獄中への手紙
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著者名:宮本百合子 

 二月の十三日は私の誕生日と母の命日とが重なるので何か特別よいことはないかしらと今からたのしみにして居ります。あなたはそれを覚えておいでになるかしら、忘れていらっしゃるかしらなど、中川でおべん当を注文する折考えました。
 ところで、二日にお目にかかって、私は本当に安心いたしました。三十一日に電報をいただき、一日都合よく行かなかった間はいろいろ心配――単純にそうでもないが、心労いたしました。二日には、あなたがそれまで二度お目にかかっていた時よりずっと馴れて、顔つきにも体つきにもあなたらしい流動性が出ていて、大変うれしく、本当にうれしかった。晴れやかな心持でかえりにいねちゃんのところへよったら、やっぱりよかったねとよろこんで、鶴さん[自注2]が何とかいったら、いい機嫌なのによしなさいよと云うから、私は平気さ、何と云おうと鶴さんのいうことなら自分の手足で自分をぶつようにしか感じやしないと笑いました。
 本がどうして順よく届かないか私には想像も出来ない。どうか都合よくゆくように。二日にお話のあった事については島田へ申上げて伺いましたから御安心下さい。弁護士の事も心当りを調べましょう。弁護士については御意見を直接におきき出来て大変よかったと思います。信吉叔父上は少し考えちがいをして私にお話しになっていました。
 二月は短い月だのに小説を『中央公論』にかかねばなりません。お正月の間は格子の上のはり紙をはがしておいたけれども又明日あたりから「まことに勝手ながらこの次お出で下さる時は火金曜日の午後にお願いいたします」を貼りましょう。実にいろいろなひとが来るものだと感心する位ですから。――
 一月の二十三日に行ったとき、売店から梅の鉢を入れるよう頼んだのですが、どんな梅がはいりましたろう。この家の庭に山茶花はあるが梅はありません。門を入ったところには、それでも赤松が一本あるの。私は、ホラ先(せん)動坂の家へ咲枝[自注3]が持って来てたべた虎やの赤い色のお菓子、ああいう系統の色の紅梅がすきです。ほんとにどんな梅が入ったかしら。白いにしろ紅いにしろともかく梅が入ったかしら。――どうも漠然たるものですね。
 運動の時間、あなたはどんなことをしていらっしゃいますか。心臓の抵抗力を弱めないよう、例えば朝体操をする時など柱でも壁でも爪先で体を突っぱってうんと押して力を出す事もよいらしゅうございます。私の心臓がひどくなったのも運動不足による衰弱です。どうかお気をつけになって下さい。それからお風呂の時桶や湯槽(ゆぶね)の縁をよく注意して、眼へバイキンなど入れぬよう、呉々お願いいたします。私の心配と云うのも謂わばそのようなことが主なのですから。――
 今夜本当は帝劇へベルクナーという女優が主演している女の心という映画を見に行こうかと思っていたのでしたが、家の中をコトコト動いていたので駄目。新交響楽団のベートウベンをずっときいているのですが、今度はパスをくれそうです。そうしたらうれしい。うちにピアノがほしいけれどもピアノがあったらよしあしだろうからそれよりレコードをきけるようにしたいと思っています。国府津へ国男が父親になった記念に大変いいラジオをすえつけて上げたので親父さんはもう、東京だと思って聞いていたらそれは上海であったというようなことがなくてすみます。箱根山の関係で、これまでのでは調子がわるく、うまくきこえるのは却って遠いそっちの方なのでした。いつか二人で聞いていて、私がそれを発見し大笑いをいたしました。
 近々に太郎が、生後まだ六十日ばかりのヒヨヒヨながら伯父様、即ちあなたに誕生最初の敬意を表して何か本をさし上げるそうです。湯ざめがして来たから一旦これでおやすみ。本当に床に入るのです。
 次の日の午後四時頃。(五日)雪どけの雨だれの音がしとしととしている。下の、北向きの部屋の濡椽には雨だれのしぶきがかかって下駄がぬれてしまった。
 きょうは久しぶりで髪を洗い、さっぱりしたと同時にクタクタになってしまいました。昼湯というのへ実に久しぶりにはいりました。私はどういう性か、子供の時分から髪を洗うととてもくたびれて、元は病気のようになったものです。さっき髪を洗って長火鉢のところでお茶をのんでいたら、トルストイの結婚の幸福の中に、女主人公である娘が、領地のテラスで湯上りで、ぬれている髪に白いきれをかぶってくつろいでお茶をのんでいるところへ、後良人となる男の人がゆくところが描かれていたのを思い出しました。
 ああいうとこの描写でも上手(うま)いわね。とことんのところまで色も彫りも薄めず描写して行く力は大きいものですね。谷崎は大谷崎であるけれども、文章の美は古典文学=国文に戻るしかないと主張し、佐藤春夫が文章は生活だから生活が変らねば文章の新しい美はないと云っているの面白いと思います。しかし又面白いことは佐藤さんの方が生活的には谷崎さんのように脂(あぶら)こくはないのですからね。
(アラ、どうしたのでしょう、小学校のラジオが大きい声で、株の相場を喋り出した。三十八円十(とお)銭ヤスだなどと喋っている。このラジオで朝子供らが体操をやります。徹夜したり、早起きしたりした朝私は二階の窓からその校庭の様子を目の下に眺めます。)
 この間の音楽会で広津さんにあいました。いつも元気ですねと云っていた。私が『日日』にかいた随筆のことをいっていたのです。さっきその原稿料が来た。短いもの故わずかではあるが、ないには増しです。
 あなたの召物や何か、これからは本のようになるたけお送りします。いろんな意味で流行(はや)っている本もお目にかけますから、どうぞそのおつもりで。きょうはこれでおやめにいたします。私は毎日、特別な心持でポストをあけて居ります。

  追伸。お下げになった夏の着物は三日ばかり前につきました。

[自注2]鶴さん――窪川鶴次郎。
[自注3]咲枝――百合子の弟の妻。

 二月十七日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕

 第七信 二月七日の夜からはじまる。木曜日。下弦の月。さむし。
 こんばんは。今、女の生活のことについての二十枚近いものを書き終り、タバコを一服というような、しかし心の中にはまださまざまの感想が動いているという状態で此を書きます。すこしくたびれた。今、口をきく対手がない。だから、これを書きます。昨日は今年の中で一番寒い日でしたそうです。品川沖へ海苔とりに出たお爺さん漁師がモーターが凍ったところへいろいろ網にひっかかったりして不幸にも凍死したという話があります。私はゆうべも仕事をしていたがあまり寒いので寝てしまいました。寝ながら、さむいといってもここには火鉢があるということを非常にはっきり感じました。あなたは霜やけにおなりになりませんか? 足の指に出来ていませんかしら。よくこすることです。塩をつけてこするといいという話をきいた覚えがあるがどういうものかしら。こんな紙に書いたのを御覧になるのは実に久しぶりでしょう。しかし不思議なもので、字はこれで手紙の字が書けていたのお分りですか? 原稿の字ではない。心持がちがうから、原稿のとおりには書けない。面白いものね。
 さて、おとといの晩、栄さん夫婦とシネマを見たことをすこしお喋りいたしましょう。グレタ・ガルボというスカンジナビア生れの女優が(特色のある顔つきの名女優です)クリスチナ女王というのをやった。何しろ早稲田の全線座というので、特等三十五銭で見るのだから、少し気のきいたところはすっかり廻っての果です。スウェーデンの若い女王クリスチナがスペインから王の求婚使節になって来たある公爵だかと、計らず雪の狩猟の山小舎で落ち合い、クリスチナが男の服装なのではじめ青年と思い一部屋に泊り、三日三晩くらすうち(ここはすっかり切ってあって不明)クリスチナが女であることがわかり互に心をひきつけられて別れる。御殿へ出て、はじめてクリスチナの身分がわかり、結婚をする気でいた野心家の貴族との張り合い、その他所謂映画らしい、いきさつがあって、クリスチナが到頭退位してそのスペインの男が帰国する船へかけつけると、当の対手は敵役に決闘をしかけられ既に瀕死。クリスチナに介抱されつつ死ぬ。クリスチナは夫が二人で住もうと云った崖の上の家へ住むために船出するところで終り。ガルボは、いい女優の特長として幅があるし、流動的だし、含蓄があるし、私は好きな女ですが、この平凡で謂わばセンチメンタルな映画を見て、私はどっち道不幸なめぐり合わせを描写して涙をこぼさせるようなのは、すきでないと感じました。この私の心持から或一つの話を思い出します。大変裕福に、大変愛され、何不自由なく育って多分高等学校にいるある家の息子が、そのおかあさんに、母様何故活動なんかが好きなんだろう。ひとの不幸や悲劇や、そんないやなものをわざわざ見てどこが面白いの、と云ったのだって。
 お母さんは 私閉口しちゃったけれど、やっぱり観に行くわ、と楽しそうに忍び笑いをして、デモ、もうあの先生は誘わないの、と私に云いました。その話を思い出した。これは私がいやだというのとはちがうのですけれどもね。今の世の中に、そういう心持の青年も生きているというのが私に印象つよいわけです。
 そう云えば『白堊紀』がそろって手に入りました。芝のおじさんが今月中にひっこすのですが書画骨董が多いのでその始末に閉口中。林町の父は、この頃ちょくちょく旅行に出かけ用事なのですが、正月には御木本真珠を見に山田へ行った話、まだ申しませんでしたね。御木本さんは元ウドンやだったそうで、その頃使った臼が故郷の山にしめを張って飾ってある由。そして先頃赤しおで真珠をやられたとき東京の支配人に打った電文は「アスカラテンコウツカエ」でした由。テンコウは砂糖のうちでやすい、赤っぽいてんこ砂糖です。一風あるでしょう。息子さんはラスキンの研究家で、元オーキという婦人服やのあったところへ茶をのませる博物館めいたものをこしらえています。ローザというのがラスキンの愛した女のひとであったそうで、ストーブのれん瓦にも、盛花にもバラ、バラ、バラ。よく私が服のかり縫いに行ったところが、どこやら面影をとどめながらそのラスキンハウスになっているから、この間父、スエ子づれで行ったら何だか可笑しかった。父がそのバラずくめを見て、例のふりかたで頭をふって曰ク「まだ子供だ」。でもミキモトさんはもうお父ちゃんなの。私は余技アマチュアというものの主観的な特長を一席実物について父に話してきかせました。
 おや、耳の中がキーンと云う。変ね。そろそろ寝ろとの知らせでしょう。馬のついた文鎮をのせて又この次。
 今は八日の午後三時。ひどい風の音にまじって、隣家の庭で炭やが炭をひいている音がきこえます。小学校の校庭の騒ぎはまさに絶頂。風でがたつく障子を眺めながら私は考えている、この家は仕様がないな。斯うすき間だらけでは、と。
 私は大変風がきらいなことを御存じだったかしら。このことと、むき出しの火を見ることが好きでない点は父方の祖母のおき土産です。おばあさんは、貴方御存じないけれども南風の吹く日はやたらに忙しがって用もないのにお離れでコトコト動いて、私が「おばあさま、どうなすったの」ときくと、「きょうは、はア、南風が吹くごんだ」と云って、あわてているの。春になって南風が吹くと私も閉口いたします。きょうは、夕飯を林町でたべて夜下町へ用事で出かけます。街燈のない広い大通りは宵のうちから淋しいものね(ではまた)
 もうきょうは十一日。何という日の経つことは速いのでしょう。きのうは雨のふる中を田圃道をこいで歩いてすっかりくたびれてしまいました。
 あなたに申し上げるのを忘れましたが、この間達治さんが広島へ入営したとき、私がお送りした御餞別の僅かな金で、黄色いメリンスの幟(のぼり)をおつくりになりました由。その手紙をお母様からいただき、私はいろいろ感服いたしました。
 私の机の上に一寸想像おできにならない物品がふえました。寒暖計。今五十度です。林町の母の臨終の枕元にあったものの由です。というのは私はその時、迚(とて)も寒暖計などは目に入れる余裕がなかったから。この頃の朝六時前後は何度かしら。○下何度かしら。尤もここのでは分らないようなものであるが。大体風の天気がつづいて感心しませんね。
 きょうは二月十七日の日曜です。きのう一昨日はすっかり春めいて暖かであったがきょうは又時雨(しぐ)れている。そして寒い。この部屋はよく日の当る時で五十三四度。今のように寒いと四十六度ばかりです。四十六度は華氏で摂氏だと八度です。五十五度が十度よ。
 十三日の誕生日にはスエ子からインクスタンドと父から柱時計を貰いました。インクスタンドは黒い円い台の上にガラスの六角のがのっていて、黒いフタのついたもので、しっかりとした感じです。柱時計は皆の意見によると私に似ているんですって。つまりずんぐりなのです。父もお前に似たのをさがしたと申しました。どちらかというと粗末なものなのだけれども、これで私は時計はどれもそれぞれ因縁のあるものをもっていることになったし、寒暖計もあり 馬のついた文鎮、ガラスのペン皿もあり、それぞれのものが皆私の机のまわりで様々の物語りをして生きているようです。下には長火鉢も茶だんすもあるし。
 スーさんがなかなかいい詩をかいたし、栄さんが面白い短篇をかいたし、活溌です。私は一昨年書きかけていた小説を今の心持で書き直して完成させるつもりです。
 この頃は、寒いといっても気温がゆるみました。私はどうかして夜更かしをせず早起きをして、仕事をして行きたいと思います。長いものを書くためには徹夜などもってのほかですからね。このためには大分がん張らないとどうしても夜更かしになるから困ります。稲ちゃん一家は、徹夜が日常です。こまったものね。今度の手紙はこれで一まずおしまいにいたします。リンゴをあがって下さい。きっときっと。

 二月十七日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(国枝金三筆「麗日」の絵はがき)〕

 二月十七日 日曜日。
 外で鶯の声がきこえますけれども又曇って寒いこと。用事を申しあげます。島田父上からお手紙にて、松山の学校の頃のお金は八円何銭とかであったが、それはもう当時に支払ってあるから安心するようにとのことでした。島田では達治さん御入営後、いい運転手が来て車を大切にするので母上およろこびです。リンゴをお忘れなく召上って下さい。

 三月十七日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕

 第九信 二月二十日の夜。かき始める。風が強い。遠くに犬の吠える声がする。
 きょう島田から達治さん入営の時の写真が届きました。島田のお家の前の往来に一杯御父上、母上、軍服を着た達治さん、むっつりした隆治さん、国旗を手にした信吉叔父上その他を中心に見送りの男の人達が円く溢れたところをとったものです。あの狭い往来のこちら側からむかい側の軒下まで人でつまっていて、もしバスがあのときやって来たら、きっとバスの方で待たなければならなかったであろうと思われるほどの盛況です。御母上様が丸髷でお手をちゃんとそろえ、いかにも「……ちょります」という風におうつりです。達治さんはすこし人に当てられ気味の表情です。幟がいく本も立っている。私の分としてこしらえて下さったという黄色いメリンスのというのはどれだろう、これがすこしダラリとして重みがあるようだからこれかしらなどと栄さんと話しました。きょうはもう一つ写真が出来て来た。それはいねちゃんと私とが大きいアルミの薬(や)カンをかけた私のうちの茶の間の火鉢をさしはさんでとったもので文学雑誌のひとがとったのです。いつかやはり別の文学雑誌が私の机の前にいるところを横からとったのがあった、それに似ているという話です。
 きょうは二月二十日で、いろいろの感想をもって暮しましたが二十三日におめにかかりに出かけますから、この手紙よりどっち道私が先にお会いすることになりますね。
 何とおかしいのでしょう。今これを書いていて、あなたのお体はどうかしらと考え、それを伺うと、実際は私がお会いした後の御様子をきくことになるのですものね。
 着物のことも、そのほか本のことも、おめにかかって伺いましょう。きょうは久しぶりで机の上に赤いバラの花を一輪買いました。きょうまでは、正月の二日に国府津の山で採った梅もどきの実をさして居りました。よくもちました。
 私は今、どういっていいかしら、一寸面白い心持でこの手紙を書いて居るのです。心のしんでは、そして頭では、ひどくこれから書く小説のことについて集注的になりながら、何かそのための媒介物のようにこうやってこの手紙を書き、段々心持の落付きを深く感じつつあるの。
 私の机の上には又、レビタンというチェホフ時代の風景画家の描いた「雨後」という絵をハガキにしたのが一枚ある。非常にうるおいあり情趣あるリアリズムの画で、北の海フィンランド辺の海の入江の雨後の感じが活きて居ります。フィンランド辺の海は真夏でもキラキラする海面の碧(あお)い反射はなくて、どちらかというと灰色っぽく浅瀬が遠く、低く松などあって、寂しさがある。波もひたひたなの。濤の轟きなどという壮快なのはない。虹ヶ浜へは去年のお正月行って海上の島の美しい景色を眺めました。でも大変風がきつかった。そして、さむくあった。
 黒海は実に目醒めるばかり碧紺の海の色だのに、潮の匂いというものはちっともしないので、私は、あらこの海、香いのない花! と云ったことを覚えて居ります。日本の海はそういう点だけから見ればやはり相当ようございますね。
 湯ざめがして来てさむいのに、海のことを書いていて猶寒い。あなたはもう六時間ばかりするとお起きになるでしょう。よくお眠り下さい。たのしい夢ならば見るように。
 中絶してきょうはもう三月の十七日です。一つの手紙でこんなに永くかかるのは珍しいでしょうね。
 きょうも風がつよい。日曜日です。そしてあなたのお誕生日の十七日。九日から毎日ボーイがお使いに来て書けた丈の原稿をもってゆくという風で十三日の朝七時頃すっかり七十二枚かき上げました。小説としてよいかわるいかとにかく全力的に書いたことだけ自分にわかって居ると申す工合です。いずれにせよ、「小祝の一家」よりはよいのだから、私はあなたにあれしかよんでいただけないのが大変残念なわけです。
 ところで、十三日は母の命日故、一睡もしないうち林町へ法事に出かけ前後一週間、眠ったのかおきたのか分らぬ勢で仕事をしたためすっかり疲れ、未だに体がすこし参って居ります。
 手紙は大変御無沙汰になって日づけを見ると、殆ど一ヵ月近くかかなかったことになりました。御免下さい。御注文の本のことはきっとはかばかしくゆかないのでいろいろ御不自由と思いすみませんが、段々うまく致します。この間うち私は血眼だし、ほかのひとに書きつけを書いて貰ったら、もしや私が病気ではないかと心配なさりはしまいかと思ったりして本まで少しおくれました。間をおかず昨日と一昨々日送り出しましたが、どうかしら。
 ともかくこの手紙は何か遑(あわただ)しく半端ですが、これだけにして送り出します。『辞苑』辞書としていいであろうと思うがいかがでしょうか。すぐ又書きます。林町の皆からもよろしく。

 三月二十五日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕

 第十信 三月二十日 水曜日
 今この手紙の中には太郎の泣き声が混って居ります。林町の食堂の真中のテーブルで、太郎がねむがって泣き立てているところで書きはじめました。きょうはいろいろ賑やかな日でした。
 先ず昨夜久しぶりでいねちゃんがやって来た。春めいた日だったので、私は家じゅうをあけ放し、来ていた女の客としゃべっていたら門の中の板塀の下から見馴れた羽織が見え、いね公やって来たら、長火鉢の前にぺたぺたとなってニヤリニヤリ笑うだけでろくに声も出さないの。大腸カタルのひどいのをやって、もう殆ど三週間経ちますがまだやっとおもゆの親方をたべているところ。春の風にふらふらやって来て、おまけに近所の原っぱへ私を散歩につれ出そうとしたのですって。それどころでなく、夜はお魚のスープをこしらえて御飯をスーさん、栄さんとりまぜ四人でたべ、丁度送って来た『文学評論』などよみ、いろいろ話し、十二時頃になった。
 行って送ってあげようと云っているうち、私はきょうの用事を思い出しついでに一つふろ敷包みをこしらえてそのまま林町へ来ました。配膳室のドアをわざとコトコト叩いたら、内の連中は時間が時間だし何が来たのかと一どきにこっちを見ている。そこへ私が現れたというわけ。
 けさは、二階に眠っていた父(私の来たのを知らないから)がおきたのをききつけて、洗面所でバシャバシャやっているうしろからいきなりびっくりさせ、それから電話を一つたのんで、又こんどは二階のおやじさんの空巣へもぐり込んで例によってお眠りブー子をやって、おきて来たら、すぐ私のいつも坐るところのテーブルに、あなたからのお手紙(父宛に、三月十四日にお書きになった分)がのっていた。封が切ってある。父が読んで私の目につくところにわざと置いて出かけたのでした。家じゅうのものがよみ、特に咲枝は太郎の生後百日目の食い初めのお祝い日であったのでうれしかったらしく、夕方、ハガキであなたへのお礼を書いて居りました。父は、深く心を動かされたらしく却って私に向っては何も云えない風で、しきりに島田のお父さんのこと、あなたは何か不自由なものはないか、金はあるのだろうかなどきき、朝は、私が電話をかけておいて下さいとたのんだ法律事務所へ自身出かけて行ってくれました。
 私へ下さる通信の書籍の名で占められている部分、また非常に要約された文章、またはあるときは全く言葉としては書かれていないことがあっても、私に感じられているものが、父へのお手紙の中には横溢されて居るのを感じました。くりかえしくりかえしよみました。私はこの頃非常に小説を書きたい心持になっているのでお手紙から受ける感情はすべて、その方向に私の心の中であつめられ、鼓舞となります。ありがとう。
(今日は前半を書いた日から五日経った三月二十五日です。ひどいひどい風。空にはキラキラ白く光る雲の片が漂って、風はガラス戸を鳴らしトタンを鳴らし、ましてや椿(つばき)、青木などの闊葉を眩ゆく攪乱(かくらん)するので、まったく動乱的荒っぽさです。春の空気の擾乱です。二階には落付いていられない。机の前は西向の窓でいたって風当りがつよく、下落合の丘陵から吹きつける風で、いつかは障子がふっ飛んで手摺を越し下の往来へ落ちた。今は下で、茶ダンスの横に、坐る大きい三つ引出しの机がある。そこでこれを書いて居ります)
『中央公論』の「乳房」は伏字がなくてうれしゅうございます。出来、不出来は当人には今のところ不明です。一生懸命にとにかく体当りでやったから却ってそんな風なのでしょう。重吉という男の細君のひろ子という女の活動の間での心持を主として描いたのです。一昨年の秋百枚近く書いてあった、あれをすっかり書き直し、いわば全く別ものがそこから生れ出したという工合です。
 これを書いて、いいことをしたと思います。これを書き直し、ものにしないうちは外のものにとりかかれぬ気持の順序でしたから。――
 この小説をかいたので、『社会評論』に半年契約で書いている女の生活についての感想は四月やすみました。きょうこの手紙を終ってからその支度。
 ところで、きょうは風のひどいほかに、私は落付かない心持がして居ります。ほかでもない、あなたに御入用の本のことについて裁判長にやっと明日面会できる始末だから。先週は祝日があって、一日おきのところがすっかり飛び、土曜日は、『文学評論』の用でだめでした。どうぞあしからず御察し下さい。
 差入れの本は、いたって無秩序にしか入れられないですみませんが、こちらもこの頃段々様子がわかって来ましたから次第に工合よくなると思います。
 この間の世界地図は、ひどいのでしたが、無きには増しと存じ、いまにもっとましなのを買ったらとりかえましょう。語学の本はもうつかっていらっしゃいますか?
 坪内先生が死なれて、私はあちらこちらから感想をもとめられましたが、先生と私との間には所謂師弟としての絆(きずな)は浅くあったし、年の差以上の差が互の歴史性の上にあり、『文芸』にそのような短いものを書いたきりです。坪内先生の生涯を考えるにつけ、様々の教訓があるが、後進に対する包括力のひろさということ、客観性ということの重大さを深く教えられる。抱月が坪内先生の常識的モラルにあっては包括され得なかった点など、ね。面白いと思います。早稲田出の代議士が勲一等を貰ってあげようとしたがことわったことは、又先生の賢さの一面でしょう。白鳥が坪内先生によって文学の道を学んだのみならず、生死に処する道をも学んだと云っているのも興味がある。財産を大学に寄付し、しかも生活は安定であり得る方法において生死に処する道が見出されている。そこを白鳥が教えられたと感じているところ。
 私は、相変らずいろいろのことを面白く観察し不自由な毎日の生活をもやはりそのように自分ながらあちらこちらから観察し暮して居ります。私はますます物事に深くそして広い感興をもち得る人間になりたいと思って居ります。体を丈夫にして、ね。それにしても、この風はマア、何だろう!
 作家の感性のことについて。感性のことはやはり究極は見かたの問題だし、人を動かす作品の力がただ写実では足りなく、ロマンチックな要素がいるというAさんの見解もロマンチックというだけではずっているし、時間があったら一寸した作家としての経験を土台としてこのことをも書いて見たい。いろいろやりたいことが多く、私は自分が余り精力的でないナなど思います。今、私のところは女中兼作家の生活故、マア、ごみをためてもかくつもりです。
 島田の父上のお体は相変らず。わかもとが大変お気に入って居ります。気は心だから、こちらからお送り致して居ります。達治さんは自動車隊ですってね。お母様のおたよりにありました。
 てっちゃんも相変らずねんばりとかまえて悠々して居る模様です。弟がお母さんと上京してどこかにつとめている由。てっちゃんのおくさんの体がよくなくてね。光井の叔父上も相変らず、かっちゃん[自注4]のお嫁入りはもう二三年のばす由です。このかっちゃんと、私は虹ヶ浜へ昨年の一月行きました。それは冬の海で松林が私に多くの想像を刺戟しました。あの松林に月がさしたらどうであろうかと。そして、あなたのかりていらしたという家[自注5]を眺め。
 そちらで着物はもう冬着ではむさくるしいでしょうか、まだ袷(あわせ)は早いかしら、夜具も、うすいのをこしらえてお送りいたしましょう、夜具は五月に入ってからでもよかろうと思います。スエ子のハガキ御覧になりましたか? では又。御元気で。

[自注4]かっちゃん――顕治の従妹。
[自注5]あなたのかりていらしたという家――顕治が大学一年の夏そこで暮した。

 四月十一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕

 第十一信 四月十一日の夜。
 きょうは、何と暖だったでしょう! きのうあなたの四月五日づけの手紙をいただき、元気になって仕事をして、ゆうべは十二時頃一旦ねて又おき、その「花のたより」と題する感想を終ろうとしたら、もうベッドに入ってからつる公がやって来て、詩の話や秋声の話やらをしてすっかり予定が変更。けさは十時頃おき、書きあげた原稿をナウカへ届けて、それからスエ子が三四日前から入院したケイオーへまわろうとしましたが、本屋を歩いたのでくたびれ、雨も降って来たのでそのままかえり、栄さんのところで新鮮な野菜をいっぱいたべ、家へかえりました。今は夜の十一時すぎであるが机の上の寒暖計は六十三度です。冬中この二階は隙間風がひどく四十度前後であった。でも私も今年は風邪をひかず、その事ではあなたの御自慢にまけません。私の方は健康だわしの励行が大分によい結果を示しているらしい様子です。この頃は、毎年のことであるが、どちらかというと疲れ易く、しかも眠い事と云ったら! それはそれは眠くて春眠暁を覚えずという文句を、実に身を以て経験中です。バカらしく眠いが、これは何か必要があるのであろうと思い、ゲンコを握ってグースーです。グースーと云えば、今度の稿料で私は自分のためには、辛うじてベッドを一つ買うことが出来ました。二階のこの間まで机を置いた方がこの頃は西日で眩ゆいので机は六畳へひっぱって来て、そちらにはベッドを置いております。ピアレスのベッドで三つに折れるの。低くてスプリングもよいから、仕事してくたびれるとそのまま体をよこにする事が出来て大いに能率的であるわけです。つる公も椅子テーブルの方が疲労が少ないから大いにそれでやると云っているが、いつその道具立ては出来ることやら。
 私のベッドというと人聞きがよいけれど実は、そのベッドには本式のマトレスはまだついていないのです。普通の敷布団がのっかっているの。この次の小説でマトレスは出来るだろうという次第です。
 ドーデエの小さいものが面白かったそうで私はそのお下りをきょうからよみはじめます。私のよんだのは「サフォ」やグリグリというお守りを崇拝しつつひどい寄宿舎で死ぬ哀れな黒坊の小王子の話などです。ドーデエがパリの二十五年間の思い出を書いたのは忘れられず面白い本でした。南フランスから出て来て第一の朝オペラ座の裏の焼鳥屋のようなところで飯をたべる、作家志望の若い貧乏な自分を描いていて、実に情趣ゆたかであった。ドーデエは妻と大変むつまじく暮して、部屋のこちらの端のテーブルについてドウデエが一枚小説をかくと小さい息子がヨチヨチそれをむこうの端にいる母さんのところへもって行って、そうやって仕事をした。そのような思い出が書かれていた。私はよっぽど前によんで、トルストイと妻とのいきさつの正反対の例として、強く印象にのこされました。計らず昨今は、つる公といねちゃんとが、二台連結で、どっちが書いているのか分らないみたいにある時は仕事をしている、その様子を見る光栄を有するけれども。
 小説「乳房」の出来については、読んでいただけなくてまことに残念ですが、一寸一口に云えないらしい。鉄兵さんは完璧であるが退屈であるといい、しかし退屈という表現が当っていないと見え、友達たちは退屈とは云わぬ。「進路」でも作者と主人公がくっついていたが、そういうところがあるといね公が云って居ました。直子さんにきょう郵便局のところで会ったら感心しましたと云われ、私は、いろいろ問題があるでしょうがと挨拶せざるを得なかったわけです。季吉さんたちから左向けで突走っているというようなことは半句も云わせなかった点をどうぞ買って下さい。戸坂さんは作品を、生活態度として買ってしまって百パーセント信頼してくれるけれど、作品批評としてはそれを承服しない人もあるでしょう。
 重治は現実につめよっているが丸彫りにしていないと云ったが、そういうところか。
 いずれにしろ、前へ、前へで、今は、次の小説のことと、冬を越す蕾と題する随筆集出版の仕度中です。
 詩の事につき、又他の書くものにつきゆうべも話したが、私たちはまだ縦横自在ではないことを痛感し、もっとオク面なくなって、しかも正当な焦点をもつようになりたいと頻りに話したことです。小説を書くについても新しい現実の内容が豊富複雑錯雑して居て、直さんは小説勉強というものを『文学評論』にのせて、現実をいかにつかまえんかと苦慮して居ます。
 ところで、今住んでいるこの家は、小学校のやかましさと風当りのつよさで閉口し、且つ水道のないことで参って、どっか近所にいい家があったら引越したいと思って居ります。いい家はあかない。困ったものです。「乳房」を書いた時は、切っぱつまってからは、前の同じ大家の長屋が一軒あいた。そこへ机と椅子を持ちこんで昼間居りましたが、それでは落ち付かないのです。
 夜はこの二階はいい心持ちです。全くしずかで、この頃は居ながら桜をあなたこなたに眺め、寂とした校庭のむこうに当直室の灯が見えたりして。私は他の作家たちのように夜だけ書くのが好きではないでしょう。私は昼間が好き。しずかな昼間の部屋でものを書くのは何と健康で、ゆったりとしていいでしょう。丁度午後のそういう時間が体操とかち合って、ここの学校の先生はさながら自分の肉体の柔軟さと力感と肺カツ量とをたのしむように空まで声をひびかせて、ソラソラソラ手をあげてハッ、ハッもう一ついきましょう、シッシッと。それは(アラアラ地震です、ゆれる、ゆれる。眠っていらしって知らないのでしょう?)活溌です。女の子が声を揃えて一(イー)、二(ニー)とかけ声をかけたり、女の子が力をかっきりこめず、イー、ニー、と澄んだ声をそろえて〔後欠〕

 四月十四日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(はがき)〕

 第十一信の(二)[#「(二)」は縦中横] 太郎はこの頃それはチューチューとひどい音をさせて自分のゲンコを吸います。ちび公(プチショーズ)を今よんでいて、あなたが何となく少年時代をいろいろお思い出しになっただろうと感じました。『白堊紀』の小説はそれより後のことが書かれているわけですね、面白かった。楓(かえで)の若芽の下に朱の房のような花が咲いている、楓の花というものは四月の今ごろ咲くのですね、私はさっき林町の庭を歩いて青い芽の美しさでボーとなるようでした。一九三五・四・十四日、これで終り

 四月十八日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書 まき紙に毛筆書 表に「戸籍謄本壱通領置」とある)〕

 きょうは又寒い雨がふります。庭の紅椿花がぬれて、雨だれの音がしきりである。今島田のお母様に手紙をさしあげました。そのついでに私の斯ういう手紙を御覧にいれます。
 いつぞやお話のございました配偶の改姓に御いりになる戸籍謄本を同封いたしました。
 近日中おめにかかりたいと思って居りますが、とりあえず謄本をお送りいたします。
  四月十七日

 四月二十一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(赤城泰舒筆「雨海を渡る」の絵はがき)〕

 第十二信の別。四、二十一日
 きょうはもう初夏のような気温で、八重桜の花びらが庭へ一杯ふきこみます。冬の間に枯れてしまっていると思っていたバラの幹から、さっき庭へ下りて見たらサンショの芽のような芽生えが出て来ている。弁護士は面会にゆきましたでしょうか。どうかリンゴをよく召上れ。袷おそくなってすみません。

 五月九日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(はがき(1)[#「(1)」は縦中横](2)[#「(2)」は縦中横]〕

 五月九日午後、林町にて。(1)[#「(1)」は縦中横]
 きょうは何と暑いでしょう。私はもうひとえを着て居ります。そちらもきょうのような日はお困りでしょう。三日におめにかかって帰りましたら倉知の叔父[自注6]が(六十九歳で)午後四時に亡くなり、三四日そのために忙しく、私はカゼをひいてひどく咳が出ましたがもう大丈夫です。咲枝は後のことをいろいろ心痛して居りますが、太郎のお乳のことを考え、気をしっかりもって居りますから感心です。きょうは父がおなかをわるくして二階で臥床中。私は食堂でこれを書きます。風の音がストーブの中でボーボーいっている。
 (2)[#「(2)」は縦中横]先日腹巻はもうお送りしてあるように申ましたが、やっぱりこちらにありましたからすぐお送りいたしました。もう召していますか? 急にこう暑いので、私は少しあわてて居ります。いそいでセル、単衣羽織その他さしあげましょうね。御注文の本、一冊だけ品切ですが、二十日ほどたつと改版ができますからそれを入れましょう。
 小学校のラジオで私はこの好季節をヒステリーになったから、目下しきりに家さがし中です、近所で。近々又おめにかかります。

[自注6]倉知の叔父――偶然同じ日に書いたこの二枚つづきのハガキが、この家から百合子が書いた最終のたよりになった。[#実際は五月十日付が最終のたより]倉知の叔父――咲枝の父。

 五月十日朝 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(山下新太郎筆「海棠」の絵はがき)〕

 五月十日、第十三信の副。
 五月三日におめにかかってかえりましたら、午後四時すぎに倉知の叔父が六十九歳で死去いたしました。私はいそがしいので儀式だけですまそうとしたが、親身なため心持もすまず三日ばかりすっかりそのために時をつぶしました。緑郎が一番可哀想です。咲枝は太郎の乳がとまるといけないと思ってしっかりしていたから感心でした。
 腹まきはやはり家にあってまだお送りしてなかったので至急送り出しました。私はひどいセキで吸入をしたりキンカンの汁をのんで居ります。




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