残されたる江戸
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:柴田流星 

 然るをこの花火、玉屋は火を過って遂にその株を失い、今では鍵屋が独り占めながら、揚げられた花火の賞美には相変らず「玉屋ァい」が多く、殊に口惜しきはかかる類にまで広告に利用して、仕掛花火にビールの広告があらわるるなぞ、何ぼう殺風景の限りだか知れぬ。
 両国の川開きもこうなってはお仕舞いだとケチった連中もあるが、これだけは滅ぼしたくないものだ。
 それからこの川開きがすむと、続いて芝浦にも花火の催しがある。これはまださのみは古いことでなく、土地の料理店などが、家の寂れを苦にしての思立ちだけに、両国のほど開放的ではないが、それでも澄み切った夏の夜空に、勇ましい響きを聞く時は、何となく心も誘られて悪い気持ちはしない。旁(かたがた)以て鍵屋の苦心も、始終に算盤との談合は第二として、いずれとも江戸ッ児の嫌がるような広告花火はまァよしにして貰いてえものだ。
[#改ページ]

 草市と盂蘭盆



 魂まつりということ、釈迦の教えに基づいて年々の盂蘭盆に、精霊壇へ百味五果を供え、以て祖先の霊を招くは江戸ッ児のザックバランにも合する振舞いで、その魂まつる日の数々の供物など、草市の商いは陰気でどこかうら淋しい感じはするが、それでも商うどの出店は、数も歳の市に多くは譲らぬ。殊におかしきはその場所までが大方は歳の市のそれと同じで、世俗の人儀が盆暮に於けると彼此相通ぜるは、不思議なような当りまえの事実で、あたりまえのような不思議なことどもだ。
 さて魂むかえの夕べは家々の門に迎火の光り淋しく、法衣着た人々の棚経に忙しきも何やらん意味ありげだ。
 さて魂送りの夕べになると、大路小路に籠を提げたる貧の子幾たり、「お迎えお迎えお迎え」と精霊壇の供物などを申受け、何がしかの送り銭を得てこれを一宵の稼ぎとする。菜瓜のなお腐らぬは漬物屋に持ちゆいて数銭のお鳥目にかえ、よくよく物の用に立たぬを引汐にサラリと沖へ流して、送り火の行衛はいずこ、すべては型ばかりに流しはしたが、それで別段苦にもしなければ、真面目に厳かに御先祖のお祭りはしたつもり。さりとは気安くもまた罪のないことどもではないか。
 さあれ如此(かくのごとく)にして江戸ッ児は祖先を敬し、如此にしてしかも決してその祖先を忘れぬ。振舞いの粗なるを嗤いたもうな、形式に流れたようなかかる振舞いにも、心ばかりは洵に真に祖先に対するの敬虔を有し、尻切袢纏の帯しめなおして窮屈そうに霊前にかしこまり、弥蔵を極めこむ両手を鯱張って膝の上におき、坊さんのお勤がすむまでは胡座(あぐら)にもならでモジモジしている殊勝さは、その心持ちだけでも買ってやっていいと思う。
[#改ページ]

 灯籠流し



 川びらきの夜に始まりて、大川筋の夕涼み、夏の隅田川はまた一しきり船と人に賑わうをつねとする。
 疇昔(ちゅうせき)は簾かかげた屋形船に御守殿姿具しての夕涼み、江上の清風と身辺の美女と、飛仙を挟んで悠遊した蘇子の逸楽を、グッと砕いて世話でいったも多く、柳橋から枕橋、更には水神の杜あたりまでも流れを溯って、月に夜を更かし、帰るさは山谷堀から清元の北洲に誘られた玉菊灯籠の見物に赴くなど、それぞれの趣向に凝ったものだが、今は大川の涼みにも屋形船の影を見ること稀々で、名残は兵庫屋、河内屋などの船宿にその幾艘を有するのみ、歌麿の絵にある趣はまた見られずなったが、どうかしてこれらを再興したいものだと、一部の人々は折角そう思っておる。
 それにつけてもいとど嬉しいは八百松が灯籠流しを再興したことで、この催し、いつの頃よりか廃れて誰企つる者もなかったのを、先年隅田川の寂れとてこの催しを世におこし、大川筋に名物一つ加えたは何よりのことどもである。
 さてその灯籠というは、形を都鳥の水に浮寝せる姿とし、これに灯を入れて流れの上より下へ行くにまかせて放ちやるにて、岸の遠近、船よりも楼よりも眺めはいずれ趣深く、遠く遠く流れゆく灯影の小さくなるを送るほどの心、情景ともにかのうて忘機の三昧に入るを得べし。
 都の夏を懼れて暑を山海の地に避くる人々の、かえって喧噪と雑沓と没趣味とに苦しめられて、しかもそれらに対して高価な支払をなしたを嘆(かこ)つこと、吾儕の屡次(しばしば)耳にするところで、旁徒なる懼れに遠かれる都にも、夏にかかる逸楽のあるをお知らせしておきたい。
[#改ページ]

 蒲焼と蜆汁



 土用に入っての夏の食いものに、鰻と蜆とは江戸ッ児の真先に計えあげる一つで、つづいては泥鰌、浅蜊のたぐいである。
 鰻は何よりも蒲焼を最とし、重箱、神田川、竹葉、丹波屋、大和田、伊豆屋、奴なぞ、それぞれの老舗を看板に江戸前を鼻にかけてはおるが、今でも真に旨いのを喰わせる店、山谷の重箱を第一に算うべく、火加減、蒸しのかけ具合、たれ醤油の塩梅(あんばい)など、ここのを口にしては他に足を向くる気にはなれない。
 勿論、従来の江戸前といった鰻、今も大川尻から品川の海にかけて獲れはするが、紡績や、川蒸汽船の石炭殻を流しこむので、肉の味ゲッソリおちて、食通の口に適せず、妻沼、手賀沼あたりからのを随一とするに至っては、火加減、蒸し加減が何よりで、搗(かて)てたれ醤油の味いも元より大切だ。
 彼のチリリと皮の縮れて、焼加減な大串中串を箸にした気持ち、早くも舌めが味いたがって、無遠慮に催促するもおかしい。
 蜆はこれも大川のを第一とするが、これとて石炭殻に味いをそがれ、今は処を択らねば上物は得るに難い。
 この貝は味噌汁の一種に限ったもので、白味噌を赤味噌に混えたを最上としてある。
 ついでに泥鰌も味噌汁に限ることを言っておこう、駒形の名物泥鰌に浮れ込み、いやに江戸がって骨抜きせぬのをとりよせ、丸煮の鍋に白い腹を出してるのを見て、俄(にわか)にげんなりしてしまい、嫌々むしって喰べる連中、近来は大分多くなったと、内々嗤ってる手あいがある。
 浅蜊は澄まし汁最もよく、豆腐にあしらったも悪くはない。されど宵越しのを勿体ながって避病院へ送られぬが肝要。まさか江戸ッ児はそんな意地汚しもしまいとは思うが、すべてはさッぱりと……オオさッぱりといえば、これの塩むしもいいものだ。
[#改ページ]

 丑べに



 紅というもの、若い女の唇に少しばかりものしたが、かえって愛でたく、上瞼に薄っすら刷いたも風情のあるものだ。
 この紅、土用と寒の丑の日に刷かすをよしとして、当日は小間物やが店先に「本日うし」と筆太に記されたビラの掲げらるるを例とするが、寒中の丑の日に刷いたは、切り傷、皮膚のあれによろしく、土用なるは毒けし、虫よけに用いる。
 されば創傷唇のあれに寒べに附けたるを見る如く、夏の手料理にこの色ざしを好み、手足の爪に丑べにをさすこと、今も年よりの心する家の子供には、屡次(しばしば)これを見ることである。
 丑べにで思出したは、この頃でも時々、この日の紅買いに土製木彫りなんどの臥牛を景物とする店、昔のように残れることで、これも江戸趣味の、なお滅びざる俤の一つとして、吾儕はまたなく愛するものである。
 京の女は厚化粧、白粉を頸筋にまで用いて、べには唇にばかりではなく、目じり目がしら、引眉にもこれを加うとぞいうが、江戸ッ児は女でも瀟洒たるもの、好んで多摩川の水にみがき上げた素顔素肌を誇り、強ては白粉を用いず、ただ紅のみは下唇にチョと目立たぬくらい、それも態とらしきは吾から避けて用いぬようにしている。
 女の口紅はこうしてこそ趣も深く、なかなかに捨てがたく思わるるのを、徒にコッテリと唇いっぱいにつけて、折角の愛らしい口元を、子鬼の笑ったようにしてしまうもの多きは、寧ろ天性の麗質を損ずるもの、吾儕が生粋の江戸ッ児には憚んながらそんな女は一人もいないはずだ。
[#改ページ]

 朝顔と蓮



 松樹千年の緑を誇ろうよりも、槿花一日の栄えを本来の面目とする江戸ッ児には、旦々に花新たなる朝顔を愛し、兼ねては汚泥を出でて露の白玉を宿す蓮の清新を賞する、洵にあらそい難きことどもである。
 その朝顔、入谷なるを本場とし、丸新、入又、植惣なんど、黎明より客足しげく、昔ながらの朝顔人形、どこまでも江戸ッ児は芝居気があっておかしい。
 芝居気といえば、朝顔の夏を入谷なる何がしの寺で、態々かけだしをものしての伝道布教、麦湯のふるまいに浮き足になりながらでも聴聞してゆく人の多いは、これも一碗の恩恵に折からの渇を医し得た義理ゆえもあろうが、場所だけに何やらん面白い感じがする。
 さて朝顔は、ここを本場とはするものの、育ちは亀戸で、さるは恰も田舎人が漸く都会の生活になれて、やがては東京ッ児となりおおするにも似てはいまいか。亀戸の植木屋はとんだ九太夫役を承ったものだ。
 蓮は花の白きをこそ称すれ、彼の朝靄に包まれて姿朧なる折柄、東の空に旭の初光チラと見ゆるや否、ポッ! ポッ! と静かなる音して、今まで蕾なりし花の唇頓(とみ)に微笑み、ある限りの人々ただ夢を辿るおもい、淡い自覚に吾がうつつなるを辛くも悟り得る際の心地、西の国々の詩人が悦ぶはこうした砌(みぎり)の感じでもあろうか。
 朝の不忍に池畔のそぞろ歩きすれば、この種の趣致は思うままに味われる。江戸ッ児は常にこの趣致を愛する、然りただそれこれを愛する、余には深い意味も何もあったものではない。
 蓮はなお芝公園にも浅草公園にもある、されど最も憾むべきはお濠の中なるがあとなくなったことだ。
[#改ページ]

 滝あみ



 那智、華厳、養老、不動なんど、銀河倒懸三千尺の雄大なるは見難きも、水に親しむ夏には江戸ッ児も滝あみを思立つが多く、近年は専ら権現の滝、不動の滝なぞ足場がよいからか王子などに行く人多く、大方は朝顔を入谷に見て不忍の蓮をも賞し、忍川、あげだしさては鳥又、笹の雪と思い思いの家に朝茶の子すまし、早ければ道灌山を飛鳥山に出て、到る処に緑蔭の清風を貪り、さていい加減汗になって滝浴みという順序だが、横着には汽車を利して王子までを一ト飛び、滝の川に臨める水亭に帯くつろげて汗を入れ、枝豆、衣かつぎの茹加減なを摘み塩つけて頬張った上、さてそろそろ滝壺へおり立って九夏の炎塵を忘るる。
 この滝、王子なるも何処なるも女滝男滝にわかれて、殊に当節は葭簀(よしず)の囲いさえ結われたが、江戸ッ児は男も女も噪(さわ)ぐのが面白く、葭簀を境いにキャッキャッとの騒ぎ、街衢をはなれたこの小仙寰(せんかん)には遠慮も会釈もあったものではない。
 滝の名所はここ王子なるを初めに、角筈(つのはず)の十二社(じゅうにそう)、目黒の不動などを主とし、遠くは八王子、青梅などにその大なるものをたずね得べし。
 しかし江戸ッ児にはただその雄大なる姿を賞するのみでは承知が出来ず、どうしても素裸の褌一つになり、飛下する水に五体を打たせねばジッとしていられぬ性とて、高雄山なるは浴みもされるが、金刀比羅の滝、独鈷(どっこ)の滝など、見るが主なるはさばかりに好んで足を向けない。――一つは倶利迦羅紋紋の腕から背を、これ見よがしの罪のない誇りを抱く手あいもあるからであろう。
[#改ページ]

 虫と河鹿



 松虫、鈴虫、轡虫(クツワムシ)、さては草雲雀、螽斯(キリギリス)なんど、いずれ野に聞くべきものを美しき籠にして見る都びとの風流は、今も昔に変らぬが、ただこの虫というもの、今は野生のを捕え来て商うのではなくて、大方は人工孵化。走りを好む手合いをお客様にしての商売は、こうした生きものをも造化の下請負せねば間に合わず、一年三百六十五日、己が住居の床下にそれはそれはごたいそうな虫の巣を拵えこんで、無慈悲の冬を囲いもしてやれば、かれらの子孫の蕃殖をもお手伝いする。虫どもに言わしたら、これが吾々の造物主とあがめ奉るかも知れない。
 さあれ人間が手づくりの虫は命も短く、地体が達者でもないために、うかと水でもかけてやろうものなら、即得往生、新しくやった胡瓜の半ばをもつくさで諸足縮めて固くなっておるに、吾れ人ともに無常を感ぜざるを得ぬ。
 かくて野生の虫、近郊に鳴きすだく頃には、人工の虫は元の古巣に、蟄竜の嘆を恣にする。さても有為転変の世のこれも是非なき一つであろうか。
 有為転変といえば、今は野に鳴く虫も態々ゆいて聞く人尠く、したがって虫択みなどいう娯しみは、いつか廃れ果てて、江戸ッ児にも風雅心は薄らぎ、縁日の露店に屑虫を売りつけられてただ安かったのを喜ぶ、実は少々情なくてならぬ。
 されば詩経の草木、万葉の草木なんど、菊塢翁の昔から凝りやをうりものの、向島百花園、三、五年この方、吉例を再興して虫放ちの催しをなし、残された江戸趣味の普及をとて同好を語らい招く。当夜に来合したほどの人に話せねえ手合は一人もないが、殊に嬉しいは同趣味の人々聞き伝え、語りあわして、それからそれへと来衆の数をますことで、さてこうなって見ると案外に話せる御仁もまだ大分世にはござると、園の老主人ではないが、大いに人意を強うした。
 河鹿は縁日もの、振り売りの手合いからは決して買わぬもの、これも三歳以下なはまだ籠なれずして鳴きも歌わず、どうかすると姿ばかりがよく似た蛙めを掴まされることさえある。
 飼うには素人にも骨が折れず、生き虫と時々の新しき水を怠らねば誰れにもそそうはなく、鳴きも然るべき鳥屋が売ったのなら請合いである。
 行いて聞くには汐入の渡しを綾瀬の流れに入って、溯ることしばし、そこに月影の砕くる瀬ありて、彼の愛すべき声を賞すべし。半宵船をもやいて、ここらあたりに月と河鹿を賞するの風雅人、果して都に幾たりを算え得ることであろうか。
[#改ページ]

 走り鮎



 鮎は当歳の走りを別して賞美する事、必ずしも江戸ッ児ならずともだが、今では蕃殖を保護するというので、七月十五日までは禁漁とあり、旁名物の多摩川ものはそれ以後でなくば魚河岸にも現れず、二子に赴いても網一つ打つことならねば、江戸ッ児には酷い辛抱ながら、解禁の日よりは河岸にも籠をつむことあり、それまで幅を利かしていた秩父もの、国府津ものなど、漸く片隅に退けられて、これより一しきり、鮎は多摩川に限らるるもおかしい。
 凡そ鮎の真味は、その肉よりも骨にあるので、噛みしむる口に芳脂の舌ざわり快く、歯に何の骨折り一つさせぬようなを殊に好しとしてある。さるは江戸ッ児の産湯する多摩川の水に産するを随一とし、秩父の渓流に育つも味は劣れりというではないが、多摩川のに比して骨の硬いが難だ。国府津ものは酒匂川にとれるを一番の上味とし、山北の鮎鮨で東海道を上下するほどの人々は予て馴染だが、これとても骨は硬い。
 畢竟若鮎の走りを賞すること、たとえばピンとはねて瀬をも流れをも溯るべく、兼ねては水の清冽なるを愛して、濁りに棲まぬその性にある。
 余の人々は如何あろうか、吾儕元よりその意を知らず、ただ江戸ッ児に至っては、ひたぶるにその性を愛して自ら彼の清きにおらんとするからである。
 さるにても近頃の多摩川漁夫、或は密漁を企て、生洲飼いをなし、客を見て獲物の多寡を加減するなぞ、江戸ッ児には癪にさわることばかり、これでは折角の鮎が估券を堕しはせぬかと、そんじょそこらの兄哥がいい心配をしておる。
[#改ページ]

 縁日と露店



 縁日趣味、露店趣味は江戸ッ児にして初めてこれを完全に解し得るもの。月の三十日が間、唯の一日都大路の何処にも縁日がないという晩はなく、苟(いやしく)も天気模様さえよければ、からッ風の吹く寒い夜でも、植木屋が出て、飴屋が出て、玩具屋が出て、そして金物屋、小間物屋、絵草紙屋、煎豆屋、おでん屋、毛革屋、帽子襟巻手袋屋、金花糖屋、更に夏なれば虫屋、風鈴屋、簾屋、茣蓙屋、氷屋、甘酒やなど、路の両側に櫛比して店を拡げ、区劃を限って車止めの立札の植(た)てられる頃より、人出は夜と共に弥(いや)増しに増して、競り屋の男は冬でもシャツ一枚の片肌脱ぎ、「さッこれいくら……」と吾れから値を促し問うて、良時は悪口の言いあい、江戸ッ児はこんなことが面白くてただ他愛もなく、「五銭――十銭――二十銭――しょんべん――」なぞと混ぜかえせば、「貧乏人は黙ってすッこんでろ!」と今にも喧嘩が始まりそう。こんなことで夜の十一時頃までにかなりの商いしてのけるとは存外なものだ。
 露店趣味は縁日の以外にもこれを捜ぬるを得べく、上野、浅草の広小路、銀座南北の大通りを東側の人道なぞ、ここには一年三百六十五日、雨の日と風の強い日をさえ除けば、大方の縁日の二つがけ三つがけの出店、殊に夏の涼み時と冬の師走月とは客足も繁くして、露店の数も多きを加え、耳を病みて詰薬した爺さん、眼をわずらって黒眼鏡かけた中年増、若い神さんらしいのもあれば、小狡(こざか)しい中僧もおる。五、七年前まではかなりの骨董屋だったという四十男の店などには、古渡り唐物とか、古代蒔絵とか、仰々しい貼札しての古道具ずらりと陳べて、いやに客の足元から顔色を窺う無気味さ、こうしたのが数多い中には幾たりかあって、同じ仲間から内々では悪く言われても、「わァしどもァこんな処へ出るんじゃごわせんがな」と、少し頭の禿げかかった旦那らしいのを見かけると、妙にこだわって出て、附け時代のいかさま物を正真正銘で通そうとする不埒、折々は旋毛(つむじ)の曲った兄哥などに正体を見すかされて、錫製で化けきろうとした巻莨(たばこ)入れなどを、「なんでい、こりゃアンチじゃァねえか」と一本きめつけられ、グウの音も出ないところなのを、千枚張りは存じより押しが太く、「おめぇさん一体買うのか買わねえのか。え、買うなら何とでも言いなせえだが、冷かしなら黙って貰おう。ねえ、ほかのお客の邪魔にならァ……」とは鼻ッぱりの強いことこの上もない。但し江戸ッ児にもこんな屑がありがちなは、尠からず心外の至りだ……と、また誰やらが愚痴ッていたッけ!
[#改ページ]

 新内と声色



 秋は月の夜更けに、都の大路小路を流しゆく新内の三味線、澄み切った空に余音を伝えて妙に心を誘(そそ)るもあわれだ。
 さればぞこの哀愁を帯びた旋律に誘われて、浮世物憂く、心わびしと思う折柄には、女の小さな胸一つに何事もおさめかねて、心中を思立つもの、廓の秋にはいとど多しとか聞く。
 鼻ッぱりは強くても情に脆い江戸ッ児には、こうした女から一緒に死んでくれえと言われては後へも退かず、ツイ一夜を仮初めの契りしたばかりに死出三途の道伴れまでして命惜しいとも思わぬ、これまでにされては心ぞ可愛い男とも女はそのとき初めて感じもするであろう。
 さるはまた廓の夜でなくもあれ、遠くより近づき来て再び遠ざりゆくテンツルツンテン、ツンテンツンテンの響き、或は低く、或は高く、夜の空気を揺るがせて余音の嫋々を伝うるとき寒灯の孤座に人知れず泣く男の女房に去られてと聞いてもその迂(う)ッ気(け)を嗤うよりは、貰い泣きするが情だ。
 声色は春の夜の朧月にも相応わしいが、夏より秋にかけての夜ごとに聞く銅鑼の音、「ええ、御贔負様如何? お二階の旦那! 何ぞ御贔負様を……」と又一つボーン!
「あ、こりゃァ、才助とやらァ……近うまいって下物いたせ」と、声もかからぬ中から二階を見あげて、「大盃」の一節をチョッピリ、折から通りかかった若者が景気をつけて、「川崎屋ァ!」とか何とか呼びかけると、本人得意になってグッと反り身になり、「そのさかなには此方に望みがある。そちが額の眉間の傷ゥ、この場の下物に物語りいたしえェ……」と、抑揚を際立つほどに川崎屋でゆき「ウウウこの傷はァ、ずぶろくぐでんに……いやなに、めいていな仕りまして、石に跪き倒れし折柄……」と高島屋とのかけ合いにまで及び、「あいや才助ェ、そちゃこの直高を愚昧と思うか、やさ、盲目と見たかァ……千軍万馬の中往来なし、刀傷か槍傷かァ、それ見わけのつかぬ直高と思うやッ!」……と、まで来ればお二階の旦那なるもの御贔負様を一つ何々と御意遊ばさぬことはない。よし旦那にして御意遊ばさぬとしてからが、ねえ貴方や! と、おねだりの出るのは定で、いずれにしてもその続きか然らずは音羽屋の弁天小僧、成田屋の地震加藤なんど、どのみち一つ二つの仰せは承わられる。芸が身を喰う生業なればか、ここに至って本人無上の光栄に感じ、慾徳を離れての熱心は買ってやるところなるべし。
[#改ページ]

 十五夜と二十六夜



 秋の月見は八月の十五夜、今も都は芋芒を野にもとむるに及ばず、横丁の八百屋におさんを走らすれば、穂芒の多少は好み次第、里芋も衣かつぎ芋も、栗も、枝豆も、走りを賞する人々が客なる商売物、何一つ揃わぬことなく、月見団子の餅の粉まで、乾物屋へ廻らずともなので、宵には万の供物もととのい、二階座敷に打ちつどうての月待ち、武蔵野の月は昔に瓦屋の唐草を出て唐草に入るまで、さ霧の立ちこむる巷に灯影淡く、折々は人を休むる雲の光りを奪うとも、一楼の明月に雨はじめて晴ればれと、且つ語り且つ喰うて枝豆をつくし、栗を殻ばかりにして、衣かつぎ芋の蛻(ぬけがら)、遠慮のかたまり二つ三つと共に器に山を築く。
「オヤ、ま随分だわねえ。もう皆んなよ」と娘まず驚けば、「そんなに喰べて、お嫁にでもいってたら離縁ものだよ」なぞと母親もまだ何かに手を出しそう。
「僕なんかお嫁に行くんじゃなし、大丈夫だァ」と男の児の手はなお残りの団子に及ぶ。蓋し江戸ッ児には花にも月にも団子なるべきかな。
 二十六夜の月待ちは、鬼ひしぐ弁慶も稚児姿の若ければ恋におちて、上使の席に苦しい思いの種子を蒔く、若木の蕾は誘う風さえあれば何時でも綻びるものよ、須磨寺の夜は知らずもあれ、この夜芝浦、愛宕山、九段上、駿河台、上野は桜ヶ岡、待乳山、洲崎なんど、いずれ月見には恰好の場所に宵より待ちあかして、更くるに遅い長夜も早や二時を過ぎ、三々五々たる人影いよいよ群をなして、かかる砌(みぎり)にも思う人は出来るものぞとか、月いでて後の帰るさに、宵までは見ず知らずの男と女とが、肩をつらねて語りつつ行くもおかし。さても都人は気楽なとムザとは嗤いたもうな、江戸ッ児はザックバランでもそうした出来心の恋にはおちず、前々に月待ちのこの夜落いる箇処の約束はしても、今までに見も知りもせぬ男おんなのいたずら事、大方は都へかりそめに来ている人々の鎮守の祭りに振舞うと一斑で、かかるは吾儕の苦々しくおもうところだ。
 何がさて、今の若き人々の飯ごとなる恋というもの、江戸ッ児にはただ危っかしくてあぶなっかしくてよそごとながらいろいろ思うとは、頭の禿げた江戸の残党が口癖のようにいうこと。それもこれも畢竟は苦労が足らぬからのことで、かくての取締り故に様々な御法度が出来て、江戸趣味を滅ぼしゆかんこと、何ぼうの憾みか知れないことだ。
 然り今の有様では二十六夜待ちの禁止も、あるいはまた出まいものでもなし。恋というもの、するならばするで、せめてそれらしい恋をしては下さるまいか、つまらぬことで江戸趣味をなくしたくないものだて!
[#改ページ]

 細見と辻占売り



 都は夜の巷に細見売りの姿を見ること、今はほとほと少うなった。たとえば月待つほどの星の宵に、街灯の光りほの暗い横丁をゆく時、「新吉原ァ細見。華魁(おいらん)のゥ歳からァ源氏名ァ本名ゥ職順※[#小書き片仮名ン、176-4]まで、残らずゥわかる細見はァいかが――」
 その声を最も多く耳にしたは浅草の千束町から竜泉寺筋、余は浅草の広小路にも上野の山下にも折々に見聞きしたものだが、近頃は大門を入ってからでなくば容易に姿すら見かけず、神田から九段下、牛込見附界隈にこれをまのあたりせんことは最早過ぎし夢となり果てた。さるにてもこの細見売りというもの、当時は何処に何を生業とすることやら……。
 聞けば今の絵葉書売りというもの、その一部は昔細見を売りあるいた男とやらで、如何に流行なればとて、縁日の露店に、実はよりどり五厘から一銭二銭の安絵葉書商うだけでは、腹も懐も温くはならず、さればその懐に忍ばせたもの、懐炉温石のたぐいにあらずして十二枚一組の極彩色、中なるは手易くあけて見せずに、客を択っても怪しい笑顔「へえ如何です」なぞは五十歩百歩かは知らぬが下りはてたもの、変れば変るものだと昔の若い人が妙に感心していた。
「河内瓢箪山稲荷辻占」恋の判断を小さな紙に記して、夜長の伽(とぎ)に売りあるく生業、これも都にフッツリ影を留めずなって、名物かりん糖の中に交れるを買って見るなど、今は恋にも喰意地がついてまわるとは情ない限りだ。
 彼の辻占売りあるく男の、チラと見た怪し姿に、一声高く「恋のゥ辻占ァ――」と呶鳴っておいて、俄に変る股だち腕まくり、新派にはよくある型だが、曾ては刑事のこれ化けたも真実にあるとか、人間というもいつも芝居ッ気を放れぬところが頼もしいと此方とらは思う。
[#改ページ]

 おさらい



 長唄、清元、常磐津、さては歌沢、振り事など、歌舞の道にお師匠さんたるもの、互いに己が弟子の上達を誇りに、おさらいというもの、多くは秋の長夜を利して催すが例である。
 設けの席は弟子の多寡にもよるべく、貸席、しもた家、乃至はまたお師匠さん自身の家、招く人の数に準じて座敷幾つかを打ちぬきにし、緋毛氈に飾られた高座を正面に、紫の幔幕結いまわし、それへかけつらねたビラ幾十枚、それもこれも数の多いが自慢で、若い娘達の□々という声、花も蕾のかれらにはいつも心長閑にして春のようなであろう。
 秋のおさらいは昼よりも灯する頃より夜と共に興闌(たけなわ)なるがつねだ。彼の銀燭に蝋燭の火ざし華やかに、番組も序の口を終ったほどから、聴衆も居ずまいを直して耳傾くれば、お師匠さんの身の入れ方も一倍深くなって、三味線の音色撥さばき諸共に冴え、人々の心次第に誘われてゆく。
 弾き語りもすんで、立唄、立三味線、高座にずらりと並居てのおさらいは、その日の呼び物だけにグッと景気づき、後見にまわったお師匠さんの気の張りも強くなる。
 こうして一わたりすむと中入りには菓弁寿の御馳走、娘達はお世辞の言いくらやら、申訳のしあいやらで、小鳥の百々囀(さえず)り、良時はただ喧ましく賑わしく、さて再び柝を入れると俄に鎮まりかえって満場ただ水を打ったよう……と見るもほんの一ト時すぐに又どこやらでヒソヒソ話が始まって、それが彼方此方へと移ってゆく。
 それよりして千秋楽までは代稽古するほどの腕前揃い、ツイその撥に咽喉に魅せられて帰るさは酔ったよう。勿論おみきの利目も少しは手伝っておることと知るべきだ。
[#改ページ]

 常磐津、清元、歌沢



 江戸趣味の音楽として、吾儕は先ず常磐津をその一つに数え、次いで清元、歌沢をあげたいと思う。
 長唄は植木店の家元といい、分家の岡安一派まで、いずれ江戸ッ児ならぬはないが、趣味の上からは、チト野暮なを如何せん。
 さるにても常磐津といい清元といい、年々に名人の病衰して亡びゆくこと、時にとっての何ぼうの損失であるよう……。
 昔者は霜白き旦、さては風冴ゆる夕べの火の見などに出て、温めねば鼓さえ凍るほどなを、手に覚えのなくなるまでも寒稽古励んで腕を研き、互いに名人の域に達せねば止まじと振舞うたので、この道の達者世に続出して、自ずとこうした趣味の普及もなりはしたが、今はさばかりに芸道に出精の者もなく、趣味も漸く廃れゆくこそ却々(なかなか)に口惜しい。
 歌沢とても芝金の一派、寅右衛門の一派など両々腕を競えど、未だ技の疇昔(ちゅうせき)に及ぶものなく、今し音曲の江戸趣味はこれらには残れ、どうやら灯将に尽きんとして更に明を加うというような感がしてならぬ。
 入神の妙技はさて措くとしても、これも残された江戸趣味の一つとして見れば、実はここらからその復興を企てて、新しい江戸を東京の今にものしたいものだと、まァさ、折角そんなに思っているので、こちとらは随分椽の下の力持ちもしてえる奴さ。どうですえ、親方とか太夫とか、乃至は師匠とか言われてござる御仁、もちっと、何と骨を折って見てくれる気はねえものか知らんて!
[#改ページ]

 お会式



 毎年陰暦十月十三日、祖師日蓮の忌日を卜して執行の法会をお会式とはいい、宗徒は又おめいこうとて本山に参籠する。池上の本門寺、堀内のお祖師様など、江戸以来の霊場で、遠くは中山の法華経寺へも出かける。
 この御会式、昔者(せきしゃ)は今よりも荘厳にものされた代りには、お籠りの男女、夜暗に互いのおもいを通わせ、日頃の恋をその夜に遂ぐるなど、とんだ粋ごとも行われて、あんまり一貫三百ただ取りでもなかったらしく、団扇太鼓の響きと共に、それよりして浮名の立ち初むるも多かったが、今は風俗上の取締り行届いて、この霊場を汚さんもの、皆無とはあるまいが大方尠うなった。
 それ江戸ッ児の気勢いは御祭り騒ぎにしくものなく、妙法蓮華経の功力心願、それもこれも団扇太鼓の音、大万灯の賑わいに誘われてのこと、とばかりでは一向有難味も薄うなる勘定だが、案外に江戸ッ児は正直なところもあって、堂に詣って数珠爪繰る時には、一ト通りの敬虔と尊崇と帰依とを有し、南無妙法蓮華経の唱名も殊勝である。
 但し往くさ来るさの講中の気勢、団扇太鼓の拍子どりして歩む時には、ただそれ無我夢中で、遠い路が苦になるでもない。
 殊におかしいは他宗他門の人々、このお会式にも見物を怠らず、本門寺への沿道はかかる群にも賑わって、さて本堂前の賽銭箱には、同じく喜捨のお鳥目を吝(おし)まず、搗(かて)て加えては真宗の人も、浄土の人も、真言、天台、禅、曹洞、諸宗の信徒悉く合掌礼拝、一応の崇敬をば忽(ゆるが)せにせず、帰りには名物の煎餅、枝柿の家苞(いえづと)も約束ごとのように誰れも忘れてゆかぬこそ面白い。
[#改ページ]

 菊と紅葉



 菊は赤坂御苑なるを最とし、輪も大きく類も多いが、一般衆庶の拝観をゆるされず、したがって上下貴賤の区別なく、誰をでも千客万来、木戸銭取って自由に見せるのは相も変らず団子坂。今も活人形の大道具大仕掛けに、近年は電気応用という至極手数のかかった甘いことが流行り出して、一幹千輪の珍花よりも、舞鶴、千代の里、白楽天などの銘花よりも、歌舞伎好みが百人向きで、染井の植木屋が折角の骨おりも何の役に立たず、花の君子なるものと賞された菊も、徒に瓦礫の間に余生を送る姿、なんぼう口惜しい限りだろうか。
 紅葉は吹上御苑の霜錦亭より眺むるもの、大江戸以来随一とせられておるが、これとても一般の拝観は思いもよらず、次いで新宿の御苑、赤坂の離宮なるも色渥丹の如く頗る賞すべきか。その他では麹町の山王、靖国神社、小石川の後楽園、芝の山内などで、その余に人々のゆくとしてゆくのは王子の滝の川最も近く、品川の海晏寺なるは温暖の南を受けて至極よさそうだが、存外に色づきが遅い。
 しかし紅葉は如何なことにも負けおしみして力んではいられず、塵埃に汚れたドス黯いのを見ようよりは遠く秩父の渓間か、高雄山にこれを探るによろしく、これだけは大自慢の江戸ッ児全体が夙(はや)くから遺憾としておるところだ。
 かくいう某も実はその残念におもう一人で、京の女にはさのみも驚かなんだが、紅葉だけは何故ああした美しい色に出ぬのかと、熟々(つくづく)いやになってしまった。学者に言わしたら恐らくは気候の工合、水蒸気の加減にもよるべく、更には紅塵の多少、地味の如何にも関係すると鬚髯を撫してただ微笑するのみだろう。
[#改ページ]

 酉の市



 酉の市は取りの市、掃き米はき込めの慾の皮がつッ張った連中の、年々の福を祝うてウンと金が儲かるようと、それさに肩摩轂撃(こくげき)、押すなおすなの雑沓を現ずるのだが、何がさて、大慾は無慾に近く、とりにゆくのはとられにゆくので、鷲(おおとり)神社には初穂をとられ、熊手屋には見すみす高いものを負けろとあっては縁起にかかわるので、景気よくシャンシャンシャンと手を打たれて、まるでただとりされるような金をとられ、場所が吉原田圃で太郎稲荷にも近ければ、狐ただとりは千本桜にも因みがあり、その千本が縁起だと嬉しがる手合いも尠からず、罪のないことこの上ない。
 こうして帰るさは吉原病院の非常門から花の江戸町、京町や柳桜の仲の町、いつか物いう花のチリツテシャン、呑めや唄えの大陽気に、財布の紐も心と共に解けはてて、掻き込めかきこめの鷲掴み、とうとう一文なしに掴みどりされて、気がついた時にはお預りの熊手一つ、お近い中にと親切そうに言われて、二の酉に裏をかえす連中、これでも慾の皮がつッ張っているのかと思うと可笑くておかしくてならない。
 されば酉の市は先様がとりの市、こっちはとられまちで、どの道金に縁の薄い江戸ッ児には、宵越しをさせたくもこの始末なので及びもつかぬこと、それでも一かどの福運を得る気で、眼前とられにゆくを甘んずるなどはとうてい江戸ッ児以外の人には馬鹿気切ってて嘘にも真似の出来たものではない。
 殊には熊手の腹に阿多福のシンボル、そもそも誰が思いついての売りはじめやら、勿体らしく店々の入口、さては神棚の一部に飾られたこれら江戸ッ児の象徴を見る時は、情ないよりは寧ろその稚気を愛すべきだ。
[#改ページ]

 鍋焼饂飩と稲荷鮨



 霜夜の鐘の凍るばかりに音冴えて、都の巷に人影のいよいよ疎なる時、折々の按摩が流しの笛につれて、遠くより聞え来るもの、「鍋焼ァき饂飩※[#小書き片仮名ン、198-4]、え饂飩やァい――」と、「稲荷ァりさん、え、いなァりさん――」の声なるべし。
 もしそれこの合の手として犬の遠吠えを加うれば、冬の情景ここにつくされて、限りなき淋しさを味うことが出来る。
 されば夜なべの気も惓んじた頃、戸外に一度この声を聞く時は、狐窓から呼び止めて熱いのをと幾つか誂える。心得て枝炭新たにさしくべ、パタパタと急しく渋団扇ものせば、忽ちにパチパチと勇ましい音して、お誂えの数は揃う。
 凡そ鍋焼饂飩は吹きふき喰べるような熱いのを最も賞美する。故に立ちのぼる湯の気の中に顔をうずめて箸を運ぶ時、三ッ葉あり蒲鉾あり、化粧麩、花がつおなど、いろいろの種物にまじわれば、丸三の安饂飩も存外に旨く味われて、食通も時に舌鼓を打つぞおかしい。
 稲荷鮨は元来がおこんこ様好み。麻の実、萱の実、青昆布などの扱(あし)らいに、ツイ騙されて南京米をも知らずに頬張るが、以前はそんな吝(けち)なのはなかったものだ、憚(はばか)んながら今でも千住の鈴木まで買いにゆくなら、ころもにしてある油揚も別製なれば、種物も米も吟味に吟味してある。殊に掻きたての辛子さえ添えてくれるには誰しもここに限ると御意遊ばすも無理ならぬこと。態々稲荷鮨くらいにと、電車すら通う便利な世になっても、まだ買いにも喰いにも行かないという人々には、のっけからお話も何も出来ないことだ。ここいらの心持ちも、実ァ口で言うだけじゃァ解らないが、早く言やァ江戸ッ児の気分なのだ。
[#改ページ]

 からッ風



 武蔵野は筑波颪(おろし)のからッ風、秋の暮から冬三月を吹いてふいて吹きとおして、なお且つ花さく日にも吹きやまず、とかくして三春の行楽をも蹂躙(ふみにじ)ろうとすること必ずしも稀らしくはない。
 大江戸以来の名物も数多い中に、このからッ風は今に毛ほども相変らずで、しかもこの風時々に悪戯をなすこと限りなく、通りすがりの若い女の裳を弄び、おこそ頭巾の後れ髪を苛むなぞはまだしものこと、ややともすればジャアンと打ッつかったが最後、大江戸を唯一呑みと赤い舌を吐いて、ペロリペロリそこら中を嘗めまわす。江戸の花だと気勢う連中も、災の我身に及ぶ時は敢えてそうした呑気ばかり言ってはおれず、それというより死力を尽してこれと闘わねばならないので、夜々のからッ風に火の元を用心し、向島は秋葉神社の護符を拝受して台所の神棚に荒神様と同居させるなぞ、明暦以来は一層懲りに懲りているので、用意周到行きわたらざる隈もない。
「ああ又いやに吹きやァがるじゃねえか。今夜あたり、ジャンと来なきゃァいいが」なぞと言う晩には妙に神経も昂ってきて、器物の音にも耳を聳てる。
 されば向島の秋葉様は十月の十七、十八という、そろそろ人の懼気(おじけ)づく頃に例年の大祭を執行し、火防の御幣を広く参詣の人々に頒つこと、考えれば抜け目のないことである。
 しかしながら半鐘の音という奴、いつ聞いても余り気味のいいものでなく、正月の消防出初式に打つのでも、それと知りつつ妙に気が噪いでくる。江戸ッ児の好くのはただこの興奮一つからで、火事場の弥次馬も全く噪ッ気からとはさもそうずさもあるべきである。
[#改ページ]

 納豆と朝湯



 霜のあしたを黎明から呼び歩いて、「納豆ゥ納豆、味噌豆やァ味噌豆、納豆なっとう納豆ッ」と、都の大路小路にその声を聞く時、江戸ッ児には如何なことにもそを炊きたての飯にと思立ってはそのままにやり過ごせず、「オウ、一つくんねえ」と藁づとから取出すやつを、小皿に盛らして掻きたての辛子、「先ず有難え」と漸く安心して寝衣のままに咬(くわ)え楊枝で朝風呂に出かけ、番頭を促して湯槽の板幾枚をめくらせ、ピリリと来るのをジッと我慢して、「番ッさん、ぬるいぜ!」、なぞは何処までもよく出来ている。
 それよりして熊さん八公の常連ここに落合えば、ゆうべの火事の話、もてたとかもてなかったとか、大抵問題はいつもきまったものだ。
 次いで幾許もなく寄席仕込みの都々逸、端唄、鏡板に響いて平生よりは存外に聞きよいのを得意にして、いよいよ唸りも高くなると、番頭漸く倦(うん)ざりして熱い奴を少しばかり、湯の口にいた二、三人が一時に声を納めて言いあわしたように流し場へ飛出すと、また入れ代って二、三人、これに対しても番頭の奥の手はきまったものだ。
 とかくして、浴後の褌一つに、冬をも暑がってホッホッという太息、見れば全身宛(さなが)ら茹蛸のようだ。
「どうでえ、よく茹りやがッたなァ」
「てめえだってそうじゃねえか。これで肥ってりゃァ差向き金時の火事見めえて柄だけどなァ――」
「金時なら強そうでいいや」
「へん、その体で金時けえ――」
 肚の綺麗なわりに口はきたなく、逢うとから別れるまで悪口雑言の斬合い。そんなこんなで存外時間をつぶし、夏ならばもうかれこれ納豆売りが出なおして金時を売りにくる時分だ。
[#改ページ]

 歳の市



 深川八幡に始まって、浅草観音、神田明神、芝の愛宕、平河天神などを歳の市の数え場所とし、他は西両国の広小路、銀座通り、四谷伝馬町、赤坂一ッ木など、最寄りもよりになお幾つもある。
 就中(なかんずく)観音の市では羽子板の本相場がきまり、明神の市では門松の値が一定する。その他愛宕の市で福寿草の相場がすわり、天神の市で梅の値を確実にするなど、今も昔に異ならず、これにも景気と気勢いとが肝腎である。オット忘れた、深川のは調べの市というそうな。
 江戸ッ児は何につけても担ぐとて嗤いたもうな。ケナせば元来が門松だの飾り藁だのというもの、実はあってもなくてものもので、そを縁起まで祝うて年迎えのしるしとせんことは、理屈や議論ではとうていお話にならぬこと、ただそれその心持ちが第一である。
 さればいずれの歳の市にも、ダラダラの大晦日まで続いたところが、門松だけは二十九日までに遅くとも立ててしまい、一夜飾りはせぬものと老人の注意を、誰しも正直に守って疑わず、どういうわけと念を押すなぞは決しておくびにも出さない。
「めんどくせえやな、悪りいてえから悪るけりゃしねえまでよ、なァ、人の嫌がることをしねえたて、こちとらァそれでよゥく日も経ッてかァな」
 江戸ッ児の気分はただそれ如此(かくのごとく)である、ただそれ如此である、無邪気と、ザックバランと、人を嫌がらせねえのと、遠慮会釈がないのと、物事がテキパキしておるのと、これらを除いてはかれの生命なるもの殆んど他にこれあるを知らぬ。乞う叙べ来った一つひとつに、吾儕の繰返して以上を説いたことを、何分どうか味って見て頂きたいもので……。
[#改ページ]

 大晦日



 年の瀬の流れながれていよいよおしつもった大晦日、三百六十五日の最終の日にのぞんで、ああまた空しく一年を過ぐしたと嘆ずるは愚痴、そらほどなら毎度のことでもあり、先の先まで見えすいておることを、今更の後悔でもあるまいと、江戸ッ児はそんなことより年忘れ、まず何はともあれの、一杯機嫌で、御厄払いましょう、厄払いになにがしかを包んで、諸々のまがつみを西の海! それで気もサラリとして払いも掛けも勘定万端を早ァくにすませ、朝でなくとも熱いピリリとする奴に一風呂入って、今茲(こんじ)の垢をも綺麗さっぱり、アア正月が待ち遠しいとは自慢でばかりは言わぬ。
 されば夜に入っては梅の一鉢も冷かしてきて、福寿草の根じめに植えたるを択び、搗きたてのおすわりと共に床の間に飾り込み、今更におすわりの大なるを喜んで、今年のは去年のよりも一寸からあると北叟笑む時には、天下これより快なることはなく、心ひそかに来るべき年の福運を祝して有難てえやと軽く額をたたく。
「オイ、おッかァ! 福茶がへえったら持って来や!」
とはいつにない優しい声、女房も遉(さすが)にその声を聞くとき嬉しからぬということなく、アイと素直に福茶を運び来て、「ねえお前さん、今夜こそは除夜の鐘を聞こうじゃありませんか。百八つでしたね」と睦まじいものなり。
 こうして歳の大晦日はいつも夜あかし、明けがたにトロトロと火燵(こたつ)ながらにまどろむことはあっても、年男はすぐに若水も汲まねばならず、先ず明けましてお目出度うがすむまでは、ほんとうに安息は出来ない。
[#改ページ]

 見附と御門



 三百六十五日の年中行事に因んで、江戸趣味のあれこれをそこはかとなく漁って見た後で、まだ何やらん残っているように思って考え出したのはこの見附と御門、これこそ大江戸随一の形見とも称すべきで、さて見附は山下見附、赤坂見附、四谷、牛込の二、三ヶ所をこれに加うべく、それらいずれも多少の俤はとどめてあるも、今は昔の名残りを偲ぶにもよすが少い。殊に山下なるは殆んどあるかなきかで、これより常盤橋内なるがまだ遥かにその趣はある。
 御門は桜田と半蔵と、田安とが最もよく昔のままをあらわし、次いで和田倉門(辰の口)も殆んどそのままだ。他には竹橋御門なおその影を止め、爾余のは馬場先門にしろ、日比谷見附にしろ、今はその趾さえ捜(たず)ぬるに困難である。
 されば今僅にその悌を存する以上の見附と御門とも、いつ全く失われつくすか、滅びゆく江戸の俤を偲ぶ時、吾儕はいとど哀惜の情に堪えぬものがある。
 さるにても「時」の力の恐ろしくも又いみじきことよ、蓋しかれはすべてに対してその破壊者であると共に、又やがてその建造者である。故にかれや常にこれを破壊して、また常にこれを建造する。彼の児童が持ちあいた玩具を片端から破壊し去って、いつかその破片をつづくり、別に珍奇の玩具をものして欣ぶと一斑で、吾儕は不断に「時」の力に圧迫せられ、威嚇せられて、しかもその制肘を脱する能わざるのだ。
 人もし残されたる江戸趣味を捜ねて、最後にこの見附と御門とに至らば、必ずや吾儕とその感を同じゅうするであろう。……ホイ、これはしたり、とんだ囈語(うわごと)を長々どうも失敬!
[#改ページ]

 江戸芸者と踊子



 今のシャに深川芸者の粋と意気地なく、素袷に素足の伊達は競わずもあれ、せめてその気分だけでも享けついで、も一度江戸趣味を東京に復興さして見たいのが吾儕の望み。されば好い加減に引込めと大向うから呶鳴られぬ前、長えは毒と一旦筆を擱きはしたが、這度(このたび)は古きを温(たず)ねて新しきを知る、チッとばかり昔のことを言わして頂くことにした。
 ――さて江戸芸者の濫觴は、宝暦年中、吉原の遊女扇屋歌扇というが、年あけ後に廓内で客の酒席に侍り、琴三味線を弾きもて酔興をたすけたに因みし、それより下っては明和安永の頃からである。当時の吉原細見に、「芸者何誰外へも出し申候」とあるのに見ても、それは明らかだ。
 但し、これまでの名称は踊子とて、これは寛文頃京坂に始まり、江戸では天和貞享の頃からで、その時までは白拍子、遊女などに酒興を幇(たす)けさしていたのを、やがてその踊子を用ゆるに至った、それがつまり女芸者の起りだ。
 勿論芸者なる呼び名は、必ずしもこの時に始まったのでもないが、そは男女いずれにも称えられたことで、したがって踊子が今の芸者すなわちソレシャに相当するわけで、なお今一つ、現在の芸者によく類しておることは、芸一方で客の席へ出たのでなかったことだ。
 元禄二年五月二十一日の町触に、この踊子の屋敷方はいうに及ばず、いずれへも出入法度たるべく取締られたのは、全く私娼を営んで、風俗を紊乱したからで、して見ると落語家のいい草じゃないが、女ならでは夜のあけぬ国だけに、いつの時世にも女で苦労することが多いのかも知れぬ。
[#改ページ]

 人情本と浮世絵



 江戸芸者の詮索ついでに、それが風俗を捜ぬべく、人情本と浮世絵とから拾って見ると、為永春水の作に次の如く書いてある。

「……上田太織の鼠の棒縞、黒の小柳に紫の山繭縞の縮緬を鯨帯とし、下着はお納戸の中形縮緬、お高祖頭巾を手に持ちて乱れし鬢の島田髷……」

 これで見ると太織だの山繭縮緬、普通の縮緬などを多く用いたらしく、色合は鼠だの紫がかったもの、お納戸色などがその好みだったらしい。
 また、ソレシャ社会の驕奢を穿って、同じ人がこうも書いている。

「……極上誂織の白七子をお納戸の紋附に染め、江戸褄模様に翻(こぼ)れ梅、紅白の上絵彩色銀糸にて松葉を散らしに縫わせ……英泉の筆意を頼み、下着は縮緬鼠のさや形、帯は花色勝山に色糸を以て阿蘭陀模様を竪縞の如く縫わせたらば類なくてよかろうか。黒の呉絽服に雨竜の飛形を菅ぬいにさせたらば如何だろう……」

 それより溯って百五十年も以前の風俗になると、衣服は縞銘仙の小袖、飛白の帷子といった類、履物は吾妻下駄で、それを素足につっかけ、髪は若衆髷に結うなど、すべてが歌舞伎役者をそのままで、恐らくは態々それを擬していたのでもあろう。
 次に深川芸者の風俗を一書にたずねて詳にしたには、つぶし島田に前髪へ四本、後へ一本の簪をさし、俎板形の大きやかな櫛をさして飛白帷子に襦袢、帯は一つ結びにして扇は後ろに挟み、塗木履(ぽくり)を穿つ。但しこの書なるは足袋もつけておるが、後には素足を伊達の時好として客もゆるし、自らもそれで通したものだ。
 転じて浮世絵にこれを見ると、歌麿の両国川開きの絵に、屋形船なる芸者の片足を立膝して、杯を流れに滌(すす)いでおる様が、透屋か明石縮みなどの縞物を着ているらしく、襦袢はこれもうすもので、二の腕には匂い袋を忍ばせておる。
 それから衣服はどれも裾長に着て、舳へ立っている女の姿に鑑みると、足は内わで、襟を厭味でない抜き衣紋にしている。
 尤もこのぬき衣紋ということは、襟白粉をつけるからの起りで、京坂に始まって後、江戸にも及んだものだが、態とらしくないのはよいものだ。
 で、この風俗は、江戸芸者にばかりではなく、一般に行われたことは、その頃の浮世絵なり、絵本草双紙の類に屡次(しばしば)見るところだ。
[#改ページ]

 見番と箱屋と継ぎ棹



 芸者見番というものが江戸に出来たそもそもは、宝暦以後大黒屋秀民に始まり、その以前にはこれに類似のものすらなかった。
 また箱屋のはじまりは、「江戸職人づくし」によると、突込髪にした婆が三味線箱を背負い、前帯に褄をはしょり、素足に下駄を突っかけて片手には小丸提灯、夜道を照らしつつ先立ちして歩いておる。
 尤も、この時代には箱屋というのではなく、単にそうした傭女なり老母なりが送り迎えをしたに過ぎない。けれども、濫觴をたずぬればこれがそもそも箱屋の因みをなし、百年この方にいつとなく箱屋なるものが一つの生業として出来たのである。
 次に三味線の継ぎ棹というものは、寛政以後に出来たもので、その前は一本棹のものしかなく、傭女や老母なぞがそれを提げて、前にいったような身なりで先達すると、そのあとから裾模様の紋附ものか何かを着、帯を一つ結びのダラリと下げて、お高祖頭巾を被った芸者姿の美しいのが随いてゆく。
 ところが、その風俗如何にも際立って目につくので、寛政の改革があってからは、棹を三つ継ぎにして途中は箱で持ちあるき、嵩張りもせず、表立ちもせぬようにしたので、今にこの継ぎ棹世に行わるるに至った。
 ついでに言っておくが、芸者の途中を眼立たぬようにすることは、一時町芸者の流行いと盛大して、遂に遊廓の衰靡を来たしたので、時の幕府に哀訴して葭町(よしちょう)の菊弥を初め、廓外の芸者を構うて貰い、江戸市中に三人とか七人とかしかお構いなしのシャを残さなかったなぞ、随分と睨まれたものであって、一般に今日の贅は思いもよらぬことだったのだ。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:88 KB

担当:undef