火星の魔術師
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著者名:蘭郁二郎 

     高原の秋

「いい空気だなア――」
 英二はそういって、小鼻をびくびくさせ、両の手を野球の投手のように思い切り振廻した。
「うん。まったく澄み切ってるからね、――どうだい矢ッ張り来てよかったろう、たまにこういうところに来るのも、なんともいえん気持じゃないか」
 大村昌作は、あまり気のすすまなかったらしい英二を、勧誘これつとめた挙句、やっとこの、いささか季節はずれの高原に引っ張って来た手前、どうやら彼が気に入った様子に、何よりも先ずホッとした。
「そういわれると困るな」
 英二がすぐ振り向いて
「何しろここまで来ると空気以外に褒めもんがないんですからね」
「まあ、そういうなよ、今年は十五年ぶりで火星が近づいているんだ、この空気の澄んでいる高原は、火星観測には持って来いなんだよ」
「そりゃそうかも知れんけど……、その辺を一寸(ちょっと)歩いて見ませんか、星が出るまでにはまだ間がありますよ」
「うん……」
 大村は苦笑すると、英二と一緒におもてに出た。
 秋空に浮くちぎれ雲が、午後の陽に透けて光っていた。
 火星観測――などというと、いかにも錚々(そうそう)たる天文学者の一行のように聞こえるけれど、実は大村昌作はサラリーマンなのだ。只のサラリーマンには違いないが、それでも会社の中で同好の者たちで作っている『星の会』の幹事ではあるし、特に『火星』という奴には人一倍の興味と関心を持っている――つまり素人(アマチュア)天文家をもって自ら任じているのである。だから、たまたま今度の休暇に、丁度火星が十五年ぶりで地球に近づくというので、従弟の英二を誘って、かねて文通から知り合いになった私設天文台のあるこの高原に、骨休みかたがたやって来たわけであった。
「とにかく火星のことになると夢中なんだからなあ、昌作さんは」
「いいじゃないか」
「いいですよ、とてもいい趣味ですけど――」
「ですけどとはなんだい、妙ないい方だね」
「そんなことないですよ、――それはそうと、どんなキッカケから昌作さんは火星狂になったんですか」
「火星狂――? そんな言葉があるかね、狂は少しひどいぞ」
「おこっちゃいけませんよ、狂といったっていい意味です、その野球狂とか飛行狂とか――つまりファンですね」
「こいつ、うまく逃げたな、まあいいさ、何んだって興味を持てば持つほど面白くなって来るんだ、たとえば火星という奴は、あんなに沢山星のあるなかで一際赤く光っている。ぼくも最初に興味をもったのはこの事かな」
「今でもですか」
「冗談じゃないよ、そんなに何時(いつ)まで、ただ星が赤いからって面白がっていられるもんか」
「じゃ、何んです」
「今のところ最大の興味は『火星の生物』のことだね、とにかく無数の星の中で地球に一番近い兄弟分というばかりか、何か生物がいるに違いない、と思われるのはこの火星だけだからね」
「近いといえば月は――?」
「そりゃ、近いという距離だけからいえば月の方がずっと近いよ、だが此奴(こいつ)はもう空気も水もない死んだ世界なんだから仕様がない、それよりか我々が例えばロケットか何かで地球を飛出したとすれば、まず火星に行くより仕方がないだろうね、そしてそいつがうまく行ったら火星は地球の別荘さ、地球の別荘に日章旗を立てたら痛快だろう」
「大きく出ましたね」
「ふふん、しかしそれとは逆に、地球人がまごまごしているうちに宇宙の天外から、この地球めがけて来襲するものがあるとすれば、それも先ず火星人以外にはないといっていい」
 大村はそういって、一寸うしろを振りかえった。誰か跫音(あしおと)がしたように思えたのだ。果して振り向いて見ると、何時あらわれたのか中年の男が一人、見渡すかぎりの草の道を、大村たちと同じようにゆっくりと歩いていた。しかしその男は、今夕から尋ねようとしている私設天文台の人のようではなかった。この辺の人が町に買物に行って来たように、風呂敷包みを、ぶらんぶらんさせて歩いていた。
 大村は、そのまま気にも止めずに向き直って、又、英二と肩をならべたまま、あてもない草の道の散歩を続けていた。

     別の世界

「火星に人が、つまり火星人というものがいるでしょうかね」
 英二も少しは興味をもって来たのか、それともただバツを合わせるだけのものだったのか、そういって昌作の話の後を促した。
「いるかも知れない。いてもいい条件があるんだからね」
「そうそう、だいぶ前に『火星の運河』っていうのが問題になりましたね」
「うん、しかしあれはまだ正体がハッキリしていないんだよ、だが、植物のあることだけは突止められている。火星には空気もあり、しかもそれは酸素を多く含んでいる。酸素は活溌な元素なのにそれが自然に遊離しているからには植物があるに違いない――というわけさ、その上火星の夏には青々としていた所が、秋になると次第に黄ばんで来る、これは其処(そこ)に植物が繁茂している証拠だといっていいだろうね」
「ちょっと、ややっこしくなって来ましたね」
「ややっこしいもんか、とても面白いじゃないか、こんな風に、たしかに植物が生えているっていうのは、あとにも先きにもこの地球以外には火星だけしかないんだからね」
「成程ね、でも太陽からは遠いし、ひどく寒いんじゃないんですか」
「そりゃ寒いだろう。しかしこの地球だって年中氷にとざされている南極にも、ペンギン鳥のような生物がちゃんと生きているんだからね。寒さに耐える生物がいるんだろう……、もっとも火星の生物は植物にしても動物にしても、地球のものとはまるで違っているかも知れないけど」
「そりゃそうでしょう、進化の途(みち)が全然違うんですからね」
「うん、そしてこんなことも考えられるんだ、――地球の人間は、動物が進化してここまで来た、しかし火星の人間は、動物ではなくて、植物が進化して我々よりももっともっと進化した火星人になっているかも知れない、とね」
「…………」
 英二は気味悪そうにあたりの草木を見廻した。草や木が人間のように進化した姿など、考えてみただけでも無気味だった。
「しかし、どっちにしたって動物でも植物でも、地球よか歴史が古いだけに、ずっと進化しているに違いないね、例えば火星にも栗の木とか柿の木とかそういったものがあるとすれば、丁度こんな風に見事に……」
 そこまでいった大村昌作は、ギョッとしてそのまま立ち竦(すく)んでしまったのである。
 英二も、硬張った横顔で、眼ばかりギョロギョロと動かしていた。
 何時の間にか二人は、何んとも、得体の知れぬところに、迷いこんでしまっていたのである。
 秋の陽は、澄み切った青い空からあたり一面に、サンサンと万遍なく降り灑(そそ)いでいる――だから夢ではない。
 いや、つい先刻(さっき)、こうやって二人連でぶらぶら話しながらやって来て今まで、溝一つ飛越えた覚えはない――だから此処(ここ)は、現実と飛離れた別世界ではない。
 その筈なのに、ふと気がついて見廻したあたりの様子は、何んとも得体の知れぬ、とてもこの世のものとは思われぬ――つまり想像し難い別世界の有様なのであった。

     化物果実

「昌作さん――」
「なんだい英ちゃん――」
 二人は、無意味にお互いを呼びあっただけで、あとが続かなかった。
 火星の話が、なんだか気味の悪い生物の話になっていたせいばかりではなく、このあたりの様子は、とにかく断じて普通の眺めではなかった。
 丁度、大村の話が火星の進化した植物の話になって、火星にももし栗の木や柿の木があったとしたら……と指差した傍らの栗の木が、まず第一に気のついたはじめだった。
 というのは、そのすくすくと伸びた栗の木の枝には、なんと五寸釘のような棘(とげ)をもったお祭り提灯のような巨大な毬(いが)が、枝も撓(たわわ)に成っているのである。中にはすでに口を開けて、炭団(たどん)のように大きな栗の実が、いまにも澪(こぼ)れ落ちそうに覗いてさえいるのだ。いや、それだけならばまだいい。
 その少しさきにある柿の木などは、これこそ見馴(みなれ)ぬせいか見事を通り越して、気味が悪いというか何んというか、大きなフットボールのような柿の実が、陽射しを受けて艶々(つやつや)しく枝も折れんばかりに成っているのである。――とても信じられぬ有様だった。
 大村にしても英二にしても、もし独りでここに来たのだったら、到底信じなかったに違いない、見間違いとして、却って自分の眼の方を疑(うたぐ)ったに相違ないのである。またそうだったら、あとからも他人(ひと)にこんな話をする気にもなれなかったであろう。――誰だってこんな途方もない栗や柿の話など、バカバカしいばかりで、とても信じてはくれそうもないからである。
 だがしかし、今は二人だった。二人の四つの眼で、たしかにそれを見ているのである。
 大村と英二は、一寸顔を見合せてから、急にすたすたた[#「すたすたた」はママ]と歩き出した。巨大な実をもった柿や栗の化物のそばから、とにかくはなれるつもりだった――が、それから二三十間(けん)も行ったであろうか、道の両側が畠のように展(ひら)けているところまで来て、またまた愕(おどろ)かされてしまったのだ。
 これは確かに畠であろう、しかし糸瓜(へちま)のように巨大な胡瓜(きうり)、雪達磨(だるま)のような化物の西瓜(すいか)や南瓜(かぼちゃ)、さては今にも破裂しそうな風船玉を思わせる茄子(なす)――そういった、とにかく常識を一と廻りも二た廻りも越えたような巨大な作物ばかりが、累々として二人の眼を脅かすのである。
 世にも奇怪な眺めであった。
 これが茄子なら茄子、柿なら柿と、ただ一つのものだけならば、それがいかに桁(けた)はずれの大きさであってもこうまでは愕かされはしなかった筈だ。寧(むし)ろ九州地方の茄子のように、あの白瓜ほどもある大きさを、面白く思ったに違いないのだ。
 だがこうして、あらゆるものが化物のように巨大に発育している姿を、まざまざと見せつけられるとなると、地球全体が二人だけを残して、いつの間にか膨(ふく)れあがってしまったような、取りとめのない不安に襲われて来るのである。
 いまにも象のような犬が飛出して来るのではないか、背後(うしろ)から大蛇のような蚯蚓(みみず)の奴が我々の隙をねらっているのではないか――そんな狂気染(じみ)た気持にさえなって来る。
「昌作さん、引返そう、――帰ろうじゃないか」
 英二の声は、少し嗄(しゃが)れていた。
「うん――」
 二人はあわてて引返しはじめた。が、ものの一分とたたないうちに、さっきの柿の木のところで、真正面から進んで来る男にばったりと行合ってしまった。
(見たような男だ――)
 この男だけは、普通の大きさだった。何んとなくホッとすると同時に、そうだ、さっき後(あと)から歩いて来た男だ、と思いついた。
 狭い草の道で、真正面に向合ったその男は、不精髭のせいか年齢(とし)の見当もはっきりしない顔つきだったけれど、思いがけず人がよさそうに、にっこりと笑うと
「何かだいぶ愕かれた様子ですな、はっはっは」
「…………」
「はっははは、『火星の果実』はいかがですか、お気に召したら一つあがって見て下さい」
 そういって、さもあたりまえのように、自分の頭ほどもある柿の実を指差した。
「か、火星の果実――?」
「左様、進化した果実です」
「…………」
 まるで大村たちの胸の底を見ぬくように、平然として、火星の果実など、奇妙なことをいうこの男は、一体何物であろうか――。
 しかし大村は、呆然としながらも、火星と聞いて思わず耳を欹(そばだ)てた。
「とにかく私の家までいらっしゃいませんか、ゆっくりと火星の果実の話をしましょうや、如何(いかが)です?」
 その男は、落着いた、幅のある声であった。
「何処、でしょうか。あまり時間もないんですが――」
「いや、ついこの先きですよ、ほんの荒屋(あばらや)ですが」
「そうですね」
 大村は、一寸英二の顔を見かえして
「そうですか、じゃ一寸お邪魔しましょうか……」
 その男は、もう大村たち二人が、来るものと決めてしまっているように、先に立ってすたすたと歩き出していた。

     火星の魔術師

 そして、また例の化物畠のわきを通り抜け、その向うのこんもりと茂った常磐木(ときわぎ)の森の中の道を行くと、すぐ眼の前が展(ひら)けて、其処に、その森を自然の生垣にした一軒の藁葺(わらぶき)の農家が、ぽつんと建っていた。
 案内されるままについて行くと、その藁葺の農家は、なかはすっかり洋風に造りかえられてあって、椅子やテーブルが設(しつら)えてある。ちょっと地方の新しがり屋――といったような感じの部屋だった。尤もそれはほんの最初だけの感じであって、すぐそんな上滑(うわすべ)りの気持は棄てなければならなかったけれど……。
 志賀健吉と名乗るその男は、こうして見ていると、初め中年と思っていたのは間違いで段々若くなって来るように思われる。もしかすると大村と同じぐらいではないか、とすら思われて来た。
「早速ですが、さっきのお話の……」
 大村は、それだけいって、口を噤(つぐ)んでしまった。
 この、異様な火星の果実に取りかこまれた中の一軒家に思いもかけなかった少女が、しとやかにお茶を運んで来てくれたからである。――それは、さっきから妙なものばかり見つけていたせいか、水際だった美しさに、突然ぶつかった感じだった。
「いらっしゃいませ、どうぞごゆっくり」
「はあ、どうも……、突然上(あが)りまして」
「いいえ、兄はいつも退屈しておりますから、きっと無理にお誘いしたのでございましょう。今日は、丁度菊も咲きましたし……」
「はあ――?」
 大村と英二が思わず顔を見合せてしまったのは、つい庭先の、遅咲きの向日葵(ひまわり)だとばかり思っていた大輪の花が、そういわれて見れば如何(いか)にも菊に違いないことだった。こんな巨大な花など見たこともなかった。
 これもまた、長い進化を重ねた『火星の花』であろうか――。
 けれど、進化とはただ形だけが大きくなることではない――その物の最上の形に変って発達して行くことだ。しかしそのために形が大きくなることもあり得るわけである。だから、自分たちが普通に見ている栗や柿も、あれが精一ぱいのものではなくて、気候とか養分の摂(と)り方に、もっと適応し逞(たくま)しく進化して行けば、此処で見るような巨大な実を結び、花を咲かすことが出来るのかも知れない。
「火星の植物にすっかり考えこんでしまったようですね、はっはは」
 志賀健吉は、茶碗の茶を一呑みに空けると、いかにも愉しそうに笑った。そして
「いやあ、一寸お詫(わび)をしなけりゃならんですが、今までご覧に入れたのは、皆な火星の果実でもなんでもありません、この地上のものですよ」
「なんですって――?」
 大村が、思わず聞きかえした。
「火星から、ひょっくり植物のタネが来るわけもないじゃありませんか、実はさっきお二人がさかんに火星の話をされていたようだったし、そのあとで私の作った作物に愕かれたようだったんで、ひょいとそんなことをいってしまったんです……」
「ははあ……」
「しかし、これらはたしかに普通のものじゃありませんし、あとでこれを市場に売出す時には火星の栗とか、火星の茄子とか、そう銘(めい)打っても一向差支えないと思いますね、――お蔭でいい商標を思いつきましたよ」
「すると、あれは皆な志賀さんが作られたんですか」
「そうですとも。あなた方は話に気をとられて、志賀農園入口という立札に気づかないで来てしまったんでしょう。さもなければ村の人達に気狂いとか、魔術師とかいわれて白眼で見られているこの農園に、悠々と這入(はい)って来られないでしょうからね」
「いや、僕たちはここに来たばかりで、そんなことは少しも聞いていませんでしたよ、しかし……」
(しかし、あんな巨大な柿や胡瓜や菊までが、果して作れるものだろうか……)
 そう、口の縁(へり)まで出かかったのだけれど、現に自分達はそれを見て蒼くなるほど愕いたのに、今更疑うわけには行かなかった。
 ――なる程、彼は魔術師だ。
「しかし、出来る筈がない――といわれるつもりなんでしょう、私にもよくわかっていますよ、誰だって話だけなら信用しないに決っています。村の人達は実物を見ても、尚まやかし物を見せつけられたように頷(うなず)こうとはしないんですからね」
 志賀健吉の眼には悲愁といったような色が流れた。傍らにいる彼の美しい妹も、ジッと黙っていた。
「信用しますとも、尠(すくな)くともぼくは、自分の眼とあなた方を信用しますよ」
 大村は、思わず『あなた方』といってしまってから、すぐ
「その発明がどんな方法かは知りませんが、とにかく大発明です、農芸に大革命を起させる、食糧問題も一挙に解決させる大発明ですね――」
「そうですか、ほんとにそう思ってくれますか、しかもその方法たるやとても簡単なことなんです。これは肥料なんかとはそう関係ありません。高価(たか)い肥料もフンダンに使わなければならんような、それでいて草や木がその養分を吸い上げてくれるのを待っているような、そんな旧式な、そんな消極的な農芸じゃないんです。もっと茄子なら茄子、麦なら麦の体質を改造してかかる積極的な方法なんですよ」
 喋べりながら、健吉の不精髭に埋(うず)もれた顔は、生々と輝いて来た。

     一足飛び進化

「あなた方は、染色体というものをご存知ですか」
 志賀健吉は、暁(あかつき)の袋から一本を抓(つま)み出すと、愉しそうに火を点けた。
「染色体――?」
「そうです染色体です、動物でも植物でもこれはすべて沢山の細胞から出来ています、そしてその中に顕微鏡で見られる染色体というものが幾つかはいっているんです」
「なるほど、それがどうかしたんですか」
「それですよ、この染色体という奴が問題なんです。これは犬でも菊でもその種類によって数が必ずきまっているんです。例えば百合(ゆり)が二十四で犬が二十、人間なら男が四十七で女は四十八というように……」
 英二は、話の間にちらりと大村の顔を偸見(ぬすみみ)た。志賀健吉が突然妙な話をはじめたのが、どういう意味かサッパリ見当がつかなかったのだ。第一、染色体なんぞというものは見たこともないし聞いたこともない――。そんなことよりも何故あの見事に実った『火星の果物』のことをいわないのであろうか。
「退屈ですか……」
 健吉も、ちらりと眼をやって英二の顔色を読み取ると
「でも、これだけはいって置かないと、これからの私の話が、まるで嘘っぱちのようになってしまうんです。村の人達もここまでいうと大抵逃げ出してしまうんですよ」
 そういって、苦笑を洩らした。英二は、一寸顔をしかめていた。
「ところが、ここにとても面白いことがあるんですよ」
 志賀健吉は、人の気持を誘うような眼をして、
「雑草のように野生している小麦の染色体は十四ですが、私たちが食用にするような栽培されている小麦はその三倍の四十二です、それから野苺(のいちご)は十四ですが私たちが食べるような苺はその四倍の五十六、こんな風に、つまり染色体の数が多いと同じ苺なら苺でも優れているんです、例えば育ちが良いとか、寒暑に耐えるとか……」
「なるほどね、そうすると、何んとかして染色体とやらの数を多くすれば、優れた作物が出来る、というわけですね」
「そうです、そう思っていいでしょう。だからもし人工的に染色体の数を多くしてやることが出来たら、定めし立派な作物が出来るだろう……というわけですね」
「じゃ志賀さんがその方法を発見された、というんですか」
 大村は、そういいながら、ふと又さっきの庭先きの菊に眼をやった。
「いや私というわけじゃありませんよ。つい最近外国でアルカロイド剤の一種を使って、すでに非常な成功を見せているんです。こいつは簡単な方法で煙草でも玉蜀黍(とうもろこし)でも大成功、金盞花(きんせんか)という花では、この薬を使って直径が普通の倍もある見事な花を咲かせたそうです――、ただ私はそれに少しばかりの改良を加えたまでのことなんですよ」
「少しばかりの改良――といわれるけれど、本当はその仕事が実に大変なことなんでしょう、そんなに謙遜(へりくだ)ることはありませんよ、絶対ありません、とにかくこれだけ出来ればすばらしい成功です、寧ろ大いに自慢し宣伝した方が、国家のためだと思いますね」
 大村は、いつか膝をのり出していた。英二にしても全く同感だった。同じ広さの畠から段違いに多量な、しかも優秀な収穫が得られるということは、殊に限られた畠しかもたぬ日本にとって正(まさ)に画期的な、大発明といっていいであろう。
 志賀健吉は、熱心にほめる大村たちの顔を面映(おもはゆ)そうに見守っていた。
「とにかくこんな大発明を遠慮することなんかあるもんですか、染色体がどうのこうのなんていうから、ややっこしくなるんです。そんな理屈はぬきにして、どうです一つ『火星の果実』という名前で大いに売出して御覧なさい」
「ありがとう……、そういって下さるとやっと私にも自信がついて来ましたよ、仰言(おっしゃ)る通り議論よりかモノですからね……」
 健吉は、傍らの美しい妹と顔を見合せて微笑んだ。永年の苦心がやっと酬(むく)いられた人のように、愉しそうだった。

     火星人

「――それにしてもですねえ、火星の植物は丁度こんな具合かも知れませんよ、地球だってこれから何百万何千万年の後には、自然に進化してこんな果物が実っているかも知れません、地球よりもずっと空気の薄い、太陽の弱い、しかも水の不自由なところに、地球から青々と見えるまで茂っている火星の草や木は、きっとこんな風に染色体の多い、優れたものになっているんじゃないでしょうか、……そういえば自然が何千万年かかってやった進化を、あなたはタッタ数年間でやってのけたわけですね」
 話に夢中になっているうちに、いつの間にか秋の陽は落ちて、庭先きの杉の木の上には、赤い火星がいつもよりも一際輝き増しかかっていた。大村も英二も、火星を覗きにかけつける筈になっていた天文台のことも忘れ、夕闇に浮んだ窓辺の向日葵(ひまわり)をしのぐ巨大な菊の花に見入っていた。
 都会の騒音をはなれ、久しぶりのこの高原の静けさにうっとりとしてもう椅子を立つのすら大儀になってしまったのだ……。
 ――ハッと気がつくと、いつの間にか志賀健吉の骨ばった腕が、しっかりと椅子のうしろを掴み、のしかかるように髭だらけの顔がすぐ耳元に迫り、激しい息使いが、気味悪く大村の横顔を打っていた。
「――、おい誠子(まさこ)、さっきの茶に混ぜといた薬がやっと効いて来たようだぜ、二人ともぐっすりといい気持に睡(ねむ)ってる、ふっふふふ」
(エッ――?)
 大村は、ドキンとして飛起きようとした。だが、どうしたことか手足はまるで鉛のように冷たく重いのだ。声さえも出ない。誠子と呼ばれたあの妹が、何かいっていることすら聴こえない。
 ただ耳元で激しい息使いとともに喋べる志賀健吉の悪魔のような声だけが、途切れ途切れにひびいていた。
「――、ありがたい、いよいよ最後の実験が出来るぞ、草や木はもう沢山だ、人間の染色体を増してやったらどんなことになるか?……男は四十七だからそれを二倍の九十四と、それから三倍の百四十一とにしてやろう……この二人が世界最初の『火星人』となって成功するか、成功したらきっと今までの人間なんか猿のように見える、素晴らしい新人類が出現するかも知れんぞ……それとも、まんまと失敗するか……なあに失敗したって……」
 大村は、もう頭の中まで、すっかり冷たい鉛になってしまった。それ以外何も聴こえなくなってしまったのだ――。
     ×       ×
 その夜の未明に、星あかりの草道を一散に行く二人があった。
 大村と英二だった。始発の上り列車をとらえるために、夢中で歩いているのだ。――大村は、誠子の顔を思い出した。誠子が二人を必死にゆり起してくれたのだ。
「早く、早く逃げて下さい、どんな立派な実験だってあなた方にもしものことがあったら大変です、逃げて下さい、兄のお茶にも同じ眠り薬を入れて置きましたから、もうしばらくは大丈夫と思いますけど」
 大村は、ふらふらと立ち上った。しかし、眼の前のテーブルに、どんよりとした液体を容れた瓶や、注射器などが置かれてあるのに気がつくと、さっきの不気味な言葉と思い合せ、睡気(ねむけ)など、水を浴びたように抜け落ちて行った。
「ありがとう、しかしぼく達を逃がしたらあなたが困りませんか」
「いいえ、私なんか……」
「でも、もしかあなたが、あの危険な実験の犠牲になるようなことは――」
「いいんですの、まさか兄妹ですし……」
 そう、顔をそむけていった、星明りの中に夕顔のように白かった誠子の顔が忘れられなかった。
 大村は、歩きながらも、幾度か振りかえった。しかし結局無駄であった。誠子は矢ッ張り追(つ)いて来ようとはしなかったのだ。
 ――その後『火星の果実』は、どうしたことかまだ一向に市場には出ないようである。或いは志賀健吉が、自分自身の体に、奇怪な実験を加えているのではなかろうか。そして、もしかすると彼は、あの美しい妹とともに想像も出来ぬ『火星人』と化してしまったのではなかろうか。
(「ユーモアクラブ」昭和十六年五月号)



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