支那人間に於ける食人肉の風習
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著者名:桑原隲蔵 

         緒言

 一國の歴史を闡明するには、その一國の記録だけでは不足を免れぬ。是非その國と關係深き他國の記録をも、比較參考する必要がある。支那歴史の研究者としては、支那本國の史料の外に、日本、朝鮮、安南等の記録を參考するは勿論、遠く西域諸國の記録をも利用せなければならぬ。兩漢以來、支那の國威が四表に張ると共に、その國情が次第にキリスト教國や、マホメット教國の間に傳はり、又此等遠西の諸國民も極東に觀光して、その見聞を公にした。此等の見聞録の中には支那の風俗世態等に關して、往々本國の記録に見當らぬ貴重な材料を供給するものも尠くない。極東に關係あるギリシア、ラテンの記録は、略 Coed□s 氏の Textes d'Auteurs Grecs et Latins relatifs □ L'Extr□me-Orient に備はり、マホメット教徒の記録――その地理に關係ある部分を主としてあるが――は、大體 Ferrand 氏の Relations de Voyages et Textes g□ographiques Arabes, Persans et Turks relatifs a L'Extr□me-Orient に纏められてある。
 ギリシア、ラテンの記録は、しばらく措き、マホメット教徒のそれは中々價値が多い。數あるマホメット教徒の記録の中で、その内容の豐かなる點より觀ても、將た又その年代の古き點より觀ても、所謂『印度支那物語』を第一に推さねばならぬ。この物語は前後の二篇に分かれ、前篇は Solayman の記録で、後篇は Ab□ Zayd のそれである。
 Solayman は東洋貿易商で、親しく支那に出掛けてその風俗人情を視察した。彼の記録は彼自身に執筆したものでなく、多分彼の見聞を材料として、他の無名の作者が筆録したものと想はれるが、兔に角ヘヂラ暦二三七年即ち西暦八五一年に出來たことは疑を容れぬ。Ab□ Zayd は S□r□f の産で、彼自身支那の地を踏まぬけれど、當時 S□r□f はペルシア灣頭第一の貿易港として、東洋貿易に從事する商賈の出入頻繁であつたから、彼は此等の商賈に就いて傳聞せる所を筆録したもので、ヘヂラ暦三〇三年、即ち西暦九一六年頃の作と認められて居る。要するに『印度支那物語』は、大體に於て西暦九世紀、即ち唐の後半期に於ける、支那人の風俗習慣を知るべき、尤も有益なる尤も面白き材料である。
『印度支那物語』のアラブ語原本は、今日パリの國民文庫に現存して居る。この原本の來歴は、委細は Reinaud の著書(Relation des Voyages etc. Tome I, pp. iii-vi)に載せてあるから、態□ここに紹介する必要がない。この物語は今日まで尠くとも左の如く三度歐洲語に譯出された。
 (一) 西暦一七一八年に、フランスの Renaudot が初めて之を佛語に飜譯した。その表題を Anciennes Relations de l'Inde et de la Chine de deux Voyageurs Mahometans qui y all□rent dans le IXi□me si□cle といふ。彼は同時にその本文に對して若干の註解を加へた。Renaudot の佛譯は間もなく一七三三年に英譯せられ、その英譯は更に明治四十三年(西暦一九一〇)に我が東京で飜刻された。東京版の英譯は間々誤植がある。吾が輩は Renaudot 佛譯を有せぬ。また一七三三年版の英譯も左右に備付けてない。故に已むをえず東京版の英譯を使用して居る。
その後本論文のほぼ脱稿する頃に、岩崎家の東洋文庫の好意により Renaudot の佛譯及びその一七三三年版の英譯を借覽することが出來た。併し東京版の英譯の方が、我が學界に普及して居るであらうといふ斟酌もあり、旁□本論文中に引用せる Renaudot 譯は、すべて東京版の英譯の頁數を指示することにした。尚ほ東洋文庫から以上の外、三四の著者、雜誌、論文の融通を受け、尠からざる裨益を得た。茲に附記して感謝の意を表する。
 (二) 西暦一八四五年に、フランスの有名なるアラブ學者の Reinaud が、アラブ語の原本に添へて、新にその佛譯を公にした。Relation des Voyages faits par les Arabes et les Persans dans l'Inde et □ la Chine dans le IXe si□cle de l'□re chr□tienne が、この新佛譯の表題である。Reinaud はこの物語の序論として、中世に於けるアラブ人の東洋貿易界に於ける活躍の歴史を附し、又その本文に對して尠からざる註解を施した。
 (三) 一昨年(西暦一九二二)の末に、同じくフランスの Ferrand 氏が、『東洋古典叢書』(Les Classiques de l'Orient)の第七卷として、新にこの物語の佛譯を公にした。表紙には單に Voyage du Marchand Arabe Solayman en Inde et en Chine r□dig□ en 851 と題してあるが、その内容は Renaudot や Reinaud のそれと同樣で、前篇は Solayman 後篇は Ab□ Zayd の記録を收めてある。
『印度支那物語』はしかく早くしかく廣く、學界に紹介されたに拘らず、その内容は未だ十分に研究されて居らぬと思ふ。尠くともこの物語中に紹介されてある、支那人の風俗、習慣等に關しては、從來何等權威ある研究が發表されて居らぬ。Renaudot や Reinaud の古き註解がこの點に就いて不十分なることは、特に言明する迄もない。
 吾が輩はこの缺陷を遺憾に思ひ、最近四五年來、アラビアと支那との交通を研究すると共に、この物語中に見えて居る支那人の風俗、習慣の研究にも手を着けた。研究の方針として吾が輩は、
 (1) この物語と時代を同じくする、唐時代の事蹟に關する支那人の記録に對照して、この物語の記事の確實なることを證明すること。
 (2) 不幸にして唐時代に關する支那人の記録に、直接の證據見當らぬ場合には、唐以前の、若くば唐以後の事蹟で、この物語の記事と相發明するに足るものを、支那人の記録中から探求し、これより推して、アラブ人の所傳の信憑すべき程度を明瞭にすること。
 (3) 『印度支那物語』の記事にも間々誤謬がある。この誤傳を支那人の記録に據つて證明すること。
 (4) アラブ人の所傳と發明すべき、若くば關係ありと思はるる記事が、諸外國人の記録中に見當る場合は、成るべく之を蒐集して參考に供すること。
以上の四點、殊に最初の三點に重きを置いた。
 吾が輩は『印度支那物語』に據つて、唐代の支那人の風俗、習慣を研究する序に、出來得べくんば、更に溯つてその風習の起源、又は沿革をも探討したいと心掛けて居る。之が爲に問題によつては、先秦時代より現時に至るまで、上下三千餘年に亙つて、支那文獻を渉獵するは勿論、時には廣く諸外國人の記録をも參考せなければならぬ場合も尠くない。かかる事情の下に、注意に價する程の結果を收めることは、豫期以上の困難を感じたが、併し今日ではこの未開の學田から、多少の收獲を得たかと思ふ。故に不十分を自覺しつつ、その收獲の一部を發表することにした。
 支那人間に於ける食人肉の風習は、獨立した一論文として茲に掲載したが、實は上述の如き研究の一端に過ぎぬ。從つて發表の形式も、普通の場合と異にして、『印度支那物語』の記事を論文の冒頭に掲載することにした。爾後若し引續きこの物語に關する研究の結果を發表する場合には、之と同樣の形式を採りたいと思ふ。『印度支那物語』の記事に就いては、Renaudot, Reinaud, Ferrand 三氏の譯文を參考したが、大體に於て學界に廣く用ひられて居る Reinaud 譯に據ることにした。但し彼此の譯文に、注意に價する程の相違がある場合には、特にその旨を附記する。

         一

 (□) 支那では時々地方の都督(gouverneur)が、その最高の王(即ち皇帝)に對して盡すべき服從を缺くことがある。かかる場合には、彼(その都督)は首を刎られ、食べられて仕舞ふ。支那人は刀劍で殺害された(即ち病死にあらざる)、すべての人の肉を食用する(Reinaud; Tome I, pp. 52-53. Ferrand; p. 67)。
 Renaudot の譯は、單に、
支那皇帝の領土内にある都督が罪を犯す時は、彼は死に處せられ、食べられて仕舞ふ。概していへば、支那人は死に處せられた、すべての(罪)人を食用する(p. 25)。
となつて居る。
 (□) 支那帝國はこれ(黄巣の亂)以來、かつてアレキサンダーがダリウスを殺させ、ペルシアの土地をその(部下)將軍達(g□n□reux)に分つた時に、ペルシアが陷つたと同樣の状態となつた。支那の各地方の(割據せる)都督達は、一層その勢力を増進せんが爲に、君主(souverain 即ち皇帝)の許可も命令もなしに、各自(勝手)に同盟を結んだ。彼等の一人が(より劣勢なる)他(の都督)を討ち滅ぼすに從ひ、彼は後者の所領を併せ、その土地をすべて荒し、その住民を食ひ盡くした。事實支那人の法律は、人肉を食ふことを認可し、人肉が諸市場(march□s)で、公然と販賣されて居る(Renaudot; pp. 34-35. Reinaud; Tome I, pp. 67-68.Ferrand; p. 78)。
 Renaudot 譯は、「支那人の法律」(la loi chinoise)の代りに「彼等の宗教の法規」(the laws of their religion)となつて居る。その他は大同小異に過ぎぬ。
 Ferrand 譯はこの文章の前半に於て多少の相違があつて、
支那はキスラー(Kisr□)の時、アレキサンダーがダリウス大王を殺さしめて、ペルシアをその將軍達の間に分つた時に、ペルシアが陷つたと同樣の状態となつた。支那の(各)地方の行政權を簒つた叛徒達(rebelles)(即ち獨立せる地方都督達)は、國王の許可も命令もなしに、(勝手に)彼等の目的を貫徹すべく、相互に助け合つた。彼等の一人がより強大となつて、より劣勢の者を打ち倒すと、征服者(Vainqueur)はその國を奪ひ、すべてを荒し、その住民のすべてを食ひ盡くした。
となつて居る。以下の文句には殆ど相違がない。
 (□) 支那では既婚の男子が既婚の女子と姦通する時は、(彼等は)死刑に處せられる。泥棒(voleurs)及び人殺(を行うた人)達(meurtriers)も、之と同樣である。彼等(死刑犯罪者)を殺す方法を茲に示す。……罪人を望み通りの状態に置くと、特にその用途に定められて居る笞を以て、罪人の身體の中で、致命を與へ得べき部分を毆打する。毆打の數は一定して居つて、それを超過することは許されない。かくてその罪人は蟲の息を餘すばかりであるから、彼を食べるに違ひない人々(の手)に引渡して仕舞ふ(Renaudot; pp. 35-36. Reinaud; Tome I, pp. 69-70. Ferrand; pp. 79-80)。
 Ferrand 譯の前半は、
以前身持の良かつた二人の男女が、姦通を行ふと、(彼等は)死刑に處せられる。泥棒及び刺客達(assassins)も同一の罰を受ける。(此等の)死刑犯罪者は次の如き方法で、刑を執行される。
となつて居る。
 以上が『印度支那物語』中に見えて居る、支那人の Cannibalism に關する記事のすべてである。この物語を佛譯したフランスの Reinaud は、この記事に疑惑を挾み、當時支那は紛亂を極めて、殆ど無政府ともいふべき時代であつたから、或は一時的現象として、かかる蠻風が存在したかも知れぬが、恐らくはマホメット教徒――Ab□ Zayd――訛傳で、事實に非ざるべしと解釋して居る(Relation des Voyages. Tome II, pp. 41-42. Note 139)。併しこは Reinaud が、支那に古代から食人肉の風習が存在し、殊にこの物語の時代、即ち唐末に於て、この蠻風が尤も廣く尤も盛に流行した事實を知らざる故で、Solayman や Ab□ Zayd の所傳には、何等誤謬がないのである。

         二

 支那人は世界に誇負すべき悠遠なる文化を有せるに拘らず、彼等は古代から現時に至るまで、上下三千餘年に亙つて、繼續的に Cannibalism の蠻習をもつて居る。恐らく世界の中で支那人程、豐富な Cannibalism の史料を傳へて居る國民は他にあるまい。古代から支那人が食人肉の風習を有したことは、經史に歴然たる確證が存在して、毫も疑惑の餘地がない。『韓非子』の難言篇に據ると、殷の紂王は自分の不行跡を諫めた人々を罪し、翼侯を炙とし、鬼侯を□とし、梅伯を醢にしたといふ。炙は人肉を炙ること、□は人肉を乾すこと、醢は人肉を□(きざ)み、麹や鹽を雜へて酒漬にすることで、何れも人肉を食用に供することを前提とした調理法に過ぎぬ。紂王は又文王の子の伯邑考といふを烹て羹(あつもの)となし、その羹を文王に食せしめたといふことで、西晉の皇甫謐(クワウホヒツ)の『帝王世紀』――『史記正義』の殷本紀の注に引く所に據る――に、
文王之長子曰二伯邑考一。質二於殷一。爲二紂御一。紂烹爲レ羹賜二文王一曰。聖人當レ不レ食二其子羹一。文王食レ之。紂曰誰謂二西伯聖者一。食二其子羮一尚不レ知也。
と記してある。
『帝王世紀』や『韓非子』は、殷末を距ること遠い記録で、それらの記事は、その儘に信憑出來ぬとしても、春秋戰國時代に降ると、支那人間に食人肉の風習の行はれたことは、その當時の記録に明記されて居つて疑ふことが出來ぬ。第一春秋の霸者を代表する齊桓晉文、何れも人肉を食用した。齊の桓公が魯國に對して、その仇敵たる管仲の引渡しを要求した時の口上を、『左傳』の莊公九年の條に、「管仲讎也。請受而甘心焉」と記してある。『史記』の齊世家に同一事を、「請得而醢レ之」と記して居る。怨ある人若くは罪ある人の肉を醢にすることは、春秋戰國時代を通じて、支那では決して稀有でなかつた。例へば宋人が宋の閔公を弑した南宮萬や猛護を醢にしたことが、『左傳』莊公十二年の條に見えて居る。孔門の子路が衞國の内亂の際に、その反對黨の爲に殺されて肉を醢にせられ(『禮記註疏』卷六、檀弓上)、又齊の□王の軍が燕に侵入した時、燕の奸臣子之を醢にしたといふ(『史記集解』燕世家の註に引く所の『汲冢周書』)。人肉食用の風習の存在を承認せずには、人肉を醢にするといふ記事を了解することが六ヶ敷い。
 『韓非子』に、
桓公好レ味。易牙蒸二其首子一而進レ之(二柄篇)。
といひ、又、
易牙爲レ君主レ味。君之所レ未二嘗食一。唯人肉耳。易牙蒸二其首子一而進レ之。君所レ知也(十過篇)。
といふに據ると、桓公はその嬖臣易牙の調理した、子供の肉を食膳に上せて、舌鼓を打つたものと認めねばならぬ。
 晉の文公は天下を周游した際、齊に往き桓公の女を娶つて、茲に一生を託せんとした。彼の舅にして從臣たる狐偃は之を憂ひ、彼に酒を勸め、その沈醉中に齊を引き拂つた。酒覺めて後ち、此の處置に不滿を懷いた文公は狐偃を罵つて、「吾食二舅氏之肉一其知レ厭乎」(『國語』晉語四)といひ、之れと對して狐偃は、「偃之肉腥□。將焉用レ之」(同上)と申して居る。この問答の裡にも、髣髴として當時食人肉の風習の存在せしことを肯定せしむるではないか。しかのみならず文公はその周游中、食盡きた時に、從臣の一人なる介子推の股肉を食して飢を凌いだことが、『莊子』の盜跖篇に、
介子推至忠也。自割二其股一。以食二文公一。
と記してある。
 晉の文公の子襄公の時、晉が秦と兵を交へた。秦軍大敗してその大將の百里奚孟明視等が捕虜となつた。秦の方では襄公にこの孟明視等の引渡しを願つて、自分の手で嚴重な處分を加へたい希望を申出た。『左傳』の僖公三十三年の條に、その事實を「寡君若得而食レ之不レ厭」と記してある。秦の君(穆公)が、孟明視等の肉を食うても、飽き足らぬ程怒つて居るといふ意味である。又楚の莊王の時、楚が晉に會戰することの可否に就いて、楚の令尹たる孫叔敖と、莊王の嬖臣の伍參と、意見を異にして爭論せし有樣を、『左傳』の宣公十二年の條に、
嬖人伍參欲レ戰。令尹孫叔敖弗レ欲。曰。……戰而不レ捷。參之肉其足レ食乎。參曰。……不レ捷。參之肉將レ在二晉軍一可レ得レ食乎。
と記載してある。『戰國策』の中山策の條を見ると、中山の君がその臣下に外國に内通する噂ある者に對して、吾食二其肉一。不二以分一レ人と申して居る。此の如き不忠なる者には殺戮を加へ、その肉は自分一人にて飽食するといふことで、惡むこと甚しき意味を述べたものであらう。齊人魯仲連が邯鄲城内で、趙をして秦を尊んで帝を稱せしむべく運動中の、梁の將軍新垣衍に面會して、その運動の不可なる所以を説き、「吾將レ使三秦王。烹二醢梁王一」と申して居る(『史記』卷八十三、魯仲連傳)。秦の帝となり天下を統一した曉には、趙や梁(魏)の國王の生殺の權は、秦王の掌握に歸すといふ意味である。此等の記事を以て、當時の支那人が人肉を食用した、直接の證據に供することは、或は多少早計かも知れぬ。併し此の如き食レ肉とか醢レ肉とかいふ言顯法の慣用さるることは、その根柢に、人肉食用の事實の存在を前提とせねば、理會し難いと思ふ。かかる文句の疊見することは、やがて古代の支那人間に、Cannibalism の行はれた、間接の證據に供して差支あるまい。
 東周の定王の十三年(西暦前五九四)に、楚の莊王が宋を圍んだ。宋軍は糧食空乏して、遂に和を願ひ出でたが、『左傳』にその事を記して、
敝邑易レ子而食。析レ骸而爨(宣公十五年)。
といひ、『列子』の説符篇に同一事を記して、
楚攻レ宋圍二其城一。民易レ子而食レ之。析レ骸而炊レ之。
といふ。『戰國策』の齊策に、齊の田單が聊城に燕軍を攻圍した時の有様を記して、食レ人炊レ骨とある。秦漢以後の記録にも、よく此等と同一、若くは類似の文句が見當る。此等の文句は何れも城守困乏の甚しき状況を形容したものとも解し得るけれども、後世飢饉の際に、支那人は彼此その子を易へて食に充てた實例に照らすと、又籠城久しきに亙る場合、支那人はよく人肉を糧食に供した實例に照らすと、此等の文句は、單なる形容以上に、幾分の事實を傳へたものと斷ぜねばなるまい。
 『莊子』の盜跖篇に據ると、孔子が大泥棒の盜跖を説諭に出掛けた時、盜跖は人肉を肴に晝食を取りながら、孔子を恫喝して、
疾走歸。不レ然。我將下以二子肝一益中晝餔之膳上。
というた。『莊子』には寓言が多いから、孔子と盜跖の問答などは、勿論その儘に事實と受取ることが出來ぬけれども、盜跖篇の作者が、此の如き文句を使用して居る點が、Cannibalism の研究者にとつて、一顧の價あると思ふ。荀子が陵墓發掘のことを論じて、
雖二此□而埋一レ之。猶且必※[#「てへん+日」、163-7]也。安得二葬埋一也。彼乃將下食二其肉一。而□中其骨上也(『荀子』正論篇)。
といへるは、假定の推理で、當面の事實を述べたものではないが、併し彼が澆季の時勢を憤慨して、「故脯二巨人一而炙二嬰兒一矣」(正論篇)と述べたる所は、彼が見聞した事實と認むべきであらう。『戰國策』の中山策に、魏の樂羊が中山を圍んだ時、中山の人はその城中に居つた樂羊の子を烹て羮を作り、之を樂羊に贈つたことを記して、
樂羊爲二魏將一攻二中山一。其子時在二中山一。中山君烹レ之作レ羮致二於樂羊一。樂羊食レ之。
といひ、ほぼ同一の記事が『韓非子』(説林上篇)にも見えて居るのは、明かに人肉食用の事實である。
 若し仔細に先秦の經傳諸子を點檢したならば、更に幾多の材料を提供し得るであらうが、上來の憑據だけでも、十分に支那古代に於ける Cannibalism の存在を證明するに足ると思ふ。

         三

 秦漢以後も歴代の正史記録に、Cannibalism の事實が疊出して居つて、支那人の人肉を食用するのは、決して一時の偶發でなく、寧ろその傳統的慣習なることを發見することが出來る。『史記』の項羽本紀を見ると、漢楚交戰時代に、楚の項羽は漢の高祖の父太公を擒として、之を俎上に置いて高祖を威嚇した。高祖は之に對して「幸分二我一□羮一」と對へて居る。高祖は又彭越を誅戮し、その肉を醢にして、□く諸侯に賜うた(『史記』卷九十一、黥布傳)。この應對、この處分は、何れも食人肉の風習と關係あるものであるまいか。
 支那には古來飢饉が多い。飢饉の場合には一般に人肉食用が行はれる。試に『前漢書』『後漢書』に據つて、兩漢時代に於ける實例を示すと下の如くである。

年代 「記事」(出典){高祖二年(西暦前二〇五)?} 「漢興接二秦之敝一。諸侯竝起。民失二作業一。而大飢饉。凡米石五千。人相食。死者過半。高祖乃令丁民得丙賣レ子。就乙食蜀漢甲。」(『前漢書』食貨志)高祖二年(前二〇五)六月 「{關中大飢。米斛萬錢。人相食。令下民就中食蜀漢上。}」(『前漢書』高祖本紀)武帝建元三年(前一三八)春 「河水溢二于平原一。大飢。人相食。」(『前漢書』武帝本紀)武帝{建元六年(前一三五)?} 「河南貧人傷二水旱一。萬餘家。或父子相食。」({『資治通鑑』建元六年條})武帝{鼎元三年(前一一四)四月} 「關東郡國十餘飢。人相食。」(『前漢書』武帝本紀)元帝初元元年(前四八)九月 「關東郡國十一。大水。飢。或人相食。轉二旁郡錢穀一。以相救。」(『前漢書』元帝本紀)元帝初元二年(前四七)六月 「齊地飢。穀石三百(?)餘。民多餓死。琅邪郡人相食。」(『前漢書』食貨志)成帝永始二年(前一五) 「梁國平原郡。比年傷二水災一。人相食。」(同右)王莽天鳳元年(一四) 「縁邊大饑。人相食。」(『前漢書』王莽傳)王莽地皇三年(二二)二月 「關東人相食。」(同右){王莽時} 「{北邊及青徐地。人相食。□陽以東米石二千。}」(『前漢書』食貨志){光武帝建武元年(二五)?} 「民饑餓相食。死者數十萬。長安爲レ虚。城中無二人行一。」(『前漢書』王莽傳)光武帝建武二年(二六) 「三輔大饑。人相食。城郭皆空。白骨蔽レ野。」({『資治通鑑』建武二年條})安帝永初二年(一〇八)正月 「時州郡大饑。米石二千。人相食。老弱相二棄道路一。」(『後漢書』安帝本紀註)同三年(一〇九)三月 「京師大饑。民相食。……詔曰。朕……至レ令下百姓饑荒。更相□食上。永懷二悼歎一。」(『後漢書』安帝本紀)同三年(一〇九)十二月 「并涼二州大饑。人相食。」(同右)桓帝元嘉元年(一五一)四月 「任城梁國饑。民相食。」(『後漢書』桓帝本紀)桓帝永壽元年(一五五)二月 「司隷冀州饑。人相食。」(同右)靈帝建寧三年(一七〇)正月 「河内人婦食レ夫。河南人夫食レ婦。」(『後漢書』靈帝本紀)獻帝興平元年(一九四) 「是歳穀一斛五十萬。豆麥一斛二十萬。人相食啖。白骨委積。」(『後漢書』獻帝本紀)獻帝建安二年(一九七) 「是歳饑。江淮間民相食。」(同右)
 就中王莽の末年天下騷擾の際に、Cannibalism が尤も廣い範圍に行はれた。『後漢書』卷六十九あたりの列傳を一瞥しても、容易に當時の光景を想像することが出來る。三國兩晉以來隋唐時代にかけても、支那人の Cannibalism の證據は澤山見える。一々の歴擧は餘りに煩雜なるを恐れて見合せ、その泰甚なる實例四五だけを紹介したい。東晉の末に孫恩といふ海賊があつて、東南沿海地方を暴掠し□つた。彼は各地方の縣令を擒にすると、その肉を醢にして縣令の妻子に食はしめ、躊躇する者は支解した――「醢二諸縣令一。以食二其妻子一。不二肯食一者。輙支二解之一。」(『資治通鑑』晉紀三十、隆安三年の條)――といふ。慘酷至極の話ではないか。
 君に反き上に逆ふ不忠の輩は、之を殺戮してその肉を食ひ、若くは官民をしてその肉を食はしむることは、支那の古代から實行されて居つて、決して珍らしい事實でない。隋の煬帝が叛臣の斛斯政を捕へて之を誅戮し、その肉を烹て、百官をして之を食せしめた。百官の或る者は、成るべく多量にその肉を飽食して、煬帝の歡心を買つたといふ(『資治通鑑』隋紀六、大業十年の條)。やや事情を異にするが、宋の文帝を弑して、一時帝位を簒つた劉劭の羽翼となつた張超之は、やがて失敗すると、將校士卒の爲に殺害せられ、且つ彼等の餌食となつた。
{張超之}……爲二亂兵所一レ殺。割レ腸胯レ心。臠二剖其肉一。諸將生二□之一。焚二其頭骨一(『宋書』卷九十九、二凶傳)。
これが當時の記載である。
 『資治通鑑』貞觀十七年(西暦六四三)の條に、太宗がその猛將丘行恭が逆臣の心肝を食したことを責めて、
※[#「(樗−木)+おおざと」、166-15]尉游文芝。告二代州都督劉蘭成謀反一。……蘭成坐二腰斬一。右武侯將軍丘行恭。探二蘭成心肝一食レ之。上聞而讓レ之曰。蘭成謀反。國有二常刑一。何至レ如レ此。若以爲二忠孝一。則太子諸王。先食レ之矣。豈至レ卿邪。行恭慙而拜謝。
とある。太宗の見識は流石であるが、唐一代を見渡すと、依然としてこの野蠻な私刑(?)が、實行され又は默許された。玄宗時代の宦官揚思□が、賊臣に内通した官吏を處分した時の状況が、『舊唐書』に「探二取其心一。截二去手足一。割レ肉而啖レ之」(卷百八十四、宦官傳)と記されてある。徳宗時代の大將李懷光は、その養子の石演芬が、己に反對するのを怒つて、その左右に命じて之を臠食せしめんとした(『資治通鑑』唐紀四十六、興元元年の條、『舊唐書』卷百八十七、下、忠義傳)。されば Solayman の傳ふる所(□)は悉く事實と認めねばならぬ。隋唐時代の支那人は反逆者を殺して、その肉を食したことも事實であれば、彼等は病死の者を除き、杖殺された又は斬殺された者の肉を、平氣で食用したことも事實である。
 支那人の Cannibalism の實例を擧ぐる場合に、決して隋末唐初に出た朱粲のことを逸してはならぬ。彼は劇賊の首領で、二十萬の部下を率ゐて中原を横行し、到る所で居人を掠奪殺戮して粮食に充てた。『舊唐書』にこの事實を次の如く記述してある。
{朱粲}軍中□竭。無レ所二虜掠一。乃取二嬰兒一蒸而□レ之。因令二軍士一曰。食之美者。寧過二於人肉一乎。但令二他國有一レ人。我何所レ慮。即勒二所部一。有二略得婦人小兒一。皆烹レ之分給二軍士一。乃税二諸城堡一。取二小弱男女一。以益二兵粮一(卷五十六、朱粲傳)。
 有名なる顏之推の子の顏愍楚は、朱粲の軍に囚はれてその幕僚となつたが、後に軍中食に乏しくなると、彼の一家を擧げて朱粲に□ひ盡されたといふ。彼は人から人肉の滋味を聞かれた時、「若□二嗜レ酒之人一。正似二糟藏猪肉一」と答へて居る。誠に驚くべき食人鬼ではないか。

         四

 古來支那で革命の起る際には、國内の秩序が立たず、又擾亂の爲に農耕が廢して、穀物が缺乏するから、自然人肉の食用が盛に行はるるのが一の慣例となつて居る。既に東漢の王充が、「敗亂之時。人相啖食」(『論衡』卷二十、論死篇)と公言した程である。就中唐の末期に、この蠻風が前代の慣例以上に甚しく流行した。この事實が當時支那に往來した、マホメット教徒の見聞に觸るるのは、當然と申さねばならぬ。今試に『資治通鑑』に據つて、Ab□ Zayd の時代に當該する、四十年間に起つた食人肉に關する記事を左に開列する。勿論こは『資治通鑑』一書に見えた記事のみで、他の公私の記録を廣く渉獵したものでないから、必しも當時に於ける人肉食用の事實を、悉く網羅したものでないことを、特に附記して置く。

年代 「記事」(1)唐僖宗中和二年(八八二)四月 「長安城中。斗米直三十緡。賊賣二(買?)人於官軍一以爲レ糧。官軍或執二山寨之民一(良民避レ亂入レ山築レ柵自保者)鬻レ之。人直數百緡。以二肥瘠一論レ價。」(2)僖宗中和三年(八八三)六月 「時民間無二積聚一。{黄巣}賊掠レ人爲レ糧。生投二於碓磑一。併レ骨食レ之。號二給糧之處一。曰二舂磨寨一。」(3)僖宗光啓三年(八八七)六月 「{揚州}城中乏レ食。樵採路絶。宣州軍始食レ人。」(4)同年九月 「高駢在二{揚州城内}道院一。秦彦供給甚薄。左右無レ食。至下然二木像一。煮二束帶一食レ之。有中相啗者上。」(5)同年十月 「楊行密圍二廣陵(揚州)一。且二半年一。城中無レ食。米斗直錢五十緡。草根木實皆盡。以二菫泥一爲レ食レ之。餓死者大半。宣{州}軍掠レ人。詣レ肆賣レ之。驅縛屠割。如二羊豕一。訖無二一聲一。積骸流血。滿二於坊市一。」(6)僖宗文徳元年(八八八)二月 「{李}罕之。所部。不二耕稼一。專以二剽掠一爲レ貨。啗レ人爲レ糧。」(7)昭宗龍紀元年(八八九)六月 「楊行密圍二宣州一。城中食盡。人相啗。」(8)昭宗大順二年(八九一)四月 「{王}建陰令下東川將唐友通等。擒二{韋}昭度親吏駱保於行府門一。臠中食之上。」(9))同年七月 「{孫儒}悉焚二揚州廬舍一。盡驅二丁壯及婦女一度レ江。殺二老弱一以充レ食。」(10)昭宗景福二年(八九三)二月 「{李}克用逆二{王鎔軍}一。戰二於叱日嶺下一。大破レ之。斬首萬餘級。河東軍無レ食。脯二其尸一而啗レ之。」(11))昭宗乾寧元年(八九四)五月 「王建攻二彭州一。城中人相食。」(12)昭宗天復二年(九〇二)十一月 「是冬大雪。{鳳翔}城中食盡。凍餒死者。不レ可レ勝レ計。或臥未レ死。已爲二人所一レ※[#「咼−口」、169-16]。市中賣二人肉一。斤直錢百。犬肉直五百。{李}茂貞儲※[#「にんべん+待」、169-17]亦竭。以二犬□一供二御膳一。上鬻二御衣及小皇子衣於市一。以充レ用。」(13)昭宜帝天祐三年(九〇六)九月 「□軍築レ壘圍二滄州一。……城中食盡。丸レ土而食。或互相掠啖。」(14)後梁太祖開平三年(九〇九)十二月 「劉守光圍二滄州一。……城中食盡。民食二菫泥一。軍士食レ人。……呂□選二男女羸弱者一。飼以二麹麪一而烹レ之。以給二軍食一。謂二之宰殺務一。」(15)太祖乾化元年(九一一)八月 「{劉}守光怒二{孫鶴之諫一レ己}。伏二諸質上一。令二軍士※[#「咼−口」、170-3]而□一レ之。」(16)末帝貞明二年(九一六)九月 「晉人圍二貝州一踰レ年。……城中食盡。□レ人爲レ糧。」(17)末帝龍徳二年(九二二)九月 「鎭州食竭力盡。……{晉軍入レ城}執二{張}處瑾兄弟家人。及其黨高濛、李□、齊儉一。送二行臺一。趙人皆請而食レ之。」
 上の(2)に紹介した黄巣の賊徒の狼藉は、『舊唐書』卷二百下の黄巣傳に、今少しく詳細に、
關東仍歳無二耕稼一。人餓倚二牆壁間一。賊俘レ人而食。日殺二數千一。賊有二舂磨砦一。爲二巨碓數百一。生納二人於臼一碎レ之。合レ骨而食。
と記してある。數千幾萬の無辜の良民を、生きながら碓にて舂き、磑にて磨して食用に供するとは、誠に前代未聞の慘事と申さねばならぬ。殊に又賊軍討伐の任に當れる官軍が、却つて良民を執へ、之を金に換へて賊軍の糧食に資するが如きは、支那以外の他國では、到底見當らぬ咄々(とつとつ)怪事と思ふ。
 唐の中世以後揚州は支那第一の大都會であつた。當時揚一といふ諺があつて、富庶繁華を以て天下に冠絶して居つた。所が唐末紛擾の際に、殊に當時の軍界の元勳たる淮西節度使の高駢が失勢して以來、揚州は群雄爭奪の區となり、多年修羅の巷となつた。『舊唐書』にその光景を傳へて、次の如く記してある。
廣陵(揚州)大鎭。富甲二天下一。自二{畢}師鐸、秦彦之後一。孫儒{楊}行密。繼踵相攻。四五年間。連レ兵不レ息。廬舍焚蕩。民戸喪亡。廣陵之雄富掃レ地矣(卷百八十二、秦彦傳)。
 この間揚州の住民は、文字通りに塗炭の苦を受け、魚肉の厄に罹つた。『五代史記』に上の(5)に紹介した同一事實を記して、
是時城中倉庫空虚。飢民相殺而食。其夫婦父子。自相牽。就レ屠賣レ之。屠者※[#「圭+りっとう」、171-3]剔如二羊豕一(卷六十一上、呉世家)。
と傳へて居る。酸鼻至極の記事ではないか。
 揚州は唐代の外國貿易港の一で、多數のマホメット教徒が茲に滯在して居つた(大正八年十月の『史學雜誌』に掲げた拙稿「イブン・コルダードベーに見えたる支那の貿易港」六二―六四頁[#ここに「本全集第三卷所收」と注記])。黄巣の反亂は廣く且つ詳に、マホメット教徒の間に知られて居つた(Reinaud; Relation des Voyages. Tome I, pp. 63-68. Ma□oudi; Les Prairies d'Or. Tome II, pp. 302-306)。されば黄巣の行つた虐殺、揚州に於ける慘事も、亦彼等の耳目に觸れた筈である。Ab□ Zayd の傳へる(□)の記事は、當時のマホメット教徒の見聞に本づけるもので、大體に於て事實と認めねばならぬ。唐末四方に獨立割據した節度使達が、勝手氣儘に弱肉強食の爭を釀したのも事實であれば、その爭奪の犧牲となつた土地の荒廢し、住民の難澁したのも事實である。上に『資治通鑑』に據つて紹介した記事の中には、籠城久しきに亙つて、味方同志□食した事實も多いが、又敵陣を陷れ敵地を略して、その兵民を□食した事實も尠くない。(2)の黄巣、(3)の宣州軍、(6)の李罕之、(9)の孫儒、(10)の李克用の場合のごときは、大體に於て後者に屬すべきもので、Ab□ Zayd の記事の正確なることを保證すべき實例である。敵國を侵略若くば併合する際に、敵の捕虜を□食するといふ蠻習は、この以後でも時々支那で實行された。北宋の初期の乾徳元年(西暦九六三)に、宋軍が湖南征伐を行うた際、宋の兵馬都監李處耘の部下は敵の捕虜を□食した。『宋史』にこの事實を、
{宋軍}至二敖山砦一。賊棄レ砦走。俘獲甚衆。{李}處耘釋二所レ俘體肥者數十人一。令三左右分二啗之一。黥二其少健者一。令三先入二朗州一。……黥者先入レ城。言三被レ擒者悉爲二大軍所一レ啗。朗人大懼。縱レ火焚レ城而潰(卷二百五十七、李處耘傳)。
と記してある。この李處耘は實に宋の太宗の皇后、即ち明徳皇后の實父に當るから驚く。
 李處耘と關聯して憶ひ出されるのは、同時代の王繼勳である。彼は宋の太祖の皇后即ち孝明皇后の近親であるが、性疎暴で屡□その使役せる子女を殺し食したといふ。この人に關しては、南宋の趙與時の『賓退録』卷七に下の如く傳へてある。
本朝王繼勳。孝明皇后母弟。太祖時屡以レ罪貶。後以二右監門衞率府副率一。分二司西京一。殘暴愈甚。強市二民間子女一。以備二給使一。小不レ如レ意。即殺而食レ之。以二※[#「木+彗」、172-8]□一貯二其骨一。棄二之野外一。女僧及鬻レ棺者。出二入其門一不レ絶。太宗即位。會有二訴者一。斬二于洛陽市一。
 但 Ab□ Zayd が支那人の法律は人肉を食することを認可すといへる一節は、多少の説明を要する。既に孟子も「獸相食。且人惡レ之」(梁惠王上)と申して居る位で、支那人とて人肉の相食むのを尋常の出來事として看過する筈がない。現に唐の張巡が忠義の爲とはいへ、人肉を食したことに對してすら、一部の非難があつた(『新唐書』卷百九十二、張巡傳)。支那人の法律が主義として人肉食用を公認する筈がない。されど Ab□ Zayd の時代、即ち唐末から五代の初期にかけて、支那國内の秩序亂れ綱紀壞ぶれ、所在の市場で人肉の公賣されたことは、疑なき事實である。『五代史記』も『資治通鑑』も、揚州の市場で公然人肉の販賣された事實を明記してある。即ち事實としては、當時の支那官憲は、人肉の食用と販賣に對して、何等の禁制を加へなかつた。此の如くして Ab□ Zayd 傳ふる所のこの一節も、亦大體に於て事實と認めねばならぬ。

         五

 唐末五代以後も、支那人の Cannibalism は依然行はれた、この一千年間に於ける正史野乘を遍ねく探つたならば、Cannibalism の例證は恐らくは山にも比し得る程と思ふ。吾が輩はかかる例證を一々探討する餘暇もなく、又かかる例證を一々羅列する必要をも感ぜぬ。ただこの期間に起つた尤も酷烈なる Cannibalism の記事二三を茲に掲げて、全貌窺測の資料に供したい。
 北宋末から南宋の初期にかけて、女眞人の入寇により、支那を擧げて紛擾の裡に陷つた。この際例によつて所在に人肉食用が流行した。就中南宋の莊綽の『□肋編』(『説郛』※[#「疆」のへんの「土」にかえて「一」、173-7]二十七所收)に記する所、尤も酸鼻を極めて居る。
自二靖康丙午歳(西暦一一二六)。金狄亂一レ華。六七年間。山東、京西、淮南等路。荊榛千里。米斗至二數十千一。且不レ可レ得。盜賊官兵以至二民居(居民?)一更相食。人肉之價賤二于犬豕一。壯者一枚。不レ過二十五斤一。躯暴以爲レ□。登州范温率二忠義之人一。紹興癸丑歳(西暦一一三三)。汎レ海到二錢塘一。有下至二行在(杭州)一猶食者上。老嫂(痩?)男子婦女。更謂二之饒把火一。婦人少艾者。名二之下羹羊一。小兒呼爲二和骨爛一。又通目爲二兩脚羊一。唐止(タダ)朱粲一賊。今百二倍于前數一。殺戮、焚溺、飢餓、疾疫、陷墮。其死已衆。又加レ之以二相食一。……不レ意以二老眼一。親見二此時一。嗚呼痛哉。
 この兩脚羊とは兩脚を有する羊の意味で、人間を羊同樣に食用するから起つた名稱である。和骨爛とは骨と肉を併せて火食する、下羮羊は『輟耕録』卷九に引けるものは不美羹となつて居る。これは羹の料に供するより起つた名稱で、饒把火とは肉硬くして燃料を多く要するより起つた名稱かと想ふ。
 元朝の末期に出た陶宗儀の『輟耕録』卷九にも、その當時の事實として、『□肋編』に劣らざる、否遙にそれ以上と認むべき悲慘な記事を傳へて居る。
天下兵甲方殷。而淮右之軍。嗜食レ人。以二小兒一爲レ上。婦女次レ之。男子又次レ之。或使レ坐二兩缸間一。外逼以レ火。或於二鐵架上一生炙。或縛二其手足一。先用二沸湯一澆溌。却以二竹帚一刷二去苦皮一。或乘二夾袋中一。入二巨鍋一。活□。或※[#「圭+りっとう」、174-5]二作事件一(?)而淹レ之。或男子則止斷二其雙腿一。婦女則特□二其兩乳一酷毒萬状。不レ可二具言一。
 活人をその儘火炙にするとか、袋に入れ鍋で□るとか、その手足を縛し熱湯をかけて皮膚を爛らし、竹帚にてその皮膚を洗刷する等、千歳の下猶ほ聞く者をして毛髮竦然たらしむるではないか。此の記事の如きは、單に支那人の食人肉の一材料のみでなく、又支那人の殘忍性を證明するべき一材料と思ふ。
 明の謝肇□の『文海披沙』卷七に、左の如き記事がある。
我太祖高皇帝時。開平王常遇春妻甚妬。上賜二侍女一。王悦二其手一。妻即斷レ之。王憤且惧。入朝而色不レ懌。上詰再三。王始具對。上大笑曰。此小事耳。再賜何妨。且飮レ酒寛レ懷。密令二校尉數人一至二王第一。誅二其妻一支二解之一。各以二一臠一賜二群臣一。題曰二悍婦之肉一。肉至。王尚在レ座。即以賜レ之。王大驚謝歸。怖□累日。此事千古之快。其過二唐太宗一萬萬矣。
 唐の太宗は、曾て兵部尚書の任環に二宮女を賜ふたが、任環の妻柳氏は妬※[#「女+旱」、174-14]で、二宮女を虐待した。太宗は態□柳氏を招きて懇諭したが、柳氏は頑として聽入れぬ。一天萬乘の太宗も、已むを得ずして二宮女を別宅に安置させたことが、唐の張□の『朝野僉載』に見えて居る。謝肇□は明の太祖と比較すべく、この故事を引用したのである。さるにても天子の尊に居る明の太祖が、公然かかる蠻行を敢てするとは驚くべきでないか。更に一代の達識を以て稱せらるる謝肇□が、この蠻行を稱揚して千古の快事など放言するに至つては、愈□呆るる外ない。
 明末清初に流賊横行の際に、例によつて、到る處で人肉食用の蠻行が起つた。この事實は、當時の支那人及び外國人の記録に散見して居るが、その代表として、清初の顧山貞の『客□述』の一節を紹介する。
{明永明王永暦元年(西暦一六四七)}四川大飢。民相食。有二夫婦父子互食者一。蓋甲申(西暦一六四四)以來。大亂三年。民皆逃竄。無二人耕種一。而宿糧棄廢又盡。故飢荒至レ此。……嘉定州則斗米三十金。成都、重慶。倶五十金。……成都人多逃入二雅州一。採二野菓一而食。亦多下流二入土司一者上。死亡滿レ路。屍纔倒レ地。即爲二人割去一。雖レ斬レ之不レ可レ止。……成都食レ人尤甚。強者聚二衆數百一。掠レ人而食。若レ屠二羊豕一然。綿州大學士劉宇亮少子。亦爲二強盜所一レ食。……男子肉毎斤七錢。女子肉毎斤八錢。塚中枯骨。皆掘出爲レ屑以食焉。

         六

 支那の雜劇、稗史、小説等のうちにも、人肉食用の記事の尠からざることは、有名なフランスの Bazin が夙に注意して居る(Chine Moderne. pp. 460, 461)。此等の記事を、その儘に事實として受取り難くとも、かかる記事の存在その者を、支那人間に Cannibalism の行はれた、一旁證と認めて差支あるまい。吾が輩はこの方面の智識誠に貧弱であるが、その貧弱な智識の中から二三の例を左に紹介する。
 元曲中に「趙禮讓肥」がある。王莽の末年に於ける天下騷亂の際に、趙孝、趙禮といふ二人の兄弟が、亂を宜秋山下に避けて、母親に孝養を盡して居つた。所が一日弟の趙禮が、馬武といふ盜賊の頭目の手に捕獲された。馬武は彼自身、
某今在二這宜秋山虎頭寨一。落草(ミヲオトシテ)爲レ寇。也(マタ)是不レ得レ已而爲レ之。毎二一日一要レ喫二一副人心肝一。今日拿二住一頭牛一。欲レ待レ殺二壞他一。
と告白して居る通り、この趙禮を料理して食に充てんとした。弟の不運を聞き知つた趙孝は、早速馬武の營下に到つて、弟の身代りに立たんことを哀求した。かくて馬武の面前で、趙孝、趙禮の兄弟が、身の肥痩を競ひ死を爭うた。さしも鐵心腸の馬武も、二人の友情に感動して、之を放免した。やがて東漢一統の世となると、馬武は用ひられて天下兵馬大元帥となり、彼の推擧で趙孝趙禮兄弟も、それぞれ出世するといふのが、この劇の筋書である(『元曲選』第二十九册參看)。この趙孝趙禮の墓は、今も直隷省昌平縣の西北の賢莊口にあるといふ(『光緒昌平州志』卷十)。趙孝趙禮の事蹟は『後漢書』に、
及二天下亂一。人相食。(趙)孝弟禮爲二餓賊所一レ得。孝聞レ之即自縛。詣レ賊曰。禮久餓羸痩。不レ如二孝肥飽一。賊大驚竝放レ之。謂曰可下且歸。更持二米糒一來上。孝求不レ能レ得。復往報レ賊。願レ就レ烹。衆異レ之。遂不レ害(卷六十九、趙孝傳)
と見えて居る。「趙禮讓肥」一劇はこの史實に本づくことがわかる。
 食人肉の風習の行はるる支那では、趙孝趙禮の如く、兄弟若くは父子夫婦の間に、肥を讓つた事例は必しも稀有でない。『後漢書』一書の中からでも、幾多の實例を擧ぐるに難くない。「趙禮讓肥」の作者秦簡夫と、ほぼ時代を同くする李仲義の妻劉氏の如きも、かかる代表の一人として擧ぐることが出來る。
劉氏名翠哥。房山人。至正二十年(西暦一三六〇)縣大饑。平章劉哈剌不花乏レ食。執二{李}仲義一欲レ烹レ之。……劉氏……涕泣伏レ地。告二於兵一曰。所レ執者是吾夫也。乞矜二憐之一。貸二其生一。吾家有二醤一甕。米一斗五升一。窖二于地中一。可下掘二取之一以代中吾夫上。兵不レ從。劉氏曰。吾夫痩小不レ可レ食。吾聞婦人肥黒者味美。吾肥且黒。願就レ烹以代レ夫死。兵遂釋二其夫一而烹二劉氏一。聞者莫レ不レ哀レ之。(『元史』卷二百一、列女傳)。
『演義三國志』第十九囘に、劉備が呂布の爲に小沛を陷られて、敗走の途中、獵戸の劉安の家に宿せし時、劉安は劉備にその妻の肉を進めたことを記して、
當下(ソノトキ)劉安聞二豫州牧至一。欲下尋二野味一供食上。一時不レ能レ得。乃殺二其妻一以食レ之。玄徳曰。此何肉也。安曰。乃狼肉也。玄徳不レ疑。遂飽食了一頓。天晩就宿。至レ曉將レ去。往二後院一取レ馬。忽見三一婦人殺二於廚下一。臂上肉已都割去。玄徳驚問。方知二昨夜食者。乃其妻之肉一也。
とある。
 また『隔簾花影』の第三十八囘に、南宋の岳飛が揚州を囘復して、かねて金軍の手先となつて支那人を虐待した、所謂漢奸の重なる者を捕へて處分した時の光景を描いて、
那時(ソノトキ)百姓。上千上萬(セントナクマントナク)。……走致二揚州府前。市心裏一。那裏等二得開刀一。早被二百姓們(ドモ)上來一。□一刀。我一刀。零分碎※[#「咼+りっとう」、177-10]去吃了。只落(ノコス)二得一個孤椿(ヒトツノポウ)一。※(シバラレテ)[#「糸+邦」、177-11]在二市心一。開二了※[#「月+堂」、177-11]一取二心肝五臟一。纔割二下頭一來。
とある。『水滸傳』には隨所に食人肉の記事が見えて、一々開列するに堪へぬ。その第十囘に、朱貴が梁山泊畔に酒店を開き、往來の富商を劫略することを記して、
輕則蒙汗藥(シビレクスリニテ)麻翻。重則登時結果(スグサマコロシ)。將二精肉一爲二※[#「羊+巴」、177-14]子一。肥肉煎レ油點レ燈。
とある。第二十六囘には張青夫婦が行人を殺害して、その肉にて肉饅頭を作つて販賣することを記して、
這等肥胖(コノフトツタヤツ)。好做二黄牛肉一賣。那(カノ)兩箇痩蠻子(ヤセタミナミシナジン)。只好做二水牛肉一賣。
といひ、その人肉料理場の有樣を描きて、
張青便引二武松一。到二人肉作坊裏一看時。見下壁上※(ハリ)[#「糸+朋」、178-1]二着(ツケ)幾張人皮一。梁上吊(ツリ)中着(サゲ)五七條人腿上。見二那兩箇公人一。一顛一倒。挺著在二剥人□上一。
といふ。第三十五囘に掲陽嶺の酒店裏で、宋江一行が、
如今江湖上歹人(ワルモノ)。多有。萬千好漢。着二了道兒一的。酒店裏下二了蒙汗藥一。麻翻了。劫二了財物一。人肉把來做二饅頭餡子一。
と取沙汰して居る。その第四十二囘に李逵が李鬼を殺害して、その肉を肴に食事する光景を描いて、
李逵盛レ飯來。喫了一囘。看着自笑道。好癡漢。放二著好肉一。在二面前一。却不レ會レ喫。拔二出腰刀一。便去二李鬼腿上一。割二下兩塊肉一來。把二些水一洗淨了。竈裏抓二些炭火一來。便燒。一面燒。一面喫。喫得飽了。
とある。

         七

 上來紹介した幾多の例證の明示する如く、支那人が古來人肉を食用した事實に就いては、何等の疑惑を容れぬ。さて更に一歩を進めて、支那人が人肉を食用する動機をたづねると、中々複雜で一樣でない。或は人肉を食して泥棒すると容易に發覺せぬといふ迷信(唐の段成式の『酉陽雜俎』卷九、盜侠篇參看)から來るものもあれば、或は金の元帥□石烈牙忽帶の如く、一部將の妻が、その與へし猪肉を食せざるを憤り、羊肉の如く見せかけて、之に人肉を食せしめて、自己の惡戲(いたづら)氣質を滿足せしむるもあれば(金の劉祁の『歸潛志』卷六參看)、更に唐の玄宗時代の宦官の楊思□の如く、自分の殘忍性を滿足せしむる爲に、罪人の心肝を取り、手足を截り、肉を割いて之を食ふものもある(『舊唐書』卷百八十四、楊思□傳)。されど比較的普通な動機は、大約(一)飢饉の時に、人肉を食用する場合、(二)籠城して糧食盡きた時に人肉を食用する場合、(三)嗜好品として人肉を食用する場合、(四)憎惡の極、怨敵の肉を□ふ場合、(五)醫療の目的で人肉を食用する場合の五種に區別することが出來る。以下一々の場合に就いて、少しく詳論して見たい。
 (一)飢饉の時人肉を食用する場合。
 申す迄もなくこの場合が一番普通である。所が支那殊に北支那では、頻繁に飢饉が起る。英國の Hosie が曾て Journal of China Branch of Royal Asiatic Society N.S. XII に Droughts in China from A.D. 620 to 1643 と題する論文を公にした。この論文は『欽定古今圖書集成』の庶徴典の旱災部の記事を資料としたもので、必しも完全なものとはいへぬが、しばらく之に據ると、この一千二十三年間に於ける五百八十三年は、旱災に罹つたといふ。水害も中々多い。この水旱の爲に飢饉の頻發するのも、亦已むを得ざる次第といはねばならぬ。一旦飢饉となると、交通の不便な支那では、穀物の價が想像以上に暴騰する。古代の支那に於ける米の價は一斗四十錢乃至五十錢を普通とし、最も賤き時は斗米一錢以下のこともあるが(『漢書』食貨志上)、最も貴き時は、斗米七八十萬錢にも達した(『通鑑』梁紀十七、太清二年の條)。平常より大約二萬倍の暴騰に當る。此の如き場合に貧民は到底生命を維持することが出來ぬ。
 支那には古く常平倉義倉等、備荒の用意が出來て居つて、已に Solayman もこの設備の良好なることを紹介して居る(Reinaud; Relation des Voyages. Tome I, p. 39)。されどこの設備も概していへば、名あつて實なきものが多い。現に唐時代の實際を觀ても、太宗時代に設置した義倉及び常平倉は、高宗時代より次第に壞れ、玄宗時代に一旦復興したけれども、久しからずして廢して居る(『新唐書』食貨志二)。故にこの方面より來る救濟の實效も表面程多くない。歴代の支那政府は、水旱毎に救恤を怠らぬが、中間に介在する官吏の私利によつて、上惠が多く下達せぬ。西漢の汲黯が專斷を以て、河内の倉粟を發して饑民を救濟した如き(『漢書』卷五十、汲黯傳)、明の王□が獨斷を以て、廣運倉を開いて饑民を全活した如き(『明史』卷百七十七、王□傳)、又『元史』に張養浩が私錢を出して饑民を賑恤したことを記して、
天暦二年(西暦一三二九)關中大旱。饑民相食。特拜二陝西行臺中丞一。……登レ車就レ道。遇二餓者一則賑レ之。死者則葬レ之。……時斗米直十三緡。……聞下民間有中殺レ子以奉レ母者上。爲レ之大慟。出二私錢一以濟レ之(卷百七十五、張養浩傳)。
といへるが如き、奇特な官吏もあるが、こは寧ろ寥々たるもので、その大多數は之を機會に中飽の慾を恣にするに過ぎぬ。後漢の獻帝の興平元年(西暦一九四)に、大饑饉が起つた時、獻帝は太倉の米豆を出して饑民を救助せしめたに拘らず、京師に餓□が續出した。之に疑惑を挾んだ獻帝は、その面前にて救恤の米豆を檢覈せしめて、關係官吏の不正を發覺し、その不正官吏を處罰してから、救助の實績が擧つたといふ(『後漢書』卷九、獻帝本紀)。之と類似の實例は、歴代の記録に疊見して居つて、一々列擧するに堪へぬ。兔に角朝廷の賑恤も、十分に下民に徹底せぬ場合が多い。
 以上の如き事情の下に、支那では大饑饉の時に、他國人の到底想像し得ざる程多數の餓死者を出す。比較的信憑すべき報道に據ると、道光二十九年(西暦一八四九)の凶荒には、一千三百七十五萬人が餓死し、光緒三四年(西暦一八七七―一八七八)の饑饉には、九百五十萬人が餓死したと傳へられて居る(Rockhill; Inquiry into the Population of China.{Smithsonian Miscellaneous Collections, Vol. 47, Part 3}pp. 313, 316)。されば大饑饉の時に、支那人の間に人相食といふ事件の現出するのは、當然と申さねばならぬ。最近民國九年(西暦一九二〇)に於ける北支那の饑饉には、諸外國からの救助も相當に行き渡つたから、人肉食用の蠻行は起らなかつた樣であるが、光緒四年の饑饉には、この蠻行が實現して居る(Williams; Middle Kingdom. Vol. II, p. 736)。
 上に紹介して置いた Hosie の論文に、唐初から明末に至る、約一千年間に於ける饑饉に伴つて起つた Cannibalism の事蹟をも注意してあるが、擧一漏九底のもので決して完全でない。支那でやや大なる饑饉があれば、Cannibalism が殆ど必然的に現出する。歴代正史の食貨志や、五行志に見える實例だけでも驚くべき程多い。正史以外の野乘隨筆等に散見する事例も、中々尠くない。饑饉に伴つて起る Cannibalism は、支那では餘りに普通で、態□列擧する必要を見ぬ。多數の實例の中より、二三の場合だけを左に掲げる。
建炎三年(西暦一一二九)山東郡國大饑。人相食。時金人陷二京東諸郡一。民聚爲レ盜。至下車載二乾尸一爲上レ糧(『宋史』卷六十七、五行志五)。
嘉定二年(西暦一二〇九)春。兩淮、荊襄、建康府大饑。斗米錢數千。人食二草木一。淮民※[#「圭+りっとう」、181-10]二道※[#「歹+菫」、181-10]一。食盡。發二□※[#「此/肉」、181-10]一。繼レ之。人相※[#「てへん+益」、181-11]噬(同上)。
嘉煕四年(西暦一二四〇)正月。臨安大饑。饑者奪二食于路一。市中殺レ人以賣。盜于二隱處一掠二賣人一以徼レ利。日未レ□。路無二行人一(『御批通鑑輯覽』卷九十二)。
 清の紀□の『閲微草堂筆記五種』所收の『如是我聞』卷二に、明末饑饉の際に起つた、人肉發賣に關する左の悲慘事を載せてある。
明季河北五省皆大飢。至二屠レ人鬻一レ肉。官弗レ能レ禁。有レ客在二徳州景州間一。入二逆旅一午餐。見下有二少婦一。裸體伏二俎上一。※[#「糸+朋」、181-17]二其手足一。方汲レ水洗滌上。恐怖戰悚之状。不レ可二忍視一。客心憫惻。倍レ價贖レ之。釋二其縛一助レ之。著レ衣手觸二其乳一。少婦□然曰。荷二君再生一。終身賤役無レ所レ悔。然爲二婢媼一則可。爲二妾□一則必不可。吾惟不三肯事二二夫一。故鬻二諸此一也。君何遽相輕薄耶。解レ衣擲レ地。仍裸體伏二俎上一。瞑目受レ屠。屠者恨レ之。生二割其股肉一臠一。哀號而已。終無二悔意一。惜亦不レ得二其姓名一。
 この記事は、支那人の Cannibalism に關する一材料たるのみならず、同時に支那婦人の貞操觀を知るべき屈竟の一資料と思ふ。昔楚が呉の爲に大敗して、楚の昭王は妹の季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182-5]――十四五歳位の少女――を伴ひて逃亡した時、か弱き季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182-6]は、從者鍾建といふ者に負はれて、難を避けた。難平いで後、季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182-6]の結婚問題が起るや、季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182-6]は鍾建に負れて、既に彼此接觸したから、鍾建の外に男子には嫁し難しと主張して、遂に鍾建に降嫁したことがある(『左傳』定公五年條、『資治通鑑』後周紀二參觀)。この季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182-8]と、かの失名の少婦との間に、その婦徳自から相通ずる所あると思ふ。

         八

 (二)籠城して糧食盡きた時に、人肉を食用する場合。
 食人肉の風習を有する支那人は、若し彼等が重圍の中に陷つて、糧食盡くる際には、人肉を以てその不足を補充するのが、古來殆ど一種の慣例となつて居る。さきに引用した『左傳』の宣公十五年の條に、楚が宋を圍んだ時の記事に、「易レ子而食」とあるを始め、同樣若くば、類似の記事が歴代の史料に疊見して居るが、しばらくその中の三四を左に紹介する。
 後漢の末に一代の義士臧洪が、袁紹の爲に雍丘に圍まれて食竭きた時、彼はその愛妾を殺して部下の將卒の食に充てた(『後漢書』卷八十八、臧洪傳)。梁の武帝が反臣侯景の爲に建康の臺城に圍まれた時、官軍糧食に乏しく、馬肉に人肉を雜へて飢を凌いた(『南史』卷八十、侯景傳)。唐の安禄山の賊軍が有名な張巡、許遠を□陽に圍んだ時、城中食竭くると、張巡はその愛妾を殺し、許遠はその奴僕を殺して士卒に饗した。『舊唐書』卷百八十七下、張巡傳に、當時の状況を次の如く描いてある。
攻圍既久(□陽)城中粮盡。易レ子而食。折レ骸而爨。人心危恐。慮二將有一レ變。{張}巡乃出二其妾一。對二三軍一殺レ之。以饗二軍士一曰。諸公爲二國家一。戮レ力守レ城。一レ心無レ二。經レ年乏レ食。忠義不レ衰。巡不レ能下自割二肌膚一。以啖中將士上。豈可下惜二此婦人一。坐視中危迫上。將士皆泣下。不レ忍レ食。巡強令レ食レ之。{許遠初殺二奴僮一。以哺レ卒}。乃括二城中婦人一。既盡。以二男夫老小一繼レ之。所レ食人口二三萬。人心終不二離變一。
 精忠義烈な張巡の後に、かかる悲慘な陰翳が伴うて居る。心ある支那人の中には、早く當時から張巡の不慈を非難した者も絶無ではないが(李肇の『唐國史補』卷上の李翰論張巡の條參看)、一般の支那人は、かかる所行を格別不人情とは認めぬやうである。
 唐末から五代にかけて、城守の際に、人肉食用の蠻行が頻發したことは、さきに紹介した『資治通鑑』の(5)(7)(11)(12)(13)(14)(16)等の記事に據つて疑ふ餘地がない。五代の趙思綰は、食人鬼として著聞して居るが、彼が長安で後漢の攻圍を受けた時の光景を、『資治通鑑』には、
趙思綰好食二人肝一。嘗面剖而膾レ之。膾盡人猶未レ死。又好以レ酒呑二人膽一。謂レ人曰。呑レ此千枚。則膽無レ敵矣。及二長安城中食盡一。取二婦女幼稚一爲二軍糧一。日計レ數而給レ之。毎レ犒レ軍。輙屠二數百人一。如二羊豕法一(後漢紀三、乾祐二年の條)。
と記し、『五代史記』卷五十三の趙思綰傳には、
{長安}城中食盡。{趙思綰}殺レ人而食。毎二犒宴一。殺二人數百一。庖宰一如二羊豕一。思綰取二其膽一。以レ酒呑レ之。語二其下一曰。食レ膽至レ千。則勇無レ敵矣。
と傳へて居る。
 蒙古の太宗が、金を伐ち、その國都□京を攻圍した時も、城民は饑餓に苦んだ。『歸潛志』の著者の劉祁は籠城者の一人として、當時の悲慘極まる光景を詳細にその書中に記載してある。
米{一}升直銀二兩。貧民往々食レ人。殍死者相望。官日載二數車一出レ城。一夕皆※[#「咼+りっとう」、184-6]二食其肉一淨盡。縉紳士女。多行二※[#「勹<亡」、184-7]于街一。民間有レ食二其子一。錦衣寶器。不レ能レ易二米升一。人朝出不二敢夕歸一。懼爲二飢者殺而食一。平日親族交舊。以二一飯一相二避于家一。……至二于箱、篋、鞍、※[#「檐」の「木」に代えて「革」、184-8]、諸皮物一。凡可レ食者。皆□而食レ之(『歸潛志』卷十一、録大梁事の條)。
 元末天下騷擾の際、張巡の再生と呼ばるる□不華が、淮安を固守すること五年に亙つたが、至正十六年(西暦一三五六)十月に城の陷る頃には、城中糧盡きて盛に人肉を食した。
賊{軍}……攻圍{淮安城}。日益急。{官軍}總兵者。屯二下□一。相去五百里。按レ兵不レ出。凡遣レ使十九輩告レ急。皆不レ聽。城中餓者仆二道上一。即取啖レ之。一切草木、螺蛤、魚蛙、燕烏。及□皮、鞍※[#「檐」の「木」に代えて「革」、184-13]、革箱、敗弓之筋皆盡。而後父子、夫婦、老穉更相食。撒レ屋爲レ薪。人多露處。……城陷。不華猶據二西門一力鬪。中レ傷見レ執。爲二賊所一レ臠(『元史』卷百九十四、□不華傳)。
これがその當時の記録である。
 その後約三百年を經て、明末の李自成が開封を攻圍した時の慘状は、更に一層甚しい者がある。當時の史料に『守□日志』がある。籠城者の一人李光※[#「殿/土」、185-1]の筆録したもので、備さに開封城中の糧食缺乏の有樣を傳へ、その崇禎十五年(西暦一六四二)八月初八日の條に、
人相食有二誘而殺レ之者一。有下群捉二一人一殺而分食者上。毎三擒二獲一輩一。輒折レ脛擲二城下一。兵民競取食レ之。至二八月終九月初一。父食レ子。夫食レ妻。兄食レ弟。姻親相食。不レ可レ問矣。
と記して居る。清初に出た大梁(開封)の人周在浚の『大梁守城記』には、同一事を一層詳細に傳へて、
{崇禎十五年}八月三日。五城巡兵倶割級。獻二周邸一。挾二重賞一。仍賣二民間一爲レ糧。一首率三四金。或云皆良民。四日。中丞勒二富民巨室一追二買糧一。初猶公擧輸勸。已而掲告。已而搜括。望二炊烟一而入。萬竈皆冷。……絶者折レ金。毎石八十金。至二一百二十金一。……毎レ至二一家一。以二大針數百一鑽二稚子膚一。鍛錬之方。極二其哀慘一。匿レ糧者。有司懸レ賞募レ告。……八日。人大相食。初猶食二死人一。死者戒不二敢哭一。至レ是有二誘殺強殺者一。九月初。則父子兄弟更相食。白骨載レ道。初猶熟食。後生食矣。……十六日。命二郷約一報二民間牛驢馬驢一。充二兵餉一。肉一斤。當二兵糧一斤一。五日而盡。……二十日以後。食二牛羊皮襖、靴箱、馬鞍一。……未レ幾人面皆腫。……城之五隅。皆有二鹽坡一。坡上生二蔓草一。民以爲レ美。爭攫之。以二絹布一網二紅蟲一。一斤獲二錢數千一。……糞蛆盈レ器。亦數百錢。盡則食二膠泥馬糞一。有二騎而過者一。※[#「てへん+綴のつくり」、185-13]捨而隨レ之。水蟲馬糞。皆□而食レ之。……九月初。城中※[#「此/肉」、185-13]骼山積。斷髮滿レ路。天日爲昏。存者十之一二。枯垢如レ鬼。河牆下敲二※[#「てへん+綴のつくり」、185-14]人骨一。吸二其髓一。
といふ。明末には可なり多數の宣教師が支那に入り來り、その若干は開封にも滯在し居つた。
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