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著者名:宮本百合子 

 伸子は、思わずそういう素子の顔を見た。素子は、伸子が見たのを知りながら、吉之助の上においている視線を動かさなかった。
「むずかしいですね」
 これまでにもう幾度か考えぬいたことの結論という風に吉之助は云った。
「自分一人、そこから、ぬけてしまうならともかくですが、あの中にいて何とか変えようったって、それはできるこっちゃありません」
「かりに、あなたがそこをぬけるとしたら、どういうことになるんです」
 素子が何気なくたたみかけてゆく問いのなかに、伸子は、自分だけしか知らない素子の吉之助への感情の脈うちを感じるように思った。かたわらで問答をきいていて伸子の動悸が速まった。
「そこなんですね、問題は」
 テーブルにぐっと肱をかけ、吉之助はまじめなむしろ沈痛な声で言った。
「まず周囲が承知しませんね」
「周囲って――細君ですか」
「細君も不承知にきまってるでしょうが、親戚がね。歌舞伎の世界では、親戚関係っていうのが実に大したものなんです――義理もあるし」
 吉之助は、歌舞伎俳優だった父親に少年時代に死なれ、その伝統的な家柄のために大先輩である親戚から永年庇護される立場におかれて来ているのだった。
「もう一つ自分として問題があるわけなんです。僕には舞台はすてられない。これだけはどうあっても動かせません。俳優としての技術の蓄積ということもあります。ただ、やめちまうというなら簡単でしょうがね。自分を成長させ、日本の演劇も発展させる舞台っていうものは、どこにあるでしょう」
「いきなり築地でもないだろうし……」
「そこなんです」
 歌舞伎の息づまる旧さのなかに棲息していられなくなっている吉之助は、さりとていきなりドラの鳴る築地小劇場で『どん底』を演じるような飛躍も現実には不可能なのだった。
 吉之助の飾らない話をきいていて、伸子はやっぱりみんなこういう風にして変るものは変ってゆくのだ、としみじみ思った。丁度せり上りのように、生活の半分は奈落と舞台との間の暗やみにのこっていても、もうせり上ってそとに出ている生活の半分が、猛烈にのこっている半分について意識し苦しむのだ。伸子にはそれが自然だと思えた。相川良之介が自殺したとき、その遺書に、彼の身辺の封建的なものについてはふれない、なぜなら、日本の社会には多少ともまだ封建的なものが存在していると思うし、封建的なものの中にいて封建的なものの批判は出来ないと思うから、とかかれていたことが思い出された。当時伸子には、その文章の意味がよくのみこめなかった。けれども、こうして話している吉之助を見ても、伸子自身について考えて見ても、自分のなかに古いものももちながら、吉之助のようにはっきりそれを肯定しながらもその一方で新しいものを求めているのが真実だった。そこに矛盾があるということで新しい道を求める思いの真実性が否定されなければならないということはないのだ。伸子は、そういうごたごたのなかでひとすじの思いを推してゆく人間の生きかたを思い、悲しい気がした。保を思い出して。保には、こうやって矛盾や撞着の中から芽立ち伸びてゆく休みない人生の発展がわからなかったのだ。そして相川良之介にも。相川良之介の聰明さは、半分泥の中にうずまりながら泥からぬけ出した上半身で自分にも理性を求めてもがく人間の精神の野性がかけていた。
 伸子はその質問に自分の文学上の疑問もこめた心で、
「吉之助さんのような人でも、新劇へうつるということはできないものなのかしら」
とたずねた。
「気分では、いっそひと思いにそうしたら、さぞサバサバするだろうって気がします。しかしどうでしょう」
「歌舞伎のひとは、子役からだからねえ」
 身についた演技の伝統のふかさをはかるように素子が云った。
「あなただって、そうなんでしょう」
「初舞台が六つのときでしたから」
 吉之助は考えぶかい表情で、
「西洋の俳優も、芸の苦心はいろいろあるでしょうが、わたしのような立場で苦しむことはないんじゃないでしょうか」
と云った。
「古典劇が得意で、たとえばシェークスピアものをやる人だって、現代ものがやれるんでしょう。日本の歌舞伎と現代もののちがいみたいなちがいは、よその国にはなかろうと思うんです」
「考えてみると、日本てところは大変な国だなあ」
 からのパン皿のふちへタバコをすりつけて消しながら素子が云った。
「チョン髷のきりくちへ、いきなりイプセンがくっついたようなもんだもの」
「問題が問題ですから、てまがかかりましょうが、ともかく何とかやって見るつもりです」
 そう云ってしばらく考えていた吉之助は、やがてもち前の熱っぽい口調で、
「私生活からでも、思いきってかえて行ってみるつもりです」
 伸子には、吉之助が決心を示してそういう内容がすぐつかめなかった。歌舞伎俳優として、しきたりのような花柳界とのいきさつとかひいき客との交渉とか、そういう点を整理するという意味なのか、それとも別のことなのか、判断にまよった。同じようにすぐ話の焦点のつかめなかったらしい素子が、
「私生活っていうと?」
とききかえした。
「粋すじですか」
 そうきいて、素子はちょっとからかう眼をした。
「わたしは、そっちはどっちかっていうとほかの人たちよりあっさりしているんです。自分がつくらなけりゃあそういう問題はおこらない性質のものでしょう。わたしのいうのは主に結婚生活ですね」
 ひろがっていた話題が、再び急に渦を巻きしぼめて、吉之助は知らない素子の感情の周辺に迫って来た。
「うまく行きませんか」
「――わたしの場合はうまく行きすぎているんです。そこが問題なんです」
 伸子は吉之助の話につよい関心をひかれた。同時に、良人によってそういう風に友人の間で話される妻の立場というものを、伸子は女として切ないように感じた。
 素子もだまった。しかし、吉之助は、歌舞伎のことを話していたときと同じまじめな研究の調子で、
「わたしたちの結婚は、土台わたしに妻をもらったというより、早くから後家で私を育てた母の助手をもらったみたいなところがありましてね」
と云った。
「よくやってくれることは、実によくやってくれているんです。その点一言もないんですが……細君には、俳優が芸術家だってことや成長しようとしているってことはわからないし、必要なことだとも考えられないんですね、役者の生活の範囲ではうるさいつき合も、義理もきちんきちんと手おちなくやってくれて、全く後顧の憂いがないわけなんですが。これまでの役者の生活なんて、そんなことが第一義だったんですからね、無理もないが……。細君に一つもつみはないんです。けれども、わたしにはマネージャと妻はべつのものであるべきだと思えて来ているんです」
 つやのいい元気な吉之助の顔の上に、沈んだ表情が浮んだ。
「あなたがた、どうお思いです? あんまり我儘(わがまま)でしょうか」
 伸子も素子も、吉之助の気持がぴったりわかるだけに、すぐ返事をしかねた。
「――わたしは妻を求めているんですね。演劇そのものの話し合える……」
 するとわきできいている伸子をびっくりさせるような鋭さで、素子が、
「かりにそういうひとが細君になったって、やっぱりマネージャ的必要は起って来るんじゃありませんか」
と云った。
「ほんとに、わけられるもんなのかな――あなたに、わけられますか?」
「わけられないことはないと思いますね。ほんとに芝居のことがわかっているひとっていうなら、自然自分でも舞台に立つひとだろうし、舞台に立つものなら勉強の面とマネージャ的用事と、却ってはっきり区別がつくわけですから……」
 赤いパイプを口の中でころがしながら、じっと吉之助の言葉をきいていた素子は、ややしばらくして、
「なるほどねえ」
 深く自分に向って会得したところがあったようにつぶやいた。
「あなたは、リアリストですね」
 その云いかたに閃いたニュアンスが伸子に素子の気持の変化を感じとらせた。伸子が理解したと同じ明瞭さで、素子も、長原吉之助が求めている女性は、彼として現実のはっきりした条件をもって考えられて居り、少くとも伸子や素子たちとそのことについて話す吉之助の感情に遊びのないことを理解したのだった。
 伸子は段々さっぱりしてうれしい気持になって来た。吉之助にたいする自分たちの感情にはあいまいに揺れているところがあった。素子は素子の角度から、伸子はその素子の角度に作用された角度から、吉之助としては考えてもいない過敏さが伸子たちの側にあった。吉之助の考えかたがずっと前へ行っているために、素子の吉之助に対する一種の感情やそれにひっぱられていた伸子の気分が、吉之助の新しい人間らしさにひかれるからでありながら、その一面では、やっぱりありきたりの常識のなかに描かれている俳優を対象においた気分だったということが、伸子にのみこめて来た。伸子は、心ひそかに自分たち二人の女をいくらかきまりわるく感じた。そして、改めて吉之助を友達として確信するこころもちだった。
「わたし長原吉之助が、いわゆる役者じゃなくてほんとによかったと思うわ」
「へんなほめかたがあったもんだな」
 素子が笑った。吉之助も笑った。伸子は、素子のその笑いのなかにやっぱり転換させられた素子の気分を感じた。素子は、もうすっかり自分ときりはなした淡泊さで吉之助にきいた。
「ところで、あなたの希望のようなひとって、実際にいますか」
「どうなんでしょう」
 彼としてどこに眼ぼしもないらしかった。
「なにしろ、歌舞伎には女形しかないんですから……」
 そこにも歌舞伎の世界の封建的な変則さがあるという口ぶりだった。

        四

 あくる朝十時ごろ約束のガーリンが吉之助とつれだって伸子たちの室へ来た。くつろいだ低いカラーに地味なネクタイをつけて、さっぱりした風采だった。ガーリンが芸術座の名優たちとはまるでちがった顔だちで、アメリカの素晴らしい踊り手フレッド・アステアによく似たおでこの形をしているのが伸子の目をひいた。アンナ・パヴロ□ァも、ああいうこぢんまりとして横にひろいおでこをもっていた。少し鉢のひらいたような聰明で敏捷なガーリンの丸いおでこは、『検察官』のフレスタコフとはちがった役柄が彼の本領を発揮させそうに思えた。メイエルホリドは、前のシーズンから構成派風の奇抜な舞台装置で、蒼白くて骨なしめいたフレスタコフを登場させているのだった。
 ガーリンは、歌舞伎のきまりを直接自分の舞台の参考にしたいらしく、忠臣蔵で見たいくつかの例で吉之助に質問した。きのうの話し合いで、伸子がガーリンのいうとおりをあたりまえの日本語で表現すると、素子が、
「ああ、かけこみのきまりのことだ」
という風に補足した。
「そうですね、じゃ」
と、吉之助は洋服のまま、ホテルのむきだしの床に片膝をついて型をして見せた。
 そんな間にも伸子には、ガーリンの特徴のあるおでこが目についた。ガーリンが歌舞伎の型にこれだけ興味をもつことも彼の舞踊的な素質を示すことのように思えた。メイエルホリドの舞台は強度に様式化されていて、人物の性格描写も、ム・ハ・ト(芸術座)のリアリスティックな演技とは正反対に、観念で性格の焦点をつかんだ運動で様式化して表現された。フレスタコフもそういう演出方法だった。そういう舞台で、ガーリンのような額をもつ俳優が、鋭い運動神経で現在成功していることもわかる。しかし、伸子は、何だか芝居としてメイエルホリドの舞台に沈潜しにくいのだった。
 ガーリンは、一時間ばかりいて、帰って行った。一二度、吉之助のやる型を見習って、すぐ自分で床に膝をついてやって見たりした。
「こっちのひとたちは、あんな人気俳優でもあっさりしていますね」
 吉之助は師匠役に満足したらしく云った。
「われわれの間じゃ、何一つおそわろうたって、大したさわぎなんです。人を立てたり、つけ届けしたり」
「そりゃ能も同じですよ。家伝だもの――大したギルドですよ」
 伸子は、ガーリンのおでこのことを話した。
「気がつかなかった?」
「そうだったかな」
 運動神経のよさと、俳優としての人間描写の能力とは同じものでないし、いつも同じ一人の中にその二つの素質が綜合されてあるとも思えない。伸子は俳優としてのガーリンの一生を、平坦な発展の道の上に予想できなかった。
「それもそうだけれど、吉之助さん、どう思う? わたし、さっきガーリンと話していてふっと思ったのよ。こんど歌舞伎が来て、一番熱心に見学したり、特別講習をうけたりしたのはメイエルホリドだったでしょう。次は『トゥランドット』をやっているワフタンゴフ。ム・ハ・ト(芸術座)はその割でなかったでしょう? あれは、どういうことなんだろうと思ったの」
「ム・ハ・トには演技の伝統が確立しているからなんじゃないですか」
「そりゃそうだよ、ぶこちゃん」
「わたし、それだけだとは思わないなあ」
 伸子は、真面目な眼つきで吉之助を見た。
「ム・ハ・トは、リアリズムで押しているのよ、そうでしょう?『桜の園』から『装甲列車』へと移って来ているけれども、それはリアリズムそのものを押して発展させて動いて来ているんです。メイエルホリドはあんな風に様式化して、動的にやろうとしているけれど、ああいう線が本質的にどこまでも発展できるのかしら……。わたし、ム・ハ・トが、歌舞伎の隈(くま)に大して関心を示さなかったのに、メイエルホリドが熱心だったっていうの、少くとも吉之助さんとしては考えていい問題だと思うんだけれど」
「――歌舞伎だって世話ものには菊五郎のリアリズムだってあるよ」
 反駁するように芝居ずきの素子が云った。
「こっちじゃ、時代ものしかやりませんでしたからね。そのせいもあるかもしれませんね」

 吉之助が日本へ帰らなければならない時が迫って来た。けれども、同じホテルにいる伸子たちとのつき合いは、はじめと同じに、三四日顔も合わせないまますぎてゆく工合だった。吉之助と伸子たちの間にあるのは、もう不安定なところのない友人の気持だけだった。吉之助が珍しく伸子たちの室に長居して家庭生活の問題も出た夜、素子は、吉之助が去ったあともテーブルのところから動かなかった。そしてその晩、会話の底を流れて、吉之助の上へは影も投げず自分の心の内にだけ推移した心持を思いかえしているようだった。テーブルに背を向けベッドの毛布をはねて、そろそろ寝仕度をはじめている伸子に素子は、
「吉之助もあのくらいはっきり考えて居りゃ、何かになれるかもしれない」
と云った。その声の調子に、思いやりとおちついた期待が響いた。レーニングラードのジプシー料理の店で、クリーム色のスタンドの灯かげといっしょに伸子の気分まで動揺させた、あの、吉之助、なかなかいいね、と云った素子の三十をいくつか越した女の体がそのせつなふっと浮き上ったような切ないニュアンスは消されていた。
 あさってはいよいよ吉之助もモスク□を立つという晩だった。十二月の十日すぎで街は一面寒い月夜だった。八時すぎに、思いがけず若い女を二人つれた吉之助が伸子たちの部屋を訪ねて来た。
「お邪魔してすまないと思ったんですが、わたしにロシア語ができないんで、どうも……」
 吉之助は当惑そうに云って、モスク□の若い女にあんまり見かけない捲毛を器量のいい顔のまわりに垂れた姉妹を、伸子たちに紹介した。
「こちらは姉さんなんだそうです、浪子さん」
 その娘は、紫っぽい絹服をつけていて、内気そうに伸子たちと挨拶した。
「こちらが妹さん、さくらさんていうんだそうです。――姉妹で度々楽屋へ訪ねて頂いたんですが……」
 妹も新しくないベージュの絹服をきていて、器量は美しいけれども艷のない若い顔に白粉がついていた。胸のひろくあいた古い絹服、睫毛(まつげ)の長い黒い眼にある一種のつやっぽさ。伸子と素子には、娘たちのなりわいが推察された。同じさくらという日本名をもっていても、この娘たちにくらべると光子とその友達のさくらは、まるで別の雰囲気の若い娘たちだった。
 一つ長椅子の上に並んでかけた姉妹は伸子たちと、ぽつりぽつりあたりさわりのない話をはじめた。二人ともほんとに内気らしく、二人ともどこにも勤めていない、と答えたりするとき、そんな質問をしたのが気の毒に思えるような調子だった。素子が間に日本語で、
「あなた、このひとたちの家へ行ったことがあるんですか」
と吉之助にきいた。
「ええ、一二度」
 そして、
「ひどいところに住んでいるんです。何人も一つ部屋にいて、カーテンで区切って。あんまり気の毒だったから少しおくりものして来ました」
と云った。娘たちの住居はモスク□河のむこう岸らしかった。
 十分もすると吉之助は、ちょっと今のうちにすまさなければならない荷作りがあるから、と自分の室へ戻って行った。
 娘たちは、しきりに吉之助の立つ時間をきいた。それは、伸子たちも知っていないのだった。もう引きあげなくてはならないとわかりながら、吉之助を待って二人の娘たちが長椅子の上でおちつかなくなりはじめたとき、せっかちに伸子たちの部屋をノックするものがあった。
「おはいりなさい」
「こんばんは」
 鞣(かわ)の半外套を着て、小さいフェルト帽をかぶった中ぐらいの体つきの若くない女が入って来た。
「わたし、テルノフスカヤです――日本にいたことがある……」
 伸子は、思いがけないことに思いがけないことの重なったという表情で、ゆっくり椅子から立ち上った。テルノフスカヤという女のひとの名は、革命当時シベリアのパルティザンの勇敢な婦人指導者であったひととして、日本へ来ていた間はプロレタリア派の文学者たちと結びついて、伸子たちにも知られていた。このモスク□でもむしろ、ホテル暮しなどをしている自分たちとは政治的にもちがった環境に属す人として、伸子も素子も、テルノフスカヤが今晩不意に現れたことに意外だった。
 いそがしく活動している婦人の身ごなしでテルノフスカヤは伸子たち娘たちと、事務的に握手した。そして、テーブルに向ってかけ、タバコを出して素子や娘たちにすすめ、自分も火をつけた。眉をしかめるようにタバコに火をつけているテルノフスカヤの髪は、ひどく黄色くて光沢がなかった。五人の女の中でたった一人タバコをすわない伸子は圧迫される感じで、テルノフスカヤの眼から自分の眼をそらした。テルノフスカヤの眼は黄色っぽい灰色でその真中に真黒く刺したような瞳があった。その目の表情があんまり豹の目に似ていた。精神の精悍さより、何か残忍に近いものが感じられ、それが女の顔の中にあることで伸子はこわかった。
「吉之助さんは、ここに住んでいるんでしょう?」
「ええ。この娘さんたちも彼のところへ来たお客さんなんですが、いま、いそぐ荷作りがあって、彼は自分の室で働いています」
「彼に会えますか」
「じきここへ来るでしょう」
 テルノフスカヤは素子と話している。伸子は、秋のはじめのいつだったか雨上りの並木道で、この人には会ったことがあると思った。雨はあがったが、菩提樹の枝から風につれてまだしずくが散るような道を、伸子の反対の方から一人の女が書類鞄を下げて通りがかった。伸子の眼をひいたのは、その雨上りの並木道を来るひけどきの通行人のなかで、その人ひとりがすきとおるコバルト色のきれいな絹防水の雨外套を着ていたからだった。それは、日本で若い女たちが着ているものだったが、モスク□でそんなレイン・コートを見たのは、初めてだった。コバルト色のレイン・コートとともに、特徴のあるその瞳の表情も、伸子の印象にのこされた。
 伸子は、思い出して、テルノフスカヤにその話をした。
「そうですか? わたしは思い出せませんよ」
 それきりで、テルノフスカヤはコバルト色のレイン・コートを自分がもっているともいないとも云わなかった。二人の娘たちは、自分たちに話しかけようともしないテルノフスカヤの出現に、やっと思いあきらめて腰をあげた。すると、テルノフスカヤが、
「あなたがた、吉之助さんの部屋へよって帰るんでしょう」
 見とおした命令的な口調で云った。
「荷作りがすんだら、こちらへ来るように云って下さい」
 思ったより早く吉之助が、どことなし腑におちない表情で伸子たちの室へ入って来た。テルノフスカヤを見ると、顔みしりではあると見えて、
「こんばんは」
 身についている客あしらいのよさで挨拶した。テルノフスカヤはだまって握手して、
「いそがしいですか」
 はじめて日本語で吉之助にきいた。
「ええ荷づくりが少しあったもんですから、……失礼しました」
 二人の娘をあずけたことをもこめて、吉之助は伸子たちにも軽く頭を下げた。先にかえった左団次一行からはたよりがあったか、とか、正月興行で、吉之助の配役は何かというような話が出た。
 テルノフスカヤがどういう用で吉之助のところへ来たのか、伸子たちに見当がつかないように、吉之助にもわからないらしかった。吉之助の室へ行こうとするでもなくて、四十分も雑談すると彼女は来たときのように余情をのこさない足どりで伸子たちの室から出て行った。
 伸子たちがモスク□へ来てやがて一年になろうとしていた。その間、ただ一度も来たことのないテルノフスカヤが、その晩不意に、しかもさがしもしないような的確さでパッサージの三階にいる伸子たちの室を訪ねて来たのは不思議な気持だった。
「長原吉之助のファンは、ああいうところまではいってるのかな」
 そういう素子に吉之助は却って訊ねるような視線を向けた。
「一度楽屋で見かけた方には相違ないんですが……」
 素子は何か考えるようにパイプをかんでいたが、やがて、
「気にすることはありませんよ」
と云った。
「俳優にどんなファンがいたって、ある意味じゃ不可抗力なんだから」
 一日おいた冬の晴れた朝、吉之助は予定どおりモスク□を出るシベリア鉄道へのりこんだ。

        五

 伸子と素子とは、また貸間さがしをはじめた。もう十二月で、伸子たちにとってまる一年のモスク□生活だった。春ごろ、貸部屋をさがしたときのようなまだるっこいことはしないで、こんどはいきなりモスク□夕刊の広告受付の窓口で求間の広告をかいた。
 あしたにも雪が降りはじめそうな夕方だった。午後三時ごろから店々に灯がついているトゥウェルスカヤ通りをホテルへ帰りながら、伸子は、
「こんどもいい室が見つかるといいけれど」
と云った。
「でも、ルイバコフのところみたいに、あんまり短い期限は不便ね」
 レーニングラードへ出発するまでの暫くの間暮したフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根が窓からみえる家は、ルイバコフの家族が夏の休暇をとるまでという期限つきだった。
「あのときは、わたしたちだってモスク□から出る前だったんだし、よかったのさ。こんどは少し腰をおちつけなくちゃ」
 伸子たちの夏の休暇は、間に保の死という突発の事件をはさみ、予定より長びいた。ひきつづいて歌舞伎が日本から来たことは、モスク□にいた多くの日本人の気持にふだんとちがった影響を与えた。なかでも芝居ずきの素子は、モスク□で歌舞伎を観るということに亢奮した。そして、その旧い歌舞伎の根元から思いがけない若さでひこ生えて来ているような長原吉之助の俳優としての存在が、モスク□の環境で、伸子と素子との日常に接近した。伸子は、保に死なれ、生れた家や過去の生活ぶりから絶縁された自分を感じている心の上へ、長原吉之助や映画監督エイゼンシュタインが新しい生活と芸術を求めて動いているエネルギーを新しい発見としてうけとった。うちはないようになっても、うちよりほかのところに伸子の精神につながった動きがあるという確認は、伸子を力づけた。長原吉之助がモスク□を立ってから、伸子は一層自分を、モスク□生活にくっささったものとして感じた。素子も、吉之助がパッサージ・ホテルを去った次の週から、またモスク□大学へ通いはじめた。素子の勉強ぶりには、何となく、とりとめもなく煙のあとを目で追いながらタバコをくゆらしていたひとが、急に果さなければならない義務があったのを思い出して、灰皿の上へタバコをもみ消しながら立ち上った趣きがあった。
 素子の日常が、レーニングラードへ出かける前の初夏のころとあんまりちがわない平面の上で廻転しはじめた。一つ部屋に暮してそれを見ながら、伸子は平面で動けなくなっている自分というものを感じ、しかしくっささったぎりそれからさきの自分の動かしようはわからないでいる感じだった。
 二人の外国女として伸子たちの求間広告がモスク□夕刊の広告欄に出た二日後、伸子たちは一通の封書をうけとった。それはタイプライターでうたれた短い手紙だった。要求にふさわしい一室があいている。毎日午後二時には在宅。来訪を待つ。部屋主からの事務的な通知だが、伸子たちはそのアドレスを見て、
「まあ!」
と、手紙の上に集めていた二つの頭をはなして互の顔を見合わせた。
「またあの建物の中よ! なんて縁があるんでしょう!」タイプライターの字が、アストージェンカ一番地とあった。
「じゃ、またあのフラム・フリスタの金の円屋根ね」
「さあ」
 素子が実際家らしく、思案した。
「そうとも限るまい。だって、こっちはクワルティーラ(アパートメント)五八とあるもの」
 また伸子が下検分の役だった。
 六ヵ月ぶりで来てみるとアストージェンカの街角には、やっぱり黒地にコムナールと大きく白字で書いた看板をかかげた食糧販売店の店が開かれており、そのわきからはじまる並木道の樹々は、葉をふるいおとした梢のこまかい枝で冬空に黒いレース模様を編みだしている。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの石垣の下に春ごろ、空のまま放られていたキオスク(屋台店)に、人がはいっていまは新聞だのタバコ、つり下げたソーセージなどを売っていた。
 一番地の板がこいには、まだ「この中に便所なし」と書いた紙がはりつけられている。
 伸子は、そこを出入りしなれている者独特のこころもちで、一番地の木戸をはいって行った。ルイバコフの入口はとっつきの右だったけれども、クワルティーラ五八というのは、その建物の内庭に面して並んでいる四つの入口の、左はじから二番目に入口があった。
 相かわらず人気のない内庭から四階までのぼって、五八のドアの呼鈴(よびりん)をならした。スカートのうしろまで鼠色麻の大前掛をかけた、太った年よりの女が出て来た。伸子が用向きを告げると、小柄な伸子の上から下まで一瞥しながら、
「おまち下さい」
と、奥へ入って行った。入れちがいに、大柄の、耳飾りをつけた年ごろのはっきりわからない中年の女が出て来た。この女も、こんにちは、と云いながら一目で伸子の上から下までを見た。それが主婦であった。
 ここで貸そうとしている部屋は、ルイバコフで借りていた浅い箱のような室を、丁度たてにして置いたような細長い部屋だった。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根はその窓からは見えず、したがって街の物音の反響もすくなかった。
「この室には、別入口がついているんですよ」
 ぱさぱさした褐色の髪や皮膚の色にエメラルドの耳飾りがきわだつ顔を奥のドアへ向けながら主婦が伸子に説明した。
「そのドアをお使いなすってもかまわないんですが、もし不用心だといけませんから、表から出入りしていただきたいと思います」
 翌日、伸子たちはソコーリスキーというその家の表部屋へ移った。アストージェンカの界隈には馴れていたし、シーズンのはじまった芝居の往復にも、そこからは便利だった。ソコーリスキーでは食事つきの契約ができた。もうじき厳冬がはじまるモスク□で、毎日正餐をたべに出ないでもすむのはのぞましい条件だった。
「アニュータの料理はわたしたちの自慢です」
 耳飾をさげた細君のいうとおり、太ったアニュータのボルシチ(濃いスープ)やカツレツは、パッサージ・ホテルの脂ぎった料理よりはるかにうまかった。伸子たちにとってやや意外だったのは、正餐がソコーリスキーの夫婦といっしょなことだった。白いテーブル・クローズをかけ、デザート用の小サジまでとり揃えたテーブルで。
 食後、細君はすぐ子供部屋へひっこんだ。
「われわれのところには、三つになる娘がいるんです。可愛い子です。二三日風邪気味でしてね……もっとも母親に云わせると、娘の健康状態はいつも重大な注意を要するんだそうですが」
 どっちかというと蒼白いぬけめない顔の上に気のきいた黒い髭をたてて大柄でたるんだ細君よりずっと若く見えるソコーリスキーは、皮肉そうに本気にしない調子でそう云った。
「日本でも――概して母性というものは、驚歎に価しますか?」
 食後のタバコをくゆらしていた素子が、そんな風にいうソコーリスキーの気分を見ぬいた辛辣さで、
「どこの国でも、雛鳥をもっている牝鶏にかなう猫はありませんよ」
と云った。
「なるほど! それが真実でしょうな」
 皮ばりのディヴァンにふかくもたれこんで、よく手入れされたなめし革の長靴をはいた脚を高く組んでいたソコーリスキーは、
「さて」
と、ルバーシカのカフスの下で腕時計を見た。
「失礼します。こんやはまだ二つ委員会があるもんですから。――必要なことは、何でもアニュータに云いつけて下さい」
 ルイバコフの家庭には、いかにも下級技師らしい生活の気分があり、正直と慾ふかさとがまじっていたが、飾りけがなく、そこで働いていたニューラの体からしめっぽい台所のにおいがしていた。ソコーリスキーの家庭の雰囲気には、上級官吏らしい艷のいいニスがなめらかにかけられていて、伸子はなじみにくかった。
 部屋へかえって、伸子は素子に、
「わたしルイバコフの方がすきだわ」
と、ふくれた顔で云った。
「ここの連中は、ミャーフキー(二等車)にしか乗らないときめてるようなんだもの」
 素子は、
「まあいいさ」
と、伸子の不満にとりあわず、それぞれに風のある家の仕くみを興がるようだった。
「ここじゃ、アニュータが実質上の主婦だね。あの太った婆さんで全体がもててる感じだ」
 おそく生れたらしい娘にかかりきりになっている細君にかわってソコーリスキーの家庭の軸がアニュータのおかげで廻転している。それが一度の正餐でもわかった。アニュータの給仕ぶりは自信と権威とにみちていて、いかにも、さあ、みなさんあがって下さい。いかがです? という調子だった。アニュータは、主人の地位をほこっていて、そこで権威を与えられている自分自身に満足している様子だった。
 二日目の午後、伸子たちは下町の国際出版所へ出かけ、正餐にやっと間に合う時刻に帰って来た。その日は朝から初雪だった。二人が外套についた雪をはらっているところへ、ノックといっしょにドアがあいた。そして、耳飾りをした細君の顔があらわれた。
「入ってもようござんすか?」
 いいともわるいともいうひまもなく細君は伸子たちの狭い室へ体を入れて、自分のうしろでドアをしめた。細君は、体の前で両手を握りあわすような身ぶりをした。握りあわせた手をよじるようにしながら、
「きいて下さい」
 奇妙な赤まだらの浮いたようになった顔で伸子たちに云った。
「さっき、わたしの夫から電話がかかりまして、非常に思いがけないことが起って、どうしてもこの室が必要になったんです」
 あんまり突然で意味がわからないのと、勝手なのとで素子と伸子とは傷つけられた表情になった。だまって、デスクの前の椅子に腰をおろした素子に追いすがるように、細君は一歩前へ出て、また、
「スルーシャイチェ(きいて下さい)」
 圧しつけた苦しい声でつづけた。
「どう説明したらいいでしょう、――つまり、――非常に重大な人物に関係のあることが起ったためなんです」
「…………」
「わたしの夫の役所の関係なんです。――どうしても避けられない事情になって来たんです。すみませんが、子供部屋と代っていただきたいんです。アニュータがあっちへ、あなたがたの荷物や寝台の一つを運びますから」
 伸子が、
「大変わかりにくいお話だこと!」
というのにつづいて素子が、
「妙じゃありませんか」
と言った。
「わたしたちは、きのうこの部屋に移って来たばかりですよ。あなたがたは、この部屋に、そういう突然の必要がおこることを、おととい知っていらしたんですか。知っていて、われわれと契約したんですか」
「どうしてそんなことがあるでしょう! ほんとに思いがけないことになったんです」
 細君の混乱ぶりはとりみだしたという以上で何か普通でない事件がふりかかって来ようとしていることを示している。それはこの大柄で、不似合な耳飾りをつけ、娘にかかりきっている細君に深い恐怖を抱かせる種類のことであり、部屋の問題も、それが夫の命令であるからというばかりでなく、夫婦を危機から守るためにも、細君として必死な場合であるらしく見えた。しかし、おそらく決して説明されることのないだろうその内容は不明で、したがって伸子も素子も、いきなりきのううつって来たばかりの部屋をあけろと云われている者の立場からしか、口のききようもないのだった。
 素子は、
「残念ですが、わたしどもに、あなたの話はのみこめないんです」
と云った。
「あんまり例外の場合だから。――あなたの旦那様とお話ししましょう。そして、わたしどもに話がわかることだったら、そのとき荷もつは動かしましょう。――この部屋がいるのは何時ごろからです?」
「多分夜だろうとは思うんですが……」
 細君は、途方にくれたように両手をねじりつづけ、顔のむらむらが一層濃くなった。そのまましばらく立っていたが、急に啜り泣きのような音をたてて息を吸いこむと、ドアをあけはなしたまま部屋を出て行った。

 立ってドアをしめながら、伸子が目を大きくして、
「何のことなの?」
 小声で素子にきいた。
「何がもちあがったっていうんだろう」
 素子は不機嫌に唇のはしをひきさげて、タバコに火をつけながら、自分にも分らない事件の意味をさぐりでもするようにドアをしめて来た伸子をじろじろ見た。
「何がどうさけがたいのか知らないが、バカにしてるじゃないか、いきなりここをあけろなんて。――そんなくらいなら貸さなけりゃいいんだ」
「ほかの部屋をつかえばいいんだわ。なぜわたしたちが子供部屋へ行って、ここをあけなけりゃならないのかわからない」
 いいことを思いついたという表情で伸子が、
「いいことがある!」
と云った。
「パ・オーチェリジ(列の順)と云ってすましてましょうよ、ね?」
 パンを買うにも、劇場や汽車の切符を買うにもモスク□の列の秩序はよく守られた。長い列の中でも、ちゃんと番さえとっておけば途中で別の用事をすまして来ても、番が乱されることはなかった。モスク□の市民生活のモラルの一つなのであった。
 伸子たちが評定している間もなく、玄関の呼鈴が鳴ってソコーリスキーが帰って来た。細君がいそいで出迎える気配がした。ひそひそ声で訴えるようにしゃべっている。夫婦の寝室になっている部屋のドアがあいて、しまった。
 するとアニュータが、伸子たちのドアをノックして、戸をしめたままそとから高い声に節をつけて、
「アーベェード」
と呼んだ。
 伸子たちがこっちのドアから出てゆく。その向い側のドアがあいて、ソコーリスキー夫婦が出て来た。下手な芝居の一場面のような滑稽なぎごちなさで四人がテーブルへついた。きょうもよく磨いた長靴をはいているソコーリスキーが、テーブルに向って椅子をひきよせながら、
「さきほど、家内が部屋のことについてお話ししたが、よく御諒解なかったそうでしたね」
と云いだした。
「ええ。突然のことだし、大体、あんまり例のないことですからね」
 ソコーリスキーは、気のきいた黒い髭に指を当ててちょっと考えていたが、
「そうです、そうです」
 自分にむかっても合点するように頭をふった。
「われわれの生活には、例のないことも起ることがあるんです。――ともかく正餐をすませてからにしましょう」
 細君はひとことも口をきかず、赤いむらむらは消えたかわり妙に色がくろくなったような顔で、まずそうに犢(こうし)の肉を皿の上でこまかくきっている。
 ほとんど口をきかないで食事が終った。細君はすぐ立って寝室の方へ去った。アニュータがテーブルを片づけに入って来た。うちのなかにおこることは何から何まで知られて困らない召使をもっている人間の気がねなさで、ソコーリスキーは早速、
「では、われわれの事務を片づけましょう」
と、ディヴァンの方へうつった。
 ソコーリスキーは、細君が伸子たちに云ったと同じことを、細君より順序よく、もっと重要性をふくめてくりかえした。ソコーリスキーが、神経の亢奮やいらだちをおさえて、出来るだけすらりとことを運ぼうと希望しているのは明瞭だった。
「あなたにもおわかりでしょう」
 素子が、ソコーリスキーにタバコの火をつけさせながら云いはじめた。
「あなたの説明は、客観的にはよわい根拠しかもっていないと考えるんです。或る一つの室を、ちゃんとした契約でAという人が借りた。そして二日たったら、その部屋が急にいるからあけてくれ、というような場合、一般に、『やむを得ない事情』というのは、説明にならないと考えます」
「――なるほど」
ソコーリスキーはディヴァンに浅くかけて、その上に片肱をついていた膝をひっこめて、坐り直した。
「あなたの云われるとおり、わたしの説明は客観性をかいているとしてですね――、それをより具体的にする自由がわたしに許されていない場合、あなたならどうしますか」
 きいていて、伸子はソコーリスキーの巧妙さと役人くさい抜け道上手に翻弄されてはいられない気がして来た。素子が、タバコをひと吸いしている間に伸子は、全く伸子らしい表現で云った。
「それは、ほんとにあなたの不幸だ、というしかありません」
 ソコーリスキーは、思いがけないという表情で伸子を見守って云った。
「不幸は、そのことにおいて同情される性質のものです」
「そうかしら」
 伸子は、思わず小さく笑った。
「残念なことに、あなたはあんまり権威にみちて見えます」
「それで、部屋は何日間必要なんですか」
 素子が話を本筋にひきもどした。
「それは今のところわかりません」
「その間、わたしたちは子供部屋に暮して待っているわけですか」
「わたしは、むしろ、あなたがたが、この際別の部屋を見つけて移られる方が便利だろうと思うんです」
 すっかり怒らされた眼つきと声で素子が、
「エート、ニェワズモージュノ(それは不可能です)」
 議論の余地なし、というつよい調子で云った。
「モスク□に住宅難がないなら、あなたがたがわたしたちの広告に返事をよこすこともなかったでしょう」
 伸子の心にもきつい抗議が湧いた。大体すべてこれらのいきさつには、伸子がこの一年の間に経験したソヴェト生活らしい、いいところがなかった。理由は曖昧だし、いやに高圧的だし、伸子の気質としてほかならぬこのモスク□で、こういう妙なおしつけがましさに負けていなければならない理由が発見されないのだった。むっとして黙っているうちに、伸子は「クロコディール(鰐)」にでていた一つの諷刺画を思い出した。それは、ソヴェト社会にある官僚主義を鋭く諷刺したものだった。「氷でつつまれた」役人たちを、一枚のブマーガ(書類)がどんなに忽ち愛嬌のいい人間に「とかしてゆく」かという有様が描かれていた。伸子は、咄嗟(とっさ)の思いつきで素子に日本語で云った。
「わたし、これからヴ・オ・ク・スへ行ってくる」
 ソコーリスキーが、ヴ・オ・ク・ス(対外文化連絡協会)という単語をききとがめた。
「何と云われたんですか」
 伸子に向ってきいた。
「わたしは、ヴ・オ・ク・スへ行って、こういう場合、モスク□人はどう処置するのが普通なのか相談して来る、と云ったんです」
「ヴ・オ・ク・スにお知り合いがありますか」
「わたしたちは、モスク□へ来てもう一年たっているんです」
 ソコーリスキーは沈黙した。しかし、彼が伸子たちのいる部屋をあけさせなければならないことにはかわりないらしく、しかも、その時刻は、刻々に迫っているらしかった。考えながらソコーリスキーは腕時計をのぞいた。そして、また思案していたが、暫くすると、それよりほかに方法はない何事かを決心したらしく、
「わたしは、最後の協調案を提出します」
と云った。
「必ずあなたがたのために、最も早い機会にこの建物の中で部屋を一つ見つけましょう。今の部屋とちがわない部屋を。――これは約束します。心あたりもありますから。その条件で、子供部屋へ荷物を運ばして下さい」
「では、わたしたちは、あなたの言葉を信じましょう。部屋ができたら子供部屋からそちらへ移りましょう」
 ソコーリスキーは、ディヴァンから立ちあがると、伸子たちに挨拶することも忘れて、あわただしい足どりで台所へ行った。
 伸子たちは、机の上に並べたばかりの本や飾りものを自分たちで、食堂と壁をへだてた裏側の子供部屋へはこんだ。
 アニュータは、子供寝台をその室からおし出し、あっちの室から折り畳式の寝台をもって来た。大きいトランクや籠は、外出のために外套をつけたソコーリスキー自身が運んだ。子供は前もって夫婦の寝室へつれてゆかれていて、白い壁の上に、復活祭の飾りか、誕生日祝の飾りか、赤と緑の紙で大きいトロイカの切り紙細工がのこされていた。ほかの室より燭光のよわい電燈で照されている子供部屋にはかすかに甘ったるく乳くさいにおいがしみついている。部屋そのものは、伸子たちのかりたところよりも倍以上ひろかった。けれども、窓ぎわにごたごた子供部屋らしい品々をのせたテーブルがあるきりで、デスクはないし、スタンドはないし、伸子たちは避難民のようにベッドの上に坐って、建物の内庭に面した暗い窓の外に降っている雪を眺めた。
 その晩、伸子が手洗いに行ったら、まだ灯のついた食堂のドアが開いていて、細君が葡萄酒の壜とコップとをのせた盆をうやうやしげにもとの伸子たちの部屋へ運んでゆくところだった。

        六

 あくる朝、伸子と素子とは目ざめ心地のわるい気分で、乳くさい部屋の第一日を迎えた。顔を洗って来た素子が、男ものめいた太い縞のガウンを着て、手拭をもって、臨時にあてがわれている部屋へ戻って来るなり、
「保健人民委員にミャーコフっていう男がいるのかい」
ときいた。
「――知らない」
 伸子は、ソヴェトの指導的な人々の名をいくつか知っていたし、ある人々の写真をエハガキにしたのも数枚もっていた。けれどもそれは一年もモスク□に暮している自然の結果で、政府の役人の一人一人についてなど、知っていなかった。
「その人がどうかしたの?」
「あの部屋へ来ているのは、その保健人民委員のミャーコフだとさ」
 ソコーリスキーが伸子たちに部屋をかわらした熱中ぶりの意味がそのひとことで説明された。同時に、伸子は疑いぶかい、さぐるような表情を二つ目にあらわして、じっと素子を見た。
「そんな人間が、なぜ、こそこそこんなとこへ部屋なんかもつ必要があるんだろう」
 ゆうべその人物がアパートメントへ来たのは、劇場のはねる前の、一番人出入りのすくない時刻だった。表ドアのそとについている別入口から直接部屋の鍵をあけて入ったらしく、ベルの鳴る音もしなかった。偶然細君が酒を運ぶところを見かけて、伸子は、自分たちをどけたその室に予定のとおり人が来ているのを知ったのだった。
「何かあるんだね」
「いやねえ」
 去年ドン・バスの反ソヴェト陰謀が発覚してから、ソヴェトの全機構と党内の粛正がつづけられていた。収賄、不正な資材や生産物の処分、意識的な指導放棄などが、いろいろの生産部門、協同組合などの組織の中から摘発されて「プラウダ」に記事がのせられる場合がまれでなかった。一人の人民委員が、その地位にかかわらず非合法めいた住居のかえかたをしたりすることは、外国人である伸子たちに暗い想像を与えた。そして、その暗さは、ソヴェト生活の中では特殊な性格をもった。みんなから選ばれた人民委員が大衆の批判をおそれて、こそこそ動く。そのことが、ソヴェト生活の感情にとって不正の証明であるという印象を与えるのだった。その感情は素朴かもしれないが強くはっきりしていて、伸子は、そういう者のために自分たちがいるところをとりあげられるいわれは絶対にないという気が一層つよくおこった。自分たちは外国人で、共産党員でもなければ、革命家でもない。だけれども、少くともソヴェトの人々の真剣な建設の仕事をむしばむ作用はしていない。こそこそアジトをもったりする人民委員よりも、伸子たちの方が心性と事実とにおいてソヴェトの人々の側にいるのだ。伸子は、
「それならそれで結構だわよ、ね」
 挑戦的な元気な表情で云った。
「ソコーリスキーがわたしたちをおい出す理由がますます貧弱になっただけだわ」
 朝晩は部屋へ運ばれることになっている茶を注ぎながら、素子が幻滅したような皮肉な口調で、
「人民委員は、バルザック(ロシア産の白葡萄酒)がお気に入ったとさ。朝はコーヒーしかめし上らないんだそうだ」
と、唇をゆがめて笑った。
「アニュータは、うちへそういう人が来たっていうんで亢奮してだまっちゃいられないんだね。絶対秘密だってみんな話してきかせた。どうせしゃべらずにいられないんならわたしを対手にした方が安全だから、アニュータもばかじゃない」
 伸子は茶をのみながら考えていて、
「部屋がみつかりさえしたら、ひっこしましょうね」
と云った。
「たとえわるい部屋でもね」
 いかがわしい事件にかかわりのある家に自分たちがいることを伸子はいやに思った。モスク□へ来て一年たつ間、伸子たちの存在は何の華々しいこともないかわり、平静で自由であった。もしミャーコフという保健人民委員のいざこざにつれてどういういきさつからかそれに荷担しているソコーリスキー一家の生活がひっくりかえった場合、それにつれて自分たちの生活まで一応は複雑な角度から見られなければならない。そういうことは伸子にいやだった。保が死んでから、かっきりソヴェト生活へうちこまれた自分しか感じられずにいる伸子にとって、そういう事態にまきこまれるような場面に自分をおくことはあんまり本心にたがった。
 それには素子も同じ意見で、熱心に自分のきもちを話す伸子を半ばからかいながら、
「わかってるじゃないか。そんなにむきにならなくたって」
と云った。
「しかし、ソヴェトもなかなかだなあ。アニュータはその男がコーヒーをのむ(ピヨット)というところを、わざわざプリニマーエットと云ったよ。特別丁寧に云ったわけなんだ。ナルコム(人民委員)はただ飲むんじゃなくて――召しあがるというわけか」
 プリニマーチという動詞を、伸子は薬なんかを服用するというとき使う言葉としてしかしらなかった。
 その日も一日雪だった。伸子たちがモスク□へ着いて間もなかった去年の季節の風景そのまま、来年の春まで街々をうずめて根雪となるこまかい雪が間断なく降りつづけた。
 正餐のとき、それまでどこにも姿を見せなかった細君が不承不承な様子で寝室から出て来た。そして、テーブルにつき、
「いやな天気ですね」
 おちつかない視線を伸子たちからそらして台所の方を見ながら、両手をこすり合わした。素子が平静な声で、
「特別でもないでしょう」
と云った。
 そのアストージェンカ一番地の大きいアパートメントには、中央煖房の設備があって、各クワルティーラは台所まで居心地よい温度にあたためられているのだった。
 細君は、すこし乱れた褐色の髪の下にエメラルドの耳飾りを見せながら、スープをのんだきりだった。両肱をテーブルの上について、時々指でこめかみをもみながら、二番目の肉の皿にも乾果物の砂糖煮にも手をつけなかった。ソコーリスキーは正餐にかえって来ず、伸子たちの出たあとの部屋へ来た人物同様、いつ帰っていつ出てゆくのかわからなかった。
 翌日、正餐のときも細君は寝室にとじこもったきりだった。アニュータの給仕で二人だけの食事を終って、伸子は食堂の窓からアストージェンカの雪ふりの通りの景色を眺めようとした。寝室のドアがすこしあいていて、更紗(さらさ)模様の部屋着を着た細君がだるそうな様子で、子供寝台の上に立っている女の子に白エナメルの便器をとってやるところが、ドアのすき間から見えた。ちらりと隙間洩れに見えた寝室の様子にも、伸子たちのいる子供部屋と同じ混乱があった。

 建物の同じ棟の一階下に、ともかく部屋が見つかったのは三日目の正餐のあとのことだった。細君は、まるで一家のごたごたが伸子たちのせいででもあるように、がんこに寝室から顔を出さなくなった。正餐には帰らなかったソコーリスキーが五時ごろ、いそいで十五分間ばかりもどって来て伸子たちのドアをたたいた。やっと同じ棟の三階に一部屋できたこと、四十分たったら荷物をはこぶために門番が来ることを通告して、ちょいと寝室へ入ってゆき、ドアの間へ外套の裾をはさみこみそうにあわただしくまた出て行った。伸子たちはアニュータに心づけをやり、太って息ぎれのする門番について三階の新しい室へおりて行った。

 いかにも醇朴な若くないロシア女の眼をもった主婦の顔を見て、まず伸子がふかい安心と信頼を感じた。そのルケアーノフ一家はソコーリスキーの家庭と比較にならないほど質朴で、住んでいる人に虚飾がないように調度も余計なものはなに一つなかった。
 伸子たちのための部屋というのは、しかしながらひどい部屋だった。この建物には、どこへ行っても一部屋はそういう室があるらしい狭い小部屋が、ルケアーノフのクワルティーラでは、建物の内庭に面して作られていた。暗い外ではしきりなしに雪の降っている内庭に面して一つの窓が開いているばかりで、寝台が一つ、デスクが一つ、入口のドアのよこにたっている衣裳箪笥で、きわめて狭いその部屋はもういっぱいだった。
 ソコーリスキーが苦しまぎれに、こんな部屋でも無理に約束したことは明白だった。伸子たちにしても、ソコーリスキーの破局的な不安にとらえられている家庭の雰囲気中にいるよりは、どんな窮屈でも、さっぱりしたルケアーノフの室がましだった。伸子たちが、苦心して荷物を片づけているのをドアのところに立って見ているルケアーノフの細君の素朴な鳶色の目に、真面目な親切と当惑があらわれた。
「この室は、わたしの娘がつかっている部屋でしたのを、ソコーリスキーが、たってと云われるので、お二人のためにあけたんですけれど――二人が暮せる部屋ではありません」
 一層困惑したように、ルケアーノフの細君は、手縫いの、ロシア風にゆるく円く胸もとをくったうすクリーム色のブラウスのなかで頸筋をあからめた。
「わたしどものところでは、あなたがたのために正餐をおひきうけできるかどうかもきまっていないんです」
 伸子も素子もそれぞれに働きながら、困ったと思った。素子が、
「ソコーリスキーがおねがいしませんでしたか」
ときいた。
「あのひとは、そのことをあなたにお話ししなければならなかったわけです」
「ソコーリスキーは話しました。けれども、わたしの夫がいま出張中なのです。この部屋をおかししたことさえ、彼は知らないんです」
 ソコーリスキーが何かの関係でことわりにくいルケアーノフの細君をときふせて、部屋のやりくりをさせたことはいよいよ明瞭になった。ゆっくり口をきく真面目な細君は、伸子たちに対して、主婦としてはっきりしたことの云いきれない極りわるさとともに、夫に独断で外国人を家庭に入れたりしたことに不安を感じているのだった。
「いいじゃないの、パッサージへたべに行けば」
 日本語で伸子が云った。
「うちの人が気持いいんだもの」
 素子が、むしろ細君の不安をしずめるように、
「かまいませんよ」
と云った。
「何とかなります。心配なさらないでいいんです」
「オーチェン・ジャールコ(大変残念です)」
 心からの声で細君がそう云った。しばらく考えていて細君としては些細(ささい)な、けれども伸子たちにとっては大いに助かる申し出が追加された。
「お茶は、わたしどものところで用意できます。朝と晩――」
 翌々日出張さきから帰って来たルケアーノフは、物の云いかたも服装も地味な五十がらみの小柄な撫で肩の男だった。大して英雄的な行動もなかったかわり、正直に一九一七年の革命を経験して、実直に運輸省の官吏として働いている、そういう感じの人物だった。ルケアーノフの眼も、細君の眼と同じ暖い鳶色をしている。二つのちがいは、ルケアーノフの眼の方が、細君の眼の明るさにくらべて、いくらかの憂鬱を沈めているだけだった。娘が二人いた。やせて小柄で気取っている上の娘は去年モスク□大学を卒業してどこかへ勤めている。下の娘は、来年専門学校へ入るぽってりとした母親似の少女で、母親よりもっと澄んだ鳶色の眼に、同じ色の艷のいい髪をおかっぱにしている。この下の娘が伸子たちの室へ茶を運んで来た。ドアをゆっくり二つノックして、
「いいですか?(モージュノ?)」
 どこかまだ子供っぽい声で、ゆっくり声をかけ、ついにっこりする笑顔で茶の盆をさし出した。
 ルケアーノフの質素な家庭には、伸子と素子の語学の教師であるマリア・グレゴーリエヴナとその夫でヴ・オ・ク・スに働いているノヴァミルスキー夫妻のクワルティーラにあるような雰囲気があった。みんながそれぞれに自分たちのすべき仕事を熱心にし、乏しくないまでも無駄のゆとりはない暮しぶりだった。夫のノヴァミルスキーと妻のマリア・グレゴーリエヴナが、夫婦とも同じように外気にさらされて赤い頬と、同じようにすこしその先が上向きかげんの鼻をもっているように、ルケアーノフの夫婦と二人の娘たちは、みんな鳶色の眼とゆっくりしたロシア風の動作とをもっている。
 ルケアーノフ一家の暮しぶりには、伸子の心に共感をよびさます正直さがあった。ルイバコフのうちでは夫婦ともが日常生活のどっさりの部分をニューラに負担させ、細君がそうであるように夫も目的のはっきりしない時間のゆとりのなかで暮していた。ソコーリスキーの家庭は、伸子にとって思いもかけずまぎれこんだソヴェト社会の一つのわれめだった。ルケアーノフの一家の、飾ることを知らない人々の自然で勤勉な簡素さは、保が死んでのち伸子の心から消えることのなくなった生活への真面目な気分に調和した。保がいなくなってから、ヴォルガ河やドン・バスの旅行から帰ってから、伸子は、はためには大人らしさを加えた。素子に対しても、おとなしくなった。しかし、それは伸子の心が沈静しているからではなくて、反対に、生活に対するひとにわからない新しい情熱が伸子の内部に集中しているからだった。ますます生きようとしている伸子のはげしい情熱は、ひそかに体の顫えるような、保は死んだ、という痛恨で裏づけられている。まぎらしようのないその痛みは、新しく生きようとしている伸子の情熱に音楽の低音のような深い諧調を与えていた。伸子は自分の内にきこえる響に導かれて、もっと、もっととソヴェト生活にはまりこんで行こうとしているのであった。

 ルケアーノフの主婦が伸子たちの正餐をひきうけてもよいときめたのと、素子が、パッサージ・ホテルに部屋をとったのとが同じ四日目のことだった。
「惜しいな、折角そういうのに――」
 丁度パッサージに部屋をきめて帰ったばかりの素子が、部屋にのこっていた伸子からその話をきいて残念がった。
「――でも、これじゃ、とてもやってかれないし……ぶこちゃんだってそうだろう?」
 伸子は黒っぽい粗末な毛布のかかったベッドの上に坐っていた。
「無理ね。ほんとに一人分だわ、この部屋は」
「正餐だけたべにこっちへ来ることにするか」
 パッサージ・ホテルとアストージェンカは近いけれども、素子は往復の時間が惜しいらしかった。
「ついおっくうになっちゃうからね、いまの天気じゃ。こっちで正餐をたべりゃ、ついどうしたってこっちで夜まで暇つぶししちゃう」
「わたしがパッサージへ行ったら? 暇つぶししないの?」
「いいさ、おっぱらっちゃうもの」
 笑いもしないでそう云いながら考えていて、素子はやっぱり予定どおり自分だけパッサージに移ることにした。そうなれば、たった一人で降る雪ばかり見える窓に向いて、正餐をたべる勇気は伸子になかった。正餐には伸子がパッサージへ出かけて行くことにきまった。

        七

 舞台では、人々の耳になじみぶかい華麗な乾杯のコーラスの余韻をひきながらオペラ「椿姫」の第一幕めのカーテンがおりたばかりだった。
 二階のバルコニーの第一列に並んでいる伸子と素子のところへ、一人の金髪のピオニェールのなりをした少年があらわれた。ピオニェールの少年は、素子のわきへよって来た。そして、そばかすのある顔じゅうにひどく陽気な好奇心を踊らして、
「それ、望遠鏡ですか」
 素子のきなこ色のスカートの膝におかれていた双眼鏡をさした。
「ああ。――なぜ?」
「僕はじめてこういうものを見たんです。ずっと遠くまで見えるんですか」
「そんなに遠くは見えないさ、オペラ・グラスだもの――舞台を見るためのものだから」
 赤い繻子のネクタイをひろく胸の前に結んでさげているピオニェールは、ちょっと素子の云っていることがわからない表情をした。
「それで見てもいいですか」
 素子は、オペラ・グラスをそのピオニェールにわたした。そして、もちかたや、二つのレンズの真中にある銀色の軸をまわして、距離を調節する方法などを教えた。
「やあ素敵だ! あんな隅が、まるで近くに見えらあ」

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