支那人間に於ける食人肉の風習
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著者名:桑原隲蔵 

         緒言

 一國の歴史を闡明するには、その一國の記録だけでは不足を免れぬ。是非その國と關係深き他國の記録をも、比較參考する必要がある。支那歴史の研究者としては、支那本國の史料の外に、日本、朝鮮、安南等の記録を參考するは勿論、遠く西域諸國の記録をも利用せなければならぬ。兩漢以來、支那の國威が四表に張ると共に、その國情が次第にキリスト教國や、マホメット教國の間に傳はり、又此等遠西の諸國民も極東に觀光して、その見聞を公にした。此等の見聞録の中には支那の風俗世態等に關して、往々本國の記録に見當らぬ貴重な材料を供給するものも尠くない。極東に關係あるギリシア、ラテンの記録は、略 Coed□s 氏の Textes d'Auteurs Grecs et Latins relatifs □ L'Extr□me-Orient に備はり、マホメット教徒の記録――その地理に關係ある部分を主としてあるが――は、大體 Ferrand 氏の Relations de Voyages et Textes g□ographiques Arabes, Persans et Turks relatifs a L'Extr□me-Orient に纏められてある。
 ギリシア、ラテンの記録は、しばらく措き、マホメット教徒のそれは中々價値が多い。數あるマホメット教徒の記録の中で、その内容の豐かなる點より觀ても、將た又その年代の古き點より觀ても、所謂『印度支那物語』を第一に推さねばならぬ。この物語は前後の二篇に分かれ、前篇は Solayman の記録で、後篇は Ab□ Zayd のそれである。
 Solayman は東洋貿易商で、親しく支那に出掛けてその風俗人情を視察した。彼の記録は彼自身に執筆したものでなく、多分彼の見聞を材料として、他の無名の作者が筆録したものと想はれるが、兔に角ヘヂラ暦二三七年即ち西暦八五一年に出來たことは疑を容れぬ。Ab□ Zayd は S□r□f の産で、彼自身支那の地を踏まぬけれど、當時 S□r□f はペルシア灣頭第一の貿易港として、東洋貿易に從事する商賈の出入頻繁であつたから、彼は此等の商賈に就いて傳聞せる所を筆録したもので、ヘヂラ暦三〇三年、即ち西暦九一六年頃の作と認められて居る。要するに『印度支那物語』は、大體に於て西暦九世紀、即ち唐の後半期に於ける、支那人の風俗習慣を知るべき、尤も有益なる尤も面白き材料である。
『印度支那物語』のアラブ語原本は、今日パリの國民文庫に現存して居る。この原本の來歴は、委細は Reinaud の著書(Relation des Voyages etc. Tome I, pp. iii-vi)に載せてあるから、態□ここに紹介する必要がない。この物語は今日まで尠くとも左の如く三度歐洲語に譯出された。
 (一) 西暦一七一八年に、フランスの Renaudot が初めて之を佛語に飜譯した。その表題を Anciennes Relations de l'Inde et de la Chine de deux Voyageurs Mahometans qui y all□rent dans le IXi□me si□cle といふ。彼は同時にその本文に對して若干の註解を加へた。Renaudot の佛譯は間もなく一七三三年に英譯せられ、その英譯は更に明治四十三年(西暦一九一〇)に我が東京で飜刻された。東京版の英譯は間々誤植がある。吾が輩は Renaudot 佛譯を有せぬ。また一七三三年版の英譯も左右に備付けてない。故に已むをえず東京版の英譯を使用して居る。
その後本論文のほぼ脱稿する頃に、岩崎家の東洋文庫の好意により Renaudot の佛譯及びその一七三三年版の英譯を借覽することが出來た。併し東京版の英譯の方が、我が學界に普及して居るであらうといふ斟酌もあり、旁□本論文中に引用せる Renaudot 譯は、すべて東京版の英譯の頁數を指示することにした。尚ほ東洋文庫から以上の外、三四の著者、雜誌、論文の融通を受け、尠からざる裨益を得た。茲に附記して感謝の意を表する。
 (二) 西暦一八四五年に、フランスの有名なるアラブ學者の Reinaud が、アラブ語の原本に添へて、新にその佛譯を公にした。Relation des Voyages faits par les Arabes et les Persans dans l'Inde et □ la Chine dans le IXe si□cle de l'□re chr□tienne が、この新佛譯の表題である。Reinaud はこの物語の序論として、中世に於けるアラブ人の東洋貿易界に於ける活躍の歴史を附し、又その本文に對して尠からざる註解を施した。
 (三) 一昨年(西暦一九二二)の末に、同じくフランスの Ferrand 氏が、『東洋古典叢書』(Les Classiques de l'Orient)の第七卷として、新にこの物語の佛譯を公にした。表紙には單に Voyage du Marchand Arabe Solayman en Inde et en Chine r□dig□ en 851 と題してあるが、その内容は Renaudot や Reinaud のそれと同樣で、前篇は Solayman 後篇は Ab□ Zayd の記録を收めてある。
『印度支那物語』はしかく早くしかく廣く、學界に紹介されたに拘らず、その内容は未だ十分に研究されて居らぬと思ふ。尠くともこの物語中に紹介されてある、支那人の風俗、習慣等に關しては、從來何等權威ある研究が發表されて居らぬ。Renaudot や Reinaud の古き註解がこの點に就いて不十分なることは、特に言明する迄もない。
 吾が輩はこの缺陷を遺憾に思ひ、最近四五年來、アラビアと支那との交通を研究すると共に、この物語中に見えて居る支那人の風俗、習慣の研究にも手を着けた。研究の方針として吾が輩は、
 (1) この物語と時代を同じくする、唐時代の事蹟に關する支那人の記録に對照して、この物語の記事の確實なることを證明すること。
 (2) 不幸にして唐時代に關する支那人の記録に、直接の證據見當らぬ場合には、唐以前の、若くば唐以後の事蹟で、この物語の記事と相發明するに足るものを、支那人の記録中から探求し、これより推して、アラブ人の所傳の信憑すべき程度を明瞭にすること。
 (3) 『印度支那物語』の記事にも間々誤謬がある。この誤傳を支那人の記録に據つて證明すること。
 (4) アラブ人の所傳と發明すべき、若くば關係ありと思はるる記事が、諸外國人の記録中に見當る場合は、成るべく之を蒐集して參考に供すること。
以上の四點、殊に最初の三點に重きを置いた。
 吾が輩は『印度支那物語』に據つて、唐代の支那人の風俗、習慣を研究する序に、出來得べくんば、更に溯つてその風習の起源、又は沿革をも探討したいと心掛けて居る。之が爲に問題によつては、先秦時代より現時に至るまで、上下三千餘年に亙つて、支那文獻を渉獵するは勿論、時には廣く諸外國人の記録をも參考せなければならぬ場合も尠くない。かかる事情の下に、注意に價する程の結果を收めることは、豫期以上の困難を感じたが、併し今日ではこの未開の學田から、多少の收獲を得たかと思ふ。故に不十分を自覺しつつ、その收獲の一部を發表することにした。
 支那人間に於ける食人肉の風習は、獨立した一論文として茲に掲載したが、實は上述の如き研究の一端に過ぎぬ。從つて發表の形式も、普通の場合と異にして、『印度支那物語』の記事を論文の冒頭に掲載することにした。爾後若し引續きこの物語に關する研究の結果を發表する場合には、之と同樣の形式を採りたいと思ふ。『印度支那物語』の記事に就いては、Renaudot, Reinaud, Ferrand 三氏の譯文を參考したが、大體に於て學界に廣く用ひられて居る Reinaud 譯に據ることにした。但し彼此の譯文に、注意に價する程の相違がある場合には、特にその旨を附記する。

         一

 (□) 支那では時々地方の都督(gouverneur)が、その最高の王(即ち皇帝)に對して盡すべき服從を缺くことがある。かかる場合には、彼(その都督)は首を刎られ、食べられて仕舞ふ。支那人は刀劍で殺害された(即ち病死にあらざる)、すべての人の肉を食用する(Reinaud; Tome I, pp. 52-53. Ferrand; p. 67)。
 Renaudot の譯は、單に、
支那皇帝の領土内にある都督が罪を犯す時は、彼は死に處せられ、食べられて仕舞ふ。概していへば、支那人は死に處せられた、すべての(罪)人を食用する(p. 25)。
となつて居る。
 (□) 支那帝國はこれ(黄巣の亂)以來、かつてアレキサンダーがダリウスを殺させ、ペルシアの土地をその(部下)將軍達(g□n□reux)に分つた時に、ペルシアが陷つたと同樣の状態となつた。支那の各地方の(割據せる)都督達は、一層その勢力を増進せんが爲に、君主(souverain 即ち皇帝)の許可も命令もなしに、各自(勝手)に同盟を結んだ。彼等の一人が(より劣勢なる)他(の都督)を討ち滅ぼすに從ひ、彼は後者の所領を併せ、その土地をすべて荒し、その住民を食ひ盡くした。事實支那人の法律は、人肉を食ふことを認可し、人肉が諸市場(march□s)で、公然と販賣されて居る(Renaudot; pp. 34-35. Reinaud; Tome I, pp. 67-68.Ferrand; p. 78)。
 Renaudot 譯は、「支那人の法律」(la loi chinoise)の代りに「彼等の宗教の法規」(the laws of their religion)となつて居る。その他は大同小異に過ぎぬ。
 Ferrand 譯はこの文章の前半に於て多少の相違があつて、
支那はキスラー(Kisr□)の時、アレキサンダーがダリウス大王を殺さしめて、ペルシアをその將軍達の間に分つた時に、ペルシアが陷つたと同樣の状態となつた。支那の(各)地方の行政權を簒つた叛徒達(rebelles)(即ち獨立せる地方都督達)は、國王の許可も命令もなしに、(勝手に)彼等の目的を貫徹すべく、相互に助け合つた。彼等の一人がより強大となつて、より劣勢の者を打ち倒すと、征服者(Vainqueur)はその國を奪ひ、すべてを荒し、その住民のすべてを食ひ盡くした。
となつて居る。以下の文句には殆ど相違がない。
 (□) 支那では既婚の男子が既婚の女子と姦通する時は、(彼等は)死刑に處せられる。泥棒(voleurs)及び人殺(を行うた人)達(meurtriers)も、之と同樣である。彼等(死刑犯罪者)を殺す方法を茲に示す。……罪人を望み通りの状態に置くと、特にその用途に定められて居る笞を以て、罪人の身體の中で、致命を與へ得べき部分を毆打する。毆打の數は一定して居つて、それを超過することは許されない。かくてその罪人は蟲の息を餘すばかりであるから、彼を食べるに違ひない人々(の手)に引渡して仕舞ふ(Renaudot; pp. 35-36. Reinaud; Tome I, pp. 69-70. Ferrand; pp. 79-80)。
 Ferrand 譯の前半は、
以前身持の良かつた二人の男女が、姦通を行ふと、(彼等は)死刑に處せられる。泥棒及び刺客達(assassins)も同一の罰を受ける。(此等の)死刑犯罪者は次の如き方法で、刑を執行される。
となつて居る。
 以上が『印度支那物語』中に見えて居る、支那人の Cannibalism に關する記事のすべてである。この物語を佛譯したフランスの Reinaud は、この記事に疑惑を挾み、當時支那は紛亂を極めて、殆ど無政府ともいふべき時代であつたから、或は一時的現象として、かかる蠻風が存在したかも知れぬが、恐らくはマホメット教徒――Ab□ Zayd――訛傳で、事實に非ざるべしと解釋して居る(Relation des Voyages. Tome II, pp. 41-42. Note 139)。
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