獄中への手紙
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著者名:宮本百合子 

その両面からの関係のなかにその本が評価されたらうれしいと思います。このことはつまりいつでもどれについても云われるのでしょうが。
 二十七日のお手紙でしぼんだ風船になったことやこのお手紙にこめられているものいろいろ自分の心として考えてみて、自分の仕事に対する心持というものの機微を考えます、極めて高いごくリアリスティックな規準からの批評というものが、そのときの現実のなかで一つの本なら一つの本のもっているプラスの意味をそれとして見てゆくものだということは自明だけれども、著者としてその標準で自分の仕事を自分からみているということは、やはり優秀な著者の少数にしか期待されないことなのかしら、と考えるのです。一般に立っての美点というとき、一般と極めて高くリアルな標準というものとの間にどんなひらきがあるのでしょう――つまり、一人の著者が、一般に立って云えば云々と美点をかぞえて貰うことで、いささかは心なぐさむというようでは、と思うのです。自分としての標準が確立していてしかるべきですから。その標準でいつも云って、いつも云うことはその標準でのことという自信があって、それ以下の比較は語るに足りない自明なことというわけであっていいのだと思うから。
 でも、これは、私が必しも自分として自分の仕事の水準を持っていないということではないと思うの、私たちの話し合う場合の心持として。きっと私はいくらかそんなとき女房じみた心なのね、あなたの気に入ったものを見せてあげたいと主観的に思いこんでいるその心持によりすぎていて、しぼんだりふくれたり様々の芸当を演じるのね、そのとき、おユリ少しもさわがず、と謡曲の文句のようにはどうも参りません、呉々もあしからず。あなたが、我々はよくばりだからね、と仰云ったのはその間のことにもふれていて本当です。
 二十七日のお手紙で、私の手紙の順のことおききになっているけれど、十一日第三、十三日の第四、十九日の第五となっているのよ。十三日のはよんでいらっしゃるのよ。一月十六日づけのお手紙に、十三日の手紙きのう見たということがあり、十三日のその手紙というのはボンボンのうれしかったこと書いてあったのに。それはよかったと書いて下すってあるのに。可哀想なこと! ボムでボンボンなんかけし飛んだわけだったのでしょうか、何て可笑しいでしょう、あなたの雷相当なのねえ。何て愉快でしょう。
 ボムと云えば、この間建築家のクラブでドイツの宣伝映画を見ました。ああいう猛烈な破壊の画面の連続だとさすがに見る人々のかえるときの顔がちがいますね。暴力というものの凶悪さが心にしみるのね、やっぱり。一種の侮辱を蒙っている感もあるのでしょう。威カクだもの。
 二十九日には、かえりに講談社へよりました。あすこは事務所の設計です。はじめて入ってみて、何だか余り建物と内容とがちぐはぐで妙でした。建物は堂々としていて端正で正統的なんですもの。その中にいるのが講談社でねえ。ここが出来たとき父が挨拶させられて、建物がこんなに合理的に出来たからどうか内容もそれにふさわしく発展するようにと云ったと云って笑っていたことがありました。『キング』には思い出があるのよ、ずーっと昔短篇をたのまれたことがありました。やさしく、やさしくと。私は随分やさしくかいたのだけれどことわられて以来縁なし。やっぱりこれは純文学ですからという意味で返却されました。何でも鎌倉のホテルの何かをかいたと思います。地図はね、行ったら無いというの。だって私がきのう、と談判してやっと出して来ました。無いことになって居りますと云っていました、どういうわけなのか。だから小売屋の小僧が行ったってないわけね。『女性の言葉』と一緒にお送りいたしました。ついでに十六年版の日露年鑑の内容見本も。
 三十日(昨日)はいい天気で、私は朝のうちケーテを(二十二枚)書き終って、『進路』を島田へお送りしたりしてそれから青山へ出かけました。花がどっさりあって、賑やかな様子でした。しかしいつもここへ来てつまらないのは、何しろここは中條家の墓ですからね。戸棚です。ちっとも父のパーソナリティも母の気分もない。ですから来るたびに索然として、来ないでもよかった気になるの。太郎と寿江が来るのを永い間待っていました。しーんと日がよく当って暖いところに花の匂りがかすかに漂っていて、スウィートピイやバラのところに早いこと、もう蜂がかぎつけて来て働いています、それを眺めています。それは何だか父らしい活気とも思える。その勤勉な蜂は。
 やがて二人来て、太郎もおじぎして、そこへ大瀧の基夫妻が来て、つれ立ってかえる(林町)のに、地下鉄で尾張町へ出て、そこからバスで団子坂上まで。長いのよ迚も。私と寿江子の対立するのは、いつも市電を私がいいと云い寿江子はバスがいいということから。バスちっともいいことないわ、第一木炭ガスがどんなに体にわるいか。太郎すっかり眠って大観音のところでおこしました。二重(ふたえ)になっておとなしく腰かけて眠ってしまうの、大変可愛い様子です。
 四月になったらあなたも太郎に短いお手紙下さい、何しろ小学一年生になりますから。あなたが行った小学校は山の上にあって海が見えたと書いてやってね、どんなに珍しく思うでしょう。
 三時から式で神主が来て、それから築地の延寿春という北京料理でお客しました。
 花のこと云っていたのに到頭私は花を買いませんでした。だって、何だか、はいこれはお父様私たちの花よと云っておく場所がないのだもの、心の中にしか。形式充満で。札のついた花なんかいっぱいで。私たち三人のことを考えると、国府津の暖炉の前の夜の光景や林町の食堂のことが浮ぶでしょう? 結局式の日の花なんかいらないと思ってしまうの。私たちや寿江子の記念のしかたは又おのずから別なものでもあるのですし。机の上に美しい一輪の花と写真でもおいて、そらね、見ていらっしゃい、やっぱり私たちよく勉強しているでしょう? そういう方がふさわしいわ、ねえ。その写真もスナップのごく日常的なのがいいわ。すべての親愛さは日常の活動のなかに在ったのだもの、その表現はやっぱり何か日常的な特徴をもっていなくては。来年からは、私たち流のをやりましょう。特別何年祭とかいうのでなければ、それで結構よ。夜だって、父の話なんか一人もしやしない、隣組のことだの配給のことだの。しかしそれは私は面白いと思いました、作家の心として。人間が、どんなに生活の現実の刻々に切実かということが感じられて。
 うどん粉がありませんから、料理でうすいうどんこからこしらえた皮を出すところをパンにしてあったりして。今もしお父様やお母様がいらしたらどんなに困っていらしたかしれないと国男が云い出して、皆笑って、そしてそのパン的御馳走をたべている。一つの光景でしょう?
 きょうはなかなか寒く、いかにも寒中らしい空気です、上り屋敷の駅に立っていたら、秩父連山が青くむこうに見えました。この部屋は殆ど大抵火鉢なしです、日がよくさすから。でもきょうは机の板がつめたく感じられます。手袋ホコホコでよかったこと、あれは傑作のうちね、もうあんな柔かい可愛いのはないわ。大事にして、又来年寒中だけつかいましょう、前後はすこしわるいので辛棒して。きょうは、いかにも寛闊な、インバネスの翼が肩の上にあるような気分です。そうでしょう?

 二月五日ひる 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月二日
 三十日にかいて下すったというお手紙、まだつきません。どうしたのでしょうね。
 きのうは、あれから小川町にまわって高山から本をとって、伊東やへ行って子供たちへのおみやげ買って、それから小田急にのろうとしたらまず栄さんがモックリモックリ段をのぼってゆくのを見つけ、やアとインバネスがふりかえったらそれは繁治さんでした。まアねったよう、というのは、北海道のおっかさんでした。それに豪徳寺でおりたら健造とター坊が、父ちゃん来られないんだってと来ていて、珍しい一隊をなしてくりこみました。
 大きい紅茶の一組になったオママゴトを卯女に買って行ってやったものだから、そのよろこびよう! 康子にはクルクルまわる輪車に、お人形、栄さんは下駄よ。実に大笑いして子供たちのさわぎを見物しました。一ヵ月ちがいの二人の娘たちよ、三つの。全く面白い。ふた子ってやっぱりこんなに面白いのでしょうね。卯女は何でもアクティヴです、康子リードされている、それできっとずっと仲よしでしょう。
 きょうは一日ゆっくりうちにいて、中公の本の序文のかき直ししたり小説をこねたり。いい日曜よ。
 本の目次はざっと次のようです。
 一 藪の鶯(明治二十年代(一八八七年―)の社会と婦人の文化)
 二 清風徐ろに吹き来つて(樋口一葉)
 三 短い翼(明治三十年代(一八九七)と明星)
 四 入り乱れた羽搏き(明治四十年代(一九〇七)青鞜)
 五 分流(明治末(一九一二)『白樺』前後)
 六 この岸辺には(大正初期(一九一八)新興の文学)
 七 渦潮  同
 八 ひろい飛沫(昭和初頭(一九二七)新世代の動き)
 九 あわせ鏡 (同)平林たい子の現実の見かたのアナーキスティックなものの批評。
 十 転轍(昭和十二年(一九三七)現代文学の転換期)
 十一 人間の像(同)(岡本かの子)
 十二 しかし明日へ
 このような工合です、そして樋口一葉のところはすっかり書き直したから、同じ題で『明日への精神』の中(人の姿)に入っているのとは全くちがいます、枚数の正確なところは不明です、整理してとってしまったところもあるし又こまかく一杯かきこんだところもありして。本文だけ三百枚ほどでしょうね。以内でしょう。それに年表が六十頁ほどついて。これは独特な本になります。個性的に、というよりも歴史的に。対象の扱いかたで。(ああそうそう、広告はおやめ、おやめ!)題もひろい豊富な示唆にとんだものを見つけたいことね。小題はそれぞれふさわしいと思いますけれど。
 二月四日。どうもいい題が思い浮びません。しきりとこねているのに。こんなのを不図思いついたのですがどうかしら。「波瀾ある星霜」――明治大正昭和の婦人の生活とその文学。という傍題をつけて。
 きょうは中川一政へ表紙のことたのむ手紙をかきます。こういう本ですから表紙は柔かみのある白で、表紙の見かえしのところに何かこっくりした画があったら、しゃれているでしょうと思って。
 ああこっちの方がいい。「波瀾ある世代」、ね。こっちの方が動いていて。星霜というのはやや古いし固定していて、人間が主でなくて時間が主になっていてよくありません。「波瀾ある世代」これはいいわ、きめていいでしょう?
 三日のお手紙頂きました。三十日のはいよいよ不着です。どうしたのでしょう。そんなにあなたの手紙の好物なネズミってあるでしょうか。私は気にかかるのよ。もしそちらを出ていないのならそれでいいのですが。
 おかぜいかがでしょう(これは五日の朝かいているところ)今朝の雪は貧相ね。こんな貧相な雪って。まるで地面へ塩をひとつまみこぼしたようでした。大丈夫? しゃんと雨がふればいいのにねえ。そしたらかぜのためにいいのに。
 三省堂の辞典のことはきのうお話ししたとおり。支払表その他謄写料というのは重複した部分だったのでしょうか、お会いして伺ってから。又、ピントがちがったのをゴタゴタ書くといけないから。
 私のかぜは追々にましです。この間うち顔がすっかりあれて、ピシピシと顔の皮がむけて、夜などかゆくてこまりました。もうそれも大丈夫。ヴィタミン半年はあなたらしいと笑えました。そんなに私の方はヴィタミンを気にしないでもいいでしょう、そちらよりは食物からとれますから、まだ。しかし来月からお米は配給で、本当に寿江子だって袋へお米いれて来なくてはならないわ、もしうちでたべたいなら。一人分一日三度お米は食べられないのです。これ迄日本人は米をたべすぎて胃カク張になったり脚気になったり頭脳鈍重になったりしていたという人もあるけれど、それはほかにもっと優良な食物があっての上の話でね。パンにチーズをつけてたべられる人々の生活からの話です。お魚のひどさ話のほか。菓子屋のガラス棚は全くカラで、この頃は菓子の中村屋で佃煮とのりを売って居ります。千円札が出るというような巷の噂が新聞に出ていましたが、それはおやめになったそうです。
 ヴィタミンのほかの利く薬は、この頃服用法が段々のみこめて来て、オヴラートのつつみかたうまくなり気のもめることがへりました。ですからきっと益□効果は良好でしょうと思います。
「花の叫び」の詩話。あったかくてよく合った手袋の童話。どれもやっぱり面白いことね。
 文学における大陸性のこと、又チャイコフスキーのこと。これについて云われていることをくりかえしよみ、こういう問題にふれてかく場合には、いつもその一つ一つの文章に必ず土台となる理解のキイは示しておかなければならないものであるということを学びました。ほかの文章で土台の性質について云っているからと云って、それぞれのものの中でオミットして、それを前提のわかり切ったこととして云うことは、やはり一箇の文章としては間違いであるということがわかりました。その課題を、全体として、あの範囲でみているのではないのですから、いかに何でも。文化に冠する固有名詞のこともその通りです。表現の正確さ。このことのうちにどれだけの内容がこめられていることでしょう。そして、狭い作家気質でいう表現の正確さというものが、どんなにその一面に不正確なまま平気でいる悪習をもっているでしょう。表現の正確さ、というようなことに無限の含蓄のあるのは、実に実に面白い。今年はそういう意味で作品も評論も勉強したいと思います。ふっくりとして滋味たっぷりでそして正確でなければなりません。チャイコフスキーのことは、あれだって私のかいた気持は、ゴーゴリが「黄金の仔牛」と発展して来ている、そこにある質の相異のようなものとして、音楽における日本的要素がみられなければなるまいというわけだったのよ。いつも雅楽のメロディーを一寸かりてさしはさんでお座をにごしていてはすまないというわけだったのだけれども。余り間接にしか表現出来ず曖昧になるのですね。逆に、そうだから曖昧でもしかたがないということは全然成り立たないわけであることはよくわかっているつもりです。今年は、いろいろそういう点を特に心がけて勉強しましょう。余り余り忙しいということをないようにして。幸か不幸かそういう傾があらわれても居りますから。概して去年のような忙しさはないでしょう。内部からのテムポで、次々とたゆまず仕事してゆけたらうれしいと思います、本当に去年は忙しすぎました。
 今月は短い小説を二つ書くのですが、それで忙しくないとも云えないわねえ。
 小説をかく心の内の工合と、評論とは同じようでもあるけれど又何とちがうところがあるでしょう。二つの仕事のむずかしさと苦痛とは、一つの状態から他の一つの状態に移るとき、うつりかたの心理的過程です。これは本当にむずかしくて、或る苦痛が伴っているのね。だから大抵一方にしてしまうのね。小説をかいてゆく心のままで書いてゆけてそれがしゃんとした評論であるということは可能なことなのかしら、どうかしら。それを理想として一致させ得るものなのかしら。させられそうであり、させられそうでなくもあり。いずれにしろ、非常に豊富でつよいメンタルな力がいるのだと思います。小説そのものが質を変化させて来ていることで、一致の可能は増大していることは現に自分について云えるのでしょうけれどね。私の評論に何かの価値の独特さがあるとすれば、それは小説をかく人間が書く生活性であるということ、そしてその生活性の質によって結果されるアクティヴィティであるということだと思いますが、そう批評する人は少いわ。そこにもやはり文学における小説と評論についての考えの旧い型があるわけです。では明後日、ね、かぜをお大切に。

 二月八日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月六日  第九信
 五日づけのお手紙をありがとう。それにつけても気になるのは行方不明の三十日づけです。本当にどこにどうなったのでしょう。
 今夕方の六時半。外からかえって来たばかり。『朝日』に生活科学の座談会(対談会)があって、私は職業と性能のことをききました。午後じゅうかかって。五時すぎのラッシュにもまれてかえって来て、これから夕飯です、その仕度の出来る迄これを書こうと思って。つまりタダイマーッとかえって来て先ず、ひどいこみようねえからはじまる家庭雑談の字にしたものよ。きょうは余り風がきつくて埃ひどくて顔がパリパリになりました。有楽町の駅からおりて、朝日へ出るまで日劇の横の谷間の風! 有楽町の駅は今とりひろげかけていますが、全く今のままではお話になりません、それにこの頃はどの駅でも針金だのナワだので仕切りがしてあるのよ、余りこんでフォームからこぼれたり左右の側がまぜこぜになったりするものだから。そういう殺風景な駅のフォームにオフィスがえりの娘さんたちに交って立っていると、目の前の東日会館の屋根で朝日ニュース。ナマムギ町から発火して忽ち漁師町をヒトナメにして百三十軒全焼、と電光ニュースが話してゆきます。生麦と云えばこの間まで野沢富美子の居たところです、その一家はどこかに家を建てたそうです、その家はやけなかったのかしら。火災ホケンなどということをあの酒のみのおとっちゃんは考えているかしらなどと、考えました。ものをまるきり持たなかったひとが、持たない苦労から持つ苦労に変ったとき、どんな気がするでしょうねえ。そんな風に変って行って、しかし野沢富美子の心の飢えはどうみたされているのでしょうね。あの娘の本の中(「長女」)に「根っからの不良少女でないかぎり結局は親の云うことにしたがわなければならない」(それは売られてゆくことよ)という文句があってそれも忘れられません。「根っからの不良少女でない限り」とそういう正当な抵抗が対比されているところに、ああいう環境の深い浪曲性があるとも思われます。その痛ましさを彼女たちのために感じている批評はありません。
 茶の間のタンスを本棚におきかえる話ね、まだ実現しないのよ。ひどいでしょう? 暮のギリギリ迄私忙しくて布地を寿江子に買わしたら一枚分しか買わず。やっときょうまわったらそれは売れ切れてしまっているの。寿江子たちどうして時々ああして変に上の空なのでしょう。まるで気取って歩くために行って来るみたいに用事の中心をいいかげんに忘れて。若い女の上の空性、実に私はきらいよ。何とかちょいと鼻を鳴らすとその場はごまかして。何だかズルリとしている。その不気味さ。そしてこれはきっと勤労生活をしない娘にひどいのだと思います。(ここであなたは苦笑なさりそうね。私は、そうひがむのよ。ハハム、上には上があると見えるね、と。そうでしょう? ちがうかしら)頭の機敏なこととそういうところでキッチリしていないこととは一致しないようなところ。自分の興味と結びついたことについては正確機敏なところ。一つの近代娘のタイプですね。否定的な。
 七日の朝、あらアやっと来た! というお恭ちゃんの叫びとともに三十日づけのお手紙着。よかったこと。ネズミがたべたのでなくて。きょうもしずかな暖い日でした。あれから銀座へ一寸まわって、子供たちへおみやげ買って、永福寺の近くへ行きましたが、町の様子がすっかり変ってしまっていてびっくり。
 表紙のこと、大体こちらの希望をつたえました。装幀にはこまることね。あの本のは、青楓にして貰おうかと思ったりしていたけれど、あの還暦の会の日の青楓を見てやはりいやになってしまったし。私に合うようにするのが一番いいから、ということでした。そうならいいけれど。
 その行きに、朝日へよっておっしゃったグラフききました。去年十月ごろの出版でしたってねえ。つい気がつかなくて。もうすっかり切れて居ります由。もう十日ほどすると出版局の人がかえります(大阪)から、そしたらきいて見て無理をたのみましょう。その人は杉村という人。
 さて、三十日のお手紙、こまごまとありがとう。ああこれはミューズお揃い物語のあとにかかれたものだったのね。年鑑のこと、わかりました。本の質量についてのこと。一冊一冊ごとにそうでなくてはならないことだと思います。そのつもりで勉強しなくてはね。有光社のへは、「道づれ」その他は他の理由で、そのほかは大していれたくないし、ユリがとてもとてもと云っているが云々とおっしゃっていたの(前に)は、「海流」ではなくて「道づれ」なのよ。「鏡餅」は一九三三年十二月末ごろの題材を正月にかいた作品です。まあ入れれば「心の河」「白い蚊帳」ぐらいね。「高台寺」も、もうすこし深く見てかいてあるといい作品だけれど、あの時分にはあれだけだったのね、その甘さがやりきれません、舞妓が出ていて、それは面白いのにそれをよくつっこんでないからダメね。
「海流」しかし今になると、作者は、もっともっとあの題材をリアルにしてかいておきたいと思う心がつようございます。伸子の発展であるが、発表する関係から、宏子が女学生でそのために一般化され単純化されている面が非常に多いのです。心理の複雑さ、人生的なもののボリュームの大さ、それは、やはり「伸子」以後の、「一本の花」をうけつぐ(間に「広場」、「おもかげ」の入る)ものとして描かれてこそ、本当に面白い作品です。歴史の雄大さのこもったものです、書いておきたいわね。それは作家としての義務であるとも思います。必ずいつか時があるでしょう。
 お使いに行って云々のところ、そうね。このことの心理は、瑛子のつくりだした雰囲気の微妙な影響があるのね。感受性のつよい敏感な早熟な女の子が、母であり又同性であるという錯綜した刺戟を蒙ってゆく過程ね。この一部の題材について云ってもやはり描かれ足りていません。もっともっと立体的なのだから、少女の心理の要素は。学校のつまらなさ、その他も。文房堂で原稿紙を買って、亢奮した心持で街をフラフラ歩いたりした心持。こういう部分を非常に高い調子で描ければ、それとして興味ふかい作品でしょう。そこにやはり時代があります。その頃そうやってフラついたって、食べるものの店へ入るなどということは思いもかけない一般であったし、ましてシネマへ入るなどということはなかった、そういう一般で、そういう少女の苦悩が(みたされない知識慾や情感や)それなり文学へ読書へ方向づけられて行き得たこと。やはり今日には期待出来ないかもしれませんね。こんなに書いていたら、大変その少女が書きたくなりました。あの憤懣と大人の常識への不快さが甦って来るようで。
「今日の読者の性格」の終りは、きっともう枚数ギリギリで苦しまぎれに圧縮してしまったのね、あれは新聞のものでした。どうもありがとう。本当に隈なくよんで下すって。よく、ユリが「だ」で文章を区切るのを気になすったことを思いおこします、まるをつけられたわねえ。
 どこまでも自分の文章という文章で書きたいものだと思います。文学的な香気もつけたものでなくね、おのずから馥郁(ふくいく)たるものでありたいと思います、詩情というものが、人間の深い理性の響から輝きかえって来るものであること、やさしさは見とおしの遙かさ壮大さから映って来るものであることを語った文章論は、まだ誰もかいて居りません。文章の美の要素の一つにはまぎれもなくそれが在りますけれど。
 これから五日づけへの御返事。先ず小包到着して居ります。もってかえる手袋のことわかりました。雪もあれっきりではね、却ってふくれるようなものです。あの大名の夫人のこと覚えていらしたのね、びっくりしました。あれについていつか云っていらしたように悲劇の性格がちゃんとつかまれなければつまらないから、今にポツポツよんで見ましょう、しかしね、私は天邪鬼(あまのじゃく)だから、この頃のようにいろんな人が何ぞというと歴史的題材へかくれんぼするのがはやりになると、不十分にしかかけなくても「紙の小旗」を書きたくなるのよ。批評の基準のこと。ここにはこまごまとその説明の展開そのものが既に暖かな説得力をもって語られていて、うれしいと思います。インドの例よくわかります。此とゆきちがいになった私の手紙の中で、私が、プラスの意義の場合、マイナスに悪用されている場合の現実について盲目でないことは分って下されたでしょう? 猿だと表現しないようにするうちに、曖昧になってしまうのね。「どっちが地だか分らない」というような冗談に私が野暮くさくこだわるのはね、私として、やはり不安があるからよ。ユリはちゃんと天の与えたおへそをもっているのだけれど、余り着物でしめつけられて、もしやあなたがユリも河童のようにへそをなくしたかとお思いになるのじゃないかと、それが不安であるからよ。河童が日本文学に登場する意味について芥川と火野とを比べて、私は何しろ「日本の河童」という文章をかいているのですから。でも全くおへそ御用心だわ。
 あなたはうどんのことなんかは私にお話しにならないのね。勿論こんな小さい紙にそんな話までは入りきれないのですけれど。
 十三日には、きょうお話したように三人でお米もって十二日の午後あたりから国府津へ出かけ、十四日ももしかしたら泊ろうかと考え中です。考え中というのはね、『婦人朝日』へ小説をかくのが十日迄に出来そうもないの、十一日か二日になるかもしれないのよ。そうすると十二日には出かけられませんし、雨のふる中傘さして小狸三匹ヨーチヨーチでは可哀想だし。雨中のミューズというほどでもないし。未定です。天気がよくて、仕事まとまりがついたら、そういうお客から絶対に保障された二日はたのしみです。又数百頁むさぼれますし。夏から誰も行きません。さぞひどい塵でしょう。あすこには父が私のために買ってくれた机があるのよ。父の植えたバラもあります。丁度あの門からの道がつき当って左へ玄関にかかる右側の花壇に。
 風邪大したことがおありにならなくて本当に大成功でした。

 二月十日朝 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月八日  第十信
 きょうは私は大変ぜいたくをして居ります。火鉢に火を入れたの! 素晴らしいでしょう。そしてその火の上には鉄瓶がのっていて、しずかにたのしい湯の音を立てて居ります。鉄瓶のわく音は気をしずめます。お茶なんか、先ずすべての手順が、(湯が釜でわく音をきくに至る)気を落付けるために出来ているのね。このお湯のわいている音は一つの活々した伴奏で、私の空想は段々ほぐれて、いろいろの情景をわき立たせて、そこに峯子という若い女やとき子という一種の女や小関紀子という女のひとやらの姿を(ママ)浮き立って来ている最中です。大変面白いのよ。その女のひとたちはみんな現代の生活を其々に反映しているタイプです。春代というまだまるで無邪気な女の子もいます。この娘は、この寒いのにカラ脛でいるのよ。ピチピチした娘さんです。この頃私には、高等小学だけ出て働いている若い娘さんよくわかるようになりました。女学校卒業、それ以上の、皆職業婦人でもタイプがちがうわ。電車にのってもよくわかるようになりました。小学校の女教師というものの文化の内容の大略も。二十枚ほどの間にこれらの若い女たちはどんな生活を示すでしょう。ああふっと思いついた。この二十枚と、あとからかく二十枚ほど、続篇として構成したら(人々の名なんかみんな一致させて)一つの本となるときすこしまとまって面白いでしょうね。これも万更すてた知慧にあらず。
 今、時間は充実して、それ故きめこまやかに重く平らにすぎていて何といい心持でしょう。評論をかくたのしさ、それは丁度しこった肩をもんでそこから筋にふれてゆくような感覚。小説をこうやって考えているたのしさ。いろんな人々の顔、感情、動き、景色。そこにある生活の熱気。声。脚の恰好。ネクタイ。いろいろいろいろ。しまりかかった省線へいそいでのりこもうとして、すぐそのドアによっぱらいの顔が見えたのでスラリとそこをよけて次の車にとび込む娘の、都会生活の中での神経の素ばしっこさ。(自分の経験。それが転身してゆくその面白さ)そういう女の神経。いろいろいろいろ。ね。
 こんな小さい作品でも、私は本気なの。長いもののためのウォーミングアップとして。この前の手紙にかいたように、私の内の工合は、全く小説のために適合した流れかたにならなければ、長い小説なんてかけませんから。そして、長い小説も私はうちで書くということを実現したいから。寧ろ一寸そこからはなれて新しく展開させるその気分のために、ちょいちょいしたピクニックを使おうとして。
 小説をかいているとき私は喋りたくないの。何をかいているときでもそうですが、だまって、内部が生々して、黙っていることのたのしさがわかってくれるものがうちにいるといいけれど。多賀ちゃんも初めは何だか顔が変るからとっつきにくかったって。私はそういうとき本当に美人だのに。顔みるなり雑談するというような気分になれ切っていて、さもないとむずかしいと感じるのね。黙っている顔に漂っているものはとらえられないから。ましてお恭においてをや。この意味で、細君は旦那さんが留守で温泉ででも仕事しているという方が気らくなのかもしれないわね。
 火鉢の炭をつぎ足していて、あら、とおどろきました。どうして十日にそちらへ行かないなんて法があるでしょう。十日の晩に、あなたは新聞をまるめ、こうやって火をおこすの知ってるかい? とおっしゃったのだわ。どうして十日に、うちにいる法があるでしょう!
 つづきは九日の夜。
 そして、面白いわねえ。ブッテルブロードのときは、あんなにはっきりしていたユリが、火起しのときは、まるで子供らしくなっていて、困ったとわかる迄困ったの、つい忘れていたりしたこと。何と笑えて、たのしいでしょう。このことの中には大した大した宝がひそんでいたわけだったのだと思います。だって、もし非常に親密な、非常に全体的な信頼で心がいっぱいになっているのでなければ、そんなことは寧ろおこらなかったのですものね。そういう極めて全体的なゆるがないものが、自覚されるより深い本然なところに在ったことが、火起しの物語をひきおこし同時に、今日をもたらしているのですもの。天才的に更に多くのものが具体的な内容としてもたらされてはいるのだけれども。
 ああ、あなたにとっても益□面白い小説を次々と書きたいと思います。
 この間うち道々よんでいる小説は「話しかける彼等」という訳名、原名は「心は寂しい猟人」The Heart Is a Lonely Hunter というので、二十二歳のアメリカの女の作品です、なかなか面白い。一九三八年の南米の工場町での生活を描いていて、バックのこの間うちよんでいた「あるがままの貴方」などと対比すると大変面白うございます。よみ終ったらお送りして見ましょう。「あるがままの貴方」は「この心の誇り」の人を理解する限界としての輪の論ね、あすこからかかれているものです。そして何かやっぱりあの輪論が私におこさせた疑問が一層深められます。あるがままのその人を理解する、うけいれるということが一般性で云われているから。あらゆる人物間の事件が、その肯定のために配置されているから。このことは、バックにとって芸術の一つのスランプへの道を暗示するいくらかこわい徴候ですが、バックはそれを心づいているでしょうか。文学の世界の交通ももっと自由だと、たとえば『エーシア』だの『ネイション』だのに日本の一人の女の作家の批評ものって、バックはやはり満更得るところがなくもないのでしょうのにね。何と互に損をしていることでしょう。
 ケーテ・コルヴィッツの插画のことでアトリエ社の人が来ての話に、百五十人ほどの人から、十人、明治画壇の物故した記憶すべき画家をあげて貰ったのに、一人も婦人画家は名をあげられていなかったそうです。画は大変おくれているのね、その理由は何でしょう、文学は苦しんでいる若い女の心が直接ほとばしって表現し得るのに、画は従来、そういう表現としてみられている伝統がないからなのね。純文学というより以上に純粋絵画というような迷妄が空虚をこしらえて、それで婦人画家は出なかったのね。日本の女の生活と日本画と洋画のいきさつは、一つの面白い真面目なテーマです。いつか出て来る若い婦人画家たちのために、そういう点を、こまかくかいておくことも有益ですね。ホトトギスの写生文と一緒に写生が流行しはじめた時代、スケッチ帖をもったりした女学生が、婦人雑誌の口絵の画にかかれたのを見たことがありますが、その時分から成長して来た婦人画家というものは日本で誰だったのでしょうね。どんなに下手だったにしろ、中途で没したのにしろ、近代日本のはじめての婦人画家というのは誰かあった筈です。婦人画家たちがそういうことで自分たちの歴史を考えようとしないのも、やはり文学とちがうことね。日本画の婦人画家のジェネレーションの推移と洋画のそれとを対比したらどんなに面白いでしょう。なかなかすることはどっさりありますね。一生退屈しなさそうね。めでたし、めでたし。
 それからね、流感は画家たちにまでうつっているという有様ですから、私はよくヴィタミンのんで体に気をつけ、もしユリが盲腸を切ったときのような場合でも、費用がつぐのってゆけるようにということ、テムポテムポで心がけるつもりにしました。なかなかむずかしいけれど、まアその気になってね。
 実業之日本で又本が出したい由。私は竹村より、こちらをのぞみます。部数その他の円滑な点から。只、『明日への精神』とはどこかちがった、つまりどこか展開した内容の本にしたいと考えるわけです。それがどんな風にゆくかと考え中ですが。なかなか考えることどっさりあるでしょう。
 頭ってよく出来て居りますねえ。体というものが全く驚歎すべきものではあるけれど。よくよく眠って、美味しいボンボンでなぐさめてやって、散歩して、精力をたくわえてよく仕事することだと思います。かぜお大切に、呉々もね。

 二月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月十五日  第十信
 今は静かな午後二時。二階にいっぱい日がさしていて、手すりに布団が干してあります。物干に小さいカンバスの椅子を出しかけて、そこに私の上っぱりを着た寿江子が桃色の紐を上からしめて、おとなしく日向ぼっこをしながら本をよんで居ります。私は室の内で、スダレをおろしカーテンで光線を柔らげ、足元を暖かくこの手紙をかいているという、そういう光景。
 そして、広さのせまさということについて一寸面白く感じたところ。林町の庭は、ここの物干しよりそのひろさは何倍かです。でも人間の視線が直線であるというのは面白いことねえ、平地でしょう? いくらひろくたって。だから立木だの建物だのにさえぎられて、この目白の物干しへ出て眺めるようなひろびろとした空間、視野の遠近がなくて、つまらないのですって。そう云えば全くそうです。そして、ここにはそういう只の空間のひろさばかりでなく、人間の生活の光景がその風景にあってつまり生きている。(野沢富美子のところでは、こんどは人間のジャングルになっている)それで休まる、という感じ。寿江子はこの間うちすこし気を張って勉強して居りましたら、又糖が出だして夜安眠出来なくなって、又こっちへ来ました。こっちだと妙に眠れる由。日光によくふれるからかしら。とにかく二晩とも私より先にフースコよ。私は小説をかいているときは気がたつから、なかなか枕へ頭をつける、もう不覚とはゆかず。
 十三日、全く! どの位私がっかりしたでしょう! 丁度油がのっていたのに、エイとやめて、いそいで出かけたら、あの位バタつかざるを得ないわけでしょう。あなたがもしや心配なさりはしまいかと、しまいにそれが気になって、かえってから気がおちつかずすっかり番狂わせになってしまいました。おめにかかると思って八日のお手紙、十日分返事あげてないのだし。
 お恭ちゃんが、折角十三日だからと、腕力出して茶の間をかたづけて、書棚を運びタンスをどけ新しいカーテンをその本棚に吊って、お祝のサービスをしてくれました。
 私は上で仕事。仕事。夜までやりつづけて、夕飯に寿江子、あの小さい娘さん二人、私、恭、それで、たべました。こういうのも珍しい顔ぶれです。私のぐるりの最少年たちが、それぞれチョコンとした顔を並べ、スカートをふくらましてたべていて、何だかやっぱり愉快でした。二十二歳前後だから。あの絵の娘さん、買おうたって買えないもの持って来てあげた、と新聞にくるんだものもちあげているのよ。いやよ、猫の仔でも持って来たんじゃないのと云って見たら、それは鉢の真中に、一本、小(ち)いさな小さな桜草の芽がうえてあるのでした。こんなの買えないでしょう? 本当ね。それに又蕾がついているの。こんなものをくれる人がいたりしてあなたもユリは仕合わせ者だとお思いになるでしょう? それに百合という名の人が知人に二人いて、大百合はそんな百合、百合にかこまれることもあるのです。
 石板のこと、きょう申上げたとおり。それは池袋の武蔵野電車の売店にあったのよ。子供の算術遊びのいろいろの木の玉と一緒のセットで、チョークでかく黒板でした。びんの方はさがしてみましょう。うちにはなかったけれども。
 国府津は、寿江子体の工合わるく、私は仕事、その絵の娘さん風邪で。うごけずでした。いろいろパタパタ自分たちでやるのは、いくらか暖くなってからの方がいいのかもしれないことね。だって、あのガランとしたところ火であっためるのだって、いつかみたいに大きな薪をぶちこんで燃(た)くことは今出来ないのですもの。あのとき覚えていらして? 父が夕方かえって来て、オヤ火もたかないんだねといったでしょう? そんなに寒くなかったわと云ったら、それは君達は寒くないだろうけれど……と父が笑ったわね。お風呂はやっぱりボイラーで一度ずつ流すわけですから水と燃料不足のときは閉口です。この頃は原始へと逆行なのだから進化したことしか出来ないと大弱りで、最大の不便となるから滑稽ね。
 八日のお手紙。支払の内訳(!)ふー。困った。御免なさい。今日あとで書きましょう。つい忘れて。「二十年間」書名か何か一寸わからないようなのですが、これはおめにかかって。年代のこと。あの傍題つきは、本の背なんかごちゃついて余りのぞましくないという意見が出ているので未定です。それに、年代の表現についてはいろいろうるさくて、そのうるささは常識を脱して居りますから、もしかその点に特別の感じなら、ぬいてしまうのです。年代だけで口実は御免ですから。「藪」「翼」あれは、初めのは『改造』に出したのであとのは『文芸』に出したので、今度本になるについての書きおろしは一葉の部です。勿論全体に手を入れてはありますけれど。一葉はどこへも出してないのですからそのことはさしつかえますまいでしょう。きっといろいろおっしゃるような諸点あるのでしょうと思うけれど、でも全体とおしてよまれた場合、いくらかあの二つだけで想像されるよりは多くひろく深く語っているでしょうと思われます。中公に入る部分のままで高山のに入っているのよ、直そうと思って居ませんでした。「明治の三女性」はよみました。岸田俊子のことなど、あれで大分学んで、明治初年の『女学雑誌』を上野で見て得たところ補充しました。夏葉は青鞜の時代にまとめて出ました。私の願うところはね、チョロチョロと流れ出した水の流れについて我知らずゆくうちに、濤も高く響も大きい境地に読者がひきこまれてゆくというところなのよ。
 十日のには、雪が降って悦んでいることだろうとあり。あの雪はなかなか作用して、この小説は「雪の後」という題になりました。あの日の情景がいろいろと映った短篇です。峯子というのが主人公よ。小さいけれど、真面目な作品よ。なかなか愛らしいところもある、そう思っているの。正二という峯子の許婚(いいなずけ)がいます。「夜の若葉」で気がおつきになったでしょうか、順助の口調。作者は順助に好感をもっているのです。情愛というものがある男として描いています。男が女を愛すという、その偶然や自然力やそのものの支配の底に人間として情愛をもっている男、そういう男を作者は描くと、そこにどうしても響いて来る声があって、そのまざまざとした声音(こわね)があって、ああいう口調が出るのです、面白いでしょう? ひろくひろくよむ人の心の奥までその響がつたえられてゆく。面白いでしょう? そしてそこに、その人々の人生にとってもましなものとしてたくわえられてゆくのよ。正二もやや順助風な男です。そして、やっぱり或る口調をもっているのよ。「海流」ではそういう口調のデリケートなところがまだ描かれていません。重吉のそういうところ迄まだ宏子がとらえていないから。宏子のとらえたものとして描かるべきものでしたから。そうでしょう? 作品の必然として。
 ユリのいささか千鳥足の件。そうでしょうねえ。さぞそう見えるでしょうねえ。もちろん、ここに云われていることを否定する意味ではなくこんなことも思うの。よっぱらいは真直歩いていると思っているのよ、常に。そして、千鳥足なのよ。急な坂をのぼるとき、ジグザグのぼります、でもそれは千鳥足ではない。しかし、ジグザグ登りのとき登っているものの脚力が弱って来ると、本人はジグザグのぼりをしているわけなのだが、千鳥足ともなるのね。ここいらの辺まことに錯交します。ユリの千鳥足。笑いながら、くりかえし考えました。小刻みでぴったりと足を平らに斜面につけてジグザグと正確に、山登りの術にしたがって、のぼりたきものと思います。
 そして、ああ、あなたは何とずるいだろうと感服するの。詩集増刷のこと云っていらっしゃるのですもの。それに対して、いくら私だって、詩集は別なんだものとは云えないのですもの。ずるいと思うわ。ほんとにうまくつかまえる。こういう飛躍が科学者の云う天才的な「労作の仮定」というものでしょうか。
 十三日に着くようにと書いて下すったのが今朝になったのは残念のようですが、呉々もありがとう。紙の小さすぎることからおこる条件はこの頃やっと私も馴れて、もとのようにその紙のその字の上にないものをいきなりつよく感じとるということもなくなったから、マアましです。けれども、正直なところ、私はほんとに、あなたにすこしコンプリメントをいただくと、しんからうれしいと思います。そういうことでがっつくのはけちくさいと思うけれど、やっぱりこの心持は消すことは出来ないことね。私は却って逆に自分を批評することがあります、私はあなたに自分をいくらかでもいいものとして見せようといつも骨を折るのではないかと。本当に自分のものとしている範囲で骨を折っているかどうか、と。この点、この頃はすこしぴったりして来ているようですね。
 文集、面白いだろうと思うの。昔の旅行記なども入れたいと思います。しかし、入れたい心と、入れられるか否かは又おのずから別でね。竹村のなんかそういうのでいいといいのだけれど。そう云えば『明日への精神』九千になりました。お話ししたかしら。十三日に又百合子百合子をやりました。
 ユリも朝起き以来、というらしいのに、朝寝とかいてあって、笑えてしまいます。よっぽど「ユリも朝」と来ると寝がしみついて、眼玉だったのね。昔より、二十三日前よりは健康ということ、それは全く当然なわけでしょう? 何しろ、それから後の消耗の大さに対して、こんな状態が保てているのですもの。大変綜合された意味で、そうなのは確かです。
 あなたの、夜があければおなかのすくこと、食欲がすこしでもあるようになったという面からは万歳だけれど、玉子ナシ、バタナシナシナシの方からいうと、やっぱりこの頃私たち何となしおなかすかせることのひどいのと似たわけなのだろうと思われます。そういうとき栄養が不足すると惜しいわねえ。私のたべた夕飯はもうすこし夕方に近かったようでしたが。やっぱり三時〆切り五時におかえりだからかしら。
 きょうは早く寝ます、そして、明日いろいろこまかいものいくつか書くの。すこし眼がつかれているから。今年の十三日のためにアトリエから出ている画の本をすこしまとめて買い、茶の間におき折々見ようと考えます。
 きょうの気持の工合では月曜日に行ってしまいそうよ。

 二月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月十七日  第十一信
 きょうはすこし虫がおこって、さっきパラパラと雨の音がしはじめたらひどくそちらへ行きたくなりました。でも、ごちゃごちゃ仕事を片づけなくてはいけないし、私はうちにいた方がいい体の調子だし、それで机の前にねばって居ります。昨夜寿江子と目白の通りを散歩して、この間うちから云っていた今年の十三日のために絵の本買うと云っていた、それを新しい古で十二冊ほど買い 8.60 也、チューリップの立派なの一輪、黄色い奇麗なラッパ水仙二本計 .90 買って、きょうは机の上にチューリップを、ベッドの裾の柱にこのダフォディルを活け、大変さっぱりとした眺めです。朝からひとしきり片づけ、一寸一服にこれを。
 チューリップというものはこの位になると、気品とゆたかさがあります、葉の旺盛な感じも面白くて。オランダの野原に一杯咲くチューリップは、今年もやっぱり咲いているのでしょうね。
 ゆうべ、かってかえった本の中から「ドガ」を見て、実にいろいろ感服し、あなたにおみせしたいと思いました。寿江子が気づいたことですが、ドガは、日本ですぐ踊り子を描いたドガと云われるけれど、たとえば、競馬について、洗濯女について、帽子つくりについて、そして踊り子について、決して、一枚そっちかいて次にこちら描いて又あっちかくという風でなくて、必ず一つのまとまりをもって実に追求しているのね、競馬なら競馬を。そして、ドガの絵にある不思議な動いている感じは又おどろくべきものです。モネ、マネという人たちの、客間的要素がドガを見てはっきりわかりました。ルーブルではドガを「オリンピア」のある絵(ママ)にかけておくべきです。そうすると、すこし真面目に芸術を感じるひとは、そこにある明日へのび得る芸術の本質を、どっちに在るかおのずから考えるでしょう。本当にためになるのに。小説をかくものはドガが分らなければうそですね。武者がルオーをすきとかいています。武者らしいことです、あくまで自分の語りたいことを語る、に自足している点で、ルオーと武者は似ているのよ、その主観性で。その点では似ているけれどルオーの中にあるその主観沈湎(ちんめん)のデガダンスに対して、野生な生命力の溢れを追求する仕方にあるデガダンス(近代的な)を武者は感じないのね。そういうかんは欠けているのです。現代フランス画家の病的さ。それに正当な判断なくまねする日本の洋画家たち。模倣のひどさは文学以上ですね。つまりまね物が通用する点で。
 牧谿(もっけい)の絵は、ドガなんかから与えられる力と同量のものを与えます。牧谿の絵、覚えていらっしゃる? これはお目にかけられるわねえ。動物だの景物だの。青楓の蔬菜図とはちがいます。私は自分では全く描けず、それでも絵は時々随分すきです。パリから大きいトランク一杯に複製だの画集だの買って来て。あれらは誰が買ったでしょう、時々ああこれ私のだったんじゃないかしらと思ったりします。一誠堂なんかで。可笑しいわねえ。きっと間接に私は少なからず日本の画学生に貢献しているのよ。福島という現代画家の相当のコレクションをしていた人のところへ見せて貰いに行ったとき、ルオーがもう手離した絵だのに時々気が向くと来ては、もうすこしもうすこしと手を加えてゆくその粘りかたを感服していました。ああいう蒐集家がどこまで本当のことがわかるでしょう、きっと通なのね。通というものは要するにその道のガクヤ話や癖や迷信や伝統を知り、それに屈伏している評価者ですから。通は素人おどしにきくけれど。
 こんなことをかいていると、そして、この間一寸『新しきシベリアを横切る』をよみかえしていたときも、ああして暮した時代もっともっと勉強したかったとしみじみ残念です。
 生活、特に外国生活での対手というものは大きい意味があります、ほんとうにそこに在るものを知りたい、と思っての生活態度と、主我的な態度とでは得るものが実にちがいますもの。ほんとうにそこに在るものを知りたいという私の気持は、あの時分まだひよわくて、気に入るとか入らないとかいう気分で支配されている傍の性格とはっきり対立して、独自の線を描き出してゆくというところ迄育っていなかったのね。パリや何かからかえって、「広場」でああいう風に、自然発生ながらはっきりはしたのだけれど。もっともっといろいろ書けもしたのに、と。日々の空気がもっと知的なら。まだまだ書きたいことでのこっていることがあります。でも、それもよかったかもしれないわ。だって、ギリシア以来のあれこれをアカデミックであることも知らず余りうんとつめこんでしまうと、生活的感動そのものまで静的なものに化してしまったかもしれないから。ちっとやそっとの下剤ぐらいでは、おなかがきれいになり切れないかもしれないから。
 それにしてもドガの、ほんとのことという感銘の絵はいいことねえ。ヴァレリーの『ドガに就いて』という本がありますがどういうものかしら。この間レンブラントを一寸よんで、レンブラントが最後に一緒に暮した女をやっぱりサスキアを描いたように富貴の姿にして、そう幻想して描いたというところ、何だかわかるような下らないような。ねえ。どうして水色木綿の働き着を着て白いキャップかぶって、そして彼にとってなくてはならない女であったその姿のままかかなかったのでしょうねえ。何故「王女のように」飾るのでしょうねえ。レンブラントさんよ。
 林町からヴィクターの古いのもって来ようと云っていてなかなか実現しないものだから。
 それからね、私の左のひとさし指に、もしかしたら魚のめが出来るのよ。いつかとげをさして、そのあとが黒く小さくかたくなってまわりがすこし半透明になりました。
 中公の本の初校出はじめました。技術的な校正は、メチニコフのおくさんにして貰います。あのひとはそのことはよくなれているのよ。そして、傍ら索引をこしらえて貰うの。ざっとしたものでも。よむひとの便宜のために。メチさんは今お留守番で、いくらか収入があった方がいいのですから。市価は払うことにします。年表の娘さんのためにもいくらかためになってやれたし、一つの本の功徳はいろいろあるものですね。
 さアもうこの位にして、もう一息。ああそれからね、もう一つ。きのうの夜散歩して、私がちっとも散歩しないわけわかりました。やっぱりひとりだからね。ちらりと何か見ておやと興味ひかれるでしょう、そういうとき少くとも云うことのわかる対手と歩いているとちょいちょいそんなこと喋って、何だか自分でも印象はっきりして面白いのね、歩いてみるのが。目白の通りに一軒釣道具屋があって、その店には気がついていたのですが、ゆうべその店先に女のひとが坐って客と話していてその女のひとはやっぱりどこか下町風で、着物の縞の色や髪や横顔、ある印象があり、釣の伝統がその女のひとに映っているのよ。やや雪岱流でね。おやあの女のひと、と私が何心なく云い寿江子わかり、それで私、なるほど散歩になんか出ないわけだと合点したのよ。「御飯のあとなんか旦那さんと散歩してみたいところもちょいとある」但これは寿江子の申し条ですが。うてば響く対手がある二十四時間。ない二十四時間。私がまめに書くけれど、それはカイタモノであることを否定はし切れず、ね。いろいろねえ。五月蠅(うるさ)くもあるが寿江子もいていいわ、寿江子のためにもうちにいていいわ。では本当にもうこれでおしまい。
 中公の題はやはりなかなかいいのがなくて。「近代日本の婦人作家」となりそうです。これはいい題なのだけれど。ちゃんと年表がついて、サク引がついて。そういう本らしいことはわかっているのよ。四六版。校正 112 頁まで。では。床に入っていらっしゃるの? そしてかいまきの袖から手を出して何かよんでいらっしゃるかしら。暖いこと? 顔がつめたい、つめたいでしょう? つめたい鼻、でしょう?

 二月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(代筆 封書)〕

 今日は、おかしい手紙を差上げます。言葉は、お姉さまがベッドの内から云って居て、字は私が傍のテーブルで書いていると云うわけです。お姉さまはやっぱり風邪です。
 そちらの風邪はいかがですか、やっぱり、こんなに目と鼻が痛くてくしゃくしゃになって不便でしょうか、お姉さまが少し変な声を出して「熱が出たア」と云うから、おデコにさわってみると、そのオデコは私の手よりも決して熱くありません、「冷イー」と云うと、嬉しそうに笑います。つまり、熱もないし、御機嫌もよいし、味噌汁のおじやもよく食べますが、起きて仕事が出来なくて、弱っているわけです。
 予定では今日全快の筈だったけれど。寿江子がいるので、便利です。(邪魔ニサレルコトダッテ度々デスヨ! スエコ)一寸待ちなさいと、云って何かゴチョゴチョ書き込んだようです。
 今日は三通目の代筆で、この間うちから寿江子が手紙を上げる上げると云いながら書かないから、一つ掴えて、代筆させて、姉さん孝行ぶりと、お見舞とをかねさせます。
 あんまり孝行した事がないので、どっちの字が上になるのか、まごついたようです。(姉サント云ウモノハ怪(け)シカラント思イマス。スエコ)
 寿江子は、夜ねしなに入浴すると、眠りにくいので、もうソロソロお風呂に入ります。出たらばどうせクタクタで、代筆どころの騒ぎでないから、今のうちに一筆。
 家の床の間はしゃれていて、小さい穴が一つ有って、そこから夜中には風、朝になれば朝日が差込みます。今夜はそこを塞がなければなりません。目じるしに今は細くさいた原稿紙のはじがメンソラでちょいと付けてあります。

 三月四日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月三日  第十二信
 ああ、やっと! やっと! という心持でこの手紙をはじめます。だって、この前私の書いたのは十一日ごろです、そして、風邪で臥てしまって寿江子の代筆で、それから血眼つづきで一日にやっと『新女苑』の小説27[#「27」は縦中横]枚わたして、二日には(きのう、よ)あの氷雨の中を横浜まで出かけ、かえり寿江子のことで国が用があるというからまわって、けさおきぬけに大森の奥さん来で。本当にああ、と云いながらぺたんとあなたの前に坐ったような恰好よ。(寿のことは何でもないの、あとでかきますが。いつぞやのことなどではなく、ピアノ買う買わぬのことよ)
 きょうは、おだやかなお雛さん日和です。うちにも桃の赤白の花と、小さい貝の中に坐っているおひなさんを飾ってあります。私の風邪は大体ましで二十七日ごろから仕事しはじめましたが、疲れが後にのこっていて、そこへきのう四時間も独演だったのできょうは些かおとなしい状態です。もう鼻の奥の痛いのはなおりましたから大丈夫。眼も大丈夫。
 あなたはいかが? 二十七日に書いて下すったお手紙、速達頂きました。すぐ森長さんへ電話いたしましたが、どうだったかしら、日曜日に行かれましたかしら。今の風邪はあとが大変長びきます。呉々もお大切に。
『フランス敗れたり』あれで大観堂は一財産をこしらえたそうです。歴史の何の真のモメントにもふれていない。ふれ得る男でない。それでも、世界がどう動いているかを知りたいという思いのピンからキリまでが、ともかくよむのね。良書として紹介したりしてあったりします。この間『帝大新聞』で今日の読者と作家とのことをかいてくれというので、私はたとえば『フランス敗れたり』を作家がどうよむかその読みかたにおいてそれぞれの作家が所謂読者として考えている人々と、どういう相異をもち得ているか、今日では読者の問題は、作家にとって、自分がどういう読者であるか、という点に省察されなければならないということを考えました。もとのように作家対読者という関係でだけ見て、読者の質が下った下ったと云っていたのでは、作家自身自分も半面では何かの読者であってその面でどんな読者であるかということを考えるきっかけを見出さないわけですから。そして、文学が創られてゆく過程では、下った質の読者に追随するのがわるいとして、では何処から自立的な作品を生んでゆくかと云えば、つまりは作家がどういう質の読者であるかということにかかって来るわけでしょう。ここいらのところがなかなか微妙で文学にとって極めて本質的で、面白いわねえ。いろいろの面とのひっかかりで、文学の文学としての自然な自主性が云われているけれども、作家として問題にすれば、窮極のところ、そこが要のようなところがあるのにね。
 二月はそれでもなかなか能率的であったと思います。『婦人朝日』の小説二十二枚。それに『新女苑』のが二十七枚。『帝大新』が十枚。そのほか婦人のためのもの二十枚ほど。小説を二つはがんばったでしょう?『新女苑』のは杉子という女主人公で、その題です。これは女大ぐらいの女学生の生活からの物語です。
 中公の本の初校、もう殆ど終り。さち子さんが技術家ですからやって貰って、今夜あたりから私がそれを又見てすこし手を加えてわたします。索引がもうじき出来ますし年表も略(ほぼ)完成して居ります。十日ぐらいまでにすっかりまとめて表の原稿もわたしたいと思います。題のこと、つまりそうなりそうです、どうもいいのがないのですもの。変に弱い題でもこまるし、余り抽象的でもこまるし。私の心持で一番はじめの題は面白いと思うのです。いきなり幅は感じられないけれど、奥ゆきは在る題です。間口が大きくないけれど、扇形にひろがった感じの題ね。
 太平洋の波もピンチながら、三角波を立てているというところでしょうね。ルーズヴェルトの一日というのがあって(雑文よ)朝九時から生活がはじまって、事務室までゆく道は車付の椅子にのって運ばれて、(このひとは小児痲痺をやっているのですって)五時すぎまでみっしり働いて、それから九時すぎまで大いにくつろいで、寝室には石でこしらえた豚が三十ほど、いろんなものでこしらえた驢馬(ろば)が又うんと並べてあって、馬の尻尾の剥製が一本飾ってあるのですって。その馬は彼の父の愛していたレース・ホースでどこかに売られてゆく途中汽車の事故で死んで、尻尾だけがのこったのですって。それを飾ってあるのだって。
 チェホフのヤルタ(クリミア)の家を見に行ったら、そこは今博物館なわけですが、書斎にいろんな人の写真が飾られていて、机の上に象牙の象の群を飾ってあって、何だか面白く思いました。
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