道標
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著者名:宮本百合子 

 エイゼンシュタインの映画やメイエルホリドの舞台と、どこか共通したようなところのある伸子の文体は、伸子自身にとって馴れないものだった。けれども、生活の刺戟は、ひとりでに伸子にそういう様式を与え、伸子は、そうしかかけなくて書いているのだった。
 伸子がモスク□に生きている現実のいきさつを辿れば、モスク□は伸子が印象記にかいているように伸子のそとに見えている現象だけのものではなかった。伸子は眼から自分の中へ様々のものをうけ入れ、自分というものをそれによって発掘してもいた。たとえばゴーリキイ展のときのように。しかし、そのようにして一人の女の内面ふかく作用しながら生かしているモスク□として印象記を描き出す力は、伸子にまだなかった。伸子には影響をうけつつある自分がまだはっきり自分につかめていなかった。伸子はおのずからの選択で主題を限ってその印象記を書いているのだった。
 伸子が、復活祭(パスハ)の夜群集の中で目撃した婆さんと若い娘の口争いをかき終ったときだった。ドアをたたくものがあった。
「はいっていいですか」
 ニューラのしめっぽい声がした。伸子はけさの泥棒さわぎを思い出した。警察犬が来たのかと思った。そういう職業人に、その人々によめない日本字でうずめられた原稿を見られたくなかった。伸子はいそいで椅子から立ち、紙ばさみのなかへ原稿をしまいながら、
「お入りなさい」
 改まった声をだした。
 入って来たのはニューラだけだった。泣いて唇の腫(は)れあがった顔つきではいって来た。
「どうしたの? ニューラ」
 また椅子に腰をおろした伸子のわきに、だまって自分の体をくっつけるようにして佇んだ。ニューラの着ているものからは、かすかに台所の匂いがした。警察犬が、いま来るかいま来るかと思いながら一人ぽっちで台所にいるのが、ニューラに辛抱できなくなって、到頭伸子のところへ来たことは、室へ入って来たものの、そのまま途方にくれたようにしているニューラのそぶりでわかった。
「ニューラ。こわがるのはやめなさい。犬は正直だから、ニューラのところに洗濯ものなんかかくしてないことはよくわかることよ」
 そうはげまされてもなお半信半疑の表情で、窓からフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根を眺めていたニューラは、
「奥さんは、わたしを疑っているんです」
 深く傷つけられて、それを癒す道のない声の調子でつぶやいた。
「奥さんは、わたしが不正直でも九ヵ月つかっていたでしょうか」
 すすり泣くように大きな息を吸いこんでニューラは、
「ああ。悲しい」
と全身をよじるようにした。
「いつだってあのひとたちはそうなんです」
 ニューラは、気の上ずったような早口で喋りはじめた。伸子たちがここへ移って来る前、オルロフという山羊髯の気味のわるい男の下宿人がいた。山羊髯のオルロフは何でも特別彼のためのものをもっていた。ニッケルの特別な彼の手拭かけ。特別な彼の葡萄酒コップ。そして、彼はいつでも机の上へバラで小銭をちらばしていた。
「あのひとは何故、小銭をそうやって出しておかなけりゃならなかったでしょう――わたしがとるのを待っていたんです。わたしをためしているのがわかっていたんです。朝と夜の時間に、あのひとは何度わたしを呼びたてたでしょう。可愛いニューラ、どうぞこれをしておくれ。親切なニューラ、あれをしなさい」
 ニューラは憎悪をこめて、「可愛いニューラ、どうぞこれをしておくれ」「親切なニューラ、あれをしなさい」と云うときの山羊髯のオルロフという男の口真似をした。
「口でそう云いながら、眼はいつだってわたしを睨んでいたんです。いつだって――笑うときだって、あのひとは唇でだけ笑ったんです」
 伸子は、時計を見て、立ちあがった。
「ニューラ、わたし正餐(アベード)のために出かけなくちゃならないわ」
 ニューラは、自分が用もないのに伸子のところに来ていたことが急に不安になった風で、
「お嬢さん(バリシュニヤー)」
 哀願するように伸子を見た。
「わたしがこんなこと話したって、どうか奥さんに云わないで下さい」
「心配しないでいいのよ、ニューラ。――でもあなたは淋しいのよ、一人ぼっちすぎるのよ、だから、あなたには組合がいるのに」
 室を出て行こうとするニューラに伸子は、外套を着ながら云った。
「犬が来ても、あなたは自分が正直なニューラだということを考えて、こわがっちゃ駄目よ」
 四時に、伸子は素子とうち合わせてある菜食食堂の二階へ行った。普通の食堂とちがってあんまり混んでいない壁際の小テーブルに席をとり、その席へこれから来る人のあるしるしに向い側の椅子をテーブルにもたせかけた。モスク□の気候が春めいて来てから、素子は、日本人の体にはもっと野菜をたべなければわるい、と云いはじめた。そこで、三日に一度は菜食食堂へ来ることになったのだった。
 素子の来るのを待ちながら、伸子はそこになじむことのできない詮索的な視線であたりを眺めていた。モスク□でも食堂へ来て食べるひとは、女よりも、男の方が多かった。ここでも大部分は男でしめられているのだったが、菜食食堂でたべる男たちは、概してゆっくり噛んでたべた。連れ同士で話している調子も声高でなく、よそではよく見かけるように食事をそっちのけで何かに熱中して喋り合っているような男たちの光景は、ここで見られなかった。常連の中には、髪を肩までたらしたトルストイアンらしい風采の男もある。伸子がみていると、菜食食堂へ来る人は、みんな体のどこにか故障があって、内心に屈託のある人のようだった。さもなければ、自分の食慾に対して何かその人としてのおきてをもち、同時にソヴェト政権の驀進(ばくしん)力に対しても何かその人だけの曰くを抱いていそうな人たちだった。こういう会食者たちに占められている菜食食堂の雰囲気は、体温が低く、じっとりと人参やホーレン草の匂いに絡み合っているのだった。伸子は落付きのわるい顔をして、ちょいちょい食堂の壁の高いところについている円い時計の方を見あげた。
 素子は二十分もおくれた。
「ああおそくなっちゃった。何か註文しておいた?」
「あなたが来てからと思って……」
「じゃ、すぐたのもうよ」
 二人は薄桃色の紙によみにくい紫インクでかかれた献立表を見て食べるものを選んだ。
「どうした? 来たかい?」
 泥棒詮議のことを素子が訊いた。
「わたしが出かけるまでは何にも来なかったわ」
 素子は存外こだわらず、
「ま、いいさ」
と云った。
「われわれの部屋だって鍵ひとつないんだから、犬に嗅がせるなら嗅がしてみるさ」
 アストージェンカの室へ移ってから、伸子と素子の生活条件は、一方では前よりわるくなった。室はせまくてぎゅうぎゅう詰めだし、テーブルは一つしかないのを、二人で両側から使っている有様だった。けれども新しい生活のそんな窮屈ささえもモスク□ではあたりまえのこととして伸子が却って落付けたように、素子もアストージェンカへ来てから、大学の講義をききはじめ、神経質でなくなった。泥棒さわぎにしろ、そのことに伸子がいくらかひっかかっているような状況だのに、素子はその点を伸子がひそかにおそれたよりも淡泊にうけた。
 菜食食堂を出て伸子と素子とは散歩がてら大学通りの古本屋へまわった。よごれた白堊の天井ちかくまで、三方の壁を本棚で埋めた広い店内はほこりぽくて、夜も昼も電燈の光で照らされていた。入れかわり立ちかわりする人の手で絶えず上から下へとひっくりかえされている本の山のおかれている台の脚もとに、繩でくくられたクロポトキン全集がつまれていた。伸子は偶然、一九一七年から二一年ごろに出版された書物だけが雑然と集められている台に立った。その台には、ひどい紙だし、わるい印刷ではあるが、この国内戦と飢饉の時代にもソヴェトが出版したプーシュキン文集だのゴーリキイの作品集、レルモントフ詩集などが、今日ではもう古典的な参考品になってしまったプロレトクリトのパンフレットなどとまじっている。
 伸子がその台の上の本を少しずつ片よせて見ているところへ、素子が、より出した二冊の背皮の本をもって別な本棚の方から来た。
「なにかあるのかい」
「――この間のコロンタイの本――こういうところにならあるのかしら」
「さあ。――何しろもうまるでよまれてないもんだから、あやしいな」
 素子が勘定台へ去ったあと、なお暫く伸子はその台の本を見ていた。
 一週間ばかり前日本から婦人雑誌が届いた。それに二木準作というプロレタリア作家が、自分の翻訳で出版したコロンタイ夫人の「偉大な恋」について紹介の文章を書いていた。二木準作は、その作家もちまえの派手な奔放な調子でコロンタイの恋愛や結婚観こそ新しい世紀の尖端をゆくモラルであり、日本の旧套を否定するものはコロンタイの思想を学ぶべきであるというような意味が、若い女性の好奇心や憧憬を刺戟しながら書きつらねられていた。
 アストージェンカの室でその文章をよんで、伸子は一種のショックを感じた。伸子たちがモスク□へ来た時、コロンタイズムは十年昔の社会が、古いものから新しいものにうつろうとした過渡期にひき出された性的混乱の典型として見られ、扱われていた。むしろ、性生活の規律や結婚の社会的な責任、新しい社会的な内容での家庭の確立のことが、くりかえしとりあげられていた。「偉大な恋」はコロンタイ夫人が、国内戦の時代にかいた小説だった。その中で、新しい性生活の形として、互の接触のあとには互に何の責任ももたず、結婚、家庭という永続的な形へ発展する必要も認めないのが、唯物論の立場に立つ考えかただという観念がのべられている。その誤りは、本質的に批判されていた。唯物的であるということの現実は、めいめいの恋愛や結婚そして家庭生活の幸福の基礎が、働いて生きる男女の労働条件が益々よくなってゆくこと、社会連帯の諸施設がゆきわたり、住宅難、食糧、托児所問題などがどしどし解決されてゆくその事実に立つものだということが、いつか自然と伸子にものみこめて来ていた。あらゆる場面でそれはそのように理解されているのだった。
 婦人雑誌の上で二木準作のコロンタイズム礼讚の文章をよんで伸子が感じたショックは、十年おくれの紹介が野放図にされているというだけではなかった。伸子は女としてその文章をよんだとき、本能的ないとわしさを感じ、胸が痛む思いがした。プロレタリア作家だという二木準作は、社会主義というものに対して責任を感じないのだろうか。伸子は、二木という人物の心持をはかりかねた。伸子たちが日本を去る頃、マルクスボーイとかエンゲルスガールだとかいう流行語があった。伸子はあんまり出会ったことがなかったが、菜っ葉服をきた若い男女が銀座をのしまわすことが云われていた。その時分、ジャーナリズムにはエロ、グロ、ナンセンスという三つの言葉がくりかえされていた。コロンタイズムを紹介している二木準作の調子は、その三つの流行語のはじめの一つと通じているようだった。伸子の女の感覚は、それを扱っている二木準作の興味が理論にはなく、そういう無軌道な性関係への男としての興味があると感じた。もっとつきつめて云うと、日本の男の古来の性的放恣(ほうし)に目新しい薬味をつけ、そういう空想にひかれて崩れかかる若い女たちの危さを面白がるような気分を、伸子はよみとったのであった。もし、もっともっと社会的に保証された男と女とその子供たちとが、たのしく安全に生きて、社会に価値のある創造をしてゆくよりどころとしての家庭を確立させなくていいのなら、コロンタイがいうように結婚や家庭や子供がけちらされてしまっていいものなら、社会主義なんかいりはしない。伸子は激情を動かされて素子を対手に議論した。
「生産手段と政権をプロレタリアートがとれば社会主義だなんかと思っているんなら、それこそバチが当る、……人間は、それだけのためにこんな苦労をしてやしないわよ、ねえ。人間の心も体も、個人と社会とひっくるめて、ましに生きようと思うからこそ、骨を折っているのに……」
 伸子は二木準作をしんからいやに感じる心の一方で思うのだった。ソヴェトにある数千の托児所や子供の家、産院は何を意味して居るだろうか、と。数百の食堂は不十分ではあっても働く女の二十四時間にとって何を語っているだろう。結婚の社会的な責任が無視されているならば、無責任な父親である男に課せられているアリメントの法律的な義務は存在するはずがない。
 伸子が、二木準作のコロンタイズム宣伝について憤懣する心の底には、そのとき云い表わされなかった微妙な女の思いがあった。伸子は佃とああいう風に結婚し、ああいう風にして離婚した。もう四年素子と二人の女暮しをして、伸子は、どういう男の愛人でもなかった。恋や結婚の問題は、伸子のいまの身に迫っていることではないようだった。そして、もし伸子に質ねる人があったら、伸子はやっぱり、いま結婚を考えていないと答えたであろう。その返辞は偽りでなかった。佃が悪い良人だったから伸子が一緒に暮せなかったのではなかった。佃は常識からみればいい良人であった。しかし伸子には佃のそのいい良人ぶりが苦しいのだった。平和で不自由のない家庭を自分たちだけの小ささで守ろうとすることに疑問のもてないいい良人ぶりが、伸子を窒息させたのだった。それ故、伸子がいま結婚を考えていない心には、佃とは別な誰か一人の男を見出していない、というよりも、伸子が経験した結婚とか家庭とかいうそのものの扱われかたに抵抗があるのだった。
 モスク□へ来て半年近くなる伸子の感情には、結婚や家庭のありかたについて、ぼんやりした新しい予測と、同時に、どこかがちぐはぐな疑問が湧いて来ていた。伸子がみるソヴェトの生活で、たしかに社会的な施設は幸福の可能に向って精力的につくり出されていた。だけれども、彼女のふれたせまい範囲では、伸子の女の気持がうらやましさで燃え立つほど、新鮮でゆたかな結合を示している男女の一組を見たと思ったことはなかった。ルイバコフの夫婦にしろ、ケンペル夫妻にしろ、そして、並木道(ブリ□ール)をぞろぞろと歩いている無数の腕をくみ合わせた男女たちにしろ。
 然し、そういう何の奇もない男と女とが、平凡な勤勉、多忙、平凡な衝突、平凡な移り気や官僚主義など、ソヴェト風な常套の中に生きている姿の底を支えて、伸子が生きて来た日本の社会では、どんな秀抜な資質のためにも決して存在しなかった一人一人の女の、働く女として、妻として、母として、お婆さんとしての社会保護が、社会契約で実現されていることに思い及ぶと伸子はやはり感動した。自分も女であるということに奮起して、伸子は元気を与えられるのだった。伸子の心の中にいくらかごたついたまま芽生えはじめた女としての未来への期待、確信めいたものが、二木準作のコロンタイズムに対して、女にだけわかる猛烈さで抗議するのだった。
 コロンタイの本は、結局その古本屋にもなかった。帰って来て、ルイバコフのベルを鳴らすと、ドアをあけたニューラの顔が明るかった。すぐ素子が、
「どうした? ニューラ?」ときいた。
「犬に嗅いでもらったかい?」
 するとニューラは、うしろをふりかえってルイバコフたちの住んでいる室のドアがしまっているのをたしかめてから、
「わたしには犬の必要がなかったんです」
 小声で、勝ちほこって云った。
「あの人たちは、よその家の敷布もどっさり盗まれているのを見つけたんです――御覧なさい! あの人たちはいつもあとから分るんです」
 うれしくて仕方のない感情を、ほかの仕草であらわすすべを知らないニューラは、いそいで廊下を先に立って行って、伸子と素子とのための二人の室のドアをあけた。

        六

 メーデイの日のために、伸子たちは対外文化連絡協会から、赤い広場への入場券をもらった。
 その朝はうす曇の天候で、気温もひくかった。モスク□の街々では電車もバスもとまった。辻馬車の影もないがらんとした通りを、赤い広場へむかって、人々がまばらにいそいで行く。行進をする幾十万という人々は、みんなそれぞれの勤め先から旗やプラカートをもってくり出して来るから、ばらばらに赤い広場の方へ歩いているものはごく少数で、しかも何かの事情で行進には参加しない連中らしく見うけられる。伸子と素子も、そのばらばらの通行人にまじって、中央美術館前の大通りを、アストージェンカから真直に赤い広場へ歩いて行った。
 うすら寒いような五月一日の天気にかかわらず、歩道をゆく人々は、今朝はすっかり夏仕度だった。くすんだ小豆色のレイン・コートじみた合外套にハンティングをかぶった男連のシャツやルバーシカは、白かクリーム色だった。女の半外套の下からは、寒くないのかとびっくりするような薄い夏服の裾がひらめいた。伸子たちのすぐ前を、黒い半外套の下からヴォイルのような夏服を見せた三人づれの若い娘たちが歩いて行っていた。三人おそろいのプラトークで頭をつつんで、派手なその結びめが、大きい三つの蝶々のようにひらひらする。それを追うように伸子たちも無言で速く歩いた。午前十時から赤い広場の行進がはじまる、その三十分前に、参観者たちは広場の中のきめられた場所へ到着しているように指定されているのだった。
 猟人広場まで来ると、もうトゥウェルスカヤ通り一杯につまって、行進が定刻の来るのを待機していた。大きい赤地のプラカートをもった行進の先頭はトゥウェルスカヤ通りが猟人広場に向ってひらく鋪道のギリギリの線まで来ていて、ゆるく上りになっている通りをずっとかみてへ見渡すと、トゥウェルスカヤ通りは、目のとどく限り人と赤い旗の波だった。左右の高い建物の窓から窓へとプラカートが張りわたされている。広場をこして大劇場通りの方を眺めると、こっちにはモスク□の商業地帯、官庁地帯から出て来た幾列もの行進で、赤く賑やかにつまっている。いまにも溢れんばかり街すじに漲っている巨大なエネルギーを堰(せ)きとめて、特別清潔に掃除されている猟人広場の石じきの空間は、けさ全く人気が少なかった。ところどころに、整理のための赤軍兵と民警が立っているだけだった。
 きれいに掃かれてがらんとしている猟人広場を横ぎって赤い広場の方へ歩いて行きながら、伸子はたがいちがいに運ぶ自分の脚の短かさを妙にぎごちなく意識した。伸子はこれまでに、人間のこんな陽気な大群集を観たことがなかったし、その大群集がこんな秩序をもって待機している光景を見たことはなかった。まして自分が、特権でもあるように、箒目(ほうきめ)の立った清潔な広場を整理員に見まもられながらよこぎってゆく経験ももっていなかった。伸子は、厳粛な顔つきで、赤い広場の右側、クレムリンの外壁沿いにつくられている観覧者席へ入って行った。
 各国の外交団のための観覧席と、伸子たちの入った民間日本人の観覧席との間に、赤い布で飾られた高い演壇がこしらえられていた。そこがソヴェト政府の指導者たちの立つところらしかった。そこはまだ誰も見えていない。
 太い綱をはって、広場の片隅を区切っているだけの観覧席には、秋山宇一、内海厚、そのほか新聞関係の人とその細君などが先着していた。
「や、来られましたね」
 ハンティングをかぶった秋山宇一が、入って来た伸子たちに向ってうなずいた。
「あいにく、寒いですね」
「それでも降らなかったから大助りですよ」
 素子が答えながら、はすうしろに立っていた新聞の特派員とその細君に会釈した。大柄な体に、薄手な合外套のボタンを上までしめている特派員はいくらか近づいて来るようにしながら、
「あなたがた、最近の日本の新聞を御覧でしたか」
と伸子たちに話しかけた。
「――最近のって云ったところで、わたしたちのは、どうせ幾日もかかってシベリアをやって来るんですがね――何かニュースがあるんですか」
「日本の共産党事件――よまれましたか」
「ああ、よみました――ひどく漠然とした記事ですね、何が何だか分らなかった」
「――そう云えばそうだが、吉見さんなんか、あらかじめこっちへ逃避というわけじゃなかったんですか」
 うす笑いをしながらそういう特派員の言葉を、素子はぼんやりした顔つきできいていたが、急にその特派員の方へくるりと向きかわって、
「冗談にしろ、そんなこと、迷惑ですよ」
 きめつけるように、真顔で云った。そして、秋山宇一をかえりみながら、いくらか皮肉な調子をこめて、
「秋山さんこそ、どうなんです?」
と云った。
「あなたは、大丈夫なんですか」
「今も塩尻君に様子をきいていたところですがね」
 例の癖で自分に向ってうなずくように首をふりながらその特派員の名を云って秋山宇一が答えた。
「友人のなかには、やられたものが相当あるらしい工合ですよ」
 そう云いながら、秋山宇一はどことなく肩をすぼめるようにして、それも癖の、小さい両手を揉み合わせながら、仕切り綱に上体をのり出させ、
「――まだ誰も見えませんか?」
 赤い布飾りのついた演壇の方をのぞいた。折角、モスク□のメーデイを見に来ているところで、これからじき帰って行こうとしている日本では、共産党という秘密結社が発見されて、全国で千余名の人々がつかまった、というような報道を、どこかその身に関係がありそうに話されたのを秋山宇一が快く感じていない表情は、ありありとうけとられた。
 秋山宇一が、その話をさけたそうに体をのり出させて眺めている赤い演壇の方を一緒に見ながら、伸子も、メーデイの朝の気分にそぐわない、いやな気持でそのことを思いだした。伸子たちは、ついおととい着いた日本からの新聞で、一ヵ月近く前の三月十五日の明け方、「官憲は全国一斉に活動を開始し」という文句で書かれている共産党検挙の事件が解禁になった記事をよんだのだった。初号の大見出しで一面に亙って、五色温泉で秘密の会合をした仮名の人々のことだの、大学教授や大学生がどっさり関係していること、内相談、文相談と、いかにも陰謀の一端を洩(もら)すという風につかみどころなく、しかも動顛のおおえない調子で報道されていた。動坂の家からモスク□にいる伸子あてに送ってよこした朝日新聞の四月十一日のその記事の大見出しのところには、赤インクで長いかぎがついていた。銀行ペンに濃い赤インクをつけて、大きく、長く、抑揚のある線でかけられたかぎは、まぎれもない父の泰造の手蹟であった。
 三月十五日の記事にかけられている赤インクのかぎを見たとき、伸子は、いやな刺戟を感じた。記事そのものが漠然としている上に、そういう運動を知らない伸子には、全国的検挙という事実さえ、実感に迫って来なかった。共産党という字が、いたるところで目にふれるモスク□では政治について知らない伸子も、世界の国々に資本家の代表政党があるからには、勤労階級の共産党があるのは当然と思うようになっていた。泰造のペン先でつけられた赤インクのかぎは、そんな風にのんびりと、日本の現実について無知なまま自由になっている伸子の体のどこかを、その赤いかぎでひっかけて、窮屈なところへ引っぱり込もうとするような感じを伸子に与え、伸子は抵抗を意識した。
 うす曇りのメーデイの朝、赤い広場の観覧席の仕切り綱の中に立って、まだ空っぽの赤い演壇の方を眺めながら、伸子は、素子と記者との間に交わされた話から、赤インクのかぎの形を生々しく思い出した。抵抗の感じがまた全身によみがえって来た。その抵抗の感じは、すべての感受性をうちひらいてメーデイの行事を観ようとして来ている伸子の軟かい心と、瞬間鋭く対立した。観覧席で、まわりの人々は腕時計を見たり、とりとめなく話し合ったりしながら折々期待にみちた視線を赤い広場の入口へ向けている。その中に交っている伸子の背の低い丸い顔は、質素な紺の春コートの上で、弱々しいような強情のような一種の表情を浮べた。
 そのとき、何の前ぶれもなしに、突然猟人広場の方から轟くようなウラーの声がつたわって来た。観覧席は俄に緊張し色めきたった。
「スターリンですか」
「さあ……」
「見えますか」
「いいや」
 尾の房々と長く垂れた白馬にまたがった一人の将校を先頭に黒馬に騎(の)った十余人の一団が、猟人広場の方から赤い広場へ入って来た。広場へ入ると、その騎馬の一団は広場のふちにそって□足(だくあし)で外交団席の前を通り、赤い演壇の下を進んで、伸子たちのいる観覧席の少し手前まで来た。観覧席に向って進んで来る白馬の騎兵をじっと見守っていた伸子が、
「ブジョンヌイよ!」
 びっくりしたような、よろこばしいような声を立てた。
「あの髭! あの髭はブジョンヌイだわ!」
 白馬にのった将校の顔の上には、ほかの誰もつけていない大きい黒髭が、顔はばを超して左右にのびていた。
「ほんとだ!」
 素子も、おもしろそうに肯定した。一九一七年から二〇年にかけてウクライナで革命のために活躍した第一騎兵隊と云えば、その英雄的な物語は戯曲のテーマにもなっていた。ブジョンヌイは、その第一騎兵隊の組織者、指導者として、コサック風の大髭とともに、伸子のような外国人にさえ親愛の感情をもたれていた。
 騎馬の一団は、伸子たちが目をはなさず見守っている観覧席の前を通りすぎて、一番はずれの観覧席のところまで行った。そこで馬首をめぐらして、広場の遠いむこう側を、すこし速めた□足で、再び入口に向ったときだった。それが合図のように、赤軍の行進が猟人広場の方の門から広場へ流れこんで来た。見る見る広場が埋められはじめた。すると、一台、大型オープンの自動車が伸子たちの観覧席の前をすべるようにすぎて、クレムリンの河岸に近い門の方へ去った。
「自動車が行きましたね。じゃ、スターリンが来たんです」
 秋山宇一が確信ありげにそう云って、伸子と一緒に仕切り綱の上へのり出したとき、クレムリンのスパースカヤ門の時計台からインターナショナルの一節がうちだされた。それから一つ、二つ、と時をうって十時を告げ終ったとたん、赤い広場からそう遠くないところで数発の号砲がとどろいた。
 メーデイの儀式と行進とはこうして、うすら寒い五月の赤い広場ではじまった。真横にあたる伸子たちの観覧席からは、骨を折っても赤い演壇の上の光景は見わけられなかった。広場の四隅につけられている拡声機から、力のこもった、しかし誇張した抑揚のちっともない、語尾の明晰なメーデイの挨拶の言葉が流れて来た。演壇の上が見られない伸子は気をもんで、かたわらの素子に、
「いま話しているの、スターリン? そう?」
ときいた。
「そうなんだろう、わたしにだって見えやしないよ」
 声にひかされるように、伸子は、見えない演壇の方へ爪先立った。伸子は、日本の共産党検挙の記事や、その記事に父のペンでかけられていた赤インクのかぎのことを忘れた。
 スターリンの声と思われた演説が終ったとき、広場をゆるがし、その周囲にある建物の壁をゆすってソヴェト政権とメーデイのためにウラーが叫ばれた。ブジョンヌイは、その間じゅう白馬に騎って、演壇の下に、赤軍の大集団に面して立っていた。
 やがて、拡声機から行進曲が流れ出して、赤軍が動きはじめた。歩兵の大部隊がゆき、騎兵の一隊が、隊伍に加った大髭のブジョンヌイを先頭に立てて去り、機械化部隊が進行して行った。つづいて労働者の行進が広場へ入って来た。
 まちまちの服装で、ズック靴をはいて、プラカートをかかげた人々の密集した行進が来るのを見たとき、伸子の眼のなかにさっと涙が湧いた。この人々は何とむき出しだろう。なんとめいめいが体一つでかたまりあっているだろう。いかつく武装をかためた機械化部隊のすぎたあとから行進して来た労働者の隊伍は、あんまりむきだしに人間の体の柔かさや、心や血の温かさを感じさせ、伸子は自分の体をその生きた波にさらいこまれそうに感じた。年をとった男、若い男、同じようにハンティングをかぶり、娘もおかみさん風の婦人労働者もとりどりのプラトークで頭をつつみ、質素な清潔さで統一されているが、ソヴェトの繊維品生産はまだ足りないということは行進する人々の体に示されていた。何という様々の顔だろう。さまざまの顔のその一つ一つに一つずつの人生がある。心がある。けれども、きょうのメーデイに行進するという心では一つに繋(つなが)っていて、クレムリンの城壁をこして空高くゆるやかに赤旗のひるがえっている広場へ入って来る列は、演壇から行進に向って挨拶されるローズング(スローガン)に応えて心からのウラーをこだまさせてゆく。蜿蜒(えんえん)とつらなる行進の列は、演壇の下を通過するとき、数百の顔々を一斉に演壇へ向けて、ウラーを叫んだ。広場には行進曲が響いている。それにかまわず自分たちのブラス・バンドを先頭に立てて来る列もある。さっきから祝い日の低空飛行として広場の上空に輪を描いている二台の飛行機の轟音さえも愉(たの)しい音楽の一つとして、八十万人と予想されている大行進は猟人広場の方の門から入って来てはモスク□河岸の門へ流れて出てゆく。
 そっちの方角を埋める人波と、人波の上にゆれるプラカートの林立を眺めていて、伸子は、いつも特別な思いで眺める首の座(ローブヌイ・メスト)が見えないのに気がついた。赤い広場のその方角に、いつも灰色の大きい石の空井戸のような円形の姿をみせて、そこでツァーが首斬った人民の歴史を語っている首の座(ローブヌイ・メスト)は、メーデイの人波とプラカートの波の下にかくれてしまっている。そのまわりに来たとき、人々は列をくねらしてよけて通って行っているのだろうけれども、伸子のところからは、そのうねりさえ認められなかった。首の座(ローブヌイ・メスト)はメーデイの行進の波にのまれてしまっている。
 伸子の心には閃くように、三月十五日の記事にかけられていた赤インキのかぎの形が浮んだ。それはいま、一つの象徴として伸子の心に浮んだ。実際よりもはるかに巨大な形をもって。父の泰造が伸子に送る新聞につけてよこした赤インクのかぎはいまその形をひきのばされ、首の座(ローブヌイ・メスト)を埋めて動いている数万の人々の上に幻のように立つようだった。しかし、そんな不吉の赤インクのかぎを見るのは伸子一人にちがいなかった。そしてそのかぎの下に入れられそうな感じに抵抗しているのも伸子一人にちがいなかった。伸子は実にはっきり自分がちがう歴史のかげの下にいるのを感じた。
 終りに近づいたメーデイの行進は、数十万の靴の下でポクポクにされ熱っぽくなった広場の土埃りの中を、きょうは一日中おくられる行進曲につれて、いくらか隊伍をまばらに通っている。
 最後の行進が通過した。気がついた伸子が演壇の方を見たら、いつかそこも空になっていた。伸子、素子、秋山宇一、内海厚の四人はひとかたまりになって、ぐったりとくたびれたようになった赤い広場を猟人広場へ出て来た。
 この辺はひどい混雑だった。行進を解散したばかりの群集が押し合いへし合いしている間を縫って、赤いプラトークで頭をつつんだ娘をのせた耕作用トラクターが、劇場の方からビラを撒(ま)き撒きやって来た。伸子たちは、やっとそこを抜けてトゥウェルスカヤの通りの鋪道へわたった。赤いプラカートの張りわたされているここも一杯の人出で、空気はもまれ火照(ほて)っている。
「ぶこちゃん、ちょっとパッサージへよってお茶をのんで行こうよ」
 素子がそう云って秋山に、
「パッサージ、やっていますか」
ときいた。
「さあ――どうでしょう――やっているでしょう」
「やってます、やってます」
 内海厚が、わきから早口に答えた。

 伸子たちは、靴を埃だらけにして、アストージェンカへ帰って来た。朝のうちは、電車のとまった通りを赤い広場の方へゆく人かげはまばらだったのに、帰り途は、同じ大通りが、赤い広場から家へ歩いてかえる群集で混雑していた。赤い紙の小さい旗をもったり、口笛をふいたりしながら、みんなが歩きつかれたメーデイ気分でゆっくり歩いている。
「くたびれた!」
 部屋へ入ると、すぐ窓をあけて伸子がディヴァンへ身をなげかけた。
「立ってるのはこたえるもんさ」
 美味(おい)しそうに素子がタバコを吸いはじめた。
 いつもなら窓をあけるやいなや、ごろた石じきの車道をゆく荷馬車の音だの、電車のガッタンガッタンがひとかたまりの騒音となって、フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの大きな石の建物にぶつかってから伸子たちの狭く浅い部屋へなだれこんで来る。きょうは、窓をあけても、騒々しい音は一つもなかった。午後の柔かく大きな静けさが建物全体と街をつつんで、伸子がディヴァンにじっとしていると、四階の窓へはかすかに人通りのざわめきがつたわって来るだけだった。伸子にとってメーデイの行進は感銘ふかかった。こうしてメーデイにはいそがしいモスク□全市が仕事をやめて休み、祝っている。その祭日の気分の深さには、やはり心をうたれるものがあった。メーデイの前日からアルコール類は一切売られなかったから、きょうの祝い日の陽気さはどこまでもしらふだった。そういうところにも一層伸子に同感されるよろこびがあるのだった。
 伸子と素子とは、しばらく休んでから埃をかぶった顔を洗い、着ているものをかえた。そしたら、また喉がかわいて来た。素子が、
「お湯わかしといでよ」
と伸子に云った。
「いいさ、メーデイじゃないか」
 伸子たちとルイバコフとの間の日頃の約束では、朝晩しかお湯はわかさないことになっていた。
 伸子が台所へ行ってみると、さっき入口をあけてくれたニューラの姿が見えない。ルイバコフの細君や子供も出かけてしまったらしく、アパートメントじゅう、ひっそりとしている。伸子は、自分たちの水色ヤカンが、流しの上の棚にのっているのを見つけた。伸子は、ニューラが見えないのに困った。うちのものが誰もいない台所で、勝手なことをするようなのがいやで、伸子は水色ヤカンを眺めながら、半分ひとりごとのように、
「ニューラ、どこへ行っちまったの」
 節をつけるようにひっぱって云った。すると、台所のガラス戸のそとについているバルコニーからニューラが出て来た。何をしていたのか、すこし上気(のぼ)せた顔色だった。
「歩いたんで、喉がかわいたのよ、ニューラ。お湯をもらえるかしら」
「よござんす」
 ニューラはすぐヤカンをおろして水を入れ、ガスにかけた。
「ありがとう。お湯はわたしがとりに来るから」
 そう云って台所を出ようとした伸子に、ちょっとためらっていたニューラが、
「ここへ来てごらんなさい」
 バルコニーへ出るドアをさした。鉄の手摺のついたせまいバルコニーの片隅には、空箱だの袋だのが積まれていて、ニューラが洗濯するブリキの盥(たらい)もおいてある。バルコニーは、この建物の内庭に面していて、じき左手から建物のもう一つの翼がはり出しているために日当りがわるかった。内庭のむこう側にコンクリート壁があって、ギザギザの出た針金が二本その上にまわしてある。そこにくっついて塀の高さとすれすれに赤茶色に塗られたパン焼工場の屋根があった。その屋根の上に、もうメーデイの行進から帰って来たのか、それとも行かなかったのか、三人の若者が出てふざけていた。ニューラがバルコニーへ出ると、その若者たちのなかから挑むような鋭い口笛がおこった。
 伸子は反射的にドアのかげに体をひっこめた。
「ヘーイ! デブチョンカ(娘っこ)!」
「来いよ、こっちへ!」
 屋根の上から笑いながら怒鳴る若者の声がきこえた。むこう側からはこちらの建物の、内庭に面しているすべての窓々とバルコニーとが見えるわけだった。若い者たちはおそらくその窓々がきょうはみんなしまっていて、バルコニーで働いている女の姿もないのを見きわめて、たった一つあいているバルコニーのニューラをからかっているらしかった。
 赤茶色の屋根のゆるい勾配にそって横になっていた一人の若者が、重心をとりながら立ちあがって、ポケットから何か出した。そして、それを、ニューラのいるこちらのバルコニーへ向って見せながら、伸子にはききわけられない短い言葉を早口に叫んだ。そして、声をそろえてどっと笑った。一人が口へ指をあてて高い鋭い口笛をならした。それは何か猥褻(わいせつ)なことらしかった。ニューラは、メーデイだのに着がえもしなかった汚れたなりで、両方の腕を平べったい胸の前に組み合わせ、いかついような後姿でバルコニーに立ち、笑いもしないが引こみもしないで、じっとパン工場の屋根を見ている。
 伸子はそっと台所から出て、自分たちの部屋に戻った。建物の表側にある伸子たちの部屋では、あけ放された窓ガラスに明るくフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根の色が映って、祭り日の街路を通る人々の気配がかすかにつたわって来る。こっちには祭日のおもて側があった。
 モスク□のメーデイのよろこびの深さがわかるだけに、建物のうら側のバルコニーにはメーデイの閑寂の裏がある。台所のバルコニーに立ったニューラの姿は伸子に印象づけられた。伸子の心は象徴的に形を大きくした赤インクのかぎの形を忘られていなかった。

        七

 メーデイがすぎると、モスク□の街々には一足とびの初夏がはじまった。すべての街路樹の若芽がおどろくようなはやさで若葉をひろげた。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの大理石の胸壁を濡らして明るい雨が降った。伸子が、モスク□の印象記を書き終ろうとしている机のところから目をあげて雨のあがったばかりの、窓のそとを見ると、雨の滴をつけた一本の電線に雀が七八羽ならんでとまっていたりした。
 伸子は、このごろ直接多計代あての手紙は書かなくなってしまっていた。モスク□の町に雪があったころ、保にかいた手紙のことで多計代から来た手紙を、伸子は半分よんだだけでおしまいまで読めなかったことがあった。それ以来、伸子は時々エハガキに近況をしらせる文句をかき、佐々皆々様、という宛名で出していた。動坂の家からは、伸子が東京あてのエハガキをかくよりも間遠に、和一郎がかいたり、寄せ書きしたりした音信が来た。相かわらずとりとめなく、どこへドライヴしたとかいう出来ごとばかりを知らせて。
 メーデイの前後しばらくの間、伸子はちょくちょく父のペンでつけられた赤インクのかぎつきの新聞記事を思い出してこだわった。
 泰造が、例によって一人がそこにいる朝の食堂のテーブルであの新聞を読み、無意識に、入歯のはいっている奥歯をかみ合せながら、しっぽのひろがった太く短い眉をひそめてすぐテーブルの上においてあるインクスタンドからペンを執り、せっかちな手つきで赤インクのかぎをかけたときの顔つきが、手にとるように伸子にわかった。泰造のその表情や、わるく刺戟的な赤インクのかぎをかけた新聞を送らせるようなやりかたのなかに、伸子は、これまで心づかなかった父と自分との心のへだたりを知った。
 三月十五日に日本で共産党の人々が検挙されたという記事に、泰造は、どんなつもりでそんな、衝動的な赤インクのかぎをかけ、伸子へ送らせたのだろう。伸子が仮にパリにいたとして、泰造はやっぱりこうして新聞をよこすだろうか。娘がモスク□にいるということだけで、泰造はその新聞記事から普通でない衝動をうけたのだ。どう表現していいか泰造自身にもわからなかったのだろうけれども、赤インクのかぎは、泰造の受けた衝撃の感情の性質を語っていることが伸子を悲しくさせた。
 去年の秋、伸子たちがソヴェトへ来るときめたとき、そして旅券のことについて動坂の家へ行ったとき、母の多計代は「ロ・シ・アへ?」と、ひとことひとこと、ひっぱって云って、いやな顔をした。半年近くたったこの間、伸子がそこまでよんで先がよめなくなった多計代の手紙には、「冷酷なあなたの心は、ロシアへ行ってから」とかかれていた。父の泰造は、旅券のことで助力をたのみに行ったときも、伸子がともかく自分の力で借金ができて、外国へも行くようになったことをよろこんで、行くさきについて意見は洩さなかった。その後の泰造の簡単なたよりにも、ロシアというものへの先入観や偏見はちっともあらわされていなかった。
 ところが、こうして、日本にも世界のよその国と同じようにいつの間にか共産党が出来ていて、それがわかった、と大臣や役人があわてて右往左往している様子のわかる新聞記事が出たら、泰造の心の安定はたちまち動揺した。程度のちがいこそあれ多計代と同じような性質で、ロシアというところ、そこにいる伸子というものについて普通でない心の作用をあらわしている。
 伸子には、無条件で父を肯定する習慣があった。母の多計代はどうであっても、父の泰造は、と思う習慣があった。その習慣的な父への安心が、伸子の心の中ではげしく揺られた。父と母とは、生れ合わせにもっている気質がちがって、そのちがいは永い年月が経つ間に双方からつよめられ、その間で育った娘の伸子には、父と母とがものの考えかたや感じかたで全くちがうように思えていた。けれども、いま伸子は、父と母との気質のそのちがいを実際よりも誇張して感じていたのは、自分の甘えだったとさとる心持になった。父と母とは、夫婦だったのだ。いざというところでは、いつも一致した利害を守って生きて来た夫婦だったのだ。伸子が、自分の都合のいいように誇張してそれに甘えて来たような本質のちがいが、両親のものの考えかたにあるという方が変だったのだ。
 四月の末モスク□の中央美術館でひらかれたゴーリキイ展を見に行ったとき、伸子は、そこでゴーリキイに子供のときの写真が一枚もないことを発見した。そして赤坊のときからの写真をどっさりもっている自分に思いくらべた。それにつれて、写真に対する自分の浅薄さを非常に苦しく自覚したことがあった。母親と仮借なく対立しながら、父にだけは批評なしに甘えられそうに思っていた自分の心の姿も、伸子にはじめて同じような醜さとして見えた。父の泰造が、よく云っていた見識とか常識とかいうことも、窮極では、母の多計代の量見とどこまでちがったものだったろう。
 泰造は役所や役人ぎらいであった。大学を出たばかりで勤めた文部省の営繕課をやめたいばかりに、若い旧藩主のお伴のような立場でイギリスへ行った。泰造が官庁の建築家として完成したのは札幌の農科大学のつましい幾棟かの校舎だけであった。伸子が十九のとき札幌へ行ってみたら、その校舎は楡の樹の枝かげに古風な油絵のように煉瓦建の棟を並べていた。外国から帰ってから泰造はずっと民間の建築家として活動して来ている。
 泰造はよく、判断のよりどころのように常識があるとか、ないとかいうことを云った。それがイギリスには在って日本にはないものであるかのように「コンモンセンス」と英語で云って、常識が低いとか、常識がないとか云うことは、泰造にとって軽蔑すべきことだった。でも泰造が、あるとかないとか重々しくいう常識というものは、どういうものだったのだろう。考えつめながらもお父様というよび名が心にうかぶとき、伸子は懐しさにうごかされた。泰造の暖くて大きくてオー・ド・キニーヌの匂いのする禿げ頭をしのんだ。そのなつかしい父に、伸子は自分について発見していると同じ性質の浅薄を感じた。父の泰造も、つきつめてみればほんとに常識と呼ぶだけつよい常識はもっていないのに、コンモンセンスと英語でいうようなところがある。ほんとに分別にとんだ常識というものなら、資本主義の一つの国で法律が共産党を禁じるという事実があるなら、とりも直さずそのことがそういう改革的な政党の生れるような社会的条件をその国がもっていることを語っているのだと、理解するはずだった。
 五月の夜、若葉の香の濃い並木道(ブリ□ール)のアーク燈の下をぞろぞろ散歩しているモスク□の人々にまじって歩きながら、伸子はこの群集の流れの中で、あの赤インクのかぎを負っているのは自分だけだと思うと変な気がした。わきに並んで、時々腕をくみ合わせたりして歩いている素子にさえ、伸子のその奇妙な感じはわかっていない。モスク□の生活は、伸子を、日本にいたときはあることさえわからなかった広い複雑な社会現象のなかへつき出した。伸子はそれだけ自由にのびやかになった。そしたら、これまで気づかずにいたいろんな意味での赤インクのかぎが、自分にかかっていて、周囲に動いているモスク□の人たちにはかかっていないことを、見出しているのだった。
 こういう心の状態で夜の並木道(ブリ□ール)を散歩しているときなどに、伸子がもうちょっとで素子に話しそうになっては、話さなかった一つの気もちがあった。モスク□へ来る年の秋、駒沢の奥の家に素子と住んでいたころ、素子が買って来て伸子も読んだブハーリンの厚い本の中に書いてあったことにつながっていた。駒沢の、柘榴(ざくろ)の樹のある芝生に庭を眺めながら伸子はその本をよんで、今日の社会で資本というものが演じている役割や働く階級の歴史的な意味を知り、自分たちの属している小市民層というものの、どっちへでも動く可能をもった浮動的な立場の本質を知った。そのころ、伸子は父の泰造の建築家という仕事がもっている社会的な関係に新しく目をひらかれた。たとえ泰造がローヤル・アカデミーの特別会員であろうとも、アメリカの建築学会の名誉会員であろうとも、今の日本で建築家として働く佐々泰造は、日本の、建築工事を起すだけの金のある人々に奉仕するものであることを伸子は知った。そうわかって、泰造が折にふれてもらしていた依頼者の我ままな注文に対しての鬱憤に、娘として同情をもった。
 ところが、赤インクのかぎは、伸子のその理解を、もう一遍ひっくりかえしにして見せた。泰造のうそのない役人ぎらいは、そのまま泰造を、金をもっている人々ぎらいの人間にはしてはいないという現実を、伸子は理解したのだった。
 父の泰造のバロン、バロンとよんで話す或る富豪は美術と音楽の愛好者であった。同時に日本の大財閥で政党を支配し、日本の権力をにぎっている人の一人だった。その富豪と父の泰造とはイギリス時代からのつき合いで、友人の一種ではあったろうが、伸子たちをふくめる家族は、そのつき合いのなかに入れられていなかった。
 伸子が十か十一ぐらいのときだった。泰造が何かの用で箱根へ行くことができて、伸子もつれられた。夏のことで、伸子ははじめて箱根というところへ父につれられてゆく珍しさに亢奮し、自分が着せられている真白なリネンの洋服に誇りを感じた。箱根へ行って、大きな宿屋で御飯をたべて、それから泰造が少女の伸子でも知っていたその富豪の名を云って、その別荘へよって行こうと云った。
 伸子が父の泰造につれられて行ったその富豪の別荘は、伸子が少女小説の絵で見知っている城のようだった。大きな鉄の蝶番(ちょうつがい)をつけた玄関の扉があいて、入ったところは、二階まで天井がつつぬけになっているホールだった。高いところに手摺が見えて、そこから赤い美しい絨毯が垂れていた。一つの大きいドアの左右に日本の緋おどしの甲冑(かっちゅう)と、外国の鋼鉄の甲冑とが飾られていた。そのほかホールには壺や飾皿があった。それらの飾りものは、ホールについている窓の、緑にいくらか黄色のまじったようなステインド・グラスを透してさし込んで来る光線をうけて、どれもどっしりと生きているようだった。
 少女の伸子は父とつれ立って目をみはりながらも、勝気な少女らしく、そのホールの絨毯の上を歩いた。自分が、よく似合うリネンの白い洋服をつけ、桃色のリボンで頭をまき、イギリス製のしゃれたサンダルをはいていることに伸子は満足していた。
 伸子は、帰るまでにはきっとここの主人に会うものと思っていた。けれども父の泰造は伸子をつれて、執事の男と二つ三つの室をまわって見ただけだった。それきりで、また夏の日が土の上に照りつけている外へ出てしまったとき、伸子はあてがはずれ、辱しめられたような、がっかりしたいやな感じがした。あとで伸子に、主人が留守だから自分をつれて行ってくれたのだったということがわかった。
 泰造はまた、財閥としてはその富豪と対立の立場にいて、同時に対立する政党を支配しているような人々とも同じような友人めいた交渉があった。全然政治的な興味も野心も持たない泰造の気質は、ひろい趣味をもっていて、或る意味では至極さっぱりしていたから、そういう年じゅうごたごたした関係の中で生きている人々にとって、らくにつき合える建築家の友人という関係であったのかもしれない。しかし、伸子は赤インクのかぎを思いだすと、父の泰造のそういう社交性を、やっぱり複雑に感じとらずにいられなかった。
 そういう人々の住んでいる、伸子が見たこともなく快適な住居で、主人と泰造とが談笑しているとき、誰かが検挙された共産党を、少くともそれが生れる必然を肯定して話したとしたら、主人も泰造もどんな顔をするだろう。泰造はきっと、場所柄を考えずそんな話題をもちだした者の常識なさをとがめるだろう。でも、その場合の常識とは何だろう。富豪で権力をもっている人が、共産党の話なんかはきらうというその人たちの気分の側に立った泰造の判断であり、その人たちがきらうことを、よくないこととする通念にしたがう泰造の判断でなかったろうか。
 伸子は、心ひそかに父の泰造を誇って来ていた。日本で有数の建築家として。役人でも実業家でもなく、軍人や政治家でもなくて、自分の父は建築家であり民間の独立した一人の技術家であるということを、文学を愛するような年ごろになってからの伸子は、どんなに心の誇りとして来たろう。
 けれども、泰造の建築家としての独立性はほんとに狭い範囲のもので、根本では、民間の大建築を行う経済能力をもった者によって活動を支配されていることがわかったのは、伸子にとってそう遠いことではなかった。そして、泰造のそういう社会的な立場は、泰造の清廉さ、誠実さ、正義感、独立性にも限界を与えていて、泰造の紳士らしさには、何か見えないものへの服従が感じられることを、いま伸子は悲しく認めるのだった。伸子の意識は、そういう服従を、自分に求めていなかった。けれども、と伸子は自分について考えめぐらすのだった。たとえば自分が泰造の娘として、そのバロンなる人と一座しているとき、伸子が父の泰造の服従した感情とどれだけちがった自由をその心に保っていると期待できるだろうか。伸子は、自分がそういう場面におかれれば、やっぱり泰造と同じようにその人たちに好感を与える若い女として自分をあらわすにちがいないと感じた。さもなければ、そういう人が自分に加える圧力に負ける自覚がいやで、こわばって一座をさけるか。
 伸子が十六七になったころ、日本ではじめてフィルハーモニーという洋楽愛好者の組織が出来た。パトロンは、泰造と友人めいた交渉を持つそのバロンだった。その第一回のコンサートのとき、伸子はおしゃれをして、親たちとその音楽会をききに行った。そしてバロン夫妻に紹介されたとき、その人たちの光沢のよい雰囲気に伸子は亢奮と反撥とを同時に感じた。二様の感情をうけながら伸子は、我しらず利発そうな洗練された娘として自分をあらわした記憶があった。そういうところが、自分にそれを認めることがいつもきらいな伸子の腹立たしいすべっこさだった。
 素子に話しそうになりながら、話さなかったことのいきさつは、父の泰造に対すると同時に自分にも連関する伸子のこういう新しい気持の過程だった。それぞれの人がもっている道徳観というものも、その人たちの属す階級の利害に作用されている。それは、泰造についてみても真実だった。その真実は、伸子が生れかかっているイヴのように半分そこからぬけかかってまだ全体はぬけきっていない中流性にもあてはめられた。泰造がその限界の中では誠実な人であり、清廉な人であることにちがいはなかった。でも、伸子が新しく感じとった泰造の限界、自分の限界は、伸子にとってそれが分らなかった以前に戻すことは不可能だった。無条件に父を肯定しつづけ、父を肯定する自分を肯定して来た伸子にとって、こういう思いは、一段落がついたとき、痩せた自分に心づくような心の中の経験であった。
 三月十五日の事件に関連して、社会科学の研究会を指導していた京大や九大の教授の或る人々を、文部省ではやめさせるように命令し、大学総長たちはそれをすぐ承知しないという新聞の記事があった。しかし、結局辞職勧告をうけて京大の山上毅教授そのほかのひとが大学を去ることになった。山上毅教授の勅任官服をつけた写真とそのニュースとがのっている新聞に、伸子が校正を友達の河野ウメにたのんでモスク□へ立って来た長い小説がやっと本になって発売される広告があった。
 間もなく、河野ウメから、出来た本を送ってよこした。モスク□の町に、本はどっさりあるけれども、紙質もまだわるく、装幀も粗末だった。そういう本ばかりみている伸子は、送られて来た自分の本の立派さにおどろいた。
「いい本ねえ」
 アストージェンカの室の机の上で小包をほどいて、伸子と素子とは、ひっぱり合うようにしてその美しい柿の絵のある和紙木版刷の表紙をもつ天金の本を眺めた。
 その小説は日本の中産階級の一人の若い女を主人公としていた。溢れようとたぎりたつ若々しい生活意欲と環境のはげしい摩擦を描いたその小説のかげには、伸子自身の歓迎されない結婚とその破綻の推移があった。上質の紙にルビつきの鮮やかな活字で刷られているその本の頁をひらいて、テーブルの前に立ったまま伸子は、あちらこちらと、自分のかいた小説をよんだ。
「わたしにもお見せよ」
と手を出す素子に本をわたし、小包紙や紐の始末をしながら、伸子は、ソヴェトの女のひとたちに果してこの小説にこめられている日本の女性の様々な思いが同感できるだろうかしら、と思った。
「――ここじゃあ、却ってこの小説の男の立場を女にした場合の方が多くて、それならここのひとたちにもわかるんじゃないか」
 素子が云う、男の立場というのは、主人公の夫である人物のことだった。その男は、若い妻が、息づまる生活環境に辛抱できないでもがく心持を理解することが出来ず、夫として妻を愛しているという自分の主観ばかりを固執して、複雑な関係の中で破局に導かれる人物だった。
「そうともちがうんじゃない?」
 伸子は、その本の美しい小花の木版刷のついたケースをいじりながら云った。
「『インガ』みたいな芝居でも、夫にとりのこされた女は自分で自分を伸してゆく余力をもっているし、またそれが可能な条件を社会生活の中でもっているんだもの……」
 伸子のその小説に描き出されているような娘の生活に対する親の執拗な干渉ということ一つとってみても、それはもうソヴェトの社会の習慣と感情のなかからはなくされている事実だった。モスク□のメーデイの行進の轟きの上に、象徴的に大きくされた赤インクのかぎを見たのが、日本の女であり、娘である伸子ばかりであったように。しかも、それは、伸子を愛していると自分でかたく信じている父の手によってひかれている赤インクのかぎを。――
 前後して、保から久しぶりにたよりが来た。またハガキだった。温室は好調でメロンが育ちつつあるということや、僕もそろそろ大学の入学準備で、科の選定をしなければならない。姉さんはどう思いますか、僕は大体哲学か倫理にしようと考えて居ます。と例の保の、軽いペンのつかいかたの几帳面な細字でかかれていた。
 その頃から、モスク□では目に見えて夕方の時間がのびた。午後九時になっても、うすら明りのなかにフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根が艷の消えた金色で大きく浮び、街々の古い建物にぬられている桃色や灰色が単調な、反射光線のない薄明りの中で街路樹の葉の濃い緑とともにパステル絵のように見えた。物音も不思議に柔らかく遠くひびくようになった。
 夜のなくなりはじめた広い空に向って、あいている二つの窓にカーテンのない伸子たちの部屋では、いつの間にやら二時三時になった。電車が通らなくなってしまってからの時刻、静かな、変化のないうすら明りにつつまれて、まばらに人通りのあるアストージェンカの街角の眺めは、そよりともしない並木道(ブリ□ール)の深い茂みの一端をのぞかせて、魅力のある外景であった。
 窓のそとの小さいバルコニーへ椅子を出して、伸子と素子とはいつまでも寝なかった。伸子は、保が、大学で哲学だの倫理だのを選ぼうとしていることを気にした。
「倫理学なんて、それだけを専門にするような学問なのかしら……あんまりあのひとらしくて、わたし苦しくなってしまう」
 くもった真珠色のうすら明りの中で、小さく美しく焔を燃えたたせながら素子はマッチをすってタバコに火をつけた。そして、指先で、唇についたタバコの粉をとりながら云った。
「哲学の方が、そりゃましさね」
「哲学って云ったって……」
 保のそういう選択に加わっているに相違ない越智の考えや、それに影響されている多計代の衒学好みを思いあわせ、伸子は信用しないという表情をかえなかった。
「哲学なんかやって、あのひとは益々出口がなくなってしまうばかりだわ、どうせカントなんかやるんだろうから……」
 昔東大の夏期講座できいたカントの哲学の講義を思いおこし、保の抽象癖が、カント好みで拡大され組織されるのかと思うと、伸子はこわいような気がした。そんな学者になってしまった保を想像すると、伸子は保の一生と自分の生涯とを繋ぐどんな心のよりどころも失われてしまうように思った。
「あのひとに必要なのは、思いきって社会的にあのひとを突き出してくれる学科だのに」
「経済でもやればいいのさ、いっそのこと。――さもなければ、哲学だって、ここの国でやってるような方法で哲学をやりゃいいのさ。それなら、生きていることはたしかだもの」
 でも保は、保のこのみで、あらゆる現実から絶対に影響されない純粋な真理を求めようとしている。そのことは伸子にわかりすぎるほどわかっていた。それは人間と自然の諸関係のおどろくべき動きそのものにわけ入って、その動きを肯定し、動きの法則を見出そうとする唯物弁証法の方向とはちがった。保は、何かの折唯物という言葉にさえ反撥したのを、伸子は覚えていた。利己という字につづいた物質的というような意味に感じて。
 しばらく言葉をとぎらせて伸子と素子とがうすら明りの街を見下している午前二時のバルコニーへ、遠くから一つ馬の蹄の音がきこえて来た。その蹄の音は、伸子たちのバルコニーが面している中央美術館通りから響いて来た。
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