歴史上より観たる南支那の開発
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著者名:桑原隲蔵 

         三

 文化のみでなく、戸口・物力の上から觀察しても、南支那の開發の經路は、大抵同樣である。明代の『圖書編』や『續文獻通考』に據ると、天下の總戸數に對する南支那の戸數は、略左表の如き割合で増加して居る。
王朝  年代     (西暦)    割合
西漢  元始二年   (二年)    十分の一
西晉  太康元年   (二八〇年)  十分の三
唐   開元二十八年 (七四〇年)  十分の四弱
北宋  元豐三年   (一〇八〇年) 十分の五
明   隆慶六年   (一五七二年) 十分の六
 右は支那全體――南北支那に四川等の西支那を加へたる――と、南支那との戸數の比例である。若し南支那と北支那との戸數を比較すると、西漢の元始時代に、北支那の九百萬戸に對して、南支那は約一百萬戸に過ぎざりしものが、北宋の元豐時代には、北支那の五百五十萬戸に對して、南支那は八百五十萬戸、明の隆慶時代には、北支那の三百四十萬戸に對して、南支那は六百七十萬戸を算する。
 先秦から兩漢時代にかけて、繁華な大都會といへば、北支那に限つたもので、長安・洛陽は固より邯鄲(カンタン)(直隷省)、大梁(河南省)等、中々の景氣であつたが、南方の開發すると共に、揚州(江蘇省)、建康(江蘇省)さては杭州(浙江省)、蘇州(江蘇省)等、南支那の大都會の繁華が、次第に北方のそれを凌駕するに至つた。唐時代には揚一といふ諺がある。揚州の富庶全國に冠絶する意味である。南宋から元明時代にかけては、天上天堂、地下蘇杭といふ諺がある。蘇州と杭州との繁華が、天下第一に推された。北支那の諸都會は最早之に對抗し得なかつた。
 物力に關しても、『書經』の禹貢を見ると、支那古代の田地を、上の上より下の下に至る九等に區別してあるが、北支那の田地は、上等又は中等を占め、南支那の田地は、下の下とか下の中といふ劣等に位する。かく古代に於ける、南支那の田業は言ふに足らざる有樣であつたが、南方の開發するに從ひ、その農耕も進み、隋唐以後は、南支那が米穀の本産地として、北支那は却つてその供給を受けなければならぬこととなつた。即ち唐代には毎年約二百萬石、宋代には約六百萬石、元・明・清時代でも毎年三四百萬石ほど、南支那から米穀の供給を受けねば、國都を維持することが出來ぬ。
 支那の運河は、南方の米穀を國都へ漕送する目的の爲に、開鑿されたものが多い。故に長安・洛陽・開封・北京と國都の變更する毎に、自然運河の水道をも變更して居る。この漕運に故障が出來ると、國家の命脈に直接の影響が及ぶ。唐の徳宗の時、暫く漕運の阻絶せし爲め、長安は饑窮に迫り、不穩を極めたが、やつと南米が到達すると、天子は太子と共に、吾父子得レ生矣とて、祝杯を擧げられた。元の滅亡した一大原因は、江南の糧道を絶たれた故と傳ふ。明代の諺に、江(江蘇)浙(浙江)熟、天下足とある。支那全國の食料問題は、殆ど南支那の豐凶に據つて決する有樣といはねばならぬ。

         四

 南支那の開發は、秦漢時代からその緒につき、晉室の南渡によつて、急にその度を進め、唐・宋・元・明と歩武を續けて、遂に南方は文化・戸口・物力すべての點に於て、北方を凌駕することになつた。支那の學者は、この現象を解して、天運の循環、地氣の盛衰に歸して居るが、吾が輩の所見では、南支那の開發に預つて力ある第一の原因は、北支那には絶えず野蠻な塞外種族の侵入があり、之と共に優秀なる北方の住民が、次第に南支那に移轉したことに存すると思ふ。
 塞外種族は何時も北支那へ侵入し、また先づ北支那を占領する。北支那人は南支那人に比して、遙に長い年月の間、異族の支配を受けた。その自然の結果として、彼等との間に雜婚が行はれて居る。此等の理由により、北支那人は餘り異族を排斥せぬ。燕趙地方――大體に於て今の直隷省に該當する――に、悲歌慷慨の士の多かつたのは、秦漢時代若くばその直後の時代のこと、後世の事實はこの傳説を裏切つてゐる。金の世宗は曾て燕人に就いて、
燕人自レ古忠直者鮮。遼(契丹)兵至則從レ遼、宋人至則從レ宋、本朝(女眞)至則從二本朝一。其俗詭隨有二自來一矣。
と評した。この評は燕人に限らず、廣く北支那人一般にも通用することが出來る。絶えず異族の侵略に暴露されて居る北人には、此の如き冷淡なる態度――旅舍の主人が行客を送迎するが如き――も亦、一つの必要なる處世法であつたかも知れぬ。
 ところが南支那となると、頗るその趣を異にして居る。茲では以前から異族排斥の風氣が強い。南宋時代の學者は、當時北支那を占領した女眞種族の金に對抗する爲に、盛に尊王攘夷説を主張した。宋の蒙古に滅された時、また明が夷狄の滿人に併呑された時、支那の歴史に稀に見る程、忠義の士が奮起して、頑強に抵抗を試みた。この最後まで戰つた忠義の士は、大抵南支那人であつた。
 國家や種族を愛護する念がより強く、知識もより進んで居る、且つ物力のより豐富なる南支那人は、支那の前途に就いて、北支那人より重要なる位置を占むべきは申す迄もない。支那今後の興廢盛衰は、多く南支那人の發奮如何に關係することと思ふ。吾が輩は南支那人に對して、多大の期待を有すると共に、彼等がその重大なる責任を自覺して、支那人一流の徒なる悲憤や、空しき慷慨にのみ滿足せず、進んで中華民國興隆の爲め、積極的にして徹底的なる方法を採らんことを希望するのである。
(大正八年四月『雄辯』第十卷第五號所載)



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