蒲寿庚の事蹟
著者名:桑原隲蔵
支那の南方の門戸に當る海南島にも、後くも、宋元時代に、アラブ商人、然らずともイスラム教徒が、かなり移住して居つた樣子で、兔に角この住民にも、蒲姓の人が尠からざる事實がある。
さて本題の蒲壽庚に立ち返つて、彼の祖先のことは已に紹介した通り明末に出來た『□書』の中に、尤も詳細に見えて居る。その記事に據ると、彼の祖先はもと廣州に住居して所謂蕃長の職を務め、大なる資産をもつて居つた樣である。鄭所南の『心史』には、蒲受畊(蒲壽庚)の祖は、兩廣第一の富豪であつたと記載してある。この蒲壽庚の祖先が、もと廣東に僑居して、大なる資産を有して居つたといふ事實は、端なくも、南宋の岳珂の『※[#「木+呈」、129-11]史』に在る、廣州の蒲姓の記事を想起せしむる。
この岳珂は岳霖の子で、有名なる岳飛の孫に當る。南宋の光宗の紹煕三年(西暦一一九二)父の岳霖が廣州の知事として赴任した時、彼もその地に同行して、廣州滯在の蒲姓とも親しく往來し、その親覩した所を『※[#「木+呈」、129-14]史』の中に記載して居る。左にその大要を紹介いたさう。
廣州城内に雜居して居る幾多の海※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、129-16]の中で、最も富豪を以て聞えたのは蒲姓の人である。彼はもと占城の貴人であるが、中國に滯留して、その國の貿易事務を管掌することとなつた。年月を經る儘に、廣州城内に宏大壯麗なる邸宅を構へた。支那人ならば、當然官憲から譴責を受くる程の贅澤を盡したが、外國人でもあり、且つは盛んに互市を營んで、國庫の歳入にも關係を及ぼす人のこととて、支那の官吏は遠慮して、之を不問に置いた。この蒲姓の風習として、特に注意すべきことは(一)清淨を尚ぶこと、(二)殿堂を設けて禮拜祈福するけれど、決して偶像を設けぬこと、(三)食事する際には、必ず一方の手のみを使用して、他の一方の手は便用の時に使用する外決して食事に使用せぬこと、(四)その使用する文字は異樣で、中國の篆書、籀文の如き形をなして居ることである。
以上岳珂の記した所に據ると、蒲姓の風習は頗るイスラム教徒のそれと類似して居る。廣州滯留の蒲姓はアラブ商人に相違あるまいと思ふ。※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-7]はもと南夷(西南夷)の一種であるが、當時南洋方面より海上支那に交通した外國商人を、一般に海※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-8]とも舶※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-8]とも稱した。アラブ商人も勿論海※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-8]と稱して差支ない。廣州の蒲姓と同時に、福建の泉州に居つて、巨萬の富を擁した舶※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-9]に、尸羅圍といふのがある。その名から推して、この舶※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-9]はペルシア灣頭 S□r□f の産の蕃商たること疑を容れぬ。岳珂は蒲姓を占城の人と記して居るが、上に述べた如く、當時占城にアラブ商人の假寓した者が尠くない筈故、この蒲姓ももと占城に僑居したアラブ商人と認むべきであらう。
尚ほ岳珂の傳ふる所に據ると、蒲姓の家宅の後に高大な□堵波があつて、その構造樣式は全く普通の佛塔と相違して居る。毎年四五月の交となると、廣州滯在の群※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-13]がこの塔上に登つて、天に叫呼して南風を祈り、外舶の入境の便利を圖つた。この□堵波の絶頂には、もと巨大なる金□があつたが、後ち盜難に罹つてその一足を失ひ、爾後一足の儘の金□が塔の頂上に在つたといふ。
吾が輩はこの岳珂の記事から推測して、現今廣州城内にある懷聖寺の番塔又は光塔――廣東の一名物である――は、南宋時代の蒲姓の宅後の□堵波と關係あるものと認めたい。懷聖寺は普通の傳説では、支那へ始めてイスラム教を將來した斡葛思 Wakk□s の建てたものだといふが、勿論信用することが出來ぬ。懷聖寺に在る番塔の構造樣式、さてはその塔上の金□など、蒲姓の□堵波と、偶然としては餘りの類似である。吾が輩は今の番塔は、宋代の蒲姓の□堵波の遺物でないかと想ふ。吾が輩は更に進んで懷聖寺そのものも、或は宋代の蒲姓の建立ではあるまいかと想ふ。
餘談はしばらく措き、兔に角『※[#「木+呈」、131-4]史』に記する所の廣州の蒲姓は、當時廣東第一の富豪で、外國貿易のことを統べて居つた。蒲壽庚の祖先も亦廣州に居つて、諸蕃の互市を統べて兩廣第一の富豪であつた。この事實を對比すると、『※[#「木+呈」、131-6]史』の蒲姓は、蒲壽庚の祖先その人でないかと、想像を容るべき餘地が多い。若しこの想像に從つて、蒲姓を蒲壽庚の祖先と認めるならば、蒲姓は西暦十二世紀末に出で、蒲壽庚は十三世紀の半過ぎの人故、蒲姓は多分蒲壽庚の祖父位に當るべき順序である。
『※[#「木+呈」、131-9]史』の記事に據ると、さしも廣州で豪華を極めた蒲姓も、その後久しからずして、家運傾いたといふことである。蒲壽庚の父の蒲開宗の時、廣州から始めて泉州に移住したのは、或は廣州に於ける蒲姓の衰運と關係ある樣に想像される。
四 蒲壽庚の事歴(上)
蒲壽庚の一家は、その父蒲開宗の時代に、廣州から泉州に移住したが、最初の間は左程豐かな生活を營んだものと想像出來ぬ。所が蒲壽庚の時代に南海名物の海賊が、泉州を襲うて掠奪をやつたことがある。大膽なる蒲壽庚はその兄の蒲壽□と協力し、支那官憲を助けて見事にこの海賊を撃退した。これが彼の出世の端緒で、宋の朝廷に登庸されて、遂に泉州の提擧市舶となつた。
『□書』を始め支那の記録には、多くこの蒲壽庚の海寇撃退の事實を、南宋の度宗の咸淳十年(西暦一二七四)の頃の出來事と記してあるが、咸淳十年といへば、元の伯顏が宋の行在の臨安府を陷れる僅か二年前に當る。『宋史』瀛國公本紀の景炎元年(西暦一二七六)十一月の條に、
蒲壽庚提二擧泉州舶司一。擅二蕃舶利一者三十年。
と明記してある。果して蒲壽庚が海寇撃退の功によつて、提擧市舶となつたものならば、そは景炎元年より約三十年前の理宗の淳祐年間(西暦一二四一―一二五二)でなければならぬ。諸書に咸淳十年とあるのは、或は淳祐十年(西暦一二五〇)の間違ひではあるまいか。然らずば、海寇撃退の事件以前から蒲壽庚は早く提擧市舶の職に在つたものと認めねばならぬ。『重纂福建通志』卷九十に、泉州の歴代の提擧市舶を列載してゐるが、淳祐の末年以後の提擧市舶としては、蒲壽庚一人を掲ぐるにすぎぬ。蒲壽庚一人が淳祐以後宋末まで、久しく提擧市舶の職に在つたことを、保證する樣に思はれる。
提擧市舶は蕃商即ち外國の貿易商人との交渉に當るから、種々役徳が多い。唐時代から、外國の商舶が支那沿海の埠頭へ入港すると、所定の下碇税と稱する關税を納めるは勿論、別に皇室へ舶來の珍異を獻上する。これを進奉といふ。皇室獻上の進奉以外に、地方の關係官吏にも相當の心附が行き屆く。即ち呈樣とて、蕃商が新たに輸入する物貨の一部を、見本といふ名義の下に、地方官憲に送呈するのである。また禁制品や逋税を取締る爲に、官憲がその輸入物貨を檢閲する。之を閲貨とも閲實ともいふ。閲貨を經ねば一切物貨を販賣することが出來ぬ。檢閲後に――多分蕃商等の主催で――慰勞の宴會が開かれる。この時にも臨閲の官吏に尠からざる贈遺がある。蕃商の滯留中に支那の官憲は自然之と往來交際するが、かかる場合には、蕃商から種々心附があり、又時には蕃商の本國から附屆などもあつた。
これらはむしろ公然の役徳と申すべきものである。甚しき者は蕃商輸入の物貨を無理に廉價に買ひ受け之を販賣して私利を營む。蕃商の物貨を強請してその怨を買ひ、命を落した官吏さへあつた。唐宋時代の市舶に就いては、最近に藤田、中村二氏の論文も發表されて居るから、茲に詳細に述べる必要ないかと思ふ。
以上の事情によつて、外國貿易船と關係する官吏は、古來發財致富するものと定まつて居る。『舊唐書』卷百七十七盧鈞傳に、
南海有二蠻舶之利一。珍貨輻輳。舊帥(節度使)作レ法興レ利以致レ富。凡爲二南海一者。靡レ不二梱載而還一。
といふ通りである。かかる事實は、唐代より遙か以前から、已に歴史上に散見して居り、宋時代になつても亦同樣であつた。されば貧乏官吏は種々運動して、外國貿易と關係ある南支那に奉職せんことを競爭した程である。三十年も長く提擧市舶の位置を占め、時に或は自分の手で海外通商を營んだかとも疑はるる蒲壽庚の富有は設想するに難くない。
海寇撃退の功によつて出身した蒲壽庚は、南宋の末には福建按撫沿海都制置使に昇進して、尚ほ提擧市舶をも兼ねた。併しこの時宋運は已に傾き、徳祐帝(恭宗)の徳祐二年(西暦一二七六)、即ち元の世祖の至元十三年の春に、元の大將伯顏は遂に南宋の行在臨安府(杭州)を陷れ、徳祐帝を降し、宋は事實上滅亡した。
是に於て宋の遺臣等は、徳祐帝の兄景炎帝(端宗)を奉じ、福建方面に退いて恢復を圖る。蒲壽庚の勢力に依頼する必要から、彼を福建廣東招撫使に進め、兼ねてこの方面の海舶を統領せしめた。やがて景炎帝は元軍を避け、その年の十一月に福州より海路泉州に移つて、蒲壽庚兄弟の後援を期待したが、蒲壽庚は十分にその所望に應ぜぬ。
元軍の方でも東南を平定するに、蒲氏の助力を得るのが、第一の要件であることは夙に承知して、未だ行在の陷落せざる以前に、至元十三年の二月に、元の伯顏は特使を派して、蒲氏兄弟に投降を勸誘して居る。この勸誘に對して、蒲壽庚は如何なる態度を持したかは、記録に傳はつて居らぬが、彼はこの時から幾分二心を抱いた樣に想はれる。殊に船舶や軍資に不足勝なる宋軍は、泉州に於て蒲壽庚所屬の船舶資産を強請的に徴發した故、蒲壽庚は大いに怒つて、その年の十二月に斷然元に降り、宋に對して敵對行動をとることとなつた。
蒲壽庚が宋を捨てて元に歸したことは、宋元の運命消長にかなり大なる影響を及ぼした。元來蒙古軍は陸上の戰鬪こそ、當時天下無敵の有樣であれ、海上の活動は全然無能で、この點に就いては宋軍にすら敵しかねたのである。然るに海上通商のことを管理して、海事に關する智識も邃く、且つ自身に多數の海舶を自由にすることの出來る蒲壽庚が元に降つて、その東南征伐に助力したことは、元にとつては莫大の利益で、同時に宋にとつては無上の打撃であつた。景炎帝は間もなく福建方面を去つて、廣東方面に引移らねばならぬこととなつた。
その翌景炎二年即ち至元十四年(西暦一二七七)の七月に、蒙古軍が福建方面を引き上げたを機會として、宋の張世傑は急に蒲壽庚を泉州に攻めた。泉州は當時南外宗正司の所在地で、宋の宗室が多く茲に住んで居る。此等趙氏の一族の者は、何れも宋室の恢復に心を傾けたこと勿論である。蒲壽庚は一擧にして、泉州在住の宋の宗族を鏖殺して内顧の憂を絶ち、專心に泉州を固守した。張世傑は泉州を圍むこと三ヶ月に亙つて城が拔けぬ。やがて蒲壽庚の請に應じて、蒙古軍の來援すると共に、宋軍は復た廣東方面に退却した。この後約一年半を經て、至元十六年(西暦一二七九)の二月に、張世傑を頭目とせる宋軍は、幼主祥興帝と共に崖山で覆滅して、宋祀は全く絶え、元が天下を統一することとなつた。
兔に角元の東南平定には、蒲壽庚の力預つて多きに居る。故に元の朝廷も最初より彼を厚遇した。先づ昭勇大將軍(正三品)を授け、□廣大都督兵馬招討使に任じ、ついで江西行省の參知政事(從二品)となし、至元十五年(西暦一二七八)の八月には、福建行省の中書左丞(正二品)に登庸して居る。
五 蒲壽庚の事歴(下) 蒲壽庚の一族
蒲壽庚はただに元の爲に東南平定の大功を建てたのみでなく、彼は更に南海諸國を招懷して、此等諸國と元との間に互市を開くべく、若干の貢獻を致して居る。
已に述べた如く、唐宋時代から、否その以前から支那と南海諸國間との通商は盛んに行はれて居つた。殊に宋一代を通じて、外國貿易は一層隆盛を極めた。當時支那政府はこの外國貿易によつて、大體二重の利得を收めることが出來た。一は關税の收入で、之は時代によつて相違はあるが、普通輸入品の一割二割位を政府に收めるのである。一はこの關税收入以外に、宋時代から、或種の外國輸入品は一旦政府に買ひ上げ、而して後ち相當の利益を取つて民間に拂ひ下げることで、即ち政府が或種の外國輸入品の獨占權を握り、之によつて多大の利得を收めた。兔に角南宋時代には、外國貿易が政府の重要なる歳入の一とみなされて居つた。
されば元の世祖が宋を滅ぼして江南を平定すると殆んど同時に、この收益多き外國貿易に着眼したのは、無理ならぬ次第である。世祖はこの目的を遂行する爲には、久しく外國貿易のことを管理して、尤も斯道に通曉して居る蒲壽庚の助力を借らねばならぬ。『元史』の世祖本紀を見ると、至元十五(西暦一二七八)年八月に、世祖は蒲壽庚等に命じて、海外諸國に成るべく從前の通り、支那沿海へ貿易に出掛け來るべく、勸諭の使者を派遣することにした。その直接又は間接の結果として、占城 Chamnpa、馬八兒 M□bar の二國先づ通商を開き、引續きその他の南海諸國も之にならひ、元一代の外國貿易も亦かなり盛況を極めて居る。この外蒲壽庚は又間接ながら、世祖の日本征伐事件に幾分關係して居る樣である。
蒲壽庚の事蹟は『元史』に至元二十一年(西暦一二八四)を限つて、その以後のことが見えぬ。當時彼は最早かなりの老年で、間もなく世を辭したものと想像される。
さきに紹介して置いた如く、蒲壽庚の兄に蒲壽□といふ者がある。蒲壽庚も多少文雅の心得をもつては居つたが、兄の蒲壽□が詩を以て優に一家をなしたには及ばぬ。蒲壽□は一時梅州(廣東省潮循道梅縣)の知州として令名を馳せたが、宋末に退隱したから、その官途の經歴は弟の蒲壽庚の如く顯著でない。蒲壽庚の人物は寧ろ單純一徹な武人氣質で、餘り策略に長ぜぬが、蒲壽□は文學の趣味も深く、思慮綿密で宋元鼎革の際に、蒲壽庚のとつた進退は、多くその兄蒲壽□の計畫指圖に由つたものと傳へられて居る。その晩年に蒲壽□は世間の批判を憚り、泉州府城東南郊外の法石山に隱居して、風月に身を託したといふ。
その他蒲壽庚の一族としては『□書』に據ると、彼の長子に蒲師文と申す者があつて、始終父の股肱として活動したが、人物が暴悍であつた故か、餘り出世をせずに身を終つた樣である。又『八□通志』卷の三十に據ると、元の世祖の末年に、福建行省の參知政事(從二品)となつた蒲師武といふ者がある。その年代及び姓名から推すと、彼は蒲壽庚の子で、蒲師文の弟に相違あるまい。
宋末元初の周密の『癸辛雜識』を見ると、泉南在住の巨賈に、南蕃人佛蓮と申す者があつて、蒲氏の壻となり、盛んに海外貿易を經營したが、死後嗣子なき爲に、政府がその遺産を沒收したことを記してある。單に蒲氏とあるのみでは、勿論斷言は出來ぬが、或は蒲壽庚の一家であるまいかと想像すべき餘地がないでもない。
『八□通志』の卷二十七に擧ると、元の晉宗の泰定年間(西暦一三二四―一三二七)に、福建等處都轉運鹽使(正三品)といふ官――これは鹽鐵、酒醋等の專賣事業を統べ、兼ねて市舶のことを管理する大官である。――を占めた蒲居仁といふ人がある。或は蒲壽庚の孫にでも當るべき人かと想像される。
要するに蒲壽庚は元朝に忠勤を抽でて重用されたのみならず、彼の一族は元一代を通じて福建地方に大なる勢力を振つた。同時に隨分世間から嫌忌された樣である。『□書』の卷一百五十二に、
元以二〔蒲〕壽庚有一レ功。官二其諸子若孫一。多至二顯達一。泉人避二其薫炎一者十(?)餘年。元亡廼已(ヤム)。
とあるによつて、その大體を察知することが出來る。蒲壽庚が元に登庸されて以來元の滅亡に至るまで約九十年に及ぶ。『□書』に泉人避二其薫炎一者十餘年とあるは、恐らく八十餘年の誤脱であらう。
かくて明の太祖が元に代つて天下を一統すると、漢族の國家再造を標幟とした彼太祖は、その返報に、この元と因縁深き福建の蒲姓の一族の仕官を禁じた。さらぬだに色目人の威勢の傾いた時に、官途の禁錮まで受けては、愈□社會に於ける蒲姓の面目が失はれた譯である。此の如くして福建の蒲姓は次第に衰微して、遂に世間の視聽の外に埋沒し終つた。
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