三人の師
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著者名:上村松園 

 楳嶺塾は京都新町姉小路にあって、当時幸野楳嶺といえば京都画壇というよりは日本画壇の重鎮として帝室技芸員という最高の名誉を担っていられ、その門下にもすでに大家の列に加っている方々もいられた。
 私はそれらのえらい画家たちに伍して一生懸命に、たった一人の女の画人として研究にはげんでいったのである。
 菊地芳文・竹内栖鳳・谷口香□・都路華香などという一流画家を門下に擁して楳嶺先生は京都画壇に旭日のように君臨していられたのである。

 同じ四条派の系統でも、松年先生の画風は渋い四条派で筆力雄渾だったが、楳嶺先生の画風は派手な四条派で、筆も柔かいものをお使いになり、艶麗で華々しく画面がとてもきれいに見えるのである。
 右と左ほどの相異のある先生について学んだ私は、またそこに悩みが生まれて来た。

 楳嶺先生の画風にしたがって描いているつもりでも、いつか松年先生の荒い癖が出てくるのである。柔かい派手な手法と、雄渾で渋い画風の二つがごっちゃになって、どうしても正しい絵にならない。落ちつきのない画ばかり出来上るのである。

 楳嶺先生はそのような不純な絵を悦ばれる筈はない。よい顔は一度もされない。
「これではいけない」
 私はあせって松年先生の画風をすてようとすればするほど画が混乱してくるのである。
 一時は絶望の末、絵筆をすてようとさえした。自分にはまっとうな絵をかく才能はないのではなかろうか、とさえ疑った。

 が、ある日ふと考えた。
 師に入って師を出でよ……と言われた松年先生のお言葉だった。
 そうだ――と気づくとその日から私は強くなった。
 松年先生の長所と楳嶺先生の長所をとり、それに自分のいい処を加えて工夫しよう。一派をあみ出そう。
 そういう思いに到達した私は、あく日から生まれ変ってその道をひらいて行ったのである。
 私は画をかくことが愉しみになった。両先生の長所に自分の長所と三つのものをプラスした画風――松園風の画を確立しだしたのはこのときからであった。

 楳嶺先生は門下の人たちに対しては実に厳格であった。
 姿勢ひとつくずすことも許されなかった。
「正姿のない処に正しい絵は生まれぬ」
 これが先生の金言だった。
 楳嶺先生の歿せられたのは明治二十八年の二月だった。
 師縁まことにうすく入塾後二年目で永のお別れをしなければならなかった訳であるが、私にとっては巨大な光りを失った思いだった。

 私の二十一歳の春であった、先生にお訣れをしたのは……
 しかし、その頃には、私も自分の画風をちゃんと身につけていたので精神的にはひどい動揺は来たさなかった。
 ただ、これから自分のまっとうな絵を見て貰えるという時にお訣れしなければならなかったことはまことに残念であった。

 先生の歿後、門人たちは相談の末に楳嶺門四天王の塾へそれぞれ岐れることになったのである。
菊地芳文
谷口香□
都路華香
竹内栖鳳
の四人の方のうち、私は栖鳳先生塾へ他の十数名の人たちと一緒に通った。

        竹内栖鳳先生

 松年先生、楳嶺先生を失った私は、昨年の秋最後の恩師竹内栖鳳先生を失った。
 楳嶺・松年の両大家を失った時以上の打撃を日本画壇がうけたことは言うを俟たない。

 栖鳳先生ほどの大いなる存在は古今を通じてはなはだその例が少ないであろうと思う。
 京都画壇の大半は栖鳳門下からなりたっていると言っても過言ではない。
橋本関雪
土田麦僊
西山翠嶂
西村五雲
石崎光瑤
徳岡神泉
小野竹喬
金島桂華
加藤英舟
池田遙邨
八田高容
森 月城
大村広陽
神原苔山
東原方僊
三木翠山
山本紅雲
「栖鳳先生の偉大さは?」
 と訊かれたら、以上の門下の名前を挙げればよい。
 あとは言うまでもない。古今を通じての偉大なる画人だと私は思っている。

 先生は常に写生をやれ写生をやれ――と言われた。
 画家は一日に一枚は必ず写生の筆をとらなくてはいけないと言われ、先生ご自身は、どのような日でも写生はおやりになっていられたようである。
 晩年はほとんど湯河原温泉にお住みになっていられたが、七十九歳という高齢でおなくなりになられるまで写生はなされたと聞いている。
 私などの縮図やスケッチに駈け廻るぐらい、先生の写生に較べると物の数にもはいらないのである。

 入塾した当時は、偉い門人の方が多かったので、私は「こりゃ、しっかりやらぬと――」
 と決心をし、髪も結わずに――髪を結う時間が惜しいので、ぐるぐるの櫛巻にして一心不乱に先生の画風を学んだり、先生のご制作を縮図したりしたものである。

 写生を非常にやかましく言われただけあって、先生の塾では、よく遠方へ弁当持ちで写生に出掛けたものである。
 私も女ながら、男の方に負けてはならぬ、と大勢の男の方に交って泊りがけの写生旅行について行ったものである。

 先生も厳格なお方であった。楳嶺門下四天王の第一人者であっただけに、楳嶺先生の厳格さを身に沁みこませていられた故ででもあろうか、楳嶺先生に劣らない正姿の人であった。
 しかしまた一面お優しいところもあって、ご自分の大作を公開以前に私たちによく縮図することをお許しになられたことなど、先生の大器量を示すものと言わねばなるまい。

 栖鳳以前に栖鳳なく
 栖鳳以後に栖鳳なし
 ――と誰かが言った。よく言った言葉だと私はそれをきいたとき私(ひそか)にうなずいた。

 栖鳳先生の伝記的映画がつくられるとき、どのように描かれるものか、たのしみである。




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