道標
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著者名:宮本百合子 

 朝飯がすむと、伸子は自分の部屋へかえって、くつろいだなりになって三時のアベードまでとじこもった。アベードのあと、八時の夜の茶の時間まで伸子と素子とは大公園の中を歩きまわったり、草のなかに長い間ねころがっていたりした。思いがけず往来で出会った作家のアレクサンドロフにつれられて、アレクセイ・トルストイのところを訪ねたりもした。アレクセイ・トルストイはピョートル大帝についての歴史小説をかいているところだった。マホガニー塗のグランドピアノのある客室に、すこし黄がかったピンクの軽い服を着た若づくりの夫人と十三四歳の息子がいた。トルストイの書斎にはプーシュキンとナポレオンのデス・マスクがかかっていた。タイプライターがおかれて支那の陶器の丸腰掛があった。プーシュキンのデス・マスクはともかくとして、ナポレオンのデス・マスクの趣味が伸子にわからなかった。
 伸子にわからないと云えば、パンシオン・ソモロフにとまっている人たちが、折々盛に話題にするコニー博士という学者のことも、伸子たちには分らなかった。下宿の食堂の壁に、コニー博士の寸簡が額に入れて飾ってあった。レーニングラード大学の歴史教授リジンスキー。法律の教授ヴェルデル。やせぎすの体にいつも黒い服をつけて姿勢の正しい老嬢エレーナ。夜のお茶の間などに主としてそういう人たちがよくコニー博士の追想を語りあった。なかでも老嬢のエレーナが故コニー博士を褒めるとき、いつも冷静にしている彼女の声が感動で波だった。少くとも老嬢エレーナにとってはコニー博士について話すときだけが彼女の感情を公開する機会らしかった。やがて伸子は、パンシオン・ソモロフの人々が云わず語らずのうちに一つのエティケットをもっていることに、気づいた。それは食卓で顔を合わす同士が、決してお互の過去にふれないこと、政治の話をしないこと、現在の職業にふれても、つっこんだ話はしないことなどだった。
 ところが、ある晩、ふとしたことからひとりでにこの掟が破られた。何かのはずみで一九〇五年の一月九日事件の話が出た。外国の民衆が、レーニングラード、その頃のペテルブルグの冬宮前広場でツァーの命令でツァーの軍隊によって行われた人民殺戮事件を、どんな風にうけとったかという風な話だった。高級技師の細君であるリザ・フョードロヴナが、二すじ三筋、白い髪の見えはじめたその年輩によく似合ったおだやかに深みのある声で、
「わたしは、こんなことをきいていますよ」
と話した。
「イギリスでね、一月九日の事件があったとき、ある大公が晩餐会を開いて居りました。食卓についている淑女・紳士がたの間に計らず『ロシアの事件』が話題になりましてね、当然いろいろの意見が語られたというわけでしたろう。すると、最後に当夜の主人である大公が、口を開いて『要するにロシアのツァーは政治を知っていない。そして人民たちは野獣にすぎないんだ』と云いました。その途端、お客たちのうしろで、いちどきにガラスのこわれる音がしました。今まで杯をのせた盆をもって、お客がたのうしろに立って給仕をしていた給仕頭が、人民たちは野獣にすぎないんだと主人が云った次の瞬間、真直に杯をのせた盆を自分の足許に投げすてたんです。そして、ひとことも口をきかず、ふりかえりもしないでその室を出てゆきました。――御承知のとおりイギリスの礼儀では子供と召使は見られるべきものであって、自分から口を利くべきものとはされて居りませんからね。――その給仕頭は適切な方法で自分を表現したというわけです」
 灰色の背広を着て、薄色の髪とあご髯とをもった歴史教授のリジンスキーが、すこしさきの赤らんだほそい鼻が特色である顔に内省的な、いくらか皮肉な微笑を浮べた。
「それは一九〇五年のエピソードであると同時に、その給仕頭の一生にとって恐らくたった一遍のエピソードじゃありますまいかね。――そこにディケンズの国の平穏な悲劇があるんだが……」
 老嬢のエレーナが、心のなかにかくされているいらだたしい何かの思い出でも刺戟されたように、
「大体エピソードというものをわたしたちはどのくらい信用したらいいんでしょう」
 テーブルの上においている右手の細い中指でテーブル・クローズの上を軽く叩きながら云った。
「エピソードに誇張が加えられなかったことがあるでしょうか――ほとんど嘘に近いほど……」
「お言葉ですが――御免下さい」
 袋を二つかさねたようなだぶだぶの顎をふるわして、パーヴェル・パヴロヴィッチが舌もつれのした云いかたでエレーナに答えた。
「わたくしは、全く誇張されない一つのエピソードをお話しすることができます」
 パーヴェル・パヴロヴィッチが、それだけのまとまった会話をはじめたということさえ、パンシオン・ソモロフの食堂では珍しいことだった。パンシオンの実際上の主人である大柄な老婦人と大柄でつやのぬけたようなその息子とは、いつも裏の部屋にだけ暮していて、パンシオンの客たちと食卓につくのは、古軍服をきた、中風症のパーヴェル・パヴロヴィッチだった。彼はテーブルで主人の席についているものの、ちっとも主人らしいところがなく、どっちかといえばその席に出されている主婦のかかりうどという感じだった。パーヴェル・パヴロヴィッチは、枯れた玉蜀黍の毛たばのような大きな髭を、二つめの胸ボタンのところからひろげてかけているナプキンで入念に拭いた。
「わたくしは、御承知のとおり軍隊につとめていまして――砲兵中佐でした。一七年には西部国境近くの小さな町に駐屯していました。われわれのところではペテルブルグでどんなことが起っているのか全然知っていませんでした。ところが、或る晩、二時頃でした。急にわれわれの粗末な営所へ武装した兵士の一隊がやって来ました。その頃は、どこへ行ったって武装した兵士ばかりでした。――ただその連中の旗がちがいました。赤い旗を彼等はもっています。ツァーはもういない。革命だ、と彼等は云います。しかし、私どもは何にも知っていない……」
 パーヴェル・パヴロヴィッチはそのときの困惑がよみがえった表情で、たれさがっている両頬をふるわせた。
「われわれの受けていた命令は国境警備に関するものでした。われわれは革命軍に対する命令は何も受けとっていなかったんです」
 きいている一同の口元が思わずゆるんだ。
「それで、どうなさいました? パーヴェル・パヴロヴィッチ」
 リザ・フョードロヴナが訊いた。
「御免下さい奥さん。――わたくしに何ができましょう。私には理解できませんでした。革命軍は将校をみんなひとつところに集めました。そして、その一人一人について、集っている兵士たちにききただしました。上官として彼等を苦しめるようなことをしたかどうか。将校は一人一人、連れ去られました。――おわかりでしょう? わたくしの番が来ました。わたくしはもう死ぬものと思って跪きました。私も将校ですから。ほかの将校たちよりよくもなければわるくもない将校であると思っていましたから。革命軍は、兵士たちにききはじめました。彼等を殴ったことはないか。無理な懲罰を加えたことはないか。支給品を着服したことはないか。――彼等の質問は非常に精密で厳格でした。私の額から汗がしたたりました。幸い、私は、質問される箇条のどれもしていません。ところが、やがて思いがけないことになりました。部下の兵士たちが、革命軍に向って、私を処罰するな、と要求しはじめたんです。私は親切な上官であったから殺さないでくれ。もし彼を殺さなければならないなら、われわれも殺してからにしろ、と叫びはじめました。革命軍は、永いこと彼等の間で相談しました。そして、わたくしはこうして生きています」
 パーヴェル・パヴロヴィッチの年をとったおっとせいのように曇って丸い眼玉に薄く涙がにじんだ。
「わたくしは、生きました。――しかし、私にはまだわからないようです」
 彼の左隣りの席にいる伸子をじっとみて、パーヴェル・パヴロヴィッチは一層舌をもつれさせながら云った。
「私が彼等を殴らなかったのは、私に、人間が殴れなかったからだけです。――概して、殴られるということがそれほど決定的な意味をもっているならば、どうして彼等は、あのときよりもっと前に、それをやめさせなかったでしょう――私は、殴れない人間だったのです」
 自分の恐怖や弱さを飾りなくあらわしたパーヴェル・パヴロヴィッチの話は、みんなに一種の感動を与えた。老嬢エレーナも、その話に誇張があるとは云わなかった。同時に、リジンスキー教授もヴェルデル教授も、兵士たちが、どうしてもっと前に将校の殴るのをやめさせることが出来なかったかということについては話題にしないまま、やがてテーブルからはなれた。
 伸子は、パーヴェル・パヴロヴィッチのエピソードから深い印象をうけた。それと同じくらいのつよさで、パンシオンの話術を感じた。この人たちの間には、品のいい話しぶりがあるのだ。
 翌る日のアベードの前、すこし早めに自分の室から出て来た伸子が素子と並んで、パンシオンの古風なヴェランダに休んでいた。隣りの家との間に扇形に枝をひろげた楓の大木があって、その葉かげを白い頁の上に映すような場所の揺椅子で、老嬢エレーナがフランス語の本をよんでいた。ヴェランダからは午後三時まえの人通りのない夏の日の大通りと、大公園の茂みと、そのそとの低い鉄柵が見えている。デーツコエ・セローの夏の日は果しなく静かである。
 そこへ、広間の方からヴェランダに向ってコトリ、コトリ、床に杖をついて来る音がした。元軍医の夫人ペラーゲア・ステパーノヴァがあらわれた。彼女は、心臓衰弱で、室内を歩くにも杖がいった。赤銅がかった髪を庇がみにして、どろんと大きい目、むくんだ顔色にいつも威脅的な不機嫌をあらわしている夫人は、灰色っぽい古軍服をきている良人に扶けられて、あいている揺椅子の一つにやっと重く大きい体をおさめた。
「ふ! わたしの心臓!」
 息をきらしながら、胸を抑えて頭をふった。一番近いところにいた老嬢エレーナが、ものを云わなければならなくなった。
「いかがです。また眠れませんでしたか?」
「――どこへ行ってもわたしに必要な空気が足りないんです」
「窓をあけてねると大分たすかりましょう」
 ペラーゲア・ステパーノヴァは、まるで侮辱でもされたように白眼に血管の浮いた眼を大きくした。
「わたしの心臓が滅茶滅茶になってから、十年ですよ。――できることなら壁さえあけて眠りとうござんすよ」
 暫くして、思いがけない質問がヴェランダのはずれにいる伸子たちに向けられた。
「日本にも、心臓のわるい人はどっさりいますか」
 伸子と素子とはちょっと間誤ついた。
「日本には、心臓病よりも肺のわるい人の方が多いでしょう」
 素子がそう答えた。ペラーゲア・ステパーノヴァにはその返事が不平らしかった。
「革命からあと、少くともロシアには心臓病がふえました」
 ふっと笑いたそうな影が伸子の口元を掠めた。
「わたしは一八年まではほんとに丈夫で、よく活動していました。あの火事までは。――ねえ、ニコライ。わたしの心臓は全くあの火事のおかげですね」
 古軍服と同じように茫漠とした表情の元軍医は、そういう妻の問いかけを珍しくもなさそうに、
「うむ」
と云った。
「もちろんそうですとも、ほかに原因がありようないんです」
 椅子によせかけてあったステッキをとって、コトコトとヴェランダの木の床を鳴らした。
「一八年にわたしどもはエストニアにいたんです。良人は病院長、わたしは婦長として。病院は、その村の地主の邸だったんですがね、何ていう農民どもでしょう? そこへ火をつけたんです。屋敷ばかりではなく、ぐるりの森や草原へまで――」
 息をきらして、ペラーゲア・ステパーノヴァは話しつづけた。
「その晩だって、わたしどもはちゃんと屋根に赤十字の旗を立てておきました。ねえ、ニコライ。わたしたちの赤十字の旗は二メートル以上の大きさがありましたね」
「うむ」
「わたしどもは、夢中になって負傷者や病人を火事の中から救い出しました。眉毛をやいたものさえいませんでしたよ。その代り、わたしどもは、ほんとうに着のみ着のまま」
 ペラーゲア・ステパーノヴァは揺椅子の上に上体をのり出させた。そして白眼に血管の走っている二つの大きな眼で、伸子、素子、老嬢エレーナをぐるりと見まわしながら、
「ほんとの一文なし!」
 むき出した歯の間から低い声で云って、左手の人さし指のさきを、拇指の爪ではじいた。
「革命は、わたしの心臓をこわしただけですよ」
 革命のときのことを知らない伸子の顔にしぶきかかるような憎悪がペラーゲア・ステパーノヴァの話ぶりに溢れた。伸子は食堂へゆっくり歩いて行く廊下で素子に云った。
「あんな話しかたって、実に妙ね。そんな一文なしになったのなら、どうしてこんなところに来ていられるんでしょう」

 リザ・フョードロヴナのところへ、良人の技師が来ることがあった。理科大学の上級生で、ラジオ放送局に実習生としてつとめている十九歳の娘のオリガが一晩どまりで来ることもある。赧ら顔に鼻眼鏡をかけ、頭を青い坊主刈りにして、いくらかしまりのない大きな口元に愛嬌を浮べながら社交的に話す技師が現れると、パンシオン・ソモロフの食堂の空気は微妙に変化した。日ごろは、いい意味でさえも野心の閃きというようなものが無さすぎる食卓に、技師は一種の騒々しさ、ソヴェト風な景気よさのような雰囲気をもたらした。細君であるリザ・フョードロヴナよりもむしろ軽薄で俗っぽい人物に見える技師がテーブルに加わると、その隣りに席のきまっているヴェルデル博士とリジンスキー教授の態度が目にとまらないくらい、より内輪になった。
 食堂のこういう小風景にかかわりなく、パンシオン・ソモロフで、いつもたゆまず同じように働いている人があった。それは女中のダーシャだった。パンシオン・ソモロフの人々の生活や感情にかかわりなく、日曜日ごとに天気さえよければ陽気にガルモーシュカを奏し、歌い、白藍横ダンダラの運動シャツの姿や赤いプラトークを大公園の樹の間がくれにちらちらさせて、日の暮まで遊んでゆく大群集があった。その群集について現れる向日葵の種売り、アイスクリーム屋が鉄柵のそとへ並んだ。その大群集や物売りたちは、日曜日になると、デーツコエ・セローの鬱蒼とした公園にうちよせるソヴェト生活のピチピチした波だった。伸子は、その波の波うちぎわにいる自分を感じながら、二つに畳める円テーブルの一つのたたみめを壁にくっつけて、ベッドに背中がさわりそうな僅のすき間で毎日少しずつ小説を書いた。

        三

 八月にはいって間もない或る雨の日のことであった。きのうも一日雨であった。しっとり雨をふくんだ公園の散歩道にパラパラと音をたてて木立から雨のしずくが落ちかかり、雨にうたれているひろい池の面をかなり強い風が吹くごとに、噴水が白い水煙となってなびきながらとび散った。
 人っこ一人いない雨の日の大公園で、噴水を白く吹きなびかせている風は、パンシオン・ソモロフのヴェランダのよこの大楓の枝をゆすって、雨のしずくを欄干のなかまで吹きこませた。この北の国の夏が終りに近づいた前じらせのように大雨が降っている古いヴェランダの端から端へとぶようにして、老嬢のエレーナと伸子とがマズルカを踊っていた。いつものとおり黒ずくめのなりをしたエレーナの細くて力のある手が、くいこむようにきつく伸子のふっくりした若い手をとらえていた。伸子には鉤(かぎ)のように感じられるその手でエレーナは伸子をリードして、黒いスカートをひるがえしながら、頭をたかくもたげ、伸子にはどこにも聴えていないマズルカの曲を雨と風とのなかにききながら踊る。ほそい赤縞のワンピースを着ている東洋風になだらかな丸い曲線をもった伸子の体は、エレーナの大きく黒く蝙蝠(こうもり)がとぶような動きに絡んでギャロップした。はげしい運動で薄く赧らんだ伸子の顔の上に恐怖があった。エレーナは、ほんとに発作のように立ち上って、教えてあげましょう、マズルカというものはこういう風におどるんです、と伸子の手を、いや応なくしっかりつかまえて踊りだした。そのときエレーナは伸子に、自分の若かったときの話をしていたのだった。オデッサで、大きい実業家だったエレーナの父親は、一人娘であったエレーナのために時々すばらしい宴会や舞踏会を開いた。昔、と云うのは革命前のことであるけれど、オデッサは、ロシアの小パリで、ペテルブルグよりも早いくらいにパリの流行が入った。エレーナはフランス製の夜会靴をはき、音楽と歓喜のなかで夜が明けるまでマズルカをおどった。話しているうちにエレーナの瞳のなかに焔がもえたった。あなたマズルカを知っていますか? いいえ。ああ。――いまはマズルカさえちゃんと踊る人がなくなってしまった。エレーナはひとりごとのように呟いて公園の森の方を見ていたが、不意にカン□ス椅子から立ち上り、教えてあげましょう。マズルカというものは、と伸子の手をつかまえて立ち上らせたのだった。
 いつも冷静に、厳粛にしているエレーナの黒服につつまれた細いからだには、こんな荒々しい情熱がひそんでいた。伸子はそのことにおどろかされた。エレーナとしては不意に中断されて、それっきりすっかり消えてしまった半生の最後に響いたマズルカの曲が、いまこの夏の終りの雨が降る人気ないヴェランダで伸子の手をつかんで立たせる衝動となってよみがえって来たのだろう。エレーナは非常に軽かった。彼女にはまだまだマズルカをおどるエネルギーがある。伸子はエレーナにリードされてヴェランダの床をギャロップしながらそう感じた。でも、いつ? そしてどこで? また誰とエレーナはマズルカを踊るだろう。彼女は昔よろこんで踊ったマズルカがあったことさえ今語ろうと思ってない。彼女にも憎悪があるのだ。ペラーゲア・ステパーノヴァの心臓のかわりに、エレーナは彼女のがんこな黒服をまとっている。説明ぬきで――説明するよりも雄弁に彼女が喪(うしな)ったもののあることを表徴して。折からさっと風がわたって来て大楓の枝がなびき、欄干の近くを踊りすぎる伸子の頬に雨のしぶきが感じられた。反対側の広間をよこぎって素子の来るのが見えた。真面目ないそいだ足どりで来た素子はヴェランダの伸子を認めると、手にもっている黄色い紙をふってみせた。エレーナもそちらへ注意をひかれた。マズルカの足どりは自然に消えて、エレーナと伸子とが片手はまだつなぎあったまま立ちどまったところへ、素子が、
「ぶこちゃん、電報だ」
 黄色い紙を細長い四角に畳んだものをわたした。
「電報? どこから」
「うちかららしい」
 伸子は、どういう風にエレーナの手をほどいたかも気づかないで、広間とヴェランダの境に立ったまま電報をひらいた。
 よみにくいローマ綴りを一字一字ひろった。シキウキチヨウアリタシ。――至急帰朝ありたし。――無言のまま二度三度、その文句を心の中にくりかえして見ているうちに、伸子は抵抗の自覚される心持になって来た。電文そのものが唐突で簡単すぎ、意味がつかめないばかりでなく、そういう唐突な電報でこんなに遠くで営まれている伸子の生活の流れが変えられでもするように思ううちのひとたちの考えが、苦しかった。
 伸子はエレーナに挨拶して、のろのろ素子と広間の寄木の床を部屋の方へ歩いた。
「どういうんだろう」
 電文をくりかえしてよんだ素子が、それを伸子にかえしながら、いろいろの場合を考えて見るように云った。
「何があったんだろう」
「さあ……」
 動坂のうちの人たちとして、伸子にそういう電報を打つだけの何かはあったのだろう。しかし、伸子は、その動機を、すぐに、自分の生活を変えるだけ重大なものとしてうけとる気持になれなかった。
 廊下のはずれにある伸子の室まで二人で来て、伸子はベッドに腰かけ、もう一遍電報を見た。やっぱり、シキウキチヨウアリタシとしか書かれていない。
「何てうちは相かわらずなんだろう。電報まで電話そっくりなんだもの――伸ちゃん、一寸話があるからすぐ来ておくれ。――ここにいるものにすぐ帰れなんて……」
 素子はタバコに火をつけて、それをふかしながら、窓の外を見てしきりに考えている。動坂の家を出て別に暮すようになってから、多計代からの電話というと、伸子にはきかない先から用がわかる習慣になってしまった。ああ、もしもし伸ちゃんかえ。ぜひ話したいことがあるから、すぐ来ておくれ。多計代のいうことはきまっていた。
 はじめの頃、伸子は呼び出されるとりつぎ電話の口で、ほんとに何か火急な用が出来たのかと思って、当惑したりびっくりしたりした。家の戸締りをして、留守に帰って来る佃のために書きおきして、住んでいた路地の間の家から急いで歩いて動坂の家へ行った。多計代の坐っている食堂に入りかけながら、伸子が息のはずむ声で、
「何かおこったの」
というと、多計代は一向いそがない顔つきで、
「まあお坐り」
と云うのだった。そして、やがて切り出される話は、伸子が佃と暮していた間は、佃や伸子についての多計代の不満だったり、臆測だったりした。素子と生活しはじめてからは、一体、吉見というひとは、という冒頭ではじまる同じような多計代の感情だった。三度にいちどは、気の重い話のでないこともあって、そういうとき多計代はほんとにただ娘と喋りたい気になって、よび出す口実に用があると云っただけらしかった。
 いずれにせよ、多計代のすぐ来ておくれ、は伸子にとって一つの苦手であった。素子にとっても。――伸子はそうしてよばれると、じぶくって出かけて、その晩は駒沢の奥までかえれず、翌る日、素子にそのまま話しかねるような多計代との云い合いの表情を顔にのこして戻って来るのだった。
 シキウキチヨウアリタシ。その電文をよんだ瞬間、伸子は反射的にぐっと重しがかかって、その場から動くまいとする自分を意識した。
「しかしぶこちゃん、こりゃ放っておいちゃいけないよ」
 素子が妙に居すわってしまったような伸子に向って云った。
「ともかく電報うって見よう。――あんまりこれだけじゃ事情がわからないから」
「なんてうつ?」
 しばらく思案して素子は、
「事情しらせ、とでも云ってやるか」
と言った。
「それがいいわ。じゃ、すぐ打って来る、正餐までに」
「いっしょに行ってやろう」
 伸子と素子とは、人通りのたえている雨の大通りをデーツコエ・セローの郵便局まで出かけて、問い合わせの電報をうった。レイン・コートをもっていない伸子たちは、うすい夏服の前やうしろをすっかり黒く雨にぬらして帰って来た。
「ぶこのおっかさんなんか、わたしがこうやって却って気をもんでることなんか知りもしないんだから……」
 毒のない不平の調子で素子が云った。
「ぶこちゃんが、これを放ってでもおいてみろ。無実の罪をきるのは、わたしさ」
 東京から返事の電報が来るまでには少くとも二三日かかるということだった。伸子は、シキウキチヨウアリタシに気をわるくしながら、やっぱり返事が気にかかり、落付けず、快活さを失った。夜、素子の室で話したりしているとき、自然その方へ話が向いた。
「まあ、返事が来てからのことさ。次第によったら、いやでも帰らなけりゃならないかもしれないが……」
「ひとりで?」
「――お伴しなくちゃならないというわけかい」
 一人で帰ることがいや、いやでないよりも、伸子にとっては今ソヴェトから帰るということが、うけ入れられないのだった。
「先にね、ニューヨークから急に帰ったとき、やっぱり、こんな風だったのよ。母がね、お産をしなければならないのに、こんどは非常に危険だと医者に宣告された、と云って来たんです。わたしはたまらなく心配になってね、無理やり一人で帰って来てみたら、とっくに赤坊は生れてしまっているし、母はおきてけろりとしていたのよ」
 あのときの残念な心持、たぶらかされたような切ない心持を伸子はまざまざと思いおこした。ニューヨークで、伸子がアメリカごろの洗濯屋と夫婦になったとか、身重になって始末にこまって結婚したとかいう風聞になやまされた佐々の両親は、多計代の出産ということを口実に伸子がいやでも、大学での研究が中途だった佃をのこして帰って来なければならないように仕向けたことだった。そのときから八九年たった今になって見れば、親たちのばつのわるい立場も苦肉策も伸子に思いやることができた。それでも、父や母が、二十一ばかりだった伸子のまじりけない娘としての心配ごころをつかんで動かしたということについては、思いが消えなかった。伸子は思うとおりに生きようとして親たちに抵抗する娘ではあったが、他人のなかでもまれて育った女とちがって、そういう子供の時分から習慣になっている肉親のいきさつでは案外もろかった。
 至急帰朝ありたし、と云って来るからには、何かあるのだろう。だが、伸子は、こんども自分の子供っぽさであわてさせられるのは金輪際いやだった。
「まさか、お父さんがどうかされたんじゃないだろうね」
 老年の父親をもっている素子が、次の日になってから、散歩している公園の橋の上でふっと云った。黙っていて、やがて伸子は確信があるように断言した。
「父じゃないわ、それはたしかよ。もしそんなことなら、別な電報のうちようがあるもの。――それに……たしかに大丈夫!」
 伸子は、もし万一父の身の上に変ったことでもあれば、あの電報があんなにはっきりとそれにさからう心持を自分におこさせる筈はないと思った。最近は父というものについても伸子の心にこれまでとちがった判断が加えられて来ていたけれども、まだ伸子は仲のいい父娘としての心のゆきかいを信じていた。多計代に変ったことのないのは、あの電文そのものが、多計代の娘に対する物云い癖をそのままあらわしていることでたしかだった。家族の一人一人の消息を心のうちに反復してみても、伸子には見当がつかなかった。モスク□を立って来るとき受けとったハガキで、保が、この夏は大いに自転車ものりまわし愉快にやってみるつもりですと書いてよこしていた。その文章も、伸子はよくおぼえていた。
 デーツコエ・セローの郵便局から伸子がジジヨウシラセと東京の家へ電報した三日目の夕刻だった。パンシオン・ソモロフの人々は茶のテーブルに向っていた。その午後、伸子は東京からの返電をまっている心持があんまり張りつめて苦しいので、素子につれ出されて四哩(マイル)も散歩して帰ったところだった。お給仕のダーシャから二杯目のお茶をうけとって、牛乳を入れているとき、玄関の呼鈴(よびりん)が鳴った。
 食堂とホールとの境のドアは、夏の夕方らしくパーヴェル・パヴロヴィッチの背後で左右に開けはなされている。食堂から玄関へ出て行ったダーシャが、戻って来ると、パーヴェル・パヴロヴィッチの左側をまわって、伸子の方へ来た。彼女の手に電報がもたれている。伸子は、思わずテーブルから少し椅子をずらした。
「あなたに――電報です」
「ありがとう」
 たたまれている黄色い紙をひらいて、テープに印刷されて貼られているローマ字の綴りを克明に辿ると、伸子はテーブル仲間に会釈することも忘れて食堂を出た。一足おくれて素子も席を立って来た。ホールの真中で伸子は電報をつきつけるように素子にわたした。八ガツ一ヒタモツドゾウチカシツニテシスアトフミ。
 ものも言わず二階へあがる階段に足をかけたら、伸子は体じゅうがふるえはじめてとまらなくなった。てすりにつかまって一段一段のぼって行きながら、伸子ははげしく泣き出した。泣きながら階段をのぼりつづけ、のぼりつづけて泣きながら、てすりにつかまっていない左手をこぶしに握って伸子は身をもだえるように幾度もいくたびも空をうった。何てことをしたんだろう。保のばか。保のばか。とりかえしのつかない可哀そうさ。くちおしさ。――よろよろしながら伸子は自分の室へ行く廊下を異常な早足で進んだ。もうじき室のドアというところで、伸子は不意に白と黒との市松模様の廊下の床が、自分の体ごとふわーともち上って、急に下るのを感じた。

 伸子にはっきり思い出せるのは、そこまでであった。それからどういう風にして自分がベッドへつれこまれたのだったか、素子が涙に濡れた顔をさしよせてしきりに自分の肩へかけものをかけてくれたのや、夜だったのか昼間だったのかわからないいつだったかに、素子が、ぐらぐらして体のきまらない伸子をベッドの上にかかえおこし、伸子の顔を自分の胸にもたせかけて、
「駄目じゃないか! ぶこ! どうするんだ、こんなこって! さ、これをのんで……」
 スープをひとさじ無理やりのまされたことなどを、きれぎれに思い出せるだけだった。それからもう一つ、自分がしつこくくりかえして、よくって? わたしは帰ったりしないことよ。よくって? と云ったことと、そのたんびに素子が、ああいいよ、わかってる、わかってる。と力を入れて返事して涙をこぼしたことなどを思い出すことが出来た。

 夢とうつつの間で伸子はまる二日臥ていた。どの位のときが経ったのかそんなことを考えてみる気もおこらないほど長い昼寝からさめたような気分で、伸子は三日目のひるごろ、ほんとに目をさまして自分の周囲をみた。
 伸子が目をさましたとき、その狭い室のなかには臥ている伸子のほかに誰もいなかった。明るい静かな光線が小さい室の白い壁いっぱいにさしていた。テーブルの上のコップに、紫苑(しおん)の花のような野菊と、狐のしっぽのような雑草とがさしてある。コップにさしてある雑草はあの日に、遠い野原で伸子が自分でつんだものだった。すべてのことが、はっきり伸子に思い出されて来た。八ガツ一ヒタモツドゾウチカシツニテシス。――保は死んでしまった。波のようなふるえがシーツにくるまって臥ている伸子の下腹から全身に立った。八ガツ一ヒ。鋭い刃もので胸をさかれる悲しさがあった。ドゾウのチカシツ。――
 胸に手をやって痛いところを抑えずにいられないほど悲しさは鋭いのに、伸子の眼からは不思議にもう涙がでなかった。そのかわり、まるであたりの空気そのものが悲しみそのものであるかのように、ちょっと体を動かしても、首をまわしても、伸子は息のつけないような悲しみのいたさを感じるのだった。
 足もとのドアがそっと開けられた。素子が入って来た。眼をあけている伸子をみると、
「めがさめた?」
 素子が強いてふだんの調子をたもとうとしている言いかたでベッドに近づいて来た。
「大分眠ったから、もう大丈夫さ。――気分ましだろう?」
「ありがとう」
「ともかく電報をうっといたから……」
 伸子の感情を刺戟しまいとして素子は事務的な方面からばかり話した。
「ぶこちゃんは帰らないということと、お悔(くや)みをうっといた」
「それでいいわ。ありがとう」
 次の日、素子に扶けられて、伸子はアベードの時だけ食堂へ下りた。食後、テーブルについていた人々が、一人一人伸子に握手して悔みをのべた。ロシアの人としては小柄で、頭のはげているヴェルデル博士は、彼の真面目な、こころよい黒い瞳でじっと伸子の蒼ざめている顔を見ながら、
「あなたが勇気を失わずに居られることは結構です。あなたはまだお若い。生きぬけられます」
 信頼をこめてそう云って、執ったままいる伸子の手の甲を励ますようにねんごろにたたいた。
「ありがとう」
 泣きださないで礼をいうのが伸子にやっとだった。ヴェルデル博士のやりかたは、あんまり父そっくりだった。泰造も、伸子の手をとることが出来たら、きっとそうして伸子と自分をはげましただろう。
 やがて、伸子は、食事のたびに食堂へ出るようになった。けれども、伸子の状態は、重い病気からやっと恢復しかかっているひとに似ていた。まだごくひよわいところのある恢復期の病人が、微かなすき間や気温のちがいに過敏すぎるとおり、伸子は人々の間に交って食卓に向っているようなとき、何か自分でさえわからないきっかけで、不意に「八月一日」とはっきり思うことがあった。するとたちまち悲哀のさむけが伸子の全身を顫(ふる)わせた。何心なくものをのみ込もうとしているとき、前後に何のつながりなくいきなり、保は死んでしまった、と思うことがあった。古くなって光った制服の太い膝をゆすったり、紺絣の着物の膝をゆすっているときの保、柔かい和毛のかげをつけた若いおとなしい口元、重いぽってりした瞼の形、可愛い保の俤(おもかげ)は迫って、伸子はものをのみこむどころか息さえつまった。伸子の悲しみは体じゅうだった。その体に風が吹いても悲傷が鳴った。
 喪服をつけるというようなことを思いつきもしなかった伸子は、相かわらず白麻のブラウスにジャンパア・スカートのなりで、素子の腕につかまりながら、ほとんど一日じゅう戸外で暮した。結局たれ一人、保が生きられるようにはしてやれなかった。この自責が伸子をじっとさせておかないのだった。ひとはてんでに、生きるようにして生きている。そのひとのなかに、兄の和一郎も姉の伸子も、父母さえもおいて保は一人感じつめたのだと思うと、伸子の唇は乾いた啜り泣きでふるえた。
 伸子は、保の勉強部屋の入口の鴨居に貼られているメディテーションという小紙に、あんなに拘泥していた。いつだってそれを気にしていた。だけれども、それだからと云って自分がソヴェトへ来ることをやめようとはしなかった。自分の生きることが先だった。デーツコエ・セローの大公園の人目から遠い池の上に架かった木橋の欄干にもたれて、そこに浮いている白い睡蓮の花を見ながら伸子は考え沈んでいた。
 保は、おそらく、あんなに執拗に追求していた絶対の正しさ、絶対の善という固定したものを現実の生活の中に発見できない自分と和解できなくて、死んでしまったのだろう。保が恋愛から死んだとは伸子にどうしても思えなかった。伸子がそう感じていたくらいだから、保の同級生はどんなにか佐々保を、家庭にくっついた息子だと思っていたことだろう。母の云うことにはがゆいばかり従順だった保が、母の情愛の限界も知って、死んだ。そのことも伸子のこころをひきむしった。越智がまだしげしげ動坂の家へ来て母が客間に永い間とじこもっているような頃、保が、伸子に向って、越智さんが来るとお母様どうしてお白粉(しろい)をつけるんだろう、と云ったことがあった。伸子はそのときのはっとした思いを忘られなかった。多計代は、誠実とか純潔とかいうことを保あいてに情熱的に話すのが大好きだったが、もしかしたら保は次第に母と越智との現実に、母の言葉とちぐはぐなこともあったことを感じはじめていたのではなかったろうか。保は、母の話におとなしく対手になりながら、あのふっくりした瞼のかげに平らかにおいた瞳のなかで母のために愧(はずか)しさを感じていたのではなかったろうか。
 相川良之介のように複雑な生活の経験がなく、また性格的に相川良之介のように俊敏でない保に、生きるに生きかねる漠然たる不安というようなものがあったとは伸子に思いかねた。二十一歳の保は、一本気に自分流の観念に導かれて、その生きかたを主張する方法として死ぬことを選んだのだったろう。いずれにしろ、保はもう生きていない。生きて、いない――何という空虚感だろう。その空虚の感じは伸子の吸う息と一緒に体じゅうにしみわたった。そして保がもういないという空虚感には、九つ年上の姉の伸子が、保というものを通じて、漠然と自分よりも年のすくない新鮮な男たちにつないでいたいのちの断絶も加わっていた。兄とはちがう姉の女の心が、三十歳の予感にみたされた感覚で、弟の大人づいてゆく肉体と精神に関心をよせていた思いの内には、そのこころもちをとらえて名づけようとするともう消えて跡ないようなにおやかさもあった。

 落胆のなかをさまようように、伸子はデーツコエ・セローの森のなかを歩きまわった。伸子のかたわらにはいつも素子がついていた。伸子の悲しみの深さで、日頃はちらかりがちな自分の感情をしんみりと集中させた素子が、伸子と一つの体になったような忠実さで、ついていた。伸子は折々びっくりして気づくのだった。こんなに素子がしてくれるのに、何時間も口をきかずにいて、ほんとにすまなかった、と。
「ごめんなさい――心配かけて」
 伸子は、心からそう言って素子の腕を自分のわきへおしつけた。
「いい。いい。ぶこ。よけいなことに気をつかうもんじゃない」
「だって……いまになおるからね」
「――いいったら!」
 しかし、しばらく歩いているうちに、伸子はまた素子のいることを忘れ、しかも伸子は素子の腕につかまって、やっと森かげの小みちを歩きつづけることができるのだった。
 日曜日になると、朝早いうちからいつものようにデーツコエ・セローの停車場へはき出された青年男女の見学団が、ぞろぞろとパンシオン・ソモロフのヴェランダの前の通りを通って行った。終日浮々したガルモーシュカの響がきこえ、笑い声や仲間を呼んで叫ぶ声々が大公園にこだました。伸子はそういう日は公園へ出てゆかず、パンシオンの古いヴェランダにいた。そして、自分をみたしている悲しさと全くあべこべでありながら、不思議な慰めの感じられるよろこばしげなざわめきに耳を傾けた。
 伸子がいるパンシオン・ソモロフのヴェランダから、ひろい通りをへだてた向い側に、大公園のわきの入口の一つが見えていた。楓の枝が房々としげった低い鉄柵のところに、桃色と赤とに塗りわけられたアイスクリーム屋が出ている。日曜日にだけ商売する屋台(キオスク)だった。その前で、二人の若いものが何か論判していた。コバルト色のスポーツシャツを着たいかにもコムソモール風な若者と、黄色と黒の横だんだらのこれもスポーツ・シャツで半ズボン、ズック靴の若者が議論している。往来の幅がひろいから伸子のいるヴェランダのところまで、二人の声はきこえなかった。何か言いながら力を入れてむき出しの腕をふったりしている動作だけが見えた。そのうちに黄色と黒の横だんだらの方の形勢がわるくなって来たらしく、その若者は、返答につまるたんびに頭の上にちょこなんとのっかっている白いスポーツ帽をうしろから前へつき出すようにしては喋っている。その動作にはユーモラスなところがあった。間もなく公園のなかから、六七人の仲間が駆けだして来た。ぐるりと二人はとりまかれた。黒い運動用のブルーマをつけて、赤いプラトークをかぶった三人の少女もまじっていた。コバルト色の青年がみんなに向って説明するように何か言った。黄色と黒の横だんだらも、帽子を前へちょいと押し出しておいて、何か訴えるように云った。一人の少女が、少し顔を仰向けるようにして、コバルト色の青年に向って何か言いながら、賛成しないような身ぶりで日やけした手をふった。黄色と黒との横だんだらに向っても同じようなことをした。それにつづいて新しく来て、二人をとりかこんだ青年の中の一人が何か言った。すると、そこにかたまっていた全部のものが、たまらなく可笑(おかし)くなったように大笑いした。赤いプラトークの少女は、とんび脚のように膝小僧をくっつけ合った上へ両手をつっぱって体を曲げて笑っている。コバルト色シャツの青年が、いく分苦笑いめいた顔でこれも笑いながら黄色と黒の横だんだら青年の背中を一つぶった。ぶたれた方は例によって、ちょいと帽子をうしろから押し出し、やがてみんなは一団になって公園へ入って行ってしまった。入れちがいに、赤いネクタイをひらひらさせてピオニェールの少女が二人、木の下からかけ出して来て、アイスクリーム屋の前へ行った。
 ヴェランダから見ていると、そのあたりの光景は絶えず動いていて、淡泊で、日曜日の森に集っている健康さそのもののとおりに単純だった。雰囲気にはかわゆさがあった。その雰囲気に誘いこまれ、心をまかせていた伸子は、やがて蒼ざめ、痛さにたえがたいところがあるように椅子の上で胸をおさえた。伸子は思い出したのだった。保の笑っていたときの様子を。愉快なとき保は両手で膝をたたいて大笑いした。にこ毛のかげのある上唇の下から、きっちりつまって生えている真白い歯が輝やいて、しんからおかしそうに笑っていた保。――その保は死んだ。もういない。
 ヴェランダから見ている伸子の視界に出て来たり、見えなくなったりしている若ものたちは大抵、十七八から二十ぐらいの青年や娘たちだった。この若い人たちの生は、何とその人たちに確認されているだろう。
 伸子は公園のぐるりの光景から目をはなすことができずに、そのヴェランダの椅子にかけていた。そこに動いている若さには若い人たちの生きている社会そのものの若さが底潮のように渦巻いているのが感じられて、デーツコエ・セローの日曜日は、たのしげなガルモーシュカの音を近く遠く吹きよこす風にも、保が偲ばれた。
 動坂の家のひとたちは、伸子と保とがどんなに一枚の楯の裏と表のようなこころの繋りをもって生きていたものであったかということについて、考えてみようともしていないであろう。或は多計代だけは考えているかもしれない。伸子のような姉がいるから、保はなお更思いつめずにはいられなかったのだ、と。誰か人があって、伸子に向い、同じことを言ってなじったとしたら、伸子はひとこともそれについて弁明しようと思わなかった。たしかにそれも事実の一つであろう。だけれども、それだけが現実のすべてだろうか。伸子が保に影響したというよりも、伸子は伸子らしく、それに対して保は保らしく反応せずにいられない今という時代の激しい動きがあるのだ。たとえば三・一五とよばれる事件で大学生が多数検挙されている。生れながらの調停派とあだ名されながらその恥辱の意味さえ彼の実感にはのみこめないような保が、保なりに、保流に、それについていろいろ考えなかったとどうして言えよう。保は、その一つのことについてさえも彼らしく各種の矛盾を発見し、そこに絶対の正しさをとらえられない自分を感じたことであろう。動坂の人々の生活の気風は、一定の経済的安定の上に流れ漂って、泰造にしろ、或る朝新聞をひろげてその報道に三・一五事件をよむと、そのときの短兵急な反応でその記事に赤インクのかぎをかけ、伸子へ送らせたりするけれども、つまりはそれなりで日が過ぎて行った。
 八ガツ一ヒタモツドゾウチカシツニテシスという電文をよんで気を失いかけながら、伸子がくりかえして、よくって? わたしは帰ったりしないことよ。よくって? とうわごとのように念を押した。それは伸子が自覚しているよりも深い本心の溢れだった。伸子という姉のいるせいで、保が一層保らしく生きそして死んだとしても、伸子は、その生と死においてやっぱり密着しつづけている彼と自分とを感じた。その保の死を負った伸子の生の感覚は動坂の誰にもわからないものであることを伸子は感じ、伸子に、いま在る自分の生の位置からずることをがえんじさせないのだった。
 その日曜日も、午後おそくなるとデーツコエ・セローの森じゅうにちらばっていた見学団が、再びそれぞれの列にまとめられた。誰も彼も朝来たときよりは日にやけ、着くずれ、一日じゅうたゆまず鳴っていたガルモーシュカの蛇腹(じゃばら)はたたまれて肩からつるされ、パンシオン・ソモロフの前の通りを停車場へ向って行った。一つの列が通っているとき、それに遮られてパンシオン・ソモロフの女中のダーシャが、腕に籠をひっかけて向い側の歩道に佇んでいるのがヴェランダから見えた。いつも葡萄酒色のさめた大前掛をスカートいっぱいに巻きつけて働いてばかりいるダーシャを、外光の中で見るのは珍しかった。ダーシャも、列に道をさえぎられた一二分にむしろ休息を見出しているように立って眺めている。このダーシャは、伸子が保の死んだしらせをうけとって、まだ自分の部屋で食事をしていたころ、朝食をのせて運んで来た盆をテーブルの上へおろすと、改めてエプロンで拭いた手を、ベッドにおき上っていた伸子にさし出した。そして、
「おくやみを申します」
と言った。
「弟さんが死なれましたそうで――おおかた学生さんだったんでしょうね」
 もう四十をいくつか越しているらしいダーシャは重いため息をした。
「もとは、こっちでもちょくちょくそういうことがあったものです。神よ、彼の平安とともにあれ」
 ダーシャは祈祷の文句をとなえて胸の上に十字を切った。
 もとは、こっちでもちょくちょくそういうことがあったもんですというダーシャの言葉と、学生さんだったんでしょうね、と疑う余地ないように言ったダーシャの感じとりかたが、伸子の感銘にきざまれた。もとはちょいちょい自殺するものがあって、その多くは学生たちだった頃のロシアの生活。ダーシャはその生活を生きて来た。そしていまデーツコエ・セローの歩道で、足もとから埃を立てながらぞろぞろ歩いてゆく若い男女見学団を見物している。それは日曜の平凡な街の風景にすぎなかった。けれども、その平凡さのうちには、伸子の悲しみに均衡する新しい日常性がくりひろげられている。

        四

 もう十日ばかりで伸子と素子とがパンシオン・ソモロフをひきあげようとしていた九月はじめ、伸子は東京からの電報以来、はじめての手紙をうけとった。丈夫な手漉(てす)きの日本紙でこしらえた横封筒に入れられ、倍額の切手をはられた手紙は厚くて、封筒は父の筆蹟であった。
 伸子は手紙をうけとると、素子と一緒に室にとじこもった。封筒を鋏できった。パリッとした白い紙に昭和三年八月十五日。東京。父より。伸子どの。と二行にかかれていた。わが家庭の不幸がありてのちいまだ日も浅く、母の涙もかわかざるとき、父としてこの手紙を書くことは、苦痛この上ありません。しかし、伸子も一人異国の空にてどのように歎いているであろうかと推察し、勇を鼓して、保死去の前後の事情を詳細に知らせることにした。泰造は、伸子が見馴れている万年筆の字でそう書いている。その万年筆は、ペン先がどうしたはずみか妙にねじれてしまっていたが、泰造はそれでもほかのよりは書きいいと云って、ねじれたペンを裏がえしにつかって書いていた。動坂の家庭生活のこまごました癖やそのちらかり工合までを伸子に思いおこさせずにおかない父の筆蹟は、肉体的な実感で伸子をつかんだ。
 今年も七月早々母は持病の糖尿病によるあせもの悪化をおそれて、例の如く桜山へつや子とともに避暑し、動坂の家にのこりたるは保、和一郎と余のみ。保は、二十日間のドイツ語講習会を無事終了。その二三日来特に暑気甚しく、三十一日の夜は和一郎、保、余三人、保の講習会を終った慰労をかねてホテルの屋上にて食事、映画を見物して帰った。その夜も保は映画の喜劇に大笑いし極めて愉快そうに見えた。
 三十一日はそうして過ぎ、泰造の手紙によると八月一日は、平常どおり泰造は朝から事務所へ、和一郎は友人のところへそれぞれ出かけた。父も和一郎も夕飯にかえって来たが、めずらしいことに保がうちにいなかった。女中にきくと、おひる前ごろ、保が筒袖の白絣に黒いメリンスの兵児帯(へこおび)をしめたふだんのなりで、女中部屋のわきを通り、一寸友達のところへ行ってくるよ、と出かけたことがわかった。昼飯はあっちで食うからいいよと保がいうので、晩御飯はどうなさいますかときいたら、保は歩きながら、それもついでに御馳走になって来ようか。少し図々しいかな、と笑って門の方へ出て行った。
 いつも几帳面に自分の出るとき帰る時間を言いおく保が、その晩はとうとう帰宅しなかった。八月二日になった。父は事務所に出勤。和一郎は在宅して、保が帰るのを心待ちしたが、その日の夕刻になっても保は帰って来ない。父が事務所から帰ったときは、和一郎が何となし不安になって、日頃保が親しくしていた二三人の友達の家へ電話をかけたところだった。保はどこへも行っていなかった。きのう来たというところもなかった。まして、家へ泊ったという返事をした友人はなかった。われらの不安は極度に高まり、二日夜は深更に到るまで和一郎と協議し、家じゅうを隈なく捜索せり。
 よみ終った頁を一枚ずつ素子にわたしながらそこまでよみ進んだ伸子は、鳥肌だった。和一郎とつれだった泰造が、平常は活動的な生活のいそがしさから忘れている家のなかの隅々や、庭の茂みの中に保をさがすこころの内はどんなだったろう。伸子は、白い紙の上にかかれている文字の一つ一つを、父の苦渋の一滴一滴と思った。
 三日の早朝、和一郎が念のためにもう一度土蔵をしらべた。そして、はじめて、土蔵の金網が切られていることを発見した。母の留守中土蔵の鍵は余の保管にあり。くぐりにつけられている錠はおろされたままで、くぐりごと土蔵の大戸を開けることの出来る場所の金網がきられ、それが外部からは見わけられないように綿密につくろわれていることがわかった。父と和一郎が土蔵へ入った。入ったばかりの板の間に、猛毒アリ、と保の大きい字で注意書した紙がおかれていた。地下室へ降りるあげぶたが密閉されている。そこにも猛毒アリ危険□ と警告した紙があった。
 保はかくの如く細心に己れの最期のあとまでも家人の安全を考慮し居たるなり。その心を思いやれば涙を禁じ得ず。動坂の家へ出入りしている遠縁の青年がよばれた。父と和一郎とは土蔵の地下室のガラスをそとからこわして、僅かなそのすき間から二つの扇風機で地下室の空気の交換をはじめた。土蔵の地下室の窓は、東と西とに二つあったが、どっちも半分地面に出ているだけだった。一刻も早く換気せんとすれども、折からの雨にて余の手にある扇風機は間もなく故障をおこし、操作は遅々としてすすまず。――涙があふれて伸子は字が見えなくなった。幾度も幾度もくりかえして伸子はそのくだりをよんだ。父の涙とまじって降る雨のしぶきが顔をぬらすようだった。
 動坂の家でそういう切ない作業がつづけられている間に、よばれた遠縁の青年が、福島県の桜山の家へ避暑している多計代の許へやられた。多計代をおどろかさないために、とりあえず、保さんはこちらに来ていませんか、とたずねて。
 つづけてその先へよみすすんで、伸子は涙もかわきあがった両眼をひきつったように見開いた。手紙をもっていた手が膝の上におちた。やがてまたそれを目に近よせて熱心によみ直した。保は三月の下旬に一度死のうとしたことがあって、さいわいそのときは未然に発見されたと泰造は書いているのだった。三月下旬のある晩、まだ高校が春休み中だった保もまじえて、みんなが賑やかに夜をふかし、保だけをのこして、両親は二階の寝室へあがった。寝ついてしばらくたったとき、泰造はふと、いつも眼鏡、いれ歯、財布、時計などを入れて枕もとにおく小物入れの箱を食堂へおきっぱなしにして来たのを思い出した。泰造が階下へおりて食堂へ行こうとすると、真暗な廊下にひどくガスのにおいがした。廊下をはさんで食堂と向い合いに洋風の客間があって、そこにガスストーブがおかれている。泰造はそれを思いだしてスウィッチをきって、客間の電燈をつけた。そして、内から鍵をかけたその室にガスの栓をあけ放して保が長椅子の上に横になっているのが見つけられた。保は廊下に面した小窓が外からあくのを忘れていたのだった。その夜は母も保も共に泣き、余も思わずもらい泣きをした。こういうことがあったから、東京から行った若いものが多計代に、保さんはこっちへ来ていませんか、ときけば、それで十分母の多計代にとって保の身に何事かあったという暗示になる。そのいきさつの説明として泰造は伸子への手紙に書いているのだった。
 なんということだったろう。そんなことがあったのに、長い夏休みじゅう、留守で、がらんとした、男と女中ばかりの動坂の家へ保を一人おいておくなんて。伸子には、そんなうかつさを信じられなかった。三月に、死のうとした保が見つかったとき、母も保も共に泣き、余も思わずもらい泣きをしたと泰造は書いている。それきりで、泰造や多計代が、どんなにして死のうとして失敗した息子の保をなぐさめ、愧しさから救い、生きる方向へはげましたかということについては、書かれていない。多計代は、そのとき保とともに心ゆくばかり泣いて、死のうとした保の純情に感動して、それで自分としてはすんだように思ってしまっていたのではなかろうか。さもなくて、どうして、夏、がらんとした動坂の家へ保をおいて自分たちだけ田舎へ行ってしまう気になれたろう。伸子は、くちおしさに堪えなくて、自分の拳(こぶし)で自分のももをぶって、ぶった。伸子たちがモスク□へ来る年――去年の夏、相川良之介が自殺したのも八月だった。その何年か前武島裕吉が軽井沢で自殺したのも八月だった。どちらのときも、その前後は、ことのほか暑気きびしく、と書かれた。ほんとに保が多計代の情熱の子(パッショネート・チャイルド)ならば、何かの不安から保のそばをはなれかねる気分が多計代になかったという方が、伸子にすれば納得しかねた。父の泰造も、三月のとき、保に自殺の計画をわすれさせ、生きさせるために何一つ強硬な努力を試みていない。――ほとんど、ずるずるに、こんどのことまで来ている。保がメロンの駆虫用ガスの効果をしきりに研究していたことについても何一つ勘を働らかせないで。――
 去年の夏、相川良之介が死んだとき発表された遺書を、もちろん保も読んだだろう。その遺書の中に、生きるためだけに生きるみじめさ、と書かれた観念は、全く同じ内容ではないにしろ、保の日頃の考えかたと符合していた。あのとき、伸子はそのことを考えて不安だった。相川良之介の葬儀のかえり動坂へよったら、保が、涼しいからと云って土蔵の地下室を勉強部屋にしていた。そのことも、不吉感として迫った。その不吉感がつよいだけに却って伸子はこわくてそれを母にも素子にも云えなかった。きょうとなってみれば、予感にみたされていたのは一番自分だった。伸子は自分にさしつけられた事実としてそれを認めた。だのに、自分はつまるところ保のために何もしなかった。自分はソヴェトへ来てしまった。――自分が生きるために。
 自分の悲しみに鞭をあて、感傷の皮をひっぺがそうとするように、伸子はきびしく先をよんで行った。父の手紙には、悲歎にくれる多計代の姿はひとつも語られていなかった。桜山へ行った青年から保が来ていないかときかれて、あることを直覚した母は、つづけて届いた保キトク、保シキョの電報を、むしろ落付いてうけとった。母は急遽つや子同伴、桜山より帰京した。その夜は、清浄無垢な保に対面するには心の準備がいるとて一夜を寝室にこもり、翌朝はやく紋服に着かえ、保の柩(ひつぎ)の安置されている室へ入った。
 伸子はそのくだりをよんで恐ろしいような気がした。多計代の悲しみかたは、泰造や伸子のむきだしのおどろきや涙と何とちがっているだろう。死んだ保を崇高なものとして、保のその心は自分にだけわかっていたというように、とりみださなかった母としての多計代の態度は伸子を恐怖させた。多計代が悲歎にとりみださなかったということは、伸子に、口に言えない疑惑をもたせた。多計代は、いつか保が生きていなくなることをひそかに覚悟していたとでもいうのだろうか。その覚悟をもちながら、暑くて寂しい八月の日に保を一人にしておいたとでもいうのだろうか。清浄無垢な保にふさわしい母として荘重にふるまおうとしている多計代のとりなしは、父の手紙をとおして伸子に胸のわるくなるような母の自己満足を感じさせた。かあいそうな保を抱きとって死ぬまで生きた心を劬(いたわ)り泣く母はいなくて、場ちがいに保をあがめ立て、その嵩だかさで人々の自然な驚愕の声を圧しているような母の姿は、伸子に絶望を感じさせた。伸子は、素子がそこを読み終るまで、うつろな眼をひらいて自分の前を見ていた。
 手紙の最後に、泰造は、伸子が帰朝しないと電報したことに対して意見をかいていた。寂寥とみに加わったわが家に、溌剌たる伸子の居らざることはたえがたいが、考えてみれば、伸子の判断にも一理ありと信じる。たとえ伸子がいま帰朝したにせよ、すでに逝いた保の命はよみがえらすに由ない。おそらくは保も、姉が元気に研究をつづけることを希望しているだろう。われら老夫妻も保とともにそれを希望するこころもちになって来た。何よりも健康に注意して暮すように。泰造は、はじめて自分たちを、われら老夫妻とかいている。最後の白い書簡箋を素子にわたして、伸子は両手で顔をおおった。

        五

 伸子は、思いにとらわれた心でパンシオン・ソモロフの食卓につらなっていた。妙に長くて人目立つ鼻にお白粉を塗って、白ヴォイルのブラウスの胸に造花の飾りをつけたエレーナ・ニコライエヴナが、小さくて黒く光る眼をせわしく動かしながら耳だつ声でトルストイが最後に家出した気持は理解できるとか出来ないとか盛に喋っている。あの雨の日のヴェランダで伸子の手をつかんで蝙蝠の羽ばたきのようにマズルカをおどった老嬢エレーナは、彼女の休暇を終って美術館の仕事に戻って行った。新しく来たエレーナ・ニコライエヴナは、レーニングラードのどこかの映画館でプログラム売りをしていた。三十三四になっている彼女は、自分からそのいかがわしい職業を披露した。彼女の出生がいいためにソヴェト社会ではそんな半端な職業しか許されない、と軽蔑をこめた註釈を添えて。
 香水をにおわせているエレーナ・ニコライエヴナとトルストイ論の相手をしているのはリザ・フョードロヴナの良人(おっと)の技師であった。すぐ隣りの席で、だまったまま薄笑いしている歴史教授リジンスキーをとばして、鼻眼鏡をかけて髭のそりあとの青い顔をテーブルの上へつき出しながら技師はエレーナ・ニコライエヴナに言っている。
「トルストイが家庭に対してもっていたこころもちは私にはわかりますね。――理解のふかいあなたに、彼の心がわからないというわけはないと思います」
「まあ」
 エレーナ・ニコライエヴナは、自然にうけとれない亢奮をかくした笑顔で、
「でもそれは良人として、父親として家庭への義務を忘れたことですわ。ねえ、リザ・フョードロヴナ」
と、いきなりテーブル越しに、伸子のわきにいる技師の細君に話しかけた。
「――トルストイの場合として、わたしは理解されると思いますよ」
 リザ・フョードロヴナはおだやかにフォークを動かしながらいつものしっとりとした声で、エレーナ・ニコライエヴナを見ないで答えている。そこには何か感じられる雰囲気があるのであった。
 伸子は、その雰囲気を感じながら同時に自分自身の思いに沈んだ。保の死んだ前後のいきさつをこまかく書いた泰造からの手紙をよんでから、伸子にはあのことも、このこともと思いあたることばかりだった。

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