又、家
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著者名:宮本百合子 

 それ等の交渉の間、家主がプロフェッショナルでなく、丁寧に、又、親切気を持って居て呉れると云うことが、如何程我々をよろこばせたか判らない。
 相当の家作持ちらしく、若い夫妻である彼等は、決して、近所で名を轟かす、大家の虎屋のようなものではないらしかった。
 勿論虎屋と云っても、別に特別な悪行をしかけたこともなかったが、そう云う名の苟且(かりそめ)にもある者に対しての心持は、決して朗らかには行かない。
 それがフランクに、友人として、種々のことを話したり、
「随分ぼろ家ですからね」
と、仮令金高は僅かでも、好意で引いたりして呉れたことは、真から二人に快感を与えた。
 此から幾年か居る、その家を貸すものに、唯利害関係からではなく、真個に人の世の生きるらしい友情と好感とを以て接して行けると云うことは、特別、家主、店子の関係に於て嬉しく思われたのである。
 幾度も本郷、牛込、青山を往復し、家は、遂に我々が借りられることになった。
 大工を入れて、台所に明り窓をつけ、区切って風呂場となる処を拵え、濡縁を修繕させ、引越しの二三日前始めて、私は内の様子を見た。
 南向の八畳、寝間によさそうな六畳、三畳と、玄関との間の四畳半。広告にはなくて、深い戸棚つきの納戸があったことは、すっかり我々を御機嫌にさせた。小林さん、金田さんに一日二日手伝って貰い、紀元節の日、半月前には、予想もしなかった引越しを行った。その日は土曜で、翌日が休である為、非常に好都合に行った。
 先の家のように、どうせ仮の住居であると云う、先入主を持って居る処は、決して、人の心によい影響は与えない。
 引越しの朝八時過、自分は、当然、行くべき処へ戻るとでも云うような、安らかに楽しい心持で、小さい包と一緒に俥に乗った。
 やがて上天気になる昼頃の前駆として、外濠の辺には、明るく輝く朝靄が、薄すりと立ち罩(こ)めて居た。宮中の賀式に列するらしい式服の軍人や文官が、腕車や自動車で飾羽根をなびかせ乍ら馳け違う。ちかちか燦く濠の水の面や、嬉しそうな小学生、靄の中から浮んだ石崖、松の姿を、自分は、新らしい宝のように眺め、いつくしんだ。




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