マクシム・ゴーリキイの伝記
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著者名:宮本百合子 

 クラスノヴィードヴォの農村生活に於けるこれらの強烈な経験の描写は、「私の大学」の中で芸術的に優れた部分をなしているばかりでなく、私共の特別な興味を唆る点は、このゴーリキイによって描かれた農村生活の数十頁が、歴史的にはツルゲーネフの「処女地」とショーロホフの「開かれた処女地」との間をつなぐ社会的事情を反映していることである。「処女地」は知られているとおりナロードニキの活動の高揚期を捕え、インテリゲンツィアの側から、若き先進者たちの内的矛盾を描きつつ農村を観察して行った作品である。農民はここでは一様に、灰色なものとして現れている。無知、狡智の錯綜が、一般性においてとりあげられている。
 ゴーリキイがそこに生きて、そして殺されかかって観た一八八〇年末のロシアの農村には、既に階級があらわれ、農民の気分も、その人々が村で置かれている位置に従って変化をもっていることが、描写の中に十分反映している。先進者の努力は、農村のどういう人々の群の利害と対立し、どういう人々の幸福と結合し得るものであるかということの実際を、ゴーリキイは、恐らく自覚した以上の鮮明さで描き出しているのである。しかしながら、そこにはまだ「開かれた処女地」に於て輝き出した新しい世界観、組織の力は見出せない。
 同時に、ゴーリキイの生涯を通じて(最後の数年間をのぞき)持たれた彼の農民に対する考えかたの根が、このヴォルガ河畔の村落生活の経験によって植えつけられたことも、見落せないところであると思う。ゴーリキイは、ナロードニキが民衆を想像したようにでなく、民衆を自身その中の一人として理解していたように、農民をトルストイ的傾向と、全然反対に観破した。特に、富農らが、どんなに「理性を憎悪」するかということ、その富農らに百姓はどんなに瞞着され、ふりまわされるかということ。猶農民の一般的な貪慾さなどというものを、ゴーリキイは嫌悪し、農村の暗さ、野蛮さ、農民の愚痴っぽさに対して都会の優越を、都会の労働者の積極性を対立させ、より高く評価しているのである。急速に没落した小市民の家族から出生したと云っても境遇の必然からプロレタリア的な暮しの中で成長しつつある青年ゴーリキイの心持がよくわかるのである。が、このことの中には私共を誘って、更にもう一歩奥まったゴーリキイの精神の内部へと立ち入らせるモメントを含んでいる。それは一九二三年「私の大学」の中でこれ等の生彩ある部分を書きながら、ゴーリキイが、では、何故、都会と農村との間にはこのような反撥が生じているのか、何故、農民は概括的単純に労働者の協力と云うことは出来ないかという問いを、たとい、自分自身に向ってでも提出していないかということである。少年時代から「何故に?」という疑問をたぐって現実をかき分けて来たようなゴーリキイにとって、これは、何となくふさわしくなく思われる。都会と農村との反撥について、農民の抱いている理性への反逆について、クラスノヴィードヴォの村で受けた印象は二十一歳のゴーリキイに余り強烈であったと見える。「煉瓦でやっつけろ!」という熱い喚き声の感銘は、作家ゴーリキイの中で一つの固定的見解となったかのようである。ゴーリキイは農村に関するこの個人的、肉体的見解、感情のために、ロシアの現実の大局的理解を誤った時期さえある。その最も顕著な例は一九一七年の十月以後であった。
 歴史的には古い文化に対する新しい文化の擡頭、その発展のための闘争としてゴーリキイの生涯に反映したインテリゲンツィアと大衆との相互関係についての微妙な歴史、大衆と個人との関係についての評価の推移等の端緒は、既にデレンコフのパン焼場で汗を流していたゴーリキイの中に、イゾートの死骸を眺め、ロマーシの背中へ自分の背中をぴったり合わせて立ったゴーリキイの中に芽生えはじめていたのであった。
[#未完]




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