秦始皇帝
著者名:桑原隲蔵
八
〔領土の膨脹〕 かく南に北に異族を攘うて土地を拓いた結果、始皇帝時代に於ける漢族の版圖は、空前に擴大された。儒者は唐虞三代を黄金時代と稱揚するけれども、その時代の漢族の勢力圈は、甚だ狹隘であつた。周時代でも、漢族の根據地の所謂中國は、黄河の左右に限られ、今の地理でいへば、大略河南省の全部と、陝西・山西・直隷・山東・湖北の一部に過ぎぬ。殊に白狄・赤狄を始め、犬戎・小戎・驪戎等の異族の、その間に雜居するもの多く、齊・秦・楚・呉・越等邊裔の國となると、言語風俗など隨分漢族と相違して居つたのである。秦の始皇帝が四圍の異族を攘うてから、漢族の勢力範圍は、周の初に幾倍し、その四十郡――もとの三十六郡に、後に拓いた四郡を加へて――の廣袤は、殆ど今の支那本部と大差なくなつた。
始皇帝の力によつて、空前の一大帝國が建設されると共に、秦の威名は遠く海外に振ひ渡つた。兩漢から三國時代にかけて、北狄でも西域でも、中國人を呼んで常に秦人というて居る。南海方面でも同樣であつた。西暦一世紀頃のギリシア人の地理書には、世界の極東の國をシナと記載してあるが、恐くは當時南海方面で、中國を秦と呼んだのを、極東來航の泰西の商賈達が訛り傳へたものであらう。シナといふ國號の起源に就いては、學者間に異説があつて、或は雲南地方の□國と結合せしめ、或は之を安南地方の日南郡に還原せしめて説明する人もあるが、皆採るに足らぬ。シナは必ず秦と關係せしめて解釋すべきものである。
シナ又はシニスタン(秦人の國の義)といふ名稱は、印度から中央アジア・西アジアへかけ、更に歐洲まで尤も廣く使用されて居る。支那又は至那等はシナの音譯、震旦又は振旦等はシニスタンの音譯である。漢や唐も國威四方に張つた結果、その國號は中國の代名として、外域に使用されたことがあるけれども、到底支那の如く世界的でない。秦の天下に君臨した年月は短かつたに拘らず、その國名は中國の國號として、不朽に傳へらるることとなつた。
九
如上の事實によつて考察すると、始皇は實に中國民族の爲に氣を吐いた者といはねばならぬ。外敵に對しては一意和親偸安を事とする、支那歴代の君主の間に在つて、彼は確に一異彩を放つて居る。支那四千年の外交史――屈辱的失敗的外交史――は、彼によつてわづかにその面目を維持し得たというても、甚しき誇張の言であるまい。
試みに秦以後の支那の外交史を達觀すると、漢の高祖は群雄平定の餘威を藉り、三十萬の大軍を率ゐて匈奴を親政したが、白登の一敗に意氣銷沈し、或は宗女を與へ或は金帛を遺り、ひたすら彼等の歡心を買うた。高祖の崩後、漢の君臣は專心この政策を襲踏して、如何なる匈奴の慢辱をも神妙に我慢して居る。この間武帝の如き一二豪傑の君主が出て、北狄征伐を行うたけれど、要するに九失一得、功は勞に酬ひずといふ有樣であつた。支那の史家は歴代の對異族策を評して、周は上策を得、秦は中策を、漢は下策を得たと評して居る。周は果して上策を得たか否かは疑問であるが、漢一代の對異族策は、始皇のそれに比すると、費は多くして功は尠いといふ事實を否定することが出來ぬ。
三國西晉以降は、五胡跋扈の時代で、無頓著な支那人すら、神州陸沈、華胄左衽と憤慨して居る時代であるから、事々しく茲に贅する必要がない。唐の太宗は古今の英主である。天下併合の後ち、異族に對しては、武斷主義を實施する素志もあつたが、當時の大臣の兵凶戰危の説に動かされて、遂に懷柔和親策を執ることとなつた。唐一代の間、四裔の君長に、請ふが儘に所謂和蕃公主を下嫁せしめたのは、この政策の結果である。「美人天上落。龍塞始應レ春」と詠はれた永樂公主も、「九姓旗旛先引レ路。一生衣服盡隨レ身」と詠まれた太和公主(?)も、皆この政策の犧牲となつた和蕃公主である。しかし貪婪□くなき夷狄は、通婚のみで羈縻されるものではない。朝に公主を送ると、夕に金帛を求むるといふ有樣であつた。結婚と贈遺とによつて異族を緩和して、その劫掠を免るるといふのが、漢・唐――漢族の國威の尤も揚つたと稱せらるる――を通じて、對異族策の大方針であつたが、結果はやはり不首尾で、羽檄の飛ぶことも、烽火の擧ることも、依然として減少することがなかつた。
宋に於ける契丹・西夏・女眞、明に於ける北虜・南倭の事蹟も、茲に絮説を要せぬ。元・清二代は、天下を擧げて異族の臣妾となつた時代、固より批評すべき限りでない。過去二千年の積弱累辱此の如しとすれば、この間に在つて、南は越人を服し、北は匈奴を攘つて、盛に殖民政策を實行した始皇は、確に中國民族の一大恩人といふべきである。殊に種族革命の成功した中華民國の今日、始皇こそ百代に尸祝さるべき偉人であるまいか。
十
私は已に始皇帝の内外の事業を敍述したから、茲に彼の人物に就いて一言いたさう。始皇は細心にして放膽なる政治家であつた。更に又よく己を虚くして人に聽き、衆に謀つて善く斷ずる政治家であつた。『史記』に始皇帝の政治振りを載せて、天下の事大小となく、皆自身で裁決して、臣下に委任せぬ。その日所定の裁決を終らぬと、夜中になつても休息せぬと記してある。或は之を以て彼が權勢を貪る故と、非難するのは間違ひである。主權を人に假さぬのは法家の極意で、刑名學を好んだ蜀漢の諸葛亮が、細事を親裁したと同樣、寧ろ始皇の勤勉細心なる證據とすべきである。
始皇は細心であると同時に大膽であつた。六國を滅ぼした彼が、如何にその遺族舊臣の怨府となつて居るかは、彼自身は萬承知して居る。前には荊軻の匕首閃き、後には張良の鐵椎が投げられた。尋常一樣の君主であつたら、必ず警戒して出遊せぬ筈であるが、彼は何等顧慮する所なく、連年巡幸を繼續した。支那流に膽斗の如しと讚しても差支なからう。
始皇は又世人の設想とは反對に、よく人の諫を容れた。二三の實例を示すと、第一が※※(キウアイ)[#「女+繆のつくり」、読みは「ろう」、522-10][#「士/毋」、読みは「あい」、522-10]事件である。※[#「女+繆のつくり」、読みは「ろう」、522-10]※[#「士/毋」、読みは「あい」、522-10]は太后の寵を負ひ、亂を起して失敗し、その黨與は皆重きに從つて處分せられ、太后もこの關係から雍の離宮に移された。この母后の處置につき、齊人の茅焦が死を冒して苦諫した時、始皇は殿を下り、手から茅焦を扶け起し、その諫を聽き、母を咸陽に迎へ取つて、舊の如く厚遇したことがある。
第二は逐客事件である。始皇は宗室大臣の意見により、他國の産で秦に來り仕へ居る者は、信用し難いといふ理由から、一切之を放逐することにした。この時楚人の李斯は上書して、逐客の利少く害多きを述べ、「泰山不レ讓二土壤一。故能成二其大一。河海不レ擇二細流一。故能就二其深一」の名句を陳(つら)ねたから、始皇は之に動かされ、已に歸國の途中に在つた李斯を召還して、逐客の令を撤囘したことがある。
第三は伐楚事件である。始皇は楚を伐たんとて、之に要すべき兵數の多寡を諸將に尋ねた時、李信は二十萬にて可なりといひ、王翦は六十萬を要すと答へた。始皇は李信に聽き、之に二十萬の兵を授けて出征させたが、却つて大敗した。そこで始皇は不面目を忍び、態□當時不滿を懷いて故山に歸臥せる王翦の宅を訪うて、再三その出征を懇願し、遂に楚を滅ぼしたことがある。
此等の實例を見ても明白なる通り、始皇はたとひ諫に從ふこと流るるが如しと迄の雅量はなくとも、過を飾り非を遂ぐる程狹量の人ではない。始皇の評に必ず引用される暴戻自用といふ語は、もと侯生や盧生が始皇を誹謗せんが爲に發した語で、之によつて始皇を評し去るのは、片言を過信するもので、酷といはねばならぬ。
十一
始皇が果斷の人であることは、故(ことさ)らに茲に申し添へる必要がない。天下統一の後ち、群臣の多數は封建再興を主張したに拘らず、彼は敢然として郡縣の治を行うた。文字の整理といひ、古典の處分といひ、尋常の政治家では、到底一朝に實行し得ぬ大問題を、彼は何ら遲疑する所なく斷行した。始皇が天下の共主となつたのは、僅々十年餘に過ぎぬ。この短年月の間に、比較的多大の事業を實行し得たのは、全く彼の果斷の賜である。
多くの偉人に普通であるが如く、始皇も亦豪華を喜ぶ性質を具へて居る。驪山の陵の如き、司馬遷の記する所、劉向の傳ふる所は、勿論幾多の誇張を加へてあるけれども、その規模構造が、厚葬の風の盛な當時にあつても、人の視聽を聳かしたのは事實に相違ない。爾後幾度の破壞發掘の厄を累ねて、頗る原形を損した現在の陵――見る影もなく荒廢して居るが――でも、猶方二百間、高さ十八間許りの宛然たる一阜丘で、當年の榮華を髣髴の間に認めることが出來る。其他咸陽の國都といひ、阿房の宮殿といひ、萬里の長城といひ、彼の計畫したものには、どこにか雄大の面影を存して居る。或はこの間に幾分、「不レ覩二皇居壯一。安知二天子尊一」といふ一種の政略も含まれて居つたかも知れぬ。
或は始皇帝の專ら刑法に依頼して、仁義を蔑視するのを非難する者がある。如何にも始皇には多少刻薄少恩の憾ないではない。しかし彼は法家の信者である。法家には仁義が禁物である。かく考へると、始皇が孔孟仁義の道を忽にしたのも、誠に已を得ざる次第といはねばならぬ。一體春秋から戰國にかけては、亂臣や賊子の輩出した時代で、君主の位置は甚だ不安であつた。そこで成るべく君主に多大の權力を與へて、油斷ならぬ臣民――人性を惡と觀ずるのが法家の説である――を威壓して、國家の安全を保つといふのが法家の主張で、この主張は孔孟の學説よりは、確に時代の要求に適して居つた。等しく儒學の正統と自稱せるに拘らず、孔子の主張した仁は、孟子になると義と變じ、荀子に至ると更に禮に變ずるといふ風に、儒家の教義が次第次第に具體的となり、又消極的となつて來たのは、全く當時の外界の事情に促された變化である。老子はその『道徳經』のうちに、
失レ道而後徳。失レ徳而後仁。失レ仁而後義。失レ義而後禮。
と述べて、この順序で世間が段々と澆季になるといふのであるが、不思議にもこの豫言が事實となつて現はれて居る。即ち老子自身は道と徳とを説き、次に出た孔子は第三の仁を説き、孟子は第四の義を、荀子は第五の禮を説いた。この次に今一歩進めて具體的消極的となるには、法律より外ない。この事情がやがて法家の起源を説明し、併せて始皇が法術に依頼して、天下を治めた理由を、説明し得ることと思ふ。
十二
支那人は元來保守主義に囚はれて居る。「述而不レ作。信而好レ古」とか、「率二由舊章一」とか、彼等は一切の革新を罪惡視して居る。西晉時代に嘗て黄河に橋を架せんと計畫した時、堯舜すら實行せなんだといふ理由で、朝臣の多數が反對した。かかる國民の間に、始皇の如き革新的色彩を帶びた政治が、不レ師レ古底の暴政として排斥されるのは、已むを得ぬ次第である。
支那人は又平和主義に囚はれて居る。天子守在二四夷一とか、王者不レ治二夷狄一とか、彼等は消極退守を以て、無上の安全策と信じて居る。昔舜が千羽を舞はして、三苗を來服せしめたのが、彼等の理想である。七徳の舞には首を俛し、九功の舞には顏を抗(あ)げるのは、魏徴一人に限らぬ。かかる國民が始皇の攘夷拓地を以て、兵を窮め武を涜すものとして、贊成せぬのも無理ならぬことである。
秦の榮華は一朝であつた。始皇がその三十七年に、東南巡游中に病に罹つて崩御すると、その後を承けた少子の胡亥は、やがて宦者の趙高に弑せられ、孫の子嬰は間もなく劉邦(漢の高祖)に降つて秦は亡びた。萬世までもと豫期した始皇の望は絶えて、彼の崩後三年の間に、社稷覆るとは誠に悲慘な末路であるが、之が爲に始皇を輕重することは出來ぬ。帝政は約十年にして倒れても、ナポレオンの豪傑たることは否定出來ぬではないか。豐臣家は二世で滅びても、太閤の英雄たることは否定出來ぬではないか。人間の眞價は年月に在らずして、事業に存するのである。始皇は年五十、長生とはいへぬ。四海統一後の在位僅に十二年、むしろ短祚といはねばならぬ。しかし大なる事業をなした。驪山の陵が夷げらるることがあつても、長城の礎が動くことがあつても、支那史乘に於ける始皇の位置は確固不拔であらう。
始皇帝年譜西暦前 始皇帝 事 年齢 在位二五九年 一歳 始皇帝生る二四七年 一三歳 始皇帝位に即き國政を大臣に委ぬ二三八年 二二歳 九 ※[#「女+繆のつくり」、読みは「ろう」、526-4]※[#「士/毋」、読みは「あい」、526-4]亂を作す二三七年 二三歳 一〇 相國呂不韋を罷め始皇帝政を親らす 茅焦の諫を納る 逐客の令を下す 李斯の諫を聽く二三〇年 三〇歳 一七 韓を滅ぼす二二八年 三二歳 一九 趙を滅ぼす二二七年 三三歳 二〇 荊軻始皇帝を刺さんとして失敗す二二六年 三四歳 二一 秦將李信楚を伐つて失敗す二二五年 三五歳 二二 魏を滅ぼす二二四年 三六歳 二三 始皇帝王翦の言を納れ六十萬の大軍を發して楚を伐つ二二三年 三七歳 二四 楚を滅ぼす二二二年 三八歳 二五 燕を滅ぼす二二一年 三九歳 二六 齊を滅ぼして天下を一統す 皇帝專有の名稱を定む 諡法を除く 郡縣の治をはじむ 天下の兵器を沒收す 劃一の制を布き天下の文字を同くす 天下の富豪を國都咸陽に徙す二二〇年 四〇歳 二七 西北方を巡行す二一九年 四一歳 二八 東方を巡行す 泰山に登つて石を立つ 鄒□山・泰山・琅邪臺等の碑を刻す 南方を巡行す二一八年 四二歳 二九年 東方を巡行す 張良始皇帝を狙撃して失敗す 之罘の碑を刻す二一五年 四五歳 三二年 東北方を巡行して碣石門に刻す 秦將蒙恬匈奴を伐つ二一四年 四六歳 三三年 越人を征す 長城を築く二一三年 四七歳 三四年 焚書の令を下す二一二年 四八歳 三五年 阿房宮を營む 始皇帝その左右の密事を泄しし者を案問す 諸生を坑殺す二一一年 四九歳 三六 東郡の刻石事件起る二一〇年 五〇歳 三七 東南方を巡行す 會稽の碑を刻す 東方を巡行す 始皇帝崩ず(大正元年十二月七日稿)(大正二年一月『新日本』第三卷第一號所載)
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