虻[#「虻」は「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1-91-58]の囁き
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著者名:蘭郁二郎 

「ねえこの唄どう思って……」
「どうって……」
「あたし、この唄青木さんから教わったんだけど、『肺病の唄』だと思うわ」
「その文句ですか」
 私はそのあまり突飛な言葉に、呆気にとられて訊いた。
「いいえ、――それもだけど――このメロディよ、ね、よく聞いて御覧なさいよ、あの体温表のカーヴとこのメロディと、ぴったり合うじゃないの、高低抑揚が、恰度あの波形の体温と吃驚(びっくり)するほど、ピッタリ合うじゃないの……」
「そう……そういえば成るほど……」
「あたし、この唄、唄うと、とても怖いの……だって
密やかに慕寄る 慰めの唄
 っていうところに来ると、急に調子が上るんですもん……熱でいえば四十度位になるんだわ……恰度あたしその高くなるところに来たような気がするの、きっと今にも熱がぐんぐん上るわ……」
 こういってマダム丘子は、いつもの朗らかさに似合わぬ、荒涼とした淋しさを、美しい顔一杯に漾(ただよ)わすのであった。
(なァに、いくらか体の変調のせいだろうさ……)
 と思いながらも、私自身、ついその気味の悪い唄を口吟(くちずさ)んでいた。成る程、その楽譜に踊るお玉杓子(たまじゃくし)のカーヴは正弦波(サインカーヴ)となって、体温表(カルテ)のカーヴと甚しい近似形をなしていた。
 結核患者(テーベー)の妄想的不安と思いながらも、ハッキリ否定することの出来ぬこの患者独特の潜在恐怖と、極めて尖鋭された神経の痙攣を半ば不安な気持で、じっと見詰めているより仕方がなかった。
 この麗魔のように思われていたマダム丘子にも、こんな末梢神経的な、それでいて、居ても立ってもいられない恐怖を持っているのかと思うと、既(か)つて考えても見なかった可憐な女性を、そこに感ずるのであった。
 青木も、諸口さんも黙っていた、しかし皆の胸の中には一勢に、あの平凡な、そして奇怪な旋律をもった「ユーモレスク」の一節が、繰かえし、繰かえし反復されていたに違いない……。
       ×
「さあ、安静時間だから横臥場へ行きましょう……いい天気だなア……」
 私はその場のヘンな空気をかえようとして、わざとドンと卓子(テーブル)を叩いて立った。
「そうね――」
 諸口さんも、ハッと眼を上げて腰を浮かせた。
 その時だった。
 ググググッとマダムが咽喉(のど)を鳴らすと、グパッと心臓を吐出すような音をたてて、立ち上りかけた卓子に俯伏(うつぶせ)になった。
「あ」
 と思った瞬間、俯伏になったマダム丘子の口元から透通るような鮮やかな血潮が泡立ちながら流れ出、真白い卓子にみるみる真赤な地図を描いて滲(にじ)み拡がった。
(喀血!)
 三人は、ハッと飛上った。ガタンと物凄い音がして椅子が仰向(あおむけ)にひっくりかえった。
「……看護婦さん……看護婦さん……」
 諸口さんは胸のあたりに顫(ふる)える両手を組合せた儘、蒼白な顔をして呟くように看護婦を呼んでいた。
「マダム、大丈夫、大丈夫」
 青木は急いでテーブル・クロスを引めくると、丘子の胸元に挿(はさ)んだ。
 俯伏になった丘子の背は、劇しく波打って、咽喉にからまった血を吐出す為に、こん限り喘(あえ)いでいた……。
「大丈夫です、落着いて、落着いて――」
 飛んで来た主任看護婦が馴れた手つきで彼女をささえた。
 ……やっと面(おもて)を上げた丘子の眼は、眼全体が瞳であるかのように泪にうるんで大きく見開かれあらぬ部屋の隅を睨んでいたが、やがて私たちに気がついたのであろうか、絶入るような、低い、薄い笑いを見せた。その時、わずかに綻(ほころ)んだ唇の間から真赤な残り血が、すっと赤糸を垂らしたように流れ落ちて、クルッと鋭(とが)った顎の下にかくれた。
 看護婦にうながされて、私たちは匆々(そうそう)とサン・ルームを出て横臥場に行った。
 一足外に出ると、外はクラクラするような明るさで鋭(とが)り切った神経の三人は、思わずよろよろっと立止ってしまった。太陽は腐(す)えた向日葵(ひまわり)のように青くさく脳天から滲透(しみとお)った。
       ×
 崩れるように横臥椅子に寝てしまうと、誰も口をきかなかった。
 目をつぶった儘、しいて気を静めようとしても、異様に昂ぶった神経は、却って泡立つ鮮血とあの気味の悪い“ユーモレスク”が思い出されるのだ、唄うまい、としてもその旋律が脈搏に乗って全身に囁きわたるのであった。
 長いこと転々としてその昂ぶった神経を持てあましながら、ラッセルのように懶(ものう)い□(あぶ)の羽音を、目をつぶって聞いている中に、看護婦が廻って来た。
「三時ですわ、お熱は……」
「あ、忘れてた……今はかるよ、マダムどう――」
「はあ……」
 私は体温計を脇の下に挿込みながら、その見習看護婦雪ちゃんの子供子供した顔から、
(マダムは悪いナ……)
 と直感した。
「恰度、お体の悪い時なので、なかなか出血が止まらない、と先生が仰言(おっしゃ)ってましたわ……」
「ああそうか、悪い時やったもんだナ」
 私もなんだか熱っぽいようだ。
 体温計をこわごわ覗いてみると、七度五分。
(いけない……)
 私は急に胸苦しさを感じて来た。
「僕も熱が出ちまったよ」
「皆さんですわ、……あんなのご覧になると……諸口さんなんかもうお部屋で真蒼になってお寝(やす)みですわよ」
 そういわれてみると、いつの間にか諸口さんも、青木も姿がなかった、私は、
(気のせいだ)
 と思いながらも、七度五分、七度五分と二三度呟くと、又ぐったり寝椅子に埋まってしまった。
 雪ちゃんは、そっと私の足に毛布をかけて行った。
       ×
 やがて蒼空が茜(あかね)のためになんとなく紫がかって来、水蒸気が仄々(ほのぼの)と裏の森から流れ出て来ると、夕食の鐘が、きょう一日、何事もなかったかのように、私のところにまで響き伝わって来た。
 私は少しも空腹を覚えなかったけれど、半ば習慣的に寝椅子から立って、寝癖のついた後頭部(うしろ)を撫ぜながらサン・ルームの食堂に行った。
 食堂へ行ってみると、いつもより心もち尖(とが)った顔をした諸口さんがタッタ一人、ぽつんと椅子にかけていた。
 私たちは無言であった、さっきここで大喀血をしたマダム丘子の姿を思うと、食慾はさらになかった。
「青木さんは」
 雪ちゃんに訊いてみた。
「さあ、さっき横臥場へいらしたきりお見えになりませんけど……」
(青木の奴、飯なんか喰いたくないだろう)
 と同時に、
(マダムの部屋に行ってるのかな)
 一生懸命額を冷してやったりして看護している彼の姿を想像して「フン」と思った。
 私たちがもそもそと味気ない夕食を済ましてしまっても、遂に青木は姿を見せなかった。主のないお膳の吸物からは、もう湯気さえ上らなかった。
「雪ちゃん、青木さん知らない」
 主任看護婦が廻って来てそういった。
「いいえ、お部屋じゃなくて」
「お部屋にも、マダムのとこにも、まるで見えなくてよ」
「散歩かしら」
「それにしても、長すぎるわ……」
 二人はひそひそと囁きあった。
「青木さんいないんですか」
 私も口を挟んだ。
「ええどうなさったんでしょう――困ったわ……」
 その時私は、なんともいえぬ不吉な予感を覚えた。
「変だナ……」
「どうしたんでしょう……」
 主任看護婦はこの二階のサン・ルームの手摺から乗出すように、暮れかかるサナトリウムの全景を、じーっと見廻した。
 諸口さんは目を半分閉じて、番茶を啜っていた。

     三、夕暮は罌粟(けし)の匂いがする

 私は食事をすますと、その足でマダムを見舞った。マダムは真白いベッドの中に落ち窪んだように寝、蒼白な額にはベットリと寝汗をかいて、荒い息吹(いき)が胸の中で激しい摩擦音をたてていた。
 若い看護婦が一人、どうしたらいいだろう、というように、濡れた手拭(てぬぐい)を持った儘、しょんぼりと椅子にかけて、マダムの寝顔を見守っていた。
 私はふと落した視線の中にベッドの傍の金盥(かなだらい)を見つけ、そして、それになみなみとたたえられた赤いものを見ると、何んだかとても悪いことをしたような気がして、その儘、あたふたと部屋を出てしまった。
 部屋を出ると、入口のところに諸口さんが立っていた。
「どお……」
「……」
 私は黙って首を振ると、長い廊下を歩き出した。
(駄目だ……)
 口の中で繰返した。
(それにしても青木のやつ、どうしたんだろう……)
 通りがけに青木の部屋を覗いてみたが、そこはガランとしていた。
       ×
 部屋へかえると食後の散薬を飲もうと、薬台の抽斗をあけた、その時、中に挟んであったのであろうか、パタンと音がして部厚い白の角封筒が落ちたのに気がついた。
(おや――)
 なぜかハッとして拾い上げてみると、表には「河村杏二(きょうじ)様」とあって裏には「青木雄麗」と書きながしてあった。
 思わずドキドキ波打って来る胸をおさえながら封を切った。
 読みすすむにつれて、私の手はぶるぶる顫え、額や脇の下には気味の悪い生汗が浮んで来た。
       ×
河村杏二様
僕は今、非常に急いでいるのだ、それにもかかわらずナゼこんな手紙をかいたか、それは最後まで読んで戴きたいと思う。
さて、極めて端的にいう、マダム丘子を殺したのは僕だ……不思議な顔をしないでくれたまえ、僕は気が狂ったのではない、いや、狂っているには違いないが、左様、僕はキザな言い方だが「恋と芸術」に狂ったのだ、僕はかつて丘子のような理想の女に逢ったことはない……だが世の中は皮肉だ、やっと廻りあったその僕の理想の女は、すでに大実業家の第二号なのだ、君にこの気持がわかるだろうか、も一つ、これを聞いたら君自身でも、この世の皮肉というものを痛感するだろう、それは、マダム丘子を誰の妾だと思う。河村鉄造――つまり君の厳父の第二号なのだ。おそらく君は知るまい、しかし丘子の長い入院中タッタ一度でも彼女の家人が来たことがあるか、マダムと称しながら、そのハズを見たことがあるか、あるまい、それは君に逢うことを恐れているからだ。勿論君の厳父の方からはしばしば彼女が他のサナトリウムに変ることをすすめて来た、だが彼女は動かなかった……それはこの僕がいるからだ、も一つ君がいるからだ……君がここにいればこそ僕たちは何んの邪魔ものもなく恋を楽しむことが出来たんだ、人のいい杏二君、君は期せずして僕たちの恋の防波堤となってくれたのだ、ありがとう、厚く感謝する……ダガ矢ッ張り僕たちには悲しいカタストロフが待っていたんだ……、僕は最近再発に悩まされていた、僕の胸はもう数限りない毒虫にむしばみつくされようとしている……左様、僕たちの恋は眠っていた結核菌を呼起してしまったのだ……体温表の体温は、まるで僕のデタラメなのだ、僕のデタラメを雪ちゃんが正直に表につけていたに過ぎない……
僕は自分の残り尠(すくな)い命数を知るにつけても何か焦慮を覚えるのだ、僕は自身でも惚々(ほれぼれ)するほどの作品を残したかった……そして到々決心した、この世の中で最も尊いカンヴァス、つまり丘子の薄絹のような肌に、全精力を傾注した作品を描こうと決心した……幸い丘子もそれを許してくれた。「蔭の男」僕を象徴するように、お白粉(しろい)で刺青をした……お白粉で入れたやつは、ふだんはわからないけれど風呂に這入ったり、酒をのんだりして皮膚が赤くなると仄々と白く浮出すのだ……恰度酒を飲むと昔の女を思い出すように……
僕はそこに白い蛾を彫った、毛むくじゃらな、むくむくと太った蛾を一つ……その蛾の胴の太さ、その毒粉をもったはねの厚さ……その毒々しい白蛾が彼女の内股にピッタリ吸ついて、あたかも生あるもののように、その太い胴に波打たせている……いやその蛾には生命があるのだ、この青木雄麗の生命の延長がそこに生きているのだ……。
ダガ、ダガ、最近になって、僕は極めて不愉快なものを感じたのだ、それはどうやら君が丘子に普通以上の関心を持ちはじめたらしいこと、そして尚いけないことは丘子にもどうやらそんな素振りが見えないでもないことだ。それはそう思う邪推とは言い切れないものがあるのだ。何故なら丘子は最近どうも以前ほど僕に対して熱情的でないからなのだ……僕は焦った、悩んだ、その為か、僕の体は、僕自身ハッキリ解るほど悪化して行った――近頃僕が「なんともない」といって診察を受けなかった意味がわかったろう――呼吸は自分でもわかるほど熱くさい、僕はもう自暴自棄だ……一そ丘子を殺(や)って僕も……君、わかってくれるだろう、放っておいても、そう長くはない僕の命だ……
僕は最後の仕上げだといって、嫌がる彼女に、半ば脅迫的に最後の針を刺した。その絹糸針を五本たばにしたぼかし針の先きには劇毒××がつけてあった、君も知っているだろう、その××は血液の凝固性を失わせる薬だ、一度何かで出血したら最後血友病のように、どんどん止め度なく出血して死んでしまう……僕は丘子の体の具合を知っていたんだ、これで総(すべ)て君にも解ったろう……だが一つ、何故こんな無理心中をするに手ぬるい手段をとったのか……ああ、青木呪われろ……僕には君にも解るだろうけどこの患者特有の強い生への執着があったんだ……もし丘子の死因が疑われなかったら、僕はまだ君と話をしていたかも知れぬ。そして君に対して第二の争闘を計画していたかも知れぬ。……しかし悪いことは出来ぬ、丘子はあの悪魔の唄に誘われて喀血してしまった……ああなんという大変な間違いをしてしまったんだろう、彼女が僕に対して情熱を失ったと、思ったのは僕の大きな誤解であった。彼女はホントに体の具合が悪かったのだ、気分の悪いのを堪(こら)えているのが、狂った僕にはよそよそしくとしか写らなかったのだ。丘子は矢ッ張り僕を愛していてくれていたんだ、僕はそれを君に言いたかった――だが、その彼女を僕は殺してしまった。……もう書くのが面倒になった、この手紙を君が読む頃はもう僕はこの世にいまい、涯(はて)しない海原が、僕を待って騒ぎたてている。
では厳父、鉄造氏によろしく。
青木雄麗       ×
 読み終った私は、よろよろっとベッドに倒れた、そしてがたがた顫える手で薬台の抽斗から赤い包紙に包まれた催眠薬を三つとり出すと、一気にグイと呷(あお)った。いまにも目がくらみそうな、激しい興奮に、とても起きてはいられなかったのだ。
 ザラザラっと薬が咽喉に落込むと、ツーンと鼻へ罌粟(けし)のような匂いが抜けて来た……。
       ×
 私のアタマの中には、昼間みた□と、その丘子の内股に彫られたという蛾が、どっちともつかず入り混って、トテツもなく巨大な姿となったり、或は針の先きほどの点になったり、わんわん、わんわんと囁き廻っていた。そして生暖かい泥沼のような眠りの中に、白いタンカに乗ったマダム丘子の死骸が、死体室に運ばれて行ったのを、どうしたことかアリアリと覚えていた。
(「探偵文学」昭和十一年七月号)



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