一九二三年夏
著者名:宮本百合子
九月一日関東、湘南に大震があり、東京は三分の二焼けの原となった。
この為に、種々の思想的変化が生じた。
一つ自分の家について考えて見ても、今迄よいところがあったら移ろうと思って居た心持がすっかりなくなり、この家でもありがたく愛し、出来るだけ心持よくして落付いて棲もうと云う心持になった。
私共は壁を紙ではり、台所のテーブルの工合をなおし、私の机の前にはカーテンを下げ、すっかり落付くようにした。
考えて見ると、人間の主我的なところと、ハムブルな弱いところとをよく現して居る。こんな家でもあった丈有難く思う謙遜さ またそれをもっと快適なものにしようとする我ままさ。
――○――
◎私は自分が、空想に支配され、いつも目の先にあらゆる壮美なもの、崇高なものの幻を描きながら、毎日は手をつかね坐り、ぼんやり思いに耽って居る種類の人間であるのを知って居る。反対にAはいつも彼の手か足かで、家中の何かを動し、片づけ、ぬり、たたきして生活に必要な準備を調えて居る。
八畳の隅を一つの大きな本棚と一つの本立て、本箱とで区切った勉強部屋の卓子の前に坐って、小説をよみ、空想に耽って居るとき、ふと、コトコトと何処かで働き廻って居る彼の音をきくと寛大な、寂しい、何処かに不愉快な微笑が湧いた。彼は、持って居る本でも何でも整理し、片づけ(読まず)勉強するべき本、場所を持って居る楽しみを繰返し繰返し味って悦んで居るのではないかと云う心持がする。
彼の生活の音、片づけが彼の生活!
彼の注意は、女のように外面に向ってばかり分配され、考えることも、することも、反省も、外からの刺戟がないと働き出さないごく受身なものと思われる。
他人のようにはっきりこれ等の点を考えると、元、私は何かの力でそれを更え、雄々しい、創造的な、自発力に満ちた人に代えたいと思い、焦れ、苦しみ、涙を出し、Aを苦しめた。今はもうまるでその点では自分と彼との生活の中心をきり離してしまった。
そして、淋しい、思いやりのある微笑を浮べる。
雲に映る
子供、母を失う、九つ位 男の子
夕暮、空をながめる
山のわきにきまって母の横顔そっくりの雲が小さく、一寸見ると見つからない程、然し一遍見つけると決して見のがさない鮮やかさで現れる。
或日、それが見つからず 子供翌日まちかねて見る。ある。きのうは母が居なかったので、――あの山の彼方の町に――見えなかったのだと思い、翌日雲が出たとき、その山に向っての道を歩き出す。
親、夜になって見つけに来るが、見当らず。
もうその児はまい子になってしまった。
桃色と赤のスイートピー
◎銀座の六月初旬の夜、九時すぎ
◎山崎の鈍く光る大硝子飾窓
◎夕刊の鈴の音、
◎古本ややさらさの布売の間にぼんやり香水の小さい商品をならべて居る大きな赧髭のロシア人
◎気がついて見ると、大きな人だかりの中から、水兵帽をかぶり、ブロンドのおかっぱを清らげに頬にたれた蒼白い女の子(十一二歳位、古風な外套を着)が両手に赤と桃色のスイートピーを一束ずつ持って出て来る。
◎先泣いて居た女の子
◎人ごみの中の自分の心持
◎Aの心持
◎こい水色の紙テープで不器用にむすんだ束を二つ買う。
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