失楽
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著者名:与謝野寛 

わが上(うへ)に一切の事物を示す「失楽(しつらく)」よ、
過ぎゆく日の最後なる今日(けふ)の「失楽」よ、
わが身の上の「失楽」よ、我(われ)は汝(なんぢ)に叫ぶ、
「全く空(むな)し」と。
我は幽欝(ゆうゝつ)なる汝の栖所(すみか)に圧込(おしこ)められ、
我は其処(そこ)に、粛索(せうさく)と飢渇(きかつ)との苦を続く。
何物も好(よ)からず、何物も最後まで期待せし所に値せず。
かくて、我は、今、汝の抱緊(だきしめ)の下(もと)に死なんとす、
悔(くい)も無く、望(のぞみ)も無く、怖(おそ)るる所も無く。

無し、無し、一の叫びも無し、一(いつ)の戦慄も無し。
最後の頼みとせしわが「愛」さへ喘(あへ)げる負傷者(ておひ)なり。
他(た)の、最後のわが神は青白き其額(そのひたひ)を包む、
そは「夜(よる)」なり、陰森(いんしん)として眠(ねむり)を誘ふ「夜(よ)」なり。
かくて、我は夢に落ちゆく。「生(せい)」とは何たるみすぼらしき語(ことば)ぞ。
寥廓(れうくわく)の不動なる路(みち)彼(か)れを塞(ふさ)ぎ、
暗き地牢(ぢろう)の底に其力(そのちから)を涸(から)しながら、
昏睡(こすゐ)せる人の無感覚こそやがて其(その)「生(せい)」なれ。

ああ、自信と、期待と、愛とは、
轢(きし)りつつ、幸福を砕き去る荒砥(あらと)ならず。
生(い)くる欲、物の欲、恐怖、
少くも、気永(きなが)に地を貪(むさぼ)り食ふ植物の如き、
勇猛に竪実なる生活。
然(しか)れども、無し、無し、「虚無」が其欝憂(うついう)をさまよはす、
荒廃したる大歩廊の外(ほか)、何物も無し。
かくて此失楽の中に猶蠕動(うごめ)く……大馬鹿者よ。
    ○
貴(あで)なる女君(をんなぎみ)よ、なつかしき身振(みぶり)もて、
開(あ)けたまへ、いとも輝かしき台(うてな)の新しき帷(とばり)を。
そは、かずかずの薔薇(さうび)の打顫(うちふる)ふいみじき花の姿を
いと疾(と)く我等に観(み)せしめ給ふため。
また許したまへ、此処(こヽ)にあるそこばくの歌を、
節会(せちゑ)の日に喜び狂ふ学生等の如く、
君があたりに捧ぐることを。
さて、如何(いか)に、気上(きあが)りたる動音(どよみ)の
君が秀(すぐ)れし詩才を称(たヽ)ふることよ。
君は常にときめく韻(ゐん)をもて歎きながら
わななく熱き胸を語り給ふとこそ覚(おぼ)ゆれ
さて、また、楯形(たてがた)の菫(すみれ)の花なる君が目は
常に涙さしぐみつついますならめ。
    ○
来(きた)りぬ、わがかひなの中に。さて共に身を忘れぬ。
開(ひら)けかし、美くしき歯に満ちし君が口(くち)を。
わが舌は穿(うが)ち入(い)る。
さながら君が心を舐(なむ)るここちに。




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