マクシム・ゴーリキイの伝記
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著者名:宮本百合子 

 その一夜から五十年近く経った今日顧れば、ゴーリキイの参加したこの空屋での会合、読まれたプレハーノフの論文「我等の意見の対立」こそ、ロシアの民衆の歴史にとって画期的な内容をもつ重大なものであったことが理解される。当時三十歳前後であったプレハーノフは、一八八五年、外国で出版されたこの論文によって民衆派(ナロードニキ)の各分派が従来その根本的土台としていたところのロシアの現実には資本主義がない、発展しないという誤った観念を徹底的に覆した。ナロードニキのその考え方は余り執拗にそれを繰返されたので、マルクスさえ或る時期に非常にその判断に迷ったという程強力、支配的なものであった。プレハーノフは、当時手に入る限りの統計、材料を集め、科学的マルクシスムの立場からそれを調べ、資本主義はロシアにおいて支配者となりつつあることを明かに示した。農村の旧土地制はそれによって崩壊しつつあること、ロシアの未来は工場の労働者に基礎を置かれなければならぬということ、労働者党が必要でありそれが過去において陥ったインテリゲンツィアの矛盾をも解決するであろうこと等をプレハーノフはその論文の中で語っているのであった。これは、従来の「仕事をする人々」が誰も踏んだことのない土台であった。しかも、一九一七年の十月まで進んで行ったその道に立ったものなのであった。
「私の大学」の中で、この歴史的瞬間は何と素朴に、しかも何と興味ふかく描かれていることであろうか。レーニンの兄、ウリヤーノフが一八八七年にアレキサンダー三世に対する企計に失敗し、処刑された。その失敗によって与えられたテロリズムの非科学性についての深刻な教訓、プレハーノフ、つづいてレーニンによって発展せられようとしている新たな運動の方向。その客観的価値を判断し得ないナロードニキの憤怒。十九世紀におけるロシア、世界の歴史の渦はカザンの町はずれの一軒家の中に激しく渦巻いているのであったが、ゴーリキイは、当時の自分の関係を極めて自然発生的に率直にこう書いている。「私は論争を好まない。私はそれをきくことが出来ない。私は昂奮した思想の気まぐれな飛躍を追うことが困難である。そしていつも論争者の自愛心が私を焦立たせる。」
 ここでまことに面白いことは、この夜プレハーノフの論文を朗読し、漫罵の代りに本質的な反駁をやることは出来ないかと特に注意した一人の青年フェドセーエフが、喧々囂々の中で苦しそうにしているゴーリキイに目をとめた。彼は云った。
「君は――パン屋のペシコフですか?――僕はフェドセーエフだ。我々は知り合いにならなければならなかったのです。実を云うと――こんなところでは何もすることはない、この騒ぎは――長くて、利益は少いだろう。行きませんか?」

 デレンコフ・パン屋の仕事は、益々酷いものとなると同時に、悪いことには段々仕事の意味が失われて来た。ナロードニキの連中は、パン店の仕事の工合をも考えず、麦粉の代さえのこさず、不規律に会計から金を引出して行った。デレンコフは、明るい髯をむしりながら、痛ましくも薄笑いした。
「破産しちまうよ」
 デレンコフの生活も亦苦しかった。彼は時々訴えた。
「みんな不真面目だ、何もかも持って行っちまう。お話にならない。靴下を半ダース買って置いたら、すぐ失くなってしまった」
 この温和な、無慾な男が有益な仕事をうまくさせようとして努力しているのに、周囲の誰も彼もがその仕事に対して軽率な冷淡な態度をとってそれを破壊させつつある有様はゴーリキイの心を痛めた。デレンコフの父親は宗教上のことから半狂人になった。弟は放蕩をはじめ、マリアのところには何か芳しくないロマンスがある。そのマリアに、ゴーリキイは自分が恋しているように思われた。ゴーリキイの二十歳という年齢、たっぷりした強い感覚的な性格、生活の錯雑が、女の愛撫を要求した。女の親切な注意がほしかった。それによって自身の連絡のない思想の混乱を、印象の渾沌を捌いてゆきたかった。
 だが、愛することの出来る女も、友達もゴーリキイは持たなかった。「加工を必要とする素材」としてゴーリキイを眺めている人々は、ゴーリキイの同感を呼び起す力を失った。彼等が当面興味をもっていないことについてゴーリキイが話しはじめると、彼等は遮った。
「そんなことはやめてしまえ」
 だが、ゴーリキイにとって話したい、打ちあけたい生活の苦痛、錯綜した印象の回旋そのものはやまらない。減りもしない。当時は又夥しくトルストイアンが現れ「眼には憎悪と軽侮とを現わしながら『真理――それは愛です』と叫び」ながら客観的にはポヴェドノスツェフの反動政策の支柱を与えつつ、消極的な八十年代の人々の間を横行した時代であった。彼等はゴーリキイに向って説教した。
「人間が低いところにいればいるだけ、それだけ生活の本当の真実に、その聖なる叡智に近い……」
 実際生活における彼等の虚偽と偽善を目撃することが、ゴーリキイの心に憎みを煮え立たせた。人間の生活において愛と慈悲との役割はどういうものであろうか。ゴーリキイにはこの生活は余すところなく愚かで、殺人的に退屈なように見えた。人々は言葉の上でだけ慈悲深く親切だが、実際の上では我知らず一般的な生活の秩序に屈服しているように思える。自分が尊敬し信じていたナロードニキの人達の暮しも例外でないという感想は、ゴーリキイを一層暗くするのであった。インテリゲンツィアの中にはもっと質のわるい毒気をふきかける人々もいた。彼等は飲んだくれながら、嗄れ声で云った。
「君は何だ? パン焼き――労働者、不思議だ。そうは見えない。俺はパリで、人類の不幸の歴史、進歩の歴史を勉強した。そうだ、書きもした。――おお、こんなことがみんなと何と……」
 彼は、ゴーリキイに、アンデルセンの有名な「見っともない雄鴨」の話を知っているかと訊いた。
「この話は――誘惑する。君ぐらいの年には僕も、自分は白鳥じゃないか? と考えたもんだ。進歩――それは気休めだよ。人間が求めているのは忘却、慰安であって、知識ではない」
 この時分、ゴーリキイは彼を「俺のレクセイ・マクシモヴィッチ、俺の可愛い錐、新しい人間!」と呼んで親密にするモローゾフ紡績工場の老職工ルブツォフを知っていた。クレストッフニコフの労働者で指物師のシャポーシニコフとも知り合っていた。「ドイツ人」という綽名のあるルブツォフは、辱められた晴やかさに満ちて、ゴーリキイに思い深げに叫ぶのであった。
「俺の可愛い錐。お前の考えはよ、正しい考えだ。だが、だあれもお前の云うこたあ、信じやしねえ。損だ……」「俺達んところで、モローゾフの工場でよ――こんなことがあった。前の方へ行く奴は額を殴られる、ところが額は尻じゃあねえ、傷は永えこと残らあな。唯――主人に対する俺の権利をよこせ」
 シャポーシニコフは、腐った肺の血を四方に吐き散らしながら、目の眩むような神の否定を叫んだ。
「ええ、俺は殆ど二十年も信心して来た。耐(こら)えて来たんだ。縛られて生きて来た。バイブルに噛りついて来た。そして、気がついて見ると――拵(こさ)え事だ! 拵えごとだよ」
 そして、手を振廻し泣かんばかりに叫んだ。
「見ろ――そのために俺は実際より早く死ぬんだ!」
 おお、何んと汚い、悲しい、そして不思議に斑(まだら)な人々を見せられているのだろう。ゴーリキイはそれに疲れた自分を感じた。「すべての人間の中に、言葉や行為のみならず感情の矛盾が、角ばって具合わるく同棲している。」その気まぐれな跳梁が自分自身の裡にも感じられる。これがゴーリキイを苦しめ、圧した。「初めて魂の疲労と、心臓の中の毒々しい黴を感じた。」ロシアの民衆にとって、行くべき道がまだはっきりと示されなかった時代の悲傷が遂に強健なゴーリキイをも害した。彼は書いている。「その時から私は自分をより悪く感じ、自分を何か脇の方から、冷たく、他人のような敵意をもった眼で眺めるようになった」と。
 では純粋な工場労働者の生活というものは、この時代に果してどんなであったのだろう。一八八五年に行われたモロゾフ工場のストライキの結果、幼少年者の搾取の制限、婦人の夜業禁止、二週間目毎に賃銀を支払うこと、罰金はこれまでのように二十五パーセントとらず賃銀の五パーセントに止めるというような工場法めいたものがきめられたが、工場監督は工場内の「秩序を保つ」に役に立つ警部であった。マクシム・ゴーリキイがカザンへ出て来た時分、十三ばかりであったシャポワロフは、ペトログラードの鉄道工場で朝七時から夜の十時半まで働いていた。給料は一日三十哥(カペイキ)であった。工場の大人共はシャポワロフに「仕事を教えるかわりに、朝から晩までウォツカを買いに走らせた。」皆で出しあって銭が出来ると、怒鳴った。「サーシュカ、半壜買って来い!」何か機会がある毎に皆が酔っぱらった。特に、当時は「どの工場にもある聖者の像の前で礼拝のある日はひどかった。こんな日は礼拝がすむとみんなは気を失うまで酔っぱらう」のであった。
 一八七〇年代の高揚は去り、工場の中で「同志」とか「同僚」とか云う言葉はこの時代には個人的な意味しかもたなかった。密告は工場内では普通のことになっていた。職場で使う道具さえ、目をはなせば盗まれた。ポヴェドノスツェフの影は工場の内へも圧倒的に差し込んで来た。ナロードニキ達をシベリアへ、要塞監獄へどしどし送る一方で、坊主が工場の中へ入りこみ、「凡て疲れたる者、重荷を負へるもの、我に来れ。我汝を憩はせん」と叫びながら「禁酒会」を組織しているのであった。一八九〇年代に入ってロシアに正当な労働運動が成長した時、「インテリゲンツィア十人に対する一人」の労働者として卓抜な活動をしたシャポワロフは、その価値高い自伝の中で、飾りなく、しかも忘れ難い憤りによって歯の間から云っている。「毎日毎日、私は烈しい労働をした。そして私の頭の働きは鈍って行った。」「禁酒会が私を誘惑した。労働者の孤立はそんなにもひどかった。その頃の工場には政党も、協同組合も相互扶助金庫もなければ、どんなアジテーションもプロパガンダも行われなかった。」十六歳だったシャポワロフは、原始キリスト教の理想を実現して、貧富の相異が消せるかと思ったのであった。
 ゴーリキイがカザンで、デレンコフの店の裏の小部屋に坐ってナロードニキの討論に耳を傾けている、その時、シャポワロフは遠くペテルブルグにあって仲間の労働者に聖書の説明をしてやりながら、その中から次第に自然科学へ関心をひかれて行きつつあった。最も熟練工の多いワルシャワ鉄道大工場の金属工のなお沢山の者が、地球は円いのか、扁平なのか、動かないのか、それとも太陽の周囲を廻転するのか等とシャポワロフに質問した。バイブルはこれらのことを正確に説明するには何の役にも立たない。その上工業恐慌の影響で、どの工場でも労働者の賃銀が下がる一方であった。賃銀切下げは親方の勝手な才量で行われた。キリスト教とトルストイとは悪に報ゆるに悪をもってするなと云う。禁酒会員であるシャポワロフは、この教義と一日一ルーブルの稼ぎで、母、妹、二人の弟を養わねばならない現実生活が彼の全身に囁き込む生きた抗議との間に生じる矛盾で苦しんだ。
 ゴーリキイは、恐ろしい乱読と廻り路を通してではあったが、ともかくこの時代には世界の代表的古典文学の或る物を読み、チェルヌイシェフスキイを読み、それを理解すべきように理解出来なかったとは云え、プレハーノフの論文朗読をも聴く機会を持っていた。毎朝、かの歴史的なプチロフ工場のサイレンで目を醒すシャポワロフが、辛うじていくらかでも自由主義的な同時代の著作物に近づくことが出来たのは、何という愉快な皮肉であろう! 労働者が公然読むことを許されている『グラジュダニン』や『ルッチ』のような極反動的な新聞が、繰返し、痛烈にそれ等の著作をこき下していることから、彼の好奇心が刺戟されたのであった。
 シャポワロフは様々の苦しい、いきさつの後、「きっぱりとこれまでの生活方法を変えた。教会へ通うことも、祈ることも、聖像の前で帽子をとることもやめた。」文筆の仕事の中で感情を誇張する悪癖を持たぬ素朴さで、シャポワロフは当時の決心を表現している。
「神が存在しないとなれば、今度は社会主義者をさがし出さなければならない」――。
 一八八三年頃、スウィスでプレハーノフを中心として小さいながら「労働解放団」が組織されていた。その二年位後にはペテルブルグの「労働者」というグループが、解放団との関係をもっていたが、勿論、そのことはワルシャワ鉄道工場の一青年労働者であったシャポワロフには知られなかった。彼のまわりには、夜学校の中にも、彼の求めているそれらしい人の片影すら見出せなかったのであった。

 ところで、ゴーリキイが、カザンの町端れの空屋の中でプレハーノフの論文朗読を聴いた時、それに対するナロードニキの爆発的反撥の声の中に最もつよく叫ばれた「ウリヤーノフの処刑」は、引続いて行われためちゃめちゃな学生狩のため、アレキサンドル三世の政府が、初めてぶつかったインテリゲンツィアの全国的反抗を喚起する結果になった。大学生騒動はモスクワから始って、各都市に波及した。
 カザンで、ゴーリキイのまわりは空虚になった。カザン大学でも騒動がはじまった。(十八歳のウラジミル・イリイッチ・ウリヤーノフ(レーニン)がカザン大学の学生の指導者であった。)だが、その意味はゴーリキイにとって不明であった。動機は、漠然としたもののように感じられた。沸き立つ学生の群を眺めると、ゴーリキイには自分がもし「大学で勉強する幸福」を得られたらそのためには「拷問さえも辞しはしない」のにと、考えられるのであった。
 元働いていたセミョーノフのパン焼場へ行って見ると、パン焼職人たちは、学生を打ちに大学へ押しかけようとしているところであった。
「おお、分銅でやっつけるんだ!」
 彼等は嬉しそうな悪意で云った。たまらなくなって、ゴーリキイは彼等と論判をはじめた。が、結局自分に学生を護り得るどんな力があるというのであろうか。ゴーリキイの全心を哀傷がかんだ。自分がどこへ行っても、誰にとっても必要のない存在であるという考えが、病的に彼を捕虜にした。夜、カバン河の岸に坐り、暗い水の中へ石を投げながら、三つの言葉で、それを無限に繰返しながら彼は思い沈んだ。
「俺は、どうしたら、いいんだ?」
 哀傷からゴーリキイはヴァイオリンの稽古を思い立った。劇場のオーケストラの下っぱヴァイオリンを弾いていたその先生は、パン店の帳場から金を盗み出してポケットへ入れようとしているところを、ゴーリキイに発見された。彼は唇をふるわし、色のない目から油のように大きい涙をこぼしながら、ゴーリキイに訴えた。
「さあ、俺を打ってくれ」
 二六時中彼を不愉快にいら立たせるところのすべてに反抗したい希望が、静かに執拗につきまとった。空虚への反感が喉をつまらせるのであった。
 この堪え難かった年の十二月の或る晩、ゴーリキイは雪の積ったヴォルガ河の崖によりかかりピストルを自分の胸にあてて、発射した。弾丸が肋骨に当ってそれた。彼は生きた。
 我々読者に今日無限の示唆を与えるのは、ゴーリキイほどの強靭な天質と生活力とを持つ者でさえも、歴史の或る時期には自殺をしようとしたという一事実を踰えて、更に、人及び芸術家としてのゴーリキイが、自分のこの記念的経験をちゃんと短いながら一つの作品「マカールの生涯の一事件」になし得たのは、二十五年の後、『プラウダ』に参加するようになった一九一二年のことであるという事実である。「マカールの生涯の一事件」の結末に於て、ゴーリキイは「病んだ心臓の奥底から」「春の最初の花のような」人生への希望が甦って来たこと、決して「どっちにしろ同じ」じゃないということを、全身に感じたこと、最後に、パン焼職人の荒々しい手を確り握って笑いながら、涕泣しながら、このマカールと仮の名をつけられた逞しい、だが小路へ迷い込んだ民衆の一人が「長い剛情な人生の上に本復したことを感じた」美しい瞬間を、脈うつ歓喜の調子で描いているのである。
 小説として観察すると「マカールの生涯の一事件」は、主人公の内面的推移、心持の多岐な複雑さを分析し、描写する上に、作者がまだ或る程度混乱していることが直感される。抽象的に書かれているというばかりでなく、主人公の心持に対する作者の角度がきまっていないことが感じられるのである。「私の大学」はこの小説が書かれてから更に十一年を経て執筆されたのであるが、この中でも、ゴーリキイはこの経験について触れている。小説について、自身の不満足を示している。しかし、不撓な生きてであったゴーリキイの面目を躍如と語る評価を「マカールの生涯の一事件」に対して自ら下している「もしもこの小説の文学的価値について云わないならば――その中には私にとって、ある快よい何物かがある。あたかも私が自分自身を乗越えたかのように」と。ゴーリキイの短いこの言葉は十分に真実である。
 この出来事の後に、ゴーリキイは、却って生活に対する溌溂さを取戻したように見える。非常に気まずく、自分を愚かしいものに感じながらデレンコフのパン店で働いていると、三月の或る日、集会で知り合い、その沈着な様子でゴーリキイの心にひそかな信頼を抱かせていたロマーシが訪ねて来た。彼は静かに話しだした。
「ところで俺のところへやって来る気はないかね? 俺はヴォルガを四十露里ばかり下ったクラスノヴィードヴォの村に住んでいるんだが、そこに俺の小店があるんだ。君は俺の商売の手伝いをする。これには大した時間をとりゃしない。俺はいい本を持っているし、君の勉強を助けてあげる――いいかね?」
「ええ」
「金曜日の朝六時にクルバートフの波止場へ来てクラスノヴィードヴォからの渡船を訊きたまえ。主人は、ワシリー・パンコフだ」
 立ち上り、ゴーリキイに幅の広い掌をさし出し片手で重そうな銀の□パン時計を取出して云った。
「六分で済んじまった! そうだ、俺の名は――ミハイロ・アントーノフ、苗字はロマーシ。そうだ」
 こうして二日後には、クラスノヴィードヴォに向ってやっと解氷したばかりのヴォルガを下った。桶や袋や箱を重く積込んだ渡船は帆をかけ、舵手席に、平静で、冷やかな眼をしたパンコフが坐り、舷には灰色の脆い早春の氷塊が濁った水に漂いながらぶつかる。北風が岸に波によせて戯れ、太陽が氷塊の青く硝子のような脇腹に当って明るく白い束のように反射しながら目眩く輝やいている。
 ゴーリキイは、ロマーシと並んで帆の下の箱の上に腰かけていた。ロマーシは静に云う。
「百姓達は俺を好かない。特別――金持ち連中は! この嫌悪は君も自分で経験させられるだろう」
 長い鉤竿で、羊の群を放ったように川面に浮いている氷を押しやりながら、パンコフのところに使われている髪蓬々の、坊主の古帽をかぶったククーシュキンが、二人の方へ顔を向け、有頂天に云った。
「アントーヌィッチ、殊に坊主があんたを好きませんや……」
「そりゃあ確かだ」パンコフが裏書きする。
「貴方はあの犬にとっちゃ、喉にひっかかった骨だからね」
「だが俺には友達もある――それが君の友達になるだろう」
 ゴーリキイにはロマーシの平静で、単純で、重味のある言葉が気に入った。何故、自殺しようとしたのだ、と訊かないのが、特に愉快だった。ほかの連中ならきっと訊いたであろう。
 クラスノヴィードヴォは、高い、峻しい崖の上に、教会の青い屋根が聳え、それからずっと山の端沿いに丈夫そうな小屋が金色に藁屋根を輝やかしている村であった。
 真直な大きい鼻のついた紅色の顔に、碧色を帯びた眼が厳格に光っている、背の高い、いかにも美しい一人の漁師が崖下の船着きへ下りて来た。声高く優しく云った。
「よくおいでやした」
 このイゾートはロマーシに対して親切に、配慮ぶかく、保護するようにさえ振舞っているのがゴーリキイにわかった。ロマーシは、これらの百姓パンコフや漁師イゾートなどとこの村で「人間に理性をつぎ込む仕事」百姓と小地主とを組織して農業組合をつくり、買占人の手から彼等をきりはなそうと試みているのであった。ロマーシは、手はじめにクラスノヴィードヴォの村にこれまでからある二軒の店よりやすく品物を売ることにした。
 ロマーシは、ゴーリキイがデレンコフの店で知り合っていたナロードニキの人々とは民衆に対して異った考えを持っているのであった。
「あすこの君達のところじゃ、学生達が民衆への愛についていろいろ喋っている。俺はそれについて云いたい。愛する――というのは、妥協し、寛容し、黙認し、許すことだ。が、民衆の無知を黙認し、その迷妄と妥協し、そのすべての卑屈さを寛容し、その野獣性を許すことが出来るかね? ニェクラーソフに溺れていたんじゃ何一つ出来ない。百姓は教えられなければいけない――お前が殴られないように生活することを学べってね」
 ロマーシの蔵書には科学的なものが多かった。彼はチェルニゴフの鍛冶屋の息子であった。キエフ駅の油差しとして労働しているうちに運動に入り、労働者の研究会を組織した。捕縛されて二年の牢獄生活の後、シベリアのヤクーツクに流刑された。十年間そこに暮した。革命的学生として同じ頃流刑されていたコロレンコを知っていた。
 苦しい動揺の後、自分にとって余り誇りとならない事件の後のゴーリキイにとって、このロマーシの着実な、人間的な処理ぶりは非常にためになった。「それは私を真直にした」と、ゴーリキイは顧みて書いている。「忘れ得ない日々であった。」
 日曜日に、礼拝の後ロマーシとゴーリキイとは店をあけた。店の入口に百姓が集りはじめた。往来を晴着を着た娘達が通り、釣竿をかついだ子供が走り、がっしりとした百姓たちが、店の連中、そこにかたまっている群を斜に見、黙って縁なし帽やフェルト帽をあげながら通って行った。その夕方、ロマーシはどこかへか出て行った。小屋に独りいたゴーリキイは、十一時頃、不意に往還で射撃の音をきいた。どこか、近くで発射されたのであった。雨が降り出していた。闇へとび出して見ると、ロマーシが、大きく、黒く、急がず水の流れをよけて、門の方へ歩いて来るのを見た。誰か、棒材を持った奴がロマーシを襲った。
「どけ、撃つぞ、と云ったがきかないんだ。で、俺は空へ向けて撃ってやった。――空にゃ傷がつかないからな」
 ゴーリキイは非常によく生活しはじめた。規則正しい読書。一日一日が新しい重要なものを齎した。ヴォルガの漁師イゾートの快い、感動的な素朴さは、ゴーリキイの心を動かした。イゾートは孤児で、土地を持たない百姓で、漁師の仕事でも孤立していた。イゾートは百姓について云った。
「奴等が親切だなんて思わねえがいいよ、ありゃ、ごまかしの狡い人間共だ。――農民は、群れで仲よく生活しなけりゃならねえ。そうすりゃ力になる! ところが金のある奴等は村を割っちまいやがる。全く! 自分で自分の敵になるんだ」
 美しい、貧しいヴォルガの漁夫イゾートのこれらの言葉は、鋭く当時のロシアの農村の現実につき入っている。ナロードニキ出のロマーシは、他の農村派の人々よりは、現実的に農民を理解していたであろう。彼は、農奴解放が行われて僅か三十年しか経たないロシア農民には、まだ自由とは何かということを理解するには困難であること。農民は政治上の自治権を獲得しなければならないこと。自分達の組合をもたねばならないこと。それ等をよく理解していたらしい。けれども当時ロシア関税政策の結果として起った農村の窮乏。地代の騰貴。七分、八分五厘という高利の「農民銀行」を利用する富農の強化などによって、驚くべき勢で農村の階級的分裂が促進されつつあった。ロシアには一千万の労働者と、その二倍の貧農が発生しつつあった。ロマーシとゴーリキイのまわりに親密な感情をもって集ったのは、クラスノヴィードヴォの村での、そういう貧農たちと、進歩的な、中農なのであった。
 村での実際の生活とその観察とは、ゴーリキイにナロードニキ達によって知らされていた大ざっぱで、理想化された農民というものの考えかたに変化を与えた。農村では、都会よりもずっと健康に、誠実をもって人々が生きていると聞かされ、又多くの本はそう書いている。然しその生活の裡に入ってみると、ゴーリキイに「農民の生活はそんな単純なものには見えな」かった。「それは土地に対する緊張した注意と人々に対する多くの敏感な狡猾さを要求している。そしてこの理性の貧しい生活は誠実ではない。村のすべての人々がまるで盲人のように触感で生活し、皆が何物かを恐れ、互に信ぜず、何か狼のようなものが彼等の中にある。」ゴーリキイにとっては「理性的に生活しようと欲する人々を何故あれ程執拗に愛さないのかを、理解するのが困難であった。」労働者と全く違う農民の気質、農村に対する都会の知的、文化的優越をゴーリキイはまざまざと感得した。田舎はゴーリキイの「気に入らない」のであった。
 ヴォルガの村々へ、林檎の花とともに咽ぶような春の季節がやって来た。月の夜、軽い風に蝶のような花は揺れ、微かに音をたて、そして村全体が金を帯びた碧色の重々しい波に揺れているように見える。休みの日の夕暮、娘達や若い女達は雛鳥のように口を開けて歌をうたいながら、村の往還を行った。微かに酔っているような笑いを笑う。村の女たちにいつも愛されているイゾートもまたまるで酔っているように微笑する。彼は痩せ、一層厳しく、美しく、神々しくなった。
 或る休み日の朝、ロマーシの小屋の煖炉用薪に火薬をつめこんだ者があり、それが爆発して、あやうく下女を殺しかけた。窓ガラスが皆こわれた。通りを子供らが叫んで馳けまわった。
「ホホール(ウクライナ人の蔑称)の家が火事だ! 焼けちまうぞ!」
「奴等を村から追っ払え!」
 小さい、赤毛の百姓が、片手に斧をもって窓から小屋へ入りこもうと藻がいている。薪を手に持ったまま、平静至極にロマーシがその赤毛の百姓に訊いた。
「お前何処へ行く?」
「消しに行くんだよ、とっさん!」
「どこも焼けてやしないよ」
 それから、ロマーシは店の入口へ行って、細工のされた薪を群集に示しながら云った。
「お前たちの中の誰かがこの棒へ火薬をつめて、それを俺達の煖炉の中へ突込んだんだ。だが火薬が少ないんで、害はなかった」
「私の大学」に、ゴーリキイは、卓抜な洞察をもって描写している。「人々はあたかも何物かを惜むように、ゆっくりと、いやいやに散って行った」と。「戦争だ!」とパンコフがやって来て、こわされた煖炉を見て呻ったのは真実であった。果樹園所有者組合の組織に成功しはじめたロマーシに対する「戦争」は、もとより村の富農から挑まれた。富農に買われる酔いどれの悪党としてはあつらえむきの兵士コスチンがある。
 七月半ばロマーシがカザンへ行った留守に、イゾートが殺された。ゴーリキイの心を魅していたヴォルガの漁師は、頭をうしろから破(わ)られ、ボートの底に穴をあけられて、死んだ。水に洗われているイゾートの死体を見下す崖の上に「陰鬱に、緊張して、二十人ばかりの富農が立っていた。貧農たちはまだ耕地から帰って来ていなかったのである。」その間を「狡そうで臆病な村長が、杖をふりながら動きまわり」読むような調子で、
「ああ、何という乱暴だ! おい、百姓たち、いけないねえ!」
と云っている、それらの姿は、「私の大学」中最も読者の心に深く刻み込まれる描写の一つである。
 署長が村へ呼ばれた。署長は富農の家へとまった。そして、イゾートの死体の発見された夕刻、群集の中で一人の商人を殴ったククーシュキンを、穴蔵へ入れるように命じた。それぎりであった。村は、自身の犯罪を深く呑みこんだ。
 ひと月たたない或る朝、店の倉庫代用につかわれていた納屋から火が出た。そこには、石油、タール、バタ等の商品が入れてあった。ゴーリキイが、火をくぐって納屋へとび込みタールの樽をころがし出し、石油の桶へ手をかけたら――樽の栓はあいていた。そして、地面に石油が流れている。火事は四つの小屋を焼いた。ロマーシとゴーリキイとは百姓達を指揮して消火に奮闘した。ロマーシの命令は「おとなしく聞かれたが、彼等はまるで、他人の仕事をするように、恐る恐る、何だか絶望的に働く」のであった。往還の末に、村長と村の商人を先頭とする金持の塊が認められた。彼等は見物人のように何もせずに立って、手や棒を振りながら叫んでいる。
「火つけだ!」
 金持連の中から悪意ある叫びが聞こえた。
 商人が云った。
「奴の風呂場に気をつけなけりゃいけねえ」
 十軒ほどの家をやいて火事が一応消し止められると、十人ばかりの金持が、二人の百人長にロマーシの手をとらせ、村長を先に立てて、谷の方にあるロマーシの風呂場へ行った。
「風呂場をあけろ!」
「錠をこわせ――鍵はない」
 ロマーシは、棒をもって駈けつけて来たゴーリキイに云った。
「奴等は俺が風呂場へ商品を隠して自分で店に火をつけたんだと云うんだ」
「お前えら二人がよ!」
「壊せ!」
「正教徒が……」
「責任は負う!」
「俺達の責……」
 ロマーシは囁いた。
「俺の背を合わせて立って呉れ! 後から殴られないように……」
 風呂場は、勿論空なのであった。
「何んもない!」
「何も?」
「ああ、畜生!」
「よせばいいのに、百姓達は――」
 いくつかの声がそれに答えて、劇しく酔いどれのように、
「何が――よせばいいのにだ?」
「火にくべろ!」
「謀反人(むほんにん)……」
「組合をたくらんでやがる!」
「黙れ!」
 大声でロマーシが叫んだ。
「どうだ。風呂場に商品のかくされていないことは見ただろう。それ以上、何が必要なんだ? 何も彼も焼けてしまった。残ったのは、それ、この通りだ。自分の財産に火をつけて何になるんだ!」
「保険がついているんだ!」
「奴等を眺めていてどうするんだ?」
 見知らぬ、小さい、跛の百姓が、聞えるように踊りながら、劇しく金切声をあげた。
「煉瓦で奴等をやっちまえ! 遠慮するな!」
 その百姓は実際に煉瓦をとって、手を振って、それをゴーリキイの腹へ投げつけた。パンコフ、ククーシュキンそのほか十人ばかりの者が駆けつけたとき、商人クジミンは勿体らしく云い出した。
「ミハイロ・アントーノフ。お前は賢い男だから、火事が百姓を気狂いにする位のことは、分っているだろう……」

 ロマーシは、焼けのこったものを皆パンコフが新しく出そうとしている店へ売り、ヴャートカへ行くことに決した。
「そして、幾日か経ったら君を呼ぶことにする、いいかね?」
「考えて見ます」
 この時ロマーシは、カザンのマリア・デレンコフと結婚しようとしていた。その報告をロマーシからきいた時から、ゴーリキイは既にロマーシと一緒に生活する時の終ったのを感じていた。何故なら、兄のパン店で本をよむ女売子として働いていたマリアを、ゴーリキイは恋していた。しかもマリアという彼女の名を父や兄や夫が呼ぶようにマーシャと呼び得る機会は、自分の一生に決して到達しないことを全身で理解しつつ。そのマリアがロマーシの妻となり、猶ゴーリキイが嘗て彼女を恋していたということを、彼女がロマーシに話した――恐らく現在の幸福を一層甘美にする笑いと共に。それらのことは、ゴーリキイに、彼等とは別に暮した方がいいと思わせるのであった。
 ロマーシは遂にクラスノヴィードヴォを去った。ゴーリキイは、この別離から深い哀愁をうけた。
「また会おう、友達!」
 そう云って別れたロマーシとゴーリキイが再会したのはそれから十五年後、ロマーシが「民衆の意志」党の事件でヤクーツクで更に十年の流刑を終ってからのことであった。
 秋になってから、ゴーリキイは村を去りカスピ海の岸「汚いカルムイッツの漁場、カバンクール・バイの漁師の小さい組合に入ることが出来た」のであった。

 クラスノヴィードヴォの農村生活に於けるこれらの強烈な経験の描写は、「私の大学」の中で芸術的に優れた部分をなしているばかりでなく、私共の特別な興味を唆る点は、このゴーリキイによって描かれた農村生活の数十頁が、歴史的にはツルゲーネフの「処女地」とショーロホフの「開かれた処女地」との間をつなぐ社会的事情を反映していることである。「処女地」は知られているとおりナロードニキの活動の高揚期を捕え、インテリゲンツィアの側から、若き先進者たちの内的矛盾を描きつつ農村を観察して行った作品である。農民はここでは一様に、灰色なものとして現れている。無知、狡智の錯綜が、一般性においてとりあげられている。
 ゴーリキイがそこに生きて、そして殺されかかって観た一八八〇年末のロシアの農村には、既に階級があらわれ、農民の気分も、その人々が村で置かれている位置に従って変化をもっていることが、描写の中に十分反映している。先進者の努力は、農村のどういう人々の群の利害と対立し、どういう人々の幸福と結合し得るものであるかということの実際を、ゴーリキイは、恐らく自覚した以上の鮮明さで描き出しているのである。しかしながら、そこにはまだ「開かれた処女地」に於て輝き出した新しい世界観、組織の力は見出せない。
 同時に、ゴーリキイの生涯を通じて(最後の数年間をのぞき)持たれた彼の農民に対する考えかたの根が、このヴォルガ河畔の村落生活の経験によって植えつけられたことも、見落せないところであると思う。ゴーリキイは、ナロードニキが民衆を想像したようにでなく、民衆を自身その中の一人として理解していたように、農民をトルストイ的傾向と、全然反対に観破した。特に、富農らが、どんなに「理性を憎悪」するかということ、その富農らに百姓はどんなに瞞着され、ふりまわされるかということ。猶農民の一般的な貪慾さなどというものを、ゴーリキイは嫌悪し、農村の暗さ、野蛮さ、農民の愚痴っぽさに対して都会の優越を、都会の労働者の積極性を対立させ、より高く評価しているのである。急速に没落した小市民の家族から出生したと云っても境遇の必然からプロレタリア的な暮しの中で成長しつつある青年ゴーリキイの心持がよくわかるのである。が、このことの中には私共を誘って、更にもう一歩奥まったゴーリキイの精神の内部へと立ち入らせるモメントを含んでいる。それは一九二三年「私の大学」の中でこれ等の生彩ある部分を書きながら、ゴーリキイが、では、何故、都会と農村との間にはこのような反撥が生じているのか、何故、農民は概括的単純に労働者の協力と云うことは出来ないかという問いを、たとい、自分自身に向ってでも提出していないかということである。少年時代から「何故に?」という疑問をたぐって現実をかき分けて来たようなゴーリキイにとって、これは、何となくふさわしくなく思われる。都会と農村との反撥について、農民の抱いている理性への反逆について、クラスノヴィードヴォの村で受けた印象は二十一歳のゴーリキイに余り強烈であったと見える。「煉瓦でやっつけろ!」という熱い喚き声の感銘は、作家ゴーリキイの中で一つの固定的見解となったかのようである。ゴーリキイは農村に関するこの個人的、肉体的見解、感情のために、ロシアの現実の大局的理解を誤った時期さえある。その最も顕著な例は一九一七年の十月以後であった。
 歴史的には古い文化に対する新しい文化の擡頭、その発展のための闘争としてゴーリキイの生涯に反映したインテリゲンツィアと大衆との相互関係についての微妙な歴史、大衆と個人との関係についての評価の推移等の端緒は、既にデレンコフのパン焼場で汗を流していたゴーリキイの中に、イゾートの死骸を眺め、ロマーシの背中へ自分の背中をぴったり合わせて立ったゴーリキイの中に芽生えはじめていたのであった。
[#未完]




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