支那人間に於ける食人肉の風習
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著者名:桑原隲蔵 

割レ股旌賞體例。雖レ爲二行レ孝之一端一。……頗與四聖人垂戒。不三敢毀二傷父母遺體一不レ同。又恐愚民不レ知二侍養常道一。因縁奸弊。以敢毀二傷肢體一。或致二性命一。又貽二父母之憂一。……今後遇レ有二割レ股之人一。雖レ不レ在二禁限一。亦不レ須二旌賞一。
と明記してある。されど元の泰定二年(西暦一三二五)に新刊した『事林廣記』壬集卷一に、
諸(スベテ)……爲二祖父母、父母、伯叔父母、姑□及舅姑一。割レ股(奴卑爲二本主一同)竝委二所屬一。由覆二朝廷一。官支二絹五疋、羊兩頭田一頃一。以勸二孝悌一。
とあり、且つ『元史』に至元七年以後も、父母舅姑の爲に、股肉を割いた男女を旌賞した實例が疊見して居るに據ると、行孝割股不當の條文の、實際に於ける效力は疑問と申さねばならぬ。
 明の太祖は實際的政治家として、中々傑出し居るが、彼は割股行孝の流弊を知つて、新に之を制限した。明初に青州日照縣の住民に江伯兒といふ者があつて、その母が病に罹つた時、自分の肉を割いて進めたが、十分の效驗がない。彼は遂に神に願掛けして、母の病が平いだら、我が子を殺すことを誓つた。後幸に母が平癒したから、彼はかねての願掛け通り、三歳になる幼兒を殺して神に謝した。地方官憲は江伯兒を母に孝なる者として、旌表すべく上聞した。所が太祖は江伯兒の行爲は人倫を絶滅せる、以ての外の非行として、大に怒り之を海南島に遠謫し、且つ禮部に命じて、將來に於ける孝行旌表の事例を詳議させた。禮部の詳議した結果は、明の何孟春の『餘冬序録摘抄』一(『紀録彙編』卷百四十八)に、次の如く記載してある。
子之事レ親。居則致二其敬一。養則致二其樂一。有レ疾則拜二託良醫一。嘗二進善藥一。……若臥レ氷割レ股。前古所レ無。事出二後世一。亦是間見。割レ肝之擧。殘害爲レ最。且如(モシ)父母止有二一子一。割レ股割レ肝。或至レ喪レ生。臥レ氷或至二凍死一。使二父母無レ依。宗□乏一レ生。豈不三反爲二大不孝一乎。原二其所一レ自。愚昧之徒。一時激發。及務爲二詭異一之輩。以驚レ俗駭レ世。希二求旌表一。割レ股不レ已。至二於割一レ肝。割レ肝不レ已。至二於殺一レ子。違レ道傷レ生。莫二此爲一レ甚。自今人子。遇二父母病一。醫治弗レ愈。無レ所二控訴一。不レ得レ已而臥レ氷割レ股。亦聽二其爲一。不レ在二旌表之例一。
 朝廷はこの議を採用して、洪武二十七年(西暦一三九四)に、
凡割レ股或至レ傷レ生。臥レ氷或至二凍死一。自レ古不レ稱爲一レ孝。若爲二旌表一。恐二其倣傚一。通行二禁約一。不レ許二旌表一。(『禮部志稿』卷二十四)。
と發布した。されどこの禁約も支那一流の空文で、爾後明一代を通じて、依然官憲も之を旌表すれば、民間も之を奬揚する(明の張鼎思『琅邪代醉編』卷二十參看)。從つて股を割いて孝を行ふ風習が毫も衰廢せぬ。否有明三百年の間に、割股行孝の風習は、前代に比して一層流行した趣がある(Groot; The Religious System of China. Vol. IV, p. 387)。隨分皮肉な事實ではないか。
 清朝では早く順治九年(西暦一六五二)に、明初の規定を復活して、
割レ股或致レ傷レ生。臥レ氷或致二凍死一。恐二民□效一。不レ准二旌表一(『欽定大清會典事例』卷四百三、旌表節孝の條)。
といふ禁令を公布して居る。されどこの規定も七八十年の後には、次第にその效力を失うた。雍正六年(西暦一七二八)に、福建の巡撫から管内の孝子李盛山といふものが、肝を割きて母の病を救ひ、母の病は癒えたが、彼自身はその傷重くして遂に死んだから、この孝子に旌表を加へたいと申出た。禮部は「割レ肝乃小民輕レ生愚孝。向(サキニ)無二旌表之例一。應レ不二準行一。」と議決したが、雍正帝は、
朕念。割レ肝療レ疾。事雖二不經一。而其迫切救レ母之心。實屬レ難レ得。深可二憐憫一。已加レ恩準二其旌表一矣(『欽定大清會典事例』卷四百三、旌表節孝の條)。
とて、特旨で旌表を加へられて居る。勿論雍正帝は今囘の處置を以て定例となすべからず、又地方官憲はよく管内の人民に、割肝輕生の愚擧を懇戒すべき旨を仰せ下されて居るが、兔に角この時以來、國初の禁令のやや弛緩されたのは爭ふことが出來ぬ。爾來二百年の間、依然として割肝※[#「圭+りっとう」、201-3]股の風が行はれ、官憲もその行爲が賣名の目的でない限り、之に旌表を加へて居る。清代の記録や新聞に、かかる例證が多く散見して居るが、煩を恐れて茲には引用すまい。二十餘年間支那に布教して、該國情に精通して居るアメリカの Arthur Smith も、その Chinese Characteristics. p. 178 に、
支那人は兩親が難治の疾病に罹る時は、その子女たる者が、自己の肉片を割き之を調理して父母に進めることが、尤も有效な療法と認めて居る。支那の新聞紙上に、時々かかる療法を實行した場合の報道が記載されてある。著者自身も、親しく母親の病氣を醫すべく、自己の股肉を割いた若者に面會したことがある。彼は宛も古武士が戰場で受けた古傷を示すが如き得意な態度で、自分にその傷痕を示した。
と述べて居る。
 支那人は單に人肉ばかりでなく、人體の一部分、例へば人膽、人骨、人血、毛髮、爪甲等を始め、その他の奇妙なものまで、皆醫藥として效能あるものと信じて居る(『本草綱目』卷五十二、Behrens; Der Kannibalismus der Chinesen. Globus. Bd. LXXXI, Nr. 6, SS. 96-97. Groot; The Religious System of China. Vol. IV, Chap. XIV, pp. 389-405. 參看)。明代の高□といふ宦者が、生殖器を再生せしむる目的で、無數の童男を買取り、之を殺害してその腦髓を啖うた(『野獲編』卷六)といふ如き、及び之に類似せる幾多笑ふべき迷信的行爲はしばらく措き、支那人は一般に人の生血、生膽の效能に就いて、多大の信頼を以つて居る。Rennie に據ると、千八百六十五年の頃、北京西郊で罪人を處刑した時、※[#「會+りっとう」、201-17]刀手はその斬り首より噴出する鮮血に饅頭を漬し、血饅頭と名づけて市民に販賣したといふ(Peking and the Pekingese. Vol. II, pp. 243-244)。又長髮賊の亂中に、上海在住の外國商館に雇はれて居つた支那人の召使は、自己の膽力を増進する目的で、所刑された賊徒の心臟を食用したといふ(Balfour; Cyclopaedia of India. Vol. I, p. 570)。この罪人の生血、生膽等を強壯劑として珍重することに關して、支那在住の西洋人の報告も尠からず傳つて居るが(Yule and Cordier; Marco Polo. Vol. I, p. 312)、茲には引用せぬ。
 罪人の心肝を使用するのは、まだよい。支那では療病の目的で、他人の生命を斷ち、その肉なりその肝なりを採取する兇行が、古來可なり行はれて居る。已に元代無名氏の『鬼董』(知不足齋叢書』本)卷十二に、左の如き記事が見當る。
嘉定戊寅(西暦一二一八)冬。廣西諸司。奏二知欽州林千之食レ人事一。始千之得二末疾一。有二道人一。教以三童男女肉。強二人筋骨一。遂捕二境内男女十二三歳一。□而食レ之。謂二之地□地鴨一。其家小婢妾被レ食甚衆。又以二厚賄一使レ卒。掠二人虚市間一。民稍知レ之。皆深閉不二敢出一。卒無二以應一レ命。乃走二其鄰横州一。伏二莽中一掠二過者一。横州民呼爲二紅衣人一。意二其盜一也。告レ州捕得。卒言二其情一。監司上二諸朝一。既而獄久不レ決。又使下大理評事孫□。往二全州一置レ獄勘上レ之。還延歳餘。千之竟從二輕典一。僅追毀除レ籍。配二吉陽牢城一而已。既而言者論二□罪一。□罷去。
『鬼董』には荒誕な記事も多いが、林千之のことは、『賓退録』を始め、宋元の記録に散見して居るから、當時一般に事實として信用されたらしい。この記事を如何程信用すべきかはしばらく措き、明清時代の記録にも、之と類似の事實が往々發見される。明律に採生折割人の條項があつて、生人の臟腑を取つて人體を毀損する者に對する刑罰を述べて、
凡採レ生折二割人一者。凌遲處レ死。財産斷二付死者之家一。妻子及同居家口。雖レ不レ知レ情。竝流二千里安置。爲レ從者斬(『明律』卷十九、人命部)。
とある。『清律』も全然同一である。隨分の重罰で、人の心肝を採取する者は、この罰を受けねばならぬ。之に拘らずこの條項を犯す者が尠くない(『大清律例集要新編』卷二十五下參看)。豈に驚くべきではないか。

         十二

 古代に溯ると Cannibalism は、存外廣く諸國民の間に行はれて居つた。中古時代のヨーロッパ人の間にも、この蠻風が存在したといふ。否中古に限らず、最近に於ける大戰役の際にも、オーストリーやロシア邊では、食糧缺乏して人肉を食用したと傳へられて居る。しばらく支那の四圍を見渡すと、西のチベット人、北の蒙古人、東の朝鮮人、南の安南、占城諸國民の間にも、嘗て Cannibalism の行はれた證跡歴然たるものがある。ただ我が日本人の間には、支那傳來と思はるる迷信に本づき、療病の目的に、人肉を使用した極めて稀有の場合を除き、記録の上では殆どこの蠻風が見當らぬ。『日本書記』卷十九、欽明天皇の二十八年(西暦五六七)の條に、
郡國大水。飢。或人相食。轉二傍郡穀一。以相救。
とあるは、已に先人の指摘した如く(敷田年治『日本書紀標注』卷十六參看)、『漢書』の元帝本紀初元元年(西暦前四八)九月の條に、
關東郡國十一。大水。饑。或人相食。轉二旁郡錢穀一。以相救。
とある原文をその儘に襲踏したもので、必しも當時の事實を傳へたものでないかと思はれる。第一郡國の二字は、漢代の支那に於てこそ意義もあれ、我が國としては餘り妥當でない。兔に角日本人が飢饉の場合、籠城の場合に、人肉を食用したといふ確證が見當らぬ。まして嗜好の爲、憎惡の爲、人を啖つた事實の見當らぬのは申す迄もない。太田錦城が、日本では神武開闢以來、人が人を食ふこと見當らざるは、我が國の風俗の淳厚、遠く支那に勝る所以と自慢して居るが(『梧窓漫筆』後編上)、この自慢は支那人と雖ども承認せねばなるまい。
 此の如く食人肉の風習は隨分廣く世界に行はれて居つたが、支那の如き世界最古の文明國の一で、然も幾千年間引續いて、この蠻風を持續した國は餘り見當らぬ。支那人間に於けるこの Cannibalism は、外國傳來のものであるか、若くばその國固有のものであるかは、勿論容易に決定することが出來ぬ。但極めて悠遠なる時代から、可なり普通に、この蠻風が支那人間に存在したことは、吾が輩が上來紹介し來れる事實に據つて、疑を容るべき餘地がない。
 日支兩國は脣齒相倚る間柄で、勿論親善でなければならぬ。日支の親善を圖るには、先づ日本人がよく支那人を了解せなければならぬ。支那人をよく了解する爲には、表裏二面より彼等を觀察する必要がある。經傳詩文によつて、支那人の長所美點を會得するのも勿論必要であるが、同時にその反對の方面、即ちその暗黒の方面をも一應心得置くべきことと思ふ。食人肉風習の存在は、支那人にとつて餘り名譽のことでない。されど儼然たる事實は、到底之を掩蔽することを許さぬ。支那人の一面に、かかる風習の存在せし、若くば存在することを承知し置くのも、亦支那人を了解するに無用であるまいと思ふ。
 支那人間に於ける食人肉風習の存在は、決して耳新しい問題でない。南宋の趙與時の『賓退録』、元末明初に出た陶宗儀の『輟耕録』を始め、明清時代の支那學者の隨筆、雜録中に、斷片的ながらこの食人の史實を紹介し、若くば論評したものが尠くない。日本の學者でこの史實に注意したものも、二三に止らぬ。就中『東京學士會院雜誌』第三篇八册に掲載されてある、神田孝平氏の「支那人人肉ヲ食フノ説」の一篇が、尤も傑出して居る。傑出はして居るが、勿論十分とはいへぬ。
 元時代の Marco Polo 以來、明清時代に支那に來た、西洋の宣教師や旅行家が、往々支那人間に於ける食人肉風習を傳へて居るが、何れも斷片的報告に過ぎない。この風習に關する研究的な論文は、未だ歐米の學界に發表されて居らぬ。千九百二年二月六日發行の Globus 雜誌に Behrens の Der Kannibalismus der Chinesen と題せる一篇を收めてあるが、この論文も、一二頁の短篇で、特に紹介する程の價値がない。
 吾が輩の知れる範圍では、西洋の學者の中で、支那人の Cannibalism に關して注意に價するものは、英國の Yule とオランダの Groot との二人である。Yule はその名著 Marco Polo(1903版 Vol. I, pp. 312-313)中に、主として西洋方面の材料によつて、支那人の Cannibalism を紹介して居る。例によつて博引旁搜ではあるが、支那方面の材料を殆ど利用してないのが大なる缺點と思ふ。Groot は Yule と反對に、主として支那方面の材料によつて、支那人の Cannibalism を紹介して居る。(The Religious System of China. Vol. IV, pp. 364-389)。支那方面より蒐録した材料の豐富なことは、確に前人に卓越して居つて、西洋人としては隨分努力を要せしことと想像さるるが、書物の性質上當然とはいへ、Groot は醫療の目的で人肉を食用する場合のみに重きを置き、その他の場合に於ける支那人の Cannibalism を紹介することが甚だ十分でない。又彼は材料の選擇に妥當を缺き、正史や信憑すべき當時の記録よりも、荒誕不稽と思はるる稗史小説を多く引用せる點に於て、同時に又類書より間接引用の多き點に於て、可なり如何を免れぬ。
 吾が輩のこの論文は劈頭に宣告して置いた通り、Solayman や Ab□ Zayd の所傳の正確なることを證明し、且つその所傳の事實に解釋を加へることを主目的といたして居るが、同時に支那人の食人肉の風習を、歴史的に究明すると云ふ副目的に就いても、前人の所論に對して可なりの進歩を與へ得た積りである。
(大正十三年三月十九日稿・『東洋學報』第十四卷第一號所載)


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