支那人の食人肉風習
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著者名:桑原隲蔵 

(第五) 疾病治療の目的の爲に、人肉を食することである。唐の玄宗時代に陳藏器が、その著『本草拾遺』中に藥材として人肉を加へて以來、支那歴代の本草は、何れも人肉を藥材として取扱ふ。人肉を藥材として食用することは、唐以前に殆ど稀で、唐以後に限る。全く陳藏器が俑を作したものといはねばならぬ。かくて宋・元以來、父母や舅姑の病氣の場合、その子たり又はその嫁たる者が、自己の肉を割き、藥餌として之を進めることが、殆ど一種の流行となつた。政府も亦かかる行爲を孝行として奬勵を加へる。元時代にはかかる場合に、人毎に絹五疋、羊兩頭、田一頃を賞賜して旌表したといふ。
 雷同性に富み、利慾心の深い支那人は、この政府の奬勵に煽られて、一層盛に人肉を使用することとなり、弊害底止する所を知らざる有樣となつた。明の太祖はこの弊風を矯正する目的で、洪武二十七年(西暦一三九四)に詔勅を發して、今後股を割き孝を行ふ者に對して、一切旌表を禁止して居る。されど之も一時のことと見え、明・清時代を通じて、自己の股肉を割いて父母に進むることは、最上の孝行として社會に歡迎せられ、政府も亦多くの場合之に旌表を加へた。民國以後の支那の新聞にも、時々かかる行爲が特別に紹介されて居る。
 支那人の食人肉風習は、支那歴代の史料に記載されてあるのみでなく、同時に外國の觀光者によつて保證されて居る。唐末五代にかけて支那に渡航した、マホメット教徒の記録を見ても、その當時の支那人は人肉を食用し、その市場に於て公然人肉を販賣し、然も官憲は之に就いて何等の取締をなさざりしことが明白である。この古きマホメット教徒の記録を佛譯して、之を世間に紹介したフランスの東洋學者レイノー(Reinaud)は、この記事に疑惑を挾みて、當時支那は擾亂を極めた時代であるから、或は一時的現象として、かかる事實存在せしや知れざれど、恐らく之はマホメット教徒の訛傳で、事實でなからうと申して居る。然し之はレイノーが支那の實情に通達せざる故で、マホメット教徒の記事に何等の訛傳がない。元時代乃至明清時代に支那に觀光した、若くば支那に滯在した外國人の記録の中にも、支那人の食人肉風習を傳ふるものが尠くない。
 古代に溯つて稽へると、食人肉の風習は、隨分世界に廣く行はれたらしい。されど支那の如き、世界最古の文明國の一で、然も幾千年間引續いて、この蠻風の持續した國は餘り見當らぬ。南洋諸島の間には、比較的近代まで、食人肉の風が盛に行はれて居つた。北方民族の間にも、曾て食人肉の風が行はれて居つた。支那に於けるこの蠻風は、外國傳來のものであるか、若くばその國固有のものであるかは、勿論容易に決定することが出來ぬ。唯極めて悠遠なる時代から、支那にこの蠻風の存在したことは、記録によつて疑を容るべき餘地がない。
 日支兩國は唇齒相倚る間柄で、勿論親善でなければならぬ。日支の親善を圖るには、先づ日本人がよく支那人を理會せなければならぬ。支那人をよく理會する爲には、表裏二面より彼等を觀察する必要がある。經傳詩文によつて、支那人の長所美點を會得するのも勿論必要であるが、同時にその反對の方面をも、一應心得置くべきことと思ふ。食人肉風習の存在は、支那人に取つては餘り名譽のことではない。されど儼然たる事實は、到底之を掩蔽することを許さぬ。支那人の一面に、かかる風習の存在せしことを承知し置くのも亦、支那人を理會するに無用であるまいと思ふ。支那人間に於ける食人肉風習の存在は、決して新しい問題ではない。既に十數年前から Der Kannibalismus der Chinesen といふ問題は、多少歐洲學者の注意を惹いて居る。ただ彼等は文獻上から、十分にこの風習の存在を證明出來なかつた爲、今日に至るまで、未だこの問題に關する徹底した論文が、發表されて居らぬ樣である。
 私も最近二三年間、この問題の調査に手を著け、多少得る所があつた。その調査の結果全體は、遠からず學界に發表いたすこととして、今は不取敢支那人の人肉發賣といふ外國電報に促されて、古來支那に於ける食人肉風習の存在せる事實の一端を茲に紹介することにした。(大正八年四月二十七日)
(大正八年六月『太陽』第二十五卷第七號所載)



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