道標
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著者名:宮本百合子 

 それらのことに気がつくと、伸子はひとりでに腋(わき)の下がじっとりするような思いになった。
 雪どけが終って春の光が溢れるようになると、モスク□の並木道(ブリ□ール)やモスク□大学の構内で、ときには繁華な通りでビルディングを背景に入れたりして、おたがいに写真をうつし合っているソヴェトの若い人たちを、どっさり見かけるようになった。つい二三日前、伸子と素子とがブリ□ールを散歩しているときだった。そこの菩提樹の下に古風な背景画を立て、三脚を立てた写真師が日本でなら日光や鎌倉などでやっているように店をはっていた。五十カペイキでうつすと書いた札が菩提樹の幹にはってあった。伸子たちが通りかかったとき丁度一人の若い断髪の女が、生真面目にレンズを見つめて、シャッターが切られようとしているところであった。その肥った娘の赭ら顔の上にあるひなびたよろこびや緊張を伸子は同感して見物した。ソヴェトらしい素朴な並木道(ブリ□ール)風景と思ってみた。けれども、同時に伸子は素子にこんなことを云った。
「こういうところをみるとロシアって、やっぱりヨーロッパでは田舎なのねえ」
 そして、連想のままに、
「ヨーロッパで、日本人を見わける法ってのがあるんだって。――知っている?」
「知らないよ」
「黄色くって、眼鏡をかけて、立派な写真器をもって歩いているのは日本人てきまっているんだって」
「なるほどねえ」
 展覧会場の長椅子の上で、伸子が思い出したのは、この自分の会話だった。ゴーリキイの幼年時代や青年の頃一枚の写真さえもっていなかったということ。そしてあんなにゴーリキイが愛して、命の糧のようにさえ思っていた話し上手のお祖母さんの写真さえ、ただ一枚スナップものこされていないという現実は、伸子に自分のお喋りの軽薄さを苦々しくかえりみさせた。ロシアの貧しかった人々の痛ましい生活の荒々しさ。無視された存在。現在ソヴェトの若い人たちが、あんなに嬉々として春の光を追っかけて互に写真をとりあっていることは、決してただ田舎っぽいもの珍しさだけではなかった。
 伸子は、あんな小憎らしい日本の言葉が、まわりの人たちにわからなかったことをすまなくも、またたすかったとも思った。
 これまでの社会で写真というものは、ただそれを写すとか写さないとかいうだけのものではなかったのだ。伸子ははじめて、その事実を知った。写真をうつすということが、金のかかることである時代、何かというと写真をうつす人々は、それだけ金があり自分たちを記念したり残したりする方法を知っている人たちであり、写真を眺めて、その愉快や愛を反復して永く存在させる手段をもった人々であった。写真というものがロシアのあの時代に、そういう性質のものでなかったのなら、ゴーリキイのロマンティックで野生な人間性のむき出された少年時代のスナップが、誰かによって撮られなかったということはなかったろう。チェホフの子供時代にしろ、小父さんのとった一二枚の写真はあり得ただろう。
 ソヴェトの若い人たちが、写真器をほしがり、一枚でも自分たちの写真をほしがっているのは、伸子が浅はかに思ったような田舎っぽい物珍しがりではなかった。金もちや権力からその存在を無視され、自分からも自分の存在について全く受け身でなげやりだった昔のロシアの貧しい人民(ナロード)は、自分の生活を写してとっておく意味も興味も、思いつきさえも持っていなかったのだろう。写真なんかというものは金のある連中のたのしみごととして。ソヴェト生活のきょう、その人民が写真ずきだということは、その人たちにとって生存のよろこびがあり、日々の活動の場面が多様で変化にとんで居り、生き甲斐を感じているからこそにちがいなかった。写真がすきということのかげに、幾百千万の存在が、めいめいの存在意義を自覚して生きて居り、同時に社会がそれを承認しているということを語っていると思われるのだった。
 こういう点にふれて来ると、伸子は、自分がどんなに写真というものについてひねくれた感情をもっているかと思わずにいられなかった。そして、ヨーロッパ見物の日本人について云われる皮肉と、ソヴェトの写真ばやりとを、同じ田舎くささのように思ったひとりよがりにも、胸をつかれた。
 伸子は、子供のときから、モスク□へ来てニキーチナ夫人と一緒にうつした写真まで、無数と云うぐらいどっさり写真をとられた。それは生後百日記念、佐々伸子、と父の字で裏がきされている赤坊の伸子の第一撮影からはじまった。そこには、ゴム乳首をくわえている幼い総領娘の手をひいた佐々泰造の若いときの姿があり、被布をきた祖母が居り、弟たち、母がいた。ニューヨークで佃と結婚したとき、伸子はその記念のためにとった写真の一つを思い出した。平凡に並んでうつしたほかに、伸子は自分のこのみで、佃と自分の顔をよせ、横から二人の輪廓を記念メダルの構想で写してもらった。佃の彫りの深い横顔を大きくあらわして、その輪廓に添えて、二十一歳の軟かく燃える伸子の顔の線をあらわすようにした。六年たって、佃と離婚したあと、伸子はその写真を見るに堪えなかった。写真がそんなに佃と自分との結合を記念して、消えないのが堪えがたかった。書いた日記を破ったりしたことがないほど生活をいとしむ伸子であったが、そのメダル風の写真は、台紙からはがしてストーヴの火のなかに入れた。伸子は写真ぎらいになっていた。
 十八ぐらいからあと、伸子は、自分が写真にとられなければならなくなる羽目そのものを厭うことから、写真ぎらいになって来た。それは見合い写真をとらされることから、気もちのはっきりした娘たちが屈辱に感じて、いやがるのとはちがった。ゴーリキイが人生にさらされたのと、反対の角度から、伸子は、早く世間にさらし出された。それは、伸子が少女の年で小説をかき出したということが、原因であった。伸子は、新聞や雑誌から来る写真班に、うつしてほしくないときでも写真をとられた。それらの写真は、いつも好奇心と娘について示される多計代の関心に対する皮肉と伸子の将来の発展に対する不信用の暗示をふくんだ文章とともに人目にさらされた。伸子には、それが辛かった。そういう人工的なめぐり合わせをいやがって、普通の女としての生活に身を投げるように佃と結婚したのだったが、そこにもまた写真はつきまとった。伸子が思いがけなく唐突な結婚をしたと云って。身もちになってしまったからそのあと始末に仕方なく佃というアメリカごろつきと夫婦にもなったのだそうだ、という噂などを添えて。
 それらすべては伸子にとって苦しく、伸子の意識を不自然にした。伸子が、母の多計代に対してはたで想像されないほど激越した反撥をもちつづける原因も、伸子のその苦悩を多計代が理解しないことによっている。世間の期待と云えば云えたのかもしれないが、伸子の感じから云えば無責任な要求に、多計代は娘を添わして行きたがった。伸子は、それに抵抗しないわけにゆかなかった。
 目の前に、赤い布で飾られたゴーリキイ展の一つの仕切りを眺めながら、伸子は限りなくくりひろがる自分の思いの裡にいたが、その赤い飾りの布の色は段々伸子の眼の中でぼやけた。あんなに自分の境遇に抵抗して来ているつもりでも、伸子は、やっぱりいやにすべっこくて艷のいいような浅薄さをもっている自分であることを認めずにいられなくなった。いやがる自分をうつそうとする写真を軽蔑しながら、結局伸子はうつされた。写されながらいやがって、写真を金のかかる貴重なものとし、大切にするねうちのあるものとして考える地味な正直な人々、一枚の写真のために自分で働いて稼いだ金のなかから支払わなければならない人々の心と、とおくはなれた。これは、中流的なあさはかさの上に所謂文化ですれた感覚だと伸子は思った。そう思うと展覧会の飾り布の赤い色が一層ぼやけた。すれっからしの自分を自分に認めるのは伸子にとって切なかった。
 伸子は、どこかしょんぼりとした恰好で、中央美術館のルネッサンス式の正面石段を一歩一歩おりて、通りへ出た。雪どけが終って、八分どおり道路が乾いたらモスク□は急に喧しいところになった。電車の響、磨滅して丸いようになった角石でしきつめられている車道の上を、頻繁に荷馬車や辻馬車が堅い車輪を鳴らし、蹄鉄としき石との間から小さい火花を散らしながら通行する物音。伸子が来たころモスク□は雪に物音の消されている白いモスク□だった。それから町じゅうに雪どけ水のせせらぎが流れ、日光が躍り雨樋がむせび、陽気ではねだらけでモスク□は音楽的だった。こうして、道が乾くと乾燥しはじめた春の大気のなかでは、電車の音響、人声、すべてが灰色だの古びた桃色だの剥(は)げかかった黄色だのの建物の外壁にぶつかって反響した。
 モスク□へ来て半年たったきょう伸子の心の中でも下地がむき出しにあらわされた。歩くに辛いその心の上を歩いてゆくように伸子はアストージェンカへの道を行った。
 ソヴェトの人たちが、ゴーリキイを我らの作家として認めている。それにはどんなに深く根ざした必然があるだろう。歩きながらも伸子はそのことを思わずにいられなかった。
 ソヴェトに子供の家のあること、児童図書館のあること。働く青年男女のために大学が開放されていること。ソヴェトの民衆は自分たちの努力と犠牲とでそういう社会を組み立てはじめたことについて誇りとよろこびとを感じている。少年時代のゴーリキイの日々は、ソヴェトの表現でベスプリゾールヌイ(保護者なき子)と云われる浮浪の子供たちの生活だった。ヴォルガ通いの汽船の料理番から本をよむことを習って大きくなったゴーリキイは、ソヴェトに出来はじめている児童図書館の事業を自分のやきつくような思い出とともに見守っているのだ。そしてすべての働く若もののために大学があることを。「私の大学」でない大学がソヴェトに出来たことを。
 ゴーリキイは、生きるために、そして人間であるためにたたかわなければならなかった。ロシアの人民みんながそのたたかいを経なければならなかったとおり。そしてゴーリキイの物語は、どれもみんなその人々の悲しみと善意ともがきの物語りである。これらの人々が自分たちの人生を変革し、人間らしく生きようと決心して、忍耐づよくつづけた闘争の過程で、ゴーリキイはペテロパウロフスクの要塞にいれられたし、イタリーへ亡命もしなければならなかった。ゴーリキイの人生はそっくり、正直で骨身惜しまず、人間のよりよい生活のために尽力したすべてのロシアの人々の歴史だった。
 伸子は、まだ冬だった頃、メトロポリタンのがらんとした室で中国の女博士のリンに会った帰り途、自分に向って感じた問いをゴーリキイ展からの帰り途ひときわ深く自分に向って感じた。伸子の主観ではいつも人生を大切に思って来たし、人々の運命について無関心でなかった。女として人として。だけれども、伸子は、誰とともに生き、誰のための作家なのだろう。伸子はどういう人達にとっていなくてはならない作家だと云えるだろう。
 伸子は、アストージェンカの角を横切りながら再び肩をちぢめるような思いで、写真について生意気に云った自分を思いかえした。伸子が、ひとなら、あのひとことで佐々伸子を憎悪したと思う。ああいう心持は、ソヴェトの人たちの現実にふれ合った心でもなければ、日本のおとなしく地味な人たちの素直な心に通じた心でもない。その刹那伸子は、また一つの写真を思い出した。ニキーチナ夫人ととった写真だった。その写真で伸子は真面目に自分の表情でレンズの方を見ながら、手ばかりは写真師に云われたとおり、一方の手を真珠の小さいネックレースに一寸かけ、一方の腕はニキーチナ夫人の肩のところから見える長椅子の背にかけて、両方の手がすっかりうつるようなポーズでとられているのを思い出した。その髯の濃い写真師は、伸子の手がふっくりしていて美しいと云い、ぜひそれを写したいと、伸子にそういうポーズをさせたのだった。ドイツ風というか、ソヴェト風というのか、濃く重い効果で仕上げられたその写真をみたとき、伸子は、ちらりときまりわるかった。幾分てれて、伸子はその写真をとどけて来てくれた内海厚に、
「みんな気取ってしまったわねえ」
と笑った。そこにうつっている秋山宇一も内海厚も素子も、みんなそれぞれに気取って、写真師に云われたとおりになっていることは事実だった。けれども、伸子のポーズでは、伸子の額のひろい顔だちの東洋風な重さや、内面から反映している圧力感とくらべて、平俗なおしゃれな手の置きかたの、不調和が目立った。手が美しいと写真師がほめたとき、伸子は、それが伸子の生活のどういうことを暗示するかまるで考えなかった。しかも、その手の美しさが、何かを創り何かを生んでいる手の節の高さや力づよさからではなく、ただふっくりとしていて滑らかだという標準から云われているとき。――
 伸子には、ポリニャークが自分を掬い上げたことや、それに関連して自分が考えたあれこれのことが、写真のことをきっかけとしてちがった光で思いかえされた。これまで、伸子は自分が中流的な社会層の生れの女であることについて、決してそれをただ気のひけることと思わないで来た。気のひけるいわれはないことと考えて来た。そして、ポリニャークやケンペルが、プロレタリアートにこびることに反撥した。駒沢に暮していた時分「リャク」の若いアナーキストたちが来たときも、伸子は、そういう心の据えかたをかえなかった。
 それはそれとして間違っていなかったにしろ、いつとしらず自分の身についている上すべりした浅はかさのようなものは、伸子自身の趣味にさえもあわなかった。
 伸子は、そういうことを考えながら、並木道(ブリ□ール)の入口近くにある食料販売所へ入って行った。プロスト・クワシャの二つのコップとパンを買った。勘定場で金を支払い、計算機がガチャンと鳴って、つり銭の出されたのをうけとりながら、伸子は、自分が自分のそとに見えるすべての小市民的なこのみをきらいながら、同じそういうものが自分の内にあって、自分の知らないうち発露することについて、苦しむことを知らなかったことに心づくのであった。
 伸子は、住居のコンクリートの段々を、のぼりながら、しつこく自分をいためつけるように思いつづけた。こうしてソヴェトへ来るときにしろ、伸子は自分のまともに生きたいと思っている心持ばかりを自分に向って押し立てて来た。本当の本当のところはどうだったのだろう? 伸子が誰にとってもいなくてはならない人でなかったからこそ、来てしまえたのだと云えそうにも思えた。伸子は誰の妻でもなかった。どの子の母親でもなかった。女で文学の仕事をするという意味では、伸子の生れた階層の常識にとってさえ、伸子はいてもいなくてもいい存在だったかもしれない。そして、伸子の側からは絶えずある関心を惹かれているソヴェトの毎日にとっても、また故国で伸子とはちがった労働の生活をしているどっさりの人々にとっても。――伸子は、その人々の苦闘ともがきの中にいなかったし、この社会に存在の場所を与えられずに生きつづけて来た者の一人ではない。その人たちの作家というには遠いものだったのだ。食事のために素子と会う約束の時間が来るまで、伸子はアストージェンカの室のディヴァンの上へよこになって考えこんでいた。

 作家生活の三十年を記念するマクシム・ゴーリキイ展は日がたつにつれ、全市的な催しになった。五月中旬には、五年ぶりでゴーリキイがソヴェトへ帰って来るという予告が出て、モスク□では工場のクラブ図書室から本屋の店にまで、「マクシム・ゴーリキイの隅」がこしらえられた。伸子たちがもと住んでいたトゥウェルスカヤ通りの中央出版所のがらんとした飾窓にも、人体の内臓模型の上にゴーリキイの大きい肖像画がかかげられた。

        四

 そういう四月はじめの或る晩のことだった。
 伸子はアストージェンカの室の窓ぎわで、宵の街路を見おろしていた。そして街の騒音に耳を傾けていた。その日の昼ごろ、伸子が外出していた間に、伸子たちの室も窓の目貼りがとられた。帰って来てちっとも知らずにドアをあけた伸子は、室へふみこんだとき彼女に向ってなだれかかって来た騒音にびっくりした。雪のある間は静かすぎて寂寥さえ感じられた周囲だのに、窓の目ばりがとれたら、アストージェンカのその小さな室はまるでサウンド・ボックスの中にいるようになった。建物のすぐ前の小高いところにフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの多角型の大伽藍(がらん)が大理石ずくめで建っているせいか、すべての音響が拡大されて伸子の室へとびこんで来た。電車は建物の表側のあっちを通って、そんなひどい音を出す交叉点らしいところもないのに、一台ごとにどこかでガッタン、ギーと軋む音を伸子たちの室へつたえた。その最中は話声さえ妨げられた。しかし伸子は春と一緒に騒々しくなった自分たちの室をきらう気にならなかった。見馴れた夜の広場の光景に、今夜から音が添って眺められる。それは、北の国の長い冬ごもりの季節のすぎた新鮮さだった。
 テーブルのところで、昼間買って来た「赤い処女地」を見ながら素子が、
「きょう、ペレウェルゼフが、ゴーリキイについて一時間、特別講演をしたよ」
と言い出した。
「まあ、みんなよろこんだでしょう?」
「ああ随分拍手だった、前ぶれなしだったから……」
 ペレウェルゼフ教授は、モスク□大学でヨーロッパ文学史の講義をしていた。今学期は、ロマンティシズムの時代の部分で、素子はそれを聴講していた。
 伸子は素子の聴講第一日にくっついて行った。文科だのに段々教室で、一杯つまった男女学生がペレウェルゼフの講義している講壇の端にまであふれて腰かけていた。立って聴いている学生もあった。伸子にはききわけにくいその二時間ぶっとおしの講義が終って四十五分の質問になったとき、そこに風変りの光景がおこった。質問時間には、学生同士が自主的に討論することを許されているらしかった。教授のわきに立って、黒板にもたれるようにしてノートをとっていた数人の学生の中から、学生の質問にじかに解答したり「君の質問は先週の講義の中に話されている」と質問を整理したりした。段々教室の中頃の席に素子と並んでかけて居た伸子は、そのとき、講壇のわきにいる学生の一群の中でも特別よく発言する一人の学生に注意をひかれた。その学生は、ごく明るい金髪の、小柄な青年だった。そばかすのある顔を仰向けて段々教室につまった仲間たちを見まわしながらその学生は、ユーゴーについての質問に応答した。ロシア語ではHの音がGのように発音されるから、その色のさめた葡萄色のルバーシカを着た金髪で小柄な学生は、ギューゴー・ギューゴーとユーゴーを呼びながら、組合の会合で喋るときのとおり、手をふって話していた。その光景は親愛な気分が漲(みなぎ)りユーモラスでもあった。伸子はその情景を思いうかべながら、
「それで何だって?」
とペレウェルゼフ教授の話の内容を素子にきいた。
「ゴーリキイの作品にあらわれているロマンティシズムについて話したんだけれどね」
 素子の声に不承知の響があった。
「革命的なロマンティシズムと比較してね、ゴーリキイの多くの作品を貫くロマンティシズムは、概して小市民的な本質だというのさ。『母』だけが階級的なロマンティシズムをもっているっていうわけなんだそうだ」
 素子のタバコの煙が、スタンドの緑色のかげのなかを流れている。伸子は、
「ふーん」
と云った。そう云えば、伸子たちがモスク□芸術座で見た「どん底」では、巡礼のルカの役をリアリスティックに解釈していた。「どん底」の人々に慰めや希望を与えるものとしてではなく、現実にはどん底生活にかがまってそこから出ようともしないのに、架空なあこがれ話をくりかえして、不平な人々をなお無力なものにしてゆくお喋りの主として、モスクヴィンのルカは演じられた。とくにそのことが、プログラムに解説されていた。演出の上でルカがそのように理解されたことは、「どん底」の悲惨に一層リアルな奥ゆきを加えて観衆に訴えた。少くとも伸子の印象はそうだった。
「ゴーリキイのロマンティシズムが或るとき過剰だったということは、もちろんわかるさ。チェホフが云ったとおりに。しかしね、『母』だけが革命的ロマンティシズムで立派であとは小市民的なロマンティシズムだって、そんなに簡単にきめられるかい?」
 素子は、何かに反抗するような眼つきをして云った。
「『母』のテーマは革命的であり、英雄的である。したがって、そこにあるのは革命的ロマンティシズムである。――それだけのもんかね」
 京都風にうけ口な唇にむっとした表情をうかべて素子はおこったように、
「メチターってどういうものなのさ。え? 人間の心に湧くメチターってどういうものなのさ」
 憧れ、待望をあらわすその言葉を、響そのものの調子が心に訴えて来るロシア語で、つよく、せまるように素子は云った。きょう目貼りのとれた窓からきこえるようになった早春の夜の物音が時々のぼって来て、月のない空にフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根がぼんやり浮んで見えている。
 しばらくだまっていた素子は、苦しそうな反感をふくんだ表情で、
「わたしはここのものの考えかたの、こういうところは嫌いだ」
と云った。
「何でも、ああか、こうかにわける。分けて比べて、一方には価値があって、一方は価値がない。そうきめちまうようなところが気にくわない」
 素子は、抑えていた感情にあおられたようにつづけた。
「ゴーリキイにしろ一人の人間じゃないか。一人の人間である作家が書いたものに、ぴょこんと、一つだけ革命的ロマンティシズムがあって、ほかはそうでないなんてあり得ないじゃないか……どっかで、きっとつながっているんだ。そのつながったどっかこそ人間と文学の問題じゃないか、ねえ。社会主義ってものにしろ、そういうところに急所があるんだろうとわたしは思いますがね」
 おしまいを素子は皮肉に結んだ。素子がこれだけ集注した感情で、話すのはめずらしいことだった。
 伸子は、素子のいおうとするところを理解した。けれども、語学のできない伸子は、素子とちがってすべてがそうであるとおり目で見て来たゴーリキイ展からあんまり自分に照らし合わせて考えさせられる点をどっさりうけとって来ていた。
 こういうことは、伸子と素子との間でよくあった。
 ソヴェトにおけるゴーリキイの芸術についての評価ということになると、伸子には伸子らしく目で見えることから疑問がなくはなかった。伸子たちがモスク□へ来て間もない頃リテラトゥールナヤ・ガゼータ(文学新聞)にゴーリキイの漫画がでたことがあった。乳母のかぶるようなふちのぴらぴらした白いカナキン帽をかぶった老年のゴーリキイが、揺籃に入れた「幼年時代」をゆすぶっているところだった。伸子はその漫画に好感がもてなかった。その意味で印象にのこった。今年になってからも何かの雑誌にゴーリキイの漫画があって、それではゴーリキイが女のスカートをはかせられていた。スカートをはいたゴーリキイが、炉ばたにかがみこんで「四十年」という大鍋をゆるゆるかきまわしている絵だった。「ラップ」と略称されているロシアのプロレタリア作家同盟の人たちのこころもちは、ゴーリキイに対してこういう表現をするところもあるのかと、伸子は少しこわいように思ってじっとその漫画を見た。
 この頃になってルナチャルスキーの評論をはじめ、マクシム・ゴーリキイの作家生活三十年を記念し、ロシアの人民の解放の歴史とその芸術に与えたゴーリキイの功績が再評価されるようになると、文学新聞をふくめてすべての出版物のゴーリキイに対しかたが同じ方向をとった。
 この間の日曜の晩、アルバート広場で買った「プロジェクトル」にも漫画に描かれたマクシム・ゴーリキイという一頁があった。それはどれも「小市民」や「どん底」の作者としてゴーリキイが人々の注目をあつめはじめた時代にペテルブルグ・ガゼータなどに出たものだった。一つの漫画には、例の黒いつば広帽をかぶってルバーシカを着たゴーリキイがバラライカを弾きながら歌っている記念像の台座のぐるりを、三人のロシアの浮浪人が輪おどりしていて、その台座の石には「マクシム・ゴーリキイに。感謝する浮浪人たちより」とかかれている。ゴーリキイの似顔へ、いきなり大きなはだしの足をくっつけた絵の下には「浮浪人の足を讚美する頭」とかかれている。ゴーリキイきのこという大きな似顔きのこのまわりから、小さくかたまって生えだしているいくつもの作家の顔。ゴーリキイが「小市民」のなかで苦々しい嫌悪を示した当時の小市民やインテリゲンツィアが、「やっぱり、これも読者大衆」としてゴーリキイを喝采しているのを見て、げんこをにぎっていらついているゴーリキイ。それらはみんな一九〇〇年頃の漫画であった。「プロジェクトル」のゴーリキイ特輯号のために新しく描かれた漫画では、大きな鼻の穴を見せ、大きな髭をたらした背広姿の年をとったゴーリキイが、彼にむかって手桶のよごれ水をぶっかけている女や竪琴(たてごと)を小脇にかかえながら片手でゴーリキイの足元に繩わなをしかけようとしている男、酒瓶とペンとを両手にふりまわしてわめいている男たちの群のなかに、吸いかけの巻煙草を指に、巨人のように立っているところが描かれている。わるさをしている小人どもは、革命後フランスへ亡命している象徴派の詩人や作家たちの似顔らしかった。
「国外の白色亡命者と何のかかわりもないマクシム・ゴーリキイ」について数行の説明がついていた。イ□ン・ブーニンは、ゴーリキイが結核だということさえ捏造してゴシップを書きちらした。しかし、実際にはゴーリキイが結核を患ったことなんかはないのだという意味がかかれている。
 ゴーリキイが一九二三年にレーニンのすすめでソレントへ行ったとき、理由は彼の療養ということだったと伸子も思っていた。「プロジェクトル」はそれを否定している。
 ゴーリキイは、ソレントで、その乳母帽子をかぶって描かれていた自分の絵を見ただろうし、スカートをはいて「四十年」の鍋をかきまわしている婆さんとして描き出されている自分をも眺めたことだろう。そして、今は巨人として描かれている自分も。肺病だった、肺病でなかった、今更の議論も、ゴーリキイの心情に何と映ることだろう。伸子には、そういうことが、切実に思いやられた。ゴーリキイはソヴェトへ帰って来ようとしている。ソヴェトへ帰って来ようとしているゴーリキイの心の前には、どんな絵があるだろう。乳母帽子やスカートをはいた自分の絵でないことは明らかだった。ゴーリキイの心は、じかに、数千万のソヴェトの人々のところへ帰って行く自分を思っているにちがいなかった。伸子はそう思ってゴーリキイの年をとり、嘘のない彼の眼を写真の上に見るのだった。
 その晩、九時すぎてから伸子が廊下へ出たら、伸子たちの室と台所との間の廊下で、ニューラが妙に半端なかっこうでいるのが目についた。伸子は、自分の行こうとしているところへ、ニューラも行きたかったのかと思って、
「行くの?」
 手洗所のドアをさした。どこからか帰ったばかりのように毛糸のショールを頭にかぶっているニューラは、あわてて、
「いいえ。いいえ」
と首をふり、台所へ消えた。
 伸子が出て来たとき、台所のところからまたニューラの頭がちょいとのぞいた。どうしたのかしらと思いながら、伸子がそのまま室へ入ろうとするとうしろから、
「お嬢さん(バリシュニヤー)!」
 すがるようなニューラのよび声がした。伸子は少しおどろきながら台所の前まで戻って行った。
「どうしたの? ニューラ」
「邪魔して御免なさい」
「かまわないわ。――でも、どうかしたの? 気分がわるいの?」
「いいえ。いいえ」
 ニューラはまたあわてたように首を左右にふりながら、浅黒い、鼻すじの高い半分ギリシア人の顔の中から、黒い瞳で当惑したように伸子を見つめた。
「きいて下さい、お嬢さん(バリシュニヤー)、わたし洗濯ものを干さなけりゃならないんです。奥さん(ハジヤイカ)が帰るまでに干しておかなけりゃならないんです。そう云って出て行ったんです」
 洗濯ものを干すことで、どうしてニューラがそんなにまごつかなければならないのか伸子にわからなかった。
「ニューラ、あなたいつも自分で干してるんでしょう? それとも奥さんがほしているの?」
「わたしが干しているんです。――でも、わたし、こわいんです」
 わたし、こわいんですと云いながら、ニューラはショールの下で本当にそこにこわいものが見えているように見開いた眼をした。
 黒海沿岸のどこかの小さい町で生れた十七歳のニューラは、ほとんど教育をうけていなかった。ソヴェトの娘としての心持にもめざまされていなかった。伸子たちが、ヨシミとサッサという二人の名を教えても、ニューラはその方がよびいいように昔風に二人をお嬢さん(バリシュニヤー)とよんだ。ルイバコフを主人(ハジヤイン)、細君を奥さん(ハジヤイカ)とよんでいる。モスク□で、伸子たちをバリシュニヤーとよぶのは辻馬車の御者か町の立売りぎりだった。パン屋の店員でも女市民(グラジュダンカ)とよんでいるのに、ルイバコフ夫婦が夏の休暇に南方へでも出かけたとき見つけて連れて来たらしいニューラの、雇女としての境遇は古くさくて淋しかった。
 こわいというニューラの言葉から伸子は、この間この建物の別の棟に泥棒がはいったという噂があったのを思いだした。
「ニューラ、その洗濯ものはどこへ干すの」
「物干場です」
「それはどこ?」
「上なんです。一番てっぺんなんです」
 やっと伸子にわかりかけて来た。物干場は五階のてっぺんだった。もう夜だのにニューラはそこへ一人で物を干しにゆくのがこわい、というわけなのだった。
「わかったわ、ニューラ、じゃ、わたしが一緒に行ったげる」
「ありがとう、お嬢さん(バリシュニヤー)。あなたは御親切です」
「外套をきて来るからね」
「わたし待ちます」
 伸子は室へ戻り、外套を出しながら、
「一寸ニューラが洗濯もの干すのについて行ってやることよ」
と素子に告げた。
「てっぺんで、一人でそこまで行くのがこわいんだって」
「――ぶこだって大丈夫なのかい? いまごろ」
「だって建物の中だもの」
「そりゃそうだけど……」
「大丈夫だことよ。じゃ、ね」
 ニューラとつれ立ってアパートメントを出た。ニューラは普通の外出のときのとおりちゃんと表戸をしめた。コンクリートのむき出しの階段には、それぞれの階の踊場に燭光の小さいはだか電燈がついているぎりで、しめきられたアパートメントのいくつもの戸と人っ子一人いない階段に二人の跫音(あしおと)が反響した。ニューラのこわがったのもわかる寂しさだった。二人は、黙って足早に六階まで登って行った。六階までのぼりきると、つき当りがガラス戸のしまった露台になっていて、右手に、やっぱりはだか電燈のついた一つのドアがあった。その前で止ると、
「ここなんです」
 ニューラはポケットから鍵を出してドアをあけた。はだかの電燈に照しだされて、天井の低いその広間いっぱいに綱がはられているのや、あっちこっちにいろんな物の干してあるのが見えた。床は砂じきだった。ニューラは二人でその物干場へ入ると、また内側から鍵をしめた。そして、伸子の先へ立って、ずんずん、ほし物の幾列かの横を通りすぎ奥に近いところに張りわたされている綱の下に、下げて来たバケツをおろした。張りわたした綱がひっかけられている大釘の上の壁に、アパート番号がはっきり書かれている。ニューラはダブルベッド用の大シーツや下着類を、いそいでその綱に吊るしはじめた。伸子が砂の上に佇んで待っているのでニューラは気が気でないらしく、
「じきです――じきです」
とくりかえした。
「いいのよ、ニューラ、いそがないでやりなさい。わたしはいそいでいないのよ。鍵をしめておけば、こわくもないわ――ニューラは?」
 ニューラは、すぐに返事をせず綱に沿って横歩きにものを干しつづけていたが、
「すこしは、ましです」
と、ぶっきらぼうに答えた。伸子は笑った。天井の低いうす暗いもの干場の空気はしめっぽくて、そこからぬけたことのない石鹸のにおいがした。
「きょうは、どうして、夜もの干しに来たの?」
 伸子が、その辺を眺めながら、ニューラにきいた。
「きょうは洗濯日じゃなかったんです」
「――じゃ、特別?」
「ええ。――さっき、洗ったんです。奥さん(ハジヤイカ)は、いそいでいるんです」
 不恰好に長い腕を動かしながらものを干している若いニューラの見すぼらしい姿を、伸子は可哀そうに思った。ソヴェトの家事労働者組合では、契約時間外の労働には一時間についていくらと割増を主人が支払うことをきめている。そんなことなんかニューラは知らないのだろう。ルイバコフ夫婦はニューラがそういうことを知らないのを、ちっとも不便とはしていないということも伸子にわかる。
「ニューラ、あなた両親がいるの?」
「死にました、二人とも。――二一年にチフスで、二一年には、どっさりの人が死んだんです」
 ジョン・リードのような外国人も、それで死んだし、この間素子がその著作集を買ったラリサ・レイスネル夫人のように類のすくない勇敢な上流出身のパルチザン指導者、政治部員だったひとたちも序文でみればその頃に死んだ。
「ニューラは一人ぼっちなの?」
「そうです」
 最後の下着を吊り終ったニューラは、そのまま足元へ押して来た、からのバケツをとろうとしてかがんだ。が、急にそれをやめて、斜うしろについて来ている伸子をふりかえった。そして、いきなり、前おきなしに、
「わたしの本当の名はニューラじゃないんです」
と云った。
「エウドキアなんです――でも、ここのひとたちはわたしをニューラとしかよばないんです」
 伸子は、思わずニューラの浅黒くてこめかみにこまかいふきでもののある若い顔を見つめた。その顔の上には、どう云いあらわしていいかニューラ自身にもはっきりわかっていない自身のめぐり合わせについての訴えがあった。伸子の眼に思いやりの色があらわれた。その伸子の眼をニューラも見つめた。夜の物干場のしめっぽくて石鹸の匂いがきつくこめて居る空気の中で、ほしものとほしものの間に向いあって、瞬間そうして立っていた二人は、やがて黙ったまま入口のドアの方へ歩き出した。ニューラが、黙ったまま鍵をあけ、外へ出て二人のうしろへ鍵をしめた。跫音を反響させながら、再び人気ない階段を下りて来た。
 四階まで下りて来たとき、伸子がきいた。
「ニューラ、あなたの月給はいくらなの?」
「十三ルーブリです」
「…………」
 もうじきで三階の踊場へ出る階段のところで伸子が、
「ニューラ、あなたがたの組合があるのを知っていて?」
ときいた。この間、ニキーツキイ門へ出る通りを歩いていたら歩道に面した空店の中で多勢の女が、大部分立ったまま何か会議していた。ドアのあいた店内へは通りすがりの誰でも入れた。伸子も入って立って聞いていたら、それは、家事労働婦人の組合の会議だった。伸子はその集会をみたりしていて独特にテムポのゆるい、重い、しかし熱心な空気を思いおこしてニューラにきいたのだった。
「知っています」
「じゃ、はいりなさいよ、そうすれば、友達が出来るわ。そこの書類にはエウドキアって本当の名を書いてくれるわ」
「わたしは書類をかきこむために主人(ハジヤイン)にわたしてあるんです」
「いつ?」
「もう三月ばかり前に」
 三月まえと云えば、伸子たちがまだアストージェンカへ引越して来なかった時分のことだ。
「書いてくれるまで度々、たのみなさい、ね」
 もうそこは主人のドアの前だったので、ニューラは、気がねしたような声で、
「ええ」
と返事した。
 ベルを鳴らすと、素子が出て来て戸をあけた。ルイバコフ夫婦はまだ帰って来ていなかった。
「いやに手間がかかったじゃないか、どうかしたのかと思っちゃった」
「そうだった? 御免なさい。わたしたちは急がなかったのよ、そうでしょう? ニューラ」
 ニューラは台所の入口に立ってショールをぬきながら無言でにこりとしたぎりだった。

        五

 あくる朝、ニューラはいつもどおり茶道具を運んで来た。そして丁寧に腰をかがめるような形で急須や水色ヤカンを一つ一つテーブルの上へおくと、関節ののびすぎた両方の腕を、いかにも絶望的にスカートの上へおとして、
「オイ! わたし、不仕合わせなことになっちゃったんです」
 呻くように、
「オイ! オイ!」
と云いながら胸を反らし、両腕で、つぎのあたった茶色のスカートをうつようにした。その動作は、いつか赤い広場のはずれで素子が物売女の顔をぶったとき、仰山な泣き真似をしながら物売女がオイ! オイ! と大声をあげたそのときの身ぶりとそっくりだった。
「どうしたのさ、ニューラ」
 ニューラの大袈裟(げさ)な様子をいやがるように素子がきいた。
「盗まれちまったんです! オイ!」
「なにを盗まれたのさ」
「洗濯ものを。――ゆうべ乾した洗濯ものがみんな無いんです。盗まれたんです」
「ゆうべ乾したって……」
 素子が、おどろいた顔を伸子にむけた。
「ぶこちゃんが一緒に行ってやった分のことかい?」
「ニューラ、落付きなさい。わたしと一緒にゆうべ乾したものが、無いの?」
「その洗濯ものが、けさまでに、一枚もなくなったんです――わたしに何の罪があるでしょう。こんなことがなくたって、わたしはちっとも仕合わせじゃあないのに……何て呪われているんだろう。何のために、わたしに大きな敷布がいるでしょう」
 ニューラの頬を涙が流れた。
「奥さんは、わたしが盗んだにちがいないと思っているんです。もう電話かけました。警察犬をよんで、わたしの体じゅうを嗅がせるんです。オイ!」
 最大の恐怖が、警察犬にあらわされてでもいるかのようにニューラはますます涙を流した。
「ニューラ、あなた、物干場を出るとき鍵をかけたことはたしかに思い出せるでしょう!」
「わたしが鍵をかけたって何になるでしょう。あすこに入る鍵はこの建物じゅうの住居にあるんです……警察犬が来たら、わたし、この建物じゅうの人たちを嗅がせてやるんだから――オイ!」
 ニューラは涙をふきもせず濡れたほっぺたをしたまま室を出て行った。
「どうしたっていうんだろう」
 ゆうべ見た夜ふけの物干場の光景や人気なかった階段の様子を思い浮べながら伸子が気味わるいという顔をして素子をかえりみた。どういうわけで、ニューラの干したものばかり、盗まれたのだろう。濡れた洗濯ものからはあのときまだ床にしかれた砂の上へ水がたれていたのに。ニューラの荷物と云えば、台所の壁についている折り畳み寝台の下に置かれている白樺の箱の一つだった。
「――こんなことがあるから、つまらないおせっかいなんかしないがいいのさ」
 不機嫌に素子が云った。迷惑をうけるばかりでなく、そんな風ならゆうべだってどこに危険がかくされていたのかもしれないのに。そういう意味から素子は不機嫌になって伸子の軽率をとがめた。
「なにか特別なものがあったの?」
「いいえ。シーツが二枚に女の下着やタオルよ。――変ねえ、よそのだってあんなに干してあったのに……」
 災難がルイバコフ一軒のことだとは伸子に信じられなかった。
「ニューラは知らなくっても、きっとよそでもやられているんでしょう、いやねえ」
 素子は大学へ出かける仕度をしながら、こういうときの彼女の云いかたで、
「わたしは知らないよ」
 わざとちょいと顎をつき出すような表情で云った。
「まあ犬にでも何でも嗅がせることさ」
 そして、出て行った。

 伸子は、一人になってテーブルの上を片づけ、自分の場所におちついた。書きかけた半ぺらの原稿紙はもう三十枚ばかりたまって、ニッケルの紙ばさみにはさまれている。きのう書いた部分をよみ直したりしているうちに、朝おきぬけからの泥棒のさわぎを忘れた。藍色のケイがある原稿紙に、モスク□出来の粗悪な紫インクで伸子はしばらく続きを書いて行った。伸子はこの間の復活祭の夜のことを書きかけていた。
 宗教は阿片である。と、ホテル大モスク□の向いの反宗教出版所の飾窓にプラカートが飾られている。しかし一九二八年の、ソヴェトで復活祭(パスハ)を行った教会はどっさりあった。パスハの前日、往来の物売りは、ほんの少しだったが色つけ玉子を売っていたし、経木に色をつけた祭壇用の造花を売っていた。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤでは、金の円屋根の下に礼拝堂の壁が幾百本かの大蝋燭でいっせいに煌きわたり、モスク□第一オペラ舞踊劇場の歌手たちが、聖歌合唱に来た。伸子と素子もフラム・フリスタ・スパシーチェリヤへつめかけた群集の中にまじった。宗教は阿片である、という言葉なんか知られていないところのような大群集であった。その群集には男よりも女の数が多く目立った。そして、混雑ぶりに一種の特徴があるのが伸子の興味をひいた。白髪で金ぴかの服装の僧正が、香炉の煙のなかでとり行う復活祭の儀式は、復活祭の蝋燭を手にもって祈祷の区切りごとに胸に十字を切っている年とった連中にとってこそ信仰の行事であろうが、多数の若い男女にとっては、ただ伝統的な観ものの一つとしてうけとられるらしかった。そういう感情のくいちがいからあちこちで、群集の間に口喧嘩がおこっていた。それは、人間の歴史のつぎめにあるエピソードであり、伸子はそれが書いて見たかった。
 相変らず時々ひどい音をたてて電車がとおる。そのたびに机の上のコップにさされているミモザのこまかい黄色の花がふるえた。伸子は自分の心の中で何かと格闘しているような緊張を感じながら書いて行った。
 モスク□の印象記を書こうとしはじめてから、伸子はこれまで経験されなかったその緊張感を自覚した。その感じは、書き進んでも消えなかった。ソヴェトの社会現象はその印象を書きはじめてみると、ひとしおその複雑さと嵩のたかさとで伸子を圧倒しそうになるのだった。
 モスク□の印象記を、伸子は、自分が感じとったままの感銘と感覚であらわして行きたいと思った。伸子はいつも眼から、何かの出来事と情景から、色彩と動きと音と心情をもってモスク□を感じとって来た。そのテムポ、その気ぜわしさ、一つ一つに深い理由のある感情の火花や風景。それらをみたように、あったように表現しようとすると伸子の文体はひとりでに立体的になり、印象的になり、テムポのはやい飛躍が生じた。そして断片的でもあった。
 エイゼンシュタインの映画やメイエルホリドの舞台と、どこか共通したようなところのある伸子の文体は、伸子自身にとって馴れないものだった。けれども、生活の刺戟は、ひとりでに伸子にそういう様式を与え、伸子は、そうしかかけなくて書いているのだった。
 伸子がモスク□に生きている現実のいきさつを辿れば、モスク□は伸子が印象記にかいているように伸子のそとに見えている現象だけのものではなかった。伸子は眼から自分の中へ様々のものをうけ入れ、自分というものをそれによって発掘してもいた。たとえばゴーリキイ展のときのように。しかし、そのようにして一人の女の内面ふかく作用しながら生かしているモスク□として印象記を描き出す力は、伸子にまだなかった。伸子には影響をうけつつある自分がまだはっきり自分につかめていなかった。伸子はおのずからの選択で主題を限ってその印象記を書いているのだった。
 伸子が、復活祭(パスハ)の夜群集の中で目撃した婆さんと若い娘の口争いをかき終ったときだった。ドアをたたくものがあった。
「はいっていいですか」
 ニューラのしめっぽい声がした。伸子はけさの泥棒さわぎを思い出した。警察犬が来たのかと思った。そういう職業人に、その人々によめない日本字でうずめられた原稿を見られたくなかった。伸子はいそいで椅子から立ち、紙ばさみのなかへ原稿をしまいながら、
「お入りなさい」
 改まった声をだした。
 入って来たのはニューラだけだった。泣いて唇の腫(は)れあがった顔つきではいって来た。
「どうしたの? ニューラ」
 また椅子に腰をおろした伸子のわきに、だまって自分の体をくっつけるようにして佇んだ。ニューラの着ているものからは、かすかに台所の匂いがした。警察犬が、いま来るかいま来るかと思いながら一人ぽっちで台所にいるのが、ニューラに辛抱できなくなって、到頭伸子のところへ来たことは、室へ入って来たものの、そのまま途方にくれたようにしているニューラのそぶりでわかった。
「ニューラ。こわがるのはやめなさい。犬は正直だから、ニューラのところに洗濯ものなんかかくしてないことはよくわかることよ」
 そうはげまされてもなお半信半疑の表情で、窓からフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根を眺めていたニューラは、
「奥さんは、わたしを疑っているんです」
 深く傷つけられて、それを癒す道のない声の調子でつぶやいた。
「奥さんは、わたしが不正直でも九ヵ月つかっていたでしょうか」
 すすり泣くように大きな息を吸いこんでニューラは、
「ああ。悲しい」
と全身をよじるようにした。
「いつだってあのひとたちはそうなんです」
 ニューラは、気の上ずったような早口で喋りはじめた。伸子たちがここへ移って来る前、オルロフという山羊髯の気味のわるい男の下宿人がいた。山羊髯のオルロフは何でも特別彼のためのものをもっていた。ニッケルの特別な彼の手拭かけ。特別な彼の葡萄酒コップ。そして、彼はいつでも机の上へバラで小銭をちらばしていた。
「あのひとは何故、小銭をそうやって出しておかなけりゃならなかったでしょう――わたしがとるのを待っていたんです。わたしをためしているのがわかっていたんです。朝と夜の時間に、あのひとは何度わたしを呼びたてたでしょう。可愛いニューラ、どうぞこれをしておくれ。親切なニューラ、あれをしなさい」
 ニューラは憎悪をこめて、「可愛いニューラ、どうぞこれをしておくれ」「親切なニューラ、あれをしなさい」と云うときの山羊髯のオルロフという男の口真似をした。
「口でそう云いながら、眼はいつだってわたしを睨んでいたんです。いつだって――笑うときだって、あのひとは唇でだけ笑ったんです」
 伸子は、時計を見て、立ちあがった。
「ニューラ、わたし正餐(アベード)のために出かけなくちゃならないわ」
 ニューラは、自分が用もないのに伸子のところに来ていたことが急に不安になった風で、
「お嬢さん(バリシュニヤー)」
 哀願するように伸子を見た。
「わたしがこんなこと話したって、どうか奥さんに云わないで下さい」
「心配しないでいいのよ、ニューラ。――でもあなたは淋しいのよ、一人ぼっちすぎるのよ、だから、あなたには組合がいるのに」
 室を出て行こうとするニューラに伸子は、外套を着ながら云った。
「犬が来ても、あなたは自分が正直なニューラだということを考えて、こわがっちゃ駄目よ」
 四時に、伸子は素子とうち合わせてある菜食食堂の二階へ行った。普通の食堂とちがってあんまり混んでいない壁際の小テーブルに席をとり、その席へこれから来る人のあるしるしに向い側の椅子をテーブルにもたせかけた。モスク□の気候が春めいて来てから、素子は、日本人の体にはもっと野菜をたべなければわるい、と云いはじめた。そこで、三日に一度は菜食食堂へ来ることになったのだった。
 素子の来るのを待ちながら、伸子はそこになじむことのできない詮索的な視線であたりを眺めていた。モスク□でも食堂へ来て食べるひとは、女よりも、男の方が多かった。ここでも大部分は男でしめられているのだったが、菜食食堂でたべる男たちは、概してゆっくり噛んでたべた。連れ同士で話している調子も声高でなく、よそではよく見かけるように食事をそっちのけで何かに熱中して喋り合っているような男たちの光景は、ここで見られなかった。常連の中には、髪を肩までたらしたトルストイアンらしい風采の男もある。伸子がみていると、菜食食堂へ来る人は、みんな体のどこにか故障があって、内心に屈託のある人のようだった。さもなければ、自分の食慾に対して何かその人としてのおきてをもち、同時にソヴェト政権の驀進(ばくしん)力に対しても何かその人だけの曰くを抱いていそうな人たちだった。こういう会食者たちに占められている菜食食堂の雰囲気は、体温が低く、じっとりと人参やホーレン草の匂いに絡み合っているのだった。伸子は落付きのわるい顔をして、ちょいちょい食堂の壁の高いところについている円い時計の方を見あげた。
 素子は二十分もおくれた。
「ああおそくなっちゃった。何か註文しておいた?」
「あなたが来てからと思って……」
「じゃ、すぐたのもうよ」
 二人は薄桃色の紙によみにくい紫インクでかかれた献立表を見て食べるものを選んだ。
「どうした? 来たかい?」
 泥棒詮議のことを素子が訊いた。
「わたしが出かけるまでは何にも来なかったわ」
 素子は存外こだわらず、
「ま、いいさ」
と云った。
「われわれの部屋だって鍵ひとつないんだから、犬に嗅がせるなら嗅がしてみるさ」
 アストージェンカの室へ移ってから、伸子と素子の生活条件は、一方では前よりわるくなった。室はせまくてぎゅうぎゅう詰めだし、テーブルは一つしかないのを、二人で両側から使っている有様だった。けれども新しい生活のそんな窮屈ささえもモスク□ではあたりまえのこととして伸子が却って落付けたように、素子もアストージェンカへ来てから、大学の講義をききはじめ、神経質でなくなった。泥棒さわぎにしろ、そのことに伸子がいくらかひっかかっているような状況だのに、素子はその点を伸子がひそかにおそれたよりも淡泊にうけた。
 菜食食堂を出て伸子と素子とは散歩がてら大学通りの古本屋へまわった。よごれた白堊の天井ちかくまで、三方の壁を本棚で埋めた広い店内はほこりぽくて、夜も昼も電燈の光で照らされていた。入れかわり立ちかわりする人の手で絶えず上から下へとひっくりかえされている本の山のおかれている台の脚もとに、繩でくくられたクロポトキン全集がつまれていた。伸子は偶然、一九一七年から二一年ごろに出版された書物だけが雑然と集められている台に立った。その台には、ひどい紙だし、わるい印刷ではあるが、この国内戦と飢饉の時代にもソヴェトが出版したプーシュキン文集だのゴーリキイの作品集、レルモントフ詩集などが、今日ではもう古典的な参考品になってしまったプロレトクリトのパンフレットなどとまじっている。
 伸子がその台の上の本を少しずつ片よせて見ているところへ、素子が、より出した二冊の背皮の本をもって別な本棚の方から来た。
「なにかあるのかい」
「――この間のコロンタイの本――こういうところにならあるのかしら」
「さあ。――何しろもうまるでよまれてないもんだから、あやしいな」
 素子が勘定台へ去ったあと、なお暫く伸子はその台の本を見ていた。
 一週間ばかり前日本から婦人雑誌が届いた。それに二木準作というプロレタリア作家が、自分の翻訳で出版したコロンタイ夫人の「偉大な恋」について紹介の文章を書いていた。二木準作は、その作家もちまえの派手な奔放な調子でコロンタイの恋愛や結婚観こそ新しい世紀の尖端をゆくモラルであり、日本の旧套を否定するものはコロンタイの思想を学ぶべきであるというような意味が、若い女性の好奇心や憧憬を刺戟しながら書きつらねられていた。
 アストージェンカの室でその文章をよんで、伸子は一種のショックを感じた。伸子たちがモスク□へ来た時、コロンタイズムは十年昔の社会が、古いものから新しいものにうつろうとした過渡期にひき出された性的混乱の典型として見られ、扱われていた。むしろ、性生活の規律や結婚の社会的な責任、新しい社会的な内容での家庭の確立のことが、くりかえしとりあげられていた。「偉大な恋」はコロンタイ夫人が、国内戦の時代にかいた小説だった。その中で、新しい性生活の形として、互の接触のあとには互に何の責任ももたず、結婚、家庭という永続的な形へ発展する必要も認めないのが、唯物論の立場に立つ考えかただという観念がのべられている。その誤りは、本質的に批判されていた。唯物的であるということの現実は、めいめいの恋愛や結婚そして家庭生活の幸福の基礎が、働いて生きる男女の労働条件が益々よくなってゆくこと、社会連帯の諸施設がゆきわたり、住宅難、食糧、托児所問題などがどしどし解決されてゆくその事実に立つものだということが、いつか自然と伸子にものみこめて来ていた。あらゆる場面でそれはそのように理解されているのだった。
 婦人雑誌の上で二木準作のコロンタイズム礼讚の文章をよんで伸子が感じたショックは、十年おくれの紹介が野放図にされているというだけではなかった。伸子は女としてその文章をよんだとき、本能的ないとわしさを感じ、胸が痛む思いがした。プロレタリア作家だという二木準作は、社会主義というものに対して責任を感じないのだろうか。伸子は、二木という人物の心持をはかりかねた。伸子たちが日本を去る頃、マルクスボーイとかエンゲルスガールだとかいう流行語があった。伸子はあんまり出会ったことがなかったが、菜っ葉服をきた若い男女が銀座をのしまわすことが云われていた。その時分、ジャーナリズムにはエロ、グロ、ナンセンスという三つの言葉がくりかえされていた。コロンタイズムを紹介している二木準作の調子は、その三つの流行語のはじめの一つと通じているようだった。伸子の女の感覚は、それを扱っている二木準作の興味が理論にはなく、そういう無軌道な性関係への男としての興味があると感じた。もっとつきつめて云うと、日本の男の古来の性的放恣(ほうし)に目新しい薬味をつけ、そういう空想にひかれて崩れかかる若い女たちの危さを面白がるような気分を、伸子はよみとったのであった。もし、もっともっと社会的に保証された男と女とその子供たちとが、たのしく安全に生きて、社会に価値のある創造をしてゆくよりどころとしての家庭を確立させなくていいのなら、コロンタイがいうように結婚や家庭や子供がけちらされてしまっていいものなら、社会主義なんかいりはしない。伸子は激情を動かされて素子を対手に議論した。
「生産手段と政権をプロレタリアートがとれば社会主義だなんかと思っているんなら、それこそバチが当る、……人間は、それだけのためにこんな苦労をしてやしないわよ、ねえ。人間の心も体も、個人と社会とひっくるめて、ましに生きようと思うからこそ、骨を折っているのに……」
 伸子は二木準作をしんからいやに感じる心の一方で思うのだった。ソヴェトにある数千の托児所や子供の家、産院は何を意味して居るだろうか、と。数百の食堂は不十分ではあっても働く女の二十四時間にとって何を語っているだろう。結婚の社会的な責任が無視されているならば、無責任な父親である男に課せられているアリメントの法律的な義務は存在するはずがない。
 伸子が、二木準作のコロンタイズム宣伝について憤懣する心の底には、そのとき云い表わされなかった微妙な女の思いがあった。伸子は佃とああいう風に結婚し、ああいう風にして離婚した。もう四年素子と二人の女暮しをして、伸子は、どういう男の愛人でもなかった。恋や結婚の問題は、伸子のいまの身に迫っていることではないようだった。そして、もし伸子に質ねる人があったら、伸子はやっぱり、いま結婚を考えていないと答えたであろう。その返辞は偽りでなかった。佃が悪い良人だったから伸子が一緒に暮せなかったのではなかった。佃は常識からみればいい良人であった。しかし伸子には佃のそのいい良人ぶりが苦しいのだった。平和で不自由のない家庭を自分たちだけの小ささで守ろうとすることに疑問のもてないいい良人ぶりが、伸子を窒息させたのだった。それ故、伸子がいま結婚を考えていない心には、佃とは別な誰か一人の男を見出していない、というよりも、伸子が経験した結婚とか家庭とかいうそのものの扱われかたに抵抗があるのだった。
 モスク□へ来て半年近くなる伸子の感情には、結婚や家庭のありかたについて、ぼんやりした新しい予測と、同時に、どこかがちぐはぐな疑問が湧いて来ていた。伸子がみるソヴェトの生活で、たしかに社会的な施設は幸福の可能に向って精力的につくり出されていた。だけれども、彼女のふれたせまい範囲では、伸子の女の気持がうらやましさで燃え立つほど、新鮮でゆたかな結合を示している男女の一組を見たと思ったことはなかった。ルイバコフの夫婦にしろ、ケンペル夫妻にしろ、そして、並木道(ブリ□ール)をぞろぞろと歩いている無数の腕をくみ合わせた男女たちにしろ。
 然し、そういう何の奇もない男と女とが、平凡な勤勉、多忙、平凡な衝突、平凡な移り気や官僚主義など、ソヴェト風な常套の中に生きている姿の底を支えて、伸子が生きて来た日本の社会では、どんな秀抜な資質のためにも決して存在しなかった一人一人の女の、働く女として、妻として、母として、お婆さんとしての社会保護が、社会契約で実現されていることに思い及ぶと伸子はやはり感動した。自分も女であるということに奮起して、伸子は元気を与えられるのだった。伸子の心の中にいくらかごたついたまま芽生えはじめた女としての未来への期待、確信めいたものが、二木準作のコロンタイズムに対して、女にだけわかる猛烈さで抗議するのだった。
 コロンタイの本は、結局その古本屋にもなかった。帰って来て、ルイバコフのベルを鳴らすと、ドアをあけたニューラの顔が明るかった。すぐ素子が、
「どうした? ニューラ?」ときいた。
「犬に嗅いでもらったかい?」
 するとニューラは、うしろをふりかえってルイバコフたちの住んでいる室のドアがしまっているのをたしかめてから、
「わたしには犬の必要がなかったんです」
 小声で、勝ちほこって云った。
「あの人たちは、よその家の敷布もどっさり盗まれているのを見つけたんです――御覧なさい! あの人たちはいつもあとから分るんです」
 うれしくて仕方のない感情を、ほかの仕草であらわすすべを知らないニューラは、いそいで廊下を先に立って行って、伸子と素子とのための二人の室のドアをあけた。

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