植物人間
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著者名:蘭郁二郎 

      二

 とにかくそのボートのつないであるところに行けば、人間の来る小径がついているであろうと、ともすれば足許の滑りそうな水際を踏しめながら進んで行き、沼の面とすれすれに横に匍い出た大きな紅葉の幹を乗越えた時だった。
 今度こそ川島は、流石にギョッと眼を□(みは)ってしまったのだ。
 その入り込んだ蔭になっていたボートの艫(とも)に、これこそ全く思いもかけなかった少女が独り、真正面(まとも)にこちらを向いたまま腰をおろしているのである。
 向うでもこの異様なハイク姿の川島が、突然森の中から現われたのに気がつくと、川島以上に愕いたらしかった。それはあわてて彼女が立上ろうとした拍子に、平均を失ったボートがいまにも顛覆しそうに揺れ動き、丁度都合よく駈寄った川島が艫を抑えなかったならば、彼女はそのまま青みどろの沼の中に抛出されてしまったに違いないと思われたくらいだからだ。
「危かったですね」
「…………」
 川島が艫を抑えてボートを水際に引上げるようにしながら話しかけた。けれど、彼女は舳先(へさき)の方に蹲(かが)んだまま、ただその円(つぶ)らな瞳(め)を二三度瞬いたきりである。
「ここは何んという沼なんですか、ぼくは一寸道に迷っちゃいましてね」
 しかし彼女は、矢張り川島に眼を灑(そそ)いだまま
「さあ、いいえ……」
 といったような無意味な言葉を、口の中で二言三言つぶやいただけだった。
 いずれにしても、この木と草と土以外に生物といえば虫けら位しかいはしまいと思われていた鬱蒼たる森の、その急傾斜な崖に囲まれた沼のほとりに、十八九かと思われる美少女がただ独りぽつねんと小舟に腰をおろしていた、ということはどう考えても奇妙至極なことであった。最初のギョッとした愕きが覚めて来るにつれて、川島は今度はその疑問にしっかり胸を抑えられてしまった。
 彼女は相変らず無言だった。而も彼女はひどく美しいのだ。それは全く予期もしていなかった山の中で、ひょっくり逢ったという特別な条件ばかりでなしに、たしかに都会の中に混ぜ込んでも、くっきりと一際目立つに違いないと思われるほど、彼女は美しいのだ。それは決してのしかかって来るようなアクティヴな美しさではなかったけれど、丁度その彼女の纏っている聊か流行おくれなワンピースの碧羅が、しっくりと吸い附くように似合うような、静かな柔かな美しさであった。
 川島はいままで、これほどに緑の服の似合う少女を見たことがなかった。同時に、これほどまでに胸を搏つ美しさにも逢ったことがなかった。
 川島は気がついたようにまだ艫を抑えていた手を離して、立ち直すと、重いリュックサックを肩から外(はず)し、輝いている沼を背にした逆光線の彼女に微笑しながら話しかけた。しかしその言葉は、何時もに似ず甚だぎこちないものだった。
「おどろきましたねえ、まさかこんなところに人がいるとは思いませんでしたよ」
 彼女はその椿の葩(はなびら)のような唇を二三度動かしたけれど、それは喋るつもりではなくただ微笑んだものらしかった。
「この近くに家があるんですか、実はぼく迷っちゃったんですよ、熊野川の方に出ようと思ってたんですが、そっちに行くにはどんな見当でしょう……」
「…………」
 しかし彼女は、矢張り微笑んだきりだった。
「ご存じないんですか――」
 彼女は、すんなりとした透き通るような手を挙げた。そして、どちちかの方角を指そうとしたに違いないのだが、突然、さっき川島とぶつかった時のような強張(こわば)った表情になったかと思うと、挙げかけていた手を何時の間にかするりとおろしてしまっていた。
 と同時に川島は、背後(うしろ)の方から森の中を踏分けて来る跫音を聞いて、思わず振り向いた。

      三

 森の中から近寄って来たのは、もう五十がらみかとも思われる男だった。垢によごれたズボンとシャツだけをつけ、胡麻塩の無精髭に覆われた男の、眼だけは敵意かとも思われる激しい光りを持っていた。
 そして、その眼つきで川島の全身を点検するように頭から足許まで静かに見下した。川島は、その鋭い視線を受ける度に、丁度体の其処に触られたような無気味さを覚えた。これが彼女とは逆に、この男に先に逢っていたのならば、川島は疾うの昔に崖を駈上(あが)ってこの地図にない沼のほとりから退散していたに違いないのだ。
 だが今は、黙って退こうという気持は、一向になかった。
 寧ろ精一杯の好意の微笑を浮べて
「どうも道に迷って弱っちゃいました。この近くに村がありましょうか」
 と問いかけた。しかし胡麻塩の男は、それを聞き流して、もう一度疑(うたぐ)り深い眼つきで川島を見廻してから
「ない、村なぞは無い」
「ほう――」
 川島は、此処へ来て、はじめて人間らしい返事を聞くことが出来、一層微笑することが出来た。
「ほう、じゃこのお二人はよっぽど遠くから来られたんですか」
「いや――」
「へえ、どういうわけですか」
「わし達は、この近くにおる」
「はあ? するとこのお二人だけで山奥に住っていられるというわけですか」
「ふむ」
「ここは一体、何(ど)の見当なんでしょうか、この沼も地図に載ってないようですが……」
「載っておらん。載っておらんというのもわしが造ったからだ」
「造った――?」
「ふむ、水の出口を堰止めて雨水を溜めただけのことだ」
「へえ、大変な事業ですね、何かよっぽどの研究でもされているんですか」
「ふむ――」
 その男は、もう一度川島の顔を疑(うたぐ)るような眼つきで見廻したけれど、しかしそれは彼の微笑に押しかえされてしまった。
 そして無意味に二三度頷くと
「君に果してこの画期的な事業が呑込めるかどうかはわからん、が、興味だけは持てるに違いない――、つまり其処にいる洋子に関することだからね」
 そう真正面(まとも)にいわれた川島は、又あわてて笑いを浮べたのだが、それは片頬が纔(わず)かに顫えただけの、我れながら卑屈なものであった。そして、照れたように後の洋子を振りかえって見ると、彼女は、まださっきのままに舳先に腰をおろしてい、真黒な瞳(め)をあげて、川島の汗の泌出た背中をジッと見詰めていたようである。
「ふむ、尠くとも君は悪い人間ではないらしい、信用しよう、いや歓迎しよう、ぼくは何も自分独りでこの素晴らしい新しい世界を独占しようとは思っておらんのだからね、というよりか君のような青年に、大いに語りたいのだ、年をとった者は駄目だ、年をとった者は何んでも自分の常識の中でしか行動しない、自分の常識以上のものは何事によらず変った眼で見ようとする、ぼくが此処で変った生活をしている理由をいって聞かせても、テンから信用しようとはしないのだからね、――けれど、君はそれを聞いてくれるだろう?」
 胡麻塩の男は、その風貌に似合わぬ若々しい言葉と声で話し出した。その話しぶりから察すれば、この男は前にも誰かに自分の変った謀(たくら)みについて語って、全く相手にされなかった不満さを持っているらしい。
 しかし川島は、真面目に頷いた。この男がともかく谷間を堰止めてこれだけの沼を造ったという奇妙な仕事も、傍らにいる美しい洋子に関することならば聞いて決して悔いないように思われた。寧ろ自分の方から聞き訊ねたいくらいであった。
 此処ではじめて初対面らしい挨拶を交して、川島はこの男が吉見という名であることだけはわかった。そしてその言葉つきからこの辺りの者ではなく、関東――というよりも東京に若い時分を送ったのであろうということも、想像がついた。
 吉見は、しばらく眼を伏せていた。それは何からいい出そうかと迷っているようにも見えた。
 が、間もなくその太い静脈の絡みついた手を挙げると
「ともかく、あれを見たまえ……」
 指差された森の繁みの中には、まだ何も見えなかったけれど、そういえば誰かが近寄って来るらしい、幾つかの跫音が、動きのない空気を透して、静かに伝わって来る。
 川島はじっと眼を灑いで待っていた。そして、ちらちらと人影が見え、最後の太い柏の幹の裏から、くるっと廻ってその全身をあらわした二人の少女が眼に泌みた途端、無意識に、低くはあったが、呻きに似た声を洩らしてしまったのだ。
 まったく、想像も出来ない人影だった。奇蹟だった。
 そこには、もう二人の『洋子』があでやかに立っているのだ。
 川島は、愕きというよりも、恐怖を覚えた。汗をかいたままでしばらく立止っていたせいばかりでなく、何か全身に濡れたような冷めたさを覚えた。
 そして、この周りをとりまく森という森の茂みの中には、何千何百という無数の『洋子』が充満し、一斉にワッとばかりに飛出して来るかのような眩惑にさえ襲われた。
 しかし、夢でも、手品でも、幻術でもないのだ。沼の上の、森を刳ぬかれた青空には、南国の太陽がギラギラと輝いているのである。

      四

 この人里離れた山の中の、鬱蒼たる森に囲まれた沼のほとりで、聊か流行おくれとはいえ碧羅のワンピースを纏った美少女と、胡麻塩の髭をもった吉見という男に、めぐり遇ったことからして偶然といえば偶然な出来事であったのに、その上に又、洋子と呼ばれる一眼で若い川島の心を摶った美少女と、そっくり同じ、まったく其儘な美少女が、あと二人も現われて来ようとは、その場に居、この眼で現在自分が見ていながら、なかなかに自分を信じ切ることが出来なかった。
 あとから現われた二人の少女も、洋子と同じような碧(あお)い薄物のワンピースを着ていた。たった一つの違いは、この三人のワンピースに縫取りしてある模様が、菊と薔薇と百合と三種類になっていることだった。最初の洋子に、菊の刺繍があったことを覚えていなかったならば、そして洋子がボートから降りてあとの二人の中に混ってしまったならば、川島は二度と彼女を見分けることが出来なかったに違いないのだ。
 つい先刻(さっき)まで川島は、一眼見た洋子の美しさと好もしさを、都会の無数の女の中に混ぜこんでも直ぐに見分けられると思っていた。だが、それはどうやら怪しくなってしまった。
(洋子たちは三つ児だろうか――)
 双生児(ふたご)ということはよく聞くことだし、川島の知人の範囲にも一組はあるのだが、三つ児というのは見たこともないし、あまり聞いたこともない。けれど五つ児ということもあるのだから決して荒唐ではない、いや、現在のこの場の奇妙さを説明するとすれば、そう考えるより仕方がなかった。
 それにしても、このそっくり同じな三人の少女と共に、こんな山奥で吉見という男は何を企んでいるのであろうか。
 川島の困惑に満ちた、遣り場のない眼が、やっと吉見の顔に止ると、吉見はそれを待っていたかのように、胡麻塩の髭に埋(うず)まった口辺(くちべり)を歪めて、白々と笑った。
「……君は結論から先きに這入ってしまったのだよ、この有様は、君をひどく愕かしてしまったらしいね、左様、宝石がだんだんに磨かれて行ったことを知らずに、いきなり出来上ったものの輝きに愕いているんだ」
「…………」
 川島は黙って吉見の顔を見詰めていた。返事が思いつかなかったのだ。
「よっぽどびっくりしているらしいね、まあいいさ一緒に来たまえ、すぐそんな疑問なんか棄ててしまうだろう」
 そういうと、吉見はもと来た森の中に帰りはじめた。川島は黙って頷くと、下してあったリュックサックを片肩にかけ、そのあとに続いて行った。
 まだ柏の幹のそばに佇んでいた二人の少女は、はじめて気がついたように、しかし相変らず無言のまますんなりと避(よ)けて、細い径(みち)を譲ってくれた。川島はその傍らを通り抜けた時に、何か、咲き乱れた花束のような匂いを感じた。
 径は、絶え絶えに細くつづいていた。径というよりも、少しばかり踏みかためられた木々の間を、心もち右肩を落して歩く吉見のままに従って行った感じだった。
 が、案外に早く崖が切れて、丸太造りの小屋についたのは沼のほとりから二三分のところであろうか。
 その小屋は一寸見たところ四五坪ぐらいのもので、ひどくお粗末な別荘といった感じだった。
「母屋(おもや)はも少し向うだけれど、まあここでお話しましょう、ここの方がいい」
 吉見はそんなことを呟くと、蝶番が茶色の粉を吹いたように錆ているドアを押して、招じ入れた。
「ここはわしの植物学研究所なのだ、尤も所長兼小使だが……」
 冗談らしくいったが、なるほどそういわれればその一部屋きりの小屋の中には、試験管だの、フラスコだの、顕微鏡だのそういった器械類が、丁度中学の時の化学教室を思い出させるような恰好で、並べられてあった。
「まあ一服して下さい、煙草を吸っても一向構いませんよ」
 吉見はそういいながら、不細工な椅子をすすめてくれた。
 眼の前の頑丈な実験台の上には、フラスコに入れられた緑(あお)いどろどろしたものが置かれてあった。それはさっきの沼の全面を占領していた青みどろのようであった。
 川島が、ほかに眼のやり場がなくて、それを見詰めていると、吉見は吉見で、それが彼の眼にとまったことを如何にも嬉しそうに
「これを知ってますか」
「いいえ。――植物ですか、小さな」
 そのあやふやな言葉にも、吉見は手を拍たんばかりによろこんだ。
「そうですそうです、植物です、じゃ、こっちを見て下さい」
 吉見は、何か培養器のようなものから、載物硝子(さいぶつガラス)に移したものを顕微鏡にかけ、川島をせきたてるようにして覗き込ませた。
 覗き込んだ川島は、ただ何か得体の知れぬものが伸びたり縮んだりして動き廻っていることしか、わからなかった。
「どうです、なんだと思いますか」
 吉見は、川島が眼を離すのを待ちかねたように顔を近づけて来た。
「さあ――」
「動物ですか植物ですか」
「さあ――」
 川島は返事の仕様がなかった。
「植物です、緑色に見えるでしょう、葉緑体をもった立派な植物なんです、動く植物、動物のように活躍する植物なんですよ」
 吉見の眼は、その奇妙な言葉とともに今迄にない生々とした色を浮べて来た。

      五

 川島は、脚のせいかそれとも床のせいか、兎(と)も角(かく)ガタガタと坐りの悪い椅子に腰をおろしながら、少々あっけにとられた形で吉見の言葉を聞いていた。
 吉見はまるで話したくてたまらなかったところへ、思いがけない無二の聞き手を見つけ出した時のようにびっくりするような熱心さで話しつづけるのだ。
「どうです、今君が、その眼でシカと見たように、植物の祖先も又動物の祖先のように活溌に動き廻っている。なるほど高等な動物と、高等な植物とは一見して判るけれど、しかしそれを遡ぼって行くにつれて、その境界というものは、甚だあやしくなって行くんだ。松の木と、その上に登っている猿とは一つとして似てはいない、それはお互いに分れた道を頂上まで登りつめているからだ。けれど、それを逆に次第に元へ戻って辿って行けばやがていつか同じ一本の元の道になってしまう。松も猿も、ともに養分を摂り、それを体の中に循環し、そしてともに消化酵素を持ち、呼吸をする、その生活状態はまったく共通なのだ」
「……そうですね」
 川島は、この吉見という男が、一体何を話し出そうとしているのか見当もつかなかった。が、ただその熱心な話しぶりには充分に好意が持てた。
「……そうですね、太古には植物とも動物ともつかぬ生物があって、それから色々なものが次第に進化して来たのが今の世の中だ、ってことは聞いてましたが……」
「そう、その通り、まったくその通りなんだ、先ず最初にやがて植物となるべき微生物が今君が顕微鏡で見たようなもの――と、それらのように葉緑体も細胞膜も持っていない――つまりやがて動物となるべき――細胞体とが分れた、それは全歴史を通じての最大な分岐点といえるだろう。ここに於いて松と猿とが分れたんだ、人間と雑草とが分れてしまったんだよ、だがしかし全く別のものではない、進化の仕方が途中で分れてしまっただけなんだ。運動や感覚は動物だけのものではない、朝顔の花は夜あけとともに開く、だから植物だって運動をする。その上はえとりぐさの奴は濡れた紙片をつけてやると欺されて捉えるけれど、つづけて二三回も欺してやるともうその次には反応をしなくなる、これこそ植物にも感覚と記憶があるという疑いのない証拠なんだ」
「ははあ、しかし一般に植物は動物みたいに活溌じゃありませんね」
「そう、そこだよ、その違いがこの二つの物の、最も根本的な違いなんだ、植物の奴は動物と違って食糧の残滓を体の外に棄てることを知らない――、それが不活溌なことの最大の原因なんだ、動物にしても海鞘(ほや)のように腎臓のない規則外れの奴があるが、こいつは迚(とて)も動物とは思えないほど鈍間(のろま)なんだから、このことからも残滓の排泄を知らないで、全身中にへばり附けている植物は不活溌だろうじゃないか」
「…………」
 相槌を打っていようものなら、吉見はおよそ何時間でもこの奇妙な話をつづけているに違いなかった。
 川島は、さっきの吉見の口ぶりから、なんとなくあの美しい洋子達に関しての秘密でも打明けられるように勝手に思い込んで、ついうかうかとこの妙な小屋について来た経緯(いきさつ)に少しずつ後悔を覚えて来た。こんな別の世界のようなことを、長々と聞かされるくらいなら、あのまま分れて、陽のあるうちに目的の熊野川へ出ていた方が、よっぽどましだった筈である。
 また、考えて見れば、山の中で偶然出逢った男などに、年頃の、しかも美貌の少女の秘密などを――例えそんなものがあったとしても――わざわざ呼止めて打明けるであろうか。
 ――川島は、自分自身の甘さ加減に舌打ちしたくなった。
「なるほど。よくわかりました。ぼくはこの浮世を棄てた山の中で研究に没頭されている吉見さんの研究所から、素晴らしい植物が生れ出るに違いないと思いますよ――では、ぼくは」
 しかしその最後の言葉は、吉見に聞えなかったようだ。吉見は、いいながら腰を浮そうとした川島を、その両の手を制するように振って押し止(とど)め、
「そう、そうなんだ、いかにもわしはその君のいう素晴らしい植物を作ったんだ、到底、いや絶対にといってもいい位君は信じないだろうが――、つまり先刻(さっき)君が見た三人の少女を」
「なんですって?」
 川島も、思わず訊きかえした。
「あの三人の少女は、われわれのような人間ではない、動物ではないんだ、植物なのだ。植物から進化した人間、なのだよ」
「…………」
「勿論、君はそんなことを信じやしまい、今までの誰にしたって同じことだった。――所謂常識とやらを外(はず)れたことだからね」
「……しかし、なるほど動物も植物ももとは一緒だとしても、そんなに早く、人間にまで進化さすことが出来ますか」
「適当な方法を使えば雪の降る日に西瓜を実らすことも出来る。わしはそのあらゆる方法を使って、この地に発見された珍らしい活溌な寄生木(やどりぎ)の一種をもとに、あれまで漕ぎつけたのだ。寄生木はほとんど根らしいものを持たぬあれは菜食植物だ」
「…………」
「ところが、寄生木から出来たものは、御覧の通り人間でいう女性ばかりだったよ」
 吉見は、その言葉で何か皮肉な諷刺をいったつもりらしく、川島の顔を窺うようにして片頬を歪めたけれど、しかし川島はさっきから息つく暇もないものに襲われていた。
(果して、そんなことがあり得るだろうか)
 どうしてもその疑問を振切ることが出来なかった。そのくせ一方では
(美しい筈だ。花のような美少女ではなくて、花そのものの美少女なのだ――、似ている筈だ。同じ枝に咲いた桜そのもののように見分けがつかないのだ)
 とも、思うのである。

      六

「しかし、いずれにもせよ」
 吉見が、不満そうな眼をあげたけれど、川島は構わずに続けた。
「いずれにしても、あの綺麗な、成人した少女たちを、こんな山奥の沼畔にいつまでも置いては可哀想じゃないんですか、都会――というより世の中に出して教育をされるとか、また、あなたにしても、これだけの大成果を誇ってもいいし少くとも発表すべきではないんですか」
「世の中に出す、って――」
 吉見は、ギョッとしたように川島を見詰め、それから急に額に縦皺をよせて、激しく頭を振った。
「と、飛んでもないこと、あの三人はわし無しでは一日も生きて行けないのだ。わしは全霊を打込んで手塩にかけてきたあの三人が、世の中に出されれば屹度(きっと)好奇心の犠牲になることを知り切っている、見世物扱いを受けさせることが堪えられないのだ、わしはわしの苦心を見世物にしようなぞ、断じて思いもよらんことだ」
 吉見は、その胡麻塩の髭のなかから眼を光らせ、のしかかるような激しい口調でいったかと思うと、こんどはまた急に、また哀願するように囁くのだ。
「いや、君はそんなことはないね、まさか君はあの三人をわしから引□(ひきむし)って行って、一と儲けをたくらむような、そんなことはあるまいね、――洋子たちは此処で充分幸福なのだ、そっとして置いてやってくれたまえ、それに、この素晴らしい大事業の名誉を、わしのために守ってくれるなら、わし自身が発表するまで君だけの胸に畳んで置いてもらいたいのだが……」
「むろん、そんなこといいやしません、ぼくは香具師(やし)じゃありませんからね」
「そう、ありがとう……、植物人間はまだわしが充分と思うまで完成されていないのだ、それがしっかり完成するまで他人(ひと)に知られたくはないのでね」
「よくわかってますよ、――万一ぼくが口をすべらしたからって、第一地図にもない沼のほとりで遭ったこの出来事を、そのまま信じてくれる人なんぞあるものですか」
 吉見は、口をへの字に曲げて頷いた。
「ところで、だいぶお邪魔しましたが、ぼくは九里峡の方に出たいと思うのですが、……」
 川島は、吉見からくだくだしい挨拶とともに、九里峡へ通ずる自動車道路までの道順を教わった。
 その道順は、何百歩置きかにある草木を目印としたもので、とても二度と再びその路を逆に此処まで来られそうもなかった。寧ろ吉見はそれを望んで、わざとそのような教え方をしたのではないか、とも思われる。
 川島は、思いがけぬことに時間をとってしまい陽のあるうちに目的地に行けるかどうかを危ぶみながら、しかし一方では、吉見さえ嫌な顔をしなかったならば、あのままに別れて来た洋子たちにもう一度あって確かめたかったのだけれど、吉見はなぜかそれを喜ばぬような素振りだった。
 そして、小屋のドアから送り出されると、沼とは反対の、教えられた森の中へ帰りはじめた。
 三つ目の目印のところで立止った時は、もう一度引かえそうかと思った。
 だが、振りかえって見ると、こちらからでは此処へ来るまでに過ぎて来た目印が、もうわからなくなってしまっていた。
 四つ目の目印である葡萄の花のところまで来て、またもう一度振りかえった。
 その時、ふと見上げた左手の崖の上に、思いがけないものが立っていたのである。
 洋子だった。たしかに菊の縫取りがあった――。
 その洋子が、こっそり見送るように川島を見下(おろ)していたのだ。ばったり眼が合った瞬間、彼女はどぎまぎした様子だったけれど、すぐその手袋のように白い手を振って見せた。
 洋子の顔は、気のせいか上気したように赧らんで見えた。そして思わず川島が、両手を口に当ててメガホンのようにし
「洋子さあーん」
 と呼んで手を振ったのに、いや、却ってその声が、あたりの森の中にわーんと泌込んで行ったせいか、彼女は、その美しい顔を泣き笑いのように歪めると、ぱっと身を飜えして木々の間に消え失せてしまったのだ。
 川島は、いそいでその崖を駈のぼった。
 夢中で掴まった草が野薔薇のように刺をもっていた、が、それが痛いということは、しばらく後(あと)になって、やっと気がついたくらいである。
 だが、そんなにも急いで来たのに、洋子の姿は二度と見ることが出来なかった。
 川島は、思い切れぬままに、しばらくあたりを迂路つき廻った末、やっと刺を持った木に引掛っていた洋子の服の引き千切られた一片だけを、見つけ出すことが出来た。
 たしかに洋子が来ていたのである。そして服のどこかが引き千切れるほど疾(はや)く去って行ったのである。
 あの泣き笑いのような複雑な表情が、果して植物であろうか、植物の彼女が、そんなにも疾く駈去ったのであろうか。そして又なんのために、こんな所へまで、川島をそっと見送って来たのであろうか。
 洋子たちが、植物人間だなどとはそれこそ真ッ赤な出鱈目である。吉見の尤もらしい嘘っぱちなのだ。
 あの三人は、ただ世に稀な三つ児に違いない。吉見こそその父なのだ。
 吉見は、自分の不愍な三人の娘を、世間の好奇な眼に曝らすことが堪えられなかったに違いない。そして三人を揃って手許に置きたいばっかりに、こんな山の中に引込んでいるのではなかろうか。
 そして、偶然まぎれ込んで来た川島の口を防ぐために、植物人間などという奇妙な作り話をしたのではなかろうか。
 川島は、いつまでも、その彼女の碧羅を引き千切った木の傍らに、立ちつくしていた。陽は殆んど暮れかかって来た。黒ずんだ森が、風に蕭々と鳴りはじめて来た。それは、しかし、まるで森の木々共が、川島にはわからぬ言葉で、洋子たちのことを大声で話し合っているようにも聴えるのであった。




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