雨の回想
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著者名:若杉鳥子 

雨の回想若杉鳥子 ゆうべからの雨はとうとう勢いを増して、ひる頃から土砂降りになった。樹の葉は青々と乱れ、室内の物影には、蒼黒い陰影がよどむ。 私は窓から、野一面白い花でうごめいている鉄道草の上に、雨のしぶくのを見ていたが、私はいつか知らない土地で、何時霽(は)れる[#底本では「霽(はれ)れる」と誤記]とも知れぬ長雨にあって、やはりこうして降る雨をみつめていた、子供の時の気持ちを思い出した。 それは何処の土地だか知れないが、向こうの神社の杜の中から、お神楽の太鼓が響いて、時々子供達の騒ぐ声が、波のようにきこえて来た。向こうの藁葺屋根の暗い軒端に、祭礼と書いた赤い万灯が立て掛けてあって、それが雨に濡れて字が滲み、ぽたぽたと赤い雫を落としていた。私は何ともいえない、うら悲しい気持ちで、その百姓家の窓から、これらの風物を見つめていたのだった。だが、「もう帰ろうよゥ」ともいい出せない、せっぱ詰まった事情でそこに雨宿りしているということは、子供ながらに知っていた。そして帰りたいのを凝と堪えていたのだった。 それは多分、私の里子にやられていた家の親達が、もう百姓の仕事を止めて、旅商人になってからのことだったと思う。 一家は玩具や雑貨の荷を背で負って、盛り場から盛り場へと歩いてゆく父親に随(つ)いて、祭礼や縁日のある土地へ行った。何処ででも行き着いた土地へ天幕の店を張って、地面へ薄ベリのようなものを敷いて、玩具のサーベルやラッパや安っぽい花簪や、蟇口の類を並べ、そして唄のように節をつけてお客を招ぶのだった。私もいつかその口擬(ま)ねを覚えて、天幕の店へ坐っていた。お神楽の太鼓や疳高くピイピイ鳴る風船の笛、或いは爆竹の音、アセチレン瓦斯、おでん屋の匂いなんかの中に、凍えるような夜をふかすのだった。 その時分に肺炎をやったりしたのが今でも祟って、幼い時から喘息やみになってしまった。そのうち学齢が来て、やっと養家へ引きとられて行ったが、どんなに大事にしてくれても、その貧乏な里親が恋しくて、夜も睡ることができなかった。 床につく時は観念しているのだが、少し睡ると眼が覚めて、一応あたりを見廻さずにいられなかった。そしてあの裸で寝る習慣のお婆さんも、オッカアも父(ちゃん)もいないと知ると、私は夢中で叫びながら駈け出した。どんな障碍物でも蹴飛ばすような勢いで、往来をめがけて走り出すのだった。 危ないッ! 皆に抱き止められて、再びまた床の中に連れ戻されるのだが、こんなことが毎晩続いた。夢遊病者のように、自分でははっきりそれを意識しなかった。  里のお婆さんの方もまた、預けた家へかえしはしたが、心配と逢いたさに、昏(く)れ方[#底本では「昏(くれ)れ方」と誤記]はきっと、向こうの家の土蔵の陰から顔だけ出して、私の方へ手招ぎをするのだった。 それを見ると、私はお婆さんの傍へ走り寄って行ったがお婆さんは歓んで息を切らしながら、いろんなことを訊いた。そして訣れる時、近眼のお婆さんは、懐中から出した茶色の巾着へ、眼をくッつけるようにして中から銅貨を摘み出し、私の掌の上に置いてくれるのだった。――それはお婆さんが近所の使い走りや洗濯をして、僅かに得た労銀なのだった。私はまたそんな貴い金とも知らず、貰うとすぐ養家へは内密で買い喰いをしてしまった。 こうして人目を忍んではお婆さんに逢うというのは、里親に出入りされたのでは、子供がいつまでも家の方へ馴染まないといって、里親に会うのを禁じられていたからだった。そして時たまお婆さんと話している処を誰かに見られでもしようものなら、「あの百姓婆、あの乞食婆、あんな薬缶頭のどこが好いんだ」そういって皆に揶揄された。「お婆さんが悪いのではない、働いても働いても貧乏なのは、そりゃお婆さんが悪いのではないんだ……」私は揶揄(からか)われるとも知らず泣きたいのを凝と堪えて、大きく眼を※(みは)って相手の顔を睨んでいた。 私もまた時々こっそりと物をねだりに、この貧乏な里親の家へ行った。家の傍に大きい寺院があって、その境内に大きい銀杏の樹があった。お婆さんは秋になって大風が吹くと、その落ちた実を拾って、穴を掘って埋め、その上に藁をかけて置いた。何もないとそれを掘ってよく炉ばたで焼いてくれた。 今でもその腐った藁のような土の臭いなどが鼻を掠めることがあると、私はいつもお婆さんの愛情を思い出す。 血が続いているのでも何でもない、ふとした縁から僅かな里ぶちを払って預けられた子供に過ぎない自分、それなのにああいう純朴さで愛してくれた、人間の心の尊さを泌々とおもうのだ。愛情というものは、決して骨肉的なものではない、もっと広いものであり生活から生まれるものであることを、私は深く考えさせられるのだった。 この一家は、始め小さな自作農だったが、苦し紛れに旅商人になり、父親があちこちと放浪している間に、少しばかりの田も畑もとうとう借金の形にとられてしまった。お婆さんはよく、その他人のものとなった田へ出かけて行っては、怨めしそうに見てくるのだった。死ぬ時には、祖父の代から耕してきた水田の中へ首を突っ込んで死んでやる――といっていたが、とうとう老衰して極めて自然に亡くなって行った。 ――こんなことを思い出しては書きながら、時々硝子越しに空を見ていると、いつの間にか空が明るくなって、雲足が速く、樹々が黒い陰をまといながら風に揺れている。 そして雲の切れめから時々サッと陽の光が射して、浅いみどり葉の影が、華やかに輝く、すると、土と草からは蒸れるように強烈な夏が立ちのぼった
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