようになってきたのでした。そして事実について考えるとき、私の頭はもうTのそれからはまったく独立していたのでした。

 何事につけても不如意な私の生活は、思うように勉強をすることももちろん出来ませんでした。私は自分が独立するにしても、やはりどうかして、自分の筆をたよりにするよりしかたがなかったのです。が、それも私には自分の無力を思うと恐ろしかったのです。そしてそれにつけてもどうかして私は必要な勉強だけはしてゆきたいと思いました。そして読書はどんな忙しい中にでも止めませんでした。
 私が独立しようと思い立った時分から、私のすべての事に対する考えはよほど積極的になってきました。戦わねばならぬ、という事がいつも私の気を引き立てました。そして、この私の積極的な気持から、私の対社会的な考えが一変したのです。そしてこの考えは、ある時Tの主我的な考えとかなり激しくぶっつかり合いました。私はそこにますますTとの相違をはっきり見たのでした。
 例えば、ある注意すべき事件が持ち上がりました。それは現在の社会の欠陥なり不徳なりを充分露骨に現わしているとします。私はそれに対してすぐに心からの憤りを感じます。そしてたとえ自分の力がどれほど微弱なものであるとしても、その不法に対してブツかって行きたいという衝動を感じます。どうしても怒らずにはいられないのです。しかしTはちがいます。彼はそんな事が在るは当然の事として、それが自分の力でどうなるのだ、といって平気で見のがす事が出来るのです。自分が馬鹿な目に会わないようにすることだ。こういいます。可哀そうな目に会う奴は、それだけの力しか持たないからだ。自分を保てないからだ、といいます。弱い奴が強い奴に負けるのはあたり前だといいます。
 私はTを充分理解し肯定しながらも自分の考えをそこに持ってゆくことは出来ませんでした。やがて私の考えは、だんだんにTと自分との差異の点にばかりこだわるようになりました。
 こうして私の心持が進んでいるうちにも私はまた第二の子供を生むようになりました。しかし、私共の生活はちっとも幸福ではありませんでした。二人目の子供が生まれてからは私共には面白くない日の方が多かったのです。私は子供の世話、家の中のすべての仕事、それにたべる心配から、自分の勉強、仕事とおっかけられるように忙しい生活をしていたのです。
 そうしていながらも、私の心にだんだんに食い込んでくる考えは、Tが何のたよりにもならない事と、今自身の生活を変えなければもう一生重荷を背負って苦しまなければならぬという事でした。二人目の子供が生まれてからは私の家は私には一日一日に重さを増していく重荷でした。私が自分の境遇を悲しむときには、Tも間違いなく私の重荷でした。子供は、私には重荷であっても自分の背負わねばならぬ重荷とあきらめていました。しかしその他のいっさいのものはみんな私には日増しに重くなりました。
 私は時々自分の年を考えてみます。二人目の子供を生んだ時、私は廿一だったのです。まだほんとうの勉強ざかりの年なんです。私は情なくなりました。何という馬鹿な目に会ったもんだろう、としみじみ思いました。
 出よう、家をはなれよう、とどれほど思ったかしれません。けれども家の中の事はみんな私の手をまつことばかりで、いつにもぬけようはありません。
 でも、私はとうとう決心したのです。そしてずいぶんひたむきにもなれるくせに気の弱い私は、母に一時だけ子供をつれて田舎にひとりで行かして貰いたいと切り出したのです。そしてTには自分の生活をもっと正しくするために少し考えたいから、とにかくしばらく別れてみたいといったのでした。そして双方から承諾を受けたのです。そして私はその準備をするために働いていました。
 私達はいつでも、嫌になったら離婚をする事を原則としてくらしていました。けれども、それは周囲のいろんな係累に妨げられて、容易に実行の出来る事ではないのでした。それでも、私はとうとうそこまで漕ぎつけてきました。ずいぶん長い間を考えて考え抜いたあげくにようようそこまでの決心が出来たのです。
 もちろん、子供の事にも私はかなり苦しめられてきたのでした。私共の離婚が子供にどんな不幸を持ってくるか、という事もずいぶん真剣になって考えてみました。しかし、私はもし私がこれ以上辛抱してこの境遇にいれば、もっと時が重なってくるとTと憎み合いにらみ合って暮らさなければならない日がくるかもしれないという事を考えずにはいられませんでした。世間にはずいぶんそんな夫婦がたくさんありますから。けれどもこんな両親がどうして子供の幸福の対象になりましょう。子供等はかえってそんな事には敏感で悲しい場合が多いと私は思います。そしてまた、よく子供のためにいいとか悪いとかいいますが、何が果たして幸福であり何が不幸になるか、容易に他から差し出てきめる事は出来ないと思います。私は子供を見棄てたというのでずいぶん非難されました。しかし、私はそんな事を非難する人は本当にどれほど母親が子供を愛するかを充分に考え得ない人だと思います。私には、たとえどれほどの気強さを持っても打ち克つことの出来ない愛に苦しめられている母親をその上まだ鞭打つなどという事は出来ません。
 どんなに子供には気の毒な事でも可愛想な事であっても、私はTとは離婚しなければならなかったのです。私の別れなければならない理由は明白であり正しいものであると信じる事が出来る以上は、私は正しく行動します。子供は事理をわきまえる事が出来るようになれば理解してくれるに違いないのです。私達が親子であることを妨げられない以上は、私達は必ず話し合い理解し合うことが出来るのです。私はそれを信じています。しかしまたよし理解しなかったとしても、してくれないとしても、それまでです。私は私の生活をよりよくしてきた事に充分満足する事が出来ますから。それに子供は子供で自分の生活を持っています。もしも子供から恨まれる事があっても、私は自分が子供の犠牲になって一生を無意味に送って子供の過重な荷厄介になって持てあまされるよりははるかにいい事だと思っています。
 Tと私との最後は、私が自分で計画したように自然にはゆきませんでした。幸か不幸かちょうどそのとき私はOにぶつかったのです。
 私はもしOの愛をすぐに受け入れるような事があれば、Tとの間にせっかく自然にはこびかけた相談がこんぐらがるばかりでなく、世間からはきっとOの愛を得たがためにTを捨てたといわれるだろう。という事が私にはたまらなくいやでした。が私のOに対する気持はかなり卒直なものでした。
 私は永い間Oに会いもせず何の返事もしないでいました。私の対世間的な見栄と、その見栄に打ち克とうとする他の卒直な気持との争いでありました。私はやはり自分のこれからの勉強や仕事のためには今は何にもかかわらないがいいのだと思いました。そして私はTとも別れOをも拒絶しようと決心しました。
 Oは私のこの心持をかく見破っていました。私は決心してOに拒絶しに行きました。が結果は反対でした。私はいっさいの話の混交も世間の批判もだまって受けようと決心しました。
 こうして私はTと別れました。私がTと別れるまでの私のすべての心持も事情もよく知っている友達は私をしきりに励ましました。彼女は極力、私が独立することをすすめました。私の結婚が最初から過っていたことをしきりにいっていました。そして親切な私の後援者になってやろうとしていたのでした。けれども彼女は、私がTと別れると同時にOと結んだ事に不服でした。彼女は私がOの魅力にくらんで、彼女を裏切ったと考えたのです。無考えな結婚生活に手を焼いていながら再びその愚を繰り返すのだ、と彼女はいいました。もっと冷静に考えねばならないと彼女はいいました。そして彼女は、私が前からOとそうなるべきはずのを自分に隠していたのだというふうにもとりました。しかしそのどれでもなかったのです。
 私はずいぶん考えました。もう私も何をするにも考えずには出来なかったのです。満一ヶ月の間は、私はただその事ばかりを考えたのです。事実私はその考えの中で、Oによって私の生活が、ある力を与えられ、生き甲斐のあるものになるであろうという事によく気がついたのです。今まではばらばらだった私の生活に対する憧憬が形をもってきました。ただ一つOから私を妨げるのは世間の批難一つでした。私はその批難を受ける事を決心しました。

 私が最初の結婚から得たものは、充分に考える事の出来ないような若さで結婚した事に対する悔いです。一方からいえば、そうしなくてはならないようなふうな位置におかれた事も一つの原因になってはいましょうが、それよりも何にも考える事が出来なかったのが一大過失でした。
 それでも、私はまだ男に教育され激励されて、とにかく、自分の生活の根本的な間違いまで気づき、それによって、もっと生活を正しくすすめる事も出来たのです。それは立派な収穫でした。しかしこれがもしいい加減な男だったとしたら、――私はきっと下らない一生をおしまいにしたかもしれなかったのです。私は私のかつて友達だった人々の間に、惜しい一生を男に隷属して自分だけの生活をとり返すことが出来ずに暮らしている人をたくさん知っています。そして、私はたとえ自分がどれほどの悪名を被せられようとも正しく生きてきた事をよろこんでいます。

 よく、結婚して、性格の相違からとか、趣味の違いからとか、周囲の事情のためとかその他いろんな理由で結婚生活が面白くないという愚痴を聞きます。しかしそんな事も要するに、結婚前の考えが足りないのです。そんな事は当然結婚前に知っていなければならないはずなのです。
 けれども、今迄の若い娘達はたいてい若い男に会って、それほど冷静に人間を観るなどという教育はされていません。そしてまた、よほど、利口な人達でも、少しでも好意を持ち出したら、二人の間に不利益な、または不快な、と思われる事柄にはなるべく触れまいとします。これが普通の傾向なのです。一方からいえば無理もない感情ですが、この感情をぬけ得ない間は要するに青年男女の交際というものも実際に結婚の準備としては大した効果はあるまいと私は思います。

 私はTと別れる時、人間の各自持っている差異が恐い程よくわかりました。ちょっとした気質の差異でさえも、どんな大きな破綻を持ってくるかと考えました時には本当に心細くなりました。けれども一方には、みんなそれぞれのパアトナアを持って生活しているのです。そして第二の、現在の生活から私の学んだものは、たとえ結婚した男と女との間にしてもお互いの生活に立ち入らない事がいちばん必要だという事です。他の人々よりは愛し合うからといってお互いの生活に立ち入り勝手という法はありません。私共は深く理解し合うと同時に、その自由はあくまで尊重しなければなりません。all or nothing という事は一時よくいわれていましたが、これは最も利己的な考え方です。それは人間に無理に重荷を背負わせ、また苦しめるものです。
 私共は、いつも私共自身でなければなりません。久しい因習は男が女を所有するというような事を平気にしています。女もまたこの頃の新しい思想に育てられた人々でさえも、自分の気に入った男でさえあれば、よろこんで所有されます。これは恥ずべき事です。
 婦人の自覚という言葉もずいぶんいい古されました。婦人運動の初期にあってはこの自覚という言葉は、ただ結婚の際に親権に反抗する事にのみ用いられたといっても過言ではないような事実を示しました。そして今もやはりその続きです。
 しかし、今一番婦人にとって必要な事は、もっと意志を強くする事です。男に対してもっと理知的になる事です。私は今の日本の婦人達にいちばん必要なものは理知だと思います。日本ばかりではない、全世界の女たちにとってもそれは必要以上の必要ですが、ことに日本の若い婦人達のセンティメンタリズムは、いつまでたっても、女達自身を幸福にする事は出来ません。
 どんな一身上の過失も、自分の意志次第で立派な試錬になります。過失はただ、恥じたり悲しんだりするのみすべきではありません。私共はむしろそんな無用な事は止めにして、その過失に対してもっと立派な研究的態度をとる事が必要です。そしてその時に私共はそこから無限の力強い教訓を受ける事が出来るでしょう。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:20 KB

担当:undef