獄中への手紙
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著者名:宮本百合子 

 七月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 己斐より(縮景園浅野泉邸の写真絵はがき)〕

 なかなかよく降ります。きょうは珍しい顔ぶれで多賀子と冨美子をつれて達ちゃんに会いに来ました。達ちゃんは却ってこの間うちより神経の休まった顔つきをしていて、盲腸もごく早くとれて、もうすこしは歩けかけて居りました。背中をすっかり拭いてやりました。呉々も御安心下さいとのことです、自分でおっつけ書くでしょうが。今己斐の駅のベンチよ。

 七月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(広島・紙屋町電車通附近(一)[#「(一)」は縦中横]、大本営(二)[#「(二)」は縦中横]、饒津神社(三)[#「(三)」は縦中横]の写真絵はがき)〕

 (一)[#「(一)」は縦中横]七月二十八日、きょうから友ちゃんが三十一日迄広島へ泊って来ます、病院のうちならば会えるというので。きのう三人で広島へ行ったとき、河本という小さな宿屋へ、おむつや着がえのボストンバッグをあずけて来てやりました。お母さん、やはりおつかれが出ましてね、昨日は工合よくない御気分でしたそうです。きょうは私がすっかりしてお母さんは休んで居られ、すっかりようなったと云っていらっしゃいます。二三日は余りお動きにならないようにします。

 (二)[#「(二)」は縦中横]七月二十八日。お母さんのお疲れは脚と胃にこたえた風です、きょうは本当に見たところも大丈夫ですから御心配なく。お動きになるのが好きだから。ついすぎるのです、実に大切なお体だからということは、この頃又新しくお感じ故、私が、きょうはカントク係とやかましくいうのをもおききになります。友ちゃんがかえる迄は居りますから、二日に立ちたいものと思って居ります。中公の年表の校正出たら一息で、さち子さんが校正見ていてくれます、これはうれしかったわね。

 (三)[#「(三)」は縦中横]七月二十八日。きょうはやっと土用らしいからりとした暑さで、でも涼しいのね、台所で火をいじっても大して大汗になりませんから。土用らしく蝉が前の松林で鳴いて居ります。友子さんのいない間だけは、せめて私が御飯のことをして親孝行をいたしましょう。味だのもののくみ合わせだの一寸ちがって又舌に気持よいでしょう。お料理がうまいと云ってほめて下さいます、何にもしないのがたまにするからなのね、きっと。ほめられるとホクホクしているのよ。あの台所で働くユリはドメスティックでわるくないでしょう。

 七月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 七月三十日  島田からの第六信
 きょうはなかなかの土用らしい天気です。今午後三時ごろ。階下で岩本のおばあさんがひるねです。ユリも二階で三十分ほどねむって、むっくりおきて、そのござは机の横にしいてあるから、これを書きはじめます。
 お母さんはけさ三時十二分かで広島へお出かけ。二時におきてお見送りして五時半におきて店の戸をあけて、ユリは大ねむでしたが、きのうの夕方岩本のおばあさんが見えているので、やはり御馳走もしなければならず、店であきないもし、なかなかいいお内儀さんよ。
 友ちゃんは二十八日広島へゆきましたが、昨夜電話で、赤ちゃんが熱をすこし出したと云って来たので、お母さんは心配やら達ちゃんに会いたいやらで、お出かけになったわけです。午前十時ごろ電話で、輝はケロリとしているが友ちゃんが疲れて下痢をして、いまおかゆをたいて貰っているところ、午後つれ立ってかえるとのことです。だからもうそろそろお湯をたかなければいけないというわけなの。
 岩本のおばあさんは二三日保養していらっしゃるって。
 さて、二十六日づけのお手紙、ありがとう。そちらのところがき、飛躍しているので笑いました。
 達ちゃん経過は最良ですから自重するよう、お母さんもやたらに食べたり歩いたりさせないようにと友子さんにも注意していらっしゃいます、この前の分は二十一日に出ました、それだと修理部でした。今度は全く別だから、どういうくみ合わせに加えられるかもとより不明です。その点では出たところ勝負の感です。十九日づけの手紙が二十五日につくの? 今は。Yという人は全くそのとおりです。そして、家としてそういうタイプから受けた記憶のこともわかります。この頃はすこしましになって口のききかたもちがいますから、お母さん吻(ほ)っとしてです。何しろ一ヵ年間すっかり達ちゃんにまかせ、ハアこんな安気なじゃが、いつまでつづこうかしらと思っていらしたのだって。だから、いくらかせんないところもありますのよと仰言ってですし、それもよくわかるわ。でも友ちゃんが留守だと、やっぱりいろんな内輪話が遠慮なく出て、お母さんさっぱりなすったそうです。あれもこれもまア結構よ、友ちゃんはあっちで、こっちはこっちで。
 お手紙みんな頂いて居ます、こんどはちょいちょい下さるから私はほくほくよ。妻にはよく手紙をかいてやるべし、という教訓を御実行だと思って。先来た頃は、何となし、私がこっちにいるということであなたは堪能したように余りお書きにならなかったわね。
 達ちゃんへの伝言の件。私も切実に思ったことでした。一寸はふれて話しました。達ちゃん一人の折。けれども、もう私から話す折はないでしょう。もう広島へは行きませんし、私も二日にはかえりますから。そちらから手紙で改めて仰言って下さい。もと行っていた間のそういう面の生活について私は塵ほども存じません。塵ほども話さないのでしょう、家のものには。達ちゃんの今の気分では平静ね。友ちゃんに満足しているし輝は可愛いし、その場の空気でまきこまれるようなことさえなければ、いいのですけれど。もとのときも余り粗暴ではなかったと思うのよ。でもお母さんに月五十円ずつ送ってくれと云ったので、それはいけません、金をもっちょるとよいことがありませんからのうと云っていらした。そこいらに機微があるのよ。この前の経験の。友ちゃんはナイーヴに、物はいくらも買えるから金だけ送ってほしいて云うてですのと云って居りますが。
 きょうは三十一日。朝。輝がこの机の横へ来ておとなしく臥て足をパタパタやって居ります。きょうは月末ですから店はなかなか多忙で、岡田という男が車にはのらないで集金その他をやって居ります。自動車の収入は大きいのねえ、びっくりしてしまいます。しかし又修繕その他にずっしりと出てもゆくから、なかなか荒っぽい仕事です。収入だけ云えば二台の車が半月で――達ちゃんが出てから千八百以上らしいのよ。実収とはもとより別です、実収といえば、その三分の一或は四分の一ぐらいなのでしょう。
 私はこの男がいるうちに荷物つくりをして駅まで出そうというのでまとめているところへ二十九日づけのお手紙着、では荷もつと一緒にこの手紙を、と思って、たすきがけで書いているというわけです。
 本のこと分りました。でもあれは、スペインかイタリ系統の名でしょうね。そうだとすれば又そこにあることもあるかもしれず。注文はいたしません。岐山(サン)なの、成程ね。ヤマでは重箱よみね。中條(ナカジョウ)とよむと同じで。この歌は私には一種の愛着を感じさせます。鼓海なんて、やはり大陸の影響の早かった地名ね。つづみが浦とでもいうのが後代(平家物語時代の命名法)でしょう。
 あの辺が怪談の舞台とは、そうでしょうと思う。一種の鬼気があってね。
 達ちゃんは二十九日にもう大勢いる室に移ったそうです。お風呂にも入ったそうです。
 私は、もう達ちゃんにいつ会うという見当もつかないから、(三十日にもう接見は駄目になりました)一日か二日に立ちます。二日に立つ予定でしたが、或は一日に立ちます。カンヅメをすこしもってかえります。こっちにいて呑気すぎた様子で、些か困ります、あなたが云っていらしたように、本当にそうだったわ式では、これは困りますから。五日に林町で皆立ち、それ迄にいろいろのうち合わせがあります。年を越す用意してゆくらしいから。それもいいでしょう。こちらも私はかえりますでは相すまないから、何かのときどこへ子供をつれてゆくか、どんな準備がいるか、ということなど、すっかりとりきめてかえります。何しろ光のとなり徳山のつづきで、駅近く、ちっとも保障のない位置ですから。何もないときでも心がけはたしなみですから。そんなことかまわずかえったりしたら、あなたが、じゃもう一度行って来いとおっしゃるかもしれないと云って笑ったの。そうでしょう? 段々旅行が厄介になって来つつありますから。不定期は一つもなくなりました。食堂、寝台も減少しました。広島宮島間は汽車のよろい戸を皆おろします。めくら列車が真昼間走ってゆくのを己斐の駅で見て、何かすさまじさを感じました。走ってゆく、感じがね。
 手帖出してみたところ一日に立てば二日(土)につくのね、駅から真直ゆけば十一時前にはつけるのね、二日に立つと四日(月)ね。でもあしたは余り遑しい。四日迄になりそうです。でももうじきだわ、お大事に。二十日の留守よ、珍しい方でしょう、すこしはお見直し下さるでしょうか。

 八月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 麻里布駅にて(錦帯橋美観「錦川に架して」(一)[#「(一)」は縦中横]、「建築美」(二)[#「(二)」は縦中横]、錦帯橋「清流に映えて」(三)[#「(三)」は縦中横]の写真絵はがき)〕

 (一)[#「(一)」は縦中横]八月二日十一時(午前)今マリフの駅のベンチで涼しい風にふかれ乍ら、のりかえを待っているところ。
 柳井線マワリの急行でも、この頃は柳井に止りません。マリフまで来なくては駄目。すいた汽車だったら助かるがと思います。けさ出がけにお手紙よんできかせて頂きました。野原のおばさんも見えていました。

 (二)[#「(二)」は縦中横]ここの駅は、目の前がすぐ青田です。その先は海です、実に涼しい風。何と飛行機の音が低く劇しく響くでしょう。
 人絹スフ工場も大きいのが出来て居ります。ここは柳井よりずっとあけっぱなしな気分の駅ですね。ここで〇・一分まで待つのよ。

 (三)[#「(三)」は縦中横]徳山のエハガキはお宮づくし。ここのエハガキは一つの橋をあっちこっちから。この橋はまだ本ものは一度も見ません、あなたは? 宇野千代は岩国のひとよ。ほかに岩国のひともあったようですね、学者で。明朝東京は七・三〇ですが、どうかしら、そちらへすぐまわる元気あるかしら。今のところ不明。おなかが変なものだから。

 八月八日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月八日  第三十四信
 帰って来たら手紙の紙まだあると思っていたら、おやおや。もう一綴もないわ。そして又この紙になってしまいました。
 三日にかえって、ちゃんと待っていたお手紙拝見して、四日に二十日ぶりにお会いして、まだほんの数日しか経っていないのに、もうすっかりここに納って、うちって面白いものね。
 かえるとき何かかんちがえをして、土曜日だと思ったのよ。東京につくのが七時半だから、もし誰か迎えに来ていたらカバンと岡山の駅で買った白桃のカゴをもたせてかえして、私は一寸池袋から降りてまわってしまおうかしらと考えて居りました。そして鏡を見てね、でもこんなにくたびれていては、久しぶりであなたどうしたかとお思いになるといけないかしらなんかと考えていたら(大船あたりで)横の席の人が、日曜日だって朝刊がないっていうわけはないだろう、と笑って云っているのがチラリと耳に入って、あら、じゃきょうが日曜かと急にぐったりした次第でした。
 そんなにせっついた気持だったところへかえってみれば待っていたものがあるし、おなかは力がぬけているしで、月曜おめにかかったら、笑える唇の隅が妙な工合にぴくついて。可笑しいわねえ、おなかがフワフワになるとああいう風になるものなのかしら。あなたも気がおつきになっているのがわかりました。
 一昨日は、あの手紙の束もってかえり、夕飯後すっかり整理してみました。一どきにしたいことが三つもあって、あの晩は弱ったわ。明月でしたろう? 二階とてもいい月見が出来ました。その月も眺めたいし、手紙も書きたかったし、整理もしたかったし。丁度お愛さんが一ヵ月のくくりで五十四円六十銭也をもって会へかえって留守で、たった一人でしんとしているし、どれをしようと迷った末、遂に最も実際的な整理をすることにきめました。一九四〇年は前半までありました。上落合からのはたった二通なのね。第一信第二信はなくて第三信がそもそもの初りですね。十二月二十日以後で、あの上落合の家には五月初めまでしかいなかったのですが、たった二通しかなかったのねえ。その五月からは殆ど一ヵ年以上へだたりがあって。二通の手紙は可哀そうな気がいたしました。
 それに、ちょいちょいよみかえして、大きい字を見ると変ね。いろんな響や匂いが大きい字の間からぬけてしまっているようで。細かい字にとおっしゃった感じわかるようです、紙数ばかりのことでないものもあって。
 きのうはそちらからかえりに池袋で円タクひろって、目白へまわって荷をもって林町へゆきました。寿江子は十四日に立つそうです。国が、土・日と行って。林町は今臨時の留守番のひとと武内というもとうちにいた人の夫婦がいますが、丁度一尺ざしを三本立てたような感じでね。これもどうもとっつきにくい空気です。私も留守番、私も。という気分からそういうことになるのね。大変工合がしっくりしないので、国、夜業から十時すぎかえって寿江子が安積(あさか)へ行ったら姉さん来てくれるといいなあと申しましたが、評定の結果、こちらは動かないことにしました。国だってあすこから行けるところがどこかになくては困るのだし、私にしろ、やはりいざというとき家を放ぽってどこかへ行ってもしまえないから。隣近所に対しても。ここから奥の方でいくらか森でもあるところにすこし心がけておいて、やはりここは動かないのが落ちでしょう。留守いと云ったって、自分の家をすててひとの家の留守をする人は居りませんものね。ひどく困りそうだったら、或は戸台さんでも来て貰うかもしれず、それはあのひとがひとり暮しだからというわけなのですが、いずれ御相談いたしましてから。目下のところは現状のままとしか考えて居りません。
 きょうお送りした分。すみませんが、あれが九月から十二月迄よ。あとには全部全部であれと同じしかないのですが、まあどうにかなるでしょう。とにかくかつかつながら、そちらが本年じゅうもてばいくらか気が楽と申すものです。不意なことが起ったりして、小さい水たまりは瞬くうちに蒸発してしまいますね。フッ! そんな速さね。世に迅きもの、稲妻と匹敵いたします。
『私たちの生活』あれとして気に入って頂けて嬉しゅうございます。ああいう風にして集めると、又別様の趣が出ますね。この次予定されているのは、あれとも亦ちがって、ノート抄とでもいうようなものにするのですって。(本やの名今一寸思い出せず、名刺みなくては)それも面白いでしょうね。たとえば日記から、手紙から、メモから生活、文学いろいろの面にふれたものを収めてゆくのね。勉強不勉強もわかるというところがあって。全然新しいちょいちょいしたもの、たとえばこの間野原で見て来た夜の光景だのもそれには入りますから、きっとやはり面白いでしょう。
 それはともかくとして八・九は筑摩の仕事です。さもないと、ユリの河童の小皿が乾上りますからね。そっちがこの仕儀に到ったので、ぺちゃんこにもなっているわけです。書きにくいことねえ。実に何だか書きにくい。こんな仕事早くしまって小説をかきたいと思います。第一次の欧州大戦のとき、あの五年間、ヨーロッパのいろんな作家たちは大抵その間まとまった仕事出来なかったのね。すんで、落付いてから。そういう気分が誰でもを支配していたようです。しかし今日はどうなのかしら。少くとも私たちは、済んで落付いてからという風に考えては居ないのが実際です。仕事をつづけてゆく、非常に強壮な神経の必要というものを感じて居りますね。作家の成長のモメントがそこにひそめられている、そう感じます。成長ということは徒らな順応のみではない、そこも面白いところですし。小林秀雄が、歴史小説について、歴史がひとりでに語り出すのを待つ謙虚さが大切ということを云って居ます。人も問うに落ちず語るに落ちるではないか、と。こういうひとの考えかたは、どうしても、白髪になってもやはり髄ぬけのままなのね。尾崎士郎は庶民にかえれ、と云っている。精神を庶民の精神にしろ、というのですが、そこでは受動性の肯定で云われて居ります。文芸面もそういう工合です。
 病気の手当法についてのお話。どうもありがとう。私も日頃そのつもりで居ります。それがいい方法ということが確められて一層ゆとりが出来ます。でも急病になんかかかりたくないことねえ。まして疫病で死になんかしたくないことね。この頃の豆腐は恐ろしいのよ。極めて悪質の中毒をおこします。うちでは、この豆腐ずきなのにたべません。出来る用心は細心にして居るわけですが。
 重治さん茂吉論も駄目でしたって(中公)。
 筑摩の仕事をすまして見てその頃の状態によって、暮しかた考える必要があるだろうとも思って居ります。
 きょうも昼間は大分暑うございましたが、風は秋ね。秋が待たれます。十分夏らしくないくせに体にこたえた夏でしたから。
 お愛さんという娘はこういう娘としてはましの部よ。いろいろまめにいたします。ひねくれていません。月曜日にはお愛さんをつれて林町へ行って、泊って、寿江の荷造り手つだいます。

 八月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月十三日  第三十五信
 お手紙けさ、ありがとう。本当に今年の天気はどうでしょう。私も汗の出ないのには今のようなのが楽ですが、でも心配ね。こんなひどい湿気は決してあなたのお体にもよくはないでしょう。つゆ時と同じですもの。
 きのうは、夕方八重洲ビルへ行って、国男と寿江子と紀とで夕飯をたべました。国さんの誕生日でした。天気があやしいので雨傘をもって、無帽でバス待っているところを眺めたら憫然を感じました。髪の白いのはかまわないが、ふけたこと。あなたなんかどんなに見違えになるでしょうね。私の弟だと思うひとはないのも無理ないと思います。余りひどく呑んだりすると、あんなに早く年とるのかしら。衰えているというのではないのよ。精悍なのですが、輝き出しているものがないというわけです。一昨年の誕生日には咲枝の兄夫婦をよんで庭で風をうけながら夕飯をたべて、夜なかに咲枝が産気づいた年でした。その前の年はやっぱり咲枝たち開成山に行っていて、私が国男さんを神田の支那へよんで、緑郎とおもやいでゾーリンゲンのナイフをおくりものにした年でした。きのうもね、国男すこしほろよいなの。寿江子一緒にかえりたがらないで一人で市電にのってかえしてしまって、私たちは省線迄歩いて。そんなとき私は国男が可哀そうでいやあな気になるのです。ともかく自分の誕生日によんで、一人でかえるなんて。私はいつ迄も気にして、いやがるのよ、寿江子は。兄と弟とはこんなにちがうものと見えるのね、寿江子の方は、何だか妙にねっとりして来る兄貴なんかと一緒にかえりたくないのね、それもわかりますけれど。でも何だか薄情らしくていやに思える。さりとて私がぐるりとまわってかえるのも余り時間がかかるし。始終一緒に暮していると、あっさり先へかえしたり出来るのかもしれないわね。私たちはあなたも私も一番上で、弟たち妹たちしかしらなくて、その心持は年をとってもかわらず、却って年をとると又別のあわれさが出来たりするところ面白いものですね。親が、子をいつ迄も子供と思うの尤もね。あわれに思う心というものの面白さ。
 ゴッホがこの頃妙な流行で読まれます、「焔と色」という小説を式場が訳して。弟のテオというのがいてね、これは画商の店員をしているのが終生実に兄のためによくしてやっています。こんな弟は本当に珍しい。テオという単純な名が、その気質のよさをあらわしているようです。ゴッホのような個性の極めて強烈であったひと、病故に強烈であったところさえある人の生涯の物語が、今日の日本の人々によまれるというところもなかなか心理的に意味ふかいわけですね。個性というものを人間は失えないものだ、ということの証左です。
「女性の現実」の中の数字のこと。私あれをいろいろなもので見たのでしたのに間違えたのねえ。しかし、女の働くひとの総数はその位のようですよ。月給もそれは新聞の日銀統計で出たのでした。平均というのは、工業の熟練工で一番とるのが平均三百何円で、女の最高の平均が百何十円というのなのですが、そのことが分らないように書けていたでしょうか。最高でさえ男の半分しかとれない、ということをかきたかったのでした。
『ダイヤモンド』ありがとう。とっておきましょう、私が見たのは谷野せつの調査や新聞の切りぬきや年報やらでした。
 私がこれから書くものをおっくうがって気がすすまないのも、この号令式がひっかかりがちだからだろうと思います。
「ケーテ」面白く思って下すって満足です。私は芸術家の女のひとの伝記がもうすこしあったら面白かったと思います、音楽とか絵とかね。本朝女流画人伝というものだって私が書いてわるいということはないわけでしょう? そういう仕事だって、やはり前人未踏なのよ。いろんな女がどうして女の業績全般に対してひどく無頓着なのでしょうね。発揮は私いつも輝とかいていたようです、これからは手へんにいたしましょう。光の方がいかにも自然にかけてしまっていたのです、でも世間から云えば当て字ということでしょう。
 本当にあの本はともかく今というところですね。
 持薬のこと。きのうはでも思いもかけなくいくらか手にいれることが出来て幸運でした。薬屋さんも親切なのだとしみじみ感じます、全く苦面してくれるのですもの。粒々ありがたくのみこまなくてはならない次第です。
 派出婦のこと、困るのは経済上の点です。ほかのひとを置かなくてはならないなら、この人がいいという人柄で、珍しく縫いものもすきでやっています。縫物が好き、というような人は珍しいのよ。常識的家政学からいうと、派出のひとを今置いておくなんて狂気の沙汰ですが、私は仰言るように背水の陣をしいて筑摩の仕事をしようと思うので、そのためにはやはりいて貰わなくてはなりません。家をあけて、どこかへ行ってしまうことも出来ず。いつものことながら暮しの形はむずかしいので閉口です。菅野さん母子も満州にいる父さんからもし為替が不通になった場合、義兄さんが扶助するのでしょうし、こっちと一緒にグラグラでは困るし。この頃は食料の買い出しだけで一人分の仕事よ。朝のうちパンの切符をとり魚やを見て予約しておいて、午後パンを買いにゆき、八百屋の切符とっておいて次の日買うという有様で、お菓子でもすこしたべようと思えば一日じゅう一人は歩きまわっていなくてはならないことになります。だからうちなんかいつもうまい買物はのがしつづけです。何しろこの間はそちらのかえりに、あの界隈で古ショウガを三銭買って来て大威張りという有様です。思いもかけず、米沢の方から一箱胡瓜、ナスを貰って大ホクホクという有様だったり。
 郡山へは必要上、年内に一遍行かなければならないでしょう、整理しなくてはならないから。寿江子咲枝はそういう点では実に散漫ですから。あのおばあさんはそうよ、政恒夫人よ。運という名をつけるのね昔のひとは。開成山の家の上段の間の欄間に詩を彫りこんだ板がはめこまれていて、それにはじいさんが開拓した仕事のことが書いてあるようでした。いろいろ近頃になって考えるに、じいさんは晩年志をとげざる気分の鬱積で過したらしいが、自分が初めから青年時代から抱いていた開発事業への情熱も、まさしく来るべき明治の波が、底からその胸底に響いていたからこそだとは思わず、個人的に自己の卓見という風にだけ考えていたのね。だからあの仕事全体を、当時の全体につなげて考えられず、閥のひどい官僚間の生活が与えた苦しみを、すべて感情にうけて苦しんだのですね。じいさんの頃、生れが米沢で長州でなかったということには絶対の差があったのでしょうから。私たちにさえ、もしあのじいさんが長州出であったら必ず大臣になっていた人だと云う人があります。じいさんは生涯そんな妙な「であったらば」ということに煩わされたのね、可哀そうに。その煩いのために、自分の輪廓を却って歴史の中ではちぢめてしまっているように思えます。なかなかそうしてみると人は、自分の仕事を思い切って歴史のなかに放り出しておく度胸はもてないものと見えますね。歴史と個人との見かた、個人の生きかたを、そういうリアルな姿でつかめる人は少いわけでしょう。つまりは歴史の見かたの問題だから。
 私は断片的に二人のじいさん二人のばあさんにふれて居りますが、いつかの機会にもっと系統だててしらべて祖父、父というものを歴史的に書いてみたいと思います。
 室積の海の風にふかれていて、私はやはりそんなこと思いました。室積生れのおばあさん、野原の国広屋、それからそれへと。そして、その生活の物語を書いておくのはやはり私の仕事だと。宮本のうちの子供たちは、それをどんなに面白くよむでしょう。過去の生活の歴史を知るということは、人の一生が空虚でないということを感じて、少年にはいいわ。輝にそういう誰もしないおくりものをしてやりたいと思います。経済上の没落を、おちぶれと見ないだけ、おちぶれないだけの気魄をそういう物語の中からも知らしておいてやることは大切だわね。何しろアキラは、後代の子孫ですよ。オリーブ油を体にぬられて育てられているのですものね。人間として一番平凡になられては閉口ですからね。歴史のひろくゆたかな波が私のようなものをその家族の中に運んで、そのひとが、そういう物語も書いてあるというのは、あとでは随分面白いことだと云えるでしょう。二つの立派な長篇の題材です。一つは都会の中流の歴史。一つは地方の老舗の歴史。大いに私も精進してしかるべしです。本当に私は特にあとの方が書いてみたいと思います。お母さんのいろいろのお話も大変面白いわ。「雑沓」ではじまるのにはその二つの流れを交えて書こうとしていたわけですが、それは無理です。そんな小さいものではないわけですから。いつかいい機会に私は室積へすこし暮したり、野原のこともっとしらべたり、いろいろ自由にあのあたりを跋渉してノートこしらえておきとうございます。天気晴朗な日、それらの小説がつつましくしかし充実して登場することはわるい気持もいたしますまい。
 自分の幅、重さ、みんなその中にぶちこんで活かせるような題材でないと、私はいつも評論より何かくい足りない小説ばかり書いていなくてはならないでしょう。云ってみれば、小さき説の底がぬけているのでしょう。だから思い切って踏みぬくべきなのよ、ね。ジャーナリズムの二三十枚小説の底はぬいていて、自分の足で歩いていいのです。――小説についても――自分の小説について思うことどっさりです。
(こんな紙、あやうくしみそうで字をつい軽くかきます)

 八月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月十六日  第三十六信
 きのうはタイ風が岡山の方を荒して東京はそれたそうですが、きょうの風は何と野分でしょう。すっかり秋になりました。私はうれしいうれしい心持です。この乾いた工合がどんなに心持よいでしょう。ひとりでにうたをうたうほどいい心持です、暑くはなかったけれど、しめり気がいやで、本当にさっぱりしませんでした。せめてこれからカラリとした初秋がつづけば、私は元気になって毎日うんすうんすと仕事が出来ます。
 この間うち、こまかいものを書きながらちょいちょい小説をよんでいて、大した作品ではなかったけれど、いろいろ得るところがありました。作家のテムペラメントということについて、何となし印象がまとまりました。女の作家、同じアメリカの作家でも、三つの世代がはっきりわかるようですね。ヴィラ・キャーサなんかの世代、バックの世代、マックカラーズの世代という風に。第一の世代の人たちは小説には特別な感情の世界をきずきあげなくては満足出来ず、お話をこしらえていた人たちの時代。バックの世代にはもっと現実に真率になって来ていて、お話はこしらえないけれども、やはりあたりまえに話すのと小説に書くのとは、気のもちかたがちがっていて、問題なりは、それとして問題として作品の中に存在させられた時代。最近の人たちは、更に動的で、バックのように自分はいくらか傍観的に生きて観察し考(思)索して書いてゆくのではなくて、毎日の中から生きているままに書いてゆく(技術的にではなくて、心理的にね)風になっていて、その意味で文学感覚そのものが行動性をもっていることです。偏見のすくないこと、現実のひどさを見ていてそれにひるまないで暖さも賢さも正しさも見失うまいとしている態度、変転をうけ入れてゆく態度。説教はしないで話すという態度。これらは平凡なことですけれど、しかし平凡さが次第にリアリスティックな把握力をつよめて来ているということの興味ある現象だと思います。(マックカラーズ)
 第一次の大戦のとき、性急に動くひとと、動きを否定して内面の動きだけ追求した人々(心理派)とに分れて、行動派は重厚な思慮を持たなかったし、考え組は体をちっとでも動したら考えがみだれる式であったでしょう。第二次の大戦には、そういう段階でなくなっているのね、万人が二十五年の間に大きい範囲で、考えつつ行動し、行動しつつ考え、行動がいつも最善に行われるのでないことも知り、悪と闘うのにより小さい行為で黙って行って闘って行くという風なところを持って来ているのがわかります。これは私を元気づけます。文学というものはやはり人間精神の解毒剤として存在するということの証拠ね。そしてやはり人間はいくらかずつ前進しているのであるということを感じさせますから。
 ヘミングウェイの小説ふとよみはじめて、あなたが割合感興をもっておよみになったろうと同感しました。これは自然私にフルマーノフの「チャパーエフ」(覚えていらっしゃるでしょう? 農民とのこと。)を思い比べさせました、二つは大変ちがっています。でも私にはなかなか面白うございます。あの娘、マリアが橋の事件の前、ロベルトにたのむことやいろいろ。ね。スペインの娘でなくても同じことを考える、そこを面白く思いました、ただああいう風に表現するかしないかというちがい。更にそれが小説として書かれているということと、それが小説としては書かれていない、ということにはもう絶対の相異があります。そのことも。そして、それが書かれていなければ、無いと全く同じだということは、何ということでしょうね。
 下巻はもうおよみになったの? もしおよみになったのなら又下さい。この小説はいろいろの面、角度からよめて、その意味からも面白うございますね。
 蓼科からエハガキが来ました。家が出来て、見晴しはなかなか立派だそうです。例年の半分ぐらいの人だそうです。保田からもハガキが来て、あちらは落付かないそうです。お魚も(!)野菜も不自由だそうです。きょうは八百屋の問屋に荷が来なかったそうで何にもありません。うちのぬかみそには人参、ジャガイモが入って居ります。生れてはじめてね、ジャガイモのお香物というのは。新聞でよんで御試作です。きのうはそこの門を出たすぐ角の豆腐屋さんで油あげ二枚かって、すこし先の八百屋でミョーガを六つばかり買ってかえりました。そのあたりもこの頃ではきょろついて歩くというわけです。ミョーガの子が三つで六銭ぐらいよ。明日あたり立つので寿江子がきょうよります、せめて甘いもの一つと大さわぎして妙なワッフルまがいを買いました。それにきょうは配給のお米を一回分だけ前の家へわけてあげます。そこは男の子(大きいの)ばかりで細君と若い女中がお米不足で大弱りしていますから。うちはお米はたっぷり前からのくりこしであるの。
 今この手紙下の茶の間でかいて居ります、二階はすっかりベッドひっくりかえして布団をほしているの。ですからスダレがおろされないでもう西日が眩しいのよ。目の前にはあなたのセルが風にゆられて鴨居から下って居ります。おあいさんは台所の外の日向でお米をほして虫とりをしています。
 ああそう云えば島田からの写真! つきました? 面白いわね、輝、なんてあの顔はおじいさんそっくりでしょう。まあるいおばちゃんの胸のところへちょいと抱かれて、面白いわねえ。あのしっかりさで、たった三ヵ月少しよ。輝はごく生れて間もないときから両手をひらいていて、普通の子のようにきつくにぎりしめていません。これも気の太い証拠よ。あの写真は珍宝の一つです。私の他愛のない口元を見て頂戴。いいわねえ。自分の一番まるくうつる角度なんかてんでわすれて、ホラ輝ちゃんと我を忘れているのだから罪がないと思います。あれも河村さんの息子の写真屋がとったのよ。すらりとした気質の子で、あれはいいかもしれません。この子に高校時代の写真で外国人の先生を中心にしてその左の端の方にいらっしゃる写真をそこだけ焼いて貰うことをたのんであります。それには感じが出ています。そういえばこの間は野原で小学一年のときのを見たこと、手紙に書いたでしょうか。
 シャボンを一つお送りしておきます。
 きのう一寸お話の出た綿入れは、大島の羽織、着物、茶じまの下へ重ねて着る分。赤っぽい縞の八反のどてら。めいせんのしまの厚いどてらがかえっていて、全部でしょう? これで。
 それから銘仙の上下おそろいの袷ね。袷は一そろいしかお送りせず、それはかえって来て居ります。毛糸ジャケツ上下もかえって来ていて目下クリーニング屋です。
 さあこれから二階へ行って、パンパンパンパンふとんを叩いてとりこみます。この頃はたのしんで早ねをして居ります。多分そのうちにすっかり好調になりましょう。チェホフは、自分の気持が紙と平らになるという表現で、仕事にうまくはまりこんだ状態を語って居ります。私には何かうまく歯車が合うという感じですが。では火曜日にね。一時ね。

 八月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月二十一日  第三十六信
 十六日のお手紙への返事、家については、火曜日に申上げたようにしたいと思います。いろいろとこの数ヵ月自分の気持をこねくっているうちに、段々一つの方向がついて来たようなところもあって、申しあげたように、決心もきまったところがあります。
 極めて現実的に、そして歴史というものをすこし先の方から今日へと見てみると、私の存在というものは、こうやって一つの生活を保ってゆくために、どんな苦心をしたかということにかかっているのではないのですものね。どんなに辛苦したにしろ、云ってみればそれはそれだけのことだわ。その辛苦の上に何を成したかがつまるところ存在を語るので、予備的な条件のためにもし全力がつくされてしまうほどであるならそれは熟考をしなければならないというわけでしょう。
 あなたが条件がかわって来ていることをおっしゃるのもこの点なのでしょうと思います。私はそれをあっちの道、こっちの道から、自分はどういう風に仕事をしどんな仕事をするべきかと考えて見て、その仕事をするための生活はどんな方法で支えられるかということを謂わば一日は二十四時間で人間のエネルギーはどの位かと考えて、そして、そこで幾とおりの事が出来るものかと考えて見て、一番大切なことを守らなければ意味ないとよくわかったのです。書けないということは、書けないのではないのですからね。育たなければならないわ。そういう育つべきこととして考えて、あっちのいやなこともこれ迄とちがった気持でやってゆけそうになって来たのです。
 これと、もう一つ内心ホクホクのことは、この間うちいろんな新しい小説をよんでいて、所謂書けないからこそ、とっくりそこの井戸は掘って見ようと思う文学上の新しい方法(というのも変だけれど)がちらりと心に浮んでいて、それがたのしみで私はこの二つのことを最近つかまえた狼の子と呼んでいるのよ。
 この頃の、抜き糸を箱の底へためたような小説がいやでいやで。文学はどこかにもっと堅固な骨格や踝(くるぶし)をもって、少くとも歩行に耐えるものでなければならないと思っているものだから。ヘミングウェイなんか実に暗示にとんで居ります。題材その他いろいろの点全くここにある可能とは異ったものではありますが、でも私にとってはやっぱり広い野面に視線が向けられた感じです。
 そういう狼の子たちの育つのが、育てるのがたのしみで、そのそれで新しく引越す生活に自分としてのはっきりした心持のよりどころ、中心が出来たわけです。都合のためだけで、ああいう空気の中に入ってゆく気は迚も迚も出ないのです。
 つかまえたものが心にあれば、私は愚痴もこぼすまいと思います。ぐるりの人たちの生活態度にばかり神経が反応するという弱さも生じないでしょうと思います。このことは私として最も修業のいることの一つよ。そのひとたちはそのひとたち、私たちは私たち、その各□の生きかたで生きてゆくということは分り切ったことで、しかも時々何だか感情が分らなくなるわ。余りいろんなものが流水の表面に浮んで、一方の岸で水はあっちへ流れているようなのに、こっちでは水はこっちへ流れているようだったりすると。
 でも、私はちっともそういうことについてよけいな心を苦しめなくていいのだし、おせいっかいはいらないことなのね。自分のことにもっと謙遜に全力をつくしていればいいのだわ。自分が全力をつくしていれば、あるところでその流れはやはりこっち向きだったのか、あっちむきだったのか、自然わかって来るのだから。
 そういう点も、つきはなすというのではない自分としてのわきまえをもつべきなのだと思ってね。それで益□自分の所産ということをだけ注意し、関心し、熱中すればいいのだと思うようになって来たわけです。どんな形であろうとも、そのひとはその人の歩きようでしか歩かないみたいなものだから。いろいろなかなか面白いことね。人間が俗化してゆくモメントは何と微妙でしょう、私は自分についてやはりそのことを考えるのよ。私の場合にはきちんとしたさっぱりした自分たちの生活をやって行こうと決心している、そのことのために丁度模範生がいつか俗化するような俗化の危険をもっていると思うの。こういうところなかなかの機微ですから。今のような生活の問題があって、あらゆる面から自分の生活感情をしらべる必要がおこったりすることも、有益よ。
 さて、チクマの本のこと。この案は立派ねえ。これは魅力のふかい構想です。しかし、云わば文芸評論をかき得るか得ないかという空気とつながった問題があってねえ。
 女性の生きかたの問題だけの糸をたぐれば、これは文学史を流れとおして今日に到り得るのよ。それはいつか書いてみたいと思っていますし、書けるのよ。
 いずれは文学作品だのから語るのでしょうが、形は、一つのトピックからひろがってゆく形、間口は小さくて奥でひろがる形になってゆくのではないでしょうか。だってね、さもないとそれぞれの時代の人間生きかたについての中心的な観念がいきなり辿られることになって、それはとりも直さず校長さんのかけ声となってしまうでしょう。
 親子のことについて漱石は、本当の母ではないということを知ったことから人生に対して心持のちがって来る青年を書いていますけれども、自分が実の子でないということを知って、それに拘泥してゆくそのゆきかたがどういうものか、というようなところから親と子の自然な健全な考えかたを導き出して来る、そういう風に扱ってゆくしかないでしょうね。自分の計画としては、そんな方法しか思いつかないのよ、可能な形として。階子の上の段からちゃんちゃんと一段ずつ下りて来て廊下へ出て、廊下を歩くという順には行きそうもないと思います。そういう堂々的歩調のむずかしいところがあるわけです。トピックとしてふれないものもあるわけですから。余り定式の行列歩調のきまっているものについては。一つ義務というものについて考えてみたって、私が本をなかなかかき出せないわけが分って下されるでしょう? イギリス人は紳士道の一つとしてデュティー・ファーストと教えます。しかしデュティとは何でしょう? インドに向って船を駆ってゆくそれはデュティであったのです。だからキプリングがああいう愚劣な女王の旗の下になんていう動物物語を「ジャングル・ブック」のおしまいに加えているのでしょう。
 本当にこの紙はひどくてすみません。伊東やへ行くと、先つかっていたようなタイプライターの紙があるかもしれないのだけれど、あっちへつい足を向けないものだから。原稿紙だって今時はなかなか自家用をこしらえるなんてわけには行かないのよ。私は自分の原稿紙だの用箋だのをつくらせるのは寧ろ滑稽な感じがするのよ、何々用箋だなんて。そんな紙に手紙かいて、一層滑稽なことは自分の名を印刷した封筒に入れてね。
 原稿紙もあたり前に何のしるしのないものをこしらえさせてはいたのです、用箋の紙はおそらくないでしょうね。あれば日本紙でペンでかけるのなんかでもまあ用に足りますね。ボロに還元するに時間がいくらかもつでしょう。
 ヘミングウェイの下巻、古で見つけました。上巻よりも何というかしらテーマの集注した部分です。二十世紀の初めから、たとえばトルストイに「ハジ・ムラート」があるでしょう、そのほかどっさりコーカサスをかいたものがあります。それからファデェーエフの「ウデゲからの最後のもの」、それからこの作品の中のソルド。ここでは又農民というものも歴史の水平線の上にあらわれて来て「チャパーエフ」、「壊滅」そのほか。こういう文学の筋を辿ると面白いことねえ。アメリカの文学の中でだってやはり随分面白いのです。一九二九年以後のアメリカの文学は、真面目に対手にされなければならないものであると痛感いたします。
 榊山潤というような作家は果して正気でしょうか、アメリカ映画その他外国映画の輸入が全くなくなることについての意見として、ドイツやフランスの映画がなくなるのはおしいがアメリカの下らない映画がなくなるのは何より結構だ、と。しかしパストゥールを映画化したのはどこでしょう。昨今大評判のエールリッヒを制作したのはワーナーですが、ワーナーとはどこの会社でしょう。エールリッヒになって科学者の精神と人間的威厳で私たちを感動させ六〇六号が何故六〇六号という名をもっているかを知らせた主役のロビンソンはアメリカの俳優です。ロスチャイルドの傑作、その他。妙なことをいう人があるものね。アメリカが気にくわんというのとは芸術家だったら別箇にわかりそうなものだのにねえ。せかついた世の中になると、めいめいが自分の専門の魂を自分で見失ってしまうようですね。どしどしといろんな専門の分野で専門から滑り落ちてゆく人がダンテ的姿で見られるという次第でしょう。
 ホグベンの「百万人の数学」が紹介されたとき日本で忽ち『百万人の数学』という本をかいて、それが悪い本だと云って石原純や小倉金之助におこられた竹内時男という工業大学教授があってね、その人が、この頃は「科学のこころ」というようなものが出て、その程度でいいものだとでも思ったと見えて「人工ラジウム」というものを特許局に請願して許可になりました。医療用として。ところがそれに対して、囂々(ごうごう)たる批難が学界におこって、日頃はあんなに仲もよくない物理・数学・化学その他の専門部が一致して物理学界の例会で討論をやり、竹内時男という人の学者的立場は、そのにせものの本来をむき出しました。この事に一般の関心と興味の向けられた情熱は一種まことに面白いものであったと思います、うそにあきているのでね。
 そしたら新聞か何かのゴシップに、この頃は彼の研究室に助手となるものがなくて閉口ですって。大笑いしてしまった。それでもやはり先生をしていたのかと、却ってびっくりよ。よく先生になっていますね。肝心の学問がそんなで、根性がそんなで、無上のスキャンダルをおこしながら。石原は原アサヲと一緒になって学校やめさせられたけれども、彼の学者的実力は決していかがわしいものではないのだそうですが。学校もひどいと思います、生徒こそいい面の皮ね。
 寿江子開成山からかえりました。あすこもすっかりかわりましたって。小二里ほどある山のまわりに兵営が出来て来年は寂しい林の間の道に小店が並ぶだろうと云って居ります。

 八月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月二十八日  第三十七信
 これはこれで、又妙な飾りつきね。イトウ屋の紙よ。半紙はやはりだめだそうです。九段へは電話をかけておきました。例によって二三日中には上りますそうです。北海道の方は一段落ついた由で、珍しく電話口で声をききました。
 さて私の方は、昨日、勇気を奮ってうらの林さんのおばあさんに話をいたしました。それは大した気合を自分にかけて出馬したのよ。けさ返事があって、あとに佐藤さんが入ることを承諾いたしました。五十円になります。それで可能であったわけです。一大事業をやって、ほっとして、今おあいさんに夜具の袋を買いにやったところです。佐藤さんが来るなら、いろいろあっちがちゃんとしないのにすっかり持ち出さなくたっていいし、こっちへよれるしいろいろと万事気が楽です。思い切ってまあよかったと思って居ります。全くあなたのおっしゃるとおり仕事部屋をよそに持ったっていいのだし、或る意味では、これ迄何年間か知らず知らず肩へ力を入れて暮して来ているのがやすまるかもしれません。少くとも島田へ呑気に行けるだけも仕合わせかもしれないわね。出ることを考えなければ行く気にならぬ、というところ何卒何卒お察し下さい。真面目な話よ、これは。まあ生活には様々の屈伸曲節があっていいのでしょう。たとえばKたちの生活を、何とかしてもう少しましにしてやりたいと気をもんだって、これ迄何ともなりはしなかったのだから、自分で自分として生活して行って、そこに一つの生活の流れが通っているものだから、おのずから何かうち全体が変化して来るというのでいいのでしょう。そういう意味からも謙遜に熱心に生活すればいいのだしね。私はよくよくああいうところでの生活術というものを考えました。本気で今度は考えて、追随もしないし、おせっかいもしないし、ちゃんとユリちゃんらしき世界を建ててゆく決心をいたしました。批評だけに終る批評はしないわ、もう。やってゆくだけよ。つまりあの家に欠けているのはそういう力なのですから。そういう点で、私はこれ迄幾度か林町へちょいちょい暮しましたが、今度は別の私としての段階で生活をはじめるわけです。この点もわかって下さるでしょう? 私にはどうしたって生々として皮膚にじかにふれて来る生活の風がいるのだから、今になってもあの空気を考えると涙が出るわ。苦しくなったら机と夜具をもって出かけるわ、ね。わかっているのです、息がつまって来て、バタつくのが。だから私がアプアプしはじめて、何とかうごきたがるときは、どうかそのようにさせて下さい、これは今からあらかじめ諒解ずみということにしておいて頂きます。あれこれの条をわかっておいていただくと、こまかいことについてごたごた喋らないでも話の意味がわかりますから。そのようにして開始したいの。
 今ここにきこえている省線の遠い音だの、いかにも秋らしい西日の光だの、そういうものを一つ一つ鮮やかな感情で感じます。
 生活っていうものは不思議なものね。本質的なものでないものでもそれが自分の生活として身について何年か経ると、そこからはなれるのに、丁度、植木をぬくとき細い根の切れて来るプリプリプッというような音がするのね。
 今度は生活というものについてなかなかいい経験をしたと思います。こういう形なら形で毎日の生活が運ばれて来ていると、その中のどの部分に大事なものがあるのか、ほかの形のついている部分はどういうものかということを吟味するのは、やはり根本的な問題がおこらないと、だらだらに、しかも一生懸命骨を折って形を守って暮すことになったりもするのね。
 私は指一本さされない暮し、というものにも地獄の口があいているのをよくよく発見して、面白いわ。それからいろいろな人とのいきさつにしろ私は、これまで何でもして貰うよりして上げる側にばかりいつしか立って来て、そういうならわし、自分の可能性から、家のものにきがねして友達を外へつれ出して夕飯でも一緒にたべるというそういう気分は余り味っていないわけね。ごく若いときから、自分の努力で、こう進もうという方へそのように進んで来たものが、或る時期に、その裏うちとなるいろいろの生活のニュアンスを経験するのは、決してわるいことではないと思えます。一本道に益□複雑な景観が加り変化が含蓄されるわけで、つまりは柔軟でつよい豊かさを増すことともなってね。悪くないぞとも思っているの。一つずつちがった経験を重ねて、段々自分を甘やかさないで生きる法を学び、人生で大切なものを大切としてゆくようになるということは考えれば愉しいことだわね。生活してゆく人間らしい適応性が、そのようにしてましてゆくということはねうちがあります。生活において、非常に運動神経が鍛えられていて、どんな角度が生じても自身としての均衡の破られない力がつくことは、これからの世界が私たちに求めている資質の一つね。
 ざっとこういうようなわけなの。ポツポツと月の中に荷物を動かします。チクマもまさか、合の手にこんな引越しがはさまっていようとは思って居りますまい。可笑しいわね。このドタバタが一かたついて、私はやっと落付きますでしょう。四月以来随分輾転反側でしたが。この家は足かけ五年でした。間に十三年という年をはさんで、十三年のときと今との心持をくらべて見ると興味があります。ずっと今の方が進歩して居ます、必然ですが。極めて巨大なスケールで、モラルを示されているし。こうやって、いろんな思いをして暮して、ユリが段々事物の価値をはっきり見るようになって、さっぱりして、しめっぽくなくて、かさばらなくて、そしてユーモラスであるようになれば、少しはほめてやってもいいと思います。
 ヘミングウェイの小説は相当なもので、自然主義期の感情の質との相異を沁々感じさせました。透明である憤り、憎悪、そういうものは今日から明日へのものね、例えばドストイェフスキーなんかにしろ、人間のそういう感情はいつも暗さを伴っていました。初発的とでもいうのか、あの時代には何だか感情はそれだけで暴威をふるったのね、人間をひきまわしたのね。理性は随分あとからいつも駈けてついて歩いていて、そして間に合わなかったのだわ。最近の十年の間に、そこが変った。これが現代文学の根源的変化です。感情の方向が変ったというより質が全く変っていて、ひろい内容を感情しているし、さっきの憤りにしろいやさにしろ、それはくっきりと感じられていてしかし作者はその感情で頭を濛々(もうもう)とさせてはいないのね。ここが急所です。十九世紀から二十世紀の三十年迄の文学精神は、云ってみれば濛々とすることそれ自体をよりどころとしていたようだけれど、ちがって来ています。私は父に死なれたとき、すきとおって、明るくて、悲しくて悲しくて、しかも乱れることの出来ない感情を経験しましたが、そういうものがひろがるのね。理解の透明さでしょうか。
 明るさの本来はこういうものであるわけですね。私がいつか手紙に、私は単に快活であったのだろうかと書いたことがあったでしょう? 快活さの上は、そのような明るみに通じる可能をふくみ、底は甘ったれやいい気や軽率さやにも通じるものね。快活が時にやり切れなく単調である所以ね。明るさは光りだからそうではないわ。色を照し出しますもの、ね。人は所謂朗らかではなくて明るくあり得る筈です。そういう明るさ、渋い明るさ。男らしさに通じるもの、それは人間の美しさだから女にも通じているのよ、女がもしもう少し動物的でなくなれば。或はそのことを自分で心づけば。
 ヘミングウェイの小説は、あれこれ濛々的文字の氾濫の折から実に快うございました。
 隆治さんこちらへ珍しく二枚つづきのハガキくれました。休み日でレコードを戦友がかけているそのわきで書いているのですって。七月二十六日に島田から書いた長い手紙への返事よ。きっとあんなに細かく書いてあるのにペラリと一枚ではわるいと思ったのね。この間あなたのおくりものやいろいろよかったと思います。では明日。きょうは乾いた天気になりました。

 九月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 本郷区林町二一より(封書)〕

 九月十日  第三十八信
 随分久しい御無沙汰になりました。この前は八月二十八日に書いたきり。あとはパタパタさわぎで、あなたもくしゃみが出るほど埃をおかぶりになったというわけです。
 きょうは私としてはいい雨よ。やっといくらか落付きましたから。自分の机をおくところだけ、どうやら埃の中から島をこしらえて、となりの室や廊下にはまだがらくたの山をのこしながら、エイ、と今日はすこしものを書いてさっき送り出したところです。
 八月二十九日に林町へ行って、さて、とからかみをあけて長大息をして、それからはじめて五日までに一応あっちのものをこっちへもちこめるようにして、目白の荷は三日にもち出しました。九月一日に、何と話が間違ったのか荷車が一台来て、ふとん包みなんかもち出して、一日おいて三日にオート三輪四遍往復して、あとリヤカー二台で大きいものを動かしました。本がえらくてね。重量も大きいし。それから四日にもう一人来て貰って二階へはこびあげて、畳もいくらか埃をはたき出して貰って、ともかく納めました。本はまだそのままよ。玄関わきの書生部屋に入っていて、これには閉口です。どうしたって出さねばならないから。五日には派出婦さんに一日休みをやって、七日の日曜日に佐藤さんが引越しました。引越しをすると、本当に簡単に暮したいと思いますね。私たちのような生活でさえやっぱりいろいろとごたごたがあるわ。としよりのいる家なんか全く大したものです。何のためにそういうものがとってあるかと思うようなものまで、やはり引越しについて来るのですものね。
 月曜日はおあいさんは目白に働いて、私はこちらに一人で、いろいろ古い雑誌の整理なんかをポツリポツリとやり、きのうの火曜日はあれからかえりに目白へまわって近所へみんな挨拶をして、おばあさんを新しく紹介しておそばを配って、そしてあっちで白飯たべて、九時ごろ野菜の袋を下げて、ホーレン草の種だの肥料の袋だの、ヘミングウェイの前の作品だのを入れた包みをもって林町へかえりました。大変妙だったわ、目白からかえるなんて。足かけ五年の古戦場ですもの、無理もないと思います。そして今度は派出婦のおあいさんやあの手つだいの若い娘さんやらだけが相手で、あすこへ引越すとき手つだってくれた人々は誰一人い合わせないのも感じ深うございました。さっぱりしたものよ。却って気が楽なようで、いろいろの感情を経験しました。軸がキリキリと回るとき、何と遠心力がつよいでしょうね。一人一人の顔を思い浮べると、みんな遠い遠いところに目下暮していたり、そうではなくても生活の上で大きく変化していたりして。歴史だの生活だのの力学は、昔のひとの転変と呼んだものですね。
 今は労働つづきで疲れるから全く枕につくとすぐという程よく眠ります。林町の間どり、ぼんやりとしか御存知ないでしょうね。八畳と並んで十二畳があって、この十二畳が問題の室なのよ。何しろバカに大きい床の間がある上に、間どりの関係から、うちで悲しい儀式があるときは、いつもこの十二畳と八畳とがぶっこぬきになって、神官がおじぎしたり何かして、奥は、誰もそこで暮したことのないという部屋です。
 だから今度はね、私が一つコロンブスになるのよ。そこに生活を吹きこもうというわけです。あたり前に着物がちらかったり、お茶があったりする、そういう生きた人間の場所にしようというと、咲枝はあらァうれしいわ、お願ね、ユリちゃんならきっと出来るわと大いに激励してくれました。私はこっちのひろい室へ大きい本棚を立ててね、あの白木のよ。その御利益に守られて大いに活力のある座敷にしようと思って居ります。
 今のようなときこそ本当の落付きがいるということ、実にそう思います。あれよ、あれよと景観に目をとられて、と云っていらっしゃるが、それさえ現実にはまだ積極の方よ。迚も景観に目をとられるというだけの余裕はなくて、あれよ、あれよといううちにわが手わが足が思わぬ力にかつぎあげられ、こづきまわされて、省線の午後五時のとおり、自分の足は浮いたなりに、体は揉みこまれて車内に入ってしまうという位の修羅です。
 年鑑のこと、ありがとう。それから、ユリがこういうことになると、ややそっぽ向きで素通りで、苦笑だって? そうでした? 御免なさい。そっぽ向いたりしていなかったのよ、ところが年鑑は今ごたごたで、手もとに出せません。すぐ見ないのはわるいわね。ホラ又ダラダララインというところね。でもきょうは御容赦。こんどはっきり間違いを自分でしらべておきますから。
 私は、僕等の家としては、というところから目を放さず、無限の想像をよびさまされます。私たちの家として何年間か暮して来た間には、住んでいるところがとりも直さず私たちの家で、想像もリアルなのよ。たとえば二階に一つ机があって、下の四畳半に机がおけて、六畳で御飯たべたりいろいろ出来るという工合に。そういう気持で暮しているのね。今のようになると、何とまざまざと、しかも空想的に、僕等の家というものが考えられるでしょう、そこは明るそうよ。大変居心地よさそうよ。さっぱりと清潔で、生活の弾力とよろこびと労作のつやにかがやいているようよ、何と私たちの家らしい家が思われるでしょう。今は心のどこかに、一つのはっきりしたそういう家が出来ています。その変化に心づいていたところへ、家の話がかかれていて、私の胸の中にある思いは、つよくて切れない絹糸のように、そこのところをキリキリと巻いてしめつけるの。しかも一方に腹立たしいところもあるの。そんなに鮮やかに、私たちの家が、明るくどこかに在る感じがするということが。分るでしょう?
 本を焼かないようにということもなかなかのことで、殆ど手の下しようがないことです。今書庫なんて建てようもないし、でも追々うちの建築家と相談して、今ある設備を百パーセントにつかう方法は考えましょう。
 引越しのゴタゴタの間、つかれるとちょいとひろげては、モームの「月と六ペンス」ゴーギャンの生活から書いたという小説をよみました。
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