腐った蜉蝣
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著者名:蘭郁二郎 

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 ……何処(どこ)をどう歩いたのか、したたかに酔痴(よいし)れた私は、もう大分夜も更けたのに、それでも、見えぬ磁力に引かれるように、郊外にあるネネの住居(すまい)を捜し求めた。
 軈(やが)て、さんざ番犬共に咆えつかれた揚句、夜眼(よめ)にも瀟洒(しょうしゃ)な文化住宅と、外燈の描くぼんやりした輪の中に「木島」の表札を発見した時は、もうその無意味な仕事の為に、心身ともに、泥のように疲れ果てていた。が、勿論(もちろん)、私はその門を叩(たた)こうとはしなかった。
 そして尚も、飢えた野良犬のように、その垣の低い家の周りを、些細(ささい)な物音をも聴きのがすまいと耳を欹(そばだ)てて、ぐるぐるぐるぐると廻(まわ)っていた。
 さっきから、たった一つの窓が、カーテン越しに、ぼーっと明るんでいるきりだった。おそらくネネはいるのであろう、しかし何の物音もしなかった。その馬鹿にされたような静けさが、余計私の神経を掻乱(かきみだ)すのだ……。
 と、突然、まったく突然、その家の洗面所と思われる方にすさまじい水道の奔(ほとばし)る音が、あたりの静けさと、欹てた耳とに、数十倍に拡大されて、轟(とどろ)きわたった。途端に私は、巨大な「洗浄器」を錯覚して、よろよろッとその低い白く塗られた垣に靠(もた)れてしまった。その垣は霧のためにべっとりと湿っていた。そしてネネの肌のように水々しかった。私はそこへ、ガクッと頸(くび)を折ると、熱い頬を押しつけた、そして、犇(ひし)とその濡れた垣を抱しめた……。と同時に、不思議にも込上(こみあが)るような微笑を感じて来た。
 四辺(あたり)、には厚い霧が、小雨のように降り灑(そそ)いでいた。
 そして私は、浪に濡れた太郎岬の上で、今日も、独りしょんぼりとネネを待っているであろう春日行彦の、痩(や)せさらばえた姿を、ひどく馬鹿馬鹿しく、憤(いきどお)ろしく思い出すと共に何かしら解放されたような、安易さを覚えて来るのであった。




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