「インガ」
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著者名:宮本百合子 

          一

 インガ・リーゼルは三十歳である。
 彼女は知識階級出の党員で、今は裁縫工場の管理者として働いている。大柄な器量よしで、彼女の眼や唇は彼女の精力的な熱情を反映する美しい焔のように見える。
 新社会への出発以来、ソヴェトの生産各部門には多くの婦人が進出した。いろいろな工場に、少数ながら婦人の管理者(ディレクター)も現れた。
 管理者の仕事は責任の重い部署である。ソヴェトではあらゆる生産が計画的生産であるから、管理者は、工場内の専門技師、工場委員会などを確(しっか)りと統制し、過渡的なソヴェト社会の具体的困難を突切って、社会主義的な生産を高めて行かなければならない。ソヴェトは、この工場管理者には、出来るだけ労働者出身で工場労働の経験を持つ党員を任命することにしているのである。
 ところで、或る一つの工場で管理者は労働者で、どう働くべきかと云うことは腹から知っている正直者だとしても、その下に働く専門技術家、またはトラストの支配人達は、多く知識階級出である場合が多い。昔は自分達の行く劇場にさえ入れなかったような労働者の前へ、今は顛倒した地位で自分達が立たなければならなくなった彼等が、素朴な管理者が閉口するように、報告を出来るだけ衒学的な文句で書いたり、必要もないのに、馬鹿叮寧な術語をしかもドイツ語で並べたてたりすることは屡々(しばしば)である。トラストの支配人は、策動して労働者の工場管理者を陥いれ、遂に法律を逆用して、彼を工場から追払おうとしたりする例も、事実一度ならずあった。
 こういう工場内の悪質な分子を、労働者出の管理者及び彼を支持する労働者群がどんな困難を経て、克服して行くかといういきさつは、キルションの有名な戯曲「レールは鳴る」にもよく表現されている。
 インガ・リーゼルが、知識階級から出た、教育と経験のある婦人党員であり、工場が、婦人の活動に似合しい裁縫工場である故もあって、彼女はそういう困難は経験しないですんでいるが、彼女のところには別な種類での困難があった。それはインガが女で、工場管理者の地位についているという事実である。――工場内で、女が工場管理者をしているということを、因習やその他の偏見からあきたらずに思っているような奴が少からずあるのであった。
 工場管理者代理、労働者、党員ルイジョフ、及び婦人服部職長で五十歳のソフォン・ボルティーコフなどはその代表である。
 ボルティーコフは、古風な毛むくじゃらな髯とともに、あらゆる古風な労働者の考えかたや習癖を今日まで引っぱって生きている男である。第一酒を飲む。女房を擲る。手をあげて擲るのは自分の女房だけであるが、それはつまり彼のもっている女性観の雄弁な実践と云える。インガに対してだって、心服なぞはしていない。女の工場管理者に心服なんかするのは労働者の男の恥だ、そう思っているのであった。
 夜、工場クラブで集会が終ったところだ。休憩室へみんながぞろぞろとあふれ出し、或る者は隅のテーブルで茶を飲みはじめる。それに混って、ボルティーコフも出て来た。彼はコレクティーブの秘書ソモフの踵へくっついて歩きながら頻りにぐずぐず云っている。
「よくねえよ、グリゴリイ・ダニールウィッチ! よくねえ! 女を前線に据えるなんざ……そういうなあ……ふむ、女ってものはそういうもんじゃねえんだ。」
 ソモフは、出身から云えばボルティーコフと同じ労働者である。彼は、年こそ六十にもなっているが、インガの勤労者としての価値、及び解放された女がどうでなければならないかという一般の原理に対しては、いつも公平な立場で、社会的に理解し先進的な見解を失わない男である。
「――彼女がどうだっていうんだ? 仕事のやりかたを知らないってのかね? それとも――その全然人間じゃないってでも云うか?」
 ボルティーコフは髯をひっぱりながら、
「何て云うか……勿論俺あここの主人じゃあねえ。工場はお前さんのもんで、お前さんが責任を負ってるんだ。けれど、俺あ、職長として実際の経験から云うのさ。女は――女さ。女んところにゃ、あらゆるでんぐりけえった空想があるんだ。」
 ソモフに、たしなめられると、ボルティーコフはふてくされて悪態をついた。
「工場そっくり女にかきまわされて――まともな人間の住む場所がありゃしねえ! モスクワに行くんだ俺あ。そうなりゃ、スカートはいた職長が見つかるだろうよ!」
「追っ払っちまうぞ!」
 怒鳴り出したのはソモフだ。
「我々の日常生活ん中で、貴様みたいな見本は――第一の敵だぞ。お前ん中からそいつをたたき出してやるぞ!」
 工場管理者代理ルイジョフがインガに対してもっている反感は、しかしもっと複雑な内容をもっているのである。第一、自分は二十六年間生産に従事している労働者じゃないか。しかも四年間は、眠る間だって銃を放さないような生活をして来た。インガが何だ。腐ったインテリゲンツィアの女じゃないか?(糞っ! 今もソモフにそう云ったら、奴は貴様こそ偏見で腐ってると云った。そして、インガの功績を逆に説法した。彼女が素敵な組織者であること、工場の生産率を高め、生産品の原価を低めたこと。意志が強固で深い知識をもっていると云った)女! インテリ出! それだけでいい加減我慢出来ないところへ、インガは労働者で工場委員長のドミトリー・グレチャニコフを愛している。ルイジョフはそのことから引きつづいて自分を追っぱらって、ドミトリーを工場管理者代理に据えるだろうと、勝手に疑ぐっているのであった。
 クラブの休憩室の物かげで、ドミトリーとインガが互にぴったりよって何か話していた。それをちらりと見たのはルイジョフである。見られたのをインガは、知らない。ソモフやドミトリー、その他多勢の労働者にとりまかれ、活々した明るい声で計画を、今度工場で拵えようとしている服の型について説明している。
「――我々は、政治や経済では新しい道を発見して行くのにどうして日常生活では、いつもヨーロッパの後ばっかり追っていなければならないんでしょう? どうして私達は、我々の日常生活があっちよりも良くて、合理的で美しいって云うのをこわがってるんでしょう。何故ヨーロッパの型ばっかり買ってなけりゃならないでしょうか?
 私どもは芸術家にたのんで同じ値段で、ずっといいソヴェト型がつくれるのに。」
 ルイジョフは、ズボンのポケットへ両手を突こんで、インガの積極的な研究的な提案を皮肉った。そして、彼女に当てこすって、傍にいるソモフに大声でからんだ。
「――だが。こりゃ正しいことかね? 組織はここへ、工場へ仕事するために彼女をよこした、ところが、彼女は……」
 インガは思わずきき咎めた。
「何です?」
「薄暗い隅っこで若僧といちゃついてる!」
 ルイジョフは、居合わせる多勢の労働者に向って叫んだ。
「見たんだ! 俺は自分で見たんだ! これが、正しいっていうのか? え?」
 インガは、予期しない光景に驚いている皆の前で自制を失わず、はっきりした声でルイジョフに迫った。
「誰と? どこで?」
 ドミトリーが、何か云おうとした。
「どうしてあなたが出るんです? ドミトリー。私は何にも支持して貰うに及ばない。」
 彼女は、つづけてきびしくルイジョフに云った。
「イグナット! あなたは自分の云ったことを理解していますか? 私はあなたに、自分の云ったことを事実で証明するか、さもなければ、誹謗した責任を負うか、どっちかさせます。私は命令する――分りましたか? 命令する! この事件を監督委員会へ持ち出しなさい。どっちが正しいか、そこで話しましょう。」

          二

 工場の労働婦人にしろ、幸に好きな対手を見つければ互に晴れやかにその生活を楽しんでいる。婦人工場管理者だけは、恋愛してはいけないのであろうか? そんな理屈はない。
 インガはドミトリーを本当に愛しているのであった。
 彼女ほど勤労者として技量があり、美しければ、自然崇拝者は少くない。例えば、工場技師のニェムツェウィッチなどは、折さえあると、インガに云っているではないか? ――「貴女はまるで開いた窓のように私をひきつける!」或るときは、大切そうに彼女の手をとって「比類なき者!」とか「素晴らしい者」とか感歎詞を連発する。インガは、もう何十度か、そういうことはやめて呉れと云わなければならなかった。
 インガは自身がインテリゲンツィアであるだけ、ニェムツェウィッチを愛せない。彼の中には古いセンチメンタルしかない。
 それに反してドミトリーは、生れながらの労働者である。インガに対して、彼はニェムツェウィッチのようにこしらえ上げた文句を云うことは知らない。「僕はあなたを愛している。」そういうだけが精々だ。
 インガは、ドミトリーのそういう素朴さ、生一本さとともに、彼が新たな階級として立った労働者としての積極性をもっている点を深く愛しているのであった。
 が、インガとドミトリーとの間はまだ円滑に行っているとは云えない。
 今日も、思いがけなく爆発したルイジョフの計略をインガは彼女独特のつよい統制力で整理したが、あとでドミトリーに云った。
「――私はもうこのままじゃやって行けない! 一緒に働いていなければどっちでもいいけれど……。すっかり一緒になるか、断然、別々になるか、きめなければいけない。」
 ドミトリーには既に妻子があるのであった。彼は、まだそっちとの交渉を決定しきれないで、インガとの関係に入ってしまっている。このことについて云い出したのは、インガとしてはじめてではないのである。婦人部オルグのメーラなどは、まるで公式的に戦時共産時代からの性関係の形を自身うけついで暮している。
 インガが、ドミトリーとのことを話し、彼の妻子について彼女が気を重くしていることを云ったら、長椅子の上へ寝ころびながら、メーラは口笛を吹きながら云った。
「何でもありぁあしないじゃないの。三人で暮す。それっきりのことさ。」
「――でも、あなた自分の歯楊子をひとに貸す?」
 メーラはインガの質問をはぐらかした。
「ああ、私丁度歯楊子をなくしたところだった。どうもありがとう。思い出さしてくれて!」
 インガは考えるのであった。自分は工場管理者という自分の職務の上で、何か手をぬいたり、雑作ないように問題を誤魔化したりしたことがあったろうか? 一度もない。彼女はこの裁縫工場へ管理者として派遣されてから、新しい三つの職場を殖し、作業を機械化し、三百人の労働者を増す程、生産を拡大した。何故、自分は新しいソヴェト型を、自分達の工場で使おうとするか? 生産の量だけを増し、安くするだけが新しい文化の向上ではない。インガは――ソヴェトの民衆は、大量生産のやすいものが買えることだけで満足してはならないと思った。その物には新しい美が、プロレタリアート文化の輝きが加えられていなければならない。インガは生産に対して、そういう進歩的な意見をもって服型一つのためにも努力している。
 恋愛に対する態度においても、インガは同じであった。インガは、三十五歳になりながら十七歳のコムソモールカを模倣して安心しているメーラではない。恋愛は自由であるが、自由ということの内容は二人の女が一人の男と暮すことでつくされるものだろうか?
 インガは日常生活の一部としての性関係においても、生産に対すると同じに積極的な、意味ある建設性を求めている。インガには、外にそうしているひとがあるというだけでズルズルべったりに妻子のある男と交渉をもちつづけて平気ではいられない。
 しかし、ドミトリーは、そのことをどう考えているか? 一言に云えば彼は困っている。ドミトリーが、インガを知ってはじめて、人間の女というものにめぐり合ったというのは、真実である。けれども妻と一歳の娘――インガに、妻のグラフィーラと自分とのどっちを選ぶつもりなのかと云われると、ドミトリーはこう答えるしかなかった。「どうしていいか分らない! 森へ迷いこんだようだ。」
 インガは、その点をただ恋人とし、女としての立場からだけ云っているのではなかった。彼女は、同志として、ドミトリーの決断を知りたいのである。赤坊のために、自身の発育を低める党員があるだろうか? 娘にとって闘士であり、革命家である父であるためには、結局日常生活の実践そのもので、彼がひるまぬ闘士であり、革命家でなければならない筈ではないか?
 ドミトリーは、困った揚句、一策を思いついた。
「やっと考えた! やれやれ! インガ、二人で一週間かそこら、郊外へ行こう! どうだ? 或はモスクワへ。」
「それから?」
「フー。どうでもいいじゃないか? どうにかなるだろう。何とか落着がつくだろう。」
「何とか? どうにか? いいえ! そういう決心は私の役に立ちません。」
 インガとしては、自分達の関係がただことのゆきがかり、或は成行で決定されることを認めることは出来ない。社会主義社会の建設は、果して成りゆきによってその方針を決定され、進展されているような受動的なものであるであろうか? それは全然反対だ。
 ドミトリーは遂に決心した。
「よし!」
 インガは息をころしたが、ドミトリーは呻いて一つところを低徊した。
「奴等をすてることは俺にゃ出来ない!」

          三

 ドミトリーは悪い時に家に帰って来た。
 沢山の洗濯物が部屋の天井からぶら下り、赤坊の揺り籠が隅においてある。そういうドミトリーの室では、遊びに来て喋り込んでいた女房を追いかけて、例のボルティーコフがあばれ込んで来ているところであった。
「畜生! 上向けば女! 見下しゃ女! あっち向きゃ女! ここでまで女だ! えい、畜生! サモワールを俺さまが立てるてえのか? 俺あ貴様の何だ? 犬か? 亭主か?」
 そして、たった四十だのにもう干物みたいになって終っているナースチャを、ボルティーコフは擲る。引ずりまわす。
 一日中寝巻姿でゾロリとしている技師ニェムツェウィッチの女房が、騒動をききつけてドアから鼻をつっこみ、それを鎮めるどころか、折から書類入鞄を抱えてとび込んで来たドミトリーを見るや否や、キーキー声で喰ってかかった。
「タワーリシチ・グレチャニコフ! 住宅管理代表として、こんな醜態は以後注意して下さらなくちゃ困りますわね。宅にはお客様があるんですよ。宅はへとへとになって帰って来たのに、ここじゃドッタン、バッタン! 休めやしない! こんなことだと分ってりゃ引越してなんぞ来なかったんです。」
 流行もなにもないぼってりした恰好で、後れ毛を頬にたらした無学なおとなしいグラフィーラは、自分達の家庭へ他人があばれ込むのも制御出来ない。而も、彼女は今辛い心持をやっと押えているのであった。さっきアイロンをかけるためにドミトリーの上着をふるったら、一枚紙きれが落ちた。何心なくひろって見たら、どうだろう、それはインガからドミトリーへあてた呼び出しであった。
 ああ、この頃のドミトリーの変りようはどうだろう。元は、何でも話し一緒に笑いした彼が、まるであかの他人みたいな目つきで自分を見る。黙っている。その原因が、ここにあった。グラフィーラは泣きながら、ナースチャに訴えていたところであった。
「私はミーチャなしじゃ生きていかれないよ。……誰にやるもんか。ねえ、何のためにこの子までを不仕合わせにするんだろうねえ。あの女が私よりも綺麗なら綺麗でいい、いい女ならいい女でいいよ。だからって、どうしてワーリカが不仕合わせにならなけりゃならないんだ。私の怨みは忘れても、そればっかりは勘弁出来ない!」
 ドミトリーに見つからないようにかくしておいた聖母像までもち出して、グラフィーラは拝もうとした。が結局こんな絵が何のたしになる!
「ひょっとしたら、これでミーチャは私に愛想をつかしたんじゃないだろうか? おがんでいるのを見たんじゃないだろうか。ああナースチャ! 私、どうしていいかわからないよ!」
 そこへ、酔ったボルティーコフがよろけこんで騒動をおっぱじめたのであった。
 グラフィーラは、涙を前かけでふいた。ボルティーコフ夫婦とお喋り女を追っぱらってやっと椅子へ坐り込んだドミトリーに、彼女はおずおず訊いた。
「ミーテンカ……夕御飯の仕度しようか?」
「――いらない。」
「お茶?……じゃあ。」
「何も欲しくない。……はっきり云ったじゃないか!……どこもかしこもガラクタだらけだ。きたない……掃くひまもなかったのか? フ!」
 ドミトリーはこの頃見えはじめた自分の家庭の内の文化の低さに我慢出来ないように溜息した。彼は、ハンケチを出して額をなでまわした。ハンケチには香水がついている。グラフィーラは後毛(おくれげ)をたらしたまま、歪んだ笑顔で、
「香水をつけ出したんだね。」
と云った。
「とてもいい香水だ……何を拭いてるのさ?」
 食いつくようにドミトリーを見つめていたグラフィーラの眼が、忽ち涙と怒りでギラギラ光り出した。彼女は、いきなりぶつかった。
「ミチカ! 馬鹿! お前すっかり自分の身をほろぼすんだよ……私たちみんなを滅ぼすんだ!」
 ドミトリーは、びっくりして女房を見上げ見下した。
「どうしたんだ? 狂犬か? 今日は……」
 グラフィーラはたまらなくなって、ドミトリーの足許へ体を投げ出した。
「ミチューシャ! お前さんは私の大切な蝋燭だよ! ね私の悲しいときの悦びだよ、お前さんは!」
「やめろよ、おい! 休ましてくれ。一日中気違いみたいに働いて、またここで……」
 ドミトリーは、いきなりとってつけもなく云った。
「お前、体を洗わなかったんか? 変に匂うぜ……」
 一言が、思い掛けない結果になった。グラフィーラは、刺されたように床から跳び上った。
「いやかい? いやんなって来たのかい私が。知ってるよ、いやなのは! そう云いな。何故だましてるんだ? どうして私を嬲(なぶり)もんにしてるんだよ!」
 彼女は、震える手でインガからの手紙をドミトリーにつきつけた。
「恥しらず! 卑劣漢! こんなこたなかったって云うつもりか。え?」
 黙りこくってその手紙を眺めたのち、ドミトリーはのろのろポケットへしまい込んだ。
 やがて、同じようにのろくさ云った。
「――じゃ、片をつけよう、こうなったからにゃ。」
「片をつける?」
 インガと話していた時には、とても言えないと思っていた言葉が遂に出た。ドミトリーは勇気を失うまいとしながら、グラフィーラの、家事で荒れて大きい手をとった。
「グラーシャ! わかってくれ。俺あ育ったんだ。元の俺じゃなくなったんだ。」
 月給を貰うと、まあ自分には時計の鎖でも買ったり、グラフィーラに新しいショールでも買ってやる。月に一遍夫婦揃ってお客に行く。祭の日にはせいぜいキノか芝居へでも出かける。昔のドミトリーの生活のそれが最大限度であった。家庭がドミトリーの慰安所であった。
 ところが、革命が起った。ドミトリーの生涯は新しく、闘争と餓えとの間から萌え出した。プロレタリアート全戦列の前進とともに。
 グラフィーラの生活は、ドミトリーのその急速な社会生活の拡大について、一緒にひろがってくることは出来なかった。彼女の地平線は、昔ながらに労働者住宅の壁までで止っている。台所と洗濯桶と亭主とワーリカが命である。
「――俺の全生活が今開いたんだ。そいつを俺あすっかり捕えたい。何にも逃さないように。――……ああ。わかるか? お前に、……同じこった、いろんな言葉で云って見たところで。」
 だが、夫婦として暮した十一年間! 生れたばかりのワーリカ。――グラフィーラには承知出来ない。
「いろんな言葉? あの時、お前さんが負傷してチブスんなってつれて来られた時、じゃ私たちはどんな言葉で話したろう? 夜、お前さんのわきに坐って看病してやったとき。二人が補助金だけで暮して、お前さんはあけても暮れても本にばっかりかじりついている。私はミシンで働いて、お前さんに暖いもの喰べさせていた時分、私たちは、じゃ、どんな言葉で喋ったっていうんだろう? ミーチカ!」
 グラフィーラは知っている。ソヴェトには沢山亭主にすてられた女がいるのを。亭主が、やっぱり「育ってしまって」女房をすてるのを。だが、この自分が、同じその目に会うといつ思っていただろう。ドミトリーは苦しげに唸った。
「どうしてそんなことを云い出すんだ? 今のこと云ってるんだよ、俺は。」
「私はこれまでの永い永い年月のことを云ってんですよ、お前さんにやった。――お前さんは自分のことだけ覚えてる。――私はどんなに生きて来た? お前さんが兵隊に行っているうち、私はのんべんだらりとしていたかい?」
 ドミトリーには、涙づかりになって「昔」で自分を押し包もうとしている無智な女房が、重荷に感じられて来るばかりである。
「――籠をかしてくれ!」
 遂にドミトリーが云った。
「どの?」
「その。」
「ありや坊やのものが入ってる、やれないよ。」
 ドミトリーは、室の天井からぶら下っている洗濯物の中から自分のシャツや靴下をひっぱりおろして、新聞紙へ包んだ。書類鞄へガサガサと机の上のものをさらいこんだ。
 戸が開いた。そしてしまった。
 暫くして、ナースチャがそっとグラフィーラの部屋を覗きに来た。彼女は、仰天してころがるように室からかけ出した。
 コレクチーブ秘書のソモフが、人のいい胡麻塩髯をふるわしてとび込んで来た。
 グラフィーラは醋酸を飲んだのである。

          四

 三ヵ月ほど経った或る日のことである。
 裁縫工場の午休みの時間。今日はこの休み時間に婦人労働者たちが、一つの同志裁判をやろうとしている。ボルティーコフが仕様がない。飲んだくれる。依然として女房のナースチャを木っぱよりもひどくとり扱う。労働者住宅や職場で騒ぎが持ち上る。その真中をのぞくと、いつもその中心にボルティーコフの強情な骨だらけの肩がゆらゆら揺れていないことはないのだ――。第一、婦人労働者がこんなに働いているところで、彼みたいな男を放任して置くことは、もう女たちに辛棒出来なくなって来た。
 工場クラブの広間には床几が並んでいる。赤い布のかかったテーブルがある。
 ぞくぞく陽気な婦人労働者が入って来た。てんでに床几へかける。メーラがジャケットのポケットへ両手を突こんで、やって来て、赤い布のかかったテーブルの前へ坐った。
 最後に一かたまり、賑やかに何か喋りながら入って来た連中を見ると、おや、そこで中心をなしているのは、ほかならぬグラフィーラではないか。
 これが、あの無智なグラフィーラ、自殺しそこなったグラフィーラであろうか。
 今の彼女は十も若がえったようだ。みんなと同じ仕事着を着て頭をきっちり赤い布でしばって、穿いている黒靴こそ、醋酸をのんで倒れたとき、穿いていたままだが、顔つきと云い歩きっぷりと云い、これは別人だ。
 しかも、何だか他の若い労働婦人たちより一層確りしたようなところがある。
「さ、グラーシャ、代表員(デレガートカ)は真前へ坐るもんだよ!」
 はにかんで奥へひっこむグラフィーラの手をひっぱって、仲間が、床几の最前列へ彼女を坐らせようとしている。グラーシャは、今は、快活な一人の婦人労働者であるばかりではない、代表員である。
 だが、あの引こんで赤坊と台所だけに命をささげていたグラフィーラ。ドミトリーがすてた、おくれた女房の彼女は、どうしてこんな変りかたをしたのだろう。
 そのことについてグラフィーラは、胡麻塩頭のソモフを忘れることは出来ない。あの晩、熱にうかされ、半分うわごとのようにドミトリーの名を呼んでいる彼女のわきに坐って、やさしく鼓舞してくれたのは、組織の古い働きてのソモフだった。
「――ミーチャ……ミーチャ。どうしてそうミーチャがいるのかね。お前、人間じゃないのかい。ミーチャのおかげで人生が終りになったとでもいうのかい? 赤坊にはお前がいらないだろうか? ほかの人にもお前はいらないものだろうかね、……こういう目にあった人間が、この世の中でお前のほかにないとでも思っているのかね。俺は、もう幾人かちゃんと足で立たせてやったよ。働くのさ。すっかりいいようにして上げるよ。」
 ソモフは、子供を托児所にあずければいいとその時も云った。
 胃袋へ流し込んだ醋酸の火傷がなおるにつれ、グラフィーラの生活には希望と明るみがさして来た。これまで知らなかった、暢々(のびのび)したひろさでさして来た。ソモフは、万事を約束通りにしてくれ、彼女は工場へ働き出した。
 まるで新しい生活がグラフィーラを捉え、まるで新しい力が彼女の内から湧いて来たのだ。
 ところで一方、この三ヵ月は、工場管理者インガとドミトリーのところではどんなに過ぎただろうか?
 或る日例の口調でメーラが、
「ね、家庭戦線はどうなの? 曇りなき天国?」
ときいた。インガは答えた。
「私は幸福よ。望んでいたものをみんな持っているらしい。」
 メーラは機敏な黒い目で、インガが何だか口ごもったのを見のがさなかった。
「――けれど?」
「――けれど……ほんとね、私は沢山の『けれども』を発見した。それは本当だ。まるで予想しなかったことにもぶつかった。」
 メーラに話す気も時間もなかった。インガは自分の任務を果すことに忙しい。
 ルイジョフは、いつかこの精力的で誠実な工場管理者を大衆の前で恥しめようとして失敗して以来、目に見えた反抗はしない。が、インガがソヴェト型の婦人服見本を用意することを命じた、その仕事をひっぱって、金ばかりかける。インガはそれを鞭撻し、見本を仕上げさせなければならぬ。
 技師のニェムツェウィッチも相変らずだ。
「僕はいつも貴女を女主人公(ヒロイン)だと思ってるんです。」
「小説の?」
「いや、オペラのです。」
 こういう無駄口はきくが、インガが第三交代の婦人労働者達に約束した托児所増設のための図面は、場所がないと云って、提出しない。
「私、今日出して下さるように願っておきましたよ。」
「御存じでしょうが……」
「どうして? こしらえなかったんですか? 私は貴方におたのみしておきました。」
「然し、御免下さい。托児所のためには全く場所がないんです。機械はどこへおきましょう? 結局ここは工場で、母性保護施設ではないんですからな。」
 憤慨してメーラーが叫んだ。
「それが労働婦人が主人のソヴェトの工場ですか!」
 インガがきっぱり云った。
「私が機械のための場所は見つけます!」
「すると……」
 ニェムツェウィッチは執念深く云った。
「僕がこれまでやったことは。すっかりフイというわけですか?」
「タワーリシチ、ニェムツェウィッチ! 貴方が設計図のやり直しを厭うからと云って、私は労働婦人たちに必要なものを許すことは止めません。もう托児所のことには署名がすんでいるのです。」
 この技師とトラストへ出かけようとするインガを、ドミトリーが傍の思わくもかまわず止めた。
「用がある」
「あとで。――私はトラストへ行くんです。」
「――俺に一分の時間をさけないのか? 他人とは三十分も喋ってるのに。」
「みんなは、そういう調子で私と口はききませんよ。」
「どんな調子で云ったらいいんだ? 到頭俺が、いやんなったのか? 俺あ中学校は卒業してないんだ。」
 二人きりになったとき、インガはドミトリーに云った。
「何てこと? ドミトリー! 何故みっともない真似をするんです? また、嫉妬してる。あなたは私が誰かと話してるのを平気で見ていられないの?」
 ドミトリーは、インガがいくら説明しても二言目には、「俺はああいう風な教育はないんだ」と云う。
「我慢がならないんだ。――お前が誰かほかの者と……俺あ知ってる、野蛮だとお前が云うのを。だが、俺はそれほどお前を愛してるんだ。」
「ドミトリー。考えて見なさい。私はあなたより潔癖よ。あなたのところへ自分から行ったのよ。あなたと一緒になるために――あなたとだけ一緒になるために。それだのに、あなたは私を繩でしばりつけたがっている――」
 自分との同棲者でなかった間、ドミトリーはインガの才能を理解していたらしかった。然し今は、インガも彼と同じく建設の闘士であると思うことが、彼には出来ない。
 わるいことは、ドミトリーに、自分を持ち上げようとする本気な努力がないことだ。インガは、彼よりも社会的には大きい存在である。そのインガと暮すには、彼自身伸び育たなければならない。そこに、インガがドミトリーと暮している階級的な値うちもある筈だった。――インガは彼女のよいもちものをドミトリーに、ドミトリーはインガにない力を、互に与えあって、益々豊富な新しい社会への貢献をする望みだった。その重大な意味をドミトリーはどうも理解しない。
「俺は知ってるよ、お前がグラフィーラでないってことは。そりゃ下らないこった。が、俺は十一年間自分の洗濯もんや朝飯のことは考えずにやって来たんだ。」
 こういう不平を、ドミトリーはそれも家で云うのではない。工場管理者室で、事務机の前でインガに云うのであった。さすがにまさか、それだけを云いに来たのではないのであった。彼は換気設置の問題で来たのだ。
「俺は職場中に約束してしまったんだ。この四半期内にやっつけるって。今更、もう三月待てなんぞと云って見ろ……それこそ物笑いだ。工場管理者の御亭主……自分の女房にさえ統制が利かないって……」
 然しそれは、ドミトリーの勝手な間違いであった。工場の仕事は計画によっている。インガは、この三月内に托児所を設けることを決定し、それは着手されている。
「私はあなたの自尊心のために、そこいら中の壁をこわしてはいられない。換気設置は次の四半期にします。もう決定していることですよ。」
「俺をやっつけることをやめたくないのか? え? 自分の意志が見せたいのかい? 思うにそいつは意志じゃない。ただ女の強情っぱりだ!」
「ドミトリー!」
 インガは思わず拳固でテーブルを打った。
「考えて口をききなさい!」
 ドミトリーはゆずらない。
「――俺はこれまでいつもまけて来た。ここじゃ譲らねえぞ。」
 インガは唇をかんだ。ドミトリーは、彼女との私的関係で工場の仕事までを動かそうとするのであろう。
「私は自分の仕事まであなたの犠牲には出来ない。」
「じゃつまり何か……万事終りか?」
「――問題をそういう風に持ってくるなら、私はあなたから去るしかないじゃありませんか。……私は仕事とあなたとをとり代えることは出来ないんだから……」
 両手で顔をおさえてドミトリーは椅子に坐っている。インガは、近よって行って、ドミトリーの髪を撫でた。ドミトリーには、ただ女友達が、妻がいったのだ。インガは、今はっきりそれを理解した。同志としてのインガの価値は、ドミトリーに、分らないのだ。インガは深い悲しみをおさえ、やさしく云った。
「――私もあなたと暮すのは苦しいのよ。分って下さい。」

 こういう状態になって、グラフィーラにまた会おうとはドミトリーも予期しなかった。
 彼等は前にも一度、偶然落ち合ったことがあった。その時ドミトリーは云った。お前と暮していた方が楽だったよと。グラフィーラは、ひどく驚いた。が、二人で暫く話して見てもっとびっくりしたのはドミトリーだった。彼の知っていた筈のグラフィーラはどこへ行った? おじおじした狭い暗い女の代りに、彼の前に立っているのは、経験によって育った、活々した一人の独立した婦人労働者だ。その時、グラフィーラは云った。
「時間を与えとくれ、ミーチュシカ、私たちはお前さんのインガのようじゃない、もっとよくなるよ。少しずつ、少しずつ、ものになって行くのさ。私たちの骨はあのひとよか太いんだから、もっと強くなるさ。」
 ニコニコして、グラフィーラはそう云った!

「総てを元どおりにしよう!」
 インガとの生活に失敗したことを感じているドミトリーは、とびつくように、また出会ったグラフィーラに向って云った。
「ワーリカとあんたとは俺にとってたった一つの、ほんものの血縁だ。」
 初めてあなたと呼ばれたグラフィーラは、抑えきれない亢奮で頬っぺたを赤くしたが、答えはドミトリーが期待したものとは違った。しずかに彼女は云った。
「――元みたいには、ミーチャ、もうなれないよ。……ミーチャ。私はワーリャに父さんを持たしてやりたい。そりゃお前さんに真直ぐ云うよ。……だがあれもいい子になって来た。」
 輝いた、たのしそうな微笑がグラフィーラの口元に漂った。
「――そして私も独りもんじゃ暮したくない。でもね、ミーチャ、私は馬鹿で、あんたには追いつかないけれど、でもそんな風に暮しをごちゃごちゃにこわしたくない。
 ありどおりお前さんに云うよ、ね、私は先のような私じゃないんです。元は、ほんとにあんたといることばっかり考えてた。そのためにばっかり生きて、ごたごた仕事に追い立てられていた。ところが今ではこういうようになって来た。……私と暮す――それもいい。私と暮さない……それがどう? 私には自分の道がある。すべて元通りに? いいえ、タワーリシチ、ミートシカ! 川は逆に流れない、私は元の私にはなれないんです。」

 この前、インガとドミトリーとグラフィーラの三人が落ち合ったとき、グラフィーラが、今日はと云ってインガに手をさし出した。そうしたら、インガは、ここでは握手しないことになってますからと云って断った。
 今、話してるグラフィーラとドミトリーのところへ、インガが入って来た。つとめて落付いた顔つきで、快活にインガは云った。
「すっかりうまく落つきましたか? 何て簡単なんだろう。素晴らしい!」
 率直にグラフィーラが遮った。
「私は自分のところへドミトリーをひっぱりゃしないです。彼は自分のいいと思うところに居りゃいい。」
 一層飾り気ない真心で彼女はインガに云った。
「――どうして、あんた、そんな工合に云いなさるんです? まるで私が涙の味も知らず、あんたの苦しみを見もしないように。私は、あなたでさえあれだけ愛しなすったかどうかあやしい程ミーチャを愛してる。けれど、こうやって、ほら辛棒した。自分の路を見つけた。そして、その路を行くんです。タワーリシチ、ギーゼル! 私の心のなかを見なさい。あなたに、何一つ悪いことを願っちゃいないんですよ。」
 メーラに云わせれば、感動したインガとグラフィーラとが思わず互に抱き合ったのも、接吻しあったのも、小市民気質だそうである。けれども、今はただ一人の男のとり合いをやめて和睦した二人の女が抱き合ったのではない。ひろさの違いこそあれ、同じ目標に向って、めいめいはっきり自分の道をもつ二人の女同志が抱き合ったのであった。
「――すっかり……終った。」
 インガが独言のように云った。
「――間違った!……自分をあざむいた!」
「簡単に生きて行きゃいいのさ!」
 メーラが、またお座なり哲学を並べた。
「むずかしく考えなさんなよ!」
 インガはメーラのようには考えぬ。
 彼女にとって、失敗はさらに一歩前進するための教訓でしかない。インガは、決してあきらめはしない。彼女は未来の文化のために管理しているソヴェトの生産拡大の努力を。インガは決してあきらめてはしまわない。いつか彼女が新しいソヴェト女性として、性関係においても一つの新建設をすることを。勢のいい音を撒きちらして、卓上電話が鳴った。インガは新たな意志で受話器をとった。
「――はい。工場です。モスクワから?……どうぞ、インガ・ギーゼルがきいています。」
――(アナトリ・グレーボフ作「インガ」四幕から。) 〔一九三一年三月〕



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