残されたる江戸
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著者名:柴田流星 

青簾
夏祭り
心太と白玉
川開き
草市と盂蘭盆
灯籠流し
蒲焼と蜆汁
丑べに
朝顔と蓮
滝あみ
虫と河鹿
走り鮎
縁日と露店
新内と声色
十五夜と二十六夜
細見と辻占売り
おさらい
常磐津、清元、歌沢
お会式
菊と紅葉
酉の市
鍋焼饂飩と稲荷鮨
からッ風
納豆と朝湯
歳の市
大晦日
見附と御門
江戸芸者と踊子
人情本と浮世絵
見番と箱屋と継ぎ棹
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挿画・江戸川朝歌(竹久夢二の別名)[#改ページ]

 江戸ッ児の文明は大川一つ向岸に追いやられて、とうとう本所深川の片隅に押込められてしまった。然らばすなわち、今の東京に江戸趣味は殆んど全く滅ぼしつくされたろうか。いいえさ、まだ捜しさいすりゃァ随分見つけ出すことが出来まさァね。
 さ、そこで、少し思う仔細があるのでそこはかとなく漁って見たら、こんなものが拾い出されたようなわけで、残されたる江戸だなんて、ごたいそうもないこと。実はそんじょそこらのお人の悪い御仁にツイそそのかされて、例のおッちょこちょいから、とんだ囈言(うわごと)までもかくの如しという始末、まァ長え眼でごろうじて下せいと、あなかしこあなかしこ

 空に五月の鯉の翻る朝
著者[#改丁]

残されたる江戸
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 江戸ッ児の教育



 十九世紀に遺された女と子供の研究が、二十世紀の今日この頃になって、婦人問題がどうの、児童問題がこうのと、むしょうに解決を急ぎ出し、実物教育なぞいうことが大分やかましくなってきた。西洋文明もこうなって見ると実は少々心細いて! 自慢じゃないが江戸ッ児にはその実物教育てのが三百年も前からちゃァんと決定されている、しかも俚謡になって――

ちん(狆)わん(犬)ねこ(猫)ニャァ(啼き声)ちゅう(鼠)きんぎょ(金魚)に放しがめ(亀)うし(牛)モウ/\(啼き声)こまいぬ(高麗狗)にすゞ(鈴)ガラリン(鈴の鳴る音)かえる(蛙)が三つでみひょこ/\(三匹が動く態)はと(鳩)ポッポ(鳴き声)にたていし(立石)いしどうろ(石灯籠)こぞう(小僧)がこけ(転)ているかい(貝)つく(突)/\ほてい(布袋)のどぶつ(土仏)につんぼえびす(聾恵比寿)がん(雁)がさんば(三羽)にとりい(鳥居)におかめ(阿亀)にはんにゃ(般若)にヒュウドンチャン(笛と太鼓と鉦の名称をその音色で利かしたもの)てんじん(天神)さいぎょう(西行)にこもり(児守)にすもとり(角力取)ドッチョイ(取組んだ態を声喩したもの)わい/\てんのう(天狗の面を被って赤地の扇をひらき短冊びらを散らしなぞする一種の道芸人)五じゅうのとう(五重塔)おんま(馬)がさんびき(三頭)ヒン/\/\(啼き声)

 先ずざっとこうである。吾儕(わがせい)はかくも趣味ある変化に富んだ実物教育を、祖父母や乳母から口ずからに授けられて、生れて二歳の舌もまだよくはまわらぬ時から、早くもその趣味性を養われてきたのである。
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 顔役の裔



 久しい以前のこと、山の手から下町、下町から山の手と、殆んど処隈なく古ぼけた車に朴の木樫の木撫の木を載せて、いずれの太夫が用いすてたのやら、糸も切れ切れの古鼓を鳴らして、下駄の歯入れをなりわいに呼び歩く四十なにがしという爺さんがあった。この爺身にまとう衣服こそ卑しいが、どこやらに一風変った見どころがあって、その頃はたとえ古鼓にせよ、そうしたものを鳴らして下駄の歯入れに歩くものとては一人もなかった。さるを生業(なりわい)は卑しけれ、さる風流を思い立って人知れず独り自ら娯しんでいたのが、いつの頃からかフッツリ見えずなって、大方の噂に上るその行衛を、内々捜していると、麹町の八丁目というに小(ささ)やかな三階づくりが出来て、階下には理髪店が開かれたが、その三階にチラと見える爺さんの相変らずの姿、ようこそあれござんなれとばかり、訪れて見ると、四畳半ほどの一間に朴の木樫の木撫の木を散らばして昔ながらの下駄歯入れ、仔細を訊けば爺さん軽く笑って、「なァにね、実は植木の置場に困ってきやしたので間借りじゃァおっつかず、とうとうこんな棒立小屋を建てやしたのさ!」と至極簡単なもの。段々詮索して見ると、それでも歯入れ渡世で兎も角も家一つを建て、階下を理髪業者に貸し与え、二階にも砲兵工廠に通う夫婦者の職工を棲まわせ、己れ一人は三階の四畳半に独居の不自由を自由とし、尺寸の屋上庭園には十数鉢の盆栽をならべて間がな隙がなその手いれを怠らず、業余にはこれを唯一の慰藉として為めに何ものをもこれに代うるに躊躇せぬ。かれがその妻を去ったのもこの盆栽を疎かにしたからで、蓄財を傾けて己が棲所をしつらえたもこれ故である。
 実際かれはかばかりの自然児である。半宵もし軒をうつ雨の音を聞く時は、蹶然褥を蹴って飛び起き、急ぎ枕頭の蝋燭に火を点(とも)して窓を開け放つなり、火影に盆栽の木々の枝葉の濡色を照らし見て、独り自ら娯しむ。所以を訊ぬれば曰く、「いえね、雨が降ると植木が喜びますんでね、これを見るのが嬉しゅうがすて!」
 かれはまた絵画を好む、往々上野の展覧会場に半日の清閑を楽しんで、その憧憬を恣にすることは必ずしも稀らしくない。しかしかれは文盲だ、眼に一丁字なく、耳に一章句を解せぬが、しかもよく大義名分を弁え、日露の役には区民に率先して五十円を献金し、某の侯爵に隣してその姓名を掲げられたが、実は侯爵よりも数日を先んじて報公の志をつくしたのであったそうな。
 吾が江戸ッ児には如此(かくのごとき)好漢今に幾千かを数え得る。但し、この自然児は長脇差の裔で、祖父も父も江戸に名高い顔役の一人であったとやら……。
 けれどもかれはその後を継ぐに潔からざった。維新後父の死歿を機として遺産のすべてを乾児(こぶん)どもに頒ち、「己はこんな金で気楽に暮らすことなんざァ金輪際嫌えだ。こりゃァ残らず手めえッちょに与(く)れてやらァ。だがよ、後生だから真人間になってくれ、え、真人間に! こんなことをいつまでかしてえちゃァ天道様の罰があたるぜ」――この言の如くかれは鐚(びた)一文親の金には手をつけず、家財までもそのままに飛出して時に或は土かたになり、また時に或は車をも輓いて、やがて今の下駄職に転じ、盆栽を妻とし、絵画を恋人として、彼と此とに戯れ、以て個中の別天地を楽しんでいる。
 聞説(きくならく)、またかれは何人から耳にしたのか蕪村の風流をしたい、そが半生の逸事佳話は一つとして識らざるなく、殊に驚嘆すべきは余財を傾けて蕪村の短冊一葉を己れの有としたことで、かれはこれらのものを購うにも決して価の高下を言わず、他のいうがままに買いとるのである。曰く、「価を値切るなんて、それじゃ自分の楽しみを値切るようなもんでさァ」
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 三ヶ日と七草



 正月は三ヶ日が江戸ッ児の最も真面目なるべき時だ。かれらは元日の黎明に若水汲んで含嗽(うがい)し、衣を改めて芝浦、愛宕山、九段、上野、待乳山(まつちやま)などに初日の出を拝し、帰来屠蘇雑煮餅を祝うて、更に恵方詣をなす、亀戸天神、深川八幡、日枝神社、湯島天神、神田明神などはその主なるものである。
 かくして更に向島の七福神巡りをするものもあれば、近所の廻礼をすますものもある、けれど廻礼には大方二日以後の日を択び、元日はただ□笑の間に和楽して終るが多い。
 二日は初湯、初荷、買初、弾初、初夢など江戸ッ児にとっては事多き日である。殊にお宝お宝の絵紙を買って、波乗り船のゆたかな夢を探(たず)ぬるかれらは、遂に憧憬の児たらずとせんや。吾儕はそれが絵の如き美しさと快さとを絶えず夢みて、ここに不断の詩趣を味いつつあるのだ。
 三日には大方の廻礼もおわり、浮世の義理をはなれた仲よし気よしのザックバランな酒盛り、江戸ッ児の特色は一に全く個中に存するを見るべくして、これやがてその本領なのである。もしそれ夜に入っての歌留多(カルタ)遊びに至っては花の色の移ろうを知らざる若き男おんなの罪のない争い、やがてはそれも罪つくるよすがにとはなるべきも、当座はただ慾も苦もない華やかなさざめき、かくてぞ喜びをまつの内はあわただしく過ぎて、七日のまだき、澄みきった旦(あさ)の空気に高々と響き亘る薺打(なずなう)ちの音、「七草なずな、唐土の鶏が、日本の土地に、渡らぬ先に、ストトントン」と彼方からも此方からも聞え初めると、昨日までの門松も飾藁も名残なく取去られて、浮世は元の姿にかえるも淋しい。しかし江戸ッ児には二十日正月までの物日はまだ乏しくないのだ。
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 揚り凧



 一度は世に捨て果てて顧みられざった名物の凧も、この両三年已来再び新玉の空に勇ましき唸りを聞かせて、吾儕の心を誘(そそ)るは何よりも嬉しい。
 昔時は大の男幾人、木遣りで揚げたというほどの大凧も飛んだと聞くが、子供には手頃でいつの時にも行わるるのは二枚半の絵凧である。
 武蔵野を吹き暴るるからッ風の音、ヒュウヒュウと顔に鳴るとき鯨髭の弓弦もそれに劣らず唸り出しては、江戸ッ児の心自らジッとしておられず、二枚半の糸目を改めて雁木鎌幾つかを結びつけ、履物もそそくさと足に突ッかけて飛出すが例である。実にこの揚り凧の唸りほど江戸ッ児の気勢(きお)いとなるものはない。
 火事と喧嘩はまた江戸の名物だ、かれらは携えゆいた二枚半をとばすや否な、大空を吾がもの顔に振舞っておる他の絵凧に己が凧をからまし、ここに手練の限りを尽くして彼これ凧糸の切りあいを試み、以て互いにその優劣を争う、江戸ッ児の生存競争は早く既に地上のみに行われつつあったのではなかった。打ち仰ぐ紺碧の空に、道心格子、月なみ、三人立ち五人立ちの武者絵凧が、或は勝鬨をあげ、或は闘いを挑む様は、これや陽春第一の尖兵戦、江戸ッ児はかくして三百六十五日その負けじ魂を磨きつつあるのである。向上心をそそりつつあるのである。
 いうを休めよ、三月の下り凧は江戸ッ児の末路を示すものだと、江戸ッ児本来の面目は執着を離れて常に凝滞せざるを誇りとするもの、焉(いずく)んぞ死と滅亡とに兢々たるものであろうぞ。
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 藪入と閻魔



 藪入と閻魔とは正月と盆とに年二度の物日である。この日奉公人は主家より一日の暇を与えられて、己がじし思う方に遊び暮らすのである。かれらの多くはこの安息日を或は芝居に、或は寄席に、そのほか浅草の六区奥山、上野にも行けば、芝浦にも赴き、どこということなしに遊びまわって、再び主家の閾(しきい)を跨(また)ぐ時には本来空の無一物、財布の底をはたいても鐚(びた)一文出て来ぬのを惜しみも悔みもせず、半歳の勤労に酬いられた所得を、日の出から日の入りまでに綺麗さっぱりにしてしまって、寧ろ宵越しの銭を残さぬ清廉、上方の人に言わしたら「阿呆やなァ」と嗤うかも知れぬが、この心持ち恐らくは江戸ッ児以外に知るものはあるまい。「はァて、己れも長兵衛だ、潔く死なしてくれ」の一言を遺して水野の屋敷へ単身に乗ッ込んだ先祖の兄哥(あにい)を俟つまでもないこと、命と金とを無雑作にしてしかも仁義のおもてに時には意気地なしの嘲りをも甘受するその意義が解ったら、必ずしも江戸ッ児の阿呆ならぬ証しも立つというもの、まァ長い眼で見ていて下されば自ら釈然たるものがあろうと思う。
 それから地獄の釜の蓋のあく日に、お閻魔様への御機嫌伺い、これとて強ち冥土の沙汰も金次第だからとて、死なぬ先から後生をお願い申すわけでも何でもなく、そんな卑怯な気の弱い手合いは口幅ったいことを言うのじゃないが、恐らく正真正銘の江戸ッ児には一人もないはず。あったら其奴はいかさまだと思召して頂きたい――
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 節分と鷽替



 年越しの夕べ、家々に年男の勇ましい声して「福はァ内、福はァ内――、鬼はァ外、鬼はァ外――」と豆撒くが聞え出すと、福茶の煮える香ばしい匂い、通りすがりの人をも襲うて、自ら嗅覚を誘る心地、どこやらに長閑(のどか)な趣はあるものだ。
 その夜の追儺(ついな)に、太宰府天満宮の神事を移して、亀戸天神に催さるる赤鬼青鬼退治の古式、江戸ッ児にはそんな七面倒臭い所作なぞ、見るもじれったくて辛抱出来まいと思の外、何がさて洒落と典雅とを欣ぶその趣味性には、ザックバランなことばかりに限らず、かかる式楽も殊の外に興がって、今に参観の者尠くない。
 又この天満宮に行わるる鷽替(うそかえ)の神事も、筑紫のを移したのだが、これとて昔に変らぬ有様。ただ変ったのは未明に参詣して行逢う人同士携えたを替るが、風俗上の取締りから禁じられて、幾分興味を淡くしたまで、元来が受けて来る鷽の疎刻(あらきざみ)が如何にも古雅で、近頃は前年のを持ちゆいて替えて来る向も尠くなった。要するに信心気は減ったが、趣味はなお存しておるのだ。
 鷽は国音嘘に通ず、故に昔は去年の鷽を返して今年の鷽を新たに受けて来たものだが、今は前年のまでも返さぬという、江戸ッ児は嘘が身上で、それがなかったら上ったりだろうなぞと、口さがない悪たれ言も聞かぬではないが、そんな人にはてんでお話が出来ず、俳諧の風雅を愛し、その情味を悟るほどの人ならば、そんな野暮は仰有(おっしゃ)るまいと実は気にする者がないということだ。はッくしょい! ハテ誰かまた陰口を利いておるそうな、いいわ、まず打遣(うっちゃ)っておけ……。
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 初卯と初午



 亀戸天神からはツイお隣りの、柳島の妙見には初卯詣での老若男女、今も昔に変らぬは、白蛇の出るのが嘘じゃと思わぬからか。橋本の板前漸く老いて、客足の寂れたのも無理ならぬことで、近頃の亀戸芸者に深川趣味を解するもの一人もなく、時節柄の流行唄にお座を濁して、客もこれで我慢するというよりは結局その方が御意に召す始末。イヤ変りましたなと妙に感服仕って後を言わねば褒めたのやら腐したのやら頓と判らず、とはいえ詮索せぬが華だとそのままにして、ただここへおこしなら繭玉の珍なのと、麦稈(むぎわら)細工の無格好な蛇が赤い舌を出しているのを忘れずに召せとお侑(すす)めしておく。
 初午に至っては東京市中行くとして地口行灯に祭り提灯、赤い鳥居の奥から太鼓の音の聞えぬはなく、伊勢屋と稲荷と犬の糞とは大江戸以来の名物だけに今もイヤ多いことおおいこと。
 その多い稲荷社の初午、朝からの勇ましい太鼓の音に、界隈の子供が一日を楽しく嬉しく暮らして、絵行灯に灯の点(とも)る頃になると、これらの小江戸ッ児は五人、七人隊をなして、家々の門を祭り銭をつなぎにまわる――
「お稲荷様のお初穂、おあげの段から墜こって……」と膏薬代をねだるように口ではいうが、実はさらさらそんな風儀の悪いのではない、供物と蝋燭の代につないだ銭が、幾分子供達の舌鼓の料ともなりはするにしても、そこらはさっぱりしたもの、見くびられては真(さ)ぞ心苦しかろうと岡見ながらも弁えておきたい。
 ――稲荷祭りの趣向に凝ったのは、料理屋とか芝居道の人々のそれだ。今も浜町の岡田や築地の音羽屋、根岸の伊井が住居なぞでは随分念の入った催しをする。
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 梅と桜



 何事にも走りを好む江戸ッ児の気性では、花咲かば告げんといいし使いの者を待つほどの悠長はなく、雪の降る中から亀戸の江東梅のとさわぎまわって蕾一つ綻びたのを見つけてきても、それで寒い怠(だる)いも言わず、鬼の首を取りもしたかのように独り北叟笑(ほくそえ)んで、探梅の清興を恣にする。もしそれ南枝の梢に短冊の昔を愛する振舞いに至っては、必ずしも歌句の拙きを嗤うを要せぬ、倶利迦羅紋紋の兄哥(あにい)にもこの風流あるは寧ろ頼もしからずとせんや。
 遮莫(さもあらばあれ)、這個(しゃこ)の風流も梅の清楚なるを愛すればのこと、桜の麗にして妍(けん)なるに至ては人これに酔狂すれどもまた即興の句にも及ばず、上野の彼岸桜に始まって、やがて心も向島に幾日の賑いを見せ、さて小金井、飛鳥山、荒川堤と行楽に処は尠からぬも、雨風多き世に明日ありと油断は出来ず、今日を一年の晴れといろいろにおもいを凝らし、花を見にゆくのか人に見られに行くのかを疑うばかりであった桜狩りの趣向も、追々に窮屈になりこして、しかも無態な広告の看板や行列に妨げられ、鬼の念仏お半長右衛門の花見姿は見ることもならず、相も変らぬは団子の横喰い茹玉子、それすら懐で銭を読んでから買うようになっては情ないことこの上なし、世は已に醒めたりとすましていられる人は兎も角、こちとらには池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢、梧の葉の秋風にちるを聞くまでは寧ろ醒めずにいつまでもいつまでも酔っていて、算盤(そろばん)ずくで遊山する了見にはなりたくないもの、江戸ッ児の憧憬はここらにこそ存(あ)っておるはずであるのに……。
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 弥助と甘い物



 江戸ッ児は上戸ばかりと相場のきまったものでもなければ、下戸にも相応の贅はある。されば一トわたり上戸と下戸の口にあう鮨と餡ころの月旦を試みように、弥助は両国の与兵衛、代地の安宅の松、葭町(よしちょう)の毛抜鮨とか、京橋の奴や緑鮨、数え立てたら芝にも神田にも名物は五ヶ所七ヶ処では利かないが、何といっても魚河岸のうの丸にとどめを差す。
 凡そ鮪の土手を分厚の短冊におろして、伊豆のツンとくるやつを孕(はら)ませ、握りたてのまだ手の温味(ぬくみ)が失せぬほどのを口にする旨さは、天下これに上こす類はないのだ。
 そこへゆくと与兵衛鮨は甘味が勝ち過ぎ、松ずしは他の料理に心をおくようになって、頓と元ほどの味なく、毛抜鮨も笹の葉と共に大分お粗末になって、その他のはお談(はなし)にならず、ただ名のみを今も昔のままに看板だけで通している為体(ていたらく)、して見ると食道楽の数も大分減ったのが判るようだ。
 甘いものは餅菓子に指を屈して汁粉、餡ころにも及ぶべく、栄太楼の甘納豆、藤村の羊羹、紅谷の鹿の子、岡野の饅頭と一々は数え切れず、それでもこれらの店には今も家伝の名物だけは味を守って、老舗の估券(こけん)をおとすまいとしているが、梅園の汁粉に砂糖の味のむきだしになったを驚き、言問団子に小豆の裏漉しの不充分を嘆(かこ)つようになっては、駒形の桃太郎団子、外神田の太々餅も元の味いはなく、虎屋のドラ焼きも再び世には出たが、火加減にまれ附味の按配にまれ、ガラリ変って名代というばかり。塩瀬、青柳、新杵の如きも徒に新菓のみを工夫して、時人の口に諂(おもね)り、一般が広告で売ろうなどとはさても悪い了見を出したものだ。
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 渡し船



「おッこちが出来てわたしが嫌になり」さて霊岸島から深川への永代橋が架って以来名物の渡し一つ隅田川にその数を減じたが、代りに新しく月島の渡し、かちどきの渡しなぞふえて、佃にも同じ渡しの行きかうを見るようになった。
 しかし、隅田の渡しで古いのは浜町三丁目から向河岸への安宅の渡し、矢の倉と一ノ橋際間の千歳の渡し、須賀町から横網への御蔵の渡し、待乳山(まつちやま)下から向島への竹屋の渡し、橋場、寺島村間の白髭の渡し、橋場、隅田村間の水神の渡し、南千住から綾瀬への汐入りの渡しなぞで、その最も古い歴史を有すのは竹屋の渡しだ。
 この渡し、元は待乳の渡しといったものなのを、いつの頃からか竹屋という船宿の屋号がその通り名となり、百五十年来の名所に二つの呼び名を冠するに至ったのだ。
 花の向島に人の出盛る頃は更にも言わず、春夏秋冬四時客の絶えぬのはこの竹屋の渡しで、花の眺めもここからが一入(ひとしお)だ。
 されど趣あるは白髭の渡しもこれに譲らず、河鹿など聞こうとには汐入りの渡し最もよかろうと思う。
 千住から荒川に入っては豊島のわたしを彼方へ王子に赴くもまた趣あり。船遊山とはことかわるが、趣味の江戸ッ児にはこの渡し船の乗りあいにも興がりて、永代から千住までの六大橋に近い所でも、態々まわり路して渡し船に志すが尠くない。
 然ればこそ隅田川上下の流れを横切って十四の箇所を徂徠している数々の渡し船も、それぞれに乗る人の絶えないので船夫の腮(あご)も干あがらぬのである。
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 汐干狩



 三月桃の節句に入っての大潮を見て、大伝馬、小伝馬、荷たりも出れば屋根船も出で、江戸ッ児の汐干狩は賑やかなこと賑やかなことこの上なく、紅白の幔幕旗幟のたぐいをまでたてて、船では三味線幾挺かの連れ弾きにザザンザ騒ぎ、微醺(びくん)の顔にほんのりと桜色を見せて、若い女の思い切り高々に掲げた裳から、白い脛(すね)惜気もなくあらわにして、羞かしいなぞ怯れてはいず、江戸ッ児は女でもさっぱりしたもの、時に或はむしがれいなぞ踏まえて、驚いて飛びあがりはしても、半ばはそれを興がりてのこと、強ちに獲物の多きを欲せずして、気晴らしをこれ専らとする。
 然れば夕べに七つ屋の格子を潜って、都々逸よりも巧みな才覚しすまして旦は町内のつきあいに我も漏れず、一日を他愛もなく興じ暮らして嚢中の空しきを悔いざる雅懐は、蓋し江戸ッ児の独占するところか。
 上げ汐の真近時になると、いずれの船からも陣鉦(じんがね)、法螺(ほら)の貝などを鳴らし立てて、互いにその友伴れをあつめ、帰りは櫓拍子に合わせて三味線の連れ弾きも気勢いよく、歌いつ踊りつの大陽気、相伴の船夫までが一杯機嫌に浮れ出して存外馬鹿にもならぬ咽喉を聞かすなぞ、どこまでも面白く出来ている。お土産は小雑魚よりも浅蜊(あさり)、蛤の類、手に手に破れ網の古糸をすき直して拵えたらしい提げものに一ぱいを重そうにして、これ留守居や懇意へのすそ頒け、自分は喰べずとも綺麗さっぱり与(や)ってしまった方が結句気安いようで、疲れて寝る臥床の中に、その夜の夢は一入(ひとしお)平和である。
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 山吹の名所



 歌書には井出の玉川をその随一とするよう記されてはあるが、さて今はさる名所も探ぬるに影さえ残らず、あわれ名所の花一つを旧蹟もなくして果てようとしたを向島なる百花園の主人、故事をたずね、旧記をあさって、此処彼処からあつめきた山吹幾株、園のよき地を択りに択って、移し植えたるが一両年この方大分に古びもつき、新しく江戸の名所をここに悌(おもかげ)だけでも留め得た。七重八重花羞かしき乙女の風流をも解し得ざった昔の御大将はともあれ、今の都人士にその雅懐を同じゅうしてこの花をここに訪ぬるは知らず幾人であろう。宵越しの銭を使わぬ江戸ッ児が黄金色の花を愛するなど柄にないことと罵りたもう前に、一度は行きて賞したまえや。
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 節句



 五節句の中で、今も行わるるは桃の節句、菖蒲の節句である。
 桃の節句は女の子の祝うものだけに、煎米、煎豆、菱餅。白酒の酔いにほんのりと色ざした、眼元、口元、豊(ふく)よかな頬にまで花の妍(あざ)やかさを見せたる、やがての春も偲ばるるものである。
 さて雛壇には内裏雛、五人囃、官女のたぐい賑やかに、人形天皇の御宇の盛りいともめでたく、女は生れてそもそもの弥生からかくして家を形づくること学ぶなるべし。
 菖蒲の節句は男の節句、矢車のカラカラと高笑いする空に真鯉、緋鯉、吹流しの翻るも勇ましく、神功皇后、武内大臣の立幟、中にも鍾馗(しょうき)の剣を提げて天の一方を望めるは如何にも男らしい。――五月の鯉の吹流し、口ばッかりではらわたはなしなぞ嘲りはするが、彼の大空に嘯くの概は、憚(はばか)んながら江戸ッ児の本性をあらわして遺憾なきものだ。
 ただ恨むらくは頃者(けいしゃ)内幟の流行打ち続いて見渡す空に矢車の響き賑わず、江戸ッ児の向上心を吾から引っ込み思案にしてしまう人の多いことで、吾儕は寧ろ柏餅も鱈腹喰うべし、※(ちまき)[#「椶」の「木」に代えて「米」、62-10]もウンと頬張った上で、菖蒲酒の酔いもまわらば、菖蒲太刀とりどりに那辺までも江戸ッ児の元気を失わぬ覚悟が肝要だと思う。
 また菖蒲湯というもの、これも残されたる江戸趣味の一つで、無雑作に投げ入れた菖蒲葉の青々とした若やかな匂い、浴しおえて出で来る吾も人も、手拭に残るその香を愛ずれば、湯の気たちのぼる四肢五体より、淡々しく鼻にまつわりこす同じ匂い、かくては骨の髄までも深く深く沁み入ったように覚えて、その爽やかさ心地よさ、東男の血の貴さは、こうして生立つからでもあろうか。
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 筍めし



 名物の筍は目黒の土に育ったのを江戸以来随一としている。その筍を料理(りょう)っての喰べかた、何々といろいろにお上品なのもありはするが、無雑作でどこまでも江戸ッ児の口にあうは、まず飯に炊いたものである。
 近頃は筍めしの一つも、目黒くんだりまで態々食いにゆく人、いとど尠うなりはしたが、かえって電車も汽車も何もなかった以前には、走りを賞美する江戸ッ児の、売りに来たを値切って買って、己が台所で妻婢の手にものさるるを待ってはいず、それと聞くより吾も我もと一日を争い、途の遠きを辞せずしてそれのみに出かけ、今年の筍はどうのこうのと舌の知識を誇りたいが関の山、その余には毛頭謀犯慾望のあって存するなく、考えれば他愛もなく無邪気なことどもである。
 読者よ、乞う、この子供らしき誇りと他愛なさとを買いたまわずや。江戸ッ児の身上は常にかかる間に存する万々で、この情味さえ解したまわば、その馬鹿らしと見ゆる行動、くだらないと聞く言語、いずれも溌剌たる生気を帯びきたって、かれらに別個の天地あることも御承知が出来ようと思う。
 さてこの筍めしに就いては、曾つて西欧人を吃驚(びっくり)せしめた例もある。かれらは邦人がこの筍を料理して喰うを見、「日本人は竹を喰う」とて内々舌を捲いたとやら、江戸ッ児には又この西人を驚かしたというそれが、いとも愉快に胸すくことで、実は内々嬉しくてたまらぬのである。
 要するに筍の料理、これ一色でも会席は出来ることで、何も目黒くんだりまでゆかずともではあるが、ここの土に育ったが最良とせらるるその本場へ、態々歩を運ぶという気分、人はこの気分に生きたいものだ。
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 藤と躑躅と牡丹



 梅に始まって桃、桜と花の眺め多きが中に、藤と躑躅と牡丹とは春の殿(しんがり)をなし、江戸ッ児にはなお遊ぶべき時と処とに乏しくない。
 藤は遠く粕壁に赴けば花も木ぶりもよいが、近くは日比谷、芝、浅草の公園など数も少からず、しかし何処よりも先ず亀戸天神のを最とする。
 ここの藤、三、五年この方は花も少く、房も短くはなったが、なお且つ冠たるを得べく、殊に名物の葛餅、よそでは喰べられぬ砂糖加減である。お土産の張子の虎や眼なし達磨、これも強ち御信心がらでないのが味なところだ。
 躑躅も日比谷、清水谷とそれぞれに名はあるが、大久保なるを最とし、この躑躅大方は日比谷へ移されて若樹のみとはなったが、土地が土地だけに育ちもよく、今に名所の称を失わぬ。別けても嬉しいのは例の人形細工がなくなったことで、あんなことは江戸ッ児の弱点につけ入って何者かが始め出した一種の悪戯に由来すると思う。
 牡丹は本所の四ツ目、麻布の仙花園なぞ共に指を屈すべく、花の富貴なるを愛すといいし唐人の心持ちを受けついでの物真似ではないが、芍薬の徒に艷なるより、どことなく取りすましたその姿に実は惚れたまでのことである。ただそれ惚れたまでのことである。もしそれ九谷焼の大瓶に仰山らしく活け込んで、コケおどかしをしようなぞの了見に至ってはさらさらなく、寧ろそは一輪二輪の少きを小(ささ)やかな粗瓶に投げざしせるに吾儕は趣あるをおもうものであるのだ。
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 初松魚



 鎌倉を活きて出でけん初松魚(はつがつお)の魚河岸についたとあれば、棒手ふりまでが気勢いにきおって、勇み肌の胸もはだけたまま、向鉢巻の景気よく、宙を飛んで市中を呼び歩く。
 声にそそられて昨日うけたばかりの袷をまた典じ来て夕餉の膳を賑わすほどの者、今日も江戸ッ児は昔に変らぬのが、さても情ないは仙台鮪が河岸にのぼる日もあって、それ以来初松魚の有難味頓と下り果てた為体(ていたらく)、竜も雲を得ざれば天に及ばず、時なればこれとても是非ないことかな。
 しかはあれども、松魚は元より男の魚、ピンと跳ねた姿にすッきりした縞目の着もの、美しきは上べばかりでなく、おろした身のさらりと綺麗で、盃の口に決してしつこからず、箸にする一片の肉にも、死して死せざる筋の動き、身は寸断に切り刻まれても、魂は遂に滅びざる江戸ッ児の性根をそのままなる、ここに財物を抛ってもの値打ちはあるのだ。
 仙台鮪は黒味なものと心得、肉さえ赤ければ近海ものだと喜んでいる御仁にはお解りになるまいが、窮しては鱒のおろしたをも身代りにして鮪だと胡麻化す鮨屋が、強ち屋台店ばかりでなくなってきた世に、初松魚の賞美さるるも、既にここらが最期だろうとの心配は、先ずは取越し苦労で、江戸趣味の残る限り、江戸ッ児の子孫の続く間は、吾儕より初松魚を除くことはあるまいと信ずる。吾儕より初松魚を忘れ去ることはなかろうと言いきれる。
 初松魚! 初松魚! 汝の名は常に新しい誇りと力を吾儕にもたらす。蓋し汝は永遠に江戸ッ児のシンボルである、然り、江戸ッ児のシンボルである。
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 釣りと網



 寒鮒に始まって鯊釣り、鱚釣り、鯔(ぼら)、海津など、釣りと網とは花に次いでの江戸ッ児の遊楽だ。
 鮒は本所深川の池、堀、別しては木場辺の浮き材木の上から釣るのなぞが獲物もよく、釣堀は先ずその次である。但し堀江、猫実辺への遠出をすればこの上はないが、さるは充分に閑暇を得ての上のことだ。
 鯊釣りは彼岸を待っての垂綸(たれいと)で、東京湾の鱚釣りは脚立に限る。鯔は釣りでも網でも面白く、海津は釣るに最もよい。
 海津は「ケエヅ」とよんでいただかねば江戸ッ児には承知が出来ず、何んだ黒鯛の子かァ……などは少々お話にならぬ筋だ。
 凡そ釣りというもの、綸(いと)を垂れて魚のかかるを待っているだけのことで、岡目には如何にも馬鹿らしいことだろうが、本人に至ってはなかなか以て懸命の苦心、浮標(うき)をあてにするようだと誰しも言われたくないので、その微動だも見のがすまいとの注意は、呆然たるようでも精神の充実していること驚くばかりだ。
 されば釣り好きになると、目のまわるほどな忙しい中でも、他の綸を垂るるを息を殺して凝視し、自分までが力瘤を入れて少しポカつく日には額より汗の珠、拭いもあえねば釣りする人の襟元に折りおり落つるのを彼も此も知らず気づかず。魚を逸して畜生と舌打ちすれば、それにも合槌して、やがてのこと竿を捲きはじむるに、初めて用達しのすまずにいたを思出し、慌てて駆出す連中決して稀らしくない。個中の消息、かれらの別天地に遊んだものでなくばとうてい味えも判りもせぬこと。網は昔より近頃の流行(はや)りだが、趣味は遠く釣りに及ばぬ。
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 初袷



 袷着て吾が女房の何とやら、綿入れの重きを脱ぎすてて初袷に着代えた当座、洵(まこと)や古き妻にも眼の注がるるものである。
 江戸ッ児の趣味は素肌に素袷、素足に薄手の駒下駄ひっかけた小意気なところにあって存するので、近頃のシャツとか肌着とかは寧ろこの趣味を没却するものである。
 されど若き女のネルなぞ着たのは、肌つきもよく、新しき時代のものとしては江戸趣味に伴える一つである。
 絹セルに至っては少しイカツくて、セルのやわやわしいに若かぬが、それとて今どきの衣類にてはよき一つとや言わんか。何はしかれ女は身重なると綿入れ着たるとはいとど惨めに浅ましく、袷より単衣のころ最も美しく懐かしきものだ。
 男の素袷に兵児帯(へこおび)無雑作に巻いたも悪からず、昔男の業平(なりひら)にはこうした姿も出来なかったろうが、かきつばたのひんなりなりとした様は、なおかつ江戸ッ児の素袷着たるにも類すべく、朝湯で磨いた綺麗な肌を、無遠慮に寛ろげて、取繕わぬところにかれらの身上はある、洒々落々たる気分は、どうしてもこうした間に潜むもので、吾儕の身に纏う衣類のすべてを通じて、袷ほど江戸ッ児に相応しいものはまたとなかろう。
 ただ恨むらくはこの袷というもの、着るべき間のはなはだ長からで、幾許もなくして単衣と代る、是非なしとはいえ江戸ッ児には本意なしとも本意ない。
 遮莫(さもあらばあれ)、物に執着するはかれらの最も潔しとせぬところ、さればぞ初袷の二日三日を一年の栄えとして、さて遂には裸一貫の気安い夏をも送るのである。
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 五月場所



 櫓太鼓の音、都の朝の静けさを破って、本場所の景気を添ゆれば、晴天十日江戸ッ児の心勇んで、誰しも回向院に魂の馳せぬはない。
 本場所も、一月よりは五月場所の方力瘤も入って、自ら気勢いもつくが定で、こればかりは今も昔に譲らず、向両国はいつも熱狂の巷となるのである。
 さりながら、相撲道にも大分二一天作の五が十になる鼠算が流行って来て、折角の青天井になお一つ天井が出来、掛小屋が常設館という厳めしいものになって、場所以外にはチャリネの競馬もあれば、菊人形もここで見せるという、どこまでも勘定高い世の風潮につれてしまったが、江戸ッ児にはこの一事のみは心から口惜しく遺憾千万である。
 元来が裸一貫の力ずくでやる勝負の見物に、屋根も天井もいったものかは、青空を頭に戴いて小屋も土俵も場所場所に新しくものしてこそ、六根清浄、先祖の宿禰(すくね)にも背かぬというもの、こうなっては行く行く相撲は江戸ッ児の見るものでなくなるかも知れないと、そんじょそこらの勇み肌が中ッ腹でいるそうな。
 実際情ないは小屋ばかりでなく、協会と取的とのゴタゴタ、賦金がどうの、親方がこうのと、宵越しの銭を持たねえ江戸ッ児が見るものにそんな吝(しみった)れたものは大嫌い、よして貰いてえものだ。
 それからなお一つ、近頃の相撲好きは贔負からの入れ力ではなく、可哀相にかれらの勝負を賭けごとの道具にしておる、まさかに江戸ッ児はそんなこともしめえが、するやつがあったら己が聴かねえと、倶利迦羅紋紋の兄哥(あにい)が力んでいた。
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 花菖蒲



 菖蒲は堀切と蒲田にその名を恣にし、花に往き来した向島の堤をまたぞろ歩むもおかしき心地がする。
 堀切も吉野園、小高園など、今も花の種類はかなりにあるが、花より団子の喰う物なければ治まらぬ都人士の、なけなしの懐を気にしながらも、次第に種々な贅をいうので、粗末なものを値ばかり高めて売りつけ、客を馬鹿にした振舞尠からず、したがって江戸ッ児は少々二の足を踏むようになり、つまらねえやと鼻もひっかけなくなった連中すらある。
 こうなっては折角の花菖蒲も散々で、人は園内の切花を高い銭出して買うのが嫌さに、帰り路の小流れのほとり、百姓の児どもなぞが一把三銭の五銭のと客を見て吹ッかけるやつを、また更に値切りたおして、隣近所へまでのお土産、これで留守して貰った返礼をもすますようになって江戸以来の名所も台なしにされた形である。
 蒲田にはそうした情なさはないが、ここはまた横浜に近いだけ外人を目あてに好みも自らその方に傾けば、これとて江戸ッ児には興のぼらず、一層その位なら西洋草花を賞美した方がとは、満更皮肉な言い分でもなくなった。
 昔男ありけりと碑にも刻まれた東の名花、ここに空しく心なき人々に弄ばれて、あわれにもまた情ない今の有様、如何にもしてそが復活を図りたいものだとは物のわかった昔のお兄哥さんが皺だらけの顔を撫でての思案である。
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 稗蒔



 尺寸の天地をも愛する江戸ッ児は常にその景情を象って、自然の美に接せねばやまぬ。
 麦の穂漸く色づいて、田園の風致いよいよ濃(こま)やかな頃、今戸焼の土鉢に蒔きつけた殻の青々と芽生えて、宛(さなが)ら早苗などの延びたらんようなるに、苧殻(おがら)でこしらえた橋、案山子人形、魚釣りなんどを按排し、橋の下なる流れには金魚、緋目高、子鯉といったような類を放ちて、初夏の午前を担いにのせて売り歩く、なかなかに愛でたきものだ。
「稗蒔や、ひえまァき――」
 人もしこの声を朝の巷に聞く時は、貴賤老若にかかわらず、門に出てその値ぶみをする。大小精粗によって五銭より十銭、二十銭、三十銭、五十銭、それ以上なは先ず注文でなくば大方は持合わさず、僅に半円以下の散財で恣に野趣を愛する。さても気やすいことではないか。
 要するに江戸ッ児の趣味は多角的である。その都会美にも一致すれば、田園美にも合体する。かれらは炎塵の巷に起臥するをも苦とせねば、静閑の境に悠遊するにも億劫でない。すなわちかれらは忙裏の閑をかかる小自然の間にもとめて、洗心の快をやる。されば「稗蒔や、ひえまァき――」の声耳に達するや、かれらの憧憬はその愛らしき別乾坤に馳せて、或は数銭、或は数十銭の所得を減ずるに吝(やぶさ)かならぬのである。
 人もし理髪のために床屋の店に赴かんか、そこに幾個の盆栽あり、稗蒔あり、そしてまた箱庭なんどの飾らるるを見る。これ必ずしも理髪師の風流のみではないが、待合わす人の眼を楽しましむるに利して兼ねてかれらの俳趣味をも養うものであるのだ。
 さるはまた床屋のみでない、湯屋も然り、氷店も然り、而して小料理店といわず、屋台店の飲食店といわず、近頃は欧風のショオウィンドオにまでもこれらの幾つかを按排して、装飾の一つに応用するなど、捌け口はいよいよ広くなりゆく。
 都会の膨脹が尺地をも余さず、庭というもの店舗を有する人々には次第に失われ行くにつれて、かれらの自然美に憧るる心は遂にここに赴いて、その幾鉢を領することに満足する以上、残されたる江戸趣味の中にも、かかる類いは永遠に滅びざるものの一つとや言おうか。
 ああ自然は遂に滅びぬ。人は物質の慾に足っても、それで始終の満足はされぬ。かくてかれらは自然に憧れ、かくてかれらは尺寸の別天地を占むるに算盤珠を弾かぬのだ。
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 苗売り



「朝ァ顔の苗夕顔の苗。隠元、唐茄子、へちィまの苗。茄子の苗ェ黄瓜の苗。藤ィ豆、冬瓜、ささァぎの苗」
 静かな朝の巷に、その美しい咽喉を利かせて、節面白く商いあるく苗売りの生業(なりわい)は、岡目にばかり風流なものではない。
 某のお店の若旦那、清元に自慢の咽喉を人に誇っていたまではよかったが、一ト朝この苗売りの声を聞いて心ぞその身もなって見たく、私かに苗売りの後に尾して、その家に訪ねゆき、事をわっての頼みに、初めのほどは止めても見たが、たっての所望致しかたなく、翌朝はこの若旦那のお供して、「朝ァ顔の苗――ささぎの苗――」とりどりに呼び歩いたが、若旦那荷だけは半町も担げず、すぐに代って貰った。が自慢の咽喉だけはどうでもきかしたく、とうとう一日を互いに呼び歩いて、それが病みつき、一端はそうした生業に口すぎするまでの道楽におちて、父親の勘当容易にゆりなかったを、番頭、手代、親戚、縁者の詫び言で、漸(ようよ)う元の若旦那に立ちかえる。しかしそれでも初夏の朝々にこの声を耳にしては、心自ら浮き浮きして、凝乎(じっ)としていられぬとは馬鹿にしたもうな、江戸ッ児にはありがちのことだ。
 但し、この苗売りというもの、商いの苗よりは咽喉が肝腎で、中には随分この若旦那のようながあり、売上の高も節の上手が一番だとは、どこまでも面白き生業の一つである。
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 木やり唄



 揃いの法被(はっぴ)に揃いの手拭、向鉢巻に気勢いを見せて、鳶頭、大工二十人、三十人、互いに自慢の咽喉を今日ぞとばかり、音頭取りの一トくさりを唄い終るかおわらぬに一斉の高調子、「めでためでたの若松様よ、枝も栄える、葉も繁る――」と唄い初め唄いおさむる建前のあした、都の空にこの唄声の漸く拡ごり行けば、万丈の紅塵一時に鎮まりかえって、払いたまえともうす棟梁の上なる神幣、そよ風に翻って千代の栄えを徴すとかや。
 実に木やり唄は江戸趣味のこれも一つよ。祭りの巷に男姿の芸者数多、揃い衣の片肌脱ぎになって、この唄につれ獅子頭曳くも趣は同じく、折柄の気勢いにはまたなしともまたなし。
 趣味の江戸ッ児はかくして常にこの唄にそそられ、建前のここかしこ、もしは祭りの日、物の催しの砌(みぎり)など、折りおりにこれを聞いては盃の数もめぐる。
「めでためでた」の本唄はさらなり、「不二の白雪や旭で解ける――」の木やりくずしまで、唄の数は二十幾つにも及ぶが節は元よりたった一つ、多少の崩れは三味線に合わすとてのそれ者が振舞い、そこにいずれはないでもないが、吾儕の心を誘(そそ)りゆいて、趣味の巷にこれ三昧の他事なきに至らしむる、また以て忘機の具となすに足るべきではあるまいか。
 蘇子、白居易が雅懐も、倶利迦羅紋紋の兄哥(あにい)が風流も詮ずるところは同じ境地、忘我の途に踏み入って煩襟を滌うを得ば庶幾(しょき)は已に何も叶うたのである。
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 浅草趣味



 浅草趣味は老若男女貴賤のいずれとも一致する、したがって種々に解釈され、様々に説明される。
 少年少女の眼には仲見世と奥山と六区とにかれらの趣味を探ぬべく、すなわち彼処にはおもちゃ屋と花やしきと見世物とがある。青年男女には粂の平内と六地蔵と観音裏とにその趣味を見出すべく、すなわち其処には願がけの縁結びと男を呼ぶ女と、女に買わるる男と、銘酒屋と新聞縦覧所と楊弓店と、更には大金と一直と草津とがある。独り老男老女に取っては伝法院と一寸八分の観世音菩薩と淡島様とに彼の趣味を伴う。ここには説法と利生とあらたかとが存する。
 もしそれ三社様に至っては、浜成、武成の兄弟と仲知とが遠く推古帝の御宇、一日宮戸川に網して一寸八分の黄金仏(観世音菩薩)を得たという詩のような伝説、吾儕は敢えて彼これその詮索をなすを欲せず、かばかりにロマンティックな語りぐさをいつまでも保全して、徒なる解釈をこれに試みたくないと思う。
 更に今一つの伝説を語らば、二タ昔以前に掘り出された洗手池畔の六地蔵である。伝え聞くに小野小町が工人に命じて作らしめたところ、六角の灯籠にしてその各面に地蔵尊六体を彫む。一夜この六地蔵、木萱も眠る丑満つ時に脱け出でて池畔に相会し、久しい間背中合せの逢いたくても逢われずにいたことを嘆(かこ)って、今の邂逅を喜びかわすその時、山門の仁王両個夜まわりに出でて初めてそれあるを知り、爾来今の如く金網の中にござるという。
 浅草の趣味は絵画的である。浅草の趣味は詩歌的である。浅草の趣味はロマンティックである、人は彼に酔い、それに魅せられ、そしてまたここに興がるのである。
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 八百善料理



 某県選出衆議院議員何誰と恐ろしく厳めしい名刺を出して、新橋に指おりの大料理店に上り込み、お定りの半会席を一円にまけとけなぞと遠慮会釈ものう御意遊ばす代議士殿のござる世に、八百善料理の粋を紹介しても、真に首肯(うなず)きたもうお方の果して幾人を数え得ることやら、実は少々心細き限りではあるが、こうでもない、ああでもないの食道楽の末、いよいよという時が来たら山谷にここの板前を吟味したまえ。
 浅草詣での帰るさ、界隈の料理では腹の虫が承知せぬちょう食道楽の一人、さるは八百善にてと態々歩を抂(ま)げ、座敷へ通っての注文に「何かさっぱりしたもので茶漬を!」との申しつけ、やがて出されたは黒塗りの見事な膳部に誂えの品々、別に鉢植えの茄子に花鋏一挺が添えてある。
 食道楽近頃の希望を満足して先ず高麗焼の小皿に盛られた浸しものを弄味し、更には鋏して鉢植えの茄子をちぎり、大方はそれと察して一ト口して見ると、案ずる如くに頃あいの漬き加減。さて食事をおえてこれで勘定をと十円紙幣一枚を投げ出すに、待てど暮らせど釣銭を持って来ず、如何な八百善でも浸しものに鉢植えの漬茄子で十円はとて、段々に糺して見ると、亭主自ら出て来て云々の説明、いわれを聞いては成程と大通も赤面して引きさがったとか。
「左様でございます、お高いか存じませんが手前どもでもムザとはお客様からお鳥目を頂戴は致しませぬ。実はさっぱりしたものでお茶づとの御意にございましたので、あれこれと吟味いたしまして、盆栽の蘭に持ちました花を浸しものに用いましたので……就きましては蘭の儀はお邪魔にございませねば万望お持ち帰りを……」
 亭主の言は実に如此(かくのごとき)であった。そして女中して持ち来らしめた一鉢には、如何にも五、七円はしようと思わるるほどの蘭一株、花の摘まれた痕もいと新しかった。
 そんじょそこらの通がりが江戸ッ児を真似て、聞いた風なことを召さると得てこうした失敗は免かれぬ。
 八百善の料理に一汁二菜の真価を解するに至らば、江戸ッ児の気分――その趣味をも了解するはいと容易なこと、かくてぞ吾儕は残されたる江戸趣味を人々と共に保護し、やがては再興をも図ろうと思うもの、さらば八百善料理の今も存するは、江戸ッ児にとってこの上もない僥倖なのである。
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 風鈴と釣忍



 夏の景趣を恣にして江戸ッ児の雅懐をやるもの風鈴と釣忍またその一つか。
 彼の、午後の日ざしやがての暑さを想わするほど、赤、青、黄、紫、白、いろいろに彩られた玻璃製の風鈴幾つとも数知れぬほど左右の荷につけて担い来る風鈴売りの巷を行くに、チリチリと折からの微風に涼しげな音して美しき玻璃と玻璃との触れあうを聞けば、誰も吾が家の軒端にとその一つを掲げて愛らしき夏の音楽に不断の耳を楽しまそうとは思い立つことどもだ。
 さるからにこの風鈴一つ値いを払うて軒端につるせば、また一つそこに欲しきもの出で来て、夕べの縁日に釣忍たずぬるはこれも江戸ッ児のお約束ごととでもいおうか。
 永き日の読書にも倦んじて、話すべき友も傍にはおらず、かかるとき肱を枕にコロリとなれば、軒の風鈴に緑を吹き来る風の音喧(やかまし)からず、そのチリチリに誘われてツイ華胥(かしょ)の国に遊び去る、周荘が胡蝶の夢も殊の外に安らかで、醒めぎわの現なしにも愛らしき音は何の妨げともならぬぞ嬉しい。
 かくてぞ漸くに暮れ行く空の、コバルトの色黯(なず)みて、やがて暗く、かは誰の人顔も定かならぬ折柄、椽近く座を占めて仰ぐ軒端に、さり気ない釣忍の振舞いもなかなかに悪からず、眺め深いものだ。
「なぜ風鈴の一つも下げないのだな」
 もしくは――
「ここの処へ忍でも釣るしたらなァ」
 これらの言葉が江戸ッ児によって繰返さるることは、強ち稀らしくないことで、かれらはお世辞でも、いきあたりばったりでもなく、そう感じてそういうのだ。
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 井戸がえ



 山の手の井戸は一体に底も深く、したがって湧出る水も清冽だ。さるをその井戸、水道という便利なものが出来て、次第に取こぼたれ、今はその数も尠うなったので、初夏の午前に、五、七人の井戸やして太やかな縄に纏わり、井に降り立った男の中からの合図につれ、滑車を辷(すべ)り来る縄を曳いて、井水をかえ出す様、漸くこれを見ること稀々にはなったが、かれらの懸け声とザァザッと覆さるる水の音を聞く砌(みぎり)は、ただ清々しく心楽しきものである。
「ほゥてよ※[#小書き片仮名ン、110-2]………ほゥ………」
 繰りかえさるるその懸け声の度々に、ザァザッという水音、かくて替えつくされた井戸には、盃に三杯の清酒を撒いて塩ばなを振り、残れるを井戸やども盃に受けて呑む。
 蓋(ふた)された井戸の側に佇んで耳傾くれば、今し晒された井戸には新たに湧き出でた清水の底に落つる音折々に聞えて、心ゆくこと限りなく、江戸ッ児はそのすがすがしき滴(したた)りの音聞くを欣びて、井戸やが縄に吾から手伝うもの多く、さらし井の気勢いは朝の屋敷町に時ならぬ賑わいを見することがある。
 さあれこの井戸がえというもの上下貴賤にけじめなく、華族様のお屋敷でも、素町人どもの裏長屋でも、同じ懸け声に同じ賑わい、井戸やが撒く清酒も塩ばなも、畢竟(ひっきょう)は水を浄めの同じしるしに過ぎずして、六根清浄、江戸ッ児はその清新をこれ愛する、清浄をこれ好む、実にかれらは詩をつくらざる気分詩人ではあるまいか。
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 箱庭と灯籠



 稗蒔の穂延びして漸く趣薄うなり行くにつれ、江戸ッ児の愛自然心は更に箱庭に馳せて、やがて尺寸の天地を新たに劃する。
 曩(さき)には専ら田園の趣味を伝えしもの、這度(このたび)は山野に則り、忽ちにして森林、忽ちにして沼池、一径尽くるところ橋ありて通じ、湖海ひろがるところ丘陵峙つの概、かれらの理想説は如此(かくのごとく)にしてものされ、かれらの自然観は如此にして説明さるるのである。
 されば縁日の露店に箱庭の人形、家、橋、船、家畜の類、実生の苗木と共に売行よく、植木職が小器用にしつらえたものより、各自に手づくりするを楽しみとし、船板の古びたるなぞで頃あいの箱をものし、半日の清閑をその造営に費やす、いと興あることどもかな。
 江戸ッ児はまた好んで歌舞伎灯籠をもつくる。
 夏の絵草紙屋に曾我の討入り、忠臣蔵、狐忠信、十種香などの切抜絵を購い来て、予め用意した遠見仕立の灯籠に書割といわず、大道具小道具すべてをお誂え向きにしつらえ、雪には綿、雨には糸とそれぞれに工夫して切抜絵をよきところに按排し、夜はこれに灯を入れて吾れ人の慰みとする。かれらの趣味は自然にも人事にも適する如く、詩を解すると共に、劇をも解し、自らその好むところに従って一場の演伎を形づくる。
 読者よ、乞う吾儕の既に語りしところに顧み、江戸ッ児の天才が如何に多趣多様なるかを攷えたまえ、そして更に、かくも普遍的なかれらの趣味が、現代に適せぬ所以なく、畢竟はその埋もれて世に認められざるがために、漸く忘れ果てられたを頷きたまえや。
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 定斎と小使銭



 江戸ッ児に定斎と小使銭とはいつもないことに言われておるが、実際江戸ッ児は定斎と小使銭を持合せたことがない。
 定斎の持合せがないのは、それだけによくこの薬を常用するがためで、凡そ腹痛下痢はさらなり、頭痛、眩暈(めまい)、何ぞというと必ず定斎を用ゆる。
 彼の炎天に青貝入りの薬箱を担ぎ、抽斗(ひきだし)の鐶の歩むたびに鳴るを呼び売りのしるしとする定斎やは、今も佐竹の原にその担い方の練習をして年々に市中をまわるもの尠からず、昔時は照りつける中を笠一つ被らず、定斎の利目はかくても霍乱(かくらん)にならぬとてそれで通したものだが、今は蝙蝠傘に定斎と記されたをさして、担いゆく男に附添うたるが、「え、定斎でござい。え、定斎でござい」と戸毎に小腰を屈めてゆく、今でも御維新前の老人ある家では必ずこれを買いもとめて、絶やさぬようと家人に注意さしておく。
 この定斎、それほどに利くか利かぬかは姑(しばら)く問題の外として、かくも江戸ッ児に調法がられるこの持薬で、三百年来事欠かなんだ吾儕の祖先をおもうと、その健康、その体力、恐らくはかれら気で気を医し、むつかしく言えば所謂精神療法の一助として、不知不識(しらずしらず)にこの定斎を用い来たったのであろう。
 故にかれらは己の病いにもこれを応用し、兼ねては人にもよく頒つがため、いつもその持合なき時が多く、小使銭に至っては宵越しさせぬというだけに、いつとても懐にあった例がないのだ。
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 青簾



 新築の二階家若葉の梢を凌いで聳え、葺きたての瓦美しと仰ぎ見る欄干のあなた、きのう今日掲げたと思わるる青簾のスラリと垂れて、その中より物の音静かに聞え初むる、なかなかに風情の深きものである。
 吾れ人の家の夏は、青簾かけそめて初めて趣致を添え、涼意自ら襟懐を滌(すす)ぐばかり。然れば五月の夜々の縁日には、早くも青簾売る店の一つならず、二つ三つと一晩の中に見かくること稀らしからず。さてそれらを購い来て軒近く掲ぐるに、古くさい九尺二間の陋屋にもどこかに見らるるふしの出で来て、都の家々一ト時はいずれも新しくなるが嬉しい。
 人の子の綿入を袷に脱ぎかえて、更衣の新たなるを欣ぶこころは、家に青簾掲げて棲心地の改まると同じく、別けても山の手は近郊に接するほど、簾かかげて時鳥(ホトトギス)待つの楽しみもあり、江戸ッ児には何ぼう嬉しいか知れぬものだ。
 吾儕は爾(しか)く青簾を愛する、その初袷に赴いた心はやがて青簾にも同じ好愛を恣にするのである。
 君よ、青簾の中なる美しき人の姿を見んとて朝な夕なの漫(そぞろ)歩きに、その門をさまよいたもうな。そは君が想像の自由にまかせて、簾のこなたに見えざらんこそ却々(なかなか)に興は深かり……と誰やらが口調をそのまま、われらと同じ趣の人々に心づけまいらせておく。
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 夏祭り



 江戸ッ児の気勢は祭りに於て最も遺憾なく発揮される。殊に祭りは春よりも秋よりも夏に重なるが多きぞ嬉しい。
 大江戸以来の三大祭礼といえば日枝神社すなわち山王様、深川八幡、神田明神の三つで、他は赤坂の氷川神社、牛込の築土八幡、四谷の須賀神社、佃島の住吉神社、芝の愛宕神社、浅草の浅草神社すなわち三社様など、数えたらまだ幾らもある。
 中で山王の祭りは六月十五日、昔は神田明神と祭礼の競い合いをして、何がさて負け嫌いの江戸ッ児同士だけに、血の雨を降らしたことも幾度か数知れず、ためにその筋から双方隔年に大祭をすることに定められ、日枝神社が本祭りなら神田明神が陰祭り、神田明神が本祭りなら山王が陰祭りと、否応なしにされてしまって、大きな喧嘩だけはなくなったが、山王の本祭りに山車が幾台出て、赤坂芸者が奴姿で繰出したとあれば、神田明神の本祭りには山車の数を何台増して獅子舞を出すとか、手古舞に出るとか、こればかりは維新後の四十年来、今に江戸からの競いを捨てず、近年また電車の通る中を山車も曳き出せば、縮緬の揃い衣を奮発するなぞ、大分昔に盛りかえしてきたもおかしい。
 されば祭りになけなしの身代傾けて、あすが日からは三度の食事にも差支ゆる者、今でも時々に聞くことで、深川八幡の祭礼に永代の橋が墜ちて人死にが出来たほどな、往時の賑盛はなくとも、いまだに大したもので、木場を扣(ひか)えているだけにすることがまた格別だ。――但し、日枝神社の祭礼が前にいった六月十五日で、一ト月飛んだ八月十五日が深川八幡、その翌月の九月十五日が神田明神という順序で、余なるは住吉神社の祭礼に神輿の海中渡御があるのと、三社の祭りに花川戸の兄哥たちが、自慢の神輿を吉原五花街へ担ぎ込むのとが、一風変ったおかしみがある。
 凡そ江戸ッ児として、大若小若の万灯、樽天王を見て気勢(きお)わぬものは一人もなく、ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ! の声を聞いては、誰しも家の内にジッとしておらるるものでない。大方は飛び出して、いつか己れもその群に立ちまじり、至極真面目な顔でいた男のワッショイ! ワッショイ! を聞くことよくあることだ。まァさ、そう馬鹿にしないで、その無邪気と赤裸々とを買ってお貰い申したいものだが……。
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 心太と白玉



 真夏真昼の炎天を、どこやらに用達しての帰るさ、路ばたの柳蔭などに荷おろして客を待つ心太(ところてん)やの姿を見る時、江戸ッ児にはそを見遁がして通ること却々(なかなか)に困難だ。
 立ちよって一ト皿を奮発すれば冷たい水の中から幾本かを取出して、小皿に白滝を突き出し、これに酢醤油かけて箸を添えて出す。啜りこむ腹に冷たきが通りゆくを覚ゆるばかり、口熱のねばりもサラリと拭い去られて、心地限りなく清々しい。
 江戸ッ児はその刹那の清々しさを買うに、決して懐銭を読む悠長をもたぬのである。
 かれらはまた同じ心で夕暮の散歩に、氷屋が店なる「白玉」のビラを横目に見て通りあえぬ。紅白の美しい寒晒粉を茹上げた玉幾つ、これに氷を交えて三盆白をふりかけた奴を匙で口にした気持ち、それが食道を通って胃腑におちいた時には骨の髄までも冷さが沁入るようで、夏の暑さもサラリと忘れたよう、何が旨い彼が好いと言ってからが、この味いはまた格別。それにこうして胆ッ玉まで冷やすところなざァ江戸ッ児に持ってこいの代物(しろもの)、これでなくちゃァすべてがお話にならねえのだと誰やらに言わしたら拳固で鼻ッ面を横撫でするところだろう。
 更にまた退いて考うるに、江戸ッ児の趣味は何処までいっても俳諧の風雅に一致しておる。三昧に入らずして既に禅定の機を悟り、ザックバランでもよくその気分を貴ぶ。蓋し江戸ッ児は終始この間に生き、この間に動き、そしてこの間にかれらの存在の意義を語りつつあるのである。
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 川開き



 両国の川開きは年々の隅田川夕涼みの魁(さきがけ)をなし、昔は玉屋鍵屋が承って五月二十八日より上流下流に大伝馬をもやいて大花火、仕掛花火を打揚げる。江戸ッ児の魂を有頂天にして、足元の小石にも跪かしむるはこの時で、「玉屋ァい――鍵屋ァい――」と老若ともに囃し立てた暫時は、空に咲き散れる火花の響きも耳にはとどかず、都の人々大方はその心を両国の空に馳せ、人いきれと混雑とに絞るほどな汗水垢になってもお構いなし、料理屋が二階座敷から見るよりは押すな押すなの人中にあるを面白がり、知るも知らぬも、すぐに十年の知己となった如く、互いに弥次り弥次られ、その騒ぎったら一ト通りや二タ通りではない。
 然るをこの花火、玉屋は火を過って遂にその株を失い、今では鍵屋が独り占めながら、揚げられた花火の賞美には相変らず「玉屋ァい」が多く、殊に口惜しきはかかる類にまで広告に利用して、仕掛花火にビールの広告があらわるるなぞ、何ぼう殺風景の限りだか知れぬ。
 両国の川開きもこうなってはお仕舞いだとケチった連中もあるが、これだけは滅ぼしたくないものだ。
 それからこの川開きがすむと、続いて芝浦にも花火の催しがある。
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