残されたる江戸
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著者名:柴田流星 

 声色は春の夜の朧月にも相応わしいが、夏より秋にかけての夜ごとに聞く銅鑼の音、「ええ、御贔負様如何? お二階の旦那! 何ぞ御贔負様を……」と又一つボーン!
「あ、こりゃァ、才助とやらァ……近うまいって下物いたせ」と、声もかからぬ中から二階を見あげて、「大盃」の一節をチョッピリ、折から通りかかった若者が景気をつけて、「川崎屋ァ!」とか何とか呼びかけると、本人得意になってグッと反り身になり、「そのさかなには此方に望みがある。そちが額の眉間の傷ゥ、この場の下物に物語りいたしえェ……」と、抑揚を際立つほどに川崎屋でゆき「ウウウこの傷はァ、ずぶろくぐでんに……いやなに、めいていな仕りまして、石に跪き倒れし折柄……」と高島屋とのかけ合いにまで及び、「あいや才助ェ、そちゃこの直高を愚昧と思うか、やさ、盲目と見たかァ……千軍万馬の中往来なし、刀傷か槍傷かァ、それ見わけのつかぬ直高と思うやッ!」……と、まで来ればお二階の旦那なるもの御贔負様を一つ何々と御意遊ばさぬことはない。よし旦那にして御意遊ばさぬとしてからが、ねえ貴方や! と、おねだりの出るのは定で、いずれにしてもその続きか然らずは音羽屋の弁天小僧、成田屋の地震加藤なんど、どのみち一つ二つの仰せは承わられる。芸が身を喰う生業なればか、ここに至って本人無上の光栄に感じ、慾徳を離れての熱心は買ってやるところなるべし。
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 十五夜と二十六夜



 秋の月見は八月の十五夜、今も都は芋芒を野にもとむるに及ばず、横丁の八百屋におさんを走らすれば、穂芒の多少は好み次第、里芋も衣かつぎ芋も、栗も、枝豆も、走りを賞する人々が客なる商売物、何一つ揃わぬことなく、月見団子の餅の粉まで、乾物屋へ廻らずともなので、宵には万の供物もととのい、二階座敷に打ちつどうての月待ち、武蔵野の月は昔に瓦屋の唐草を出て唐草に入るまで、さ霧の立ちこむる巷に灯影淡く、折々は人を休むる雲の光りを奪うとも、一楼の明月に雨はじめて晴ればれと、且つ語り且つ喰うて枝豆をつくし、栗を殻ばかりにして、衣かつぎ芋の蛻(ぬけがら)、遠慮のかたまり二つ三つと共に器に山を築く。
「オヤ、ま随分だわねえ。もう皆んなよ」と娘まず驚けば、「そんなに喰べて、お嫁にでもいってたら離縁ものだよ」なぞと母親もまだ何かに手を出しそう。
「僕なんかお嫁に行くんじゃなし、大丈夫だァ」と男の児の手はなお残りの団子に及ぶ。蓋し江戸ッ児には花にも月にも団子なるべきかな。
 二十六夜の月待ちは、鬼ひしぐ弁慶も稚児姿の若ければ恋におちて、上使の席に苦しい思いの種子を蒔く、若木の蕾は誘う風さえあれば何時でも綻びるものよ、須磨寺の夜は知らずもあれ、この夜芝浦、愛宕山、九段上、駿河台、上野は桜ヶ岡、待乳山、洲崎なんど、いずれ月見には恰好の場所に宵より待ちあかして、更くるに遅い長夜も早や二時を過ぎ、三々五々たる人影いよいよ群をなして、かかる砌(みぎり)にも思う人は出来るものぞとか、月いでて後の帰るさに、宵までは見ず知らずの男と女とが、肩をつらねて語りつつ行くもおかし。さても都人は気楽なとムザとは嗤いたもうな、江戸ッ児はザックバランでもそうした出来心の恋にはおちず、前々に月待ちのこの夜落いる箇処の約束はしても、今までに見も知りもせぬ男おんなのいたずら事、大方は都へかりそめに来ている人々の鎮守の祭りに振舞うと一斑で、かかるは吾儕の苦々しくおもうところだ。
 何がさて、今の若き人々の飯ごとなる恋というもの、江戸ッ児にはただ危っかしくてあぶなっかしくてよそごとながらいろいろ思うとは、頭の禿げた江戸の残党が口癖のようにいうこと。それもこれも畢竟は苦労が足らぬからのことで、かくての取締り故に様々な御法度が出来て、江戸趣味を滅ぼしゆかんこと、何ぼうの憾みか知れないことだ。
 然り今の有様では二十六夜待ちの禁止も、あるいはまた出まいものでもなし。恋というもの、するならばするで、せめてそれらしい恋をしては下さるまいか、つまらぬことで江戸趣味をなくしたくないものだて!
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 細見と辻占売り



 都は夜の巷に細見売りの姿を見ること、今はほとほと少うなった。たとえば月待つほどの星の宵に、街灯の光りほの暗い横丁をゆく時、「新吉原ァ細見。華魁(おいらん)のゥ歳からァ源氏名ァ本名ゥ職順※[#小書き片仮名ン、176-4]まで、残らずゥわかる細見はァいかが――」
 その声を最も多く耳にしたは浅草の千束町から竜泉寺筋、余は浅草の広小路にも上野の山下にも折々に見聞きしたものだが、近頃は大門を入ってからでなくば容易に姿すら見かけず、神田から九段下、牛込見附界隈にこれをまのあたりせんことは最早過ぎし夢となり果てた。さるにてもこの細見売りというもの、当時は何処に何を生業とすることやら……。
 聞けば今の絵葉書売りというもの、その一部は昔細見を売りあるいた男とやらで、如何に流行なればとて、縁日の露店に、実はよりどり五厘から一銭二銭の安絵葉書商うだけでは、腹も懐も温くはならず、さればその懐に忍ばせたもの、懐炉温石のたぐいにあらずして十二枚一組の極彩色、中なるは手易くあけて見せずに、客を択っても怪しい笑顔「へえ如何です」なぞは五十歩百歩かは知らぬが下りはてたもの、変れば変るものだと昔の若い人が妙に感心していた。
「河内瓢箪山稲荷辻占」恋の判断を小さな紙に記して、夜長の伽(とぎ)に売りあるく生業、これも都にフッツリ影を留めずなって、名物かりん糖の中に交れるを買って見るなど、今は恋にも喰意地がついてまわるとは情ない限りだ。
 彼の辻占売りあるく男の、チラと見た怪し姿に、一声高く「恋のゥ辻占ァ――」と呶鳴っておいて、俄に変る股だち腕まくり、新派にはよくある型だが、曾ては刑事のこれ化けたも真実にあるとか、人間というもいつも芝居ッ気を放れぬところが頼もしいと此方とらは思う。
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 おさらい



 長唄、清元、常磐津、さては歌沢、振り事など、歌舞の道にお師匠さんたるもの、互いに己が弟子の上達を誇りに、おさらいというもの、多くは秋の長夜を利して催すが例である。
 設けの席は弟子の多寡にもよるべく、貸席、しもた家、乃至はまたお師匠さん自身の家、招く人の数に準じて座敷幾つかを打ちぬきにし、緋毛氈に飾られた高座を正面に、紫の幔幕結いまわし、それへかけつらねたビラ幾十枚、それもこれも数の多いが自慢で、若い娘達の□々という声、花も蕾のかれらにはいつも心長閑にして春のようなであろう。
 秋のおさらいは昼よりも灯する頃より夜と共に興闌(たけなわ)なるがつねだ。彼の銀燭に蝋燭の火ざし華やかに、番組も序の口を終ったほどから、聴衆も居ずまいを直して耳傾くれば、お師匠さんの身の入れ方も一倍深くなって、三味線の音色撥さばき諸共に冴え、人々の心次第に誘われてゆく。
 弾き語りもすんで、立唄、立三味線、高座にずらりと並居てのおさらいは、その日の呼び物だけにグッと景気づき、後見にまわったお師匠さんの気の張りも強くなる。
 こうして一わたりすむと中入りには菓弁寿の御馳走、娘達はお世辞の言いくらやら、申訳のしあいやらで、小鳥の百々囀(さえず)り、良時はただ喧ましく賑わしく、さて再び柝を入れると俄に鎮まりかえって満場ただ水を打ったよう……と見るもほんの一ト時すぐに又どこやらでヒソヒソ話が始まって、それが彼方此方へと移ってゆく。
 それよりして千秋楽までは代稽古するほどの腕前揃い、ツイその撥に咽喉に魅せられて帰るさは酔ったよう。勿論おみきの利目も少しは手伝っておることと知るべきだ。
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 常磐津、清元、歌沢



 江戸趣味の音楽として、吾儕は先ず常磐津をその一つに数え、次いで清元、歌沢をあげたいと思う。
 長唄は植木店の家元といい、分家の岡安一派まで、いずれ江戸ッ児ならぬはないが、趣味の上からは、チト野暮なを如何せん。
 さるにても常磐津といい清元といい、年々に名人の病衰して亡びゆくこと、時にとっての何ぼうの損失であるよう……。
 昔者は霜白き旦、さては風冴ゆる夕べの火の見などに出て、温めねば鼓さえ凍るほどなを、手に覚えのなくなるまでも寒稽古励んで腕を研き、互いに名人の域に達せねば止まじと振舞うたので、この道の達者世に続出して、自ずとこうした趣味の普及もなりはしたが、今はさばかりに芸道に出精の者もなく、趣味も漸く廃れゆくこそ却々(なかなか)に口惜しい。
 歌沢とても芝金の一派、寅右衛門の一派など両々腕を競えど、未だ技の疇昔(ちゅうせき)に及ぶものなく、今し音曲の江戸趣味はこれらには残れ、どうやら灯将に尽きんとして更に明を加うというような感がしてならぬ。
 入神の妙技はさて措くとしても、これも残された江戸趣味の一つとして見れば、実はここらからその復興を企てて、新しい江戸を東京の今にものしたいものだと、まァさ、折角そんなに思っているので、こちとらは随分椽の下の力持ちもしてえる奴さ。どうですえ、親方とか太夫とか、乃至は師匠とか言われてござる御仁、もちっと、何と骨を折って見てくれる気はねえものか知らんて!
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 お会式



 毎年陰暦十月十三日、祖師日蓮の忌日を卜して執行の法会をお会式とはいい、宗徒は又おめいこうとて本山に参籠する。池上の本門寺、堀内のお祖師様など、江戸以来の霊場で、遠くは中山の法華経寺へも出かける。
 この御会式、昔者(せきしゃ)は今よりも荘厳にものされた代りには、お籠りの男女、夜暗に互いのおもいを通わせ、日頃の恋をその夜に遂ぐるなど、とんだ粋ごとも行われて、あんまり一貫三百ただ取りでもなかったらしく、団扇太鼓の響きと共に、それよりして浮名の立ち初むるも多かったが、今は風俗上の取締り行届いて、この霊場を汚さんもの、皆無とはあるまいが大方尠うなった。
 それ江戸ッ児の気勢いは御祭り騒ぎにしくものなく、妙法蓮華経の功力心願、それもこれも団扇太鼓の音、大万灯の賑わいに誘われてのこと、とばかりでは一向有難味も薄うなる勘定だが、案外に江戸ッ児は正直なところもあって、堂に詣って数珠爪繰る時には、一ト通りの敬虔と尊崇と帰依とを有し、南無妙法蓮華経の唱名も殊勝である。
 但し往くさ来るさの講中の気勢、団扇太鼓の拍子どりして歩む時には、ただそれ無我夢中で、遠い路が苦になるでもない。
 殊におかしいは他宗他門の人々、このお会式にも見物を怠らず、本門寺への沿道はかかる群にも賑わって、さて本堂前の賽銭箱には、同じく喜捨のお鳥目を吝(おし)まず、搗(かて)て加えては真宗の人も、浄土の人も、真言、天台、禅、曹洞、諸宗の信徒悉く合掌礼拝、一応の崇敬をば忽(ゆるが)せにせず、帰りには名物の煎餅、枝柿の家苞(いえづと)も約束ごとのように誰れも忘れてゆかぬこそ面白い。
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 菊と紅葉



 菊は赤坂御苑なるを最とし、輪も大きく類も多いが、一般衆庶の拝観をゆるされず、したがって上下貴賤の区別なく、誰をでも千客万来、木戸銭取って自由に見せるのは相も変らず団子坂。今も活人形の大道具大仕掛けに、近年は電気応用という至極手数のかかった甘いことが流行り出して、一幹千輪の珍花よりも、舞鶴、千代の里、白楽天などの銘花よりも、歌舞伎好みが百人向きで、染井の植木屋が折角の骨おりも何の役に立たず、花の君子なるものと賞された菊も、徒に瓦礫の間に余生を送る姿、なんぼう口惜しい限りだろうか。
 紅葉は吹上御苑の霜錦亭より眺むるもの、大江戸以来随一とせられておるが、これとても一般の拝観は思いもよらず、次いで新宿の御苑、赤坂の離宮なるも色渥丹の如く頗る賞すべきか。その他では麹町の山王、靖国神社、小石川の後楽園、芝の山内などで、その余に人々のゆくとしてゆくのは王子の滝の川最も近く、品川の海晏寺なるは温暖の南を受けて至極よさそうだが、存外に色づきが遅い。
 しかし紅葉は如何なことにも負けおしみして力んではいられず、塵埃に汚れたドス黯いのを見ようよりは遠く秩父の渓間か、高雄山にこれを探るによろしく、これだけは大自慢の江戸ッ児全体が夙(はや)くから遺憾としておるところだ。
 かくいう某も実はその残念におもう一人で、京の女にはさのみも驚かなんだが、紅葉だけは何故ああした美しい色に出ぬのかと、熟々(つくづく)いやになってしまった。学者に言わしたら恐らくは気候の工合、水蒸気の加減にもよるべく、更には紅塵の多少、地味の如何にも関係すると鬚髯を撫してただ微笑するのみだろう。
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 酉の市



 酉の市は取りの市、掃き米はき込めの慾の皮がつッ張った連中の、年々の福を祝うてウンと金が儲かるようと、それさに肩摩轂撃(こくげき)、押すなおすなの雑沓を現ずるのだが、何がさて、大慾は無慾に近く、とりにゆくのはとられにゆくので、鷲(おおとり)神社には初穂をとられ、熊手屋には見すみす高いものを負けろとあっては縁起にかかわるので、景気よくシャンシャンシャンと手を打たれて、まるでただとりされるような金をとられ、場所が吉原田圃で太郎稲荷にも近ければ、狐ただとりは千本桜にも因みがあり、その千本が縁起だと嬉しがる手合いも尠からず、罪のないことこの上ない。
 こうして帰るさは吉原病院の非常門から花の江戸町、京町や柳桜の仲の町、いつか物いう花のチリツテシャン、呑めや唄えの大陽気に、財布の紐も心と共に解けはてて、掻き込めかきこめの鷲掴み、とうとう一文なしに掴みどりされて、気がついた時にはお預りの熊手一つ、お近い中にと親切そうに言われて、二の酉に裏をかえす連中、これでも慾の皮がつッ張っているのかと思うと可笑くておかしくてならない。
 されば酉の市は先様がとりの市、こっちはとられまちで、どの道金に縁の薄い江戸ッ児には、宵越しをさせたくもこの始末なので及びもつかぬこと、それでも一かどの福運を得る気で、眼前とられにゆくを甘んずるなどはとうてい江戸ッ児以外の人には馬鹿気切ってて嘘にも真似の出来たものではない。
 殊には熊手の腹に阿多福のシンボル、そもそも誰が思いついての売りはじめやら、勿体らしく店々の入口、さては神棚の一部に飾られたこれら江戸ッ児の象徴を見る時は、情ないよりは寧ろその稚気を愛すべきだ。
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 鍋焼饂飩と稲荷鮨



 霜夜の鐘の凍るばかりに音冴えて、都の巷に人影のいよいよ疎なる時、折々の按摩が流しの笛につれて、遠くより聞え来るもの、「鍋焼ァき饂飩※[#小書き片仮名ン、198-4]、え饂飩やァい――」と、「稲荷ァりさん、え、いなァりさん――」の声なるべし。
 もしそれこの合の手として犬の遠吠えを加うれば、冬の情景ここにつくされて、限りなき淋しさを味うことが出来る。
 されば夜なべの気も惓んじた頃、戸外に一度この声を聞く時は、狐窓から呼び止めて熱いのをと幾つか誂える。心得て枝炭新たにさしくべ、パタパタと急しく渋団扇ものせば、忽ちにパチパチと勇ましい音して、お誂えの数は揃う。
 凡そ鍋焼饂飩は吹きふき喰べるような熱いのを最も賞美する。故に立ちのぼる湯の気の中に顔をうずめて箸を運ぶ時、三ッ葉あり蒲鉾あり、化粧麩、花がつおなど、いろいろの種物にまじわれば、丸三の安饂飩も存外に旨く味われて、食通も時に舌鼓を打つぞおかしい。
 稲荷鮨は元来がおこんこ様好み。麻の実、萱の実、青昆布などの扱(あし)らいに、ツイ騙されて南京米をも知らずに頬張るが、以前はそんな吝(けち)なのはなかったものだ、憚(はばか)んながら今でも千住の鈴木まで買いにゆくなら、ころもにしてある油揚も別製なれば、種物も米も吟味に吟味してある。殊に掻きたての辛子さえ添えてくれるには誰しもここに限ると御意遊ばすも無理ならぬこと。態々稲荷鮨くらいにと、電車すら通う便利な世になっても、まだ買いにも喰いにも行かないという人々には、のっけからお話も何も出来ないことだ。ここいらの心持ちも、実ァ口で言うだけじゃァ解らないが、早く言やァ江戸ッ児の気分なのだ。
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 からッ風



 武蔵野は筑波颪(おろし)のからッ風、秋の暮から冬三月を吹いてふいて吹きとおして、なお且つ花さく日にも吹きやまず、とかくして三春の行楽をも蹂躙(ふみにじ)ろうとすること必ずしも稀らしくはない。
 大江戸以来の名物も数多い中に、このからッ風は今に毛ほども相変らずで、しかもこの風時々に悪戯をなすこと限りなく、通りすがりの若い女の裳を弄び、おこそ頭巾の後れ髪を苛むなぞはまだしものこと、ややともすればジャアンと打ッつかったが最後、大江戸を唯一呑みと赤い舌を吐いて、ペロリペロリそこら中を嘗めまわす。江戸の花だと気勢う連中も、災の我身に及ぶ時は敢えてそうした呑気ばかり言ってはおれず、それというより死力を尽してこれと闘わねばならないので、夜々のからッ風に火の元を用心し、向島は秋葉神社の護符を拝受して台所の神棚に荒神様と同居させるなぞ、明暦以来は一層懲りに懲りているので、用意周到行きわたらざる隈もない。
「ああ又いやに吹きやァがるじゃねえか。今夜あたり、ジャンと来なきゃァいいが」なぞと言う晩には妙に神経も昂ってきて、器物の音にも耳を聳てる。
 されば向島の秋葉様は十月の十七、十八という、そろそろ人の懼気(おじけ)づく頃に例年の大祭を執行し、火防の御幣を広く参詣の人々に頒つこと、考えれば抜け目のないことである。
 しかしながら半鐘の音という奴、いつ聞いても余り気味のいいものでなく、正月の消防出初式に打つのでも、それと知りつつ妙に気が噪いでくる。江戸ッ児の好くのはただこの興奮一つからで、火事場の弥次馬も全く噪ッ気からとはさもそうずさもあるべきである。
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 納豆と朝湯



 霜のあしたを黎明から呼び歩いて、「納豆ゥ納豆、味噌豆やァ味噌豆、納豆なっとう納豆ッ」と、都の大路小路にその声を聞く時、江戸ッ児には如何なことにもそを炊きたての飯にと思立ってはそのままにやり過ごせず、「オウ、一つくんねえ」と藁づとから取出すやつを、小皿に盛らして掻きたての辛子、「先ず有難え」と漸く安心して寝衣のままに咬(くわ)え楊枝で朝風呂に出かけ、番頭を促して湯槽の板幾枚をめくらせ、ピリリと来るのをジッと我慢して、「番ッさん、ぬるいぜ!」、なぞは何処までもよく出来ている。
 それよりして熊さん八公の常連ここに落合えば、ゆうべの火事の話、もてたとかもてなかったとか、大抵問題はいつもきまったものだ。
 次いで幾許もなく寄席仕込みの都々逸、端唄、鏡板に響いて平生よりは存外に聞きよいのを得意にして、いよいよ唸りも高くなると、番頭漸く倦(うん)ざりして熱い奴を少しばかり、湯の口にいた二、三人が一時に声を納めて言いあわしたように流し場へ飛出すと、また入れ代って二、三人、これに対しても番頭の奥の手はきまったものだ。
 とかくして、浴後の褌一つに、冬をも暑がってホッホッという太息、見れば全身宛(さなが)ら茹蛸のようだ。
「どうでえ、よく茹りやがッたなァ」
「てめえだってそうじゃねえか。これで肥ってりゃァ差向き金時の火事見めえて柄だけどなァ――」
「金時なら強そうでいいや」
「へん、その体で金時けえ――」
 肚の綺麗なわりに口はきたなく、逢うとから別れるまで悪口雑言の斬合い。そんなこんなで存外時間をつぶし、夏ならばもうかれこれ納豆売りが出なおして金時を売りにくる時分だ。
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 歳の市



 深川八幡に始まって、浅草観音、神田明神、芝の愛宕、平河天神などを歳の市の数え場所とし、他は西両国の広小路、銀座通り、四谷伝馬町、赤坂一ッ木など、最寄りもよりになお幾つもある。
 就中(なかんずく)観音の市では羽子板の本相場がきまり、明神の市では門松の値が一定する。その他愛宕の市で福寿草の相場がすわり、天神の市で梅の値を確実にするなど、今も昔に異ならず、これにも景気と気勢いとが肝腎である。オット忘れた、深川のは調べの市というそうな。
 江戸ッ児は何につけても担ぐとて嗤いたもうな。ケナせば元来が門松だの飾り藁だのというもの、実はあってもなくてものもので、そを縁起まで祝うて年迎えのしるしとせんことは、理屈や議論ではとうていお話にならぬこと、ただそれその心持ちが第一である。
 さればいずれの歳の市にも、ダラダラの大晦日まで続いたところが、門松だけは二十九日までに遅くとも立ててしまい、一夜飾りはせぬものと老人の注意を、誰しも正直に守って疑わず、どういうわけと念を押すなぞは決しておくびにも出さない。
「めんどくせえやな、悪りいてえから悪るけりゃしねえまでよ、なァ、人の嫌がることをしねえたて、こちとらァそれでよゥく日も経ッてかァな」
 江戸ッ児の気分はただそれ如此(かくのごとく)である、ただそれ如此である、無邪気と、ザックバランと、人を嫌がらせねえのと、遠慮会釈がないのと、物事がテキパキしておるのと、これらを除いてはかれの生命なるもの殆んど他にこれあるを知らぬ。乞う叙べ来った一つひとつに、吾儕の繰返して以上を説いたことを、何分どうか味って見て頂きたいもので……。
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 大晦日



 年の瀬の流れながれていよいよおしつもった大晦日、三百六十五日の最終の日にのぞんで、ああまた空しく一年を過ぐしたと嘆ずるは愚痴、そらほどなら毎度のことでもあり、先の先まで見えすいておることを、今更の後悔でもあるまいと、江戸ッ児はそんなことより年忘れ、まず何はともあれの、一杯機嫌で、御厄払いましょう、厄払いになにがしかを包んで、諸々のまがつみを西の海! それで気もサラリとして払いも掛けも勘定万端を早ァくにすませ、朝でなくとも熱いピリリとする奴に一風呂入って、今茲(こんじ)の垢をも綺麗さっぱり、アア正月が待ち遠しいとは自慢でばかりは言わぬ。
 されば夜に入っては梅の一鉢も冷かしてきて、福寿草の根じめに植えたるを択び、搗きたてのおすわりと共に床の間に飾り込み、今更におすわりの大なるを喜んで、今年のは去年のよりも一寸からあると北叟笑む時には、天下これより快なることはなく、心ひそかに来るべき年の福運を祝して有難てえやと軽く額をたたく。
「オイ、おッかァ! 福茶がへえったら持って来や!」
とはいつにない優しい声、女房も遉(さすが)にその声を聞くとき嬉しからぬということなく、アイと素直に福茶を運び来て、「ねえお前さん、今夜こそは除夜の鐘を聞こうじゃありませんか。百八つでしたね」と睦まじいものなり。
 こうして歳の大晦日はいつも夜あかし、明けがたにトロトロと火燵(こたつ)ながらにまどろむことはあっても、年男はすぐに若水も汲まねばならず、先ず明けましてお目出度うがすむまでは、ほんとうに安息は出来ない。
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 見附と御門



 三百六十五日の年中行事に因んで、江戸趣味のあれこれをそこはかとなく漁って見た後で、まだ何やらん残っているように思って考え出したのはこの見附と御門、これこそ大江戸随一の形見とも称すべきで、さて見附は山下見附、赤坂見附、四谷、牛込の二、三ヶ所をこれに加うべく、それらいずれも多少の俤はとどめてあるも、今は昔の名残りを偲ぶにもよすが少い。殊に山下なるは殆んどあるかなきかで、これより常盤橋内なるがまだ遥かにその趣はある。
 御門は桜田と半蔵と、田安とが最もよく昔のままをあらわし、次いで和田倉門(辰の口)も殆んどそのままだ。他には竹橋御門なおその影を止め、爾余のは馬場先門にしろ、日比谷見附にしろ、今はその趾さえ捜(たず)ぬるに困難である。
 されば今僅にその悌を存する以上の見附と御門とも、いつ全く失われつくすか、滅びゆく江戸の俤を偲ぶ時、吾儕はいとど哀惜の情に堪えぬものがある。
 さるにても「時」の力の恐ろしくも又いみじきことよ、蓋しかれはすべてに対してその破壊者であると共に、又やがてその建造者である。故にかれや常にこれを破壊して、また常にこれを建造する。彼の児童が持ちあいた玩具を片端から破壊し去って、いつかその破片をつづくり、別に珍奇の玩具をものして欣ぶと一斑で、吾儕は不断に「時」の力に圧迫せられ、威嚇せられて、しかもその制肘を脱する能わざるのだ。
 人もし残されたる江戸趣味を捜ねて、最後にこの見附と御門とに至らば、必ずや吾儕とその感を同じゅうするであろう。……ホイ、これはしたり、とんだ囈語(うわごと)を長々どうも失敬!
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 江戸芸者と踊子



 今のシャに深川芸者の粋と意気地なく、素袷に素足の伊達は競わずもあれ、せめてその気分だけでも享けついで、も一度江戸趣味を東京に復興さして見たいのが吾儕の望み。されば好い加減に引込めと大向うから呶鳴られぬ前、長えは毒と一旦筆を擱きはしたが、這度(このたび)は古きを温(たず)ねて新しきを知る、チッとばかり昔のことを言わして頂くことにした。
 ――さて江戸芸者の濫觴は、宝暦年中、吉原の遊女扇屋歌扇というが、年あけ後に廓内で客の酒席に侍り、琴三味線を弾きもて酔興をたすけたに因みし、それより下っては明和安永の頃からである。当時の吉原細見に、「芸者何誰外へも出し申候」とあるのに見ても、それは明らかだ。
 但し、これまでの名称は踊子とて、これは寛文頃京坂に始まり、江戸では天和貞享の頃からで、その時までは白拍子、遊女などに酒興を幇(たす)けさしていたのを、やがてその踊子を用ゆるに至った、それがつまり女芸者の起りだ。
 勿論芸者なる呼び名は、必ずしもこの時に始まったのでもないが、そは男女いずれにも称えられたことで、したがって踊子が今の芸者すなわちソレシャに相当するわけで、なお今一つ、現在の芸者によく類しておることは、芸一方で客の席へ出たのでなかったことだ。
 元禄二年五月二十一日の町触に、この踊子の屋敷方はいうに及ばず、いずれへも出入法度たるべく取締られたのは、全く私娼を営んで、風俗を紊乱したからで、して見ると落語家のいい草じゃないが、女ならでは夜のあけぬ国だけに、いつの時世にも女で苦労することが多いのかも知れぬ。
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 人情本と浮世絵



 江戸芸者の詮索ついでに、それが風俗を捜ぬべく、人情本と浮世絵とから拾って見ると、為永春水の作に次の如く書いてある。

「……上田太織の鼠の棒縞、黒の小柳に紫の山繭縞の縮緬を鯨帯とし、下着はお納戸の中形縮緬、お高祖頭巾を手に持ちて乱れし鬢の島田髷……」

 これで見ると太織だの山繭縮緬、普通の縮緬などを多く用いたらしく、色合は鼠だの紫がかったもの、お納戸色などがその好みだったらしい。
 また、ソレシャ社会の驕奢を穿って、同じ人がこうも書いている。

「……極上誂織の白七子をお納戸の紋附に染め、江戸褄模様に翻(こぼ)れ梅、紅白の上絵彩色銀糸にて松葉を散らしに縫わせ……英泉の筆意を頼み、下着は縮緬鼠のさや形、帯は花色勝山に色糸を以て阿蘭陀模様を竪縞の如く縫わせたらば類なくてよかろうか。黒の呉絽服に雨竜の飛形を菅ぬいにさせたらば如何だろう……」

 それより溯って百五十年も以前の風俗になると、衣服は縞銘仙の小袖、飛白の帷子といった類、履物は吾妻下駄で、それを素足につっかけ、髪は若衆髷に結うなど、すべてが歌舞伎役者をそのままで、恐らくは態々それを擬していたのでもあろう。
 次に深川芸者の風俗を一書にたずねて詳にしたには、つぶし島田に前髪へ四本、後へ一本の簪をさし、俎板形の大きやかな櫛をさして飛白帷子に襦袢、帯は一つ結びにして扇は後ろに挟み、塗木履(ぽくり)を穿つ。但しこの書なるは足袋もつけておるが、後には素足を伊達の時好として客もゆるし、自らもそれで通したものだ。
 転じて浮世絵にこれを見ると、歌麿の両国川開きの絵に、屋形船なる芸者の片足を立膝して、杯を流れに滌(すす)いでおる様が、透屋か明石縮みなどの縞物を着ているらしく、襦袢はこれもうすもので、二の腕には匂い袋を忍ばせておる。
 それから衣服はどれも裾長に着て、舳へ立っている女の姿に鑑みると、足は内わで、襟を厭味でない抜き衣紋にしている。
 尤もこのぬき衣紋ということは、襟白粉をつけるからの起りで、京坂に始まって後、江戸にも及んだものだが、態とらしくないのはよいものだ。
 で、この風俗は、江戸芸者にばかりではなく、一般に行われたことは、その頃の浮世絵なり、絵本草双紙の類に屡次(しばしば)見るところだ。
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 見番と箱屋と継ぎ棹



 芸者見番というものが江戸に出来たそもそもは、宝暦以後大黒屋秀民に始まり、その以前にはこれに類似のものすらなかった。
 また箱屋のはじまりは、「江戸職人づくし」によると、突込髪にした婆が三味線箱を背負い、前帯に褄をはしょり、素足に下駄を突っかけて片手には小丸提灯、夜道を照らしつつ先立ちして歩いておる。
 尤も、この時代には箱屋というのではなく、単にそうした傭女なり老母なりが送り迎えをしたに過ぎない。けれども、濫觴をたずぬればこれがそもそも箱屋の因みをなし、百年この方にいつとなく箱屋なるものが一つの生業として出来たのである。
 次に三味線の継ぎ棹というものは、寛政以後に出来たもので、その前は一本棹のものしかなく、傭女や老母なぞがそれを提げて、前にいったような身なりで先達すると、そのあとから裾模様の紋附ものか何かを着、帯を一つ結びのダラリと下げて、お高祖頭巾を被った芸者姿の美しいのが随いてゆく。
 ところが、その風俗如何にも際立って目につくので、寛政の改革があってからは、棹を三つ継ぎにして途中は箱で持ちあるき、嵩張りもせず、表立ちもせぬようにしたので、今にこの継ぎ棹世に行わるるに至った。
 ついでに言っておくが、芸者の途中を眼立たぬようにすることは、一時町芸者の流行いと盛大して、遂に遊廓の衰靡を来たしたので、時の幕府に哀訴して葭町(よしちょう)の菊弥を初め、廓外の芸者を構うて貰い、江戸市中に三人とか七人とかしかお構いなしのシャを残さなかったなぞ、随分と睨まれたものであって、一般に今日の贅は思いもよらぬことだったのだ。




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