転機
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著者名:伊藤野枝 

しかし、たとえ千万人の口にそれが呪咀されていても、私は自身の道に正しく踏み入る事のできたのは、何の躊躇もなく充分な感謝を捧げ得る。
 谷中の話を聞いた当座の感激は、今の私にはもうまったくないといってもいい。しかし、その感激は知らず知らずのうちに俗習と偏見の生活に巻き込まれ去ろうとする私を救い出した。谷中村と云う名は、今はもう忘れようとしても忘れられぬ程に、私の頭に刻み込まれている。もちろん、山岡と私の間には、その話は折々繰り返された。一度はその廃村の趾を見ておきたいという私のねがいにも彼は賛成した。
 ちょうど、四五日前の新聞の三面に、哀れな残留民がいよいよこの十日限りで立ち退かされるという十行ばかりの簡単な記事を私は見出した。すぐに、私の頭の中には、三四年前のM氏の話が思い出された。
「もういよいよこれが最後だろう。」
 という山岡の言葉につけても、ぜひ行って見たいという私の望みは、どうしても捨てがたいものになった。とうとう、その十日が今日という日、私は山岡を促し立てて、一緒に来て貰ったのであった。

        七

 行く手の土手に枯木が一本しょんぼりと立っている。低く小さく見えた木は、近づくままに高く、木の形もはっきりと見えてきた。木の形から推すと、かつては大きく枝葉を茂らしていた杉の木らしい。それはこの何里四方という程な広い土地に、たった一本不思議に取り残されたような木であった。かつては、どんなに生々と、雄々しくこの平原の真ん中に突っ立っていたかと思われる、幾抱えもあるような、たくましい幹も半ばは裂けて凄ましい落雷のあとを見せ、太く延ばしたらしい枝も、大方はもぎ去られて見るかげもない残骸を、いたましくさらしている。しかも、その一本の枯れた木に、四辺の景色が、他の一帯に生気を失った、沈んだ、惨めな景色よりも、いっそう強い何となく底しれぬ物凄さを潜めているような感じさえする。
 行くほど空の色はだんだんに沈んでき、沼地はどこまでともしらず広がり、葦間の水は冷く光り、道はどこまでも曲りくねっている。連れの男はずんずん先に歩いて行くので、折々姿を見失ってしまう。二人の話がとぎれると、私達の足元からもつれて起こる草履と下駄とステッキの音が、はっきりと四辺に響いてゆく。黙って引きずるように歩いている自分の足音を聞きながら、この人里遠いあたりの荒涼たる景色に目をやってゆくと、まるで遠い遠い旅で知らぬ道に踏み迷っているような心細さがひとりでに浮かんでくるのであった。
「どうしたい?」
「まだかしら、ずいぶん遠いんですね。」
「もうじきだよ。くたびれたのかい。もっとしっかりお歩きよ。足をひきずるから歩けないんだ。今から疲れてどうする?」
「だって私こんなに遠いとは思わなかったんですもの、こんな処、とても私達だけで来たんじゃ解りませんね。あの人が通りかかったので、本当に助かったわ。」
「ああ、これじゃちょっと分らないね。どうだい、一人でこんなに歩けるかい。今日は僕こないで、町子ひとりをよこすんだったなあ、その方がきっとよかったよ。」
山岡はからかい面にそんなことをいう。
「歩けますともさ。だって、今そんなことをいったってもう一緒に来ちゃったもの仕方がないわ。」
 私はそういった。けれど山岡の冗談は、私には何となくむずがゆく皮肉に聞こえた。先刻から眼前の景色に馴れ、真面目な話が途切れると、他に人目のない道を幸いに、私は彼に向って甘えたり、ふざけたりして来た。彼のその軽い冗談ごかしの皮肉に気づくと、私はひとりでに顔が赤くなるように感じた。その感じを胡魔化すようにいっそうふざけてもみたが、私の内心はすっかり悄気てしまっていた。
「何しに来た?」
 そういって正面からたしなめられるよりも幾倍か気がひけた。本当に、考えてみれば、あの先に歩いて行く男にも遇わず、彼もきてくれないで、自分ひとりで道を聞きながら、うろうろこんな道を歩いてゆくとしたら? 二人で歩いていてさえあまりにさびしすぎるこんな道を――。私は黙った。急にあたりの景色がいっそう心細く迫ってくるようにさえ思われる。
 蘆の疎らな泥土の中に、くるった土台の上に、今にも落ちそうに墓石が乗っているのが二つ三つ、他には土台石ばかりになったり、長い墓石が横倒しになっていたりして見える。それが歩いてゆくにつれて、彼方にも此方にも、蘆間の水たまりや小高く盛り上げた土の上に、二つ三つと残っている。弔う人もない墓としか思われないような、その墓石の傍まで、土手からわざわざつけたかと思われそうな畔道が、一条ずつ通っているのも、この土地に対する執着の深い人々の、いろいろな心根が思いやられる。
 泥にまみれて傾き横たわった沼の中の墓石は、後から後からと、私に種々な影像を描かせる。その影像の一つ一つに、私の心はセンティメンタルな沈黙を深めてゆく。あたりは悲し気に静まり返って、私の心の底深く描かれる影像を見つめている。亡ぼしつくされた「生」が今、一時にこの枯野に浮き上がってきて、みんなが私の心を見つめている。――その感じが私に迫ってくる。同時に今にもあふれ出しそうな、あてのない私のかなしみを沈ますような太いゆるやかなメロディが、低く強く私を襲ってくる。今までただ茫漠と拡がっていた黄褐色と灰色の天地の沈黙が、みるみる私の前に緊張してくる。けれど、やがてそれもいつの間にか消え去った影像と同じく、その影像を描いたセンティメントが消えてしまう頃には、やはりもとの何の生気もない荒涼とした景色であった。しかし、私はそれで充分だ。僅かに頭をもたげた私のセンティメントは、本当のものを見せてくれたのだ。
「何しに来た?」
 もう私はそういってとがめられることはない。一人で来たら私のセンティメントはもっと長く私を捕えたろう。もっと惨めに私を圧迫したろう。だが、もう充分だ。これ以上に私は何を感ずる必要があろう。私はしっかり山岡の手につかまった。
 ようやくに、目指すS青年の家を囲む木立がすぐ右手に近づいた。木立の中の藁屋根がはっきり見え出した時には、沼の中の景色もやや違ってきていた。木立はまだ他に二つ三つと飛び飛びにあった。蘆間の其処此処に真黒な土が珍らしく小高く盛り上げられて、青い麦の芽や、菜の葉などが、生々と培われてある。
 道の曲り角まで来ると、先に歩いていた連れの男が、遠くから、そこから行けというように手を動かしている。見ると沼の中に降りる細い道がついている。土手の下まで降りて見ると、沼の中には道らしいものは何にもない。蘆はその辺には生えてはいないが、足跡のついた泥地が洲のように所々高くなっているきりで、他とは変わりのない水たまりばかりであった。
「あら、道がないじゃありませんか。こんな処から行けやしないでしょう?」
「ここから行くのさ、ここからでなくてどこから行くんだい?」
「他に道があるんですよ、きっと。だってここからじゃ、裸足にならなくちゃ行かれないじゃありませんか。」
「あたりまえさ、下駄でなんか歩けるものか。」
「だって、いくら何んだって道がないはずはないわ。」
「ここが道だよ。ここでなくて他にどこにある?」
「向うの方にあるかもしれないわ。」
 私は少し向うの方に、小高い島のような畑地が三つ四つ続いたような形になっている処を指しながらいった。
「同じだよ、どこからだって。こんな沼の中に道なんかあるもんか、ぐずぐずいってると置いてくよ。ぜいたくいわないで裸足になってお出で。」
「いやあね、道がないなんて、冷たくってやりきれやしないわ。」
「ここでそんなこといったって仕様があるもんか、何しに来たんだ? それともここまで来て、このまま帰るのか?」
 山岡は、そんな駄々はいっさい構わないといったような態度で、足袋をぬいで裾を端折ると、そのまま裸足になって、ずんずん沼の泥水の中に入って行った。私はいくらか沼の中とはいっても、せめてそこに住んでいる人達が歩くのに不自由しない畔道くらいなものはあるに違いないと、自分の不精ばかりでなく考えていたのに、何にもそのような道らしいものはなくて、その冷たい泥水の中を歩かなければならないのだと思うと、そういう処を毎日歩かねばならぬ人の難儀を思うよりも、現在の自分の難儀の方に当惑した。それでも山岡の最後の言葉には、私はまたしても自分を省みなければならなかった。私はすぐに思い切って裸足になり、裾を端折って山岡の後から沼の中にはいった。冷たい泥が足の裏にふれたかと思うと、ぬるぬると、何ともいえぬ気味悪さで、五本の指の間にぬめり込んで、すぐ足首までかくしてしまった。そのつめたさ! 体中の血が一度に凍えてしまう程だ。二三間は勢いよく先に歩いていった山岡も、後から来る私をふり返った時には、さすがに冷たい泥水の中に行きなやんでいた。
「どう行ったらいいかなあ。」
「そうね、うっかり歩くとひどい目に会いますからね。」
 ついそこに木立は見えているのだが、うっかり歩けば、どんな深い泥におちこむかもしれないし、私たちは一と足ずつ気をつけながら足跡を拾って、ようようのことで蘆間の畑に働いている人の姿をさがし出した。そこは一反歩くらいな広い畑で、四五人の人が麦を播いていたのだ。私達がS青年の家への道を聞くと、その人達は不思議そうに私達二人を見ながら、この畑の向うの隅からゆく道があるから、この畑を通ってゆけといってくれた。けれど私達の立っている処と、その畑の間には小さな流れがあった。私には到底それが渡れそうにもないので、当惑しきっているのを見ると、間近にいた年を老った男は、すぐに私に背を貸して渡してくれた。私達はお礼をいって、その畑を通りぬけて、再びまた沼地にはいった。畑に立っていた二人の若い女が、私の姿をじっと見ていた。私はそれを見ると気恥ずかしさでいっぱいになった。柔らかに私の体を包んでいる袖の長い着物が、その時ほど恥ずかしくきまりの悪かったことはなかった。足だけは泥まみれになっていても、こんなにも自分が意気地なく見えたことはなかった。甲斐々々しい女達の目には、小さな流れ一つにも行き悩んだ意気地のない女の姿がどんなに惨めにおかしく見えたろう? だが一体どうしたことだろう? まさかにあの新聞の記事があとかたもない嘘とは思えないが、今日を限りに立ち退きを請求されている人達が、悠々と落ちついて、畑を耕やして麦を播いているというのは、どういう考えなのだろう? やはり、どうしてもこの土地を去らない決心でいるのであろうか。私はひとりでそんなことを考えながら、山岡には一二間も後れながら、今度は前よりもさらに深い、膝までも来る蘆間の泥水の中を、ともすれば重心を失いそうになる体を、一と足ずつにようやくに運んでゆくのであった。
「みんな、毎日こんなひどい道を歩いちゃ、癪に障ってるんだろうね。」
 山岡は後をふり向きながらいった。
「たまに歩いてこんなのを、毎日歩いちゃ本当にいやになるでしょうね。第一、私達ならすぐ病気になりますね。よくまあこんな処に十年も我慢していられること。」
 といっているうちにも、一と足ずつにのめりそうになる体をもてあまして、幾度も私は立ち止まった。少し立ち止まっていると刺すように冷たい水に足の感覚を奪われて、上辷りのする泥の中にふみしめる力もない。下半身から伝わる寒気に体中の血は凍ってしまうかとばかりに縮み上がって、後にも先にも動く気力もなくなって、私はもう半泣きになりながら、山岡に励まされて僅かの処を長いことかかってようように水のない処まで来ると、そこからはSの家の前までは、細い道がずっと通っていた。

        八

 木立の中の屋敷はかなりな広さをもっている。一段高くなった隅に住居らしい一棟と、物置小屋らしい一棟とがそれより一段低く並んでいる。前は広い菜圃になっている。畑のまわりを鶏が歩きまわっている。他には人影も何にもない。取りつきの井戸端に下駄や泥まみれのステッキをおいて、家に近づいていった。正面に向いた家の戸が半分しめられて、家の中にも誰もいないらしい。
「御免!」
 幾度も声高にいって見たが何の応えもない。住居といっても、傍の物置きと何の変りもない。正面の出入口と並んで、同じ向きに雨戸が二三枚しまるようになった処が開いている。他は三方とも板で囲われている。覗いて見ると、家の奥行きは三間とはない。そこの低い床の上に五六枚の畳が敷かれて、あとは土間になっている。もちろん押入れもなければ戸棚もない。夜具や着物などが片隅みに押し寄せてあって、上りかまちから土間へかけて、いろいろな食器や、鍋釜などがゴチャゴチャにおかれてある。土間の大部分は大きな機で占められている。家の中は狭く、薄暗く、いかにも不潔で貧しかった。けれどもその狭い畳の上には、他のものとは全くふつりあいな、新しい本箱と机が壁に添って置かれてあった。机のすぐ上の壁には、T翁の写真が一つかかっている。人気のない家の中には、火の気もないらしかった。私達二人は寒さにふるえながら、着物の裾を端折ったまま、戸のあいたままになっている敷居に腰を下ろした。
 腰を下ろすとすぐ眼の前の柚子の木に黄色く色づいた柚子が鈴なりになっている。鶏は丸々と肥って呑気な足どりで畑の間を歩きまわっている。木立で囲まれてこの青々とした広い菜圃を前にした屋敷内の様子は、どことなく、のびのびした感じを持たせるけれど、木立の外は、正面も横も、広いさびしい一面の蘆の茂みばかりだ。この家の中の貧しさ、外の景色の荒涼さ、それにあの難儀な道と、遠い人里と、何という不自由な、辛いさびしい生活だろう。
 二人が腰をかけている処から、正面に見える蘆の中から「オーイ」とこちらに向って呼ぶ声がする。返事をしながら、其方の方に歩いてゆくと蘆の間から一人の百姓が鉢巻きをとりながら出て来た。挨拶を交わすと、それはS青年の兄にあたる、この家の主人であった。素朴な落ちつきを持った口重そうな男だ。主人は気の毒そうに私達の裸足を見ながら、S青年が昨日から留守であるという。家の方に歩いて行く後から、山岡は今日訪ねてきた訳を話して、今日立ち退くという新聞の記事は事実かと聞いた。
「は、そういうことにはなっておりますが、何しろこのままで立ち退いては、明日からすぐにもう路頭に迷わなければならないような事情なものですから、――実は弟もそれで出ておるような訳でございますが。」
 彼は遠くの方に眼をやりながら、そこに立ったままで、思いがけない、はっきりした調子で話した。
「私共がここに残りましたのも、最初は村を再興するというつもりであったのですが、何分長い間のことではありますし、工事もずんずん進んで、この通り立派な貯水池になってしまい、その間には当局の人もいろいろに変わりますし、ここを収用する方針についても、県の方で、だんだんに都合のいい決議がありましたり、どうしても、もう私共少数の力ではかなわないのです。しかし、そういってここを立ち退いては、もう私共は全くどうすることもできないのです。収用当時とは地価ももうずいぶん違ってますし、その収用当時の地価としても満足に払ってくれないのですから、そのくらいの金では、今日ではいくらの土地も手に入りませんのです。何んだか慾にからんででもいるようですが、実際その金で手に入る土地くらいではとても食べてはゆけないのですから、何とかその方法がつくまでは動けませんのです。此処にまあこうしていれば、不自由しながらも、ああして少しずつ地面も残っておりますし、まあ食うくらいのことには困りませんから、余儀なくこうしておりますような訳で、立ち退くには困らないだけのことはして貰いたいと思っております。」
「もちろんそのくらいの要求をするのは当然でしょう。じゃ、また当分のびますかな。」
「そうです。まあ一と月や二た月では極まるまいと思います。どうせそれに今播いている麦の収穫が済むまでは動けませんし。」
「そうでしょう。で、堤防を切るとか切ったとかいうのはどの辺です、その方の心配はないのですか?」
「今、丁度三ケ所切れております。ついこの間、すぐこの先の方を切られましたので、水がはいってきて、麦も一度播いたのを、また播き直している処です。」
 堤防の中の旧谷中村の土地は、彼のいう処によると二千町歩以上はあるとのことであった。彼はなお、そこに立ったままで、ポツリポツリ自分達の生活について話しつづけた。しかし彼の話には自分達がこうした境遇におかれたことについての、愚痴らしいことや未練らしいいい草は少しもなかった。彼はすべての点で自分達の置かれている境遇をよく知りつくしていた。彼は本当にしっかりしたあきらめと、決心の上に立って、これからの自分の生活をできるだけよくしようとする考えを持っているらしかった。こうしてわざわざ遠く訪ねてきた私達に対しても、彼は簡単に、取りようによっては反感を持ってでもいるような冷淡さで挨拶をしただけで、よく好意を運ぶものに対して見せたがる、ことさららしい感謝や、その他女々しい感情は少しも見せなかった。私達がしばらく話をしている間に、そこに来合わせた一人の百姓は、やはりここに居残った一人であった。彼は主人から私達に紹介されると幾度も私達の前に頭を下げて、こうして見舞った好意に対する感謝の言葉を連ねるのであった。その男は、五十を過ぎたかと思われるような人の好い顔に、意地も張りもなくしたような皺がいっぱいたたまれていた。
 主人とその男と、山岡の間の話を聞きながら、私はあとからあとからと種々に尋ねてみたいと思うことを考え出しながら、一方にはまたもう何にも聞くには及ばないような気がして、どっちともつかない自分の心に焦れながら、気味わるく足にぬられた泥が、少しずつかわいてゆくのをこすり合わしていた。
 風が出てきた。広い蘆の茂みのおもてを、波のように揺り動かして吹き渡る。日暮近くなった空は、だんだんに暗く曇って、寒さは骨までも滲み透るように身内に迫ってくる。
「せっかくお出でくださいましたのにあいにく留守で――」
 気の毒そうにいう主人の声をあとに私達は帰りかけた。
「やはりその道を歩くより他に、道はないのでしょうか。」
 私は来がけに歩いてきた道を指さして、分り切ったことを未練らしく聞いた。またその難儀な道を帰らねばならないことが、私にはただもう辛くてたまらなかった。
「そうだね、やはりその道が一番楽でしょう。」
 といわれて、また前よりはいっそう冷たく感ずる沼の水の中に足を入れた。
 ようようのことで土手の下まで帰って来はしたものの、足を洗う場所がない。少し歩いているうちにはどこか洗える処があるかもしれないと思いながら、そのまま土手を上がった。白く乾き切った道が、気持よく走っている。けれど、一と足そこに踏み出すと思わず私はそこにしゃがんだ。道は小砂利を敷きつめてあって、その上を細かい砂が覆うている。むき出しにされて、その上に冷たさでかじかんだ足の裏には、その刺戟が、とても堪えられなかった。といって、今泥の中から抜き出したばかりの足を思い切って草履の上に乗せることもできなかった。
「おい、そんなところにしゃがんでいてどうするんだい。ぐずぐずしていると日が暮れてしまうじゃないか。」
 そういってせき立てられる程、私はひしひし迫ってくる寒さと、足の痛さに泣きたいような情なさを感ずるのだった。それでも、両側の草の上や、小砂利の少ない処を撰るようにして、やっとあてにした場所まで来て見ると、水は青々と流れていても、足を洗うような所はなかった。私はとうとう懐から紙を出して、よほど乾いてきた泥をふいて草履をはいた。二人はやっとそれで元気を取返して歩き出した。
 日暮れ近い、この人里遠い道には、私達の後になり先になりして尾いてくる男が一人いるだけで、他には人の影らしいものもない。空はだんだんに低く垂れてきて、いつか遠くの方は、ぼっと霞んでしまっている。遠く行く手の、古河の町のあたりかと思われる一叢の木立の黒ずんだ蔭から、濃い煙の立ち昇っているのが、やっと見える。風はだんだんに冷たくなって道の傍の篠竹の葉のすれ合う音が、私達の下駄の音と、もつれあってさびしい。二人はS家の様子や主人の話など取りとめもなく話しながら歩いた。
「あの主人は大分しっかりした人らしいのね。だけど後から来たおじいさんは、本当に意気地のない様子をしていたじゃありませんか。」
「ああ、もうあんなになっちゃ駄目だね。もっとももう長い間ああした生活をしてきているのだし、意気地のなくなるのも無理はないが――あそこの主人みたいなのは残っている連中の内でも少ないんだろう。皆、もう大抵はあのじいさん見たいのばかりなんだよ、きっと。残っているといっても、他へ行っちゃ食えないから、仕方なしにああしているんだからな。」
「でも、それも惨めな訳ね、あんな中にああしていなきゃ困るのだなんて。今度は、お上だって、いよいよ立ち退かせるには、せめてあの人達の要求は容れなくちゃあんまり可愛想ね。たくさんの戸数でもないんだから、何とかできないことはないのでしょうね。」
「もちろんできないことはないよ。少し押強く主張すれば、何でもないことだ。だが、残った連中は、他の者からは、すっかり馬鹿にされているんだね。来るときに初めて道を聞いた男だって、そらあの婆さんだって、そうだったろう! 一緒に行った男なんかもあれで、Sの家を馬鹿にしてるんだよ、Sを批難したりなんかしてたじゃないか。」
「そうね、あの男なんか、こんな土地を見たって別に何の感じもなさそうね。ああなれば本当に呑気なものだわ。」
「そりゃそうさ、みんながいつまでも、そう同じ感じを持っていた日にゃ面倒だよ。大部分の人間は、異った生活をすれば、直ぐその生活に同化してしまうことができるんで、世の中はまだ無事なんだよ。」
「そういえばそうね。」
「どうだね。少しは重荷が下りたような気がするかい? もっとあそこでいろんなことを聞くのかと思ったら、何にも聞かなかったね。でも、ただこうして来ただけで、余程いろんなことが分ったろう? Sがいればもっと委しくいろんなことがわかったのだろうけれど、この景色だけでも来た甲斐はあるね。」
「沢山だわ。この景色だの、彼のうちの模様だの、それだけで、もう何にも聞かなくてもいいような気になっちゃったの。」
「これで、町子ひとりだと、もっとよかったんだね。」
「沢山ですったら、これだけでも沢山すぎるくらいなのに。」
 長い土手の道はいつか終わりに近づいていた。振り返ると、今沈んだばかりの太陽が、低く遙かな地平に近い空を、僅かに鈍い黄色に染めている。他は一体に、空も、地も、濃い夕暮の色に包まれている。すべての生気と物音をうばわれたこの区切られた地上は、たった一つの恵みである日の光さえ、今は失われてしまった。明日が来るまではここはさらに物凄い夜が来るのだ。黄昏れてくるにつけて、黙って歩いているうち、心の底から冷たくなるような、何ともいえない感じに誘われるので、道々私は精一杯の声で歌い出した。声は遮ぎるもののないままに、遠くに伝わってゆく。時々葦の間から、脅かされたように群れになった小鳥が、あわただしい羽音をたてて飛び出しては、直ぐまた降りてゆく。
 古河の町はずれの高い堤防の上まで帰って来たとき、町の明るい灯が、どんなになつかしく明るく見えたか! 私はそれを見ると、一刻も早く暖い火の傍に、その凍えたからだを運びたいと思った。
 古びた、町の宿屋の奥まった二階座敷に通されて、火鉢の傍に坐った時には、私のからだは何ものかにつかみひしがれたような疲れに、動くこともできなかった。落ちつかない広い室の様子を見まわしながらも、まだ足にこびりついて残っている泥の気味悪さも忘れて、火鉢にかじりついたまま湯の案内を待った。
――一九一八・一――




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