秦始皇帝
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著者名:桑原隲蔵 

         十二

 支那人は元來保守主義に囚はれて居る。「述而不レ作。信而好レ古」とか、「率二由舊章一」とか、彼等は一切の革新を罪惡視して居る。西晉時代に嘗て黄河に橋を架せんと計畫した時、堯舜すら實行せなんだといふ理由で、朝臣の多數が反對した。かかる國民の間に、始皇の如き革新的色彩を帶びた政治が、不レ師レ古底の暴政として排斥されるのは、已むを得ぬ次第である。
 支那人は又平和主義に囚はれて居る。天子守在二四夷一とか、王者不レ治二夷狄一とか、彼等は消極退守を以て、無上の安全策と信じて居る。昔舜が千羽を舞はして、三苗を來服せしめたのが、彼等の理想である。七徳の舞には首を俛し、九功の舞には顏を抗(あ)げるのは、魏徴一人に限らぬ。かかる國民が始皇の攘夷拓地を以て、兵を窮め武を涜すものとして、贊成せぬのも無理ならぬことである。
 秦の榮華は一朝であつた。始皇がその三十七年に、東南巡游中に病に罹つて崩御すると、その後を承けた少子の胡亥は、やがて宦者の趙高に弑せられ、孫の子嬰は間もなく劉邦(漢の高祖)に降つて秦は亡びた。萬世までもと豫期した始皇の望は絶えて、彼の崩後三年の間に、社稷覆るとは誠に悲慘な末路であるが、之が爲に始皇を輕重することは出來ぬ。帝政は約十年にして倒れても、ナポレオンの豪傑たることは否定出來ぬではないか。豐臣家は二世で滅びても、太閤の英雄たることは否定出來ぬではないか。人間の眞價は年月に在らずして、事業に存するのである。始皇は年五十、長生とはいへぬ。四海統一後の在位僅に十二年、むしろ短祚といはねばならぬ。しかし大なる事業をなした。驪山の陵が夷げらるることがあつても、長城の礎が動くことがあつても、支那史乘に於ける始皇の位置は確固不拔であらう。


始皇帝年譜西暦前   始皇帝     事      年齢  在位二五九年  一歳      始皇帝生る二四七年  一三歳     始皇帝位に即き國政を大臣に委ぬ二三八年  二二歳 九   ※[#「女+繆のつくり」、読みは「ろう」、526-4]※[#「士/毋」、読みは「あい」、526-4]亂を作す二三七年  二三歳 一〇  相國呂不韋を罷め始皇帝政を親らす 茅焦の諫を納る 逐客の令を下す 李斯の諫を聽く二三〇年  三〇歳 一七  韓を滅ぼす二二八年  三二歳 一九  趙を滅ぼす二二七年  三三歳 二〇  荊軻始皇帝を刺さんとして失敗す二二六年  三四歳 二一  秦將李信楚を伐つて失敗す二二五年  三五歳 二二  魏を滅ぼす二二四年  三六歳 二三  始皇帝王翦の言を納れ六十萬の大軍を發して楚を伐つ二二三年  三七歳 二四  楚を滅ぼす二二二年  三八歳 二五  燕を滅ぼす二二一年  三九歳 二六  齊を滅ぼして天下を一統す 皇帝專有の名稱を定む 諡法を除く 郡縣の治をはじむ 天下の兵器を沒收す 劃一の制を布き天下の文字を同くす 天下の富豪を國都咸陽に徙す二二〇年  四〇歳 二七  西北方を巡行す二一九年  四一歳 二八  東方を巡行す 泰山に登つて石を立つ 鄒□山・泰山・琅邪臺等の碑を刻す 南方を巡行す二一八年  四二歳 二九年 東方を巡行す 張良始皇帝を狙撃して失敗す 之罘の碑を刻す二一五年  四五歳 三二年 東北方を巡行して碣石門に刻す 秦將蒙恬匈奴を伐つ二一四年 四六歳  三三年 越人を征す 長城を築く二一三年 四七歳  三四年 焚書の令を下す二一二年 四八歳  三五年 阿房宮を營む 始皇帝その左右の密事を泄しし者を案問す 諸生を坑殺す二一一年 四九歳  三六  東郡の刻石事件起る二一〇年 五〇歳  三七  東南方を巡行す 會稽の碑を刻す 東方を巡行す 始皇帝崩ず(大正元年十二月七日稿)(大正二年一月『新日本』第三卷第一號所載)



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