マクシム・ゴーリキイの伝記
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著者名:宮本百合子 

 物も云わず、ゴーリキイは机にのっていた分銅をとって、主人目がけて振り上げた。主人は平ったくなって叫んだ。
「な、なにをするんだ――冗談じゃないか!」
 冗談に云ったのではない。それは分っている。いやらしい貸本屋と手を切るためにゴーリキイは五十哥だけ盗むことにきめた。三日ばかりというものゴーリキイは深くこの計画で苦しんだ。いつか主人が、妻や婆に反対して「この子は盗みなんかしないさ。ちゃんとわかっている」その言葉が甦って、ゴーリキイの手を縛るのであった。ゴーリキイは平常の顔色をなくして来た。それに心付いたのは一家の中で少しは人間らしいところのある主人であった。
「ペシコフ。お前元気がなくなったぞ。体がわるいのか?」
 ゴーリキイは、自分の困っているあらいざらいをぶちまけた。
「それ見ろ、本なんぞ読むからこんなことになるんだ」
 彼は五十哥をゴーリキイに握らせ、念を押した。
「いいか、妻にも阿母さんにも口を辷らしちゃいけない。――騒動が持ち上る。」そして悪気のない調子でつづけた。
「お前は強情な奴だな。だが、それは、それでいいんだ。心配することはない。然し本だけはやめろ」
 主人が家で『モスク□新聞』をとるようになった。お茶から夕飯までの時間、ゴーリキイは口論しないときには「退屈し切っている人々の胃の働きをよくするために」『モスク□新聞』の隅から隅まで音読して聞かせた。皆は熱心にそれを聞いた。その癖片はじから忘れたり、事件を混同したりして呻くのであった。
 やがて、ゴーリキイは主人達の寝台の下へ突込まれたままになっている『絵画評論』『火』などという雑誌を、台処へ持ちこむ権利を獲得した。しかし、台処の蝋燭は毎晩居間へ持って行かれてしまった。ゴーリキイは、さりとて蝋燭を買う金がない。ゴーリキイは一工夫をこらした。燭台の蝋をそっとかき集め、それを鰯の空罐に溜め、少し燈明油を加えて、糸の縛ったのを燈心にした。それは毎夜煖炉の上で燻った燈火となってゴーリキイと本とを照した。本の頁を繰るたびに、弱い赤っぽい焔は揺れ、顫える。ひどく臭く、煙は目にしみた。けれどもこういう不便は彼の前に次第に拡がりゆく世界の知識に対する歓喜の前には、決して堪えられぬものではなかった。本と一緒にいる時だけゴーリキイがそこから逃げ出したいと思いつづけている製図師一家のだらけて、悪意がぶつかり合っている環境が遠のいた。塵芥(ごみ)捨場となっている穢い窪地。青いどろどろの水溜り。サーシャの呪や、番頭の盗みや、忘られぬ靴屋の主人の褐色の家が絶えず真向うに見えているという窒息的な目の前は広々と拡大せられ、プラーグやロンドンの都市の美しさが、そこで行われている生活がゴーリキイの世界の中のものとなって来た。そこには、市街の真中で無遠慮に悪臭を放っている塵芥捨場などはない。又、半年の間続く厳しい冬もなければ、本を読むことさえ罪になるという正教の大斎週間のような納得のゆかない習慣もない。パリでは、馬車の御者、労働者、小僧のような「下層民」でもゴーリキイが毎日目撃しているニージニの町などのそれとは違った暮しをしており、「下層民」でも極めて大胆に紳士と口をきき、あっさりした態度で自由に振舞っている。ゴーリキイは大デューマの小説を読んだ。グリンウッドを読み、バルザック、ゴンクール、オータア・スコットなどの作品を、貪り読んだ。そして「屡々読みながら泣いた。これらの人々はそれ程愛らしく親しかった。そして、馬鹿げた仕事でひきずり廻され、馬鹿げた悪態で辱しめられる小僧であった私は、大きくなった時には、これらの人々を助け、正直に彼等の役に立とうと云うおごそかな誓を立てたのであった。」
 辛い日常生活が与える現実の苛責ない鍛錬によって十三のゴーリキイは、書物に対しても鋭い独特の観察と批判とを蓄積するようになった。新しい翻訳の本を読むごとにロシアの生活と外国の生活との違いが彼にはっきり理解されて来たばかりでない。どの国で書かれた本にしろ多くの物語風の書物の中には、善玉、悪玉があってそれが勧善懲悪的な筋で終りを結ばれている。が、ゴーリキイが実際の民衆生活の中で自分の体で経験しつつある人間は、そういう善玉・悪玉のどれにもあてはまらない。例えば書物はよく悪漢、慾深、卑劣漢などが出現するのであるが、本に出て来る悪漢その他は、いかに惨忍であるにしろ、その惨忍さはどっちかというと事務的で、何故その男がこんなに惨忍なのか大抵その理由や動機がわかるように書かれている。ところがゴーリキイが幼年時代に祖父の家で観た惨忍、靴屋の小僧時代経験させられたサーシャその他の惨忍、更にヴォルガ通いの汽船の上で数限りなく目撃し、自分の身をさらした惨忍性は「無目的な無意味なものだ。それによってどうしようというのではない。ただ慰みのためにするものなのだ。」本の中にはゴーリキイにとって忘れ得ぬスムールイのように獣的な粗野なものと優しさとの混りあった人物は出て来ない。本に描かれている多くの主人、司祭は、実際のものといつもきっと、どこか違う。――
 指導してのないために乱読せざるを得なかった十三歳のゴーリキイが、現実と文学との間に在るこの微妙な一点に観察を向け得たという事実は、注目すべきことであると思う。まだ五つ六つだった頃、祖父の家の下宿人「結構さん」とゴーリキイが取交したあのいかにも生活的な、ユーモアと生活力とに満ちた問答が思い出されるのみならず、後年のゴーリキイが作家として現実に向って行った態度の根本的な面が、既にこの献身的な読者としてのゴーリキイの判断の現実性の裡に強く閃いている。当時彼の手に入った本の作者の中で型にはまった善玉・悪玉がなく「あるのは只人々だけ。不思議に活々した人々」の生活だけを描いたのは、僅にゴンクールとバルザックだけであると思われたという回想は、今日彼の全生涯を見とおす立場に置かれている我々にとって、実に意味深い示唆を与えるのである。
 この年配において、ゴーリキイが善玉・悪玉を人間的な心持から嫌悪したばかりでなく、本が少数の例外を除いて「皆、主人の家の者共と同じように人々を厳しく叱ったり、したり顔で批判したりしている」ことに歴然とした反撥を示していることも亦将来において展開された芸術家としての特質の萌芽として見落されてはならない一点である。ここには、本を読んだからと云って殴られる台処働きの小僧の中に燃えている人間的尊厳の抗議、給料を祖父にとられる貧しい小僧だから、淫売をする洗濯女といちゃついて、酔倒れた兵卒のポケットから財布を掠めもするだろうと思われ、全然事実とは違うその卑俗な偏見によって昏倒する迄彼を殴りつけた周囲の人々の独善的な小市民気質に対する歯に衣(きぬ)きせぬ反撥が語られているのである。
 農奴解放、それに引続く資本主義の発達に伴い、この時代(一八七〇年代末――八〇年代)ロシアには偽瞞的な自由を獲得した稍々(やや)富める農奴から転じた無学な小市民層と、主人と住家耕地を失って都会、工業地帯に移行する農奴出身の労働者層とが急速に増大した。当時からロシアの主要工業地帯であったモスク□県、イワノヴォ・ヴォズネシェンスク市、ハリコフ、オデッサ、ペテルブルグ市その他では、ナポレオン侵略の一八一二年頃に比べ、全住民の四パーセントしかなかった労働者が一八九七年には十三パーセントにのぼった。少し目ぼしい各都市では、手工業的生産が近代資本主義経営へ移り、そういう小市民の暇つぶしのための絵入新聞が未曾有に発刊された。その時代の波はゴーリキイの育っているニージニ・ノヴゴロド市にも打ちよせた。祖父カシーリンが、ヴォルガの曳舟人夫から稼ぎ上げた財産、職人組合長老の位置などは、この全ロシアを動かした経済事情の変転によって失われた。手工業生産者から産業資本家にうつることが出来ず、破産没落した一つの典型なのであった。
 こういう家と時代に生れ、ゴーリキイは生粋下層民の子供として人生と闘いつつ、親族に労働者として働いている者が一人もなかったため、小僧働きの環境はいつも手近な縁を辿って都市的な小市民的雰囲気に限られていたこと、その窒息的に濃い重い執こい空気の中で少年ゴーリキイが、天成の素質の健康さによって二六時中身をもがきつつ、而も成長の或る時期迄避け難くその中に縛りつけられていたことは、彼の生涯の発展のジクザクな道を知るについて十分の洞察をもって理解されなければならぬ不幸な事情である。
 まして、ニージニは半アジア風な商業都市であった。年一度、遠くペルシャやアルメニヤ、コーカサス辺から迄地方物産を集めて開かれる世界に有名な定期市(ヤールマルカ)で、(一九二八年迄数世紀間つづいた)謂わばニージニという町全体が生きていた。田舎風な都会、一年の最高頂の時期は、罵声と殴り合いの合奏する巨額な金の集散、そのおこぼれにあずからんとする小人の詭計の跳梁、泥酔、嬌笑に満ち、平日は通俗絵入新聞が地方客に向って撒く文化を糧としつつ、ヴォルガ沿岸の農民対手の小商売で日暮しているとすれば、全住民を包む気分の性質は今日の我々の想像にも尚活々と会得されるものがある。ゴーリキイは彼の胸をムカムカさせる小市民と、善良な人々ではあるが貧と無恥、野蛮の中にとめられているヴォルガ河岸の家のない羊の塊りのような自由労働者の生活としか知らなかった。
 この生活環境の特徴的な事情は、十三歳頃のゴーリキイの成育の中に微妙な反映を与えている。「人々の中」で朝から夜までこき使われる者、理由もなく殴られ得る下積の存在として、天質の豪気さ、敏感さ、熟考的な傾向と共に、少年ゴーリキイの生活及び人間に対する観察力は非常に発達している。殆ど辛辣でさえある。現実は強く彼を鍛え、書物に対する判断、芸術における現実性の価値の評価についてまで、少年らしい夢の底で正しい本質をついている。パリやベルリンのいろいろな生活についても知っていた。しかし、彼は当時の自分の力では打ち破ることの出来なかった周囲のごまかし、小市民の毒によって、少なからず制約されている。自分で知らずに、鋭い心の目覚めを遅らされた。この興味ある一例は一八八一年三月一日に、農奴解放を行って後全く反動化したアレキサンドル二世が「人民の意志」党員グリニェヴィツキーのテロルに殪れた時の記憶の描写に現れている。「人々の中」でゴーリキイはこう書いている。
「思い起せば、丁度そのような詰らない時に(製図師の家での不幸な小僧生活)生じた一つの不思議な出来事がある。或る晩、皆の者が寝鎮った時、急に本会堂の鐘が鳴り出した。家の者は皆一度に起き上った。半裸体の人々が窓ぎわへ飛んで行って、訊き合っている。
『火事かしら?……警鐘(はやがね)のようだが……』
 よそでも騒いでいるらしい。扉をどたんばたんと鳴らす音が聞えた。誰かが屋敷内で馬の手綱をひいて駈けて行く。老婆が、本会堂へ泥棒が入ったんだよ、と怒鳴る。主人がそれを制し、
『おっ母さん怒鳴るなよ。あれは警鐘(はやがね)じゃないよ!』
 主人の弟ヴィクトルが寝棚から降りて来て、着物を着ながら呟いている。
『俺には何が起ったのか解っている。ちゃあんと分っている!』
 主人は、火の手が見えるか屋根へ登って見ろと云いつけた。」
 ゴーリキイは屋根へ出て見たが火の手は見えぬ。静かな冷たい夜気の中で、ゆるやかに鐘が鳴っている。暗くて姿の見えない人々が雪を軋ませながら走った。橇の滑り木が鳴る。鐘は気味悪く鳴りつづけている。この夜の地方の町らしい描写を、ゴーリキイは実感をもって記憶に呼びおこしている。主人が戸外へ出ようとすると、主婦がこわがって、
「貴方行かないで! ね、行かないで……」
とすがりつく。男連はそれを振り払って往来へとび出した。ゴーリキイがサモワールの仕度を云いつけられて台処で働いているところへ主人が玄関へ飛び込んで来て「太い声で云った。
『皇帝が殺されたんだ!』
 ヴィクトルは帰って来ると、詰らなそうに外套をぬぎながら怒って云った。
『俺は戦争だろうと思ったのに!』
 皆は揃ってお茶を飲んだ。そして安らかに、とは云え、声を潜めて用心深く語り合った。」
「二日の間彼等はひそひそと囁き合っては何処かへ出て行った。またこちらへも客が見えた。そして何か詳細に語りあった。私は何事が起きたのか知りたかった。けれども家の者は私から新聞を隠した。そこで」知り合いの兵卒に「皇帝の殺されたわけを訊いて見た。彼は声を潜めて答えた。
『そのことは口にしちゃいけないんだ』」
 そして、ゴーリキイは、「これらのことは忽ち消えて日常の瑣事に覆われてしまった。」とその含蓄ある条を結んでいるのである。その事件があってから三十四年の後(一九一五年)に至ってゴーリキイは「人々の中」でこの記憶に触れているのであるが、この事件の経験のしかたからはっきり自覚される筈の当時の彼の事情――一箇の小さな人間として彼自身が息苦しく封じ込まれていた環境の小市民性、及びそれが彼の旺盛な内的発展の一面を直接間接に鈍らせていたこと等については、特別何ごとをも云っていない。このことは、一九一五年代の作家ゴーリキイが階級性というものに対して持っていた態度の或る現れとして、二重に興味ある将来の観察を刺戟されるのである。
 同じ歴史上の事件は、ペテルブルグのような首都の工場労働者の家庭では些か違った風に受けとられた。マクシム・ゴーリキイより三歳年下であったシャポワロフは、一八八一年の三月頃はまだペテルブルグの市立小学校へ通っていた。その日、教師はひどく亢奮してわけも話さずいつもより早く授業をすました。そして子供達を家へ追い帰した。街では巡査が恐ろしい顔付をして軒並に店を閉めさせている。街中妙にそわそわした様子であった。家へ着いた頃は往来に人通りもなくなってしまった。
「おっかさん」とシャポワロフは訊ねた。「先生はどうしてこんなに早く家へ帰れって云ったんだろ。何故町じゅう店を閉めてんの?」するとシャポワロフのおふくろは、びくびくしながらも息子にはっきり云った。「皇帝を殺したんだよ。社会主義者が殺したんだよ」

 さて、ゴーリキイは、製図師のところを出てから、今度は月七留(ルーブリ)の給料で又ヴォルガ通いの汽船ペルミ号の炊夫をやった。この船には嘗てのスムールイとは全く違って、しかもゴーリキイの心を魅した一人の男がいた。ヤコヴという胸幅の広い角張った火夫であった。カルタが巧くて、大食で、この男がへこたれたり、考え込んだりしたのを見たことがない。毛むくじゃらの口からは常に言葉が流れ出している。それでいて、彼の中には何となく人と違ったところがあった。それは昔の「結構さん」の中にあったものとどこか似ている。彼は自分でも自分の特質をよく知り抜いており、また人々に理解して貰えないということを、ちゃんと弁えていた。この男の言葉づかいには一つの癖があり、他人なら善いとか悪いとか、拙いとかいうところを、ヤコヴは大概、興味がある、面白い、珍しいという云い方で表現した。この男がゴーリキイに初めてカルタの勝負を教えた。そして、忽ちゴーリキイが負けた金の半額、ジャケツ、長靴などをかえして云った。
「遊びだよ、これは遊びだよ。楽しみだよ。それだのにお前はまるで喧嘩腰で来る。喧嘩だってやたらむきになったんじゃ駄目だ。一度しくじってもいい。五度しくじってもいい。七度でもいい――それが何だ! 止すさ。引込むだけのことさ。そして、冷めきってからまたやるんだ! それが遊びだ」
 ゴーリキイには益々この男が気に入り、彼の話しぶりは、輝やかしい祖母さんの物語を連想させる程である。しかし、どうしてもこの男には気に入らぬところがあった。それは人々に対する深刻な冷淡さ、これが断然ゴーリキイの性分に合わぬ。しかし、ヤコヴはゴーリキイからお前は石だねと云われた時、ゴーリキイの心臓に注ぎ込まれて忘られぬ言葉を云った。
「おかしな男だな! 石と来たか?――だが、お前は石をも可哀想に思う人になってくれ。石もそれ相応の役に立つ。街なんか石で敷きつめる。どんなもんでも可哀想に思わなけりゃならない。砂だって――何だろう。その上に小さい草が生えるだろう……」
 このヤコヴにゴーリキイはプーシュキンの詩を読んでやった。パリの物語を読んでやった。ヤコヴが、偶然ペルミ号にのり込んで来たシベリアの去勢宗教のところで働くことにきめ下船する時、ゴーリキイを誘った。
「俺と一緒に行かないか? 一言話せばあの鳩ぽっぼはお前もつれて行くぞ」
 生気のない眼をした、ぐにゃぐにゃした感じの男は、ゴーリキイの心に嫌悪を生んだ。ヤコヴ・シュモフは、ゴーリキイの心に「穏やかならぬ複雑な感情を残して、熊のように体を揺りながら立去ってしまった。――」

 秋、ヴォルガの河の水瀬が落ちる。船が通わなくなる。冬の屋根を求めて、ゴーリキイがもぐり込んだのは聖画工場の見習であった。
 毎朝、番頭と一緒に寒い暁方の街を歩いて商店街からニージニの市場の陳列場の二階にある店へ通い、陳列場の土間を重く歩いている人々に向って、細い声を出して、利益をのべたてて聖画を買わせる。それがゴーリキイの役目なのであった。
「旦那、何か如何でございます? 聖像もお値段はいろいろですが、品は上等落付いた塗になっております。御注文も頂きまして、どんな聖人方でも聖母様でもお描き申します」
 これはゴーリキイにとって恥しかった。客は犬でも見るように小僧のゴーリキイを眺め、やがて隣りの店へ行ってしまう。
「逃しゃがった! いい売子だよ!」
 番頭が怒った。すると、隣の店からは軟かい、甘ったるい、うっとりさせる口上が流れて来る。
「手前共は、羊皮や長靴などの商いではございません。金銀にまさる神様のお恵みを御用立てるのでございます。これには、もう値段はございません」
「畜生! うまく百姓をたらし込んでいやがる。覚えとけ! 覚えとけ!」
 店へ来る百姓は皆貧乏そうで、空腹な人々のように見えた。それだのに聖詠経一冊に三ルーブリ半も払う。それはゴーリキイに奇怪な感じを抱かせた。そういう人々の無智から儲ける聖画売の商売、又、珍らしい古代の作品を売りに来る者をちょろまかして儲ける悪辣なやり口もゴーリキイの心を苦しめた。
 聖画屋の小僧が本を読む。そのことをぺてん師の鑑定家の爺と番頭とがあくどく揶揄した。
「さて、学問のあるお前のことだ。この問題を噛み分けて見な。ここに、千人の裸坊主がいる。五百人が女で、五百人が男だ。この中にアダムとエヴァがいるが、お前はどこで見分けるかい?」
 ゴーリキイを、散々卑猥な説明で悩してから爺は教えた。
「つまりはお前も馬鹿な小僧さんだね。アダム、エヴァは生れた人間じゃなくて、造られた人だから、臍が無いじゃないか!」
 ニージニの肥え太った商人達は、冬期は特に退屈に圧されて惨忍な馬鹿気た慰みをやった。商人の生活ぶりはゴーリキイの気に入らない。また所謂信心深い連中、殉教者というのが実はただ意志を固定させているだけで未来に向ってちっとも伸びようともせず、伸びるだけの能力を持ってもいないこと、翼をもがれ、手足をとられていても狭苦しい偏見や独断に馴れた精神と感情とは、習慣で徒に真理の墓を守っている。信仰の堅いという連中は、その生活の中ではちっとも愛の光に照されていず、寧ろ喜んで互に圧迫しあっている。これらの毎日の観察は、ゴーリキイの生涯に譲ることのない確信として、習慣による信仰が最も悲しむべき有害な現象であることを理解させる土台となったのであった。
 ゴーリキイは、手帖にいろいろのことを書きこむことを始めた。本からの感想、日々の出来事からの強烈な印象、又は詩などを。聖画屋の番頭はそれを知ると、この反り鼻の小僧を呼びつけて言いわたした。
「お前は抜萃帖か何か作ってるそうだが、そんなことはやめちまわなくちゃいけない。いいかね? そんなことをするのは探偵だけだ」
 聖画店の主人は五留(ルーブリ)の給金を無駄にしないようにゴーリキイを働かした。ゴーリキイは主人が家具、敷物、鏡その他に執着し、こせこせとそれらを自分の家の中に詰め込むのが厭わしかった。市場の倉庫からサモワールだの箱だの鋏までくすねて来るのを見るのは厭しかった。その不恰好な置かたや塗料の匂いまで癪にさわった。彼のまわりでは主人が盗むばかりか、職人達が主人をちょろまかしている。ゴーリキイは何も所有したくなかった。ベランジェの小さい一巻とハイネの詩集ぐらいが彼の全財産である。
 彼の周囲の人々はすべて、卑劣な奴も、智慧のある奴も狡い奴も、ゴーリキイに、彼等と一緒に住むことは出来ないと思わせるような人々ばかりであった。「何とか他に生きようはないものだろうか? 何処へ行ったらいいだろう。」ゴーリキイの全心にこの堪え難い囁きが、日夜響くようになって来た。ゴーリキイが折々心の内を打あける老職人のオシプはゴーリキイにすすめた。
「啄木鳥(きつつき)は頑固だが、怖ろしくない。誰もあんな鳥を恐れはしない。そこで俺は心からすすめる、修道院へ行きな」
 然し、修道院へは行きたくない。ゴーリキイは泣きたいような気持になり、十五歳になったばかりの自身を、もう永く生きた者のように感じる。酒を飲まず「女に絡まらず」青年になったゴーリキイの気紛れを遮っているのは書籍なのであったが、読書すればする程、一般人の暮しているような詰らない必要のない生活をして行くのがいやになるばかりである。しかも、心の内側にぎっしりつめこまれている人生からの雑多な印象、驚くべき多読からの不秩序な蓄積、いろんな疑問、悩みを択り分けるだけの力も手段もない。それらの精神の重荷が、ゴーリキイをひょろつかせた。不幸、病気、泣きごと、流血、殴打、ひどい言葉の愚弄、それらはどれもゴーリキイに堪え難く、肉体的な苦痛を引起すのであった。だが、彼の生きる暗い環境の中ではその苦しさが常に極度にまで緊張させられるようなことが頻々として起った。苦痛が嵩じて「一種冷やかな狂暴に生れ変って来ると、今度は若い」ゴーリキイ自身が「獣のように荒れくるった。そして後から胸の痛い程恥しく思う。」
 心に痛みをもってゴーリキイは店から抜け出し、悠大なヴォルガの落日を眺めた。本で知った他の都会の生活のこと、風変りな生活をしている外国のこと、地上の大さの感じがいつしかゴーリキイの心を鎮め、彼の周囲でゆっくり単調に煮えている臭いような生活とは違った生活の可能性が想われて来る。
 大地全体に、そして自分自身に、程よい一撃をくらわしてやりたくなる。そうしたら一部のものは、自分自身も、悦ばしい旋風のように動き出すだろう。ゴーリキイは、苦痛と期待との間で揺れる心で沈思するのであった。
「此の自分を何とかしなければならない。さもないと、俺は破滅してしまう……」
 人生の袋小路からの脱け路を求めつつ、ゴーリキイは自分が小さい時分、秋、日暮れ近い森で道に迷った時のやりかたを思い出した。そういう時彼は、茂みの中で朽ちた枝の上でも、沼地の滑り易い凸凹の上でも所きらわず真直行くといつかは道に出ることが出来た。ゴーリキイはその通りにやろうと決心した。その秋、ゴーリキイは、遂に大学のあるカザンへ出発することにしたのであった。

        青年時代
          ――私の大学――

 自身の裡に夥しく蓄積され、殆ど彼を圧し潰しそうに感じられる人生からの濃厚な印象、湧き起る様々の疑問は、十五歳のゴーリキイを抑え難い力で、どこかへ、ここニージニでないところへ、もっと広い、もっと息のつけるところへと押し出しつつあったのであるが、その方角をカザン市ときめたのには、彼より四つ年上の中学生エフレイノフの影響があった。
 当時、市場の建築工事場の若い事務員をしていたゴーリキイと同じニージニの或る屋根裏部屋を借りてエフレイノフが住んでいた。ゴーリキイの天質と驚くべき読書慾とが、エフレイノフとゴーリキイとを特別の友情で結びつけるに至った。エフレイノフは美しい長髪を振りながら、善良な心に燃えてゴーリキイを説得した。
「君は生れつき科学に奉仕するために作られているんだ。――大学は正に君のような若者を必要としているのだ」
 そして、エフレイノフの言葉に従えば、カザンへ行ったらゴーリキイは彼の家で一緒に暮し、秋と冬との間に中学卒業の資格をとって、幾つかの試験を受ける。カザン大学はゴーリキイのような若者に官費をくれる。五年も経てば、ゴーリキイはきっと「学者」になれるというのである。
 現実生活から読書からの印象と、目覚め発育を意識する知性の渾沌で苦しんでいたゴーリキイにとって、エフレイノフのこれ等の言葉が強い刺戟を与えたのはまことに自然である。彼はこの時、ヴォルガ通いの汽船の上で、皿洗い小僧をしていた自分に云った料理人スムールイの言葉をも記憶の中に思い起したことであろう。スムールイも繰返し云った。「お前には智慧がある。ここはお前のいるところでない。出て行って暮せ!」又「俺に金があったら勉強させてやるんだがなあ……」
 何とかしてカザン大学に入る。――
 ところが、カザンへ着いてゴーリキイがそこに見出したのは大学への道ではなくて、早速の飢餓であった。善良なエフレイノフと更に勉強だけに没頭している弟とには、貧しい恩給暮しの母親が、どんなからくりをして、息子二人と、どこの誰ともはっきりしない体の大きい、粗野な若者を食わしているのか一向に分らない。が、ゴーリキイは最初の日から母親の面している困難を一目で見透した。ゴーリキイには、この母親がどんなに気を張り智慧をしぼってその日その日三人の健康な若者の胃をなだめているかということがわかり「一片のパンさえも石となって」彼の心にのしかかるのを感じる。
 昼食をしないために朝から家を出た。天気の悪い日には、焼跡の原に向った一つの廃墟の広大な地下室の中に坐っていた。そこでは野良犬や野良猫が生きて、死んでゆき、それらの犬猫の死骸の臭いが、雨や風の音の下で漂っている。
 飢えないためにゴーリキイはヴォルガへ、波止場へ出かけて行った。独特な「私の大学」時代が始まった。波止場で十五哥(カペイキ)、二十哥(カペイキ)を稼ぐことは容易であった。そこで、荷揚人足、浮浪人、泥棒の間に自分を置き、ゴーリキイは後年この時代のことを、次のように書いている。「私は赤熱された石炭の中に入れられた鉄の一片としての自分を感じた」「そこでは私の前に裸にされた貪欲な人々、粗暴な本能の人々が渦巻いていた」と。
 もとは師範学校の学生で職業的な泥棒であり、ひどい肺病になっているバシュキンは新顔のゴーリキイに向って雄弁に吹き込んだ。
「何だい、お前は。まるで娘っ子みたいにちいさくなってさ。それとも礼儀を無くしたくないんか? 娘っ子にとっちゃ礼儀が全財産さ、だがお前にとっちゃ、それは軛だ。牛には礼儀がある。それっていうのも、奴は満腹しているからさ!」
 彼等が極端な無一物でありながら、飢えと悲しみとの境遇の中で愚痴を云わず自分たちの拘束されない生きかたを愛していること、又、この人生に対して露骨な辛辣さを抱きそれを表明していること。それらがゴーリキイの心に好奇心を動かし、同情を惹きおこした。彼等の生活はゴーリキイがこれまでこき使われ、愚弄されて来た小商人達、小市民連のこせついた独善的な日暮しとは全く別なものであった。彼等は自分達の全生活でもって、ゴーリキイ自身が嘔気を催す程厭悪している。生ぬるい、厚顔な町人根性に反撥し、それを軽蔑している。この人々にゴーリキイはつよく惹きつけられた。そして「彼等の辛辣な環境に沈潜して見ようという希望」に捕えられた。
 ゴーリキイは屡々泥棒のバシュキンやけいず買いのトルーソフなどとカザンカ川を越えて野原へ、灌木の茂みの中に入ってゆき、いかがわしい彼等の商売のこと、更にもっと頻繁に、生活の複雑さについて、人間の関係の不思議な縺れ合いについて、何よりも多く女について話しながら、飲んだり食べたりした。世界のすべてに対して嘲笑的に敵意をもっているこれ等の人々の話、自分自身について無関心なこれ等の人々の物語には、町人生活の息づまる暗さから脱しようとし、而も大学で勉強しようという輝いた空想――高まろうとする欲望を貧という現実の力で思いやりなく砕かれたゴーリキイの若く激しい感情を掴むものがある。彼等の人生に対する抗議に、ゴーリキイは自分の憤りにみちた傷心がこめられているように感じる。けいず買いのトルーソフは、こういう人生の微妙な岐路にあるゴーリキイを眺めて、そして、云うのであった。
「マクシム、お前は泥棒の悪戯(わるさ)には入るな! 俺は考えるんだが、お前には他(ほか)の道がある。お前は精神的な人間だ」
「精神的って、どういう意味だい?」
「何に対しても羨望ということがなくて、唯、知りたいっていう心だけ在る人間のことを云うんだ……」
 ゴーリキイは、これは当っていないと思う。だが、彼の天質に蔵されている健全な生活力が、この虚無的な雰囲気との摩擦の間に、一つの新しい疑問の形をとって、徐々にその働きを現した。これらの連中は、いつ、何を話しても、とどのつまりは「何々であった」「こうだった」「ああだった」と万事を過去の言葉でだけ話す、その事実にゴーリキイの観察と疑惑がひきつけられた。意味深い彼等のこの特性の発見は次第にゴーリキイの鋭い心に或る恐怖を感じさせた。ゴーリキイの精神は激しく、よりよい人生の可能を求めてここに来ているのであった。彼は未来を、これからを、よりましな「何ものかであろう」ところの明日から目を逸らすことが出来ない。ゴーリキイは彼等のように生きてしまった人々の一人ではなかった。ゴーリキイは生きつつある者、しかも熱烈に生きんとしているものの一人なのである。「このことが、彼等から私を去らしめた。」マクシム・ゴーリキイは、その自伝的な作品「私の大学」(一九二三年作)の中で活々と当時を回想している。「私は外部からの助力を待たず、幸福な機会というものにも望みをかけなかったが、私の中には次第に意志的な執拗さが発達し、生活の条件が困難になればなる程、それだけ堅固な賢くさえある自分を感じた。私は非常に早くから人間を作るものは周囲の環境への抵抗であるということを理解した」のであったと。
 しかも、ゴーリキイはこういう意味深い記述の間に、当時まだプロレタリアートの力が階級として確立していなかったロシアの民衆の中にあって、彼のような立場の若者が、経なければならなかった社会的な危機とその歴史的な価値とを自覚して十分描き出していないことは、今日の読者の注目をひくところである。まだ階級としての小市民を知らず、ただそれに対して本能的な、執拗な反抗をしつつ、その反抗を系統づけ、方向を決めるプロレタリアの力が情勢として育っていないために危くも虚無的な、社会の破壊力の裡へ堕落しそうになった一箇の才能の□(もが)きは、私達に最も厳粛な同情と真面目な省察とを促すのである。

 今や、ゴーリキイは「ぼんやりした、しかしこれまで見たすべてよりももっと意義のある何ものかへの欲求」に燃えて、カザン市の貧民窟「マルソフカ」の一部に大学生プレットニョフと暮しているのであった。が、プレットニョフとゴーリキイとが暮しているのは、その有名な貧民窟の中にあっても部屋と名づけられない階段下の廊下の一隅であった。屋根裏へのぼる階段の下の廊下にプレットニョフの寝台が一つ置いてあり、廊下のつき当りの窓のところに机、椅子。それっきりしかなかった。ゴーリキイは夜その寝台に眠った。プレットニョフは昼間。
 貧しいこの大学生はカザンの新聞社へ夜間校正係として働き、一晩十一カペイキずつ稼いで来た。ゴーリキイに稼ぎのなかった日、この心を痛ましめる睦しい同居者たちは四切のパンと二カペイキの茶、三カペイキの砂糖だけで一日を凌ぐことも珍しくない。ゴーリキイは波止場稼ぎを屡々やすんだ。プレットニョフは若い孤独なゴーリキイの生活の困難と危険とを知って、彼と一緒に暮し、田舎の小学校教師になる試験を受けるようにとすすめたのであった。
 プレットニョフとゴーリキイが夜を眠り昼を眠る廊下の隅の巣の外に三つのドアがある。二つの扉のかなたには淫売婦が、三つ目の扉のかなたには、数字から出発して神の存在を証明しようとしている肺病の神学出の数学者が時々恐ろしい喚き声を挙げつつ暮している。ゴーリキイは非常な困難をもって「科学を克服」する仕事にとりかかった。全体むずかしいこの仕事の中でも特に手に負えないのは、ゴーリキイにとって文法であったというのは面白い。彼は、幾分極りわるげに、しかし或る誇りを潜めて書いている。「私はその中に、生きた、困難な、気儘で柔軟なロシア語をどうしてもはめこむことが出来なかった」と。この科学との取組みは案外早く終りを告げた。小学教師の試験を受けるにゴーリキイは、まだ若すぎることがわかったのであった。
 ところで、ある朝、この「過ぎ去った人々や未来の人々の騒々しい植民地」の一隅に一つの出来事が起った。そこの住人であった一人の廃兵と労働者とが憲兵に引っぱって行かれた。プレットニョフはこのことを知ると、興奮してゴーリキイに叫んだ。
「おい! マクシム! 畜生! 走ってけ、兄弟、早く!」
 ゴーリキイは、合図の言葉を知らされて「燕のように迅く」或る場末町へ走って行った。そこに小さな銅器工の仕事場があった。暗い仕事場の中には異様に青い眼をもった一人の縮毛の男がいて、鍋に錫をかけている。――が、ゴーリキイは、勤労者の若者の炯眼で見破った。労働者には似ていない。――ゴーリキイは銅器工に訊いた。
「こちらに仕事はありませんか?」
「こちらにゃ、あるが、お前の仕事は、ないね!」
 若い縮毛の男はちらりとゴーリキイを見て、再び鍋の上へ頭を下げた。ゴーリキイは、こっそり足でその男の足を突いた。若い男はびっくりしたように怒って鍋をふり上げたが、ゴーリキイが彼に瞬きをするのをさとると、静かに言った。
「行け……行け……」
 往来へ出てゴーリキイが待っていると、その男も出て来てタバコをふかしつつ、黙ってゴーリキイを見詰めた。
「あなたはチーホンですか?」
「そうだよ」
「ピョートルがやられたんです」
「どこのピョートルだね」
「長い、寺僧に似た男ですよ」
「で?」
「それだけです」
 すると、その銅器工は、
「ピョートルだの、寺僧だの何だのって、俺に何の関係があるんだね?」
と訊いたが、この訊きかたそのものがゴーリキイに彼の労働者でないこと、しかし彼の使命は果されたことを一層はっきり感じさせた。
 これがきっかけとなり、当時のカザンに於けるナロードニキを主とする急進的なインテリゲンツィアとゴーリキイとの接触がはじまった。ゴーリキイは、墓場の濃い灌木の茂みの中でもたれる彼等の集りに行った。すると、彼等は波止場稼ぎの若者であるゴーリキイが「何を読んだかということを厳重に問いただした上で」彼等の研究会でゴーリキイも勉強するように決定した。そこではゴーリキイが一番年若であった。後に自殺した或る師範学校の生徒の家へ集って、チェルヌイシェフスキイの註解付のアダム・スミスの書物を研究するのであった。アダム・スミスの読解は、ゴーリキイをひきつけなかった。「よその小父さん」の幸福と安逸とのために自分のすべてを消耗しているものにとっては実に明らかな事実について、むずかしい言葉でこんな大きい本を書く必要はなかったという風に、ゴーリキイには考えられた。スミスが提出する経済学の命題は、生活から直接獲得されたものとして、ほかならぬ彼自身の皮膚の上に書かれている。――
 然しながら、マクシム・ゴーリキイはその退屈をこらえ「絶大な緊張をもって、草鞋虫の這っている窖の壁を見つめ、坐りつづける。」彼の内心に答を求めて疼いている数限りのない「何故?」がそこから彼を去りかねさせるのであった。マクシムは、抑え難い感動をもってゲルツェン、ダーヴィン、ガリバルジなどの肖像を眺めた。そして、息苦しい室内に集って真理を擁護しながら議論をわき立たせるこれら一団の人々が、よりよい人間の生活の招来のために献身していること、彼等の言葉の中には彼の無言の思いも響いていることを感じ「自由を約束された囚人のような狂喜で」これらの人々に対したのであった。
 同時に、これまで経験したことのない妙なばつわるさ、居心地のわるい瞬間が、ゴーリキイの生活に混りこんで来た。これらの学生達は目の前へ彼を置いて「まるで指物師が並々ならぬものを作ることの出来る木の一片でも見るよう」な眼付でゴーリキイを眺めた。「子供が道傍でひろった大きい銅貨でも見せ合うように、誇りをもって」彼を皆に紹介し合った。これは、ゴーリキイの淡白な気質にとって工合わるかった。更に彼等は、ゴーリキイを「生えぬきだ!」「まったくの民衆の子だ!」と褒める。これもゴーリキイの気を重く、また考えぶかくさせた。ナロードニキである学生達は民衆を叡智と精神美と善良との化身、「すべての美なるもの、正義あるもの、崇厳なものの原理の所有者」のように話すのであったが、ゴーリキイが物心つくとからその中に揉まれ、それと闘って来た現実生活の下で、彼は「このような民衆を知らなかった。」
 この事実こそ、最も明白にナロードニキ(民衆派)の学生達の善意はあるが、抽象的な世界観の内容とゴーリキイの現実的な社会の認識との間に横たわる歴史性の本質的な相異を語るものである。然し、この価値の高い現象も当時にあっては、ゴーリキイに或る不安な驚きと自分に対する一種の不信とを感じさせるにとどまった。
 学生達はゴーリキイを、生えぬきの民衆の子としてばつが悪い位珍重しながら、一方ではゴーリキイを、彼等流の教育で鍛えようとした。教師たちは、ゴーリキイに勝手に好きな本をよむことを許さなかった。読んだものについてのゴーリキイらしい批評を注意ぶかく聞こうとしなかった。彼等は云うのであった。
「君はこっちからやる本を読めばいいんだ。君に適しない領域には――首を突込むなよ」
 例えば、ゴーリキイはその頃『社会科学のABC』という本を読んだのであったが、そこでは文化的生活の組織の中でインテリゲンツィアの役割が著者によって誇張されて書かれており、進歩的な浮浪人や猟人などの存在が著者によって恥かしめられているように感じられた。ゴーリキイはその疑問を率直にある言語学の学生に伝えた。すると、その学生は「女のような仰山な表情」で「批評の権利」について説明した。
「批評する権利を持つためには――どれかの真理を信じる必要がある。君はどの真理を信じるかね?」
 後年ゴーリキイはつつみかくすところなく回想の中に洩している。「こういう粗暴さは、私を焦立てた」と。
 この時代からゴーリキイの心は溢れて詩になりはじめた。それが重苦しくて、荒削りなのはゴーリキイ自身にも感じられた。けれども、ゴーリキイにとって「自分の思想の最も深い渾沌を表現するのには」ほかならぬ自分の言葉で語るしかなく思われ、しかも、ゴーリキイは自分の詩を書く場合、彼を「いら立たせている何ものかに対する抗議の意味で殊更粗暴なものに」するのであった。この生々しく切迫し、本源的に八〇年代のインテリゲンツィアの非行動的な煩瑣饒舌に反抗している若者の内面的吐露を、彼の教師の一人であった数学の学生は、さて、どう理解したであろうか。
「言葉じゃないよ、錘(おもり)だ!」
 これがその学生の批評である。ゴーリキイは「生活の継児として自分を感じ」た。そして、時には「自分の智慧の発達を導いている力の重苦しさを経験」せざるを得ない。
 そういう時、若いゴーリキイの奔放な空想と憧れとは彼をヴォルガの河岸へ運ぶのであった。そこに渦巻き展開される色彩のつよい労働、河の面を風にのって流れる荒っぽい、だが声量の豊かな俗謡。目的は何であるにせよ、たといそれが浪費であるにせよ、そこにはゴーリキイをよろこばせ、自身の生命の力をも鮮やかに感覚させる、むき出しな人間の肉体の動きと、それを縁どる自然とがある。
 生れつき非常に感覚的な、多彩なゴーリキイが既にロシアの現実的情勢におくれはじめたナロードニキの学生達の観念とヴォルガとの間で揺れ、言葉のからくりの熟達者であった当時のインテリゲンツィアに対し、秘かに、だが、頑強に民衆の真情、飾らぬ言葉を主張していたところに、彼の読者である我々は彼の初期の芸術的情熱の深い根源を見出すのである。
 独習者である自分に対しては学生達が「かなり厳格な態度」をとる。このことが、ゴーリキイにいまいましい思いを幾度かさせるが、彼等の言葉の一つ一つを裏付けている「人類愛」の感情は、ゴーリキイの心に全く新たな一面を開発する力をもっていた。人間の精神の裡にこういう感情があるという発見、そして、その感情に身を献げて暮し得る一群の誠意ある人々が此世にいるという事実。これは、ゴーリキイが今まで何処でもめぐりあったことのない驚異である。この力がゴーリキイをさし招く。ゴーリキイは、塵芥のいっぱいな崖の上にある小さいデレンコフ食料品店へ出かけてゆく。デレンコフのところには一種の図書館があり、そこには貴重な文献、手書きで写した本などが蒐集されていた。カザン市のあらゆる段階の進歩的見解の持主がこの穢い崖上の一点へ向って出入した。明るい色の髯の中に善良な顔と賢い眼とをもった瘠せた手のアンドレイ・デレンコフは、民衆派(ナロードニキ)で食料品商売から得る僅かの儲けを全部「先ず第一に、民衆の幸福」を信じている人々を扶けるために費している男なのであった。
 デレンコフの家で本当の主人はアンドレイではなかった。カザン大学や宗教学校、獣医学校などの学生達及び「未来のロシアについての絶間ない不安の中に生活していた人々の騒がしい集り」であった。この集りの中に「神学校の学生でパンテレイモン・サトウという日本人さえいた」というのは、何と興味ある歴史の一頁であろう!
 ゴーリキイに、彼等の論争はよく分らなかった。真理らしいものは言葉の氾濫に溺れて消えた。しかし、生活を良い方へ向けようとしている人々を見、自分もその中に伍しているのだという自覚、何にもまして、彼等が解決しようとしているのが何であるかということは、ゴーリキイにとって明瞭に理解されている。ここで論じられていることが成功的に解決されることにゴーリキイ自身の個人的な問題の解決もふくまれていること、それをまざまざと感じているのであった。
 ゴーリキイが、人間生活を観る持ち前の鋭い目で、学生達とデレンコフとの関係を省察している叙述は様々の時代的な示唆や、ゴーリキイの誇高い、不屈な気質の一面を示して興味がある。ナロードニキに対するデレンコフの態度はゴーリキイのそれと同じであったが、「デレンコフに対する学生の態度は」ゴーリキイには「主人が下男に対し、酒場の給仕に対するような粗暴さのある無関心なもののように思われた。が、彼自身はそれに気がついていなかった。」客達を送り出しておいてから彼はよくゴーリキイを泊らせた。ゴーリキイとデレンコフとは「部屋を掃除し、それから床(ゆか)の絨毯の上に横わりながら、わずかに燈明の光りだけに照らされた暗の中で長いこと親しく囁き声で話し合った。」デレンコフは信頼のこもった静かな喜びをもって、ゴーリキイに語るのであった。
「こういう人達が幾百、幾千と殖え、ロシアで重要な地位を占め、直きに生活の全部を変えてしまうだろう」
 デレンコフはゴーリキイより十歳年上で、独身であった。店の収入は僅かだのに、物質的援助をしなければならない「仕事をする人々」の数は益々増して来た。一八八一年三月一日、全く予告なく突発した事情の下に帝位に即かせられることになった酒飲みのアレキサンドル三世は、有名なポヴェドノスツェフと共に極端な反動的政治をはじめ、そのために従来ナロードニキの社会的支柱であったブルジョア自由主義者は甚しく畏縮して来た。更に一八八四年に公表された大学規定は大学生のこれまで持っていた学内自治権を奪い「学生生活のあらゆる微細な点まで干渉する学監、副監督、守衛等によって監視され、更に警察の監視の下に置かれるようになった」のである。この事情が、デレンコフの収支を次第に激しく喰いちがわせる。デレンコフは配慮ぶかく明るい色の髯をひねりながら云った。
「何とか考えなけりゃならない」
 そして、罪ありげに微笑し、重々しく溜息をついた。ゴーリキイは、デレンコフが負っている重荷を見た。彼は一度ならず、いろいろな云いまわしでデレンコフに訊くのであった。
「何故そんなことをするんです?」
 デレンコフはその答えとして民衆の苦しい生活について「本からとって来たように、不得要領に答えた」
「でも――みんなは知識を望んでいるんですか?」
「どうして。勿論さ! 第一、君は望んでいるだろう?」
 そうだ。ゴーリキイは――望んでいた。
 だが、この陰翳に富んだ、逆説的な分子のこもった会話は、当時のゴーリキイが民衆、学生、デレンコフや彼自身の関係に対して抱いていた複雑な感情の深淵を何と微妙な閃光で我々に啓いて見せることであろう。
 これは、ゴーリキイが、セミョーノフのパン焼工場で、一日十四時間ずつ労働し、肉体的に苦しく、道徳的には一層苦しい生活の時代のことである。冬になって、ヴォルガの稼ぎのなくなったゴーリキイが「外側から犇々(ひしひし)と鉄格子で覆われ」「日の光は粉の埃で一面の窓硝子をとおしては届かない」地下室に降りて行った時、彼にとって「それを見、それを聞くことが既に必要となった人々との間には『忘却の壁』が生い立った。」「私の大学」の中で、ゴーリキイは自制した悲しみをもってこの頃を追懐している。「彼等の中の誰も私のところに、仕事場に来てくれるものはなく、私は一昼夜十四時間も仕事をしているので、普通の日にはデレンコフの所へ行くことが出来なかった。休みの日には或は眠り、或は仕事仲間と一緒にいた。」と。
 生活のためパン焼工場へ行った十七、八のゴーリキイが、既に彼等に会わなかった前のゴーリキイではなくなっているという重大な事実、及び暗愚と無恥との中におしこめられて精神的に孤独な境遇に暮すことがゴーリキイにとって、従前とは異った苦痛となっていることなどを不幸にも彼の教師達はちょっとも洞察しなかった。
 ロシアの民衆の中に蔵されている健康な人間性、大きい才能の強力な発芽として歴史の上に登場した若いゴーリキイが、計らずも当時の情勢に制約され、苦しんだ内的過程の有様は今日の私達をも様々の示唆によってうつものがある。もし、無智と従属とを意味する名辞として解釈するその時代の習俗に従えば、ゴーリキイは既に盲目な民衆(ナロード)の一員ではなくなっている。さりとて、当時の民衆派たち(ナロードニキ)が、自身を解放の指導者、口火として、外部から民衆に接触して行った、そういう資格において彼を評価しようとすれば、ゴーリキイはそのようなインテリゲンツィアとして、うけいれられない。又、その必要もなかったと思われたであろう。何故なら、彼等ナロードニキの伝統的見解に従えば、ゴーリキイは波止場から来たから、民衆の中からの生粋の子として存在しているところに自然発生的な価うちがあるのであったから。ゴーリキイが、民衆の中から出ているからこそ民衆に加えられる抑圧とその暗さとに対し不撓な闘志を抱き、その故にこそ彼の若い生命は高価である所以を、当時の民衆派達(ナロードニキ)は理解し得なかったのである。彼等は、自分たちが訪問することさえ思いつかなかったセミョーノフの不潔きわまる地下室「日がな一日沸ぎっている湯が眠そうに、気懶るそうにピストンを動かし」「濃い、臭い、いきれ立つ湯気の中で」日頃彼等の夢想しつつある民衆の新たな一典型が成長しつつあるという現実の豊富な営みを知ることが出来なかった。もとより、ゴーリキイ自身は知りようもない。
 ゴーリキイの地下室仲間は一般に、当時急進的インテリゲンツィアのもっている革命的な値うちを素直にうけ入れられない程生活に圧しひしがれていた。パン職人たちの唯一の歓びは、給金日に淫売窟へ出かけることであった。すると、そこの「喜びのための娘たち」は酔っぱらいながら彼等に、学生や官吏や「一般に小綺麗な連中に」対する悪意のある哀訴をした。それをきくと「教育のある人達に対する片輪の伝説」で毒されているパン焼仲間は不可解なものへの嘲笑と敵対心を刺戟され、毒々しい喜びで目を閃かせながら叫ぶのであった。
「ウー、……教育のある連中は俺達よりわるいんだ!」
 後年書かれた短篇小説「二十六人と一人」(一八九九)「赤いワシカ」(一九〇〇)等にはこのセミョーノフのパン焼職人の生活の印象づよい具体的な描写、插話が芸術化されている。
 パン焼職人達は「最初の日から、彼をおかしな道化者、又は面白い話をするひとに対して子供が示すような素朴な愛でもって」若い、力持ちの新しい仲間を見た。ゴーリキイは、彼等の気に入る物語の間に、「もっと楽な、意義のある生活の可能に対する希望をふき込もう」とした。しかし、時に、彼等は猛烈に悪意をもってゴーリキイに反駁した。
「だが、娘達が奴等について云うことたあ、まるっきり違うぞ!」
 彼等の性わるな嘲弄の中には、ゴーリキイがまだ女の愛撫を経験したことがないことが、最も容赦ない材料としてとりあげられるのであった。

 崖上の小さい、だがその存在の意味は大きいデレンコフの店では、やがてパン屋を開くことを考え出した。この事業はアンドレイ・デレンコフによって精密に計画され、一留(ルーブル)ごとに三分五厘の利益を得るように企図された。ゴーリキイはセミョーノフの大きい汚い地下室から、いくらかましな小さいデレンコフの地下室へ移って来た。「四十人の職人仲間の代りに、一人のパン焼職人ルトーニンの『助手』兼仲間のものとして」パン焼が麦粉、卵、バタ、出来上ったパンなどを盗まないように注意するのが今やゴーリキイの仕事となった。
 パン焼職人は、勿論、盗んだ。仕事の最初の夜に卵を十箇、三斤ばかりの麦粉とかなり大きいバタの塊とを別にして置いた。
「これは――何にするんだね?」
「これはある娘っ子につかうんだよ」親しげにそう言い、ルトーニンは鼻柱を顰めてつけ加えた。「とてもいい娘っ子だ!」
 この男は、どれだけでも、どんな恰好ででもシャベルによりかかってでも眠ることが出来た。そして、眠りながら彼は眉を挙げ、彼の顔は不思議に変って、皮肉に驚いた表情をした。地べたの底に埋められている宝物の話、夢の話、それがこのパン焼の話題である。パン店の方では仕事に不馴れなデレンコフの妹マリアとその友達の、バラ色の頬をした娘とが商売している。
 ゴーリキイは、朝早く、焼きあげたパンをデレンコフの店へ運び、更にいろんなパンの詰った二プードの籠をもって神学校へ走って行った。時によると、その白パン籠の下に帳面が入っていることがある。それを、ゴーリキイは或る学生の手へうまく押し込んでやらなければならぬ。時には、行った先で、学生達が本や紙片を、ゴーリキイの籠の中にいそいで突こむ。――
 夕方の六時から真夜中まで働かなければならなかった。僅の暇をぬすんで本を読む。
「お前は本なんか読まないで、寝る方がいいんだ!」
 ルトーニンの忠告は全然当はずれではなかった。力の過剰のために、無細工な若者ゴーリキイが疲労で鈍くなるまでの労働であった。
 この時期に、ゴーリキイの心持にとって代えるもののなかった祖母が死んだ。葬式がすんで七週間後に従兄から手紙が来て、それを知らせた。句読点のない短い手紙の中には、祖母さんが教会の入口で施物を集めて倒れながら足を折った、と書いてあった。丹毒にとりつかれた、と書いてあった。もっと後になって、ゴーリキイの知った祖母の生涯の終の有様は彼を震撼した。二人の従兄弟と子もちのその妹――健康な若い者ども――が祖母の首にかかり、彼女の集めた施物によって食っていたのであった。八つの時ゴーリキイが、五哥(カペイキ)、十哥(カペイキ)を稼いでやった、その祖母さんに。
 ゴーリキイは「私の大学」の中に短く圧縮した表現で書いている。「私は――泣かなかった。唯――思い出す――まるで氷の風で私は捉えられたようだった」と。祖母がどんなに心から賢く、「すべての人々にとっての母であったかということについて」ゴーリキイは誰かに語りたいという切ない願望を感じたが、その対手は当時のゴーリキイの周囲にいなかった。「私は幾年か過ぎて、自分の息子の死について馬と話す馭者についてのチェーホフの驚く程真実な短篇を読んだ時に、これらの日を思い出した。そして、鋭い哀愁の、これらの日に私のまわりには馬もなく、犬もなかったこと、そして鼠と悲しみを分つことを考えつかなかったことを惜んだ――それはパン焼場に沢山いて、私は彼等と良い親しい関係にあったのだが。――」
 ゴーリキイのまわりには巡査のニキフォールウィッチが鳶のように廻りはじめた。カザンの町では「手から手へと何か感動的な本が渡ってゆき、人々はそれを読んで――論じ合った。」
 或る夜、或る空屋へ人々が集った。口笛を吹き、歌を唱い、ほろ酔い職人のふりをしたゴーリキイも加った。朗読されたものは、以前の「民衆の意志(ナロードノ・ヴォーレツ)団員」ゲオルギー・プレハーノフの「我等の意見の対立」というものである。そうパン焼のゴーリキイはきかされた。朗読がすすむにつれ暗闇の中で、
「愚論!」
と吼える者がある。「本読みは退屈な程長くつづく。」ゴーリキイは聴き草臥(くたび)れる。それにもかかわらず、彼にはその挑戦的な鋭い言葉が気に入った。それらの云われていることは「容易に簡単に、説得的な思想に編みこまれて行く。」ところが、突然読みての声が遮られ、暗い朦朧たる部屋の中は憤怒の声に満たされた。
「裏切者!」
「ガアガア云う銅羅!」
「それは――英雄達によって流された血に痰を吐くようなもんだ」
「ゲネラーロフ、ウリヤーノフの処刑の後に……」
「諸君! 漫罵の代りに、真面目な、本質的な反駁をやる訳にはゆかんのか?」
 その一夜から五十年近く経った今日顧れば、ゴーリキイの参加したこの空屋での会合、読まれたプレハーノフの論文「我等の意見の対立」こそ、ロシアの民衆の歴史にとって画期的な内容をもつ重大なものであったことが理解される。当時三十歳前後であったプレハーノフは、一八八五年、外国で出版されたこの論文によって民衆派(ナロードニキ)の各分派が従来その根本的土台としていたところのロシアの現実には資本主義がない、発展しないという誤った観念を徹底的に覆した。ナロードニキのその考え方は余り執拗にそれを繰返されたので、マルクスさえ或る時期に非常にその判断に迷ったという程強力、支配的なものであった。プレハーノフは、当時手に入る限りの統計、材料を集め、科学的マルクシスムの立場からそれを調べ、資本主義はロシアにおいて支配者となりつつあることを明かに示した。農村の旧土地制はそれによって崩壊しつつあること、ロシアの未来は工場の労働者に基礎を置かれなければならぬということ、労働者党が必要でありそれが過去において陥ったインテリゲンツィアの矛盾をも解決するであろうこと等をプレハーノフはその論文の中で語っているのであった。これは、従来の「仕事をする人々」が誰も踏んだことのない土台であった。しかも、一九一七年の十月まで進んで行ったその道に立ったものなのであった。
「私の大学」の中で、この歴史的瞬間は何と素朴に、しかも何と興味ふかく描かれていることであろうか。レーニンの兄、ウリヤーノフが一八八七年にアレキサンダー三世に対する企計に失敗し、処刑された。その失敗によって与えられたテロリズムの非科学性についての深刻な教訓、プレハーノフ、つづいてレーニンによって発展せられようとしている新たな運動の方向。その客観的価値を判断し得ないナロードニキの憤怒。十九世紀におけるロシア、世界の歴史の渦はカザンの町はずれの一軒家の中に激しく渦巻いているのであったが、ゴーリキイは、当時の自分の関係を極めて自然発生的に率直にこう書いている。「私は論争を好まない。私はそれをきくことが出来ない。私は昂奮した思想の気まぐれな飛躍を追うことが困難である。そしていつも論争者の自愛心が私を焦立たせる。」
 ここでまことに面白いことは、この夜プレハーノフの論文を朗読し、漫罵の代りに本質的な反駁をやることは出来ないかと特に注意した一人の青年フェドセーエフが、喧々囂々の中で苦しそうにしているゴーリキイに目をとめた。彼は云った。
「君は――パン屋のペシコフですか?――僕はフェドセーエフだ。我々は知り合いにならなければならなかったのです。実を云うと――こんなところでは何もすることはない、この騒ぎは――長くて、利益は少いだろう。行きませんか?」

 デレンコフ・パン屋の仕事は、益々酷いものとなると同時に、悪いことには段々仕事の意味が失われて来た。ナロードニキの連中は、パン店の仕事の工合をも考えず、麦粉の代さえのこさず、不規律に会計から金を引出して行った。デレンコフは、明るい髯をむしりながら、痛ましくも薄笑いした。
「破産しちまうよ」
 デレンコフの生活も亦苦しかった。彼は時々訴えた。
「みんな不真面目だ、何もかも持って行っちまう。お話にならない。靴下を半ダース買って置いたら、すぐ失くなってしまった」
 この温和な、無慾な男が有益な仕事をうまくさせようとして努力しているのに、周囲の誰も彼もがその仕事に対して軽率な冷淡な態度をとってそれを破壊させつつある有様はゴーリキイの心を痛めた。デレンコフの父親は宗教上のことから半狂人になった。弟は放蕩をはじめ、マリアのところには何か芳しくないロマンスがある。そのマリアに、ゴーリキイは自分が恋しているように思われた。ゴーリキイの二十歳という年齢、たっぷりした強い感覚的な性格、生活の錯雑が、女の愛撫を要求した。女の親切な注意がほしかった。それによって自身の連絡のない思想の混乱を、印象の渾沌を捌いてゆきたかった。
 だが、愛することの出来る女も、友達もゴーリキイは持たなかった。「加工を必要とする素材」としてゴーリキイを眺めている人々は、ゴーリキイの同感を呼び起す力を失った。彼等が当面興味をもっていないことについてゴーリキイが話しはじめると、彼等は遮った。
「そんなことはやめてしまえ」

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