ある男の堕落
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著者名:伊藤野枝 

      六

 彼が刑期を終えて出て来たのは、その次ぎの年の一月でした。私共はその前年Oが保釈で出ている間にはじめて第一次の「労働運動」を出していました。Oは十二月の末に入獄して留守でしたが、家には三四人の同志の人がいて雑誌を継続していたのです。出獄した彼は、他にゆく処もないので、しばらく置くことにしました。
 さすがのYも青白い牢上りらしい顔色をして、大分痩せて帰ってきました。でもやはり元気よく珍らしかった牢屋の生活をしきりにみんなに聞かせるのでした。その前に私はすでに三人ばかりの出獄者を迎えましたが、獄中での生活は、一つ基準のもとにある規則的な生活であるのにもかかわらず、みんなの話がめいめいに、その人らしい特色を強く現わしていて面白いのでした。ことに単純なYの、孤独というものをまるで知らないYの、遮断された生活の感想は、特別面白いのでした。
 彼は獄中では、ほとんど暴れとおしたということでした。その刑期の最後の日まで彼は「減食」の罰を受けていたのだそうです。しかもその罰は彼がもう三日いなければ、おしまいにはならぬのだと彼はいっていました。
 獄中での唯一の彼のおしゃべりの時間は教誨師の訪問を受ける時でした。教誨師は彼をしきりに説き伏せようとしました。が、博学な教誨師がいつも無学なYの理屈にまかされたのです。
「だけんど、俺がたった一つ困ったことがあったんだ。」
 彼はそういって私に話しました。
「俺のような無学な者にまけるもんだから、奴よっぽど癪にさわったんだね。ある時来ていうには、『お前は、誰も彼も平等で、他人の命令なんかで人間が動いちゃいけないといったな、命令をする奴なんぞがあるのは間違いだといったなあ。だがねえ、たとえば人間の体というものは、頭だの体だの、手だの足だの、また体の中にはいろいろな機関がはいっている。そのいろんな部分がどうして働いてゆくかといえば、脳の中に中枢というものがあって、その命令で動いているんだ。この世の中だって、やっばりそれと同じだよ。命令中枢がなくちゃ、動かないんだ』とこういいやがるんだ。成程なあ、俺あそんな体のことなんか知らねえから返事に詰まっちゃったんだ。すると坊主の奴、『どうだ、それに違いないだろう』ってぬかしやがる。俺あ口惜しいけれど、黙ってたんだ。すると『よく考えて見ろ、お前のいうことは確かに間違ってる』って行っちまいやがった。」
「さあ口惜しくてならねえ。こうなりゃ仕事もくそもあるもんか。俺はそれから半日、夜まで考えてやっと考えついたんだ。それから今度坊主が来た時に俺はいってやった。『俺のいうことは間違ってやしねえ。俺は無学で人間の体がどういう風に働くか知らねえが、うんと歩いてくたびれ切った時にゃ、いくら歩こうと思ったって、足が前に出やしねえ。手が痛い時にゃ動かそうと思ったって動かねえや。またいくら食おうと思って食ったって、口までは食ったって胃袋が戻しちまうぜ。それでも何でもかんでも頭のいう通りになるのかね。それからまたよしんば、方々で頭のいうこと聞いて働くにした処でだね、その命令を聞く奴がいなきゃどうするんだい? 足があっての、手があっての、なあ、働くものあっての中枢とかいうもんじゃないか。中枢とかいう奴のおのれ一人の力じゃないじゃねえか。なら、どこもここも五分々々じゃねえか。俺は間違っちゃいねえと思う』っていってやったんだ。するとね、今度は坊主の奴が黙ってしまいやがって、それから何んにもいわなかった。」
 彼はいつも夢中になって話すときには、誰に向ってもそうであるように、ぞんざいな言葉でそう話しました。
「感心ね。よく、でも、そんな理屈が考え出せてねえ。」
「そりゃもう口惜しいから一生懸命さ。どうです、間違っちゃいないでしょう。」

        七

 彼は未決にいるうちにGさんが差し入れてくれた「平民科学」の感銘が深かったことをしきりに話していました。そういう学問の不思議と面白さを初めて知ったのです。同時に学者のえらさをしきりにほめ上げました。
 ちょうどその頃もう一人私の家には牢屋の中でうんと本を読んでえらくなってきていた若いNという同志がいました。Nは巣鴨の少年監でうんとやはり科学の本を読んだのです。そして少年の驚くべき記憶力でもって、大部分読んだことを記憶に残していました。YはこのNの博識を感心して聞いていました。
 Yが家にいるようになったら――と思ってかなり心配した私も、すっかり落ちついたYを見て少なからず驚きました。彼は朝晩代りばんこにみんなでやることになっている炊事を、毎朝自分で引き受けました。そして牢屋で習慣づけられたとおりに、雑巾などを握って台所なども、案外きれいに片づけました。そしてひまがあると、何か読書をしていました。そして時々、いい本があったら読んでくれ、と私に頼むのでした。
 けれども、Yに本を読んでやることは、誰にも辛抱ができませんでした。なぜなら、彼はその聞いてゆくうちに疑問が生じてそれを質すまではいいのですが、途中で何か感じたことがあると、もう書物のことは忘れたように、三十分でも一時間でもひとりで、とんでもない感想をしゃべりまくります。もしそれが年若いNででもあろうものなら、いつの間にか大変な大激論となってしまいます。そうでなくとも、到底、そのおしゃべりの終わりを待って、後を読みつづけてやるという辛抱はできないのです。
 しかし、私の感心は僅かの間に消えてしまいました。Yは健康がよくなると同時に、狭い家の中いっぱいに広がりはじめました。ことに最初から私共に対して持っているひがみを現わしはじめました。その頃すっかり健康を悪くして寝たり起きたりの状態でいた私が台所に出られない時には、彼は露骨に私を嫌がらすような、そして誰をも喜ばさないご馳走を傲然と押しつけるのでした。それから彼はまた、食べ残したむし返しの御飯や、食べ残しものを、近所の安宿の泊客を連れてきてはほどこしをしてやるのです。彼は狭い台所に胡坐をかいて、汚い乞食のような人達に、私共は恥ずかしくて犬にしか出してやれないようなものを食べさせながら、彼は貧乏人の味方の主義を「説いて」聞かすのです。他の同志や私などが、あまりひどい御馳走を施してその上ありがた迷惑なお説教を聞かしたりすることを批難しましても、彼は決してへこみはしませんでした。そしてその近所の二三軒ある安宿を訪問して、みんなにお世辞をつかわれてすっかりおさまっているのでした。その安宿にいる人達というのは、血気盛んな若い男なんぞは、薬にしたくもいないで、みんなもうよぼよぼの、たよるところのない老人達ばかりでした。
 当時私共の家には四五人の同志がいて仕事をしていましたけれど、私共の経済は非常に苦しかったのでした。雑誌も出るには出ましたが、それで大勢の人が食べてゆくことなどは到底できないのでした。広告料や、Oの二三の本の印税や、あちこちから受ける補助やで、やっとどうにかOの留守中を凌いでいったのでした。その経済状態はみんなによくわかっていました。茶の間の茶だんすのひき出しに、いつも、ありがねが入れてありました。みんな、誰でも必要な小づかいはそこから勝手にとることになっていました。が、私共の仲間では、誰も、一銭も無駄な金をそこから持ち出す人はありませんでした。
 私は、子供をひかえておりますし、余計な金も使いますので、小づかいはまったく別にして自分で持っていました。それも時々ひまをさいて書く原稿料や、印税の一部分や、知人達の補足でようよう足りてゆくような状態でした。
 Yは、この経済状態の上に、最も露骨に私への反感を示して、自分の煙草代から小遣いのすべてを、一銭もその共同の会計からは取らずに、乏しい私の財布のみを常にねらうのでした。私はその頃はもう、彼のその反感を充分に知っていましたので、いつも黙って出しました。彼にいわせれば、私共の処にはいる原稿料や印税は、何の労力も払わない金なのでした。で、彼は平気で強奪してもかまわないのだといっていました。私共がどれほど骨を折って物を書いているかなどという事は、彼の考慮の中にはいらないのでした。

       八

 私に対する反感が露骨になってきた頃から、彼はまた同志に対しても、以前の無遠慮をとり返してきました。彼と若いNの激論が毎日のように始まりました。そしてとうとう彼は私の家を去りました。
 Yはその時すでに、生活の方法を失っていました。彼は再び鍛冶屋になって働く気をもう少しも持っていませんでした。止むを得ぬ事情の下におかれて、彼は同志の家で、食客の出来る家を転々し始めました。三月の末に、Oが三月の刑期を終えて出獄する頃には、私にはもうYの将来に対する望みはまったくなくなっていました。が、それでもまだ、それ程ひどく、彼は自分の道を踏みはずしているようにも見えませんでした。
 が、彼は明白にOに対する反感を現わし始めたのは、私共が曙町を引き払うのに前後した時分からでした。私はそんないやしい動機が直接の因をなしたとはいいませんが、少なくともその時に受けた不快な気持が、前々からの私共の生活に対する反感と一緒になって、それ以後の私共の生活に対する批難になったのではないかという疑問を一つ持っています。
 それはOが出獄してから幾日もたたないうちです。牢から出てくると、彼は今まで極端に押えられた食物に対する欲望を満すことで夢中でした。で、彼は、できるだけうまいものを食べる機会をねらっていました。彼がさっそくに思いついたのは、留守の間を働いてくれた人達の慰労会をすることでした。彼は私の手料理を望みましたので、その日取りの前日に、私はOと一緒にその材料の買い出しに出かけました。食物に飢えたOの眼には、走りものの野菜がことに眼をひきました。私達は、筍や、さやえんどうや、茄子や、胡瓜や、そんなものをかなり買い込んで帰ってきました。Oは、私が料理をするときにはいつもするように、野菜物の下ごしらえの手つだいをしていました。そこにMさんがYを連れて見えました。
 その日招待した客は、内にいる四五人と、他に雑誌の上に直接の援助を与えてくれた、二三の人達だけでした。それだけでも、私共の狭い家と乏しい器物では多すぎるのでしたが、さらに二人のお客がふえたことは大変な番狂わせになります。私はいろいろ思案をしながら、そして、今日のせっかくの慰労会に無遠慮なYに割り込まれるのは困ったことだとおもいながら、働いていました。
 すると間もなく二人のお客様は帰ってゆきました。
「帰りましたの?」
 私は台所に、またはいってきたO[#底本では「O」が脱字、366-12]を見上げながら訊ねました。
「ああ帰った。Yの奴、Mが帰ろうというと、『三月だというのに筍の顔なんか見て帰れるかい。俺あ御馳走になって帰るんだ』といっていたから、今日は君は招待された客じゃないのだ、御馳走することはできないから帰れって帰してやった。」
「困った人ね。」
 私はただそういうよりほかはありませんでした。それと同時に、図々しいYに対しては、私は助かった、という気がしただけでしたけれども、Mさんには何となく済まない気がしました。

 間もなく私共は一時雑誌を中止して鎌倉へ引越しました。その冬、第二次の「労働運動」を初める頃までに、二三度遊びに来ましたが、彼はもう何となく、私共に反感を持つと同時に煙たがっていました。そして帰りにはきっと乏しいOの財布をはたかせたり、最後にはその上に着物までも質草に持っていくような真似をしました。
 その後、彼はもう猛烈にOの悪口を云っていることを私共は知っていました。彼は同志をとおしては、雑誌をはじめるということを口実に金を要求してきました。が、Oは他人を通じてのその無心にはいっさい耳を傾けませんでした。
 Oが第二次の「労働運動」をはじめてからは、明らかに敵意を示しはじめました。同時に自分でも雑誌をはじめましたが、それは、遂にOの予言どおりに、彼を真面目な運動からそらして、一個のゴロツキとする直接の原因になりました。私共には、地方のあちこちの仲間の間まで歩きまわって、彼が金を集めているという話が聞こえました。やがてその次には、彼がOや仲間を売ったといういろんな風評を聞くようになりました。
 彼がロシアへ立つ前に仲間の人々に対して働いた言語同断なあらゆる振舞いは、もう人間としてのいっさいの信用を堕すに充分でした。それ以後も、彼はただ、今はもうそうせずには生きてゆくことができない欺瞞で、自他ともに欺きながら生きているのです。彼はもう、今はおそらく仲間や、少くとも仲間の人達が近い交渉を持っている人々の処では、何の信用もつなぐことのできない境遇に追い落されています。
 しかし、彼の持ち前の図々しさと自惚れは、まだ彼をその堕落の淵に目ざめすことができないのです。私は彼の目ざましかった初期の運動に対する熱心さや、彼の持っている、そして今は全く隠されているその熱情を想うたびに、彼のために惜しまずにはいられません。が、邪道にそれた彼の恐ろしい恥知らずな行為を、私は決して過失と見すごすことはできないのです。――一九二三・一――



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