ソヴェトの芝居
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著者名:宮本百合子 

何かで、下駄の前歯が減るうちは、真の使い手になれぬと剣道の達人が自身を戒めている言葉をよんだ。
 マヤコフスキーの靴の爪先にうたれた鋲は、彼の先へ! 先へ! 常に前進するソヴェト社会の更に最前線へ出ようと努力していた彼の一生を、実に正直に語っている。
 彼はそこから自分を解放することに成功しなかった個性的才能の型に圧しつぶされて自殺しながら、自分をのりこえ、階級の芸術家としての自分を生きこして邁進するソヴェト文化の勝利に向って万歳を叫んだだろう。わたしはそう感じた。
 だから、「南京虫」にある彼の観念的な破綻にしろ、わたしに軽蔑を感じさせるより先に、ソヴェト社会の発展の足どりの猛烈なテンポを痛感させた。
 作者マヤコフスキーにとって「南京虫」や「風呂」は芸術家としての飛躍の最後の句読点(ピリオード)だった。けれども、演出者メイエルホリドにとっては、五ヵ年計画とともに前進すべき仕事の第一歩のふみだしだ。
 これから、彼が並々でない才能を現実に向ってどう立てなおし、真実のプロレタリア演劇として必要な現実性を把握してゆくか。機械、科学、生産を、彼の云う「フォードの美」をどうプロレタリアの建設的実状の中から掴みなおすか。ここに大きい未知数がある。

 マヤコフスキーの作品と前後して、プロレタリア詩人ベズィメンスキーの「射撃(ウィストレル)」がメイエルホリド劇場で上演された。
 ソヴェトの五ヵ年計画の実現につれて、工場の労働者の間に、生産能率増進のウダールニクが組織された。共産青年(コムソモール)男女を中心として、党員でない積極的分子が自発的にあつまった。
 生産の現場で、こういうウダールニクが社会主義建設のために行った階級的なたたかいは、五ヵ年計画ときりはなせない歴史的事実だ。ベズィメンスキーは或る電車製作工場内で、組織されたばかりのウダールニクが経験した闘争、犠牲、勝利を、詩劇にした。
 この演出をやったのは、メイエルホリド自身ではない。ザイチコフ、コジコフ、その他二三人の共同だ。
 いつものメイエルホリド自身の演出から見ると、ずっとリアリスティックで、荒けずりの重さがあり、革命劇場と似た舞台の印象だった。詩劇だから、科白は詩だが、この「射撃」に出演したメイエルホリド劇場の若手の俳優たちが、モスクワ芸術座の俳優のように鮮明な発音で朗読法をこなすまでには、大分時間がかかるという感じだった。
 詩劇として、ベズィメンスキーのこの制作は、ソヴェトのプロレタリア文学の問題として各方面で問題にされた。
 マヤコフスキーとは別な意味で、社会的現象のつかみかたが弁証法的でない、という点が論議の中心であった。衝撃隊員は一人のこさずソヴェト式の善玉。妨害分子は一人のこさず悪玉ぞろい。その二つの型の間に、機械的なマルクシズム応用の対立があるだけで、真のボルシェビキらしい具体的な悪玉への働きかけや、職場の動揺している労働者へのよびかけ、親切な導きが一つも扱われていない。職場の現実は、決してそういうものではないというのだ。
 この批判は、当っている。
 しかし、「射撃」は少くとも、ウダールニクを中心として扱った最初の作品だった。メイエルホリド劇場が、五ヵ年計画によって新しく生れた社会現象を現実的な主題で上演した、第一のものでもあった。
 メイエルホリド劇場の観客席は粗末な板ばりの椅子だ。脚へぐっと一本の棒を通して、十脚ぐらいずつ動かないようにしてある。その六列目にかけて見物していたら、幕間に――と云っても、メイエルホリド劇場にはするすると下りて来るカーテン幕はないから、つまり舞台から俳優が引っこんで、電車製作工場内部を示す構成だけ舞台の上にのこったとき、作者ベズィメンスキーが挨拶に出た。
 大きいおでこだ。手の指が細くしなしなしていて、受け口だ。鼠色フランネルのカラーに背広を着て、ベズィメンスキーが出て来た。そして次のような挨拶をのべた。
 今日は(一九三〇年三月十日)『プラウダ』も『イズヴェスチア』も第一面に、ソヴェトの最も功労あるマルクシストの一人であり、レーニン研究所長をしている同志(タワーリシチ)リャザーノフの光栄ある誕生第六十回記念日について書いている。われわれ、ソヴェトのプロレタリアート、生産と文化の建設に従事する労働者は、彼のような同時代人をもつことを、心からの悦びとする。幸、今夜は、この劇場の観客席で同志リャザーノフがわれわれの謙遜な努力、「射撃」の上演を見物していられる。この記念すべき機会に、どうか一言、同志リャザーノフに挨拶を願いたい。――
 ベズィメンスキーは、詩の朗読でよくねれた柔軟な響く声で云い終って、舞台から下の観客席へ向って腰をかがめた。
 拍手。拍手。見物は亢奮して拍手がやまない。後の観衆はリャザーノフを見ようとしてのびあがった。
 ベズィメンスキーが体をかがめた見当は、わたしの座席から遠くない。気をつけて前に並んでいる肩の間から眺めると、後頭部に白髪がのこっている一つの禿げた頭がポーッと赫らんで、しずかに坐席の中へ沈みこんだ。リャザーノフは第三列目に来ていたのだ。
 ベズィメンスキーは、なお二三度、体をかがめて、舞台の上へ誘ったが、リャザーノフは動かない。
 あきらめて、ベズィメンスキーは手をあげ、まだやまぬ拍手を制して、自分の云いたいことを喋りだした。
 この詩劇は、五ヵ年計画のごく初期、ウダールニクがモスクワにたった十三しか組織されていなかった時に書かれた歴史的な作品であること。欠点があるとすれば、主としてそういう客観的情勢が原因であること。そして、ロシア・プロレタリア作家同盟の機関紙『文学前衛』が十ヵ月もこの作品について沈黙を守っていたことを非難した。
 ベズィメンスキーは、雄弁だ。ところが、自分の隣の席に、一人党員らしい若い女が、男の伴れと見物している。男はずっと年上で、黒いルバーシカ着て、金の腕時計をつけている。女の手を自分の手の中にもって、ベズィメンスキーが舞台の上から云っているこなど耳に入れず、女に囁いている。
 ――ね、一日おのばしよ。私があっちへは電報うってあげるから。――
 ――いいえ、駄目、不可能なの。
 ――お前一人じゃないじゃないか、何とかなるよ、ね、おのばしよ、一晩!
 ――駄目よ! 絶対に駄目!
 舞台では、ベズィメンスキーが、まだ話している。不図前方を見たら、白髪を垂れたリャザーノフが、真白いハンケチをだして禿をふいていた。
 汗かいたのだろうか……
 わたしは思わず微笑した。〔一九三一年三、四月〕



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