支那人間に於ける食人肉の風習
著者名:桑原隲蔵
その後約三百年を經て、明末の李自成が開封を攻圍した時の慘状は、更に一層甚しい者がある。當時の史料に『守□日志』がある。籠城者の一人李光※[#「殿/土」、185-1]の筆録したもので、備さに開封城中の糧食缺乏の有樣を傳へ、その崇禎十五年(西暦一六四二)八月初八日の條に、
人相食有二誘而殺レ之者一。有下群捉二一人一殺而分食者上。毎三擒二獲一輩一。輒折レ脛擲二城下一。兵民競取食レ之。至二八月終九月初一。父食レ子。夫食レ妻。兄食レ弟。姻親相食。不レ可レ問矣。
と記して居る。清初に出た大梁(開封)の人周在浚の『大梁守城記』には、同一事を一層詳細に傳へて、
{崇禎十五年}八月三日。五城巡兵倶割級。獻二周邸一。挾二重賞一。仍賣二民間一爲レ糧。一首率三四金。或云皆良民。四日。中丞勒二富民巨室一追二買糧一。初猶公擧輸勸。已而掲告。已而搜括。望二炊烟一而入。萬竈皆冷。……絶者折レ金。毎石八十金。至二一百二十金一。……毎レ至二一家一。以二大針數百一鑽二稚子膚一。鍛錬之方。極二其哀慘一。匿レ糧者。有司懸レ賞募レ告。……八日。人大相食。初猶食二死人一。死者戒不二敢哭一。至レ是有二誘殺強殺者一。九月初。則父子兄弟更相食。白骨載レ道。初猶熟食。後生食矣。……十六日。命二郷約一報二民間牛驢馬驢一。充二兵餉一。肉一斤。當二兵糧一斤一。五日而盡。……二十日以後。食二牛羊皮襖、靴箱、馬鞍一。……未レ幾人面皆腫。……城之五隅。皆有二鹽坡一。坡上生二蔓草一。民以爲レ美。爭攫之。以二絹布一網二紅蟲一。一斤獲二錢數千一。……糞蛆盈レ器。亦數百錢。盡則食二膠泥馬糞一。有二騎而過者一。※[#「てへん+綴のつくり」、185-13]捨而隨レ之。水蟲馬糞。皆□而食レ之。……九月初。城中※[#「此/肉」、185-13]骼山積。斷髮滿レ路。天日爲昏。存者十之一二。枯垢如レ鬼。河牆下敲二※[#「てへん+綴のつくり」、185-14]人骨一。吸二其髓一。
といふ。明末には可なり多數の宣教師が支那に入り來り、その若干は開封にも滯在し居つた。その一人なる Roderic de Figueredo(費樂徳)の如きは、開封陷落の時に城と運命を共にして溺死した(Cordier; Histoire g□n□rale de la Chine. Tome III, p. 84)。從つてこの開封の慘事は、彼らの記録にも傳へられてある。Martin Martini(衞匡國)の所傳は、下の如く大體に於て『守□日記』や『大梁守城記』とよく一致して居る。
六ヶ月間に亙る{賊軍の}攻圍によつて、開封城中の食糧が竭きた。米の一ポンドは同目方の銀と交換せられ、腐敗せる古皮の一ポンドは十クラウンに賣買されるといふ有樣である。死人の肉は豚肉同樣に公然と市場で販賣されて居る。死人の屍を通衢に曝らして、他人の食料に供することは、大なる功徳と認められた。やがて強者の餌食となるべき運命をも知らぬ弱き饑人達は、この屍の肉で露命を維(つな)いだ(Bellum Tartaricum{Semedo; History of China}p. 270)。
比較的近代の事實としては、阿片戰爭の時(西暦一八四一)廣東でも人肉を食せし事あり(Chinese Repository Vol. X)、同治年間に起つた囘教徒の叛亂中にも往々 Cannibalism が現はれた。同治五六年(西暦一八六六―一八六七)の間に、巴里坤城内在住の漢民は、囘匪に糧道を斷たれた結果、遂に人肉を食用して居る(清の魏光□の『戡定新疆記』卷一)。その約二年前の同治三四年(西暦一八六四―一八六五)の頃に、カシュガル城が重圍の裡に陷つた時、城中の支那人及び之に味方したトルコ人等は、糧食に竭きて人肉を食した。
最後に彼等は五人又は六人づつ組を作り、蚤取り眼で餌食を搜がし歩く。單獨なる行人に出會ふと、彼等はこの不幸なる犧牲者を物蔭に引き込みて殺害し、その骨立せる躯體に僅に殘れる肉を、各自に分配した(Visits to High Tartary, Yarkand and Kashgar. p. 48)。
これがその後間もなく千八百六十八年に、カシュガル地方を觀光した英人 Shaw の傳へる報道である。咸豐十一年(西暦一八六一)に、長髮賊徒の一根據地たる安慶が陷る頃には、三年に亙つて官軍の攻圍を受けた城中の住民は、人肉を以て、糧食に當て、人肉一斤は銅錢四十文にて市場に賣買されたといふ(Wilson; The Ever-Victorious Army. p. 79)。
九
(三)嗜好品として人肉を食用する場合。
こは勿論特別の場合に限る。所が支那では、この特別なるべき場合が、存外頻繁に起るから驚く。已に紹介した齊の桓公が、易牙の子を食したのは、異味を賞翫するといふ理由で、この場合の一例と認めねばならぬ。隋の朱粲や五代の趙思綰も亦人肉愛用者の中に加へねばなるまい。朱粲が當初人肉に口を着けたのは、食糧の缺欠に由るが、彼が人肉を第一の美食と公言せる以上、彼は當然人肉愛用者と認めねばならぬ。趙思綰に就いては五代末(?)の無名氏の『玉堂閑話』(『太平廣記』卷二百六十九所引)に、
趙思綰……凡食二人肝一六十六。無レ非二面剖而膾一レ之。至二食欲一レ盡。猶宛轉叫呼。而戮者人亦一二萬。嗟乎儻(モシ)非下名將仗二皇威一而勦上レ之。則孰能翦二滅黔黎之※[#「けものへん+契」、187-10]※[#「けものへん+兪」、187-10]一。
と傳へて居る。隨分驚くべき話ではないか。
唐の張□の『朝野僉載』に、薛震が人肉を愛用せし事を記して、
武后時。杭州臨安尉薛震。好食二人肉一。有二債主及奴一。詣二臨安一。止二於客舍一。飮レ之醉。竝殺レ之。水銀和煎。并レ骨銷盡。後又欲レ食二其婦一。婦知レ之。踰レ墻而遯。以告二縣令一。令詰レ之。具得二其情一。申レ州録レ事奏。奉レ勅杖一百而死。
といふ。同書に同時代に施州刺史であつた獨孤莊といふ者が、病中に人肉を好み、部下の奴婢の死せる者の肉を求めて食したことを傳へて居る。薛震といひ獨孤莊といひ、泰平無事の日に、相當の官職を帶べる身分で、かかる嗜好を有すとは、誠に不思議と申さねばならぬ。唐の徳宗憲宗時代の重臣に張茂昭がある。本は奚種族であるが、祖父の時代から中國に歸化して居り、彼自身は節度使から中書令に進み、死後太師まで贈られた。唐の盧言の『盧氏雜説』(『賓退録』卷七所引)に、この張茂昭に就いて次の如く傳へて居る。
張茂昭爲二節鎭一。頻喫二人肉一。及下除二統軍一到上レ京。班中有レ人問曰。尚書在レ鎭。好二人肉一虚實。笑曰。人肉腥而□。爭(イカデカ)堪レ喫。
所謂問ふに落ちずして、語るに落つるものであるまいか。
嗜好品として人肉を食した者の代表として、五代の高□を逸することが出來ぬ。元末の陶宗儀の『輟耕録』卷九に、古來食人の事實を列記せる中に、
三國志云。呉將高□。好使レ酒。嗜二殺人一而飮二其血一。日暮必於二宅前後一。掠二行人一而食レ之。
とある。併し『三國志』には一切かかる記事が載せてない。北宋の路振の『九國志』(『粤雅堂叢書』本)卷二に、高□を傳して、
{高}□嗜レ酒好レ侠。殺人而飮二其血一。日暮必於二宅前後一。掠二行人一而食レ之。
とある。疎忽な陶宗儀は、『九國志』を『三國志』と間違へ、嗜酒好侠の句を、好使酒嗜と書き誤つたに相違ない。支那人の著録に、往々『輟耕録』の記事をその儘に襲踏せるものを見受けるが、不注意千萬と申さねばならぬ。高□とほぼ時を同くして萇從簡がある。彼は後唐、後晉に歴仕して、節度使、上將軍に出世したが、好んで人肉を食した。『五代史記』、卷四十七に、
{萇}從簡好食二人肉一。所レ至多潛捕二民間小兒一。以食。
と記してある。萇從簡の家はもと屠羊を世業としたから、顯官となつて後も、かかる野蠻な習癖を有したものと見える。好んで人肉を食した人は、唐代から五代を經て、北宋初期の人に多い。宋初の柳開は歐蘇の先驅者として、文學史上相當名の聞えた人で、已に『宋史』の文苑傳(卷四百四十)にも載せられてあるが、彼も亦この嗜好を有して居つた。南宋初期の蔡絛の『鐵圍山叢談』卷三に、「{柳}開喜生二膾人肝一。且多二不法一。謂尚仍五季亂習」と記してある。
明初の新安王有□は太祖の第五子なる周定王の子で、太祖の孫に當る皇族であるが、平常人肉を嗜食した。明の沈徳符の『野獲編』卷二十八に、この王に就いて、
性狼戻。嗜生二食人肝及腦膽一。常以二薄暮一。伺レ有二過レ門者一。輙誘入殺而食レ之。其府第前。日未レ□。即斷二行跡一。……※[#「けものへん+契」、189-9]※[#「けものへん+兪」、189-9]梟※[#「けものへん+竟」、189-9]。乃出二帝系一。亦宗藩異事也。
と述べて居る。金枝玉葉の身で、かかる嗜好を有するとは、眞に咄々(とつとつ)怪事でないか。
Marco Polo(Yule and Cordier; Vol. II, p. 225)に據ると、福建地方の或る住民は、好んで病死にあらざる人間の肉を食ふ。かくて彼等は殺害された人間の肉を搜索しまはる。彼等は人肉の味を素敵(Excellent)として賞美するといふ。既に Yule の注意せし如く、この住民とは福建の山間に棲息する原住種族を、指すものであらう。此等の原住種族は、早く支那人間に、山魅又は野人などと稱せられ、人肉を食すと傳へられて居る(『太平寰宇記』卷一百、福州の條參看)。從つてこの記事は支那人の Cannibalism の資料に利用し難いかと思ふ。
十
(四)憎惡の極、怨敵の肉を□ふ場合。
支那人はその怨敵に對する時、よく欲レ噬二其肉一とか、食レ之不レ厭とか、將た魚二肉之一とかいふ文字を使用するが、こは決して誇張せる形容でなく、率直なる事實である。彼等は生きたる怨敵の肉を□ふは勿論、死んだ怨敵の肉すら□ふことが稀有でない。生者を□へば之に苦痛を與へ得るが、死者の場合は、屍を鞭打つと同樣の心理に本づくものと想ふ。春秋戰國時代から、この風習の存在したことは、已に述べて置いたから、茲に繰り返さぬ。
漢室を簒奪した王莽が、後に敗死した時の有樣を『漢書』に、
軍人分二裂{王}莽身一。支二節肌骨一。臠分。爭相殺者數十人。……傳二莽首一詣二更始一。縣二宛市一。百姓共提二撃之一。或切食二其舌一(卷九十九、王莽傳下)。
と載せてある。梁の賊臣侯景、及びその參謀の王偉が、後に失敗して殺戮された時、市民百姓等は競うてその肉を□食した。前者に就いては『南史』卷八十に、
及二{侯}景死一。{王}僧辯截二其二手一。送二齊文宣一。傳二首江陵一。果以二鹽五斗一置二腹中一。送二於建康一。暴二之于市一。百姓爭取。屠膾羹食。皆盡。并□陽{公}主亦預二食例一。景焚レ骨揚レ灰。曾罹二其禍一者。乃以レ灰和レ酒飮レ之。首至二江陵一。元帝命梟二於市一三日。然後□而漆レ之。以付二武庫一。
と記してある。□陽公主は梁の武帝の孫女であるが、侯景の婦となつたから、衆怒に觸れて食肉されたものと想ふ。
王偉に就いては、『梁書』卷五十六に、
及下囚二送江陵一。烹中於市上。百姓有下遭二其毒一者上。竝割炙食レ之。
と記してある。
隋唐以來も同一の事例が疊見して居る。君上の怒に觸れ、民衆の怨を買つた者の、□食された場合が稀有でない。隋の煬帝は叛臣斛斯政を烹て、百官にその肉を□はしめ(『資治通鑑』隋紀六、大業十年の條)、隋末關西に割據した薛擧の子薛仁杲は、有名なる文人□信の子□立を捕獲して、その降らざるを怒り、之を火上に磔し、その肉を割いて軍人に□しめた(同上隋紀八、義寧元年の條)。同じく隋末に河北を寇掠した賊首張金□が、官軍に捕獲された時の光景は、『資治通鑑』隋紀七、大業十二年の條に、次の如く記載されて居る。
吏立二木於市一。懸二其頭一。張二手足一。令下仇家割中食之上。未レ死間。歌謳不レ輟。
唐の則天武后時代の酷吏に來俊臣がある。酷吏の代表として後世にまで聞えて居るが、この來俊臣が後に棄市せられた時、民衆は爭うてその肉を割食した。『資治通鑑』唐紀二十二、神功元年の條に、
仇家爭□二{來}俊臣之肉一。斯須而盡。抉レ眼剥レ面。披レ腹出レ心。騰□成レ泥。
と見えて居る。唐の玄宗の奸相楊國忠が馬嵬で、禁軍の憤怒を買ひ、遂に軍士の爲に□食された(『新唐書』卷二百六、楊國忠傳)。五代の後晉の末年に、契丹の手先となつて大梁に跋扈した張彦澤が後に死に處せられた時、市民は爭うて其腦を破ぶり其髓を取り、其肉を臠して之を食した(『五代史記』卷五十二、張彦澤傳)。張彦澤と略時代を同くして□の王延政がある。□主王審知の子で、□の最後の主君である。彼は建州を根據として居つたが、部下に在つた、福州兵の謀叛の噂を聞き、兵を伏せて福州兵八千人を殺し、その肉を脯として食料に供した(明の黄仲昭の『八□通志』卷二十七參看)。當時王延政は格別食糧に窮して居らぬから、この擧は全く憎惡から出たものと解釋せなければならぬ。
元の世祖時代に政權を握つた色目人に阿合馬がある。彼は諸方面の反感を買つたが、後にその罪惡が暴露して誅戮された時、かねて彼の專横を惡める人々は爭うてその肉を食した。同時代の鄭所南の『心史』に、
軍民盡分二臠阿合馬之肉一而食。貧人亦莫レ不二典レ衣歌飮相慶一。燕市酒三日倶空。
と記して居る。又明の武宗時代の宦者に劉瑾がある。所謂八虎の隨一で、隨分專横に振舞つた。後に罪を發かれて市に磔せられた時、諸人の彼を怨めるもの、一錢を以てその一臠を買ひ、之を生食したといふ(『皇明通紀』卷十)。
要するに支那人の間に、罪人の肉を□ふことは、一種の私刑として公認の姿となつて居る。怨まれたる、若くば惡まれたる罪人は、所定の公罰を受くるのみでなく、同時に民衆又は仇家に噬食されるといふ私刑を受けねばならぬ。此の如くにして Solayman のいふ所(□)の、不忠者は斬罪に處せらるる上に、その肉は食ひ盡されることも、又 Ab□ Zayd の傳へる所(□)の姦通、泥棒、殺人等、民衆の怨を買ふべき性質の罪人は、所定の公罰を受けた後ち、更に民衆の爲に食ひ盡されることも、大體に於て事實を得たものである。但 Ab□ Zayd の此等の罪人が、一律に死刑に處せられるといふ點は、一考を要すると思ふ。殺人罪を犯す者の死刑に處せられることは、先づ當然として、唐時代に姦通者や泥棒が、概して死刑に處せられるといふことは、必しも事實でない。『唐律』卷二十六(雜律上)に據ると、一般の姦通罪は徒二年である。されど支那人は親屬間に於ける姦通に對しては、中々嚴しい制裁を加へるから、『唐律』にもこの方面の姦通に對しては、
諸姦二從祖祖母姑。從祖伯叔母姑。從父姉妹。從母。及兄弟妻。兄弟妻。兄弟子妻一者流二千里。強者絞。諸姦二父祖妾。伯叔母。姑。※[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、192-14]妹。子孫之婦。兄弟之女一者絞。
と規定してある。『明律』(卷二十五、犯姦律)の規定は一層嚴重で、『唐律』の流は絞に、絞は斬に改められて居る。男女の別の嚴なる支那では、男女相識の範圍は甚だ狹隘で從つて男女の姦通といふ事件は親屬間に多い。親屬間の姦通は、時に死刑に處せらるることもある。此の如くして姦通者が死刑に處せらるるといふ Ab□ Zayd の所傳も、部分的には正しい。次に Ab□ Zayd の所謂泥棒(voleur)を強盜の意味に解すれば、この所傳も大體に於て正しい。支那の法律では、竊盜は概して死刑に處せぬが、強盜に對しては中々重い。『唐律』卷第十九(賊盜律三)の規定では、
諸強盜不レ得レ財。徒二年。一尺徒三年。二疋及加二一等一。十疋及傷レ人者絞。殺レ人者斬。其持レ仗者。雖レ不レ得レ財。流三千里。五疋絞。傷レ人者斬。
となつて居るが、『明律』(卷十八、賊盜律)の強盜に對する處分は、今一段と嚴重で、概して斬罪に行ふ。死罪に當る者を笞打ち殺すとは、所謂杖殺をいふ。唐の中世以後は、謀反、惡逆等の如き重大なる者を除き、比較的輕い死罪者は、杖殺するのが普通であつた(『新唐書』刑法志參看)。アラブ人はこの事實を傳へたものと思はれる。
Marco Polo は元の上都に就いて、
此等の人民は、私が讀者に告知して置かねばならぬ一種(特別)の風習を有す。若し或る者が死に處せられ、官憲の手にて殺戮された時には、彼等人民はその死體を料理して食用に供する。されど(斬殺にあらざる)自然による死者の肉は食はぬ(Yule and Cordier; Marco Polo. vol. I, p. 301)。
と述べて居る。茲にいふ「此等の人民」とは、指す所やや曖昧であるが、上都地方の住民――北支那人及び蒙古人――を意味するものと想ふ。兔に角その風習は支那人のそれに似て、Solayman の記事(□)と一致する。支那人は時に病死者の肉を、甚しきに時は墓中より掘り出した屍肉すら食ふこともあるが、こは特別の場合に限り、普通は殺害した、又は殺害された人肉を食ふのであるから、Marco Polo や Solayman の所傳は、大體に於て間違がない。
支那人は父兄の讎に對して、不倶戴天の強い反感をもつ。已に『禮記』にも、
子夏問二於孔子一曰。居二父母之讎一。如二之何一。子曰。寢レ苫枕レ干。不レ仕。弗三與共二天下一也。遇二諸市朝一。不レ反レ兵而鬪(『禮記註疏』卷七、檀弓上)。
兄弟之讎。不レ反レ兵(『禮記註疏』卷三、曲禮上)。
と明記してある通り、儒教は復讎主義を是認し、又奬勵して居る。故に支那人は父兄の讎を尤も惡むべき怨敵と認め、その復讎の場合には、單にその生命を絶つのみを以て滿足せず、往々その骨肉心肝を食ひ盡くして仕舞ふ。西晉末の□登は、その父を殺害した馬晩を斬つて、その肝を食し(『欽定古今圖書集成』人事典卷二十一所引、東晉の常□の『西川後賢志』)、東晉初の趙胤は、その父趙誘の讎なる杜會を斬つて、その肺肝を食した(『太平御覽』卷四百八十一所引、東晉の王隱の『晉書』)。東晉時代に出た謝混が、その父兄の讎に當る張猛を殺して、その肝を食つたことが、『晉書』卷七十九の謝□傳に見えて居り、同時代の馬權が、その兄の讎なる□母翊を殺して、その肝を食つたことが、『十六國春秋』卷九十七の北涼録四の馬權傳に見えて居る。馬權はもと胡人であるが、當時の支那人間に行はるる風習にならつて、讎の肝を食したものらしい。隨初の王頒は、その父が陳の武帝に殺害されたのを怨み、隋の征南軍に加つて陳を滅ぼし、武帝の陵を發いて、その骨を焚き水に混じて之を飮んだといふ(『隋書』卷七十二、孝義傳)。唐初の王君操は、父の讎なる李君則を刺殺し、その腹を刳き、心肝を取り出して、立所に□食し盡した(『舊唐書』卷百八十八、孝友傳)。特に心臟や肝臟を食する場合の多い理由は、已に Groot の注意せる如く、この心肝は生命の根源として、支那人一般に信ぜられて居るからである(The Religious System of China. Vol. IV, pp. 373-374)。その仇敵の心肝を食ひ盡くすことは、彼の生命に對して、最後の、同時に最大の打撃を與へ、その復活を不可能ならしむる所以に外ならぬ。
怨敵の肉なり骨なり心肝なりを食して、鬱憤を晴らすといふのが、支那人古來の風習である。近く西暦千八百九十五年の八月に、廣東地方の或る村落間に水論が起り、兩派に分かれて激しい爭鬪を續けた。この爭鬪の間に、雙方とも多くの死傷者を出し、又若干の捕虜が出來た。此等敵の捕虜は、やがて殺害せられ、その肉は村童仲間へ食料として分配されたと、信用すべき當時の英字新聞は傳へて居る(Ball; Things Chinese. p. 128)。支那の淫書に『覺後禪』がある。その卷三に艶芳といふ婦人が、情人未央生の變心を疑ひ、之を責めた書翰中に、
從レ此絶レ交。以後不レ得二再見一。若還(マタ)再見。我必咬二□的(ナンヂノ)肉一。當二做猪肉狗肉一吃也。
と述べて居る。婦人の文句としては、隨分興覺めたものだが、之も支那人間に、怨家の肉を喫食する風習の存在することと關聯して、始めて了解し得る文句である。
やや事情を異にするが、宋の魯應龍の『閑窓括異志』(『稗海』本)に載せてある左の記事も、亦支那人の Cannibalism を研究するに當つて、一應參考に資すべき材料と思ふ。
江南平。建州有二大將余洪敬一。妻鄭氏有二絶色一。爲二亂兵所一レ獲。獻二於裨將王建峰一。遇以二非禮一。鄭志不レ可レ奪。脅以二白刃一。不レ屈。又命引二所レ掠婦人一。令二鄭殺以食一レ之。謂鄭曰。汝懼乎。曰此身寧早充二君庖一。誓不レ可下以二非禮一汚上レ我。
婦徳を失はんより身命を擲たんとする、鄭氏の貞節も感心すべきであるが、怒を犯して命を喪ふことを、充二君庖一――料理の材料に供する――といふ、支那式の所が面白い。
憎惡とはいへぬが威嚇の目的で、支那人が蠻人の肉を食した場合が、支那史乘に尠からず見當る。殊に唐宋時代に多い。しばらくその二三の例證を左に附記いたさう。
唐の徳宗時代に、良原の刺史になつた□※[#「王+比」、195-17]は、吐蕃人を捕獲して之を□食した(唐の李肇の『唐國史補』卷中)。五代の前蜀の王建時代に、四川の軍士は雲南蠻人の入寇するものを擒にして、之を□食した(五代の孫光憲の『北夢瑣言』卷五)。尤も甚しいのは、北宋の初期に出た、王彦昇である。『宋史』卷二百五十に次の如き記事を發見する。
西人(西戎)有下犯二漢法一者上。{王}彦昇不レ加レ刑。召二僚屬一飮宴。引レ所レ犯。以レ手※[#「てへん+卒」、196-3]二斷其耳一。大嚼巵酒下レ之。其人流血被レ體。股栗不二敢動一。前後啗者數百人。西人畏レ之。不二敢犯一レ塞。
支那人が臺灣を占領した時代には、近く日清戰役の頃まで、臺灣在住の支那人間に、島中の蕃人の肉を食用する風習が行はれ、蕃人の肉が豚肉同樣に市場に公賣されたことも稀有でなかつたと、千八百九十六年一月發行の『Hongkong Daily Press』に見えて居る(Ball; Things Chinese. pp. 128-129)。
十一
(五)醫療の目的で人肉を食用する場合。
唐時代から現時に至るまで約千二百年に亙つて、隨分廣く行はれて居る。この人肉を□疾の良劑として紹介したのは、唐の開元時代の明醫、陳藏器の『本草拾遺』にはじますといふ。『新唐書』卷百九十五の孝友傳の序に、
唐時陳藏器著二本草拾遺一。謂。人肉治二羸疾一。自レ是民間以二父母疾一。多※[#「圭+りっとう」、196-12]二股肉一而進。
と記してある。ほぼ同一の記事が北宋初期の錢易の『南部新書』辛に見えて居るから推すと、『新唐書』は『南部新書』に本づけること疑を容れぬ。歴史を調査しても、唐以前に醫療の目的で人肉を食用した事實は、殆ど見當らぬ。絶無と迄は斷言出來ずとも、先づ絶無に近い。『南史』の孝義傳、『北史』の孝行傳、列女傳を見渡しても股肉を※[#「圭+りっとう」、196-15]つて、その父母舅姑の療病に供したものは、一人も見當らぬ。
所が『新唐書』の孝友傳に、始めて父母の疾病を醫療すべく、自己の肉を割いた孝子三人を載せてある。何れも唐の中世以後のものと認められる。降つて『宋史』の孝義傳、列女傳、『元史』の孝友傳、列女傳、『明史』の孝義傳、列女傳の中には、醫療の目的で人肉を食用した例證が頗る多い。陳藏器の『本草拾遺』から、この風習の俑を作つたといふことも、大體に於て事實を得たものと認めねばならぬ。さればこそ支那一流の刺股行孝といふ風習は、唐以後に限つて、隋以前に見當らぬのである。
陳藏器の『本草拾遺』は原の儘では今日傳らぬが、後世の本草書類に引用されて居るから、その大概を知ることが出來る。支那本草を集成した、明の李時珍の『本草綱目』卷五十二にも、亦『本草拾遺』を引き、羸□の醫藥として人肉を擧げて居る。吾が輩は人肉が醫藥として、しかく有效のものであるや否やを審にせぬが、支那人の記録によると、餘程效能あるやうである。
父母の爲、若くば舅姑の爲め、自己の股肉を割いて供した所謂孝子孝女は、唐宋以後の正史野乘を始め、各地方の通志、府縣志等に疊見して居つて、一々列擧するに堪へぬ。しばらくその一端を示す爲に、四五の事實のみを次に紹介する。
(a)『宋史』卷四百六十、列女傳、
吉州安福縣朱雲孫妻。劉氏姑病。雲孫※[#「圭+りっとう」、197-14]二股肉一作レ糜以進而愈。姑復病。劉亦※[#「圭+りっとう」、197-14]レ股以進又愈。尚書謝諤爲賦二孝婦詩一。
(b)『元史』卷百九十八、孝友傳、
胡伴侶。鈞州密縣人。其父實嘗患二心疾一。數月幾死。更二數醫一倶莫二能療一。伴侶乃齋沐焚レ香。泣告二于天一。以二所レ佩小刀一。於二右脇傍一。※[#「圭+りっとう」、198-1]二其皮膚一。割二脂一片一。煎藥以進。父疾遂□。其傷亦旋愈。朝廷旌二表其門一。
(c)『元史』卷二百、列女傳、
秦氏二女。河南宜陽人。逸二其名一。父嘗有二危疾一。醫云不レ可レ攻。※[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、198-3]閉レ戸默祷。鑿二己腦一和レ藥進飮。遂愈。父後復病。欲レ絶。妹※[#「圭+りっとう」、198-4]二股肉一置二粥中一。父小啜即甦。
(d)『四川總志』(『欽定圖書集成』閨媛典、第三十四卷、閨孝部列傳三所引)
四川茂州□氏文節妻。節赴二秋試一。母李患レ病。醫治莫レ效。□※[#「圭+りっとう」、198-6]二左臂肉一。作レ羹奉レ姑。姑食レ之異。越數日復思レ之。子嘉謨跪告二于母□一曰。母能食レ姑。孫獨不レ能レ食二祖母一耶。嘉謨亦割以進。李疾漸愈。有司以聞旌表。
(e)『武進縣志』(『欽定圖書集成』閨媛典、第三十四卷、閨孝部列傳三所引)、
楊氏徐時肩妻。年十三。母病レ□。醫祷不レ愈。晝夜哭泣。※[#「圭+りっとう」、198-9]二左臂肉一進レ之。卒無レ救。哀毀骨立。三年不レ見レ齒。父病。奉二湯樂一必嘗。疾甚。焚レ香※[#「竹かんむり/(籥のあし+頁)」、198-10]レ天號慟。願二以レ身代一。復※[#「圭+りっとう」、198-10]二右臂肉一以進。及レ笄嫁爲二徐氏□一。夫就二外傅一。事二舅姑一盡レ孝。夫早喪。氏年二十七。以二舅姑在一。不二敢死一。……姑病。復如レ前。※[#「圭+りっとう」、198-11]二體肉一和レ藥進。姑病獲レ愈。……人□爲二三※[#「圭+りっとう」、198-12]孺人一。
父母舅姑の爲に、自己の肉を※[#「圭+りっとう」、198-13]ることは、最上の孝行として、社會も歡迎し、官憲も奬勵した。所が雷同性の多い、模□性に富む支那人のこととて、その流弊憂ふべきに至り、支那官憲も幾分之を抵制する必要を感じて來た。已に『元典章』卷三十三、行孝の部に、至元三年(西暦一二六六)の禁割肝□眼、至元七年(西暦一二七〇)の行孝割股不當の條文が載せてある。後者の條文の中に、
割レ股旌賞體例。雖レ爲二行レ孝之一端一。……頗與四聖人垂戒。不三敢毀二傷父母遺體一不レ同。又恐愚民不レ知二侍養常道一。因縁奸弊。以敢毀二傷肢體一。或致二性命一。又貽二父母之憂一。……今後遇レ有二割レ股之人一。雖レ不レ在二禁限一。亦不レ須二旌賞一。
と明記してある。されど元の泰定二年(西暦一三二五)に新刊した『事林廣記』壬集卷一に、
諸(スベテ)……爲二祖父母、父母、伯叔父母、姑□及舅姑一。割レ股(奴卑爲二本主一同)竝委二所屬一。由覆二朝廷一。官支二絹五疋、羊兩頭田一頃一。以勸二孝悌一。
とあり、且つ『元史』に至元七年以後も、父母舅姑の爲に、股肉を割いた男女を旌賞した實例が疊見して居るに據ると、行孝割股不當の條文の、實際に於ける效力は疑問と申さねばならぬ。
明の太祖は實際的政治家として、中々傑出し居るが、彼は割股行孝の流弊を知つて、新に之を制限した。明初に青州日照縣の住民に江伯兒といふ者があつて、その母が病に罹つた時、自分の肉を割いて進めたが、十分の效驗がない。彼は遂に神に願掛けして、母の病が平いだら、我が子を殺すことを誓つた。後幸に母が平癒したから、彼はかねての願掛け通り、三歳になる幼兒を殺して神に謝した。地方官憲は江伯兒を母に孝なる者として、旌表すべく上聞した。所が太祖は江伯兒の行爲は人倫を絶滅せる、以ての外の非行として、大に怒り之を海南島に遠謫し、且つ禮部に命じて、將來に於ける孝行旌表の事例を詳議させた。禮部の詳議した結果は、明の何孟春の『餘冬序録摘抄』一(『紀録彙編』卷百四十八)に、次の如く記載してある。
子之事レ親。居則致二其敬一。養則致二其樂一。有レ疾則拜二託良醫一。嘗二進善藥一。……若臥レ氷割レ股。前古所レ無。事出二後世一。亦是間見。割レ肝之擧。殘害爲レ最。且如(モシ)父母止有二一子一。割レ股割レ肝。或至レ喪レ生。臥レ氷或至二凍死一。使二父母無レ依。宗□乏一レ生。豈不三反爲二大不孝一乎。原二其所一レ自。愚昧之徒。一時激發。及務爲二詭異一之輩。以驚レ俗駭レ世。希二求旌表一。割レ股不レ已。至二於割一レ肝。割レ肝不レ已。至二於殺一レ子。違レ道傷レ生。莫二此爲一レ甚。自今人子。遇二父母病一。醫治弗レ愈。無レ所二控訴一。不レ得レ已而臥レ氷割レ股。亦聽二其爲一。不レ在二旌表之例一。
朝廷はこの議を採用して、洪武二十七年(西暦一三九四)に、
凡割レ股或至レ傷レ生。臥レ氷或至二凍死一。自レ古不レ稱爲一レ孝。若爲二旌表一。恐二其倣傚一。通行二禁約一。不レ許二旌表一。(『禮部志稿』卷二十四)。
と發布した。されどこの禁約も支那一流の空文で、爾後明一代を通じて、依然官憲も之を旌表すれば、民間も之を奬揚する(明の張鼎思『琅邪代醉編』卷二十參看)。從つて股を割いて孝を行ふ風習が毫も衰廢せぬ。否有明三百年の間に、割股行孝の風習は、前代に比して一層流行した趣がある(Groot; The Religious System of China. Vol. IV, p. 387)。隨分皮肉な事實ではないか。
清朝では早く順治九年(西暦一六五二)に、明初の規定を復活して、
割レ股或致レ傷レ生。臥レ氷或致二凍死一。恐二民□效一。不レ准二旌表一(『欽定大清會典事例』卷四百三、旌表節孝の條)。
といふ禁令を公布して居る。されどこの規定も七八十年の後には、次第にその效力を失うた。雍正六年(西暦一七二八)に、福建の巡撫から管内の孝子李盛山といふものが、肝を割きて母の病を救ひ、母の病は癒えたが、彼自身はその傷重くして遂に死んだから、この孝子に旌表を加へたいと申出た。禮部は「割レ肝乃小民輕レ生愚孝。向(サキニ)無二旌表之例一。應レ不二準行一。」と議決したが、雍正帝は、
朕念。割レ肝療レ疾。事雖二不經一。而其迫切救レ母之心。實屬レ難レ得。深可二憐憫一。已加レ恩準二其旌表一矣(『欽定大清會典事例』卷四百三、旌表節孝の條)。
とて、特旨で旌表を加へられて居る。勿論雍正帝は今囘の處置を以て定例となすべからず、又地方官憲はよく管内の人民に、割肝輕生の愚擧を懇戒すべき旨を仰せ下されて居るが、兔に角この時以來、國初の禁令のやや弛緩されたのは爭ふことが出來ぬ。爾來二百年の間、依然として割肝※[#「圭+りっとう」、201-3]股の風が行はれ、官憲もその行爲が賣名の目的でない限り、之に旌表を加へて居る。清代の記録や新聞に、かかる例證が多く散見して居るが、煩を恐れて茲には引用すまい。二十餘年間支那に布教して、該國情に精通して居るアメリカの Arthur Smith も、その Chinese Characteristics. p. 178 に、
支那人は兩親が難治の疾病に罹る時は、その子女たる者が、自己の肉片を割き之を調理して父母に進めることが、尤も有效な療法と認めて居る。支那の新聞紙上に、時々かかる療法を實行した場合の報道が記載されてある。著者自身も、親しく母親の病氣を醫すべく、自己の股肉を割いた若者に面會したことがある。彼は宛も古武士が戰場で受けた古傷を示すが如き得意な態度で、自分にその傷痕を示した。
と述べて居る。
支那人は單に人肉ばかりでなく、人體の一部分、例へば人膽、人骨、人血、毛髮、爪甲等を始め、その他の奇妙なものまで、皆醫藥として效能あるものと信じて居る(『本草綱目』卷五十二、Behrens; Der Kannibalismus der Chinesen. Globus. Bd. LXXXI, Nr. 6, SS. 96-97. Groot; The Religious System of China. Vol. IV, Chap. XIV, pp. 389-405. 參看)。明代の高□といふ宦者が、生殖器を再生せしむる目的で、無數の童男を買取り、之を殺害してその腦髓を啖うた(『野獲編』卷六)といふ如き、及び之に類似せる幾多笑ふべき迷信的行爲はしばらく措き、支那人は一般に人の生血、生膽の效能に就いて、多大の信頼を以つて居る。Rennie に據ると、千八百六十五年の頃、北京西郊で罪人を處刑した時、※[#「會+りっとう」、201-17]刀手はその斬り首より噴出する鮮血に饅頭を漬し、血饅頭と名づけて市民に販賣したといふ(Peking and the Pekingese. Vol. II, pp. 243-244)。又長髮賊の亂中に、上海在住の外國商館に雇はれて居つた支那人の召使は、自己の膽力を増進する目的で、所刑された賊徒の心臟を食用したといふ(Balfour; Cyclopaedia of India. Vol. I, p. 570)。この罪人の生血、生膽等を強壯劑として珍重することに關して、支那在住の西洋人の報告も尠からず傳つて居るが(Yule and Cordier; Marco Polo. Vol. I, p. 312)、茲には引用せぬ。
罪人の心肝を使用するのは、まだよい。支那では療病の目的で、他人の生命を斷ち、その肉なりその肝なりを採取する兇行が、古來可なり行はれて居る。已に元代無名氏の『鬼董』(知不足齋叢書』本)卷十二に、左の如き記事が見當る。
嘉定戊寅(西暦一二一八)冬。廣西諸司。奏二知欽州林千之食レ人事一。始千之得二末疾一。有二道人一。教以三童男女肉。強二人筋骨一。遂捕二境内男女十二三歳一。□而食レ之。謂二之地□地鴨一。其家小婢妾被レ食甚衆。又以二厚賄一使レ卒。掠二人虚市間一。民稍知レ之。皆深閉不二敢出一。卒無二以應一レ命。乃走二其鄰横州一。伏二莽中一掠二過者一。横州民呼爲二紅衣人一。意二其盜一也。告レ州捕得。卒言二其情一。監司上二諸朝一。既而獄久不レ決。又使下大理評事孫□。往二全州一置レ獄勘上レ之。還延歳餘。千之竟從二輕典一。僅追毀除レ籍。配二吉陽牢城一而已。既而言者論二□罪一。□罷去。
『鬼董』には荒誕な記事も多いが、林千之のことは、『賓退録』を始め、宋元の記録に散見して居るから、當時一般に事實として信用されたらしい。この記事を如何程信用すべきかはしばらく措き、明清時代の記録にも、之と類似の事實が往々發見される。明律に採生折割人の條項があつて、生人の臟腑を取つて人體を毀損する者に對する刑罰を述べて、
凡採レ生折二割人一者。凌遲處レ死。財産斷二付死者之家一。妻子及同居家口。雖レ不レ知レ情。竝流二千里安置。爲レ從者斬(『明律』卷十九、人命部)。
とある。『清律』も全然同一である。隨分の重罰で、人の心肝を採取する者は、この罰を受けねばならぬ。之に拘らずこの條項を犯す者が尠くない(『大清律例集要新編』卷二十五下參看)。豈に驚くべきではないか。
十二
古代に溯ると Cannibalism は、存外廣く諸國民の間に行はれて居つた。中古時代のヨーロッパ人の間にも、この蠻風が存在したといふ。否中古に限らず、最近に於ける大戰役の際にも、オーストリーやロシア邊では、食糧缺乏して人肉を食用したと傳へられて居る。しばらく支那の四圍を見渡すと、西のチベット人、北の蒙古人、東の朝鮮人、南の安南、占城諸國民の間にも、嘗て Cannibalism の行はれた證跡歴然たるものがある。ただ我が日本人の間には、支那傳來と思はるる迷信に本づき、療病の目的に、人肉を使用した極めて稀有の場合を除き、記録の上では殆どこの蠻風が見當らぬ。『日本書記』卷十九、欽明天皇の二十八年(西暦五六七)の條に、
郡國大水。飢。或人相食。轉二傍郡穀一。以相救。
とあるは、已に先人の指摘した如く(敷田年治『日本書紀標注』卷十六參看)、『漢書』の元帝本紀初元元年(西暦前四八)九月の條に、
關東郡國十一。大水。饑。或人相食。轉二旁郡錢穀一。以相救。
とある原文をその儘に襲踏したもので、必しも當時の事實を傳へたものでないかと思はれる。第一郡國の二字は、漢代の支那に於てこそ意義もあれ、我が國としては餘り妥當でない。兔に角日本人が飢饉の場合、籠城の場合に、人肉を食用したといふ確證が見當らぬ。まして嗜好の爲、憎惡の爲、人を啖つた事實の見當らぬのは申す迄もない。太田錦城が、日本では神武開闢以來、人が人を食ふこと見當らざるは、我が國の風俗の淳厚、遠く支那に勝る所以と自慢して居るが(『梧窓漫筆』後編上)、この自慢は支那人と雖ども承認せねばなるまい。
此の如く食人肉の風習は隨分廣く世界に行はれて居つたが、支那の如き世界最古の文明國の一で、然も幾千年間引續いて、この蠻風を持續した國は餘り見當らぬ。支那人間に於けるこの Cannibalism は、外國傳來のものであるか、若くばその國固有のものであるかは、勿論容易に決定することが出來ぬ。但極めて悠遠なる時代から、可なり普通に、この蠻風が支那人間に存在したことは、吾が輩が上來紹介し來れる事實に據つて、疑を容るべき餘地がない。
日支兩國は脣齒相倚る間柄で、勿論親善でなければならぬ。日支の親善を圖るには、先づ日本人がよく支那人を了解せなければならぬ。支那人をよく了解する爲には、表裏二面より彼等を觀察する必要がある。經傳詩文によつて、支那人の長所美點を會得するのも勿論必要であるが、同時にその反對の方面、即ちその暗黒の方面をも一應心得置くべきことと思ふ。食人肉風習の存在は、支那人にとつて餘り名譽のことでない。されど儼然たる事實は、到底之を掩蔽することを許さぬ。支那人の一面に、かかる風習の存在せし、若くば存在することを承知し置くのも、亦支那人を了解するに無用であるまいと思ふ。
支那人間に於ける食人肉風習の存在は、決して耳新しい問題でない。南宋の趙與時の『賓退録』、元末明初に出た陶宗儀の『輟耕録』を始め、明清時代の支那學者の隨筆、雜録中に、斷片的ながらこの食人の史實を紹介し、若くば論評したものが尠くない。日本の學者でこの史實に注意したものも、二三に止らぬ。就中『東京學士會院雜誌』第三篇八册に掲載されてある、神田孝平氏の「支那人人肉ヲ食フノ説」の一篇が、尤も傑出して居る。傑出はして居るが、勿論十分とはいへぬ。
元時代の Marco Polo 以來、明清時代に支那に來た、西洋の宣教師や旅行家が、往々支那人間に於ける食人肉風習を傳へて居るが、何れも斷片的報告に過ぎない。この風習に關する研究的な論文は、未だ歐米の學界に發表されて居らぬ。千九百二年二月六日發行の Globus 雜誌に Behrens の Der Kannibalismus der Chinesen と題せる一篇を收めてあるが、この論文も、一二頁の短篇で、特に紹介する程の價値がない。
吾が輩の知れる範圍では、西洋の學者の中で、支那人の Cannibalism に關して注意に價するものは、英國の Yule とオランダの Groot との二人である。Yule はその名著 Marco Polo(1903版 Vol. I, pp. 312-313)中に、主として西洋方面の材料によつて、支那人の Cannibalism を紹介して居る。例によつて博引旁搜ではあるが、支那方面の材料を殆ど利用してないのが大なる缺點と思ふ。Groot は Yule と反對に、主として支那方面の材料によつて、支那人の Cannibalism を紹介して居る。(The Religious System of China. Vol. IV, pp. 364-389)。支那方面より蒐録した材料の豐富なことは、確に前人に卓越して居つて、西洋人としては隨分努力を要せしことと想像さるるが、書物の性質上當然とはいへ、Groot は醫療の目的で人肉を食用する場合のみに重きを置き、その他の場合に於ける支那人の Cannibalism を紹介することが甚だ十分でない。又彼は材料の選擇に妥當を缺き、正史や信憑すべき當時の記録よりも、荒誕不稽と思はるる稗史小説を多く引用せる點に於て、同時に又類書より間接引用の多き點に於て、可なり如何を免れぬ。
吾が輩のこの論文は劈頭に宣告して置いた通り、Solayman や Ab□ Zayd の所傳の正確なることを證明し、且つその所傳の事實に解釋を加へることを主目的といたして居るが、同時に支那人の食人肉の風習を、歴史的に究明すると云ふ副目的に就いても、前人の所論に對して可なりの進歩を與へ得た積りである。
(大正十三年三月十九日稿・『東洋學報』第十四卷第一號所載)
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