残されたる江戸
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著者名:柴田流星 

 稗蒔



 尺寸の天地をも愛する江戸ッ児は常にその景情を象って、自然の美に接せねばやまぬ。
 麦の穂漸く色づいて、田園の風致いよいよ濃(こま)やかな頃、今戸焼の土鉢に蒔きつけた殻の青々と芽生えて、宛(さなが)ら早苗などの延びたらんようなるに、苧殻(おがら)でこしらえた橋、案山子人形、魚釣りなんどを按排し、橋の下なる流れには金魚、緋目高、子鯉といったような類を放ちて、初夏の午前を担いにのせて売り歩く、なかなかに愛でたきものだ。
「稗蒔や、ひえまァき――」
 人もしこの声を朝の巷に聞く時は、貴賤老若にかかわらず、門に出てその値ぶみをする。大小精粗によって五銭より十銭、二十銭、三十銭、五十銭、それ以上なは先ず注文でなくば大方は持合わさず、僅に半円以下の散財で恣に野趣を愛する。さても気やすいことではないか。
 要するに江戸ッ児の趣味は多角的である。その都会美にも一致すれば、田園美にも合体する。かれらは炎塵の巷に起臥するをも苦とせねば、静閑の境に悠遊するにも億劫でない。すなわちかれらは忙裏の閑をかかる小自然の間にもとめて、洗心の快をやる。されば「稗蒔や、ひえまァき――」の声耳に達するや、かれらの憧憬はその愛らしき別乾坤に馳せて、或は数銭、或は数十銭の所得を減ずるに吝(やぶさ)かならぬのである。
 人もし理髪のために床屋の店に赴かんか、そこに幾個の盆栽あり、稗蒔あり、そしてまた箱庭なんどの飾らるるを見る。これ必ずしも理髪師の風流のみではないが、待合わす人の眼を楽しましむるに利して兼ねてかれらの俳趣味をも養うものであるのだ。
 さるはまた床屋のみでない、湯屋も然り、氷店も然り、而して小料理店といわず、屋台店の飲食店といわず、近頃は欧風のショオウィンドオにまでもこれらの幾つかを按排して、装飾の一つに応用するなど、捌け口はいよいよ広くなりゆく。
 都会の膨脹が尺地をも余さず、庭というもの店舗を有する人々には次第に失われ行くにつれて、かれらの自然美に憧るる心は遂にここに赴いて、その幾鉢を領することに満足する以上、残されたる江戸趣味の中にも、かかる類いは永遠に滅びざるものの一つとや言おうか。
 ああ自然は遂に滅びぬ。人は物質の慾に足っても、それで始終の満足はされぬ。かくてかれらは自然に憧れ、かくてかれらは尺寸の別天地を占むるに算盤珠を弾かぬのだ。
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 苗売り



「朝ァ顔の苗夕顔の苗。隠元、唐茄子、へちィまの苗。茄子の苗ェ黄瓜の苗。藤ィ豆、冬瓜、ささァぎの苗」
 静かな朝の巷に、その美しい咽喉を利かせて、節面白く商いあるく苗売りの生業(なりわい)は、岡目にばかり風流なものではない。
 某のお店の若旦那、清元に自慢の咽喉を人に誇っていたまではよかったが、一ト朝この苗売りの声を聞いて心ぞその身もなって見たく、私かに苗売りの後に尾して、その家に訪ねゆき、事をわっての頼みに、初めのほどは止めても見たが、たっての所望致しかたなく、翌朝はこの若旦那のお供して、「朝ァ顔の苗――ささぎの苗――」とりどりに呼び歩いたが、若旦那荷だけは半町も担げず、すぐに代って貰った。が自慢の咽喉だけはどうでもきかしたく、とうとう一日を互いに呼び歩いて、それが病みつき、一端はそうした生業に口すぎするまでの道楽におちて、父親の勘当容易にゆりなかったを、番頭、手代、親戚、縁者の詫び言で、漸(ようよ)う元の若旦那に立ちかえる。しかしそれでも初夏の朝々にこの声を耳にしては、心自ら浮き浮きして、凝乎(じっ)としていられぬとは馬鹿にしたもうな、江戸ッ児にはありがちのことだ。
 但し、この苗売りというもの、商いの苗よりは咽喉が肝腎で、中には随分この若旦那のようながあり、売上の高も節の上手が一番だとは、どこまでも面白き生業の一つである。
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 木やり唄



 揃いの法被(はっぴ)に揃いの手拭、向鉢巻に気勢いを見せて、鳶頭、大工二十人、三十人、互いに自慢の咽喉を今日ぞとばかり、音頭取りの一トくさりを唄い終るかおわらぬに一斉の高調子、「めでためでたの若松様よ、枝も栄える、葉も繁る――」と唄い初め唄いおさむる建前のあした、都の空にこの唄声の漸く拡ごり行けば、万丈の紅塵一時に鎮まりかえって、払いたまえともうす棟梁の上なる神幣、そよ風に翻って千代の栄えを徴すとかや。
 実に木やり唄は江戸趣味のこれも一つよ。祭りの巷に男姿の芸者数多、揃い衣の片肌脱ぎになって、この唄につれ獅子頭曳くも趣は同じく、折柄の気勢いにはまたなしともまたなし。
 趣味の江戸ッ児はかくして常にこの唄にそそられ、建前のここかしこ、もしは祭りの日、物の催しの砌(みぎり)など、折りおりにこれを聞いては盃の数もめぐる。
「めでためでた」の本唄はさらなり、「不二の白雪や旭で解ける――」の木やりくずしまで、唄の数は二十幾つにも及ぶが節は元よりたった一つ、多少の崩れは三味線に合わすとてのそれ者が振舞い、そこにいずれはないでもないが、吾儕の心を誘(そそ)りゆいて、趣味の巷にこれ三昧の他事なきに至らしむる、また以て忘機の具となすに足るべきではあるまいか。
 蘇子、白居易が雅懐も、倶利迦羅紋紋の兄哥(あにい)が風流も詮ずるところは同じ境地、忘我の途に踏み入って煩襟を滌うを得ば庶幾(しょき)は已に何も叶うたのである。
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 浅草趣味



 浅草趣味は老若男女貴賤のいずれとも一致する、したがって種々に解釈され、様々に説明される。
 少年少女の眼には仲見世と奥山と六区とにかれらの趣味を探ぬべく、すなわち彼処にはおもちゃ屋と花やしきと見世物とがある。青年男女には粂の平内と六地蔵と観音裏とにその趣味を見出すべく、すなわち其処には願がけの縁結びと男を呼ぶ女と、女に買わるる男と、銘酒屋と新聞縦覧所と楊弓店と、更には大金と一直と草津とがある。独り老男老女に取っては伝法院と一寸八分の観世音菩薩と淡島様とに彼の趣味を伴う。ここには説法と利生とあらたかとが存する。
 もしそれ三社様に至っては、浜成、武成の兄弟と仲知とが遠く推古帝の御宇、一日宮戸川に網して一寸八分の黄金仏(観世音菩薩)を得たという詩のような伝説、吾儕は敢えて彼これその詮索をなすを欲せず、かばかりにロマンティックな語りぐさをいつまでも保全して、徒なる解釈をこれに試みたくないと思う。
 更に今一つの伝説を語らば、二タ昔以前に掘り出された洗手池畔の六地蔵である。伝え聞くに小野小町が工人に命じて作らしめたところ、六角の灯籠にしてその各面に地蔵尊六体を彫む。一夜この六地蔵、木萱も眠る丑満つ時に脱け出でて池畔に相会し、久しい間背中合せの逢いたくても逢われずにいたことを嘆(かこ)って、今の邂逅を喜びかわすその時、山門の仁王両個夜まわりに出でて初めてそれあるを知り、爾来今の如く金網の中にござるという。
 浅草の趣味は絵画的である。浅草の趣味は詩歌的である。浅草の趣味はロマンティックである、人は彼に酔い、それに魅せられ、そしてまたここに興がるのである。
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 八百善料理



 某県選出衆議院議員何誰と恐ろしく厳めしい名刺を出して、新橋に指おりの大料理店に上り込み、お定りの半会席を一円にまけとけなぞと遠慮会釈ものう御意遊ばす代議士殿のござる世に、八百善料理の粋を紹介しても、真に首肯(うなず)きたもうお方の果して幾人を数え得ることやら、実は少々心細き限りではあるが、こうでもない、ああでもないの食道楽の末、いよいよという時が来たら山谷にここの板前を吟味したまえ。
 浅草詣での帰るさ、界隈の料理では腹の虫が承知せぬちょう食道楽の一人、さるは八百善にてと態々歩を抂(ま)げ、座敷へ通っての注文に「何かさっぱりしたもので茶漬を!」との申しつけ、やがて出されたは黒塗りの見事な膳部に誂えの品々、別に鉢植えの茄子に花鋏一挺が添えてある。
 食道楽近頃の希望を満足して先ず高麗焼の小皿に盛られた浸しものを弄味し、更には鋏して鉢植えの茄子をちぎり、大方はそれと察して一ト口して見ると、案ずる如くに頃あいの漬き加減。さて食事をおえてこれで勘定をと十円紙幣一枚を投げ出すに、待てど暮らせど釣銭を持って来ず、如何な八百善でも浸しものに鉢植えの漬茄子で十円はとて、段々に糺して見ると、亭主自ら出て来て云々の説明、いわれを聞いては成程と大通も赤面して引きさがったとか。
「左様でございます、お高いか存じませんが手前どもでもムザとはお客様からお鳥目を頂戴は致しませぬ。実はさっぱりしたものでお茶づとの御意にございましたので、あれこれと吟味いたしまして、盆栽の蘭に持ちました花を浸しものに用いましたので……就きましては蘭の儀はお邪魔にございませねば万望お持ち帰りを……」
 亭主の言は実に如此(かくのごとき)であった。そして女中して持ち来らしめた一鉢には、如何にも五、七円はしようと思わるるほどの蘭一株、花の摘まれた痕もいと新しかった。
 そんじょそこらの通がりが江戸ッ児を真似て、聞いた風なことを召さると得てこうした失敗は免かれぬ。
 八百善の料理に一汁二菜の真価を解するに至らば、江戸ッ児の気分――その趣味をも了解するはいと容易なこと、かくてぞ吾儕は残されたる江戸趣味を人々と共に保護し、やがては再興をも図ろうと思うもの、さらば八百善料理の今も存するは、江戸ッ児にとってこの上もない僥倖なのである。
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 風鈴と釣忍



 夏の景趣を恣にして江戸ッ児の雅懐をやるもの風鈴と釣忍またその一つか。
 彼の、午後の日ざしやがての暑さを想わするほど、赤、青、黄、紫、白、いろいろに彩られた玻璃製の風鈴幾つとも数知れぬほど左右の荷につけて担い来る風鈴売りの巷を行くに、チリチリと折からの微風に涼しげな音して美しき玻璃と玻璃との触れあうを聞けば、誰も吾が家の軒端にとその一つを掲げて愛らしき夏の音楽に不断の耳を楽しまそうとは思い立つことどもだ。
 さるからにこの風鈴一つ値いを払うて軒端につるせば、また一つそこに欲しきもの出で来て、夕べの縁日に釣忍たずぬるはこれも江戸ッ児のお約束ごととでもいおうか。
 永き日の読書にも倦んじて、話すべき友も傍にはおらず、かかるとき肱を枕にコロリとなれば、軒の風鈴に緑を吹き来る風の音喧(やかまし)からず、そのチリチリに誘われてツイ華胥(かしょ)の国に遊び去る、周荘が胡蝶の夢も殊の外に安らかで、醒めぎわの現なしにも愛らしき音は何の妨げともならぬぞ嬉しい。
 かくてぞ漸くに暮れ行く空の、コバルトの色黯(なず)みて、やがて暗く、かは誰の人顔も定かならぬ折柄、椽近く座を占めて仰ぐ軒端に、さり気ない釣忍の振舞いもなかなかに悪からず、眺め深いものだ。
「なぜ風鈴の一つも下げないのだな」
 もしくは――
「ここの処へ忍でも釣るしたらなァ」
 これらの言葉が江戸ッ児によって繰返さるることは、強ち稀らしくないことで、かれらはお世辞でも、いきあたりばったりでもなく、そう感じてそういうのだ。
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 井戸がえ



 山の手の井戸は一体に底も深く、したがって湧出る水も清冽だ。さるをその井戸、水道という便利なものが出来て、次第に取こぼたれ、今はその数も尠うなったので、初夏の午前に、五、七人の井戸やして太やかな縄に纏わり、井に降り立った男の中からの合図につれ、滑車を辷(すべ)り来る縄を曳いて、井水をかえ出す様、漸くこれを見ること稀々にはなったが、かれらの懸け声とザァザッと覆さるる水の音を聞く砌(みぎり)は、ただ清々しく心楽しきものである。
「ほゥてよ※[#小書き片仮名ン、110-2]………ほゥ………」
 繰りかえさるるその懸け声の度々に、ザァザッという水音、かくて替えつくされた井戸には、盃に三杯の清酒を撒いて塩ばなを振り、残れるを井戸やども盃に受けて呑む。
 蓋(ふた)された井戸の側に佇んで耳傾くれば、今し晒された井戸には新たに湧き出でた清水の底に落つる音折々に聞えて、心ゆくこと限りなく、江戸ッ児はそのすがすがしき滴(したた)りの音聞くを欣びて、井戸やが縄に吾から手伝うもの多く、さらし井の気勢いは朝の屋敷町に時ならぬ賑わいを見することがある。
 さあれこの井戸がえというもの上下貴賤にけじめなく、華族様のお屋敷でも、素町人どもの裏長屋でも、同じ懸け声に同じ賑わい、井戸やが撒く清酒も塩ばなも、畢竟(ひっきょう)は水を浄めの同じしるしに過ぎずして、六根清浄、江戸ッ児はその清新をこれ愛する、清浄をこれ好む、実にかれらは詩をつくらざる気分詩人ではあるまいか。
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 箱庭と灯籠



 稗蒔の穂延びして漸く趣薄うなり行くにつれ、江戸ッ児の愛自然心は更に箱庭に馳せて、やがて尺寸の天地を新たに劃する。
 曩(さき)には専ら田園の趣味を伝えしもの、這度(このたび)は山野に則り、忽ちにして森林、忽ちにして沼池、一径尽くるところ橋ありて通じ、湖海ひろがるところ丘陵峙つの概、かれらの理想説は如此(かくのごとく)にしてものされ、かれらの自然観は如此にして説明さるるのである。
 されば縁日の露店に箱庭の人形、家、橋、船、家畜の類、実生の苗木と共に売行よく、植木職が小器用にしつらえたものより、各自に手づくりするを楽しみとし、船板の古びたるなぞで頃あいの箱をものし、半日の清閑をその造営に費やす、いと興あることどもかな。
 江戸ッ児はまた好んで歌舞伎灯籠をもつくる。
 夏の絵草紙屋に曾我の討入り、忠臣蔵、狐忠信、十種香などの切抜絵を購い来て、予め用意した遠見仕立の灯籠に書割といわず、大道具小道具すべてをお誂え向きにしつらえ、雪には綿、雨には糸とそれぞれに工夫して切抜絵をよきところに按排し、夜はこれに灯を入れて吾れ人の慰みとする。かれらの趣味は自然にも人事にも適する如く、詩を解すると共に、劇をも解し、自らその好むところに従って一場の演伎を形づくる。
 読者よ、乞う吾儕の既に語りしところに顧み、江戸ッ児の天才が如何に多趣多様なるかを攷えたまえ、そして更に、かくも普遍的なかれらの趣味が、現代に適せぬ所以なく、畢竟はその埋もれて世に認められざるがために、漸く忘れ果てられたを頷きたまえや。
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 定斎と小使銭



 江戸ッ児に定斎と小使銭とはいつもないことに言われておるが、実際江戸ッ児は定斎と小使銭を持合せたことがない。
 定斎の持合せがないのは、それだけによくこの薬を常用するがためで、凡そ腹痛下痢はさらなり、頭痛、眩暈(めまい)、何ぞというと必ず定斎を用ゆる。
 彼の炎天に青貝入りの薬箱を担ぎ、抽斗(ひきだし)の鐶の歩むたびに鳴るを呼び売りのしるしとする定斎やは、今も佐竹の原にその担い方の練習をして年々に市中をまわるもの尠からず、昔時は照りつける中を笠一つ被らず、定斎の利目はかくても霍乱(かくらん)にならぬとてそれで通したものだが、今は蝙蝠傘に定斎と記されたをさして、担いゆく男に附添うたるが、「え、定斎でござい。え、定斎でござい」と戸毎に小腰を屈めてゆく、今でも御維新前の老人ある家では必ずこれを買いもとめて、絶やさぬようと家人に注意さしておく。
 この定斎、それほどに利くか利かぬかは姑(しばら)く問題の外として、かくも江戸ッ児に調法がられるこの持薬で、三百年来事欠かなんだ吾儕の祖先をおもうと、その健康、その体力、恐らくはかれら気で気を医し、むつかしく言えば所謂精神療法の一助として、不知不識(しらずしらず)にこの定斎を用い来たったのであろう。
 故にかれらは己の病いにもこれを応用し、兼ねては人にもよく頒つがため、いつもその持合なき時が多く、小使銭に至っては宵越しさせぬというだけに、いつとても懐にあった例がないのだ。
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 青簾



 新築の二階家若葉の梢を凌いで聳え、葺きたての瓦美しと仰ぎ見る欄干のあなた、きのう今日掲げたと思わるる青簾のスラリと垂れて、その中より物の音静かに聞え初むる、なかなかに風情の深きものである。
 吾れ人の家の夏は、青簾かけそめて初めて趣致を添え、涼意自ら襟懐を滌(すす)ぐばかり。然れば五月の夜々の縁日には、早くも青簾売る店の一つならず、二つ三つと一晩の中に見かくること稀らしからず。さてそれらを購い来て軒近く掲ぐるに、古くさい九尺二間の陋屋にもどこかに見らるるふしの出で来て、都の家々一ト時はいずれも新しくなるが嬉しい。
 人の子の綿入を袷に脱ぎかえて、更衣の新たなるを欣ぶこころは、家に青簾掲げて棲心地の改まると同じく、別けても山の手は近郊に接するほど、簾かかげて時鳥(ホトトギス)待つの楽しみもあり、江戸ッ児には何ぼう嬉しいか知れぬものだ。
 吾儕は爾(しか)く青簾を愛する、その初袷に赴いた心はやがて青簾にも同じ好愛を恣にするのである。
 君よ、青簾の中なる美しき人の姿を見んとて朝な夕なの漫(そぞろ)歩きに、その門をさまよいたもうな。そは君が想像の自由にまかせて、簾のこなたに見えざらんこそ却々(なかなか)に興は深かり……と誰やらが口調をそのまま、われらと同じ趣の人々に心づけまいらせておく。
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 夏祭り



 江戸ッ児の気勢は祭りに於て最も遺憾なく発揮される。殊に祭りは春よりも秋よりも夏に重なるが多きぞ嬉しい。
 大江戸以来の三大祭礼といえば日枝神社すなわち山王様、深川八幡、神田明神の三つで、他は赤坂の氷川神社、牛込の築土八幡、四谷の須賀神社、佃島の住吉神社、芝の愛宕神社、浅草の浅草神社すなわち三社様など、数えたらまだ幾らもある。
 中で山王の祭りは六月十五日、昔は神田明神と祭礼の競い合いをして、何がさて負け嫌いの江戸ッ児同士だけに、血の雨を降らしたことも幾度か数知れず、ためにその筋から双方隔年に大祭をすることに定められ、日枝神社が本祭りなら神田明神が陰祭り、神田明神が本祭りなら山王が陰祭りと、否応なしにされてしまって、大きな喧嘩だけはなくなったが、山王の本祭りに山車が幾台出て、赤坂芸者が奴姿で繰出したとあれば、神田明神の本祭りには山車の数を何台増して獅子舞を出すとか、手古舞に出るとか、こればかりは維新後の四十年来、今に江戸からの競いを捨てず、近年また電車の通る中を山車も曳き出せば、縮緬の揃い衣を奮発するなぞ、大分昔に盛りかえしてきたもおかしい。
 されば祭りになけなしの身代傾けて、あすが日からは三度の食事にも差支ゆる者、今でも時々に聞くことで、深川八幡の祭礼に永代の橋が墜ちて人死にが出来たほどな、往時の賑盛はなくとも、いまだに大したもので、木場を扣(ひか)えているだけにすることがまた格別だ。――但し、日枝神社の祭礼が前にいった六月十五日で、一ト月飛んだ八月十五日が深川八幡、その翌月の九月十五日が神田明神という順序で、余なるは住吉神社の祭礼に神輿の海中渡御があるのと、三社の祭りに花川戸の兄哥たちが、自慢の神輿を吉原五花街へ担ぎ込むのとが、一風変ったおかしみがある。
 凡そ江戸ッ児として、大若小若の万灯、樽天王を見て気勢(きお)わぬものは一人もなく、ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ! の声を聞いては、誰しも家の内にジッとしておらるるものでない。大方は飛び出して、いつか己れもその群に立ちまじり、至極真面目な顔でいた男のワッショイ! ワッショイ! を聞くことよくあることだ。まァさ、そう馬鹿にしないで、その無邪気と赤裸々とを買ってお貰い申したいものだが……。
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 心太と白玉



 真夏真昼の炎天を、どこやらに用達しての帰るさ、路ばたの柳蔭などに荷おろして客を待つ心太(ところてん)やの姿を見る時、江戸ッ児にはそを見遁がして通ること却々(なかなか)に困難だ。
 立ちよって一ト皿を奮発すれば冷たい水の中から幾本かを取出して、小皿に白滝を突き出し、これに酢醤油かけて箸を添えて出す。啜りこむ腹に冷たきが通りゆくを覚ゆるばかり、口熱のねばりもサラリと拭い去られて、心地限りなく清々しい。
 江戸ッ児はその刹那の清々しさを買うに、決して懐銭を読む悠長をもたぬのである。
 かれらはまた同じ心で夕暮の散歩に、氷屋が店なる「白玉」のビラを横目に見て通りあえぬ。紅白の美しい寒晒粉を茹上げた玉幾つ、これに氷を交えて三盆白をふりかけた奴を匙で口にした気持ち、それが食道を通って胃腑におちいた時には骨の髄までも冷さが沁入るようで、夏の暑さもサラリと忘れたよう、何が旨い彼が好いと言ってからが、この味いはまた格別。それにこうして胆ッ玉まで冷やすところなざァ江戸ッ児に持ってこいの代物(しろもの)、これでなくちゃァすべてがお話にならねえのだと誰やらに言わしたら拳固で鼻ッ面を横撫でするところだろう。
 更にまた退いて考うるに、江戸ッ児の趣味は何処までいっても俳諧の風雅に一致しておる。三昧に入らずして既に禅定の機を悟り、ザックバランでもよくその気分を貴ぶ。蓋し江戸ッ児は終始この間に生き、この間に動き、そしてこの間にかれらの存在の意義を語りつつあるのである。
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 川開き



 両国の川開きは年々の隅田川夕涼みの魁(さきがけ)をなし、昔は玉屋鍵屋が承って五月二十八日より上流下流に大伝馬をもやいて大花火、仕掛花火を打揚げる。江戸ッ児の魂を有頂天にして、足元の小石にも跪かしむるはこの時で、「玉屋ァい――鍵屋ァい――」と老若ともに囃し立てた暫時は、空に咲き散れる火花の響きも耳にはとどかず、都の人々大方はその心を両国の空に馳せ、人いきれと混雑とに絞るほどな汗水垢になってもお構いなし、料理屋が二階座敷から見るよりは押すな押すなの人中にあるを面白がり、知るも知らぬも、すぐに十年の知己となった如く、互いに弥次り弥次られ、その騒ぎったら一ト通りや二タ通りではない。
 然るをこの花火、玉屋は火を過って遂にその株を失い、今では鍵屋が独り占めながら、揚げられた花火の賞美には相変らず「玉屋ァい」が多く、殊に口惜しきはかかる類にまで広告に利用して、仕掛花火にビールの広告があらわるるなぞ、何ぼう殺風景の限りだか知れぬ。
 両国の川開きもこうなってはお仕舞いだとケチった連中もあるが、これだけは滅ぼしたくないものだ。
 それからこの川開きがすむと、続いて芝浦にも花火の催しがある。これはまださのみは古いことでなく、土地の料理店などが、家の寂れを苦にしての思立ちだけに、両国のほど開放的ではないが、それでも澄み切った夏の夜空に、勇ましい響きを聞く時は、何となく心も誘られて悪い気持ちはしない。旁(かたがた)以て鍵屋の苦心も、始終に算盤との談合は第二として、いずれとも江戸ッ児の嫌がるような広告花火はまァよしにして貰いてえものだ。
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 草市と盂蘭盆



 魂まつりということ、釈迦の教えに基づいて年々の盂蘭盆に、精霊壇へ百味五果を供え、以て祖先の霊を招くは江戸ッ児のザックバランにも合する振舞いで、その魂まつる日の数々の供物など、草市の商いは陰気でどこかうら淋しい感じはするが、それでも商うどの出店は、数も歳の市に多くは譲らぬ。殊におかしきはその場所までが大方は歳の市のそれと同じで、世俗の人儀が盆暮に於けると彼此相通ぜるは、不思議なような当りまえの事実で、あたりまえのような不思議なことどもだ。
 さて魂むかえの夕べは家々の門に迎火の光り淋しく、法衣着た人々の棚経に忙しきも何やらん意味ありげだ。
 さて魂送りの夕べになると、大路小路に籠を提げたる貧の子幾たり、「お迎えお迎えお迎え」と精霊壇の供物などを申受け、何がしかの送り銭を得てこれを一宵の稼ぎとする。菜瓜のなお腐らぬは漬物屋に持ちゆいて数銭のお鳥目にかえ、よくよく物の用に立たぬを引汐にサラリと沖へ流して、送り火の行衛はいずこ、すべては型ばかりに流しはしたが、それで別段苦にもしなければ、真面目に厳かに御先祖のお祭りはしたつもり。さりとは気安くもまた罪のないことどもではないか。
 さあれ如此(かくのごとく)にして江戸ッ児は祖先を敬し、如此にしてしかも決してその祖先を忘れぬ。振舞いの粗なるを嗤いたもうな、形式に流れたようなかかる振舞いにも、心ばかりは洵に真に祖先に対するの敬虔を有し、尻切袢纏の帯しめなおして窮屈そうに霊前にかしこまり、弥蔵を極めこむ両手を鯱張って膝の上におき、坊さんのお勤がすむまでは胡座(あぐら)にもならでモジモジしている殊勝さは、その心持ちだけでも買ってやっていいと思う。
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 灯籠流し



 川びらきの夜に始まりて、大川筋の夕涼み、夏の隅田川はまた一しきり船と人に賑わうをつねとする。
 疇昔(ちゅうせき)は簾かかげた屋形船に御守殿姿具しての夕涼み、江上の清風と身辺の美女と、飛仙を挟んで悠遊した蘇子の逸楽を、グッと砕いて世話でいったも多く、柳橋から枕橋、更には水神の杜あたりまでも流れを溯って、月に夜を更かし、帰るさは山谷堀から清元の北洲に誘られた玉菊灯籠の見物に赴くなど、それぞれの趣向に凝ったものだが、今は大川の涼みにも屋形船の影を見ること稀々で、名残は兵庫屋、河内屋などの船宿にその幾艘を有するのみ、歌麿の絵にある趣はまた見られずなったが、どうかしてこれらを再興したいものだと、一部の人々は折角そう思っておる。
 それにつけてもいとど嬉しいは八百松が灯籠流しを再興したことで、この催し、いつの頃よりか廃れて誰企つる者もなかったのを、先年隅田川の寂れとてこの催しを世におこし、大川筋に名物一つ加えたは何よりのことどもである。
 さてその灯籠というは、形を都鳥の水に浮寝せる姿とし、これに灯を入れて流れの上より下へ行くにまかせて放ちやるにて、岸の遠近、船よりも楼よりも眺めはいずれ趣深く、遠く遠く流れゆく灯影の小さくなるを送るほどの心、情景ともにかのうて忘機の三昧に入るを得べし。
 都の夏を懼れて暑を山海の地に避くる人々の、かえって喧噪と雑沓と没趣味とに苦しめられて、しかもそれらに対して高価な支払をなしたを嘆(かこ)つこと、吾儕の屡次(しばしば)耳にするところで、旁徒なる懼れに遠かれる都にも、夏にかかる逸楽のあるをお知らせしておきたい。
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 蒲焼と蜆汁



 土用に入っての夏の食いものに、鰻と蜆とは江戸ッ児の真先に計えあげる一つで、つづいては泥鰌、浅蜊のたぐいである。
 鰻は何よりも蒲焼を最とし、重箱、神田川、竹葉、丹波屋、大和田、伊豆屋、奴なぞ、それぞれの老舗を看板に江戸前を鼻にかけてはおるが、今でも真に旨いのを喰わせる店、山谷の重箱を第一に算うべく、火加減、蒸しのかけ具合、たれ醤油の塩梅(あんばい)など、ここのを口にしては他に足を向くる気にはなれない。
 勿論、従来の江戸前といった鰻、今も大川尻から品川の海にかけて獲れはするが、紡績や、川蒸汽船の石炭殻を流しこむので、肉の味ゲッソリおちて、食通の口に適せず、妻沼、手賀沼あたりからのを随一とするに至っては、火加減、蒸し加減が何よりで、搗(かて)てたれ醤油の味いも元より大切だ。
 彼のチリリと皮の縮れて、焼加減な大串中串を箸にした気持ち、早くも舌めが味いたがって、無遠慮に催促するもおかしい。
 蜆はこれも大川のを第一とするが、これとて石炭殻に味いをそがれ、今は処を択らねば上物は得るに難い。
 この貝は味噌汁の一種に限ったもので、白味噌を赤味噌に混えたを最上としてある。
 ついでに泥鰌も味噌汁に限ることを言っておこう、駒形の名物泥鰌に浮れ込み、いやに江戸がって骨抜きせぬのをとりよせ、丸煮の鍋に白い腹を出してるのを見て、俄(にわか)にげんなりしてしまい、嫌々むしって喰べる連中、近来は大分多くなったと、内々嗤ってる手あいがある。
 浅蜊は澄まし汁最もよく、豆腐にあしらったも悪くはない。されど宵越しのを勿体ながって避病院へ送られぬが肝要。まさか江戸ッ児はそんな意地汚しもしまいとは思うが、すべてはさッぱりと……オオさッぱりといえば、これの塩むしもいいものだ。
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 丑べに



 紅というもの、若い女の唇に少しばかりものしたが、かえって愛でたく、上瞼に薄っすら刷いたも風情のあるものだ。
 この紅、土用と寒の丑の日に刷かすをよしとして、当日は小間物やが店先に「本日うし」と筆太に記されたビラの掲げらるるを例とするが、寒中の丑の日に刷いたは、切り傷、皮膚のあれによろしく、土用なるは毒けし、虫よけに用いる。
 されば創傷唇のあれに寒べに附けたるを見る如く、夏の手料理にこの色ざしを好み、手足の爪に丑べにをさすこと、今も年よりの心する家の子供には、屡次(しばしば)これを見ることである。
 丑べにで思出したは、この頃でも時々、この日の紅買いに土製木彫りなんどの臥牛を景物とする店、昔のように残れることで、これも江戸趣味の、なお滅びざる俤の一つとして、吾儕はまたなく愛するものである。
 京の女は厚化粧、白粉を頸筋にまで用いて、べには唇にばかりではなく、目じり目がしら、引眉にもこれを加うとぞいうが、江戸ッ児は女でも瀟洒たるもの、好んで多摩川の水にみがき上げた素顔素肌を誇り、強ては白粉を用いず、ただ紅のみは下唇にチョと目立たぬくらい、それも態とらしきは吾から避けて用いぬようにしている。
 女の口紅はこうしてこそ趣も深く、なかなかに捨てがたく思わるるのを、徒にコッテリと唇いっぱいにつけて、折角の愛らしい口元を、子鬼の笑ったようにしてしまうもの多きは、寧ろ天性の麗質を損ずるもの、吾儕が生粋の江戸ッ児には憚んながらそんな女は一人もいないはずだ。
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 朝顔と蓮



 松樹千年の緑を誇ろうよりも、槿花一日の栄えを本来の面目とする江戸ッ児には、旦々に花新たなる朝顔を愛し、兼ねては汚泥を出でて露の白玉を宿す蓮の清新を賞する、洵にあらそい難きことどもである。
 その朝顔、入谷なるを本場とし、丸新、入又、植惣なんど、黎明より客足しげく、昔ながらの朝顔人形、どこまでも江戸ッ児は芝居気があっておかしい。
 芝居気といえば、朝顔の夏を入谷なる何がしの寺で、態々かけだしをものしての伝道布教、麦湯のふるまいに浮き足になりながらでも聴聞してゆく人の多いは、これも一碗の恩恵に折からの渇を医し得た義理ゆえもあろうが、場所だけに何やらん面白い感じがする。
 さて朝顔は、ここを本場とはするものの、育ちは亀戸で、さるは恰も田舎人が漸く都会の生活になれて、やがては東京ッ児となりおおするにも似てはいまいか。亀戸の植木屋はとんだ九太夫役を承ったものだ。
 蓮は花の白きをこそ称すれ、彼の朝靄に包まれて姿朧なる折柄、東の空に旭の初光チラと見ゆるや否、ポッ! ポッ! と静かなる音して、今まで蕾なりし花の唇頓(とみ)に微笑み、ある限りの人々ただ夢を辿るおもい、淡い自覚に吾がうつつなるを辛くも悟り得る際の心地、西の国々の詩人が悦ぶはこうした砌(みぎり)の感じでもあろうか。
 朝の不忍に池畔のそぞろ歩きすれば、この種の趣致は思うままに味われる。江戸ッ児は常にこの趣致を愛する、然りただそれこれを愛する、余には深い意味も何もあったものではない。
 蓮はなお芝公園にも浅草公園にもある、されど最も憾むべきはお濠の中なるがあとなくなったことだ。
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 滝あみ



 那智、華厳、養老、不動なんど、銀河倒懸三千尺の雄大なるは見難きも、水に親しむ夏には江戸ッ児も滝あみを思立つが多く、近年は専ら権現の滝、不動の滝なぞ足場がよいからか王子などに行く人多く、大方は朝顔を入谷に見て不忍の蓮をも賞し、忍川、あげだしさては鳥又、笹の雪と思い思いの家に朝茶の子すまし、早ければ道灌山を飛鳥山に出て、到る処に緑蔭の清風を貪り、さていい加減汗になって滝浴みという順序だが、横着には汽車を利して王子までを一ト飛び、滝の川に臨める水亭に帯くつろげて汗を入れ、枝豆、衣かつぎの茹加減なを摘み塩つけて頬張った上、さてそろそろ滝壺へおり立って九夏の炎塵を忘るる。
 この滝、王子なるも何処なるも女滝男滝にわかれて、殊に当節は葭簀(よしず)の囲いさえ結われたが、江戸ッ児は男も女も噪(さわ)ぐのが面白く、葭簀を境いにキャッキャッとの騒ぎ、街衢をはなれたこの小仙寰(せんかん)には遠慮も会釈もあったものではない。
 滝の名所はここ王子なるを初めに、角筈(つのはず)の十二社(じゅうにそう)、目黒の不動などを主とし、遠くは八王子、青梅などにその大なるものをたずね得べし。
 しかし江戸ッ児にはただその雄大なる姿を賞するのみでは承知が出来ず、どうしても素裸の褌一つになり、飛下する水に五体を打たせねばジッとしていられぬ性とて、高雄山なるは浴みもされるが、金刀比羅の滝、独鈷(どっこ)の滝など、見るが主なるはさばかりに好んで足を向けない。――一つは倶利迦羅紋紋の腕から背を、これ見よがしの罪のない誇りを抱く手あいもあるからであろう。
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 虫と河鹿



 松虫、鈴虫、轡虫(クツワムシ)、さては草雲雀、螽斯(キリギリス)なんど、いずれ野に聞くべきものを美しき籠にして見る都びとの風流は、今も昔に変らぬが、ただこの虫というもの、今は野生のを捕え来て商うのではなくて、大方は人工孵化。走りを好む手合いをお客様にしての商売は、こうした生きものをも造化の下請負せねば間に合わず、一年三百六十五日、己が住居の床下にそれはそれはごたいそうな虫の巣を拵えこんで、無慈悲の冬を囲いもしてやれば、かれらの子孫の蕃殖をもお手伝いする。虫どもに言わしたら、これが吾々の造物主とあがめ奉るかも知れない。
 さあれ人間が手づくりの虫は命も短く、地体が達者でもないために、うかと水でもかけてやろうものなら、即得往生、新しくやった胡瓜の半ばをもつくさで諸足縮めて固くなっておるに、吾れ人ともに無常を感ぜざるを得ぬ。
 かくて野生の虫、近郊に鳴きすだく頃には、人工の虫は元の古巣に、蟄竜の嘆を恣にする。さても有為転変の世のこれも是非なき一つであろうか。
 有為転変といえば、今は野に鳴く虫も態々ゆいて聞く人尠く、したがって虫択みなどいう娯しみは、いつか廃れ果てて、江戸ッ児にも風雅心は薄らぎ、縁日の露店に屑虫を売りつけられてただ安かったのを喜ぶ、実は少々情なくてならぬ。
 されば詩経の草木、万葉の草木なんど、菊塢翁の昔から凝りやをうりものの、向島百花園、三、五年この方、吉例を再興して虫放ちの催しをなし、残された江戸趣味の普及をとて同好を語らい招く。当夜に来合したほどの人に話せねえ手合は一人もないが、殊に嬉しいは同趣味の人々聞き伝え、語りあわして、それからそれへと来衆の数をますことで、さてこうなって見ると案外に話せる御仁もまだ大分世にはござると、園の老主人ではないが、大いに人意を強うした。
 河鹿は縁日もの、振り売りの手合いからは決して買わぬもの、これも三歳以下なはまだ籠なれずして鳴きも歌わず、どうかすると姿ばかりがよく似た蛙めを掴まされることさえある。
 飼うには素人にも骨が折れず、生き虫と時々の新しき水を怠らねば誰れにもそそうはなく、鳴きも然るべき鳥屋が売ったのなら請合いである。
 行いて聞くには汐入の渡しを綾瀬の流れに入って、溯ることしばし、そこに月影の砕くる瀬ありて、彼の愛すべき声を賞すべし。半宵船をもやいて、ここらあたりに月と河鹿を賞するの風雅人、果して都に幾たりを算え得ることであろうか。
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 走り鮎



 鮎は当歳の走りを別して賞美する事、必ずしも江戸ッ児ならずともだが、今では蕃殖を保護するというので、七月十五日までは禁漁とあり、旁名物の多摩川ものはそれ以後でなくば魚河岸にも現れず、二子に赴いても網一つ打つことならねば、江戸ッ児には酷い辛抱ながら、解禁の日よりは河岸にも籠をつむことあり、それまで幅を利かしていた秩父もの、国府津ものなど、漸く片隅に退けられて、これより一しきり、鮎は多摩川に限らるるもおかしい。
 凡そ鮎の真味は、その肉よりも骨にあるので、噛みしむる口に芳脂の舌ざわり快く、歯に何の骨折り一つさせぬようなを殊に好しとしてある。さるは江戸ッ児の産湯する多摩川の水に産するを随一とし、秩父の渓流に育つも味は劣れりというではないが、多摩川のに比して骨の硬いが難だ。国府津ものは酒匂川にとれるを一番の上味とし、山北の鮎鮨で東海道を上下するほどの人々は予て馴染だが、これとても骨は硬い。
 畢竟若鮎の走りを賞すること、たとえばピンとはねて瀬をも流れをも溯るべく、兼ねては水の清冽なるを愛して、濁りに棲まぬその性にある。
 余の人々は如何あろうか、吾儕元よりその意を知らず、ただ江戸ッ児に至っては、ひたぶるにその性を愛して自ら彼の清きにおらんとするからである。
 さるにても近頃の多摩川漁夫、或は密漁を企て、生洲飼いをなし、客を見て獲物の多寡を加減するなぞ、江戸ッ児には癪にさわることばかり、これでは折角の鮎が估券を堕しはせぬかと、そんじょそこらの兄哥がいい心配をしておる。
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 縁日と露店



 縁日趣味、露店趣味は江戸ッ児にして初めてこれを完全に解し得るもの。月の三十日が間、唯の一日都大路の何処にも縁日がないという晩はなく、苟(いやしく)も天気模様さえよければ、からッ風の吹く寒い夜でも、植木屋が出て、飴屋が出て、玩具屋が出て、そして金物屋、小間物屋、絵草紙屋、煎豆屋、おでん屋、毛革屋、帽子襟巻手袋屋、金花糖屋、更に夏なれば虫屋、風鈴屋、簾屋、茣蓙屋、氷屋、甘酒やなど、路の両側に櫛比して店を拡げ、区劃を限って車止めの立札の植(た)てられる頃より、人出は夜と共に弥(いや)増しに増して、競り屋の男は冬でもシャツ一枚の片肌脱ぎ、「さッこれいくら……」と吾れから値を促し問うて、良時は悪口の言いあい、江戸ッ児はこんなことが面白くてただ他愛もなく、「五銭――十銭――二十銭――しょんべん――」なぞと混ぜかえせば、「貧乏人は黙ってすッこんでろ!」と今にも喧嘩が始まりそう。こんなことで夜の十一時頃までにかなりの商いしてのけるとは存外なものだ。
 露店趣味は縁日の以外にもこれを捜ぬるを得べく、上野、浅草の広小路、銀座南北の大通りを東側の人道なぞ、ここには一年三百六十五日、雨の日と風の強い日をさえ除けば、大方の縁日の二つがけ三つがけの出店、殊に夏の涼み時と冬の師走月とは客足も繁くして、露店の数も多きを加え、耳を病みて詰薬した爺さん、眼をわずらって黒眼鏡かけた中年増、若い神さんらしいのもあれば、小狡(こざか)しい中僧もおる。五、七年前まではかなりの骨董屋だったという四十男の店などには、古渡り唐物とか、古代蒔絵とか、仰々しい貼札しての古道具ずらりと陳べて、いやに客の足元から顔色を窺う無気味さ、こうしたのが数多い中には幾たりかあって、同じ仲間から内々では悪く言われても、「わァしどもァこんな処へ出るんじゃごわせんがな」と、少し頭の禿げかかった旦那らしいのを見かけると、妙にこだわって出て、附け時代のいかさま物を正真正銘で通そうとする不埒、折々は旋毛(つむじ)の曲った兄哥などに正体を見すかされて、錫製で化けきろうとした巻莨(たばこ)入れなどを、「なんでい、こりゃアンチじゃァねえか」と一本きめつけられ、グウの音も出ないところなのを、千枚張りは存じより押しが太く、「おめぇさん一体買うのか買わねえのか。え、買うなら何とでも言いなせえだが、冷かしなら黙って貰おう。ねえ、ほかのお客の邪魔にならァ……」とは鼻ッぱりの強いことこの上もない。但し江戸ッ児にもこんな屑がありがちなは、尠からず心外の至りだ……と、また誰やらが愚痴ッていたッけ!
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 新内と声色



 秋は月の夜更けに、都の大路小路を流しゆく新内の三味線、澄み切った空に余音を伝えて妙に心を誘(そそ)るもあわれだ。
 さればぞこの哀愁を帯びた旋律に誘われて、浮世物憂く、心わびしと思う折柄には、女の小さな胸一つに何事もおさめかねて、心中を思立つもの、廓の秋にはいとど多しとか聞く。
 鼻ッぱりは強くても情に脆い江戸ッ児には、こうした女から一緒に死んでくれえと言われては後へも退かず、ツイ一夜を仮初めの契りしたばかりに死出三途の道伴れまでして命惜しいとも思わぬ、これまでにされては心ぞ可愛い男とも女はそのとき初めて感じもするであろう。
 さるはまた廓の夜でなくもあれ、遠くより近づき来て再び遠ざりゆくテンツルツンテン、ツンテンツンテンの響き、或は低く、或は高く、夜の空気を揺るがせて余音の嫋々を伝うるとき寒灯の孤座に人知れず泣く男の女房に去られてと聞いてもその迂(う)ッ気(け)を嗤うよりは、貰い泣きするが情だ。
 声色は春の夜の朧月にも相応わしいが、夏より秋にかけての夜ごとに聞く銅鑼の音、「ええ、御贔負様如何? お二階の旦那! 何ぞ御贔負様を……」と又一つボーン!
「あ、こりゃァ、才助とやらァ……近うまいって下物いたせ」と、声もかからぬ中から二階を見あげて、「大盃」の一節をチョッピリ、折から通りかかった若者が景気をつけて、「川崎屋ァ!」とか何とか呼びかけると、本人得意になってグッと反り身になり、「そのさかなには此方に望みがある。そちが額の眉間の傷ゥ、この場の下物に物語りいたしえェ……」と、抑揚を際立つほどに川崎屋でゆき「ウウウこの傷はァ、ずぶろくぐでんに……いやなに、めいていな仕りまして、石に跪き倒れし折柄……」と高島屋とのかけ合いにまで及び、「あいや才助ェ、そちゃこの直高を愚昧と思うか、やさ、盲目と見たかァ……千軍万馬の中往来なし、刀傷か槍傷かァ、それ見わけのつかぬ直高と思うやッ!」……と、まで来ればお二階の旦那なるもの御贔負様を一つ何々と御意遊ばさぬことはない。よし旦那にして御意遊ばさぬとしてからが、ねえ貴方や! と、おねだりの出るのは定で、いずれにしてもその続きか然らずは音羽屋の弁天小僧、成田屋の地震加藤なんど、どのみち一つ二つの仰せは承わられる。芸が身を喰う生業なればか、ここに至って本人無上の光栄に感じ、慾徳を離れての熱心は買ってやるところなるべし。
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 十五夜と二十六夜



 秋の月見は八月の十五夜、今も都は芋芒を野にもとむるに及ばず、横丁の八百屋におさんを走らすれば、穂芒の多少は好み次第、里芋も衣かつぎ芋も、栗も、枝豆も、走りを賞する人々が客なる商売物、何一つ揃わぬことなく、月見団子の餅の粉まで、乾物屋へ廻らずともなので、宵には万の供物もととのい、二階座敷に打ちつどうての月待ち、武蔵野の月は昔に瓦屋の唐草を出て唐草に入るまで、さ霧の立ちこむる巷に灯影淡く、折々は人を休むる雲の光りを奪うとも、一楼の明月に雨はじめて晴ればれと、且つ語り且つ喰うて枝豆をつくし、栗を殻ばかりにして、衣かつぎ芋の蛻(ぬけがら)、遠慮のかたまり二つ三つと共に器に山を築く。
「オヤ、ま随分だわねえ。もう皆んなよ」と娘まず驚けば、「そんなに喰べて、お嫁にでもいってたら離縁ものだよ」なぞと母親もまだ何かに手を出しそう。
「僕なんかお嫁に行くんじゃなし、大丈夫だァ」と男の児の手はなお残りの団子に及ぶ。蓋し江戸ッ児には花にも月にも団子なるべきかな。
 二十六夜の月待ちは、鬼ひしぐ弁慶も稚児姿の若ければ恋におちて、上使の席に苦しい思いの種子を蒔く、若木の蕾は誘う風さえあれば何時でも綻びるものよ、須磨寺の夜は知らずもあれ、この夜芝浦、愛宕山、九段上、駿河台、上野は桜ヶ岡、待乳山、洲崎なんど、いずれ月見には恰好の場所に宵より待ちあかして、更くるに遅い長夜も早や二時を過ぎ、三々五々たる人影いよいよ群をなして、かかる砌(みぎり)にも思う人は出来るものぞとか、月いでて後の帰るさに、宵までは見ず知らずの男と女とが、肩をつらねて語りつつ行くもおかし。さても都人は気楽なとムザとは嗤いたもうな、江戸ッ児はザックバランでもそうした出来心の恋にはおちず、前々に月待ちのこの夜落いる箇処の約束はしても、今までに見も知りもせぬ男おんなのいたずら事、大方は都へかりそめに来ている人々の鎮守の祭りに振舞うと一斑で、かかるは吾儕の苦々しくおもうところだ。
 何がさて、今の若き人々の飯ごとなる恋というもの、江戸ッ児にはただ危っかしくてあぶなっかしくてよそごとながらいろいろ思うとは、頭の禿げた江戸の残党が口癖のようにいうこと。それもこれも畢竟は苦労が足らぬからのことで、かくての取締り故に様々な御法度が出来て、江戸趣味を滅ぼしゆかんこと、何ぼうの憾みか知れないことだ。
 然り今の有様では二十六夜待ちの禁止も、あるいはまた出まいものでもなし。恋というもの、するならばするで、せめてそれらしい恋をしては下さるまいか、つまらぬことで江戸趣味をなくしたくないものだて!
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 細見と辻占売り



 都は夜の巷に細見売りの姿を見ること、今はほとほと少うなった。たとえば月待つほどの星の宵に、街灯の光りほの暗い横丁をゆく時、「新吉原ァ細見。華魁(おいらん)のゥ歳からァ源氏名ァ本名ゥ職順※[#小書き片仮名ン、176-4]まで、残らずゥわかる細見はァいかが――」
 その声を最も多く耳にしたは浅草の千束町から竜泉寺筋、余は浅草の広小路にも上野の山下にも折々に見聞きしたものだが、近頃は大門を入ってからでなくば容易に姿すら見かけず、神田から九段下、牛込見附界隈にこれをまのあたりせんことは最早過ぎし夢となり果てた。さるにてもこの細見売りというもの、当時は何処に何を生業とすることやら……。
 聞けば今の絵葉書売りというもの、その一部は昔細見を売りあるいた男とやらで、如何に流行なればとて、縁日の露店に、実はよりどり五厘から一銭二銭の安絵葉書商うだけでは、腹も懐も温くはならず、さればその懐に忍ばせたもの、懐炉温石のたぐいにあらずして十二枚一組の極彩色、中なるは手易くあけて見せずに、客を択っても怪しい笑顔「へえ如何です」なぞは五十歩百歩かは知らぬが下りはてたもの、変れば変るものだと昔の若い人が妙に感心していた。
「河内瓢箪山稲荷辻占」恋の判断を小さな紙に記して、夜長の伽(とぎ)に売りあるく生業、これも都にフッツリ影を留めずなって、名物かりん糖の中に交れるを買って見るなど、今は恋にも喰意地がついてまわるとは情ない限りだ。
 彼の辻占売りあるく男の、チラと見た怪し姿に、一声高く「恋のゥ辻占ァ――」と呶鳴っておいて、俄に変る股だち腕まくり、新派にはよくある型だが、曾ては刑事のこれ化けたも真実にあるとか、人間というもいつも芝居ッ気を放れぬところが頼もしいと此方とらは思う。
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 おさらい



 長唄、清元、常磐津、さては歌沢、振り事など、歌舞の道にお師匠さんたるもの、互いに己が弟子の上達を誇りに、おさらいというもの、多くは秋の長夜を利して催すが例である。
 設けの席は弟子の多寡にもよるべく、貸席、しもた家、乃至はまたお師匠さん自身の家、招く人の数に準じて座敷幾つかを打ちぬきにし、緋毛氈に飾られた高座を正面に、紫の幔幕結いまわし、それへかけつらねたビラ幾十枚、それもこれも数の多いが自慢で、若い娘達の□々という声、花も蕾のかれらにはいつも心長閑にして春のようなであろう。
 秋のおさらいは昼よりも灯する頃より夜と共に興闌(たけなわ)なるがつねだ。彼の銀燭に蝋燭の火ざし華やかに、番組も序の口を終ったほどから、聴衆も居ずまいを直して耳傾くれば、お師匠さんの身の入れ方も一倍深くなって、三味線の音色撥さばき諸共に冴え、人々の心次第に誘われてゆく。
 弾き語りもすんで、立唄、立三味線、高座にずらりと並居てのおさらいは、その日の呼び物だけにグッと景気づき、後見にまわったお師匠さんの気の張りも強くなる。
 こうして一わたりすむと中入りには菓弁寿の御馳走、娘達はお世辞の言いくらやら、申訳のしあいやらで、小鳥の百々囀(さえず)り、良時はただ喧ましく賑わしく、さて再び柝を入れると俄に鎮まりかえって満場ただ水を打ったよう……と見るもほんの一ト時すぐに又どこやらでヒソヒソ話が始まって、それが彼方此方へと移ってゆく。
 それよりして千秋楽までは代稽古するほどの腕前揃い、ツイその撥に咽喉に魅せられて帰るさは酔ったよう。勿論おみきの利目も少しは手伝っておることと知るべきだ。
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 常磐津、清元、歌沢



 江戸趣味の音楽として、吾儕は先ず常磐津をその一つに数え、次いで清元、歌沢をあげたいと思う。
 長唄は植木店の家元といい、分家の岡安一派まで、いずれ江戸ッ児ならぬはないが、趣味の上からは、チト野暮なを如何せん。
 さるにても常磐津といい清元といい、年々に名人の病衰して亡びゆくこと、時にとっての何ぼうの損失であるよう……。
 昔者は霜白き旦、さては風冴ゆる夕べの火の見などに出て、温めねば鼓さえ凍るほどなを、手に覚えのなくなるまでも寒稽古励んで腕を研き、互いに名人の域に達せねば止まじと振舞うたので、この道の達者世に続出して、自ずとこうした趣味の普及もなりはしたが、今はさばかりに芸道に出精の者もなく、趣味も漸く廃れゆくこそ却々(なかなか)に口惜しい。
 歌沢とても芝金の一派、寅右衛門の一派など両々腕を競えど、未だ技の疇昔(ちゅうせき)に及ぶものなく、今し音曲の江戸趣味はこれらには残れ、どうやら灯将に尽きんとして更に明を加うというような感がしてならぬ。
 入神の妙技はさて措くとしても、これも残された江戸趣味の一つとして見れば、実はここらからその復興を企てて、新しい江戸を東京の今にものしたいものだと、まァさ、折角そんなに思っているので、こちとらは随分椽の下の力持ちもしてえる奴さ。どうですえ、親方とか太夫とか、乃至は師匠とか言われてござる御仁、もちっと、何と骨を折って見てくれる気はねえものか知らんて!
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 お会式



 毎年陰暦十月十三日、祖師日蓮の忌日を卜して執行の法会をお会式とはいい、宗徒は又おめいこうとて本山に参籠する。池上の本門寺、堀内のお祖師様など、江戸以来の霊場で、遠くは中山の法華経寺へも出かける。
 この御会式、昔者(せきしゃ)は今よりも荘厳にものされた代りには、お籠りの男女、夜暗に互いのおもいを通わせ、日頃の恋をその夜に遂ぐるなど、とんだ粋ごとも行われて、あんまり一貫三百ただ取りでもなかったらしく、団扇太鼓の響きと共に、それよりして浮名の立ち初むるも多かったが、今は風俗上の取締り行届いて、この霊場を汚さんもの、皆無とはあるまいが大方尠うなった。
 それ江戸ッ児の気勢いは御祭り騒ぎにしくものなく、妙法蓮華経の功力心願、それもこれも団扇太鼓の音、大万灯の賑わいに誘われてのこと、とばかりでは一向有難味も薄うなる勘定だが、案外に江戸ッ児は正直なところもあって、堂に詣って数珠爪繰る時には、一ト通りの敬虔と尊崇と帰依とを有し、南無妙法蓮華経の唱名も殊勝である。
 但し往くさ来るさの講中の気勢、団扇太鼓の拍子どりして歩む時には、ただそれ無我夢中で、遠い路が苦になるでもない。
 殊におかしいは他宗他門の人々、このお会式にも見物を怠らず、本門寺への沿道はかかる群にも賑わって、さて本堂前の賽銭箱には、同じく喜捨のお鳥目を吝(おし)まず、搗(かて)て加えては真宗の人も、浄土の人も、真言、天台、禅、曹洞、諸宗の信徒悉く合掌礼拝、一応の崇敬をば忽(ゆるが)せにせず、帰りには名物の煎餅、枝柿の家苞(いえづと)も約束ごとのように誰れも忘れてゆかぬこそ面白い。
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 菊と紅葉



 菊は赤坂御苑なるを最とし、輪も大きく類も多いが、一般衆庶の拝観をゆるされず、したがって上下貴賤の区別なく、誰をでも千客万来、木戸銭取って自由に見せるのは相も変らず団子坂。今も活人形の大道具大仕掛けに、近年は電気応用という至極手数のかかった甘いことが流行り出して、一幹千輪の珍花よりも、舞鶴、千代の里、白楽天などの銘花よりも、歌舞伎好みが百人向きで、染井の植木屋が折角の骨おりも何の役に立たず、花の君子なるものと賞された菊も、徒に瓦礫の間に余生を送る姿、なんぼう口惜しい限りだろうか。
 紅葉は吹上御苑の霜錦亭より眺むるもの、大江戸以来随一とせられておるが、これとても一般の拝観は思いもよらず、次いで新宿の御苑、赤坂の離宮なるも色渥丹の如く頗る賞すべきか。その他では麹町の山王、靖国神社、小石川の後楽園、芝の山内などで、その余に人々のゆくとしてゆくのは王子の滝の川最も近く、品川の海晏寺なるは温暖の南を受けて至極よさそうだが、存外に色づきが遅い。
 しかし紅葉は如何なことにも負けおしみして力んではいられず、塵埃に汚れたドス黯いのを見ようよりは遠く秩父の渓間か、高雄山にこれを探るによろしく、これだけは大自慢の江戸ッ児全体が夙(はや)くから遺憾としておるところだ。
 かくいう某も実はその残念におもう一人で、京の女にはさのみも驚かなんだが、紅葉だけは何故ああした美しい色に出ぬのかと、熟々(つくづく)いやになってしまった。学者に言わしたら恐らくは気候の工合、水蒸気の加減にもよるべく、更には紅塵の多少、地味の如何にも関係すると鬚髯を撫してただ微笑するのみだろう。
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 酉の市



 酉の市は取りの市、掃き米はき込めの慾の皮がつッ張った連中の、年々の福を祝うてウンと金が儲かるようと、それさに肩摩轂撃(こくげき)、押すなおすなの雑沓を現ずるのだが、何がさて、大慾は無慾に近く、とりにゆくのはとられにゆくので、鷲(おおとり)神社には初穂をとられ、熊手屋には見すみす高いものを負けろとあっては縁起にかかわるので、景気よくシャンシャンシャンと手を打たれて、まるでただとりされるような金をとられ、場所が吉原田圃で太郎稲荷にも近ければ、狐ただとりは千本桜にも因みがあり、その千本が縁起だと嬉しがる手合いも尠からず、罪のないことこの上ない。
 こうして帰るさは吉原病院の非常門から花の江戸町、京町や柳桜の仲の町、いつか物いう花のチリツテシャン、呑めや唄えの大陽気に、財布の紐も心と共に解けはてて、掻き込めかきこめの鷲掴み、とうとう一文なしに掴みどりされて、気がついた時にはお預りの熊手一つ、お近い中にと親切そうに言われて、二の酉に裏をかえす連中、これでも慾の皮がつッ張っているのかと思うと可笑くておかしくてならない。
 されば酉の市は先様がとりの市、こっちはとられまちで、どの道金に縁の薄い江戸ッ児には、宵越しをさせたくもこの始末なので及びもつかぬこと、それでも一かどの福運を得る気で、眼前とられにゆくを甘んずるなどはとうてい江戸ッ児以外の人には馬鹿気切ってて嘘にも真似の出来たものではない。
 殊には熊手の腹に阿多福のシンボル、そもそも誰が思いついての売りはじめやら、勿体らしく店々の入口、さては神棚の一部に飾られたこれら江戸ッ児の象徴を見る時は、情ないよりは寧ろその稚気を愛すべきだ。
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 鍋焼饂飩と稲荷鮨



 霜夜の鐘の凍るばかりに音冴えて、都の巷に人影のいよいよ疎なる時、折々の按摩が流しの笛につれて、遠くより聞え来るもの、「鍋焼ァき饂飩※[#小書き片仮名ン、198-4]、え饂飩やァい――」と、「稲荷ァりさん、え、いなァりさん――」の声なるべし。
 もしそれこの合の手として犬の遠吠えを加うれば、冬の情景ここにつくされて、限りなき淋しさを味うことが出来る。
 されば夜なべの気も惓んじた頃、戸外に一度この声を聞く時は、狐窓から呼び止めて熱いのをと幾つか誂える。心得て枝炭新たにさしくべ、パタパタと急しく渋団扇ものせば、忽ちにパチパチと勇ましい音して、お誂えの数は揃う。
 凡そ鍋焼饂飩は吹きふき喰べるような熱いのを最も賞美する。故に立ちのぼる湯の気の中に顔をうずめて箸を運ぶ時、三ッ葉あり蒲鉾あり、化粧麩、花がつおなど、いろいろの種物にまじわれば、丸三の安饂飩も存外に旨く味われて、食通も時に舌鼓を打つぞおかしい。
 稲荷鮨は元来がおこんこ様好み。麻の実、萱の実、青昆布などの扱(あし)らいに、ツイ騙されて南京米をも知らずに頬張るが、以前はそんな吝(けち)なのはなかったものだ、憚(はばか)んながら今でも千住の鈴木まで買いにゆくなら、ころもにしてある油揚も別製なれば、種物も米も吟味に吟味してある。殊に掻きたての辛子さえ添えてくれるには誰しもここに限ると御意遊ばすも無理ならぬこと。態々稲荷鮨くらいにと、電車すら通う便利な世になっても、まだ買いにも喰いにも行かないという人々には、のっけからお話も何も出来ないことだ。ここいらの心持ちも、実ァ口で言うだけじゃァ解らないが、早く言やァ江戸ッ児の気分なのだ。
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 からッ風



 武蔵野は筑波颪(おろし)のからッ風、秋の暮から冬三月を吹いてふいて吹きとおして、なお且つ花さく日にも吹きやまず、とかくして三春の行楽をも蹂躙(ふみにじ)ろうとすること必ずしも稀らしくはない。
 大江戸以来の名物も数多い中に、このからッ風は今に毛ほども相変らずで、しかもこの風時々に悪戯をなすこと限りなく、通りすがりの若い女の裳を弄び、おこそ頭巾の後れ髪を苛むなぞはまだしものこと、ややともすればジャアンと打ッつかったが最後、大江戸を唯一呑みと赤い舌を吐いて、ペロリペロリそこら中を嘗めまわす。江戸の花だと気勢う連中も、災の我身に及ぶ時は敢えてそうした呑気ばかり言ってはおれず、それというより死力を尽してこれと闘わねばならないので、夜々のからッ風に火の元を用心し、向島は秋葉神社の護符を拝受して台所の神棚に荒神様と同居させるなぞ、明暦以来は一層懲りに懲りているので、用意周到行きわたらざる隈もない。
「ああ又いやに吹きやァがるじゃねえか。今夜あたり、ジャンと来なきゃァいいが」なぞと言う晩には妙に神経も昂ってきて、器物の音にも耳を聳てる。

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