晋室の南渡と南方の開発
著者名:桑原隲蔵
三
南北支那の文化發達の迹を達觀すると、明に三大時期に分つことが出來る。魏晉以前は北支那の文化が遙に南支那を壓した時代で、明清以後は南支那の文化が遠く北支那を壓した時代である。試に『後漢書』の儒林・文苑の二傳に、專傳をもつて居る六十四人――材料としては聊か不充分で、又不適當かも知れぬが――を本として、東漢二百年間に於ける人材分布の樣子を、今の地理に當てて調査すると、上の如き結果を生ずる。
北 南 南北以外
直隷 2人 湖北 2人 四川 7
山東 16 江蘇 1
河南 23 安徽 1
陝西 7 浙江 2
甘肅 2 江西 1
計 50 計 7
即ち北五省に産した人材は、南五省に産した人材の七倍以上に當つて居る。當時北方の文化が南方を壓した明證である。
飜つて『皇明通紀』の第十三卷に收めてある、會元(京師で擧行する會試の首席合格者)三及第(殿試の最優等者、すなはち状元・榜眼・探花の三人)總考を根據として、明の洪武四年より萬暦四十四年に至る二百四十五年間に出た、會元及び三及第者の總數二百四十四人――この統計は幾分不正確かも知らぬが――に就いて、當時の人材分配の状況を觀ると、全然趣を異にしてゐる。
北 南 南北以外
北直隷 7人 南直隷 66人 四川 6人
(今の直隷) (今の江蘇・安徽)
山東 7 浙江 48
山西 4 江西 48
河南 2 福建 31
陝西 9 湖廣 8
(今の陝西・甘肅) (今の湖北・湖南)
計 29 廣東 6
廣西 2
計 209
すなはち南方の人材は北方のそれに比して七倍以上に當つてゐる。北支那は最早明かに南支那の敵ではない。
漢の司馬遷が、
夫齊魯之閑二於文學一、自レ古以來其天性也(21)。
と評したのは、魏晉以前に於ては事實であるが、明以後には通用せぬ。清の乾隆帝は之に反して、
江浙爲二人文淵藪一(22)。
と評して居るが、こは明清時代には動かすべからざる事實で、然も魏晉以上には適當せぬ。要するに支那近代の學術について論ぜば、北は遠く南に遜り、古代の學術に就いて論ぜば、南は遠く北に遜る。是が山にも比すべき斷案である(23)。
支那の歴史は一面より觀れば、漢族の文化の南進の歴史ともいへる。魏晉以前は支那文化の中樞は北支那に在る。明清時代には南支那に在る。この間判然と鴻溝を劃して居る。魏晉以後の一千年は、正しくこの支那文化の中樞の移動する過渡期である。この過渡の門戸を開いたのが、晉室の南渡である。晉室南渡の最大意義は斯に存することと想ふ。
參照
(1)Richthofen;China,Bd.I.s.340-342.
(2)清の崔述の『崔東壁遺書』泗洙考信餘録
(3)『經史説林』所載、岡田正之氏の「支那の古代に於ける南北思想説に就きて」
(4)『漢書』卷六十九趙充國傳贊
(5)『後漢書』卷八十八虞□傳
(6)清の顧炎武の『日知録』卷三十一
(7)『孟子』滕文公上
(8)『史記』卷之七項羽本紀
(9)『資治通鑑』卷八十五晉紀七
(10)『後漢書』卷八十三徐穉傳
(11)『晉書』卷七十一陳※[#「君+頁」、読みは「いん」、147-11]傳
(12)『資治通鑑』梁紀十三陳紀五
(13)『晉書』卷百五石勒傳下
(14)『資治通鑑』卷一百一晉紀二十三
(15)『顏氏家訓』音辭篇
(16)『隋書』卷七十五儒林傳
(17)清の阮元の『※[#「研/手」、読みは「けん」、147-17]經室集』三集卷一所載、「南北書派論」
(18)『隋書』卷三十五經籍志四
(19)『資治通鑑』卷一百五晉紀二十七
(20)『舊唐書』卷二十八音樂志一
(21)『史記』卷百二十一儒林傳
(22)『史學雜誌』第十三編九號所載、市村博士の「四庫全書と文淵閣とに就いて」に引く所の乾隆帝四十七年七月の上諭
(23)『國粹學報』第一年學篇所載、清の劉光漢の「南北學派不同總論」
(大正三年十月『藝文』第五年第一〇號所載)
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