道標
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著者名:宮本百合子 

 素子が、買いもののときねぎるのは癖と云ってよかった。日本でも、一緒にいる伸子がきまりわるく感じるほど、よくねぎった。気やすめのようにでも価をひかれると、もうそれで気をよくして払った。あいにくモスク□では、辻待ちの橇も露天商人も、素子のその癖を刺戟する場合が多かった。伸子は、こういうことがはじまるとわきに立って、おとなしくかけあいを傍聴するのだった。
「さ、七十五カペイキ……いいだろう?」
 リンゴ売は、いこじに、
「八十五カペイキ!」
と大きな声で固執した。
 するとそのとき、リンゴ売と並んで、すぐ隣りの雪の上に布をかぶせてなかみのわからない籠をおいて、赤黄っぽい山羊皮外套の両袖口からたがいちがいに手をつっこんで指先を暖めながら、フェルトの長防寒靴をパタパタやってこのかけひきを見ていた若い一人の物売女が、かみ合わせた白い丈夫そうな前歯と前歯の間から、真似のできないからかい調子で、
「キタヤンキ!(支那女)」
と云った。はじめと終りのキの音に、女の子がイーをしたときそっくりの特別な鋭い響をもたせて。――
 たちまち素子が、ききとがめた。リンゴ売の方は放り出して、
「何ていったのかい」
 花模様のプラトークをかぶったその物売女につめよって行った。頬の赤く太ったその若い女は、素子にとがめられてちょっと不意をくらった目つきになったが、すぐ、前より一層挑戦的に、もっと、意識的に赤い唇を上下にひろげて、白い歯の間から、
「キタヤンキ」
と云った。近づいて行った素子の顔の真正面に向ってそう云って、ハハハハと笑った。笑ったと思った途端、素子の皮手袋をはめた手がその女の横顔をぶった。
「バカやろう!」
 亢奮で顔色をかえた素子は、早口な日本語で罵り、女を睨んだ。
「ひとを馬鹿にしやがって!」
 また日本語で素子はひと息にそう云った。あまりの思いがけなさに、瞬間、伸子は何がなんだかよくわからなかった。同じようにあっけにとられた物売女は、気をとり直すと、左手で、素子にぶたれた方の頬っぺたをおさえながら、右手を大きくふりまわして、
「オイ! オイ! オイ!」
 自分の山羊皮外套の前をばたばた、はたきながら泣き声でわめきたてた。
「オイ! オイ! この女がわたしをぶったよウ。オイ! わたしに何のとががあるんだよう! オイ! オイ!」
 若い物売女のわめき声で、すぐ四五人の人だかりが出来た。よって来た通行人たちは、わめいている女に近づいてよく見ようとして、素子をうしろへ押しのけるようにしながら輪になった。
「どうしたんだ」
 低い声でひとりごとを云いながら、立ちどまるものもある。素子は、よって来る人だかりに押されて輪のそとへはみ出そうになりながら、急激な亢奮で体じゅうの神経がこりかたまったように、女を睨みすえたまま立っている。物売女は、一応人が集ったのに満足して、さて、これから自分をぶった女を本式に罵倒し、人だかりの力で復讐して貰おうとするように、頬っぺたを押えて、から泣きをしながら一息いれた。そのとき、女の背後の車道の方から、スーと半外套に鳥打をかぶった中年の男がよって来た。瘠せぎすで鋭いその男の身ごなしや油断のない顔つきが目についた刹那(せつな)、伸子は、これはいけない、と思った。むずかしくなる。そう直感した。伸子は、いきなり素子の腕を自分の腕にからめて輪のそとへひっぱり出しながらささやいた。
「はやく、どかなけりゃ!」
 素子は、神経の亢奮で妙に動作が鈍くなり、そんな男がよって来たことも心づかず、伸子が力いっぱい引っぱって歩き出そうとするのにも抵抗するようにした。
「だめよ! 来るじゃないの!」
 さいわい、物売女をとり巻いた人々は、真似(まね)の泣きじゃくりをしている女とまだ伸子たちとの関係に注意をむけていない。二三間、現場をはなれると、はじめて素子も自分がひきおこしたごたごたの意味がわかったらしく、腕をひっぱる伸子に抵抗しなくなった。二人は、出来るだけ早足に数間歩くと、どっちからともなく段々小走りになって、最後の数間は、ほんとに駈けだして、ボリシャーヤ・モスコウスカヤの前の通りまで抜けた。気がつくと、一人の身なりのひどい男の子が、かけだした伸子たちのわきにくっついて自分もかけながら、
「エーイ、ホージャ!(ちゃんころ) ホージャ!(ちゃんころ)」
と、囃(はや)したててはねまわっている。しかし、ここでは、それに気をとられる通行人もなかった。
 伸子たちはやっと普通の歩調にもどった。そして、青く塗った囲いの柵が雪の下からのぞいている小公園のような植込みに沿ったひろい歩道をホテルの方へ歩きはじめた。このときになって、伸子は膝頭ががくがくするほど疲れが出た。力のかぎり素子をひっぱった右腕が、気もちわるく小刻みにふるえた。伸子は泣きたい気分だった。
「――つかまらせて……」
 伸子の方がぐったりして、散歩の途中から気分でもわるくしたというかっこうで二人は室へ戻った。
 帽子をベッドの上へぬぎすて、外套のボタンをはずしたまま、伸子はいつまでもベッドに腰かけて口をきかなかった。素子も並んでかけ、タバコを吸い、やっぱり何と云っていいか分らないらしく黙っている。伸子はまだいくらか総毛立った頬の色をして、苦しそうに乾いた唇をなめた。
「――お茶でも飲もう」
 素子が立って行って、茶を云いつけ、それを注いで、伸子の手にもたせた。コップ半分ぐらいまでお茶をのんだとき、
「ああ、そうだ」
 素子が、入口の外套かけにかけた外套のポケットから、往きに買った砂糖菓子を出して来た。二杯めの茶をのみはじめたころ、やっと伸子が、変にしわがれたような低い声で、悲しそうに、
「ああいうことは、もう絶対にいや」
と云った。
「…………」
「手を出すなんて――駄目よ! どんな理由があるにしろ……まして悪態をついたぐらいのことで――」
 素子は、タバコの灰を茶の受皿のふちへおとしながら、しばらくだまっていたが、
「だって、人馬鹿にしているじゃないか。なんだい! あのキタヤンキって云いようは!」
 物売がやったように、上と下とのキの音に、いかにも歯をむき出した響きをもたせて素子はくりかえした。
「だから、口で云えばいいのよ」
「口なんかで間に合うかい!」
 それは、素子独特の率直な可笑しみだった。伸子は思わず苦笑した。
「だって、ぶつなんて……どうして?」
 支那の女という悪口が、それほど素子を逆上させる、その癇のきつさが、伸子にはのみこめないのだった。
「そりゃ、ぶこちゃんは品のいい人間だろうさ。淑女だろうさ。わたしはちがうよ――わたしは、日本人なんだ……」
「だからさ、なお、おこるわけはないじゃないの。ああいうひとたちには、区別がわかりゃしないんだもの。ここにいるのは、昔っから支那の人の方が多いんだもの」
 街で伸子たちが見かけるのも中国の男女で、日本人は、まして日本の女は、モスク□じゅうにたった十人もいはしない。その日本婦人も、大使館関係の人々は伸子たちよりはもとより、一般人よりずっと立派な服装をしていて、外見からはっきり自分たちを貴婦人として示そうとしていた。伸子たちにさえ、日本人と中国人の見わけはつかなかった。モスク□の極東大学には、この数年間日本から相当の数の日本人が革命家としての教育をうけるために来ているはずであった。その大学附近の並木路を伸子たちが歩いていたとき、ふと、あっちからやって来る二人づれの男の感じが何となし日本人くさいのに気づいた。
「あれ、日本のひとじゃないのかしら」
 素子もそれとなく注目して、双方から次第に近づき、ごく間近のところを互に反対の方向へすれちがった。伸子も素子も、その二人の人たちが大ロシア人でないことをたしかめただけだった。中国人か朝鮮のひとか、蒙古の若い男たちか、その区別さえもはっきりしなかった。もし日本人であったとすれば、その人たちの方からまぎれない日本女である伸子たちを見つけて、話すのをやめ、漠然と「東洋の顔」になってすれちがって行ったのにちがいなかった。
 もう一度、トゥウェルスカヤの通りでも、それに似たことがあった。そのときも、さきは二人づれだった。愉快そうに喋りながら来る、その口もとが、遠目に、いかにも日本語が話されている感じだった。が、とある食料品店の前の人ごみで、ほとんど肩をくっつけるようにしてすれちがったとき、その人たちが、日本人だと云い切る特徴を伸子は発見しなかった。伸子は、それらのことを思い出した。
「それだもの、ああいう女がまちがえたって、云わば無理もないわよ」
「そりゃ、ただ区別がわからないだけなら仕様がないさ。日本人だって、西洋人の国籍が見わけられるものはろくにいやしないんだから。……バカにしやがるから、癪(しゃく)にさわるのさ。いつだってきまっているじゃないか、ホージャに、キタヤンキ。――日本人扱いをした奴が一人だっているかい」
「…………」
 キタヤンカ――(支那女)伸子は、その言葉をしずかにかみしめているうちに、この間、ホテル・メトロポリタンの薄暗い、がらんとした妙な室で会ったリン博士を思い出した。あのひとこそ、正銘の中国の女、キタヤンカであった。けれども、あのものごしの沈厚な、まなざしの美しいひとが、もの売をねぎっているわきからキタヤンカと、素子がからかわれたようなからかわれかたをしたことがあるだろうか。伸子からみると公平に云って素子には、何となしひとにからかいたい気持をおこさせるところがあるように思えた。
 素子は、タバコの灰をおとすときだけ灰皿のおいてある机のところへよるだけで、いかにも不愉快そうに室の内を歩きまわっている。段々おちついた伸子の心に、いきなりぶったあげく逃げ出した卑怯な二人の女のかっこうが、苦々しくまた滑稽に見えて来た。
「――あなたって、不思議ねえ」
 柔和になった伸子の声に、素子の視線がやわらいだ。
「どうしてさ」
「だって――あなたは、さばけたところがあるのに――。ある意味じゃ、わたしよりずっとさばけているのに、変ねえ……キタヤンカだけには、そんなにむらむらするなんて……」
「…………」
 伸子を見かえした素子の瞳のなかにはふたたび緊張があらわれた。
 伸子が五つ六つの頃、よく支那人のひとさらいの話でおどかされたことがあった。けれども、現実に幼い伸子の見馴れた支那人は、動坂のうちへ反物を売りに来る弁髪のながい太った支那の商人だった。その太った男は、いつも俥にのって来た。そして、日本のひとのように膝かけはかけないで、黒い布でこしらえた沓(くつ)をはいた両足をひろげた間に、大きい反物包みをはさんでいた。弁髪の頭の上に、赤い実のような円い飾りのついた黒い帽子をかぶっていて、俥にのったり降りたりするとき、ながい弁髪は、ちょいと、碧(あお)い緞子(どんす)の長上着の胸のところへたくしこまれた。この反物売の支那人は、
「ジョーチャン、こんにちは」
と、いつも伸子に笑って挨拶した。玄関の畳の上へあがって、いろいろの布地をひろげた。父が外国へ行っていて経済のつまっている若い母は、美しい支那の織物を手にとって眺めては、あきらめて下へおくのを根気づよく待って、
「オクサン、これやすい、ね。上等のきれ」
などと、たまには、母も羽織裏の緞子などを買ったらしかった。この支那人の躯と、反物包みと、伸子の手のひらにのせてくれた落花生の小さな支那菓子とからは、つよく支那くさいにおいがした。子供の伸子が、支那くささをはっきりかぎわけたのは、小さい伸子の生活の一方に、はっきりと西洋の匂いというものがあったからだった。たまに、イギリスの父から厚いボール箱や木箱が送られて来ることがあった。そういう小包をうけとり、それを開くことは、母の多計代や小さかった三人の子供たちばかりか一家中の大騒動だった。伸子は、そうして開かれる小包が、うっとりするように、西洋のいいにおいにみちていることを発見していた。包装紙の上からかいでも、かすかに匂うそのにおいは、いよいよ包が開かれ、なかみの箱が現れると一層はっきりして来て、さて、箱のふたがあいていっぱいのつめものが、はじけるように溢れ出したとき、西洋のにおいは最も強烈に伸子の鼻ににおった。西洋のにおいは、西洋菓子のにおいそっくりだった。めったにたべることのない、風月の木箱にはいった、きれいな、銀の粒々で飾られた西洋菓子のにおいと同じように、軽くて、甘くて、ツンとしたところのある匂いがした。
 こわいような懐しいような支那についての伸子の感じは、その後、さまざまの内容を加えた。昔の支那の詩や「絹の道」の物語、絵画・陶器などの豊富な立派さが伸子の生活にいくらかずつ入って来るにつれ、伸子は、昔の支那、そして現代の中国というものに不断の関心をひかれて来ていた。そこには、日本で想像されないような大規模な東洋の豊饒さと荒涼さ、人間生活の人為的なゆたかさと赤裸々の窮乏とがむき出されているように思えているのだった。
 日本にいたとき、わざわざ九段下の支那ものを扱っている店へ行って、支那やきの六角火鉢と碧色の毛氈(もうせん)を買ったのは素子だった。そんな趣味をもっている素子が、支那女と云われると、分別を失って逆上し、くやしがる。
 日本人のきもちには日清戦争以来、中国人に近づいて暮しながらそれをばかにしている気もちがある。日本に来ている留学生に対しても、商人にたいしても。そのばかにした心持からの中国人の呼びかたがいくとおりも、日本にある。素子が、キタヤンカと云われた瞬間、ホージャと呼ばれた瞬間、それは稲妻のような迅さで中国人に対する侮蔑のよびかたとなって、素子の顔にしぶきかかるのではないだろうか。
「そう思わない?――心理的だと思わない?」
 素子は、睨みつける目で、そういう伸子を見すえていたが、ぷいとして、
「君はコスモポリタンかもしれないさ。わたしは日本人だからね。日本人の感じかたしか出来ないよ」
 タバコの箱のふたの上で、一本とり出したタバコをぽんぽんとはずませていたが、
「ふん」
 鼻息だけでそう云って、素子は棗形をした顔の顎を伸子に向って、しゃくうようにした。
「――コスモポリタンがなんだい! コスモポリタンなら、えらいとでもいうのかい!」
 火をつけないタバコを指の間にはさんだまま室の真中につったって自分をにらんでいる素子から伸子は目をそらした。伸子は、あらためて自分を日本人だと意識するまでもないほど、ありのままの心に、ありのままに万事を感じとって生活しているだけだった。日本の女に生れた伸子に、日本の心のほかの心がありようはなかったけれども、伸子には、素子のように、傷けられやすい日本人意識というものがそれほどつよくなかった。或は気に入るものは何につけ、それを日本にあるものとひきつけて感情を動かされてゆく癖がないだけだった。
 モスク□へついた翌日、モスク□芸術座を見物したとき、瀬川雅夫は、幾たびカチャーロフやモスクビンが歌舞伎の名優そっくりだ、と云って賞(ほ)めただろう。伸子にとってそれは全く不可解だった。カチャーロフと羽左衛門とがどこかで同じだとしたら、わざわざモスク□へ来て芸術座を観る何のねうちがあるだろう。
 秋山宇一が、コーカサスの美女は、日本美人そっくりだ、とほめたとき、伸子がその言葉から受けた感じは、暗く、苦しかった。エスペラントで講演するひとでさえも、女というものについては、ひっくるめて顔だちから云い出すような感覚をもっているという事実は、それにつれて、伸子に苦しく佃を思い浮ばせもすることだった。駒沢の奥の家で一時しげしげつき合いそうになった竹村の感情も思い出させた。竹村も佃も、それが男の云い分であるかのように、編みものをしているような女と生活するのは愉しい、と云った。編みものをしたりするより、もっと生きているらしく生きたがって、そのために心も身も休まらずにいる伸子にむかって。――素子にしろ日本の習俗がそういう習俗でなかったら、もっと自然に、素子としての女らしさを生かせたのに――。
「自分で、日本のしきたりに入りきれずにいるくせに、日本人病なんて――。おかしい」
と伸子は云った。
「矛盾してる」
「――ともかく、さきへ手をあげたのは、わたしがよくなかった。それはみとめますよ」
 思いがけない素直さで素子が云い出した。
「実は、幾重にも腹が立つのさ」
「なにに?」
「先ず自分に……」
 そう云って、素子は、うっすり顔を赧らめた。
「それから、ぶこに――」
「…………」
「ぶこが、どんなに軽蔑を感じているかと思ってさ――腹んなかに軽蔑をかくしているくせに、なにを優等生面(づら)して! と思ったのさ」
「軽蔑しやしないけれど……でも、あんなこと……」
 自分の前に来て立った素子を見あげて伸子はすこしほほえみながら涙をうかべた。
「ここのひとたちの前から、まさか、かけて逃げ出さなけりゃならないような暮しかたをしようとしてやしないんだもの――」

        六

 壁紙のないうす緑色の壁に、大きな世界地図がとめてある。伸子はその下の、粗末な長椅子の上で横むきに足をのばし、くつしたをつくろっている。女学生っぽい紺スカートの襞(ひだ)が長椅子のそとまでひろがって、水色ブルーズの胸もとに、虹のような色のとりあわせに組んだ絹紐がネクタイがわりにたれている。
 すぐ手の届くところまでテーブルがひきよせてあった。日本風の紅絹(もみ)の針さしだの鋏だのがちらばっていて、そのかたわらに一冊の本がきちんとおいてある。白地に赤で、旗を押したてて前進する群集の絵が表紙についていた。「世界を震撼させた十日間」ジョン・リード。ロシア語で黒く題と著者の名が印刷されている。その本はまだ真新しくて、きょうの午後から、伸子の語学の教科書につかわれはじめたばかりだった。
 薄黄色いニスで塗られた長椅子の腕木に背をもたせて針を動かしている伸子の、苅りあげられたさっぱりさが寂しいくらいの頸すじや肩に、白い天井からの電燈がまっすぐに明るく落ちた。伸子はその頸をねじるようにして、ちょいちょいテーブルの上へ眼をやった。向い側の建物の雪のつもった屋根の煙突から、白樺薪の濃い煙が真黒く渦巻いて晴れた冬空へのぼってゆくのが見えた部屋で、マリア・グレゴーリエヴナが熱心と不安のまじりあった表情で、新しい本の第一頁を開き、カデットとか、エスエルとかいうケレンスキー革命政府ごろの政党の関係を説明してくれた顔つきが思いだされた。そういういりくんだ問題になると、伸子の語学の力ではマリア・グレゴーリエヴナの説明そのものが半分もわからなかった。針に糸をとおしながら、伸子はあっちの窓下の緑色がさのスタンドにてらされたデスクで勉強している素子に声をかけた。
「あなた、ちかいうちに国際出版所(メジュナロードヌイ)へ行く用がありそう?」
「さあ……わからない」
「行くときさそってね」
「ああ……」
 カデットとかエスエルとか、そのほかそういう政治方面の辞書のようなものが必要になって来た。
 伸子は、気がついて、保か河野ウメ子かにたのんで日本語のそういう辞典を送ってもらうのが一番いいと思いついた。日本でもそういう本はどんどん出版されていた。言海はモスク□へももって来ているが、社会科学辞典がこんなに毎日の生活にいるとは思いつかなかった伸子だった。あんなに用意周到だった素子も蕗子もそのことまでにはゆきとどかないで来てしまった。――
 東京とモスク□と、遠いように思っていても、こうして、たった二週間ばかりで手紙も来るんだから……。伸子は、ひょいと体をうかすようにして手をのばし、テーブルの上から二通の手紙をとった。手紙のわきには、キリキリとかたく巻いて送られて来た日本の新聞や雑誌の小さいひと山が封を切っても、まだ巻きあがったくせのままあった。マリア・グレゴーリエヴナのところへ稽古に出かけたかえりに、伸子は例によって散歩がてら大使館へよって、素子と自分への郵便物をとって来たのだった。
 伸子は、針をさしたつくろいものをブルーズの膝の上にのせたまま、一遍よんだ手紙をまた封筒からぬき出した。
 乾いた小枝をふんでゆくようなぽきぽきしたなかに一種の面白さのある字で、河野ウメ子は、伸子にたのまれた小説の校正が終って近々本になることを知らせて来ていた。そして、春にでもなったら、京都か奈良へ行ってしばらく暮して見ようと思っているとあった。奈良に須田猶吉が数年来住んでいて、その家から遠くないところにウメ子の部屋が見つかるかもしれない、とかかれている。この手紙は、素子様伸子様と連名であった。伸子は、ウメ子の手紙にかかれている高畠という町のあたりは知らなかったが、雨の日の奈良公園とそこに白い花房をたれて咲いていた馬酔木(あしび)の茂みは、まざまざとして記憶にあった。春日神社の裏を歩いていたら古い杉林の梢にたかく絡んで、あざやかに大きい紫の花を咲かせていた藤の色も。その藤の花を見た日、伸子は弟の和一郎とつれだって石に苔のついたその小道をぶらぶら歩いていた。
 ウメ子の手紙を封筒にもどして、伸子はもう一通をとりあげた。ケント紙のしっかりした角封筒の上に、ゴシックの装飾文字のような書体で、伸子の宛名がかいてある。さきのプツンときれたGペンを横縦につかって、こんな図案のような字をかくことが和一郎のお得意の一つだった。その封筒のなかみは、泰造、多計代、和一郎、保、つや子と、佐々一家のよせがきだった。つや子が、友禅ちりめんの可愛い小布れをはってこしらえた栞(しおり)がはいっていた。「今日の日曜日は珍しく在宅。一同揃ったところで、先ず寄書きということになりました。」年齢よりも活気の溢れた泰造の万年筆の字が、やっぱり泰造らしいせわしなさで、簡単に数行かいている。「近日中に母はまた前沢へ参る予定」――。
 つぎの一枚は、多計代の字で半ば以上埋められていた。伸子はその頁の上へぼんやり目をおとしたまま、むかし父かたの祖母が田舎に生きていたころ、多計代の手紙を眺めては歎息していたことを思い出した。「おっかさんは、はア、あんまり字がうまくて、おらにはよめないごんだ」と。その祖母は、かけ硯(すずり)のひき出しから横とじの帖面を出しては、かたまった筆のさきをかんで、しよゆ一升、とふ二丁と小づかい帖をつけているひとだった。こうやって、便箋の上から下まで一行をひと息に、草書のつながりでかかれている母の手紙をうけとると、伸子も、当惑がさきに立つ感じだった。簡単に云えば、伸子に母の手紙はよめないと云えた。それでも、それは母の手紙であったから、伸子は読めないと云うだけですまない心があったし、よめないまんまにしておいた行間に、何か大切なことでもあったりしたらという義務の感情で、骨を折るのだった。
 さっき一遍よんだとき、読めなかったところをあらためて拾うようにして、その流達といえば云える黒い肉太の線がぬるぬるぬるぬるとたぐまっては伸び、伸びてはたぐまるような多計代の字をたどって行った。伸子は、こまかくよむにつれてはりあいのないような、くいちがっているようなきもちになった。そのよせがきには動坂の人たちが、食堂の大テーブルを囲んでがやがやいいながらてんでに喋っているその場の感じがそのまま映っているようだった。その和一郎にしろ、先月、伸子がきいたオペラについてモスク□の劇場広場のエハガキを書いてやったことにはふれていないで、今年は美術学校も卒業で卒業制作だけを出せばいいから目下のところ大いに浩然の気を養ってます、と語っている。泰造はいそがしさにまぎれてだろう、伸子が特に父あてにおくったトレチャコフ美術館の三枚つづきのエハガキについて全く忘れている。
 多計代の文章の冒頭にだけ、この間は面白いエハガキを心にかけてどうもありがとう。一同大よろこびで拝見しました、とあった。けれども、それはいつ伸子が書いたどんなエハガキのことなのか、そして、どう面白かったのか、それはかいてなかった。膝の上にいまこの手紙をひろげている伸子が、もし、それはどのエハガキのことなの? ときくことが出来たとしたら、多計代はきっとあのつややかな睫毛をしばたたいて、ちょっとばつのわるそうな顔になりながら、あれさ、ほら、この間おくってくれたじゃないか、といいまぎらすことだろう。
 みんなの手紙の調子は、伸子にまざまざと動坂の家の、食堂の情景を思い浮べさせた。
 そして伸子は、ふっと笑い出した。動坂の家の食堂のあっちこっちの隅には、いつもあらゆる形の箱だの罐だのがつみかさねられていた。中村屋の、「かりんとう」とかいた卵色のたてかん、濃い緑と朱の縞のビスケットの角罐、少しさびの来た古いブリキ罐、そんなものが傍若無人に、どっしりした英国風の深紅色に唐草模様のうき出た壁紙の下につまれている。それは一種の奇観であった。中央の大テーブルの多計代がいつも坐る場所の下には、二つ三つの風月堂のカステラ箱がおいてあって、その中には手あたり次第に紙きれだの何だの、ともかくそのとき多計代がなくしては困ると思ったものが入れてあった。だから、動坂の家で何か必要な書きつけが見つからないというようなことがおこると、まず多計代から率先してふっさりしたひさしの前髪をこごめて、大テーブルの下をのぞいた。この習慣は、伸子たち動坂の子供にとっては物心づいて以来というようなものだから、食堂にとおされるほど親しいつき合いの人なら、その客のいるところでも、必要に応じて伸子のいわゆる「家鴨(あひる)の水くぐり」が行われた。ときには多計代が、何かさがしていて、どうも見えないね、というやいなや、伸子が音頭をとって、テーブルについている四人の息子や娘たちが一斉にテーブルの下へ首をつっこんで、わざと尻をたかくもち上げ、家鴨のまねをした。
 その食堂の煖炉(だんろ)棚の上には、泰造の秘蔵しているギリシアの壺が飾られていた。モスク□へ立って来るについて伸子が駒沢の家をたたんで数日動坂で暮した間、その煖炉のギリシア壺のよこに大きなキルクが一つのっていた。毎朝掃除がされているのに、何かのはずみで一旦その場ちがいなところへのったキルクは、何日間も煖炉棚の上でギリシア壺のわきにあった。そして、もう今ごろそれはなくなっているだろう。いつの間にか見えなくなった、という片づきかたでキルクは煖炉棚の上からなくなり、その行方について知っているものはもう誰もいないのだ。
 こういうけたはずれのところは主婦である多計代の気質から来た。もし多計代が隅から隅までゆきとどいて自分の豪華趣味で統一したり、泰造の古美術ごのみで統一されたりしていたら、動坂の家というところはどんなに厭な、人間の自由に伸びるすきのない家になっただろう。伸子は、動坂の家に、せめてもそういう乱脈があることをよろこんだ。少女時代を思い出すと、そういうよそからは想像も出来ないようなすき間が動坂の家にあったからこそ伸子は、いつかその間にこぼれて伸びることもできた野生の芽として自分の少女時代を思い出すことができた。
 伸子が十四五になって、自分の部屋がほしくなったとき、伸子はひとりで、玄関わきの五畳の茶室風の室がものおき同然になっていたのを片づけた。そしてそこに押しこんであった古い机を、小松の根に蕗(ふき)の薹(とう)の生える小庭に向ってすえた。そして、物置戸棚につみあげてある古本の山のなかから、勝手にとじのきれかかった水沫集だのはんぱものの紅葉全集だの国民文庫だのを見つけて来て、自分の本箱をこしらえた。その中で、ほんとに伸子のものとして買ってもらった本と云えばたった二冊、ポケット型のポーの小説集があるばかりだった。
 すきだらけと乱脈とは、いまも動坂の家風の一つとしてのこっている。年月がたつうちに経済にゆとりが出来てきただけ、その乱脈やすきだらけが、むかしの無邪気さを失って、家族のめいめいのてんでんばらばらな感情や、物質の浪費としてあらわれて来ている。伸子は数千キロもはなれているモスク□の、雪のつもった冬の夜の長椅子から、確信をもって断言することが出来た。伸子がこのホテルのテーブルの上で、モスク□人がみんなそれをつかっている紫インクで、エハガキや時には手紙でかいてやる音信は、先ず多計代に封をきられ、いあわせたものたちに一通りよまれ、それから、なくなるといけないからね、と例のテーブルの下の箱にしまわれていることを。カステラ箱にしまわれた伸子の手紙はなくならないかもしれないけれども、ほんのしばらくたてば動坂の人たちは、もうすっかりそれについて、何が書かれているかさえ忘れてしまっているのだ。動坂の人たちは伸子なしで充分自足しているのだから――。
 伸子がいろいろの感情をもって打ちかえして見ている動坂のよせ書きの三頁めのところで、保が数行かいていた。ほそく、ペンから力をぬいて綿密に粒をそろえたノートのような字は、保のぽってりした上瞼のふくらみに似たまるみをもっている。これが、高等学校の最上級になろうとしている二十歳の青年の手紙だろうか。来年は大学に入ろうという――。保は、そのよせ書きの中で保だけまるで一人だけ別なインクとペンを使ったのかと思えるほど細い万遍なく力をぬいた字で、こうかいていた。「僕が東京高校へ入学したとき、お祝に何か僕のほしいものを買って下さるということでした。僕には何がほしいか、そのときわからなかった。こんど、僕は入学祝として本式にボイラーをたく温室を拵(こしら)えて頂きました。これこそたしかに僕のほしいものです。」そして、保は、簡単な図をつけて温室の大きさやスティームパイプの配置を説明しているのだった。
 動坂の家風は、すきだらけであったが、親に子供たちが何かしてもらったときとか、見せてもらったりしたときには、改まってきちんと、ありがとうございました、と礼を云わせられる習慣だった。言葉づかいも、目上のものにはけじめをつけて育ったから、二十歳になった保が、こしらえて頂いたという云いかたをするのは、そういう育ちかたがわれしらず反映しているとも云えた。しかし、保は小学生の時分から花の種を買うために僅の金を母からもらっても、収支をかきつけて残りをかえす性質だった。お母さまから頂いたお金三円、僕の買った種これこれ、いくらと細目を並べて。
 伸子が、モスク□暮しの明け暮れの中で見て感じているソヴェト青年の二十歳の人生の内容からみると、たかだか高等学校に入ったというような事にたいして、温室をこしらえて頂いた、と書いている保の生活気分はあんまりおさなかった。高等学校に入ったということ、大学に入るということそれだけが、ひろい世の中をどんな波瀾をしのぎながら生きなければならないか分らない保自身にとって、どれだけ重大なことだというのだろう。
 多計代にとってこそ、それは、佐々家の将来にもかかわる事件のように思われるにちがいなかった。長男の和一郎は、多計代にやかましく云われて一高をうけたが、失敗すると、さっさと美術学校へ入ってしまった。多計代は明治時代の、学士ということが自分の結婚条件ともなった時代の感情で、息子が帝大を出ることの出来る高校に入ったということに絶大の意味と期待をかけているのだった。その感情からお祝いをあげようという多計代の気もちが、それなり、お祝いを頂く、という保の気もちとなっているところが伸子に苦しかった。辛辣にならないまでも、保は保の年齢の青年らしく、家庭においての自分の立場、自分の受けている愛情について、つっこんで考えないのだろうか。あんなに問題をもっているはずの保が、和一郎と妹のつや子の間にはさまって、団欒(だんらん)という枠のうちに話題までおさめて書いている態度が、伸子にもどかしかった。どうして保は、もっと勝手にさばさばと、たよりをよこさないのだろう。そう思って考えてみると、伸子がモスク□へ来てから保は二度たよりをよこしたが、二度ともみんなとの寄せ書きばかりだった。
 ――ふと、伸子は、あり得ないようなことを推測した。多計代は、もしかしたら保が伸子に手紙をかくことを何かのかたちで抑えているのではないだろうか。姉さんに手紙を出すなら、わたしに一度みせてからにおし。対手が保であれば、多計代のそういう命令が守られる可能もある。伸子が動坂の家へ遊びに行って、保と二人きりですこしゆっくり話しこんでさえ多計代は、その話の内容を保から話させずにいられないほど、自分の所謂(いわゆる)情熱の子(パッショネート・チャイルド)から伸子をへだてようとして来た。多計代と保の家庭教師である越智との感情が尋常のものでなくなって、その曖昧で熱っぽい雰囲気にとって伸子の存在が目ざわりなものとなってから、多計代のその態度は、つよく目立った。越智とのいきさつは、日没の空にあらわれた雲の色どりのように急に褪せて消えたが、伸子の影響から保を切りはなそうとする多計代の意志は、それとともに消滅しなかった。保や和一郎のことについて伸子が批評がましくいうと、多計代は、わたしには自分の子を、自分の思うように育てる権利があるんだよ。黙っていておくれ。――まるで、伸子は、子の一人でないかのように伸子に立ち向った。保を伸子から遠のけておくのは母の権利だと考えているのだった。それを思うと、伸子の眼の中に激しい抵抗の焔がもえた。多計代に母の権利があるというならば、姉である自分には、人間の権利がある。責任もある。保は人間らしい外気のなかにつれ出されなければならないのだ――。
 伸子は膝の上からつくろいものをどけて、ちゃんと長椅子にかけなおした。そして日本からもって来ている半ペラの原稿用紙をテーブルの上においた。
「みなさんのよせがきをありがとう。今度はこの手紙を、とくべつ、保さんだけにあててかきます。わたしたちは、いつもみんなと一緒にばかり喋っていて、ちっとも二人だけの話をしないわね。なぜでしょう? 保さんのところには、わたしに話してきかせてくれたいような話が一つもないの? まさかそうとは思われません。姉と弟とが別々の国に暮していて、お互にどんなに本気で生活しているかということを知らせ合うのはあたりまえだし、いいことだと思います。もし保さんの方に、それをさまたげているものがあるとすればそれは何でしょう」
 伸子は、こう書いている一行一行が多計代の目でよまれることを予期していた。
「わたしの筆不精がその原因かしら」
 温室の出来たことを保がよろこんでいる気持は、伸子にも思いやられた。フレームでやれることはもうしてしまったと云って、伸子がモスク□へ立って来る年の春から夏にかけて、保は勉強机の上でシクラメンの水栽培しかしていなかった。温室がもてた保のうれしさは、心から同感された。しかしそれを高校入学祝として、こしらえて頂いた、という範囲でだけうけとって、自分の青年らしい様々の問題に連関させていないような保の気持が伸子には不安で、もどかしいのだった。伸子から云えば、保にはもっと率直な気むずかしさがあっていいとさえ思えた。そのことを伸子は感じているとおりにかいた。
「保さんの健康と能力と家庭の条件をもっているひとなら、高校に入るのは、むしろあたりまえでしょう。親はどこの親でも、親としての様々の動機をもってそれをよろこび、よろこびを誇張します。けれども、その親たちは、自分の息子が高校に入れたというよろこびにつけて、ほんとにただ金がないというだけの理由で、中学にさえ入れない子供たちが日本じゅうにどれだけいるか分らないということを、思いやっているでしょうか。
 保さんの東京高校というところは、たった一人の貧しい学生もいないほど金持の坊ちゃんぞろいの学校なの? もしそうだとすれば、こわいことだし、軽蔑すべきことだわ。そこで育っている学生たちは、自分たちだけに満足して、世の中にどっさり存在している不幸について、想像力をはたらかすことさえ知らないのでしょうか」
 書いている自分の肱で、紅絹(もみ)の針さしを床におとしてしまったのにも心づかないで、伸子はつづけた。
「保さんのこしらえて頂いた温室というのがいくらかかったかは知らないけれども、それは少くとも、貧しい高校生の一年分の月謝よりどっさり費用がかかっているでしょう。保さんはそのことを考えてみたでしょうか。そして、公平に云えば、それだけの金がないばかりに、保さんよりもっと才能もあり人類に役に立つ青年が泥まびれで働いているかもしれないということを考えてみたでしょうか。こういういろんなことを、保さんは考えてみて? 想像の力のない人間は、思いやりも同情もまして人間に対する愛などもてようもありません」
 保に向ってかいているうちに、みんなが旺(さかん)な食慾を発揮しながら、あてどなく時間と生活力を濫費している動坂の家の暮し全体が伸子にしんからいやに思われて来た。
「保さん、あなたこそ青春の誇りをもたなければいけないわ。自分のもてるよろこびをたっぷり味うと一緒に、それが、この社会でどういう意味をもっているかということは、はっきり知っているべきです。いただくものは、無条件に頂くなんて卑屈よ。持つべきものは、主張しても持たなければならないし、持つべきでないものは、下すったって、頂いたって、持つべきではないと思います」
 伸子の感情の面に、モスク□第一大学の光景がいきいきと浮んできた。冬日に雪の輝いている通りを大学に向って行くと、雪を頂いた円形大講堂の黄色い外壁が聳えている。その外壁の上のところを帯のようにかこんで、書かれている字はラテン語でもなければ、聖書の文句でもなかった。「すべての働くものに学問を」モスク□第一大学の黄色い円形講堂の外壁にきょうかかれているのは、その文字だった。
「保さん、この簡単なことばのふくんでいる意味はどれほどの大さでしょう。この四つの言葉は、この国で人間と学問との関係が、はじめてあるべきようにおきかえられたという事実を示しています。人間も、学問をすべてのひとの幸福のために扱うところまで進歩して来たという事実を語っています。わたしは、きのうもそれを見て来たばかりなのよ。そして、この古いモスク□大学の壁にその字がかかれたときのことを思って、美しさと歓喜との波にうたれるようでした。そしてね保さん。ソヴェトの青年は、この文字を頂いたのではなかったのよ。自分たちで自分たちのものとしたのよ」
 はるかに海をへだたっている保のところまで、勁(つよ)いひとすじの綱を投げかけようとするように、伸子は心いっぱいにその手紙を書いた。
「わたしたちは、人間として生きてゆく上に、美しいことに感動する心を大切にしなければならないと思います。美しさに感動して、そのために勇気あるものにもなれるように。保さんはそう思わない? 花つくりの美しさは、それをうちの温室で咲かせてみせる、という主我的な心持にはなくて、あの見ばえのしない種一粒にこもっているすべての生命の美しさを導き出して来る、その美しさにあるんですもの」
 保むけのその綱が多計代の目の前に音をたてておちることをはばからないこころもちで伸子は手紙を書き終った。
 厚いその手紙のたたみめがふくらみすぎていて封筒がやぶれた。おもしをかってから封することにして、伸子は四つ折にした手紙の上へ本や字引をつみかさねた。
 丁度そのとき、素子が勉強をひとくぎりして、椅子を動かした。
「あああ!」
 部屋着の背中をのばすように二つの腕を左右にひろげて、素子は断髪のぼんのくぼを椅子の背に押しつけた。
「ぶこちゃん、どうした。いやにひっそりしてたじゃないか」
「――手紙かいてたから……」
「そう言えば、そろそろわたしもおやじさんに書かなくちゃ」
 きょう大使館からとって来た日本からの郵便物の中には素子あての二三通もあった。うまそうにタバコをふかしながら素子は、
「きみんところなんか、まだ書いても話の通じる対手がいるんだから張り合いもあるけれど、わたしんところは、結局何を書いたって猫に小判なんだから」
と云った。
「いきおいとおり一遍になっちまって……どうも――」
 京都で生れて、京都の商人で生涯をおくっている素子の父親やその一家は、素子を一族中の思いがけない変りだねとして扱っていた。まして、素子を生んだ母が死んだあと、公然と妻となったそのひとの妹である現在の主婦は、素子の感情のなかで決して自然なものとして認められていなかった。むずかしい自分の立場の意識から、そのひとは素子に対しても義理ある長女としての取りあつかいに疎漏ないようにつとめたあとは、一切かかわらない風だった。モスク□へ来ても、素子は父親にあててだけ手紙をかいていた。
 保への手紙をかき終ったばかりで亢奮ののこっている伸子は、
「一度でいいから、ほんとに一字一字わたしに話してくれている、と思えるような手紙を母からもらってみたいわ」
と云った。
「母の手紙ったら、あいてがよめてもよめなくってもそんなことにはおかまいなしなんだもの……」
「――」
 素子は、そういう伸子の顔を見て賢そうで皮肉ないつもの片頬の笑いをちらりと浮べた。そう云えば、父の泰造には、母のあのするする文字がみんなよめたのかしら、と伸子は思った。昔、泰造がロンドンに行っていた足かけ五年の間に、まだその頃三十歳にかかる年ごろだった多計代は、雁皮紙(がんぴし)を横にたたんで、そこへしんかきのほそくこまかい字をぴっしりつめて、何百通もの手紙をかいた。若かった多計代は、そういうときは特別にピカピカ光るニッケル丸ボヤのきれいな明るい方のランプをつけ、留守中の泰造のテーブルに向って雁皮紙の手紙をかいた。五つばかりの娘だった伸子はそのわきに立って、くくれた柔かな顎をテーブルへのせてそれを眺めていた。それはいつも夏の夜の光景として思い出された。いまになって考えれば、その雁皮紙の手紙には、家計のせつないことから、姑が、父のいないうちに多計代を追い出して父の従妹を入れようとしていると、少くとも多計代にとってはそうとしか解釈されなかった苦しい圧迫などについて訴えられてもいたのだ。心に溢れる訴えと恋着とをこめて、書き連ねた若い多計代のつきない糸のような草書のたよりは、ケインブリッジやロンドンの下宿で四十歳での留学生生活をしている泰造に、どんな思いをかきたてたことだったろう。
 伸子は、いま自分が遠く日本をはなれて来ていて、モスク□の生活感情そのもののなかで、故国からの手紙をよむ気持を思いあわせると、泰造ばかりでなく、すべての外国暮しをしているものが、その外国生活の雰囲気のなかにうけとる故国からのたよりを、一種独特の安心と同じ程度の気重さで感じるのがわかるようだった。
「母の手紙がつくと、父はそれをいきなりポケットにしまいこんで、やがてきっと、ひとのいないところへ立って行ったんだって――。それをね、話すひとは、いつも父の御愛妻ぶり、というように云っていたけれど――こうやって、自分がこっちへ来てみると、なんだかそんな単純なものと思えないわ、ねえ」
「じゃ、なんなのさ」
「――わたしたちはここで自分で手紙をとりに行って、そしてもって来るでしょう? だけれど、いきなり、はい、日本からのおたよりと云ってここへくばられて来たら、わたし、やっぱり何かショックがあると思うわ」
 まして、泰造がロンドン暮しをしていた明治の末期、日本にのこされた妻子のとぼしい生活とロンドンの泰造の、きりつめながらもその都会としての色彩につつまれた生活との間には、あんまりひらきがありすぎた。
「モスク□だよりじゃ、たべもののことはいくら書いても決して恨まれっこないだけ安心ね」
 伸子は笑って云いながら、可哀そうな一つのことを思い出した。やっぱり泰造がロンドンにいた間のことだった。あるとき、多計代が座敷のまんなかに坐って泣きながら、お父様って何て残酷なひとだろう! とおかっぱにつけ髷(まげ)をして、綿繻珍(しちん)の帯を貝の口にしめている少女の伸子に云った。まあ、これをごらん! 何てかいてあると思うかい? ひとつ今夜のディンナーを御紹介しよう。ひな鳥のむし焼に、何とか、果物の砂糖煮と多計代はよんだ。そして、「どうだろう、お父様のおっしゃることは。大方そちらでは今頃、たくあんをかじっていることだろう、お気の毒さま、だとさ! よくも仰言れる!」その文句をかいてあったのは一枚のエハガキだった。稚い伸子に、その献立の内容はわからなかったけれども、父の方には何かそういう大した賑やかな御馳走があり、自分たちはたくあんをかじっているのだというちがいは、子供心に奇妙に鮮明に刻まれた。伸子は、いまでも、小さな娘を前において、ひな鳥のむし焼、とよみ上げたときの多計代の激昂と涙にふるえる声を思い出すことが出来た。それが思い出されるときには、きまってその頃母と小さい三人の子供らがよくたべていたあまい匂いのする藷(いも)がゆを思い出した。こってりと煮られた藷がゆは、子供があつがるのと、台所にいる人たちもそれをたべるのとで、釜からわけて水色の大きい角鉢に盛られて、チャブ台に出た。その角鉢には、破れ瓦に雀がとまっている模様がついていた。
 ずっと伸子が成長してからも、そのハガキの文句のことで、父と母とが諍っていたのを覚えていた。泰造は、ほんとにみんなが気の毒だと思ってそれを書いた、と弁明した。その時代の伸子は、母のあのときの憤りが、決してひな鳥のむしやき一皿にだけ向けられていたのではないことを諒解した。そういう御馳走。葡萄(ぶどう)酒の酔い。屈託のない男たちの談笑。小説もよみ外国雑誌の絵も見ている多計代は、そういう情景のなかに、細腰を蜂のようにしめあげて、華美な泡のようにひろがるスカートをひいた金髪の女たちの、故国にある家庭などを男に忘れさせている嬌声をきいたのだろう。
「漱石だって、かいたものでよめば、外国暮しでは、別な意味で随分両方苦しんでいるわね。奥さんにしろ」
 自分がいま保にかいたばかりの手紙を思い、その文面にものぞき出ているような動坂の家の生活とここの自分の生活との間にある裂けめの深さを伸子は、計るようなまなざしになった。
 モスク□に暮しているものとしての伸子の心へ、角度を新しくして映る日本の生活一般、または動坂の暮しぶりに対して、自分の云い分を伸子は割合はっきりつかむことが出来た。しかし、モスク□にいる伸子のそういう云い分に対して、佐々のうちのものや友人たちが、変らないそれぞれの環境のなかにあって、どういううけとりかたをするか。そのことについて、伸子はほとんど顧慮していなかった。
 伸子は、モスク□の時々刻々を愛し、沸騰し停滞することをしらない生活の感銘一つ一つを貪慾に自分の収穫としてうけいれていた。伸子がウメ子のような友人にかくハガキの文体でも、モスク□へ来てからは少しずつかわっていた。伸子としてはそれが自然そうなって来ているために心づかなかった。――わたしの住んでいるホテル・パッサージの壁紙もない室の窓は、トゥウェルスカヤ通りに面しています。そう書けば、伸子は、その窓の下に見えていて骸骨(がいこつ)のような鉄骨の穴から降る雪が消えこむ大屋根の廃墟の印象をかかずにいられないし、その廃墟をかけば、つい横丁を一つへだてただけで中央郵便局の大工事がアーク燈の光にてらされて昼夜兼行の活動をつづけていることについて、沈黙がまもれなかった。この都会の強烈な壊滅と建設の対照は伸子の情感をゆすってやまなかった。伸子は、厳冬のモスク□の蒼い月光が、ひとつ光の下に照したこの著しい対照のうちにおのずから語られている今日のロシアの意志に冷淡でいられなかった。同時に、これらすべての上に、毎夜十二時、クレムリンの時計台からうちならされるインターナショナルのメロディーが流れ、その歌のふしが、屋根屋根をこえて伸子の住んでいるホテルの二重窓のガラスにもつたわって来ることについて、だまっていられなかった。雪に覆われたモスク□の軒々に、朝日がてり出すと、馬の多い町にふさわしくふとったモスク□の寒雀がそこへ並んでとまって、囀(さえず)りながら、雪のつもった道の上に湯気の立つ馬糞がおちるのを待っている。そんな趣も伸子の眼と心とをひきつけた。
 伸子のかくたよりに現れる生活の描写は、こうして段々即物的になり、テンポが加わり、モスク□の社会生活の圧縮された象徴のようになりつつあった。きょうの手紙にもあったようにウメ子が校正ののこりをひきうけてくれて、そろそろ本になろうとしている長い小説を、伸子は、ごくリアリスティックな筆致でかきとおした。それがいつとはなし、即物的になり、印象から印象へ飛躍したテムポで貫かれるような文章になって来ていることは、モスク□へ来てからの伸子の精神の変化してゆく状態をあらわすことだった。それはモスク□という都会の生活について、そこでの社会主義への前進について、伸子が深い現実を知った結果からだったろうか。それとも、ここで見られる歴史の現実も、伸子にとっては新鮮に感覚に訴えて来る範囲でしか、把握出来なかったからの結果だろうか。伸子はそういう点一切を自覚していなかった。
 日々を生きている伸子の感興は、耳目にふれる雑多な印象と心におこるその反響との間をただ活溌にゆきかいしているばかりだった。
 しばらくだまって休んでいた素子が何心なく腕時計を見て、
「ぶこちゃん、また忘れてる! だめだよ」
と、あわてて、とがめるような声をだした。
「なにを?」
 ぼんやりした顔で伸子がききかえした。
「室代――」
「ほんと!」
「きのうだって到頭忘れちゃったじゃないか。――すぐ行ってきなさい、よ!」
 伸子は、テーブルをずらして、日本から来た新聞の山の間に赤いロシア皮で拵らえられた自分の財布をさがした。ホテルの室代を、毎日夜十時までに支払わなければならないきめになっていた。伸子たちはよくそれを忘れて、二日分ためた。ほんとうは、いくらか罰金がつくらしかったけれども、素子や伸子がホテルの二階にある事務室へ入って行って、忘れてしまって、と二日分の金を出すとき、罰金はとられたことがなかった。長椅子から立って来るとき、伸子は、テーブルのわきに落してしまっていたのを知らずに、紅絹(もみ)の針さしを靴の先でふみつけた。
「あら!」
 いそいでひろいあげて、伸子は紅絹(もみ)の針さしについたかすかな跡をはらった。
「かあいそうに――」
 針さしをテーブルの上へおき、ベッドから紫の羽織をとって袖をとおしながら伸子は室を出た。

        七

 三四日たった或る日の午後のことであった。伸子が、網袋にイクラと塩づけ胡瓜とリンゴを入れて、ゆっくりホテルの階段をのぼって来るところへ、上から内海厚が、上衣のポケットへ両手をさしこんだまま体の重心を踵にかけて、暇なようないそいでいるような曖昧な様子で降りて来た。
「や、かえられましたか。実はね、部屋へお訪ねしたところなんです」
「吉見さん、いませんでしたか?」
「居られました、居られました」
 内海は、相変らず十九世紀のロシアの進歩的大学生とでもいうような感じの顔をうなずけた。
「吉見さんには話して来ましたがね。実はね、ポリニャークがぜひ今夜あなたがたお二人に来て頂きたいっていうんです」
 革命後作品を発表しはじめているボリス・ポリニャークは、ロシアプロレタリア作家同盟に属していて、活動中の作家だった。
「こんや?――急なのねえ」
「なに、急でもないんでしょう」
 そのとき、また下から登って来た人のために内海は手摺の方へ体をよけながら、すこし声を低めた。
「この間っから、たのまれていたことだったんでしょうがね」
 二三年前ポリニャークが日本へ来た時、無産派の芸術家として接待者の一人であった秋山宇一は、モスク□へ来てからも比較的しげしげ彼と交際があるらしかった。その間に、いつからか出ていた伸子たちをよぶという話を秋山宇一は、さしせまったきょうまで黙っていたというわけらしかった。伸子は、
「吉見さんはどうするって云っていました?」
ときいた。伸子としては、行っても、行かなくてもいい気持だった。ポリニャークは日本へも来たことがあるというだけで、作家として是非会いたい人でもなかった。
「吉見さんは行かれるつもりらしいですよ、あなたが外出して居られたから、はっきりした返事はきけなかったですが――つまりあなたがどうされるか、はね」
「すみませんが、じゃ、一寸いっしょに戻って下さる?」
「いいですとも!」
 伸子は、室へ入ると買いものの網袋をテーブルの上へおいたまま、外套をぬぎながら、素子に、
「ポリニャークのところへ行くんだって?」
ときいた。
「ぶこちゃんはどうする?」
 こういうときいつも伸子は、行きましょう、行きましょうよと、とび立つ返事をすることが、すくなかった。
「わたしは、消極的よ」
 すると内海が、そのパラリと離れてついている眉をよせるようにして、
「それじゃ困るんです。今夜は是非来て下さい」
 たのむように云った。
「どうも工合がわるいんだ――下へ、アレクサンドロフが来て待ってるんですよ」
「そのことで?」
 びっくりして伸子がきいた。
「そうなんです。秋山氏があんまり要領得ないもんだから、先生到頭しびれをきらしてアレクサンドロフをよこしたんでしょう」
 アレクサンドロフも作家で、いつかの日本文学の夕べに出席していた。
「まあいいさ、ポリニャークのところへもいっぺん行ってみるさ」
 そういう素子に向って内海は、
「じゃ、たのみます」
 念を入れるように、力をいれて二度ほど手をふった。
「五時になったら下まで来て下さい。じゃ」
 そして、こんどは、本当にいそいで出て行った。
「――急に云って来たって仕様がないじゃないか――丁度うちにいる日だったからいいようなものの……」
 そう云うものの、素子は時間が来ると、案外面倒くさがらずよく似合う黄粉(きなこ)色のスーツに白絹のブラウスに着換えた。
「ぶこちゃん、なにきてゆくんだい」
「例のとおりよ――いけない?」
「結構さ」
 鏡の前に立って、白い胸飾りのついた紺のワンピースの腕をあげ、ほそい真珠のネックレースを頸のうしろでとめている伸子を見ながら、素子は、ついこの間気に入って買った皮外套に揃いの帽子をかぶり、まだすっていたタバコを灰皿の上でもみ消した。
「さあ、出かけよう」
 二階の秋山宇一のところへおりた。
「いまからだと、丁度いいでしょう」
 小型のアストラハン帽を頭へのせながら秋山もすぐ立って、四人は狩人広場から、郊外へ向うバスに乗った。街燈が雪道と大きい建物を明るく浮上らせ、人通りの多い劇場広場の前をつっきって、つとめがえりの乗客を満載したその大型バスが、なじみのすくない並木道(ブリ□ール)沿いに駛(はし)るころになると伸子には行手の見当がつかなくなった。
「まだなかなかですか?」
「ええ相当ありますね――大丈夫ですか」
 伸子と秋山宇一、内海と素子と前後二列になって、座席の角についている真鍮(しんちゅう)のつかまりにつかまって立っているのだった。モスク□のバスは運転手台のよこから乗って、順ぐり奥へつめ、バスの最後尾に降り口の畳戸がついていた。いくらかずつ降りる乗客につづいて、伸子たち四人も一足ずつうしろのドアに近づいた。
「あなたがた来られてよかったですよ」
 秋山宇一が、白いものの混った髭を、手袋の手で撫でるようにしながら云った。
「大した熱心でしてね、今夜、あなたがたをつれて来なければ、友情を信じない、なんて云われましてね――どうも……」
 今夜までのいきさつをきいていない伸子としては、だまっているしかなかった。もっとも、日本文学の夕べのときも、ポリニャークはくりかえし、伸子たちに遊びに来るように、とすすめてはいたけれども。――
 とある停留場でバスがとまったとき内海は、
「この次でおりましょう」
と秋山に注意した。
「――もう一つさきじゃなかったですか」
 秋山は窓から外を覗きたそうにした。が、八分どおり満員のバスの明るい窓ガラスはみんな白く凍っていた。
 乗客たちの防寒靴の底についた雪が次々とその上に踏みかためられて、滑りやすい氷のステップのようになっているバスの降口から、伸子は気をつけて雪の深い停留場に降り立った。バスがそのまま赤いテイル・ランプを見せて駛り去ったあと、アーク燈の光りをうけてぼんやりと見えているそのあたりは、モスク□郊外の林間公園らしい眺めだった。枝々に雪のつもった黒い木の茂みに沿って、伸子たちが歩いてゆく歩道に市中よりずっと深い雪がある。歩道の奥はロシア風の柵をめぐらした家々があった。
「この辺はみんな昔の別荘(ダーチャ)ですね。ポリニャークの家は、彼の文学的功績によって、許可されてつい先年新しく建てたはずです」
 雪の深い歩道を右側によこぎって、伸子たちは一つの低い木の門を入って行った。ロシア式に丸太を積み上げたつくりの平屋の玄関が、軒燈のない暗やみのなかに朦朧(もうろう)と現れた。
 内海が来馴れた者らしい風で、どこか見えないところについている呼鈴を鳴らした。重い大股の靴音がきこえ、やがて防寒のため二重にしめられている扉があいた。
「あ――秋山サン!」
 出て来たのはポリニャーク自身だった。すぐわきに立っている伸子や素子の姿を認め、
「到頭、来てくれましたね、サア、ドーゾ」
 サア、ドーゾと日本語で云って、四人を内廊下へ案内した。ひる間、ホテル・パッサージへよったというアレクサンドロフも奥から出て来て、女たちが外套をぬぎ、マフラーをとるのを手つだった。
 かなりひろい奥の部屋に賑やかなテーブルの仕度がしてあった。はいってゆく伸子たちに向って愛想よくほほ笑みながら、ほっそりとした、眼の碧い、ひどく娘がたの夫人がそのテーブルの自分の席に立って待っている。
「おめにかかれてうれしゅうございます」
 伸子たちがその夫人と挨拶をする間も、ポリニャークは陽気な気ぜわしさで、
「もういいです、いいです、こちらへおかけなさい」
と、秋山を夫人の右手に、伸子を自分の右手に腰かけさせた。そして、早速、
「外からこごえて入って来たときは、何よりもさきに先ずこれを一杯! 悧巧も馬鹿もそれからのこと」
 そう云って、テーブルの上に出されているウォツカをみんなの前の杯についだ。

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