観念性と抒情性
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:宮本百合子 

と、自分のロマンティックなものを評価している観念であり、一方、日々生きてゆく上からは「世間というものが君の理想の実現を助けてやろうとして存在しているものじゃない」ことをも知り、「その理想をより完全に思うような形で実現したかったから」「普通の人間と同じような莫迦らしさと汚れとのついた人間になって見せなければならなかった」「世間は今までそこに生きていたのと全く同じような中庸な、特色も理想も圭角も持っていない人間にしか生きる道を与えないのだ」と、いずれかと云えばありふれすぎる市民の感情で世間とは受け身に対している。
 幽鬼の「街と村」とは、後篇の抒情性そのものさえごく観念的にまとめあげられている作品であるから、その作品の世界のなかでいくつかの断崖をなしている観念の矛盾はおのずからくっきりと読者の目にも映じ、作者自身がよそめに明らかなその矛盾を知ろうとしないので、まるでそれが生きる自己目的であるかのようにあの崖を顛落したりこの崖をよじったりしつついる有様には、一種の困惑を覚えさせられる。それが、この作品の後味としてひとくちに云えない感じをのこす所以であろうと思う。

 社会と思想とが大きい波をかぶりつつ経て来た日本のこの数年間の生活の思い出を、あたり前の文学上のもの云いで語らず、こういう鬼や地獄をひき出して描き出すこの作者のポーズ、スタイルというようなものと、今日大陸文学懇談会とかいうところの一つの椅子に財務員という役目でかけている作者伊藤整氏の姿とを思いあわせると、そこになかなか面白い一箇の人間の現実がある。今日の文学には、ただ題材のめずらしさより一歩ふみ入って人間の心にふれようとする意味で心理が描かれなければならず、諷刺の精神も活をいれられて結構の時節である。しかしながら、そういう意味での心理描写や、諷刺を幽鬼の街と村との内の世界に求めることは徒労である。むしろ、こういう作品との関係でその作家の生きつつある現実の生きようを見きわめようとするところに、血と肉のある現代人の知性が発揮されるのであろうと思う。〔一九三九年六月〕



ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:4544 Bytes

担当:undef