腐った蜉蝣
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著者名:蘭郁二郎 

 が、そればかりではなく、私はこの偶然な邂逅(かいこう)という宿命的な出来事に、ひどく搏(う)たれてしまったのだ。そして、この寂しい部屋の中にまで響いて来る風の音、潮のさわぎまでが何かしら宿命的な韻律をもって結ばれているのではないか、と疑われて来るのであった。夜の更けたせいか、一瞬、寒む寒むとしたものを感じた私は、ほっと重い溜息(ためいき)を落したのと共に、鈍い音をたてた柱時計に気がついた。
『――じゃ、失礼します、どうも大変お邪魔してしまって……』
 嗄(しわが)れた咽喉(のど)から咳払(せきばら)いと一緒にいった。
『おや、そうですか』
 そういって、その男も気がついたように上げた顔は、思わずドキンとするほどの殺気を持って歪んでいた。その血ばしった眼、心もち紅潮させた蒼黒い皮膚の下には、悪鬼の血潮が脈々と波打っているかのようであった。
 私はその時確かに彼の周囲に慄然(ゾッ)とするような鬼気を感じた。
(この私でさえ、あの時は一思いにネネを殺して自分も死のうか、とすら思ったのだから)
 と、この男が、今抱(いだ)いているであろう血腥(ちなまぐさ)い想像の姿が私にはアリアリと写るのであった。
 そして又、気の弱い私には、到頭(とうとう)それは実行出来なかったけれど、この、狂気染みた男なら、或はそれをやってのけるかも知れない、というありそうな怖れに、思わず胸の鼓動がどきどきと昂(たか)まって来るのであった。
 そしてそれが、このネネを囲んだ三人の間の、宿命なのかも知れぬ、とすら思われた。
 ――然し、その男は、思ったより落著いた口調で、
『や、どうも遅くまで引止めてしまって、却(かえ)って済みませんでしたね、もうお休みですか――』
 と、ゆっくりいって、淋しく笑った。
『いや――、どうも近頃少しも寝られなくて閉口しているんですよ』
 私も、さり気なく答えて、又タバコを咥(くわ)えた。
『そうですか、それは困りますね、こういう薬があるんですが、飲んでみませんか、よく利きますよ』
 そういうと、その男は、机の抽斗(ひきだし)から名刺を出して、その裏に、すらすらと処方を書いてくれた。受取って表(おも)てをかえして見ると、そこには「医師、春日行彦(かすがゆきひこ)」とあった。
 私は彼から懐中電燈を借りると、危なっかしい小径(こみち)を分けて、町へ帰って来ながら、まだ起きていた一軒の薬局へ寄って、
『この薬をくれたまえ――』
 といってから、
『この薬の中には毒になるようなものはないね』
 と確(たしか)め、
『ございません、神経衰弱の薬として、立派な処方と思います』
 そういった薬剤師の言葉に、あのゾッとするような顔は、ネネ一人に向けられたものだったのか、と頷(うなず)かれた。
 尤(もっと)も、私は遂に、その薬には手をつけず、アダリンの売薬を買って済まして仕舞ったのだが……。

      四

 翌日。私は昨夜借りて帰った懐中電燈を返すのを口実に、春日の家へ行って見た。
 行ったのは、もうお午(ひる)をまわっていたが、勝手口のところには、疾(と)うに冷め切った味噌汁(おみおつけ)を入れた琺瑯(ほうろう)の壜(びん)と一緒に、朝食と昼食の二食分が、手もつけられずに置かれてあるのを見、
(留守かな――)
 とも思ったが、案外、彼はすぐ声に応じて出て来た。
『ゆうべは失礼しました』
『いや、僕こそ、……どうぞ上って下さい』
 私は、何気なく上ろうとして、一眼(ひとめ)で見渡せるこの家の中の、余りの乱雑さに、思わず足が止ってしまった。
 その、二間だけの座敷全体には、ずたずたに引裂かれた楽譜や五線紙が、暴風雨(あらし)の跡のように撒(ま)きちらかされ、そればかりではなく、あの高価らしい漆黒(しっこく)のピアノまでが、真ン中から鉈(なた)でも打込んだように、二つにへし折れているのであった。
 春日は、眩(まぶ)しげに顔を外向(そむ)けて苦笑いをし、
『どうぞ、どうぞ……』
 といい乍(なが)ら、楽譜の反古(ほご)を掻分(かきわ)けて僅かばかりの席をつくってくれたが、
『いや、いいんですよ。今一寸(ちょっと)用があるんで、又来ますから、……これをお返しに来たんです、じゃ、また晩にでも……』
 私は懐中電燈を置くと、わざと座敷の中から眼を外(そ)らして何んにも見なかったように、さも忙しそうに、早々と崖を下(お)りはじめた。なんだか、彼の一ヶ年の苦心を一瞬にぶち壊してしまった心の苦悶が、特に私にだけよく解るような気がし肉親の苦しみを見るような、胸の痛みを覚えたのであった。
 ――それっきり、彼は黄昏(たそがれ)の散歩にも現われなかった。それを心配して私は二三度彼の家を訪ねて見たが、昼も夜も、いつも春日は不在であった。そして、何時か私の足も遠のいてしまった。
 ――その中(うち)に、私の借りている別荘を管理している植木屋の口から、太郎岬の一軒家にいる変り者の男が、何を思ったのか、近頃しきりと、この町からバスの通じている隣り町まで行き、そこの私娼窟(ししょうくつ)にせっせと交(かよ)っているという噂(うわさ)を聞いた。
 そして、その男は其処(そこ)の花子という若い私娼に夢中になって「ねんね、ねんね」などと子供のように可愛がるのだそうだ、という話を、この話題に乏しい町の噂が伝えて来たのであった。
 私にはその「ねんね」は「ネネ」の誤りであろうことは、すぐ想像出来たが、それと同時に、彼がネネと呼んで愛撫するという女性に、ひどく興味を覚えて来た。
(ほんとにネネのような女であろうか)
 それとも、
(その女が、偶然、ネネの姉妹であったとしたら……)
 あの、春日との偶然な宿命的な邂逅を思うと、そんなロマンチックな好奇心が、ついに抑えきれなくなってしまった私は、町の顔見知りを恐れて、バスにも乗らず、わざわざ歩いてその私娼窟へ行って見たのだ。
 其処(そこ)は、町すみの一廓(かく)ではあったが、しかし全然別世界のように感じられた。というのは、露地のように細い路(みち)が軒下を縦横に通じ、歩く度に、ばたんばたんとドブ板が撥返(はねかえ)って、すえたような、一種異様な臭気が、何かしら、胸に沁みいるようにあたりに罩(こも)っていたからであった。そして、時々、蒼白いカサカサな皮膚をした若い男が、懐手(ふところで)をしながら、巧みに、ついついと角を曲って行く姿が、ふと蝙蝠(こうもり)のように錯覚されるような四辺(あたり)であった。
 私は、長いこと、矢張り懐手をしてその迷路のような一廓の中を、彷徨(さまよ)い歩いた、胡粉(ごふん)を塗ったような女共の顔が、果物屋の店先きのような匂いを持って曝(さら)されていた。
 然し、竟(つ)いに、春日の姿も、花子という女の姿も発見することは出来なかった。
 それは、あとから考えれば、当り前であった、その噂が拡まる頃には、もう春日はその女と、太郎岬の一軒家で同棲していた、というのだから……。
 遅蒔(おそまき)に、それを知った私は、いくらかの躊躇(ちゅうちょ)は感じたが、そしてその口実にあれこれとさんざ迷ったのだが、遂に好奇心の力に打まかされて訪問を決心したのは、それから又、一週間も経ってからであった。
 あの崖の小径を登り切って見ると、彼は、その女と暮しながらも、猶(なお)、仕出屋の食事をつづけているらしく、勝手口の外には喰いちらかされた二人分の食器と、やっと暖かくなって来たかと思われるこの頃だのに、もうむくむくと肥った青蠅(あおばえ)が、ぶーんと飛立つのが見られ、ひどく不潔な彼の生活が其処に投出されているかのように眺められた。
 春日は、ピアノも何もない殺風景な部屋の中に、垢(あか)じみた蒲団を敷っぱなして、独りゴロンと寝そべっていた。近寄って見ると、気のせいか、彼の顔色は土色に褪(あ)せ、カサカサした皮膚が、痛々しくさえ思われた。
『や――』
 彼はゆっくり起上って、笑顔を見せた。
『しばらくでしたね、ま、どうぞ――』
『結婚されたそうじゃないですか』
 これが、私の訪問の口実であった。
『結婚? いいや今は一緒にいる、っていうだけですよ。こんどの女もネネのように、機会さえあれば僕を踏台にしてゆこうという女ですよ、それはわかっているんだけれど、……』
『今は――』
 私は一眼(ひとめ)で見渡せる家の中を、もう一遍見直した。
『いま、町まで買い物に行っていますよ』
『ばかに顔色が悪いようですが、何か――』
『これですか』
 彼は痩(や)せた手で顔を撫でると、
『病気のせいでしょう……ジフィリスになってしまったんですよ、ふふふふ』
『それは――』
 私は眉(まゆ)をひそめて、花子という女からだな、と思いながら、
『そんなら早く癒(なお)さなけりゃいかんでしょう、医科を卒(で)られたんだから、自分で静脈注射も出来ませんか……』
『いや、もう病気を癒そうなんて気力は、疾(と)うになくなってしまった僕ですよ。未だにそれだけの気力を持っているほどなら、一(い)ッそネネを殺ってしまっていたでしょう、ふッふふふ……ネネは僕に何一つ思い出を遺(のこ)してはくれなかったんですが、こんどの女は、こんなに消えぬ思い出を与えてくれたんです、久劫(くごう)に消えぬ、子孫にまで遺ろうという、激しい恋の思い出の華を……』
 私はこの狂気(きちがい)染みた彼の言葉に、返事を忘れてしまった。
(春日は、頭を冒されたのではないか――)
      ×
 早々に引上げた私は、その帰り道、あの崖の細路(ほそみち)の中ほどで、一人の女と行き違った。この路の果てには春日の家しかないのだから、その女が私の興味を惹(ひ)いた花子であることは疑いもないことであったけれど、その女は、余りにも、私の想像とはかけ違ったものであった。
 真ッ昼間だというのに、黄色のドーラン化粧に、青のアイシャドウ、おまけに垂れ滴(したた)るような原色の脣(くちびる)をもった、まるでペンキを塗った腸詰のようなその黴毒女(ばいどくおんな)を、春日が、例え噂にもしろ「ネネ」と呼んだ、ということについては、激しい不満を感ぜずにはいられなかった。私は、すれ違った瞬間に受けた職業的な、いやらしい流し目(ウィンク)を、いつまでも舌打ちをし乍(なが)ら思い出し、よくもまあ、あの時、崖の上から突飛ばさずに、無事に帰って来たものだ――とすら思われた。
 が、しかし、考えてみると、あの一風変った春日にしてみれば、ネネも、ただあの醜い花子を美しく包装しただけであって、内容はまるで同じものだと思っているのかも知れぬ、イヤ、「美」の感点などというものは、人に依って違うのだ、彼はネネの声をほめたけれど、曾(か)つてネネの美しき容姿については一言もいってはいなかったではないか。春日はネネの声に恋していたのかも知れぬ、そして、聞いてはみないが、ひょっとすると花子の声はネネ以上に美しいのかも知れないと思われた――でも、でも私には、余計なことかも知れないが、その花子という女は、とても我慢のならぬ代物であった。
(ネネの姉妹(きょうだい)?――)
 などという甘いロマンチズムは、かくして虚空の外にケシ飛び、儚(はかな)くも粉砕してしまったのだ。

      五

 日増しにく暖かくなって、藤の花が一つ二つ咲きはじめた日であった。
 あれから、思っただけでも虫酸(むしず)の走る花子のことを考えると、私は絶えて春日を訪れることもなかった。
 海に面した縁先に、寝椅子を持出して、目をつぶった儘(まま)、
(東京へ帰ろうか――)
 などと思われる日であった。
 思えば、なぜ「この日」を其処で迎えてしまったのであろう。その前になぜ東京へ帰って仕舞わなかったのであろう、と悔まれるのであるが、しかし、それも亦(また)、宿命という説明し尽されぬ魔力に、まだ私は囚(とら)われていたのに違いないのだ。
 それは、花子との二重写しに依って、漸(ようや)く薄れて来たネネの面影が、又々生々しく甦って来、私の胸を騒がすような事件が待設(まちもう)けていたのであった。
 午後であった、しかし、まだ午(ひる)を廻って間もない時分だ。裏木戸を蹴飛ばすような騒々しい音と一緒にあの植木屋が大事件だ、というような顔をして飛んで来た。
『いま、自動車が崖から落ちて怪我人が出たというんで大変な騒ぎで……』
『ほう、東京の人かね』
『そうで……なんでも若い者のいうことでは秋本ネネとかいう女優かなんかだそうでして……』
『ナニ――』
 私は、ガバとはね起きた。
『死んだか――』
 その返事も聞かずに、飛出した。
 太郎岬の下を廻る県道まで一気に馳けつけて見ると、成るほど一台の緑色(りょくしょく)に塗られた新型のクウペが、玩具(おもちゃ)のように二丈ばかりもある岩磯の下に転げ込み、仰向(あおむけ)にひっくりかえって、血かガソリンか、其処らの岩肌には点々と汚点が飛んでい、早くも馳けつけた青年団の連中が、その車の下から、一人の男を引(ひき)ずり出しているところであった。
 その傍(そば)の岩の上には、あの、ネネが、前よりも一層美しくなったように思われるネネが、喪心(そうしん)したように突立って、手を握りしめ、帽子を飛してしまった頭髪(かみのけ)を塩風に靡(なび)かせながら、凝乎(じっ)と、青年団の作業を見守っているのであった。
(ネネは怪我をしていない――)
 私は、「ネネ、ネネ」と大声で呼びたい心をやっと押えつけて、転がるように磯にまで行ったが、さて、真近に行って声をかけようとした時、又もグッとその声を飲んでしまった。
 其処に、春日がいるのである。
『やあ――』
 私は、わざとゆっくり声をかけた。ネネは素早い視線で私達を認めると、流石(さすが)に、はっとした心の動揺は隠せなかったらしい。
『…………』
 唯、無言で頷(うなず)いたきりであった。そして又、ちらりと春日の横顔を偸見(ぬすみみ)た。
『怪我はしませんか』
 私が訊いた。
『ええ、あたしは……あら、どうでしょう』
 彼女はいきなり自動車から引出された男のそばに馳(かけ)寄った。そこにぐったり寝て、顳□(こめかみ)に血の塊りをつけた男は木島三郎であった。私がぐずぐずしている間(ま)に、春日はその木島を抱え起し、脈を診ると、
『まだ大丈夫だ、すぐ手当をすれば受合(うけあ)う……』
『そう、それじゃすぐ病院へ……』
 ――手廻しよく呼ばれて来たタキシーで、木島をはじめ私達四人は、すぐこの町で一番大きい村田医院へかけつけた。
 折よく村田氏は在院していてしばらく春日と何か専門語で話合った揚句(あげく)、春日は、
『ネネさん、一刻を争いますから僕が血を提供して輸血します』
『え? あたしも、あたしの血も採って……』
 ネネは、この春日の、思いがけぬ義侠的な言葉に、却(かえ)ってひどく狼狽(ろうばい)したようであった。
 村田氏は構わず春日とネネの耳朶(みみたぶ)から一滴ずつの血を載物硝子(さいぶつガラス)の上に採ると、簡単な操作を加えてから、
『秋本さん、あなたのは合いません、春日さんのは幸い合っていますから春日さんから輸血させて戴きます……』
『さ、すぐやって下さい』
 春日は、平然としていった。
 ネネは、感極(かんきわ)まったように、手を堅く握りしめて胸のところに合せた儘(まま)、眉一つ動かさぬ春日の横顔を見守っていた。
 私は、春日の血液が、様々な硝子器具を通って、木島の体へ送られて行くのをじっと見乍(みなが)ら、フト、
(春日はジフィリスだったが……)
 と思った、と同時に、愕然(がくぜん)とした。春日は今、ネネの眼の前で復讐をしつつあるのだ。彼からネネを奪った男の体に、忌(い)み嫌われた細菌の群が、真赤な行列をつくって移されているのだ……。
 それをネネは心からの感謝をもって見ている……。
 春日は、平然と、寧(むし)ろ、心地よさそうに眼をつぶっている。
 そして、そのわずかばかり口元を歪めて笑った顔は、あの最初の邂逅(かいこう)の夜に、私を慄然(ぞっ)とさせたのと同じ、鬼気を含んだ微笑(ほほえみ)であった――。
 私はジッと見詰めている中(うち)に、握りしめた掌(て)や脇の下からネトネトとした脂汗が滲出(にじみで)、眼も頭も眩暈(くら)みそうな心の動揺に、どうしてもその部屋を抜出さずにはいられなかった。
 ともすれば、眼の前にちらつく、ネネの感謝の瞳(ひとみ)が、たまらなかったのである。
      ×
 木島は、この時宜(じぎ)を得た処置のためか、ぐんぐん恢復して軈(やが)て、東京に帰って行った。
『君、少しひどすぎないかね。君も医者ならあんまりじゃないか――』
 二人っきりになった時に、私は春日を詰(なじ)った。
『――なるほど、病気にはなるかも知れんが、しかし命は助かるじゃないか。僕は医者のつとめは十分に果したのだ』
『だが、これは僕だけの想像だが、木島は本当にあの時、輸血を必要としたのだろうか……』
 春日は、それを聞くとサッと顔色をかえた。しかし、しばらくして首を振りながら、
『それは君の想像にまかせる……だが、君自身は輸血をしようとは義理にもいわなかったじゃないか……。ネネは僕に感謝していたぞ。そして、木島とはただの友人にしか過ぎない、私はただあの人の地位を利用しようとして、誘いを断り切れず、ドライヴに来たのだけれど、木島が片手で運転しながら片手で私の肩を抱きすくめたので、それを振り払った途端、カーヴを切り損(そこな)ってあんなことになってしまったのです、と涙を流して言っていたんだ。そして、この来月末にある公演の主役をすましたら屹度(きっと)僕のところへ帰って来るというのだ。――これも、君が信じようと信じまいと、どちらでもいいのだがね、兎(と)も角(かく)、僕も今度は病気を癒(なお)そうと思う……』
 彼は、ゆるやかに口笛を吹くと、やがて、空中で、いきなりピアノを弾くように両手を踊らせ、あはははは、と笑った。
『信じられぬ……』
 私は、反撥的にそう呟(つぶや)いた、しかしその語尾は淡く消えてしまった。
 私も亦(また)、彼にとっては敵の一人であったのだ。この背負投げは、事実であるかも知れぬ……。口惜(くちおし)くも私は半信半疑の靄(もや)につつまれて来るのであった。――

      六

 既に、ネネと木島とが東京へ帰ってから、三月が経った。
 春日のところへ、ネネが来るのを待っていた訳ではないのだが、あの気まずい別れぎわの春日の揚言(ようげん)と哄笑(こうしょう)とが、私の耳の底に凝着(こびりつ)き、何とはなくぐずぐずしている中(うち)に、もう、明るい陽射しの中を、色鮮やかな赤蜻蛉(あかとんぼ)の群が、ツイツイと庭先の大和垣(やまとがき)の上をかすめるような時候になってしまった。私は、その夏ほど、重くるしい暑さに訶(さいな)まれたことはなかった。来る年々の夏は、なるほど暑いものではあったが、しかし紺碧(こんぺき)の大穹(おおぞら)と、純白な雲の峰と、身軽な生活とから、私の好きな気候であった筈なのだが――。
 春日のところへも、ネネから、一向音沙汰がないらしかった。それは、若(も)し彼をよろこばすような便りでも来れば、あの男には、とても私に話し誇らずにはいられないであろうことからも、容易に想像出来た。
 その中(うち)、人の噂に、花子が又もとの所で商売に出ている、ということは聞いたが、既に約束したという公演も、疾(と)うに過ぎてしまったのに、更にネネの影も見えぬというのは、一寸(ちょっと)待ち呆けのような気もするが、しかしそれと同時に、心の底にはたまらない皮肉な嗤(わら)いがこみ上って来るのだ。寧(むし)ろ、ネネが春日のところへ来る位なら、一っそ、木島のところにいた方が面白い――。それが私の本心であった。
 復讐と同時に、ネネの歓心を購(か)ったと信じ、必ず帰って来ると高言し哄笑した春日の尖った顔が、ざまァ見ろ、とばかり、私の胸の中で快よく罵倒(ばとう)され尽すのだ。
      ×
 ――秋もふかまるにつれて、漸(ようや)く繁くなった帰京を促す手紙に、私もいつかその気になって来た。
 久しぶりに、あのねっとりとした都会の空気を吸ってみたくなった。……それから……ネネの其後(そのご)の消息も尋ねたい……そう思うと、私はすぐに帰京を決心した。
 私が、春日にも告げず、帰京したのは、キメの細かい濃密な霧のある日であった。
(もう、こんな気候になったのだ……)
 駅のプラットホームを歩きながら、不図(ふと)そう呟いて仰向いた時、ポンと肩を叩くものがあった。
『やあ、どうしたい――』
 振返って見ると、同級生だった友野(ともの)が、にやにやしながら立っていた。
『しばらくだったなァ、勤めたのかい』
『うん』
 友野は、少しばかり反身(そりみ)になって、胸のバッチを示した。そこには帝国新聞の社章が、霧に濡れて、鈍く、私の無為徒食(むいとしょく)を嗤(あざわら)うようにくっついていた。
『君は』
『……病気をしちゃってね、やっと今、海岸を引上げて来たんだ……ふっふっふっ』
『そりゃいけない、少し痩せたかな……』
『そうかしら……お茶でも飲もうか……仕事は何をやってんだい』
『学芸部さ……でもなかなか忙しいぜ』
 友野は、忙しいというのを誇るようにいった。そして、駅前の喫茶店に這入(はい)って、さて、コーヒーを注文してから、
『東洋劇場は何をやっているんだ、今――』
『ええと……』
 友野は一寸眼を俯(ふ)せると、すぐすらすらと出し物をいった。しかし、その中にはネネの名はなかった。
『秋本ネネ……というのはどうしたね』
 私は恐る恐る、それでも、思わず胸をときめかせ乍ら訊いた。
『ああ、あれはね……、変な話があるんだ、というのはやまいなんだよ、そのやまいも、一寸人にはいえん、という奴でね、話によると、東京の医者は顔を知られてるから駄目だというんで、わざわざ埼玉の方の小さい開業医のところへ名を変えて通っている――っていう話だ、人気者も亦(また)つらいね』
 友野は、タバコの煙と一緒に、それだけを排出(はきだ)すと、愉快そうに笑った。
 私はコーヒーをがぶがぶと飲んで、やっと、
『うん、うん』
 と頷(うなず)いた。そして
『……ああいう人気者は蜉蝣(かげろう)だね、だから僅(わず)かな青春のうちに、巨大な羽ばたきをしようと焦慮(あせ)るんだ――ね』
『それで、もう腐ってしまった、というんかい、あははは……』
 だが、私は笑えなかった。
 私の持っていた、幽(かす)かな、ほんとに幽かなロマンチズムも既に悉(ことごと)く壊滅し去ってしまったのだ。
 あの、卑猥(ひわい)な牝豚(めすぶた)のような花子に培(つちか)われた細菌が、春日、木島、そしてネネと、一つずつの物語を残しながら、暴風のように荒して行った痕跡(あと)に、顔を外向(そむ)けずにはいられなかった。
(春日の馬鹿野郎!)
 私は大声で、夕暮の、潤んだ灯(ともしび)の這入(はい)った霧の街の中をそう呶鳴(どな)って廻りたかった。
 急に顔色をかえた私に、友野は唖気(あっけ)にとられたらしく、匆々(そうそう)と別れて行った。
 結局、その方が、私も気らくであった。
      ×
 ……何処(どこ)をどう歩いたのか、したたかに酔痴(よいし)れた私は、もう大分夜も更けたのに、それでも、見えぬ磁力に引かれるように、郊外にあるネネの住居(すまい)を捜し求めた。
 軈(やが)て、さんざ番犬共に咆えつかれた揚句、夜眼(よめ)にも瀟洒(しょうしゃ)な文化住宅と、外燈の描くぼんやりした輪の中に「木島」の表札を発見した時は、もうその無意味な仕事の為に、心身ともに、泥のように疲れ果てていた。が、勿論(もちろん)、私はその門を叩(たた)こうとはしなかった。
 そして尚も、飢えた野良犬のように、その垣の低い家の周りを、些細(ささい)な物音をも聴きのがすまいと耳を欹(そばだ)てて、ぐるぐるぐるぐると廻(まわ)っていた。
 さっきから、たった一つの窓が、カーテン越しに、ぼーっと明るんでいるきりだった。おそらくネネはいるのであろう、しかし何の物音もしなかった。その馬鹿にされたような静けさが、余計私の神経を掻乱(かきみだ)すのだ……。
 と、突然、まったく突然、その家の洗面所と思われる方にすさまじい水道の奔(ほとばし)る音が、あたりの静けさと、欹てた耳とに、数十倍に拡大されて、轟(とどろ)きわたった。途端に私は、巨大な「洗浄器」を錯覚して、よろよろッとその低い白く塗られた垣に靠(もた)れてしまった。その垣は霧のためにべっとりと湿っていた。そしてネネの肌のように水々しかった。私はそこへ、ガクッと頸(くび)を折ると、熱い頬を押しつけた、そして、犇(ひし)とその濡れた垣を抱しめた……。と同時に、不思議にも込上(こみあが)るような微笑を感じて来た。
 四辺(あたり)、には厚い霧が、小雨のように降り灑(そそ)いでいた。
 そして私は、浪に濡れた太郎岬の上で、今日も、独りしょんぼりとネネを待っているであろう春日行彦の、痩(や)せさらばえた姿を、ひどく馬鹿馬鹿しく、憤(いきどお)ろしく思い出すと共に何かしら解放されたような、安易さを覚えて来るのであった。




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