獄中への手紙
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:宮本百合子 

 一月三日 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 本郷区林町二十一より(代筆 牧野虎雄筆「春の富士」の絵はがき)〕

 明けましておめでとう。そちらはいかがな正月でしょう。こちらは兎も角ヤス子が命拾いをしたので、どうやらお芽出度い春らしい三※[#濁点付き小書き片仮名カ、7-4]日です。国男さんが風邪をひき、その上目を悪くしてお雑煮を食べられません。太郎は十になったから頭を丸い三分刈りにしたら面ざしが変る位男の子らしくなりました。私は今年は完全にね正月、一日のうち起ているのはお雑煮を祝う前後の数時間で、夜とひる前は床の内です。ヤス子騒ぎの一段落後は私もやっと安心して、人間並の疲れかたになり、即チ何をするのもいやと云う風になりました。ポーッとしてねどこばかり恋しがっていますからどうぞ御安心下さい。今迄はこんな気のゆるんだくたびれかたの出来ない程度にしか、神経もよくなっていなかったものと見えます。タカちゃんからお菓子を造らして送ってくれました。徳山の菓子やでしょう。今日はテッちゃんが見えました。みんなからよろしく。

 一月七日 〔巣鴨拘置所の宮本顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 一月七日
 暮の二十六、七日はうち中、今にも泰子が駄目になるかというさわぎでしたがそれでも幸い持ち直し、二十八日には寿江子がそちらへ行けました。二十八日には色々世帯じみた必要事について寿江子が伺ってきたので私にとっては一層よい年末の贈物で大晦日や三※[#濁点付き小書き片仮名カ、7-15]日は全くのんびり致しました。
 相変らずかたいお餅を上りましたか。今年はそれもなかったでしょうか。うちは菓子なしの正月のところ、多賀ちゃんのお心入れのまがいカステラで思いがけずテッちゃんにもお裾分けしました。
 去年は咲枝のお産をひかえ、何しろ弱い人だから夏頃の工合の悪さから見て無事にすむかどうか誰しも不安だったので丁度私が回復し始めるころから十一月にかけどうしても気が張っていて私は力以上の緊張が続きました。咲枝が留守のこともあなたがお考えになるように我から買って出た役でもなかったのです。ここの父親は子煩悩だけれども遊び仲間で、死に騒ぎにならなければ夜子供をみるというような世間並みの習慣はなく、亭主教育されているから咲枝としては私にでも頼むしかなかったのでしょう。全責任を一人で負う女中さんというものはあり得ませんし。
 どうやらやっとそのお産のゴタゴタもすみ咲枝の体も順調で全く一安心です。泰子が生きると決ってから私は全く体中の力みをゆるめて夏以来始めてクタクタになり十三四時間も眠ります。相当なものでしょう。うちの人達も私に無理をさせていたことが必要がすんでみればはっきりわかってきて今は休むことを頼まれ私はいい身分よ。何しろ呑気にしてさえいれば安心だというのですからね。
 今の調子で春までのんびりしたら眼もよほどいいでしょう。伊東へ行くことなども考えていたけれどもあすこは防空地帯の甲で、これからは東から西への気流がよくなる折からだし、地方の常識外れも怖ろしいし、やっぱり信州辺の温泉へでも行けるまではこの二階でずくんでいようと思います。軽挙妄動は怖るべしですから。
 薬のことを有難う、でもねオリザビトンは買ってあるだけは飲んでいただきたいと思います。効く薬なら尚のこと、何しろ、そちらの食事は手にとるようにわかっているのですし。こちらはメタボリンとレバーとでいいと思います。薬はこの程度で充分な休みと一日の間の適当な用事の配分とできっといいでしょう。片附け熱病がすっかり消えてこの頃はどうやら何時もの百合ちゃんの緩慢状態になりました。今日になってみるとああゆう頭の打撃は本当に自然になるまでに極く小きざみで複雑な神経状態を経るものなのね。考えるすじ道はまともでも動作やその考えのスピードなどに色々なニュアンスで普段でないところがついていて、気質の少しどうかした人ならそして人間に対する根本の信頼がない人なら、その妙なところが固定してしまって所謂大病のあとの人変りということになるのでしょう。考えの道はまともで何だかその人らしくないなどというのはこわいわね、そういうことが自分にわかってきただけ丈夫になったのでしょう。手紙は何といってもすじばかりのところがあって、目でみ、感じるその人らしくなさ、は手紙には若しかすると少ししか現われないのかも知れないわね。
 私の方はざっとこうゆう工合です。
 富雄さんから写真が届きましたか。裏に最近の勇姿、と書いてありましたか? やっぱりあの人ね、二百枚もうちへ写真を送っているんですって。隆治さんはどこで正月をしたでしょう。船の上ね、お餅があったでしょうか。
 今日はこれだけでまたね。机の上に実のなった豌豆の花があってそれは大変生き生きとしてきれいです。お豆腐の味噌汁は近頃珍物よ。さや豌豆(えんどう)で思い出しましたが。

 一月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 一月十一日
 一月八日のお手紙有難う。
 泰子はいいあんばいに順調でこの頃は私が「やっこちゃん遊びましょう、ジュクジュクジュク」(これは歯と唇の間からたてる妙な音で泰子のお気に入り)というといかにも美しい顔で笑うようになりました。丈夫な子でも肺炎をすると数年遅れるというから泰子などはさぞひどいことでしょう。
 すっかり髪が脱けました。病後のやつれたしかしほっぺたなんかの赤い顔をして目はキラキラ全く星のかけらのように見事に輝いています。この輝きがもっと天上的でなくなって人間の子の喜んでいる目付に戻らなければすっかり回復したとは言えますまい、大変可愛いことよ。手がまたなくなっていますが、私はもうああちゃんが丈夫だから下のさわぎにはかかわりなく今日のように気持よい雨がどっしり降って、ぬれた冬の木立がきれいにみえるとこの間に一本大島椿の真赤な花の咲くのを植えてみようなどと考えています。昨夜珍らしく夜中に眼が覚めたらあたりの暗闇と自分の安まった気持の深さとがいかにも工合よく調和していて、病気以来暗闇が圧迫的で苦しかったことがすっかりなくなっていたので嬉しゅうございました。こんな風にして私の安まりも段々本物になってゆく様子です。みんなの話では私らしい動作や感情の柔軟さが戻ってきて殆んど前と変らなくなったそうです、ただまだ疲れが早いし、疲れると注意を集中しているのが面倒臭くなるけれども。問題はこの眼ばかりよ。
 たちばなへ電話したらチェホフはあるそうですからそちらへ直接送るようにいたします。前の注文の分は発送ずみだそうです。「ギオン」と「パルム」は別々になりますがお送りします。
 小説のいいものというのはちょっと返答に困る有様でいつかお送りしてそのまま戻ってしまった「チボー家の人々」も作品の頂点をなす(一九一四年)は訳出不能です。スタインベックの「持てるもの持たざるもの」は、「誰がために」への一過程としてみた場合色々専門的な意味で興味ある作品です。アメリカ作家のキャパシティーのタイプの見本として。この頃は世界文学の流れも不自由で身の廻りの作家の書くものではまだ一つもこれぞというものを知りません。なにしろ、私の本を聞く速力ときたら亀の子以下ですからね。一ヵ月に一冊読めないから。もう少し身体が丈夫になったら、もう一人人を探して読む方と書く方を分けたいと思っています。
 手袋やその外のことわかりました。寿江子の体についていつも配慮していただいてすまないと思います。私の留守中あの人は全く生れて始て位、本気で親切に努力してくれて、それは重々わかっていますが、一つ二つその誠意に比べてどうしても私に納得出来ないことがあって、それは事柄は些細なものですがそのルーズさが質的によくないと思われ秋頃も一度話し出しましたがその時は自分の精一杯さと善意だけをとりたてて主張して手がつけられなかったが、今は両方の体がましになったせいか二三日前にそれを話し出したら今度は私の真意がよくわかってちゃんとつぼにはまって自分を批評する点をわかりましたから、それは今年の喜ばしい獲物でした。私達姉妹はすじの通った深い情愛に立っているのだからそうやって話しがまともに通じなければなりません。ああいう点はああいう人間なのだから、と、甘やかすことは出来ない。芸術をやろうとする人はましてや「笛師の群」のお話し通り、気立てが大事ですから。低い周囲を批評する力が自分にあるということは自分の高さを意味しはしませんからね。
 このことが長く心にひっかかっていたところ、釈然としてお互いに愉快だし、一層しっかりとした大人らしい親愛を深めました。
 今日、島田から赤ん坊のお祝いを頂きました。隆治さんを入れた写真はそちらにも行きましたろう。隆治さんは私のおぼろな眼でみると、どこやらあなたに似た風になってきているように見えます。達ちゃんはあの年ではもっと腹にも肩にも生気が張っていなければならないように見えます。やっぱり色々ああゆう表情の気分で動揺しているのね。私の取越し苦労でしょうか。
 この頃のお手紙には夜気分がよいとあり、あの長い昼間は気持よくないということを心配します。夕方から少し熱が出て気分がいいのでしょうか。明け放しで頭が冷たすぎて何か気分がよくないのではないでしょうか、タオルなんかかけたらましではないでしょうか。営養が何処にいても悪くなる一方だから私は夜の気分のよさも油断は無用と思えます。呉々お大切に。

 一月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 一月十三日
 昨日は面白いことがあったのよ。ペンさん[自注1]に一通書いてもらって下へ降りたら、食堂のテーブルに御秘蔵物が置いてあるので、ヒョイと感違いして、さっき見て書いていたのをいつの間に持って来たのか、サテぼけかたも甚しいとひそかにびっくりしたら、それはまた別ので、しかも十二月二十八日朝と書いてあります。何処かに引掛っていたらしい皺があってそれでも着いたのは感心でした。年の暮にあたってこの手紙には、色々のねぎらいや親切な贈物が籠っていたのに、私は、二十四日のパニックに就ての修養談が一番お終いで、年を越したのは残念でした。勿論、謹聴致しましたが、ああ云う年の暮には、やっぱり、二十八日に書いて下すったような心持もほしいわね。くれぐれもありがとう。
 オリザビトンは飲むことにしました。そんなに効くのなら、服んで一日も早くこの眼のマクマクがなおしたいから。今、うちに二三ヵ月分は有りますから、間にこれを当分続けてみましょう。
 和独は箱付きかどうか判りませんが、スエコの伺ったのではそのまま間に合せて下さることになったのでしょう。(スエコは意地悪で「ソノママ、マニアワセテ」と早口に続けて云ってみろと云います、ひどいわね。「隣の客は良く柿食う客だ」ではあるまいし。)
 この頃は養生訓三ヵ条が実によく守れています。それと云うのも三、四月になって東から西への気流が良くなるにつれて、望みもしないものが天から降って来て、火事場騒ぎなど起らないうちに、一度是非そちらへ行きたいと思い、そのためには、もっと良くなって乗り物に乗れるようにならなければならないから。
 私の健康上のプロンプターはスエコで、何しろ永年持病と戦っているから案外疲労の測定が正確で、私より先に私の疲労が見透せるらしいから、口やかましい忠告に従わなければなりません。歯っかけのくせに何て姉さんぶるでしょう! 手紙を書いてもらう時の私の待遇はたいしたもので、二階の机の横に行火(あんか)を造り灰皿を揃え、くしゃみをすれば大事な胴着を頭からかけてやって、そして一筆願うありさまです。
 でもね、この頃は手紙を書くことに就ても呑気に構えてしまったの。あくせくして一通余計に面白くもない手紙を書いてやきもきしてみたところで、私達の生活の本筋に大した関係はないのだし、結果として、あなたが心配して下さることを、無にするようでは意味ないと思ってね。こう心を決めたら気が楽になって、あなたもそれでよしよしと云っていらっしゃるような気がしているけれど、それでいいの?
 私はどうかしてこう云う気質に生れていて、御難つづきの人生などを予想しないし、有難いことに、そんな考えを可能にしないような光があるから、その点は大丈夫です。実際問題としては、目下の吾々の生活は銀行相手の赤字生活ですから、今年の末頃にはポチポチ仕事が出来ないと、閉口です。書き始めるに就ては云々、というようなこともきっとあるでしょうし、なかなかすらりとは参りません。ペンさんのことに就ては、スエコから申した通り充分以上のことがしてあります。もう四年ばかり出入りしている子だけれども、この春には結婚するらしく、そしたらあんまりつき合うこともなくなるでしょう。
 ロビンソンは漱石が文学論のなかで、十八世紀文学の常識と無風流と、日常性の見本として、何処にも壮美がないと、あの人らしい美学を論じていますが、成る程、仰云るような古くささが、作品の低さの眼目なのね。漱石の型式美のカテゴリイの問題ではなかったのね。面白いことは、漱石が作家的、また人間らしい稟質の高さから、この作品の意に満たないところを直感しながら、その不満の拠りどころを型式美学に持って行ったところが、いかにもあの時代ですね。ロビンソンのことは漱石の文学論を読んだ時、フリイチェの文学史的な解釈と対比して印象深かったので、短いお手紙の文句だったけれども色々考えを動かされました。あとの文学史先生は、ああ云う作品の発生の起源をちゃんと説明はしているけれど、それに対して今日の読者である私達が、つまらないと思う直感の正当さとその理由に就て、触れてゆくだけの力は持っていませんでした。文学に於ても史家は、そう云う静的な立場から、極く少数の傑出した人々が踏み出すばかりなのね。
 この間、始めていかにも気持よく臥(ね)た晩に(父、子が下へ降りて、私一人で眠れるようになった晩)大変綺麗な面白い夢を見て、またの時、スエコを掴え、その話を書いてもらうのが楽しみです。その夢の話をきけば、私がやっとこの頃ゆるやかな神経で横にもなっていることが判っていただけるでしょう。
 風邪をおひきにならないように。ほんとうに頭から一寸物をかぶると暖いらしいことよ、かつぎのように。

[自注1]ペンさん――百合子の眼のわるい期間、代筆等を手伝ってくれた娘さん。

 一月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月十六日
 十二日づけのお手紙をありがとう。その御返事というわけでもないのよ。約束を守らないとお思いになるかもしれないけれども、この間うちから我慢をつづけて、代筆で。でも、明月詩集[自注2]の物語ばかりは誰に書かせたら私がたんのう出来るものでしょう。しかも、「しきりに寒夜月明の詩を思う」と書かれているときに。そうかいたのは誰でしょう。
 去年よりは小さい字が書けるようになったでしょう、依然としてぎごちなくリズムが欠けていて妙ですが。
 きょうから毎日一二枚ずつ書いて出したら二十三日前に着くでしょうか。気をつけて少しずつしか書かないから大丈夫です。丁度日向に長くいて日かげの部屋へ入り、そこでものを見ようとするとマクマクでしょう。あんな工合にこの紙や字が自分に見えます。
 今のところでは今年も割合暖いようですね、昔の冬は春のようだと思えるほどの時もあったりしたけれど。
 この頃、私はもととは流儀をかえて、夜眠る前にいろいろ考えるよりは寧ろ朝めをさまし雨戸をあけて床に永くいるときに、静かで暖かで新鮮になってどっさりのことを考えます。明るい月の流れ入る窓の詩は夜のうたではあるけれども、あれはうたの心の天真さやまじりけのないつよい歓びの情などから朝の光のすがすがしさとも実によく似合います。一層美しさが浮き立つようよ。そしてそのような熱くてすき透ったような詩趣は朝のうたの諧調をも同じように貫いて響いて居ます。なじみ深い愛誦の詩をまた再び声を合わせ格調を揃えて読もうとする気持は何にたとえたらいいでしょう。
 残念なことに私の物をかく力はまだあの詩ものがたりの旺盛なやさしい諸情景をこまかく散文にかきなおしておなぐさみとして送るまで達者になっていません。それでもやっぱりこうして私は書きます。

 芳しく あたたかく
 夢にあなたが舞い下りた

 恢復期の寝床は白く
 その純白さは
 朝日にかぎろい 燃ゆるばかり。

   昔 天使が
   信心ぶかい乙女を訪れてとび去った
   跡は
   金色羽毛の一ひらで
   それと知れたと
   いうはなし

 翔び去ったあとはどこにもなくて
 そこに
 もう
 いない あなた

 虹たつばかり真白き床に
 醒めてのこれる冬の薔薇。

[自注2]明月詩集――ながい年月の間には、いくつもこういう詩集がやりとりされた。書いたものと書かれたものとの間にだけ発行された詩集。

 一月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 今日は寿江子さんが用足しに出かける処を急に取やめとなったので、二階に来て、私は思わぬ幸にめぐりあったと云うわけです。
 十三日から十五、十八と、なかなかたっぷりした戴物で本当にありがとう。まず十三日のから。そちらに飴玉とユタンポが有ってまあまあでした。成る程昨今では袋へ入れる鉄くずがないわけですものね。然し、ユタンポは二十四時間持たせるのには大骨だし、殆ど不可能でしょう。手間が大変ですね。それでもよほど助かるでしょうからいいけれども。防寒の為にタオルでも頭におかけになったらと云うのはフワリと上からただ掛けておくだけのことで、顔までかぶると云うわけでもなかったのです。年始に目白の先生が来た時その話をしたら、寒すぎて頭がジンとして苦しいよりはその方がよかろうと云うことでした。芝居の道行で、女や男が頭に手拭を吹流しにかけて行きつ戻りつするでしょう、あの調子よ。ユタンポでその必要もないかも知れないけれど。
 島田の生活のことは、全く色々大変だろうと思います。新設の工場が不向きだと云うことも確ですし。お母さんは、でも、体を丈夫に気を楽にもつと云うことを、心掛けて暮すと云っていらっしゃるから助るけれども。トラックを二台売ったりすれば、今のことだから、一寸まとまった金が入り、それを土台に何とか地道な方法が立てば良いと思います。
 色々な処で、色々な形で堅気な人間は、生活の方法に就て苦心をして居りますね。あなたから折にふれ慰めたり、励したりして戴くことは、あっちのみんなも心強いことでしょう。本はこちらでも心がけましょう。『インディラへの手紙』は私達の物ではないのでしょう?「笛師の群」がおやめになって安心しました。ああ云うものはもう重版がないから、私達としては勉強上大切です。今度の新税法で煙草がうんと値上りになり、印刷税と云うのも出来て、二円の本に二割の税が付くようになりました。単行本の用紙がこれまでの半分に制限されました。本はいよいよ手に入りがたい物となって、この暮にひどい古い本を整理したら、およそ百円一寸と玄人がみたのが、市場では、三倍ほどになって、助ったようなものですが、本はお売りにならないようにと、くれぐれ忠告されました。そんな有さまです。本で苦心しない人は五十銭の文庫本一冊のために、どんなに苦労するか判らず、しかもそう云う世間の事情なら、なおさら本をよく供給しなければならず。
 病気のことに就て色々の御注意をありがとう。素人考えだと、とかく片づけることばかり急いで、副作用の有害な処置を取りがちです。つい早くなおしたくなるのね。病気にあきて。自然の時期まで根気よく持って行く力がとかく欠けがちです。私としては、病気のさけがたさの条件も判っているし、病菌の蔓延するわけも判るし、災難ながらやたらに手っとり早いことを願ってばかりも居りません。
 そちらに行くことも、では、仰せを畏み、あせらずに居りましょう。(ここで溜息をつきましたよ〈筆者註〉)家のみんなも心配しているし、なかんずく、目前の筆者は、行くなとは云えず、安心もせず、私が出かけると云う日には、旅行に出ようかなどと云う有さまだから、本当に急がない方がいいのかも知れないわ。ただ、あっちに火柱が立ったり、こっちに煙が出たりする時のことを考えると、あなたがそのお守りと云うわけではないけれど、何だか一目見ておく方が惶(あわ)てかたが少なそうに思えるのよ。ゆっくりと云えば秋位になってしまうかも知れないわね。今年の夏ばかりは東京にいる勇気がありません。あなたもおおめに見て下さるでしょう。いずれにせよ決して突然現われると云うような趣味的なことは致しませんからそれは御安心下さい。
『人間の歴史』、目白から貰ったけれどまだよみません。「私」と云うものを知らないと云う点、古代人と現代の良識との間には何と云う本質の大きい相違があるでしょう。ルネサンスから二十世紀迄の「私」の歴史が蓄積して来た人間の宝としての大きさ、それから更に拡大した自分としての「私」の無さ、それは漱石が「明暗」の時代にリアリズムに足を取られて「無私」と云ったものとは全く違って、なかなか面白いものです。ヘミングウェイが彼流の道を通って好き嫌いなしに、どんなことにでもぶつかれて、その時の理性の判断に従って行動して行く行動性のなかにも、せまい個人からぬけ出る一つの道が示されています。現代のゴタゴタをくぐりながら、意志と、はっきりした強い頭とで一つの道を徐々に切開いて行く強い人間のタイプが彼で、興味があります。
 ひどいスピードにたえる現代人の神経や、酒を飲んでも正気を失わない頭の強さや、パンチの強さまでこの作家のなかでは一つの方向にまとまって神経質なのが作家だというようなけちくさいマンネリズムがふっとんでいるだけ気持がよい。感受性の鋭さや、清潔さは、中学生くさいモラリゼーションより確なもので、後者に永久に止る見本は島木健作です。
 この紙は行が大きくて打撃ね。スエ子さんが怒るけれど細い行のを見付けてくれないくせに。ひどいわね。布団襟に付ける布、お送りします。小包を開けた時、ああ代りが要るな、と思ったのよ。
 どてらの巾がせまくて着にくくはないでしょうか。今年の春は私の生きかえったお祝いに御秘蔵の紺大島を着ましょうね。足袋はまだそちらに有るでしょうか。
 私は風邪をひきません。そちらもくれぐれお大事に。

 一月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 ミレー筆「編物をする女」の絵はがき)〕

 二十五日のお手紙有難う。
 二十六日に寿江子さんと御返事を書き始めたのに今日もまだ未完成という始末。それほど長いのではなく、代筆係りがつかまらないというわけよ。一、教材社へは手紙出しました。二、たちばなのチェホフはありました。三、高山書院の本は二冊ともあって各一円五十銭、四、平凡社のもあって一円八十銭、五、毎日年鑑は附録はどうだったか覚えていません、朝日には附録がついているから同様ではないでしょうか、六、衛生学はまだ調べがつきません、七、足袋は製作にとりかかります、八、カロッサは三笠と河出から出してるらしいけど本がなくてうちにはバラバラに四冊あるだけです。「幼年時代」は何しろゴーリキイやトルストイがあるからお手柔らかに思われますが。

 一月二十九日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 パリ・ノートルダムの写真絵はがき)〕

 これがせむし男のノートルダムです。右のはずれにみえる広告塔のようなものはパリーの共同便所でブドー酒くさいおしっこが流れ出ていることがよくありました。春のはじめらしい景色ですね。
『世界外交史』の第二巻買ってお送りします。岩波から野尻重雄という人の『農民離村の実証的研究』という本が出ていて買いましたが、統計が多くて今の私にはこなしてもらえないので、もしよかったらお送りします。面白そうな本です。なかなか細かく真面目にあつかっているようです。
 今日も寒い日ね、私は綿入羽織をきて針差しのように丸くなっています。

 一月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 一月二十六日
 今日は、今年始めての時雨た天気ですね。私は天降って食堂の炬燵(こたつ)に仲間入りしています。アアチャンの処へお客様で、スエコと二人切りになったから、好機逸すべからずと云うわけよ。
 今日は火なしだと河鹿簑之助だから、スエコは此処を離れては、字なんか書けないそうです。(意地悪でしょ)
 昨日はギリギリの時間でお目にかかれ、色々の様子を伺えて、何となく安心しました。心配していると思ってもいないのに、こうやって安心するところを見ると、やっぱり安心の程度が極めて微妙にあると思います。そちらでも同様の気がなさるでしょうか、そんな工合に家のポワポワ前髪は姉さんの様子を伝える事が出来るのでしょうか。
 お体がいくらか確りしたように見えたそうで、本当におめでとう。そして、遠大な計画で語学をやっていらっしゃるらしく、結構ですが、叱言はきっと日本語以外では仰言らないでしょうね。外国語が達者な人でもフッと腹がたって悪態をつく時は、思わず「バカヤロウ」と云うわよ。
 足袋のこと承知しました。何とか工夫して裏をつけお送りします。本のことも判りました。
 今日、お手紙を戴いたから、昨日のこと以外の用事も判りました。島田への本はその通りで結構です。前知らせなしに送った本は、家からではなくて、『ギオン』を貸してあった人が、いい本だと思って送ってくれたのだそうです。カロッサ全集は、二つの本屋から出ていたらしいけれど、どちらも纏まって家にはなく、一冊ずつ集めています。
 間二日飛んだので、この辺は昨日の絵葉書と重複してしまいました。
 今日も曇った時雨空ですね。月がもう下弦になりました。二十日から二十三四日迄毎晩明月で二階の東の窓から高いさいかちの黒い梢と屋根屋根がその光に照されていました。私は窓を開け、月光を一杯に差込ませて、然し寒いから境の襖を閉めておくと、注ぎ込む月の光は、音にたつような感じでした。
 そう感じながら、こちらで坐っていると、光の音と心の内にある声とが互に溶けあって私はもう黙っていることが出来ず、電気の下でザラ紙の帳面と軟い鉛筆とを持出します。5Bの鉛筆はだいぶもう短くなったわ。大事にすっかり短くなっても、それを捨てずに持っているのは、楽しい処のあるものです。二十三日の晩は風がありましたね。夕方から夜になりかける頃、ガラス戸がなる位だったけれども、十時頃になったらば、風は落ちて、さえた月の下に、枯れた木の枝々が美しく見えました。
 そちらでは高いガラス窓から月の光が差す時分、どんな景色が見えるでしょう。私は杉の木や、ひよっ子や、芝を見ました。
 二、三日前、古い反古(ほご)を整理したら、(抽出しの棚を又出して机の横に置こうと思って。)シャバンヌの女を描いた絵の葉書が出て来てよくみると、なかなか面白いものでした。背の高い肘掛椅子に裸の女が、その高い背にのんびり二つの脚をのばしてかけ、片方の肘掛に頭をのせ、片手を自然もう一方の肘掛にのせてくつろいでいる構図のデッサンですが、いかにもシャバンヌらしく、清楚で、よけいな男の感覚が付きまとっていなくて心持がいいものです。
 国男さんがお歳暮をくれたので、到ってわずかな物ながら何か残る物をと思って、心がけていて、日頃ごひいきのドガの踊子のデッサンと額ぶちを買い、今それが一間の壁にかかっています。いかにも創作的な活力と、眼光とが漲っている作品で、部屋中が確りと落着いて来ました。私は本当にドガが好きよ。すえ子も。この部屋が初めは全く病室風で、それがだんだん居間らしくなり、さてこの頃は居間であるが、ただの居間ではないと云う処が出来てきて、この変化を興味あることに思います。
 近頃、本が読みたくなって、それを読まずに来月一杯は暮そうと思うから、何とか気紛しが必要で、いくらか集注する必要もあり、将棋でもやろうかと思いますが、生憎なことにお師匠さんがそちらにいらっしゃるから困ったものです。幾何をやろうかと思ったら国男さん曰く、「姉さん、そりゃあ頭を使い過ぎるよ。」おまけに唯一の相手のスエコは、何の虫のかげんか「駒」の字が好きでないんですって。意味が判らないのよ、何故だか。(筆者註、アッコオバチャンは口だけ達者で困りますヨ!)まさか前の通りに床几を持出すわけにも行かないからこれはお流れね。
 碁なら、女の人で哲学者の奥さんで先生がありますが、いかに暇潰しに困っても白と黒の石をパチリとやる趣味はまだ無くてね。ピアノを弾けばいいようなものの、音がまだ強過ぎるし第一、ああしてガンと黒く光って構えているものと向い合うのも気おっくうだし、私が全く子供のピアノでも今の譜を見る速力よりは指の方がまだ早いから、これもだめ。おかしいでしょう。色々な時期に、色々困ったことが起って来て。疲れ工合に注意してみると、私はまだ1/3人前です。一人前になる迄にはたっぷり今年一杯はかかりますね。ポチポチと短い文章を書き、詩のような物も書き、それがやがて一冊の本にでもなるだけの収穫があれば、こんな時期も私は怠惰ではなかったと云うものでしょう。それに就てはあなたに云いたいお礼も沢山あります。すえ子もそんなものを読むときには一廉(ひとかど)のつら構えで、これはいいとか、左程でないとか、これはちゃんとした音楽の伴奏で朗読されるべきものだとか、その位の音楽を作りたいものだとか云って、これもやっぱりなかなか私にとっての清涼剤です。夜眠らなくて、とんだ時にマッチをすり、人を起したりして、そう云うスエ子は本当にいやだけれど、この癇癪の種が案外な処で薬用と変じるので、なかなか扱いは微妙を極めます。まして況んや万年筆を手に取らせなければならない仕儀に至っては。
 泰子の病気のためアアチャンが疲れて何年もないことに、温泉に行きたがっています。伊東辺を御存知? 私は知りませんが、この頃は大抵の処が軍人さんのための療養所となり、鵠沼辺では普段人の住んでいない別荘をどんどん徴用しているそうです。開成山の奥に兵営が出来、家の前の池の辺で伏せ、撃て、とやっているのを、太郎達は一日付いてまわっているらしい様子です。それは去年のことでしたが。私が何処に行くかと云うこともそんなこんなで軽率に決まらず、山のなかの温泉の静かな処を探し出さなければなりません。そして野菜の食べられる処をね。スエ子はろくに青い葉っぱを食べられなかったのよ。
 弘文堂から原著者は判りませんが除村吉太郎訳で『ロシア年代記』と云う中世の歴史が出るらしく、あなたも興味がおありになったら買いましょうか。世界の中世史として高く評価されるものだと云う広告です。
 今年はこれからが寒そうだから、くれぐれも御大切に。風呂のボイラーがやっとなおって、明日は大楽しみです。(手がかじかんで妙な字が書けました、あしからず)

 二月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 セイロンの風俗の写真絵はがき)〕

 只今一日のお手紙拝見、初雪が降ったと思ったら今日は氷雨で初春というより十二月頃の屋根のぬれ方ですね。第一書房は手紙出しました。杏村さんがおかみさんにどんな手紙を書いたんでしょう、第一書房のおやじは麦僊と知り合いで弟の杏村をかついで店を初め、岩波と漱石のような因縁ですね。『ピョートル大帝』の上巻はうちにあります。『谷間の百合』もあります、お送りしていいでしょうか。
二月三日

 二月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 山下新太郎筆「少女立像」の絵はがき)〕

 三笠の『風に散る』、『廿日ねずみと人間』などは新本はないでしょう、念のためききますが。古ででも心がけます、私も読みたかったから。
 ふとん衿承知しました、せますぎて? 足袋底を丈夫にする作業もどうもうまくゆかず割合ましなのがあってネルが内側についていないからいけないけれど、それでお間に合せいただきます。来年は一工夫してうちで暖かいのを縫いましょうね。男足袋を第一今売り切れだし。玄米はガスが制限で大弱りです、たくのにずっと時間がかかるから。隆治さんのことはまったくそうで、私はだから尚更あの人の素面で経た辛苦を尊敬いたします。写真送ります。

 二月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 二月五日
 今日は旧の元日だそうです。小春日和でしたね。三日のお手紙ありがとう。タチバナの本はまだ注文してありません。そちらでやって下さいますか、ありがとう。
 開成山から佐藤と云う当年四十二歳のとっさまが来て、これは祖母の時代に一郎爺さんと云うのがいて、別名目玉の爺やと申しました。その娘がおけさ、と云って、たいした働き者で、身上をこしらえましたが、或時亭主の留蔵が浮気をして、猛烈な喧嘩が始ったとき、亭主は建てたばかりの家をぼっこしちゃうと云ってぶちこわし始めました。そしたらおけさも、ふんだら俺も手伝うと云って障子を持出して、蹴こわして、火をつけました。往来の真中でやったのよ。そしたら留蔵がかえって毒気をぬかれて、もうよかっぺと云って、仲なおりした逸話があります。その婿で今日では翼賛会の青壮年団長、促進員、隣組長と云う、流行男ですが、相当なもので、炬燵にあたりながら、一夕気焔を拝聴して大変ためになりました。面白かったし。開成山辺が工業都市に成って行く勢のひどさは野原が工場町となった変化に勝るとも劣らないらしく、家などは宅地は残るが、ぐるりはみんな中島製作所、三万人の従業員のための住宅地と指定されているそうです。現在でも、もう射撃の音や、飛行機の音が一杯で、その男の隣組、十何戸かのなかで、お百姓さんはその男の他一人だそうです。あとは小勤人、商人、軍人だそうです。この夏は、まだ一人で読み書きが無理らしいから、開成山など、みんなで暮すためにはいいのだけれども、島田や光井での経験を思い出すと気が渋ります。呑気に、招かざる客の来訪なしに保養したくてね。昔の桑野村と何と云う違いでしょう。その変りかたは興味深く、例えばこの佐藤などを活き活き書けたら、全くたいしたものだと思います。そして、それは私の第一作の歴史に従った展開なのだけれども。とつ追いつです。長く滞在するには良い折ではあるけれども。
 語学のことで、橋のない川と云うお話をきき、私は些かあわてます。何故なら私は橋ばかり頼っていたし、時にはひどい丸木橋を危く渡って用達しして居たようなものだから。あなたが川を泳いだら私は土堤を馳廻って、それでは困るわね。あなたの泳ぎは私を溺らさないで引張って行って下さるだけ、上達の見込がありますか。私のは気合語学だから、顔を見てエイヤッとやれば用は足りていたけれど、困ったものね。これは真面目な話よ。お考えおき下さい。小説を書くのには語学はたいして必要でもないように思えたが、評論の仕事ではもうその必要が判って来ます。他の専門なら大人らしい仕事に入るやいなや、必要の差迫ることでしょう。日本の文学者が少し語学が出来ると、すぐ種本漁(あさ)りをするのを軽蔑したりする気持もあってね。然し、私は語学向きのたちではないから弱ります。サンドの作品は訳されているのはあれだけです。ところがこれからは岩波文庫で増刷するのは、『古事記』や何かの他は『即興詩人』と『ファウスト』、位なものだそうです。ほかの文庫類もその標準で無くなって行く様子です。想像出来ないようでしょう?
 文庫が数冊あれば食べてゆけたと云った時代、M・Yのように金持にまで成った男は呆然として消え去る財源を見守るでしょう。作家がちゃんとした仕事をして、ちゃんと暮せると云うのは理の当然だけれども、作家になって成り上ると云うのも何だか少し変な気がするわね。作家となれば金の使いかたもいくらか普通とは違った道がありそうに思えるけれども、いざ持ってみると誰でも買うようなものを買って、しまいには家や地べたでも買っておさまるのは奇妙なものね。どうせそうなるなら、始めから金を目当てに何かやった方が良さそうにさえ思えます。そうゆかない所が人間の面白さ、くだらなさ、気の毒さなのかもしれないけれど。人間の新陳代謝の速力は意外にも早いのね。役に立つのは、十年前後と云うような人々の生涯もあるのですね。そんな風に、色々なものから消耗されるのですね。消耗なしに樹木でさえも育てないと云うのは、自然のきびしい姿です。
 今日これに追かけて、一寸した送りものを差上げます。
 どの部屋も同じような寒さだから、かえって今年は風邪をひく者が少なくて笑って居ります。

 二月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

   月明のうた。

 月がのぼった。
 金星を美しくしたがえて
 梍(さいかち)の梢を高く
 屋根屋根を低く照しつつ。

 どの家もおとなしく雨戸をしめ
 ひっそり
 甍(いらか)に月光をうけている。

 なかに ただ一つ
 我が窓ばかりは
 つたえたい何の思いがあるからか
 月に向って精一杯
 小さな障子をあけている。

 いよいよ蒼み 耀きまさり
 月も得堪えぬ如く
 そそぐ そそぐ わたしの窓へ
 満々として 抑えかねたその光を

 ああ今宵
 月は何たる生きものだろう

 わたしは燦(きらめ)きの流れから
 やっとわが身をひき離し
 部屋へ逃げこみ襖をしめる
 こんないのちの氾濫は
 見も知らないという振りで。

 けれど
 閉めた襖の面をうって
 なお燦々とふりそそぐ 光の音は
 声ともなって私をとらえる

 月の隈なさを
 はじめてわたしにおしえたその声が
 今また そこにあるかのよう。

  一月二十三日

 二月十九日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 二月十七日
 十六日の御手紙ありがとう。
 去年の二月十三日には、そちらではパイナップルの鑵を開けて、私の誕生日をお祝い下さったそうですが、今年は何の鑵があったのでしょう。みんなのなかで暮しているからと、御放念だったでしょうか。いずれにせよ私は、あなたから色々のお祝を戴きためてあるから、その日になってにわかにがっつくこともありません。
 十三日は、生れて始めてこんな風に誕生日を祝ってもらったとびっくりするようにしてくれました。
 お客様の数は、目白のお医者夫妻とペンさんと位のものでしたが、食堂のテーブルは珍しく白いテーブルクロースに覆われて、その真中には菜の花や、マーガレットが撒かれ、食器台の上には桃色の飾り笠をつけた燭台が二つ立っていて、これまた珍しく緑色のお酒の入れられた切子(キリコ)の瓶が立って、それはお祝の鐘の鳴る小さい鐘楼のようでした。真中の所に私の椅子がおいてあって、其処に贈物が積んでありました。この頃みんなでして遊ぶダイヤモンドゲームを太郎から。面白い染の袋があって、その上の箱を開けたら、内から気の利いた切符入れと、綺麗な羽織の紐と、からたちの模様のテーブル・センター。さらにいじらしいことには、小さい小さいのし紙を胸(ムネ)に下げて、そこに「アッコオバチャン」「ヤスコ」と書いた一寸ほどのもんぺをはいたコケシ人形が現れました。そのコケシの後つきは全く泰子そっくりで、可愛いこともかわいいし、第一こんなに自分は何一つしないで、飾ったテーブルに座らせられると云うようなことは初めてだから、嬉しくて、少しひどくうれしくて、何となく涙が出たいようになり、でも、私が涙をこぼしたら、みんなはきっとそんなに私が喜ぶことをかえって気の毒に思うだろうと思って、あんまりうれしくて恥しい恥しいと云って気持を自分で持かえました。みんなは、生れかわって一つの人にしては発育が良いとほめて、お杯をあげてくれました。その杯のひとくみの中の一つが、私達御秘蔵の真丸のもので、そのつれの杯をあげながら、私は、あのまん丸の杯が、矢張りキラキラ光りながら私のために上げられているのを感じました。
 お杯と云えば、さもお酒を飲んだようで、心配なさるといけないけれど、それは、全くお祝の心と色彩効果のためで、アアチャンもいぶし鮭の切身や、あやしげな数ノ子位しかないテーブルの上を、せめて賑わすためには、色だけでも鮮かな緑の液体を持出したわけです。
 この晩は幸せに暖かくて、火無しの部屋も今日のようには寒くなかったから、みんなものんびり寛いで、太郎が張り切って四角い口を開いて軍艦遊びの新型を説明するのをききました。
 思いがけない友達が、ちゃんと私の誕生日を覚えていて、私の世話で『シャロット・ブロンテ伝』が出版されたお礼だと云って、わざわざ贈物を持って午後に来てくれたりしました。こんなに良い誕生日を祝ってもらうには、並大抵なことではなくて、矢っ張り、一ぺん死んだだけのことはあると、みんなが笑いました。そうしたらね、太郎はよほど感ずる処があったとみえて、次の日みんなの居るとき、真面目くさって「アッコオバチャン、今年の夏も病気するといいね、みんなが水瓜を持って来てくれるから。」と云いました。苦笑おくあたわず、私曰く、「病気はもう御免だね、病気なしでも少し水瓜があるようにしようよ」と。手近かな推論には恐縮しました。全く記録的な祝われぶりでした。
 オリザビトンは、本当に利くようです。それに、今家では病人揃いで、国男さんも変に工合が悪がって居るし、アアチャンは軽い腎盂炎だし、スエ子は例の通りだし、こぞりてメタボリンを服むから、せめて私が、別の物のんでいてやっと補給がつきます。今、薬が利くようにもなっているのでしょう。
 十日のお手紙への返事、おっしゃった人にはすぐお礼を出しておきました。やがて夫婦で南へ赴任するでしょう。色々の用事はペンさんに頼んだりして居りますから大丈夫です。『廿日ねずみと人間』は、近いうちに見付かりそうです。富雄さんの本が着いて、ようございました。今、杭州の師団司令部の経理部にいるそうで、危いことがなくて結構だけれども、戦地に於けるこう云う部門は、金持の息子と要領のよい人間の溜り場所だそうだから、その意味では決していい場所と云えないのでしょう。前方で多くの人が生死の間を往来しているとき、こういう所では色々なことを見ききしていて、それを正しい判断に照して全体から真面目にみるだけの人物は、十人のうち何人でしょう。隆治さんのことを思いやります。
 チェホフは、病気のためクリミヤのヤルタに暮していなければならず、クニッペルは芝居でモスクヴァ、レーニングラード暮しで、厳冬の時期になると、チェホフはモスク□に出て一緒にくらした様子です。
 チェホフは、クニッペルのいい素質と、同時に身に付けている所謂女優らしさをはっきり見ていて、大向うの喝采や、新聞の批評や、花たばの数などに敏感なのをはっきりたしなめて、いつも彼女が自分を掴んでいるように、自分の演技を持つようにと励ましているのを読んだことがあります。チェホフはクニッペルをいつも「私の可愛い馬さん」と呼んで手紙に書いているけれど、その本にもそんな風に書かれて居りますか。チェホフは、人間の程度の差からクニッペルに対して随分甘やかした表現もしているけれども、芝居のこととなればなかなか厳しくて、よしんばクニッペルが内心おだやかならず、人の花輪を横目でみたとしても、旦那さんに手紙を書くときは、流石(さすが)に真先きにそのことは書けず、自分として何処まで突込んで演じられたかと云う点から自省しなければならなかったでしょう。それは彼女に大変ためになっていました。チェホフが亡くなって後、彼女はどんなにその教訓を生かして自分を高めてゆけたかと云うことに就ては知りません。芸術座で見た頃の彼女はひどく平凡でした。
 ヤルタのチェホフの家は、南欧風の窓があって、庭もひろく、机の上には、象牙の象が幾つも並んでいました。いろんな写真がどっさりあって、細々とした感じの書斎でした。彼の生れたタガンローグの町は、アゾフ海のそばで、ロストフのそばで、其処にある家はいかにも小さな屋台店の持主らしい、つつましい四角い小家でした。黒海をゆっくり渡って、ヤルタへ上陸して、耳にネムの花を差して、赤いトルコ帽をかぶったダッタンの少年がロバを追って行く景色などを見ると、この辺が古い文化の土地でギリシャや、ルーマニアの影響をもっていることを感じました。山の方に行くとダッタン人の部落があって、せまい石の段のある坂道の左右に、清水の湧く、葡萄棚の茂ったダッタン人の家があります。日焼けした体に、桃色のシャツを着た若い者などは、いかにも絵画的です。ヤルタから、セバストーポリまでは、黒海の海岸ぞいのドライヴ・ウエイで、その眺望は極めて印象に強く残ります。黒海という名のあるだけ、この海は紺碧で、古い岩は日光に色々に光って松が茂り、そのかげには中世の古城が博物館となっていました。セバストーポリの町に入る手前に街道が急カーヴしている処があって、其処に一つ大理石のアーチが立っています。ヤルタの方から来るとそのアーチは、まるで天の門のように青空をくぎって立って居り、其処をくぐってセバストーポリの古戦場の曠野の方からそっちをふり返ると、同じように道は見えず、四角いアーチが空に立っていて、その感じは実に独特でした。不思議な哀愁を誘います。セバストーポリもヴェルダンも遠い彼方に山々が連って、まわりは広茫とした平野で、新市街はずっとその先にあります。ヴェルダンなどは全く「白い町」で、今日生きている人の住んでいる処と云えば、小さい川っぷちや、停車場前のほんの一つかみのものです。あとは無限に広く、暗く、寂寞のうちにあります。バクーから黒海岸へ出る夜汽車の中で頭に羊皮帽をのせた人達が手ばたきをして歌を唱い、一人が車室のランプの下で踊っていたのも思い出します。スターリングラードのホテルも思い出します。その道も。波止場も。ハリコフの賑かな小ロシア風な町の様子も。
 日に直接あたらないようにと云う御注意、ありがとう。樹木の少ない高原や、眺望の広すぎる処は、目に悪いと考えていましたけれど、本当に春さきの日に、呑気に照されて、またひっくりかえったら大変ね。人より早く「吾は傘をさそうぞ」と云うわけね。たかちゃんのことに就ても色々考えます。そのことも御相談しようと思ったけれど、今日は予定外の話になって長くなったから、またこの次ね。風邪をひくなと云って下さったけれど、もうひいてしまったわ。あなたはどうぞ御大切に。

 二月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二十日づけのお手紙ありがとう。十三日にはやっぱり好物ボンボンのこと思い出していて下さいましたね、ありがとう。
 冴えかえった春寒でペンさんが病気になり、とりあえずこんな手紙さしあげます。衛生学のこと、きけずにいるので御返事出来ず御免なさい。
 今お目にかけたいものがあって例の如くポツリポツリと書いて居ります。この節は少し外があるきたくて、この寒さがすぎたら先ず手はじめに動坂のばら新でも見に行こうとたのしみにして居ります。電車にのる稽古もいたします。のりものへは一人でのることはしませんから御心配ないように。
 隆治さんからハガキが来てうれしゅうございます。マライです。マライ語の本注文しましたから、来たら又お茶や薬やと一緒に送りましょうね。消しだらけのハガキですけれども、無事でともかく着いたとわかって本当にうれしいと思います。写真立派な顔でしょう?
 何ごとかを生きて来た人間の立派なところが現れてたのもしく感じ、又いとしいと感じます。そして私たちが一番そのことを明瞭に感じ評価もするのだと感じます。
 では又かきてのつかまったとき細かく。
 これはいい紙で心もちがよいことね。かぜを召さぬように。
  二十四日

 二月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 二十日の御手紙にすっかり返事を書切らない内に二十五日の拝見しました。十三日が腹ペコの絶頂とは何と云うことでしたろう。想像力に限りがあると云うことは、後で事実を知ると痛切に感じます。何んにもお芽出度いことばかりその日に限って考えていると云うのではないけれども、まさかにそう云うことは思いもつきませんでした。それでも方法がついて何よりです。こちらはお医者の証明でパンを半斤もらい、それと引換えにお米がへっています。そちらより早くこちらが無くなると云うことはマア当然でしょう。果物、野菜についてもそうでしたから。パンに付ける何かのジャムがあるでしょうか。私は随分高いリンゴジャムか何かを買った覚えがあるけれども。全くこの頃はお腹をたっぷりさせることが一仕事ね。うちでは二分づきの米に大根や蕪をきざんで入れて、東北の貧しい農夫と同じような御飯を食べます。それでも家は良い方でしょう。したがって女の人の衛生学の知識はますます必要で、快適に生活するどころか、生存を最大の可能で保ってゆくために緊急事だと云うことになって来ています。私はその点乙位のところよ。なかなか知っているのよ。去年体中小豆のなかに落ちたようになった時も、これは危いと思って血液の酸化を少しでもふせごうと飲めるだけ塩水をのんだけれど結局、口から飲める濃さの塩水なんかでは中和出来ないわけでした。今のような条件のなかでは、至る処で度外れなことが始るから、衛生の知識もその応用も全くダイナミックでなければなりません。例えばね、うちの健啖之助は、哀れなことに近頃の牛乳が半分水なもので倍ものんだと云うことが判りました。こんな始末です。
 隆治さんからハガキが来たことは申上げた通り。早速『マライ語会話』(軍用)と有光社の『マライの歴史・自然・文化』という本を注文しました。来たらば他にのんびりと慰めになるものと一緒に送りましょう。兵タンらしいわね。
 富雄さんの友達が一ヵ月ほど帰って来て、又行くにつき、何か変った物を持たせてやりたいと、色々物色して歩いてもらいましたが、布ではった煙草入れと云うものさえ無くて、途方にくれ、昔から私が持っていた浮世絵の本から北斎の「冨士」と、歌麿の少女がラッパを吹いているあどけない傑作とを切って、経師屋でふちどりをさせ、壁にはれるようにして送りました。もう何年もあちらにいれば、浴衣の紺と白とがなつかしいように、日本の色調が気持よいだろうと思って。今にまた何か考えて隆治さんにも送りたいと思います。でもあの人は食物をはこんでみなの為に島からしまへと動いているのではないでしょうか。そう云う間にも一寸出してみれば気も慰むと云うものは何でしょう。今の処、知慧はまだ出ません。締切りなしの執筆と云うこと。この頃のような時間の使いかたを私は命がけで吾が物にしているのだから、底のそこまで味い、役に立て、自分の成長をとげなければならないと思っています。これ迄も小説は一日七枚以上書けたことがなく、一夜で書きとばすと云う芸当はやったことが有りませんでした。然し、矢張り時間にはせかれていて、書く迄のこねかたが不充分だったり、書きつつある間の集注が妨げられたりしたことはあったと思います。この数年、それ迄は知らなかった時間的な緊張のなかに置かれて(心理的にも)今、こうやって体のために仕事を中絶までしていると云うことは、決して単なるめぐりあわせではありません。
 スエコが目下開催中の明治名作展を見て来て、其処にあるものは、絵にしろ、彫刻にしろ、この頃出来のものとはまるで違って、観ても見あきず、時間をかけてみればみる程値うちが迫って来ると云う話をきき、初めて自分の外出出来ないことや、物のみられないことが口惜しく思えました。そこの事よ、ね。その奥行きとこくとは何から出るでしょう。作者が自身のテーマに全幅の力を傾け尽し、何処にもはしょらずテーマの要求する時間の一杯を余さず注ぎこんでいるからこそで、一寸した絵ハガキを見ても当時の人がテーマと題材に就てどんなに真面目に考えて居たか、一つも思いつきではなくて追求の結果であると云うことを明瞭に感じます。スエコが日参するねうちがあると云ったが、それは本当でしょう。性根に水を浴せられる処があるに違いない。二十八日で終ってしまいました。
 絵描きでも作家でも注文としめ切りがなくて、チャンチャン毎日何かを造り出してゆくようになれば、恐るべきです。名作展をみても今日の大家の初期の作品が良くて、現在どんなに芸術家としては生き恥をさらしているかと云うことを感じさせるものが少くなかった由、人間が一人前になる迄には実際、水をくぐり、火をくぐりですね。
 昨日、私はアアチャンにつかまって二三丁の処を出初め致しました。みんなが梯子がなくってお気の毒とからかいました。足どりはノロノロながら確実ですが、道路や家や、人のかおの反射がひどくて、どうも色目鏡がいりそうです。早速、衛生学を振りまわし、午後四時過ぎ、通る処は日陰になってから出かけましたが。もう一つ可笑しいことがあります。一週間ほど背中の肝臓の裏の処が筋肉的に痛くて、フトもと肝臓をやったときのことを思い起し、だいぶえらいめに合わせたから、と神経をたてていたところ、今夜、例によってみんなの御飯をつけてやろうとしていたら、その時、椅子の上で体をねじり丁度其処の処がねじれるのが判りました。体が弱い時には何と云う小さいことがおかしな結果を起すのでしょう。スエコさんと場所を代り、それで私の肝臓病も病源をあきらかにしたと云うわけです。ずっと私は其処に坐って、アッコオバチャンらしく、例えまざった御飯にしろ美味しいようにみんなによそってやっていたのよ。私は御飯をよそうのが好きなの。お風呂の火をたくことも。
 今日あたりは空気もやわらいで、もうこの調子でしょう。お金、とりあえずちょんびり送り、明日少しまとめてお送りします。薬、まだよいでしょうか。又少しためてお送りしておいた方が安全ね。

 三月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 都鳥英喜筆「戦傷士の俤」の絵はがき)〕

『衛生学』はもう十一月頃出版されていてそれを只今本屋に注文中です。教材社からは二月中旬にお金を返してきました。第一書房の方はおっしゃるとおりに申してやりましょう。手紙の方へ落したので追加の返事いたします。これも名作展に出ていた一つ。近頃のガタガタの画になれた眼でみると日本人が描いたものかと驚く位です。気候がゆるみましたがお風邪は大丈夫ですか。今年はいつもと違って最近のうちに敷布団の取り変えなどはしておいた方がよさそうです、そのお心づもり下さい。

 三月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 川村清雄筆「画室」の絵はがき)〕

 三月九日(2)
 この画家の大きな絵が食堂にかかっていて、もし爆風をくらえば額の重さとガラスの破片だけで子供の一人や二人は結構片附くから危いことのないうちに処分しようと言っています。もう暫らくすると自分で書けるようになるから、そしたらこの三つのお手紙にたまっている家事的な御返事を致しましょう。かなり細かく知っていただきたいこともありますから。平ったく押してくる火事で、こげはしないが天から直通ではどこへ飛ぶかわからないから、百合子飛散の後でも現実の用事だけは残りますからね。島田行きのこと、私も行きたいけれども秋以後のことと考えて置いた方がよさそうでまだ充分丈夫でないことの他もっと理由がありますが、それは何(いず)れ手紙で書きます。わけはお母さんにも申せばすぐおわかりで私の考えに御賛成下さることです。

 三月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書 書留)〕

 十三日
 十二日づけのお手紙をありがとう。
 体の工合は大分ましになりました。まだ疲れがのこっているけれども。床はしいてありますが、夕飯などは下へ行って皆とたべて居ります。この間一寸歩いたというようなことは直接さわってはいず、寧ろ、この間うちから、何しろ未曾有の春ですから、あれこれと頭をひねって心労もしたりしたのが幾分こたえたのでしょう。何しろあんまり馴れていないことですから。それこれも順調にはかどったから安心で、もうのんきになれます。自分だけのことで、あせったりはしないのよ、何を早くどうしようなどという点では御心配無用です。
 きょうは、一寸代筆では困ることだけ、こんならんぼうな手さぐり字で申上げます。
 あちらへ行くことは御親切もわかり、いいこともわかりますが、私としては空からの不安のなくなった(大体)季節でないと困ります。そのわけは、徳山、光は全く特殊な性質の都市ですから、そういうことになれば直ちに戒厳状態に入ります。今でさえも半分はそうで、親の御機嫌伺いにゆくのにもう次の日はオートバイで室積からわざわざ来てスケジュールをきいて何日にどこへ行くかという次第です。達ちゃんの御祝儀で何とかいう町の料亭へ行ったときは、制服のひとが敬意を表するために来てくれて、別室へあがって面会をしなければなりませんでした。何時にどのバスでどこへ誰と行ったということ迄一々で大した名士なのよ。だから私はいつも全くうんざりです。土地の風で女が昼間散歩するということはないからとお母さんも気をおつかいになるから、あちらにいるときは殆どお墓へ行ったりするだけです。
 丈夫な時ならだけれども、今のようなとき、私はそういう名士は実に願い下げですし、東京では、ともかく命がけの形で、身元もわかった人間になっているのに、あちらでは文化関係もその他のことも見境なしで、あわてた時には、何はともあれ落度なからんこと専一で、どんな待遇になるか、それこそ見とおし不可能です。憲兵の方と二つが錯交して、そこいらのことも甚だ微妙です。これ迄余りはっきりはかきませんでしたが、あちらへ行ったときは、いつもそれが苦痛でした。今度のような時期にはいやだ位ですまないと閉口だから、伺うにしろ冬になって少くとも、現在のように益□緊張に向う時はさけるつもりです。
 おかあさんも、私たちのことだけお思召しなるときには、そのことをつい念頭からはなしていらっしゃるけれど、あすこにいれば随分度々困った顔もなさらなければならず、私が外へ出ることを不安にもお感じになります。もう二三日したらこういうことをはっきり申上げ、私がこれからあちらにゆくのは大体春夏から秋まではさけるよう申上げておきましょう。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:430 KB

担当:undef