道標
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著者名:宮本百合子 


 素子の下宿の部屋が、かわっていた。
 モスク□じゅうの並木の若芽がまだ尖がった緑の点々だった頃、伸子が旅立ちの仕度に、灰色アンゴラのカラーを自分で合外套の襟に縫いつけていたのは、ルケアーノフのクワルティーラの裏側の部屋だった。モスク□大学病院を退院して、伸子は、たった一つの窓の幅だけに細長くつくられているその素子の部屋へ帰って来た。一つきりの窓は建物の内庭に面していた。素子と伸子とが同時にそこで動くということは不可能なほどせまくるしかった。
 同じクワルティーラの中で、こんど素子が移った部屋は、ほんものの一室だった。アストージェンカの広場に向ってたっぷり開いた二つの窓をもち、清潔に磨かれている床に二つの単純なベッド、一つの衣裳箪笥、素子用のデスクと本箱、食事用の小テーブル一つが、おかれている。
 ステーションで、迎えに来ていた素子と抱きあって、伸子が、
「どうしていた?」
ときいたとき、素子は、
「――まあ、かえって御覧」
と云った。
「こんどは、いい部屋だよ、ひろいよ」
 ルケアーノフの上の娘に許婚者ができて、彼女たちだけの室がいるようになった。そこでこれまで二人の娘がいたひろい方へ素子がうつり、ヴェーラがうなぎの寝床へはいることになったのだそうだった。
「うちの連中にとっちゃ、一挙両得さ。なにしろこんどは、室代が倍だもの」
 素子はカンガルーの毛皮をつけた新調の外套を着てきていた。めずらしい毛皮の柔かくくすんだ色が、十二月のモスク□の外気の刺戟で活気づけられている素子の顔の小麦肌色と、似合った。
 伸子は、国境駅の白樺板の上にまで進出している「五ヵ年計画(ピャチレートカ)」をすぎてゆく街々の角に発見しようとするようにタクシーの窓から目をはなさないのだった。素子がひろい室に移っている、そのことに自分のいる場所の安定も約束されている。それ以上をもとめないこころもちで、伸子は、アストージェンカの、板囲いをはいって行き、太った住宅管理人が、山羊外套の肩にトランクをかついで運び終るのを待って、ルケアーノフのクワルティーラへのぼって行った。ところどころささくれているようなむき出しのセメント階段のふみ心地。あたためられている建物の内部に、かすかに乾いたセメントのにおいがただよっている。これがモスク□の新しい足ざわりであり匂いだった。
 ルケアーノフのところでは食堂の両開きのドアも台所のドアもしまっていて、食堂の隣りの素子の部屋があいている。何の予想もなしにその入口に立って室内をぐるりと見た伸子は、
「あら」
 信じかねるように、一つの窓の下へ目をとめた。
「わたしの場所?」
 外套を着たまま、大股に右手の窓べりによって行った。広場に面した二つの窓の、左側が素子の勉強場になっていた。デスクの上に、ウラル石の灰皿やよみかけの本、新聞がちらばっている。もう一つの窓との間を仕切って、八分どおり詰った本棚が立てられていて、そのかげに、もう一くみデスクと椅子がおかれているのだった。
 デスクの上には何もなく、がらんとしている。しかし、緑色の平ったい円形のシェードのついたスタンドが、いつからでもつかえるようにして置いてある。
「――すごいわねえ、わたしの場所があるなんて……」
「――ぶこが、ひっかかっていつまでも帰らないもんだから、一ヵ月無駄に払っちまったじゃないか」
 とがめる云いかたのなかに、伸子がもうそこに帰って来ているという安心がひびいた。
「なにを、ぐずついていたのさ」
「なにって――」
 直接素子のその質問には答えないで外套を壁にかけている伸子。見なれた部屋着にくつろいだ伸子。顔を洗って来て、ルケアーノフの細君が用意しておいてくれたジャム入りの油あげパン(ピロシュキ)をおいしがって、茶をのみはじめている伸子。伸子のそのこだわりのない食慾や、もうどこへ行こうとも思っていない人間の無雑作さで寝台の上にとりちらされているパリ好みのネッカチーフやハンド・バッグなどは、その部屋に自分以外の者が住みはじめた目新しさと同時に、やっと永年なじんで来た生活がそっくりそこに戻った感じを素子に与えているのだった。伸子は、自分の動きを追う素子の一つ一つのまなざしからそれを感じた。そして、伸子自身も、アストージェンカへ帰って来て、もうどこへ行こうとも思っていない自分を感じるのだったが、素子の視線には、何か伸子の意識の陰翳にあるものをとらえようとしているようなところがある。伸子の、何かに向って、配られている詮索がある。
 ひと休みしてからの伸子は荷物の整理にとりかかった。画集のトランクは、ちょくちょくあけて見られるようにドアの左手の壁際へ、いくらもない着換え類は、素子とおもやいに衣裳箪笥にかけた。そして、空になったスーツ・ケースを自分の寝台の下へ押し込んでいると、横がけにかけている椅子の背に両腕をおき、その上へ顎をのっけた姿勢で伸子のすることを見守っていた素子が、
「見なれない鞄があるじゃないか」
 ふりかえった伸子に、茶色の中型鞄を目でさした。それは伸子が荷物をしまいきれなくなって蜂谷良作からかりて来た鞄だった。
「ぶこのもんじゃない」
 伸子は、素子の神経におどろいた。
「蜂谷さんにかりて来たのよ、入れるものがなくなっちゃって」
「――かえさなけりゃならないのか?」
「そんな必要ないでしょう」
 かりた鞄をどうするかというようなことについて、蜂谷も伸子も考えていなかった。もし、かえさなければならないことになっていたとすれば、それはどういう意味をもつものとして素子にうつるのだろう。パリでの生活については自分を素子の前に卑屈にしまいときめて、伸子は帰って来ているのだった。
 だまって伸子は荷物整理をつづけた。しばらくして素子が気をかえたように、半ば自分を説得するように、
「まあいいだろうさ!」
と云った。
「蜂谷君も、せめて鞄ぐらいサーヴィスしたっていいところだろう」
 鞄ぐらい、と目の前にある物についていうのがおかしくて、伸子は笑い出した。
「どうして鞄ぐらいなの?」
「だって――そうじゃないか」
 素子は、すーっと瞳孔を細めた視線を伸子の顔に据えた。眼の中にこの数ヵ月の間、折にふれて燃えた暗い焔がゆれている。伸子は暫く素子の視線を見かえしていた。素子のうらみが伸子にわかるのだった。だけれども、ほんとうには、素子がうらむような何一つないのだ。しずかに素子のそばへ歩いて行った。そして自分の頬っぺたと喉の境のところを素子の鼻さきにすりつけた。
「ね、よくかいでみて――別のにおいがする? 何か、ぶことちがうにおいがする?」
「――ぶこちゃん」
 トランクをいじっていた両手はうしろにはなして、顔だけさしよせている伸子を、柔かな部屋着の上から素子が抱きしめた。
「――半分だけ帰って来たなんていうのじゃないのよ」
「わかるよ、わかるよ」
 二人はその晩おそくまでおきていた。
 夜がふけるにつれて、パリとモスク□とをへだてている距離の絶対感が、真新しい刃で伸子の心を一度ならず掠めた。いまは安心して伸子にまかせきっている素子の、こんなにもかぼそい女の手。ウィーンのホテルで自分をつねったり、ぶったりしたこともあるこの指の細い手。自分が帰って来たのは、やっぱりこの手そのものへではない。その意識があんまりまぎらしにくくて伸子は素子の前に瞼をふせた。

 モスク□が変りはじめている。その変り工合は、見たものでないと信じられないかもしれない。素子がそう書いてよこしたのは真実だった。
 モスク□は変りはじめた。伸子たちの住んでいるアストージェンカの角から猟人広場(アホートヌイ・リャード)までゆく道の右側、モスク□河岸に、少くとも七階か八階建てになりそうな巨大な建築工事がはじまっていた。それはソヴェト宮殿だった。中世紀的なクレムリンの不便な建物の中から、落成したらソヴェト政府が移るべき近代建築が着手されはじめていた。
 猟人広場(アホートヌイ・リャード)そのものの光景も一変している。一九二七年の初雪の降りはじめたころモスク□に着いた伸子と素子とが――とくに伸子が、その広場を中心にトゥウェルスカヤ通り、赤い広場、劇場広場、下宿暮しをするようになってからはアストージェンカと、モスク□の中に小さい行動半径を描いているその猟人広場(アホートヌイ・リャード)の名物であった露店商人の行列が、七ヵ月留守して帰ってみたら、ほとんどなくなっている。そのかわりに、春のころは、協同販売所という看板をかけてあるぎりで、入口の赤錆色の鉄扉がしめられていた店舗が二軒並んで開かれていた。店内は品物不足だった。買物籠を腕にかけ、プラトークで頭をつつんだ女が一つの売場の前にのり出してきいている。
「バタはいつうけとれるんですか」
「一週間あとに」
「どうして? おかしいじゃないの。わたしが一週間前に来たとき、お前さんは一週間あとに、って云ったくせに」
「もう一遍、一週間あとに、なんです」
「いつだってそうなんだ! うちには子供がいるんですよ」
 わきに立って問答をきいていた白髪の肥った婆さんが、古風なモスク□の口調で云った。
「ごらん、これだからね、おっかさん(マームシュカ)。主婦たちが協同組合のウダールニクをこしらえなけりゃならないってわけなのさ」
 多くの生活を知って、まだまだ老耄していない年よりの大きい眼が、そばにいる伸子をちらりと見た。
「あの人たちには分らないさ。まだ、自分の口ひとつを心配していればすむ年頃だもの、よ」
 ソヴェトの人々は五ヵ年計画の第一年に、工作機械やトラクターや、或いは、それらを製造するいくつかの工場都市をつくった。けれどもバタや石鹸の不自由は当分つづけなければならない。
 あらゆる食料品を並べてぎっしり列をつくっている露店商人と、その前をぞろぞろ往復していた男女の通行人の姿が消えて、猟人広場(アホートヌイ・リャード)から劇場広場の方角へ、見とおしがきくようになった。赤い広場へ出る街角にも、春までは、買物籠に玉子、バタ、自家製のチーズ、鶏などを入れて立っている女や年とった男が多勢いたものだった。ここで、伸子もたまにはバタを買ったこともあるし、玉子も買った。そんな物売りもいない。モスク□の個人商人は二パーセントに減った。それは事実に近いだろうということがトゥウェルスカヤ通りを歩いてみるだけで、感じられるのだった。
 伸子は、ホテル・パッサージの近くへ行って見た。ホテルへ曲る少し手前に、中央出版所と看板を出したきりで、この間までいつみても、陰気にがらんとしたショウ・ウィンドウにレーニンの写真と人間と猫の内臓模型を並べていたところがある。「モスク□夕刊」がそこへ越して来て、面目一新だった。入口に、少し田舎っぽいけれども堂々とした電気看板が「ヴェチェールナヤ・モスク□」と豆電球を並べていて、人の出入りも活気がある。なぜ猫と人間の内臓模型がレーニンの写真の下におかれているのか、いつもわけのわからない気がして見て通っていたショウ・ウィンドウの中に、のこされているのはレーニンの写真だけだった。白塗りの図案化された書棚に、五ヵ年計画に関するパンフレットが陳列されている。その背景として、赤地に白で五ヵ年計画を四年で! と書いたプラカートが張られている。「モスク□夕刊」の編輯局のほかに印刷労働者のクラブも出来ているらしく、入口から左手の奥、棕梠(しゅろ)の鉢植ごしに軽食堂(ブフェート)がある様子だった。
 中央郵便局(グラーブナヤ・ポーチタ)が落成している。中央郵便局と云えば、伸子たちが旅行に出るころまでモスク□で最も人気をあつめている建造物だった。二年前、伸子と素子とが、モスク□へ着いた第一日の朝から、目にしたのはこの建築場の板囲いだった。雪の上についた荷橇の跡、そこに落ちている馬糞。厳冬(マローズ)に雪を凍らしている見張所のキノコ屋根。ホテル・パッサージの入口と建築場の入口とが、ひろくない道をはさんで斜めに向きあっていた。今は、その横通りに五階の宏壮な建物の側面が規則正しく各階の窓ガラスを見せている。トゥウェルスカヤ通りに郵便局としては儀式ばりすぎているぐらい威容のある車よせがあって、内部へはいってみると、広々とした窓口で事務をとっている人々の姿も、滑らかなウラル大理石で張られている床を、こころもちすり足で用を足しているまばらな人群れも、いちように小さくなって見えるほど、白い天井は高く、間接照明にてらされて明るい。窓口の真鍮がパイプ・オルガンのように光っている。どこにも群集の匂いがまだしみていない建物の内部のめずらしさ! モスク□において、それを見るめずらしさ。ニスの匂うガラスの大扉を押して出ようとしたとき、力まけした伸子の体がスーとドアごとウラル大理石の床をすべって、あっち側へ出た。つき当りのうす茶色の壁に貼られている。「五日週間(ピャチ・ドネエフカ)。間断なき週間(ニエペレルィヴナヤ・ネデーリヤ)」
 ソヴェトの人々は、すべての生産と執務とが間断なく能率的にはこばれてゆくために、一日八時間基準の労働日を、五日ごとに区切って、これまで二交代だったところを三交代にした。日曜日と云えば、全市の活動がとまって、開いているのは薬局と食堂、劇場ばかりというヨーロッパの一週間制が廃止された。丁度、伸子がモスク□へ帰って来る前、ソヴェト経済年度のかわりめである十月一日から新しいシステムが採用されることになった。パリの外字新聞は、五ヵ年計画第一年目の成果についてソヴェト政府が発表した数字について、異口同音に、うさんくささを公言していた。同じ筆法で、五日週間という「アメリカでさえやっていない方法」を採用するソヴェト政府は、世界のキリスト教徒の習慣に挑戦するものであるし、強制労働が全住民に拡大されることであると非難していた。ソヴェト同盟に五ヵ年計画がはじまってから、失業は急速に減りつつある。一九二九年は、伸子でさえロンドンであのような失業者の大群を目撃した年であったから、ソヴェト同盟だけで、五十万あった失業がなくなりつつあるという事実、その上、賃銀が七一パーセント増大するだろうという事実は資本主義の国の主権者たちの気にいりようがなかった。ソヴェト同盟のことは何につけても宣伝が八分。そうきめて不安と羨望が偏見によってまぎらされていた。
 失業と乞食は、たしかに減った。伸子はこんど帰って来て食堂(ストローヴァヤ)の中をうろついている男女や子供がいなくなったことに気付く。並木道のベンチにあてのない表情で腰かけている男女がなくなった。失業者が吸収されずにいない現実の根拠が、伸子の目にもまざまざと見えているのだった。モスク□河岸の大建造物の足場を往復している労働者の姿にも、クズネツキー橋のわきで、赤旗を立てた起重機が鉄のビームをつり上げている轟のかたわらにも、工業生産高は戦前の水準にくらべると三倍以上に拡大されようとしているのだった。
 伸子のデスクの端に、五ヵ年計画に関するパンフレットが一冊一冊とつみかさねられた。大量に出版されるそれらのパンフレットにも出版五ヵ年計画が実現されているわけだった。それらの中に特別伸子の気に入っていて、よくくりひろげて眺める「子供のための五ヵ年計画」という絵本があった。大判の四角い本で、頁をひらくと、革命前のロシアの石油、石炭、鉄などの生産と文化の状態が、当時それらの経営に君臨していた外国資本と、ひどい労働者小舎に住んで働いていたロシア労働者の対照的な姿とを描き出しながら石油櫓の数、石炭の山の大小のダイアグラムで示されている。頁は折りたたみ式になっていた。たたまれた頁を開くとそこから、子供の好奇心をもえたたせるような簡明な線と、美しい色彩で五ヵ年計画が完成したときのソヴェト石油の豊富さ、そこにある労働者住宅と労働宮。子供たちの子供の家と学校が描かれているのだった。ソヴェト石炭の見事な黒い山。炭坑地区の電化がどの位進むかということは、ずらりと並んだ電球の数で、小さい子供にものみこめるように説明してある。バルダイ連丘から源を発して数千キロの間を白ロシアからウクライナへとうねり流れて、増水期には耕地にあふれ牛や子供を溺らしたりしていたドニェプル河の下流に、大水力発電所がつくられようとしていた。ドニェプル大発電所が完成すれば、その電力は、ソヴェトの穀倉であるウクライナ地方の農業機械作製所(セル・マシストローイ)で、これだけのトラクターをつくらせ、ソヴェト・フォードで幾台の自動車を生産させ、粉挽き工場は、古風な風車の翼が風のない空に止っているのを心配しなくてもパンにする小麦粉をこんなにどっさり製粉するようになるだろう。雄大なドニェプルの流域にひらけようとしている生産の諸能力が、子供の生活にぴったりした小麦袋だの耕作機械だの、学校だの、統計図で描かれているのだった。画家はデニカだった。ソヴェトの若い画家の中でもきわだって明快で動的な才能をもっている彼が、これだけ力をこめて五ヵ年計画の絵物語を描いてゆくときには、彼のこころにも新しい希望があったろう。去年の冬のように、ウィンター・スポーツの絵ばかり描いているより、張りあいもあっただろう。
 デニカは、反ソヴェト・カンパニアに反撃するためのポスターにも、効果的な諷刺を描いていた。長大な砲身が、ぬっとソヴェト同盟の赤い地図に向ってのびている。黒光りする砲身の先端に、法冠をかぶった法王がまたがっている。彼は法笏(ほうしゃく)をふって指揮している。その背後にくっついて、あらいざらいの勲章を下げて双眼鏡と地図をもっている軍人。※(さかまんじ)[#「「卍」を左右反転したもの、348-1]のしるしをつけたイタリーとドイツのファシスト。しんがりにはシルクハットをかぶった燕尾服姿の太った男が砲身にまたがっている上体をかがめて足もとにつみあげた金袋に手をかけている。五ヵ年計画を四年で! というスローガンのあるところには、きっとそのポスターも貼られていた。二つのものがひと組みとなって、モスク□のあらゆるところで伸子の目にふれる。それにはそれだけの必然があった。反ソヴェト・カンパニアは、国境の八方から五ヵ年計画が水泡に帰すことを切望していた。五ヵ年計画は不可能事だと喧伝しながら、ソヴェトの社会主義建設を破壊するためには、最高政治指導部のなかにまで、世界反革命の組織がはいりこもうとしているのだから。――ブハーリンの問題はパリにいた伸子を衝撃した。
 七ヵ月という時は、モスク□で平たく経過したのではなかった。その時間に、ソヴェトの人々は、自分たちの社会主義社会の本質を決定的に高めるために奮闘した。伸子が二年の間モスク□で見聞して来たもの、その中に生きて身につけて来た細目の全面が立体的にもち上って、一層組織的に、一層計画的に展開される時にはいった。僅かのうちに伸子に耳新しい新造略語がたくさん出ている。それらのどれもが、五ヵ年計画と生産経済計画(プロフィンプラン)に関連していた。伸子が初めて経験するばかりでなく、おそらくソヴェトの人にとって初めての経験であるに違いない数字に対するつよい感受性が、一般感情のうちにあらわれていた。数字はケイ紙の間にかきつけられてだけいるものでなくなった。数字はエネルギーの生きている目盛りであり、そこに人々は自身の努力の集積を見守っていた。ある数字は、はっきりしたよろこびでよまれた。ある種の数字に対してはきびしい批判がよびおこされた。そして、ソヴェトに暮しているかぎり、どんな人でもそれらのあつい数字からのがれることは不可能なのだった。

        三

 ソヴェトのそとで暮した七ヵ月は、伸子を成長させた。ロンドン。パリ。ベルリン。ワルシャワ。そこにあった生活とモスク□の生活との対照は、あんまり具体的であった。さまざまな粗野と、機械的なところがあるにしろ、総体として一つの社会の人間がよりましな条件で生きる可能は、どちらにあるか――資本主義と社会主義と――それは最も下積みの生活をよぎなくされている多くの人々のこころに、希望をもたらすのは、どちらであるか、ということだった。それについての伸子の理解は深まった。理解から生活の情熱となった。伸子がただ一人の若い女にすぎないのは何といいことだろう。ロンドンやパリで暮している人々は気がねなく彼女の前にソヴェト社会についての態度を示し、資本主義列国の外交政策の本質を教えるように話してきかせたことは、何とよかったろう。伸子はパリやロンドンにいるうちに、モスク□にあるものの価値をよりたしかに自身の内容にしたのだった。
 そのような成長にかかわらず、伸子は、他の一面でおくれた。一九二九年という特別に歴史的だった十二ヵ月のなかば以上を、ソヴェト同盟の外の世界に暮していたということで。――モスク□へ帰って二三日たつと、伸子は自分のおくれを痛切に感じはじめた。素子は、そういう伸子を注意ぶかく見守っていた。伸子のおくれは、伸子自身でどうなり解決すべき性質のものだということを、無言のうちに示していた。本棚一つのあちら側と伸子のいるこちら側との間に、少くとも1/4半期を意味するでこぼこがある。はっきりと、その差があらわれていること、そこに素子の悪意のない復讐のこころよさがあるようであった。伸子は語学の許すかぎり、新しいソヴェトについての勉強をはじめた。モスク□のそういう生活に戻って思いかえすと、ロンドンにあった巨大なうちかちがたい貧富の裂けめと、イースト・サイドに溢れて親から子につづいている歴代の惨めさが、ひとしお伸子の心に迫って来る。伸子は、出歩き、よみ、出歩かない日には、ロンドン印象記をかきはじめた。
 ルケアーノフの下宿では、木曜日の夜が伸子たちの入浴日だった。伸子は、きょうこそ風呂の前に、ほこりっぽい仕事を片づけてしまおうと思って、正餐(アベード)がすむと、素子の本棚の下から、束のままつくねてあった日本からの新聞・雑誌類をひっぱり出した。
 デスクに向っていた素子が、
「そうそう、それをやる前に、ぶこによませるものがあったっけ」
 椅子から動かず、うしろ手で、封のきられている二つの封筒を伸子にわたした。一通は、河野ウメ子からの手紙だった。もう一つの方は、めずらしく浅野蕗子から来ている。蕗子は伸子たちがモスク□で暮すようになってからたまにエハガキをよこすぐらいで、口数のすくない人らしく筆数も多くなかった。伸子は、何となく二つの手紙を見くらべていて、蕗子の手紙からよみはじめた。
 まじめな字が、蕗子の、ちょいとながしめで伸子を見て笑うときの口元のようなふくらみのある文章で語っていた。お二人がパリから下すったエハガキはうれしく拝見いたしました。あれから、いくたびもおたよりをしようとしながら、つい書けませんでした。私のところでは、思いがけないことがおこったのでした。弟が急に亡くなりました。急に――おわかりになりますでしょうか。伸子さんには分って頂けることと思います。
 伸子さんには分って頂ける――弟が急に死んだ。それは保が急に死んだように死んだと解釈するしかない文面だった。蕗子の弟――どうして自殺したのだろう。伸子さんには分って頂けるという、ふくみの中には、その原因がやっぱり保のように思想的なものだということもほのめかされていると思える。伸子は、喉もとへこぶがあがって来て、声がつまった。
「あなた、蕗子さんに何とか云ってあげた?」
「書きようないじゃないか。二人にあてて来ているのに――ぶこは帰っていないなんて書けるもんか」
「別のことだわ、それとこれと」
 素子は、何とこまかく、伸子への懲罰を用意していたことだろう。伸子は二重におどろきを感じながら蕗子の手紙をよみつづけた。蕗子の弟は洋画の勉強をしていた。姉のひいき目からばかりでなく嘱望されて居りました。彼にも現代の芸術家の苦悩が襲ったのでした。芸術上の理論について。彼は芸術至上主義でいられない自分と、他の理論との間で、墜落いたしました。蕗子は、モスク□へ送られる手紙は必ず、日本のどこかで、誰かの目を通るであろうことをおもんぱかって、ぼんやり語っている。だが、蕗子の弟が画家として、自分をどこに置くかということを考えつめた結果、いわゆるプロレタリア階級のための美術という理論やその作風に納得できなかったために、むしろ死を選んだということは察しられるのだった。蕗子は、書いている。彼は誠実な青年でした。私は彼にたいしていい姉ではありませんでした。あんまり自分のことにかまけていたことが、今になって悔まれます。蕗子のいまもふっくりしているであろう手をとって伸子は、そうよ、そうなのよ、という気持だった。そうかいているとき震えた蕗子の唇が感じられた。去年レーニングラードで保が死んだしらせをうけとったとき、伸子を幾日も普通のこころもちに立ちかえらせなかったのは、同じ思いで蕗子の手紙にたたえられている、亡くなった弟への限りないいとしさと自責だった。
 歴史はこのようにしてすすめられてゆくのでしょう。そう読んだとき、伸子の視線が涙でぼやけた。四月ごろ、彼の友人であった優秀な人々の間に多くの犠牲を生じました。そのことは弟が芸術家として生きるということについて、一層懐疑的にしたのでした。当時私はうかつでした。それほどの影響だと思いませんでした。――念のために申し添えますが、この点について私と弟との考えは必しも同じではありません。随分考えましたが私が間違っているとは思えません。こういう細かしいことは、いずれまたお目にかかれます折に。私は一所懸命元気であろうとして居ります。彼の良心を思えば、私は最善の生きかたをしずに居られません。
 ――四月と云えば、日本で多数の共産主義者が検挙された四・一六事件のことであった。伸子はパリでちょっと、そのことをきいた。日本の新聞は、事件から七ヵ月も経った十一月二十日すぎに記事解禁になって、伸子は、モスク□へ帰って来てから、きのう素子の本棚の下から引き出した新聞でよんだ。
 蕗子の弟は、伸子たちがモスク□へ来てから後、上京して、姉と暮しながら研究所へ通って洋画の勉強をしていた模様だ。蕗子は、伸子を共通な悲しみの先輩として語っている。しかし、蕗子の切なさは、伸子の経験よりも深い独特なものだと考えられた。保は、絶対の真理とか、絶対の善・公平さという存在し得ないものを求めて、敗北した。保は、主観的にはげしく真実を求めながら、現実の生活の中では自分の絶対のとりでに立てこもって歴史の流れに抵抗し、破れたところがある。蕗子の弟である若い画学生の生きかたとその苦悩は、彼女の手紙によれば、保とは全く反対のように思えた。その青年は、プロレタリア芸術の必然を認めた。しかしそこにある理論と芸術作品の実際に納得しきれないものを発見して、その否定面をのりこせない自分を歴史にとって無価値な者として一図に死なしてしまったのだった。
 蕗子の手紙は、計らずも伸子に一つの記憶をよびさました。一九二三年の初夏、進歩的な人道主義作家として知られていた武島裕吉が軽井沢で自殺した事件があった。武島家の所有であった北海道の大農場を農民に解放したりしたその作家が苦しんで、破滅した自身の内と外との複雑な矛盾は、個性的なものでもあったが同時に、そのころの日本を風靡していた社会思想と無産者文学理論の素朴さからのもつれもあった。武島裕吉は、ある婦人との死によって、その錯雑から逃れたのだった。武島裕吉に弟がいくたりかあって、その一人が文学者だった。その文学者である弟を中心として武島裕吉を回想する座談会がもたれた席上、弟である作家が、こんな意味のことを云った。兄貴も、もう一年がんばり通せば、死のうとなんか思わなくなったにちがいないんだ。あの震災を通れば、死のうとなんか思わなくなったにちがいないんだ、と。ある文芸雑誌でその談話を読んだとき、伸子は、いつまでも忘れることの出来ない印象をうけた。弟である作家がそう云ったのは、震災火災であれだけの人死にをみれば、生きていることのよさが身にしみて、自分から命をすてるようなことは考えなかったろうという意味かもしれなかった。この弟である作家は、日常生活もその文学の出発も兄である武島裕吉が西欧のヒューマニズムに立っているのとは対照的で、日本式な花柳放蕩のうちにも仏心の多情を肯定するという人生態度であった。彼は兄の死を敗北として、事件当時から肯定していなかった。震災を通りぬければ死になんぞしないですんだんだ、という言葉を、きわめて異常に利用された天災ののちの空気のなかで、そこに生じたのはただの天災であったように云われるのをきくと、伸子は実に妙な気がした。武島裕吉が死んだ三ヵ月のちにおこった関東地方の大震災では、混乱に乗じて各地に大量の朝鮮人虐殺がおこり、亀戸署では平沢計七のほか九名の労働運動者が官憲によって殺され、屍(しかばね)を荒川放水路に遺棄された。アナーキストの首領であった大杉栄・伊藤野枝夫妻と六歳だかの甥宗一の三人が、憲兵隊で甘粕大尉に扼殺(やくさつ)され、古井戸へ投げこまれたのも、このときだった。震災を機会に政府は永続する残酷な左翼弾圧の方針を確立した。その空気は、左翼について知識も乏しく、何の関係を持たない伸子にさえも、野蛮な権力は、いつ自分の気に入らない者の生命をおびやかすか分らないという危険を感じさせた。弟である作家の言葉は、そういう当時の憤りには無関心に、個人個人の生物的な生の肯定に安住していられるひとのひびきがあった。その人が意識していないところに、日本の多数の人に特有の「なにもいっとき」風の処世態度が感じられた。
 佃と離婚するばかりの頃で、伸子の一日一刻のうちには、生に対して主動的であろうとする欲求がたぎっていた。すべての人が、この弟である作家の人生態度にしたがって、自分としての内面の動機を外界の事情と和解させつつ、そこに臨機のモラルを見出してゆけるなら、生きるということは何と楽だろう。伸子は、もとより自分だって生きる組だ、と思った。けれども、その生きかたは、弟である作家のようにでは、なく。――
 武島裕吉の死に対して、ああ云ったその作家が、蕗子の弟である画学生の死を批評したらば、彼は何というだろう。いまモスク□の下宿で、伸子は湯加減をみるためにガス湯わかしの匂いがかすかにする浴室へ立って行きながら考え沈むのだった。ふくよかに、おっとりして、赤い小さい唇をしていた蕗子の生のなかにもこうして一つの切実な思いからの死が包括された。伸子が自分の生涯のなかに保の死をうけいれたように。蕗子にとって弟の死は、いつも彼女の前に立つだろう、なぜなら、その青年は自分ののりこせないものから逃避したのではなくて、そこへ身を投げ入れたのであったから。
 石鹸の泡を体じゅうに立てこすりながら伸子は尾を長くひく考えの継続から自由になれなかった。ある立場に自分を据え、その立場によりたっていろいろ議論することに熱中している人たちと、その議論によって考えさせられ、自分をきびしく吟味し、生命の価値さえ自分の責任で決定してゆこうとする正直な、ごまかしのない人々の存在。――伸子は、自分たちは、はたとの関係においてどんな風に生きて来ているかと思ってみずにいられなかった。二人の友人である河野ウメ子は、おそい結婚――どこか偶然めいた不安を感じさせる結婚だが、その結婚をすることに心をきめた、と云ってよこしている。あいてのひとは、哲学者であり、ウメ子の小説をよんで、彼女の文学を成長させてやりたいと云っている人だとのことだった。お二人にお目にかかることもなくなってまる二年ちかくになります。このごろは私も自分ひとりの暮しの中で何となし新しく展開するものをもとめるようになって来て居ります。――
 モスク□で暮していた日ごろ、それからまたパリへ行って生活していた日々、伸子はウメ子にときどき便りはかいていた。だけれども、ウメ子に会わなくなってもう二年たったという風に互の友情を感じたことがあったろうか。

        四

 十二月の雪がモスク□に降りはじめた。全市が美しい白と黒の雪景色にかわった。アストージェンカの広場からはじまっている並木道の遠い見とおしの上に、ひとすじの黒いふみつけ道が出来た。
 雪は毎日根気よく降りしきり、人々は惜しげなく雪の白さをよごして活動し、陽気で混雑したモスク□の冬がはじまった。
 ことしの雪景色は、去年とちがった。モスク□のあちらこちらの広場に出ていた露店商人が消えたから、雪降りの歩道に物売りが立ち並んでいて、漬水の凍った塩漬け胡瓜(きゅうり)入りのバケツに雪花が舞いこむ市場風景はなくなった。そのかわり、ことしのモスク□の雪は、五ヵ年計画を四年で! という赤いプラカートの上に降り、国立銀行(ゴスバンク)の建物の高い軒にはり出されている「われわれは(ウ・ナス)清掃を行っている(チーストカ・イジョット)」という機構清掃のプラカートをかすめて降っている。
 ソヴェト全機構にわたって官僚主義の批判は、伸子たちのモスク□暮しのはじめから絶えず行われていた。漫画雑誌の「鰐(クロコディール)」は、いつも官僚主義を諷刺していた。ビュロクラティズムという言葉は、伸子がモスク□で最も早くおぼえた用語の一つだった。五ヵ年計画の実行が進んで、官僚主義の害悪は、あらゆる職場の大衆からきびしく指摘されるようになった。ボルシェビキがまだ非合法の政党であったころ、検挙されてひそかに同志を売った者、将校だの憲兵、警察関係の非人民的な職業についていた前歴をかくしたり、偽ったりして、現在政権をもっているロシア共産党の内部にもぐりこんでいる者。いかがわしい分子も、ソヴェト生産や官庁の諸機構に官僚主義がはびこっていさえすれば、比較的安全に、温存されることができた。ブハーリンが国際的な指導者の一人であるという盲目的な信頼の多い立場を利用して、自分にゆだねられていたコミンターンの機関を専擅しつづけた。その事実はすべての人の前にばくろされた。彼は反社会主義理論である富農の社会主義化、世界資本主義の再編成された安定論を主張して、迫る第二次大戦の危険――この地球から社会主義を絶滅させようとする企図――への防衛をおくらせようとした。ブハーリンは各国の共産党の中に彼の連絡員をもっていた。アメリカにもドイツにもフランスにも。それらの国では、党の機関を握っているブハーリン派が上から下までの組織の力をつかって、少数の人々によって提起される正当な情勢の判断を、無視し、圧迫し、機関の名によって誹謗しつづけた。
 官僚主義こそ、不潔分子のかくれ場所である。官僚主義は、反革命の最も居心地いい温床である。詩人のマヤコフスキーが、官僚主義排撃をテーマにした戯曲をかいているという記事が新聞に出たりしている。
 伸子は興味をもって「プラウダ」や「コムソモーリスカヤ・プラウダ」の清掃(チーストカ)についての記事をよむのだった。ある経営で清掃を行うときには、それを公告する義務があった。ウ・ナス・チーストカ・イジョット、と。その経営のそとの大衆から、不潔分子についての責任ある投書が許された。そこには様々の重大な発覚があり、また滑稽で素朴なばくろもあった。職場の全員があつまって清掃大会が開かれる。その席上、日ごろ官僚的なことでみんなからきらわれている技師ゴルレコフが、妻があるにもかかわらず、婦人労働者のムーシャを口説いて、はねつけられ、ムーシャの友達のマルーハをくどいて彼女からも、はねつけられた、彼の自己批判を求めた、というような例も報告されていた。そういう記事は、経営の中の労働通信員から送られて来るのだった。
 モスク□の粉雪の降る空の下に、ウ・ナス・チーストカ・イジョットと白字を浮き立たせている赤いプラカート。それを、無心に見る通行人というものはない。
 国立銀行(ゴスバンク)の軒にはりめぐらされた鮮やかな清掃公告のプラカートは、やがて協同組合本部の高い蛇腹(じゃばら)のまわりにもかかげられた。
 ことしのモスク□の雪景色には例年にない意気ごみがある。伸子は自分の鼓動も、そのテンポにひき入れられるような共感を感じた。ソヴェトは、たしかに一つの偉大な事業のために真剣になっている。――
 そういう雪の日の或る午後のことだった。伸子はアストージェンカの下宿のデスクの前で、これから書かなければならない一通の手紙について思案していた。
 その手紙をかき出すについて、まず伸子は、癇癪(かんしゃく)をしずめなければならないと考えているところだった。文明社の社長、木下徹は、案外な男だった。素子があのとき駒沢の家の客間で、彼に警告した通りになった。伸子が文明社からうけとれる金額は一万円までの約束であった。その約束は木下との間にかわされていて、伸子はモスク□へ来てから現在までに半分ばかりつかった。夏の終りに伸子はパリから手紙をかいて、モスク□へまた一定額の金を送っておいてくれるようにたのんだ。帰ってみると、金は来ていないで、社名での親展書が伸子あてに着いていた。社長の木下が去年の総選挙に失敗して社の経営に大損害を来したから、伸子への送金は中止のやむなきに至った。右の事情何卒(なにとぞ)あしからず御承知下さい。そして、いつも小切手に書かれていた書体で、木下の弟である会計係の署名がされているのだった。
 伸子たちのモスク□滞在も、あらまし三年ぐらいと予定されていたことだった。伸子が、帰って来たとき、素子は、大体、ことしいっぱいというところかな、と云った。
 伸子は、ぼんやり云い出されたその帰国の考えに賛成もしず、不賛成もあらわしていないのだったが、木下が、自身で責任を負った金を送れないというときになって、会計係の弟に事務一片の手紙を書かせてすましていることが不愉快だった。体裁やで小心な木下の性格があらわれている。その手紙に添えて、会計から送金明細書が送りつけられているのも、伸子をいやな気持にした。その明細書によると伸子が三千幾円かを借りこしていることになっているのだった。
 伸子はデスクのわきにある一冊の綜合雑誌を手にとった。その頁のあちこちを開きながら、伸子は実際的に考えているのだった。現在、どの位の金があるかわからないが、金が送られなくなったからと云って、モスク□にいたいだけ居ることを止めようとは思えなかった。ウィーンで買ったあの外套を売ったって――伸子はライラック色の表に、格子の裏をつけたトレンチ・コートを考えた。あの薄色のドレッシーな短靴を売ったって――絹の靴下と靴を売れば、質素な伸子たちのモスク□生活の三ヵ月はもてた。そんなことをしなくても、もしかしたら東洋語学校で日本文学の講義ぐらい、できるようになるかもしれない――
 考えながら雑誌をいじっていた伸子は、ふと、そこにのせられている一つの文芸評論に目をひかれた。相川良之介の生涯と文学とにふれて書かれている評論であった。その主題が、伸子の関心をひいた。これまで一度もその名を見たことのない石田重吉というその評論の筆者は、文章のはじめに書いていた。この作家の「透徹した理智の世界」に、私は漠然、繊細な神経と人生に対する冷眼を感じただけであった、と。伸子は、相川良之介について自分が感じたように、いわゆる野暮に感じる人もいたことをおもしろく思った。「私は『余りにも人工的な、文人的な』という漠然とした印象より外のものを多く持っていなかった」ところが「一九二七年度に著しかったこの『文人』の切迫した羽搏きとその結論としての自殺は」この評論の筆者が相川良之介を見るめを変えさせた。石田重吉は、率直な心をあらわして、私はこの時、此の自殺が私を感傷的にしたのではないかと一応考えてみたと書いている。だが、新しく厳粛に相川良之介を見直したとき、そこには相川良之介が、一生脱ぐことの出来なかった重い鎧を力一杯支えながら、不安に閉された必死の闘いを見せているのだった。過渡時代の影を痛々しく語りつつ相川良之介を襲って来る必然的な結論に慟哭(どうこく)していることが発見されたとして、石田重吉は、相川良之介の生活と文学とがもっていた矛盾の諸相を追究しているのだった。
 フリーチェの言葉が、今私の前にある、と書いているところや、明瞭に資本主義社会とそのインテリゲンチアの矛盾として相川良之介の悲劇にとりくんでいるところをみれば、この評論の筆者である石田重吉という青年は――伸子は好奇心から、何心なく論文の終りをめくって、そこにのっている、あまりゆたかな生活ではなさそうな、カラーなしの制服姿の筆者の写真を見、私は自分のことについて多くを語りたくない、と結ばれている簡単な東大経済学部在学中という経歴をよんだのだったが――プロレタリア文学運動について無縁だとは思われなかった。けれども、この相川良之介についての評論は、伸子が最近の二三年の間によんだ、どの文芸評論ともちがった趣をたたえていた。若々しい真摯(しんし)さでひた押しに構成されている推論とともに情感を惜しまず、率直に人生と文学に関する自分の思いの一部をもこめて語っている文章からは、精神の強靱さと、そういう精神のもっているつやも閃き出ている。石田重吉という青年が、評論の強固な論理のおしすすめのうちに自身の若々しさを流露させていることは、伸子に珍しかった。
 伸子は、その評論につりこまれた。文明社へかく手紙のことを暫く忘れた。
「――ぶこ!」
「え?」
「なにしてる」
「――うん」
 素子が、しばらくすると立って来て、伸子のデスクをのぞきこんだ。
「何だ! 手紙、書いてたんじゃないのか。いやにひっそりしているから、蜂谷君へラヴ・レターでも書いてるのかと思った」
 伸子のわきにおきっぱなしていた文明社からの明細書を、素子は手にとって見た。
「木下も、世間が思っているより、土精骨のない男だ。――自分では、よう、ことわりの手紙も書かへんやないか」
 伸子は、それに答えず、わきに立っている素子に仰向いて、ひろげている雑誌の頁を示した。
「あなた、これ、読んだ?」
「――何かあるだろう?」
 素子の心にも止る何かがあったのだ。
「まだ学生だね」
 学生であるにしろ、石田重吉は「大導寺信輔の半生」にふれて、伸子に自分の浅い批評をきまりわるく思わせる分析をしていた。相川良之介の特色であった知識に対する貪欲とも云い得る強烈な欲望、伸子が衒学的だと感じて、常に反撥したその欲望は、日本の中流下層階級に属して、この社会に何の伝統的な生活手段も持っていなかった彼の、個人的特性であるとともに、知識は相川良之介にとって生活上の武器であり、生活手段であり、享楽であったと、評論は語った。そこには、筆者のなみなみならず切実な理解がこめられているようでもあった。
 石田重吉の評論には、モスク□でそれをよんでいる伸子としてかすかな居心地わるさを感じさせられるところもないではなかった。それは、プロレタリアートは時代の先端を壮烈な情熱をもって進んでいる。という文章につづいて、しかも我々の前には、過渡時代の影がなお巨体を横えている。長い過去を通じて、我々に情緒上の感化を与えて来た「昨日の文学も」というあとにつづく一句だった。「わがコムソモールの机の上には『共産主義のABC』の下にエセーニンの小さい詩の本が横わっている」と云われている暗示ふかい言葉は、ソヴェト同盟においてのことばかりであろうか。「プロレタリアートの戦列に伍して、プロレタリアートの路を歩もうとしているインテリゲンチアの書棚に、党の新聞とともに、相川氏の『侏儒の言葉』が置かれていないと誰が断言し得よう」
 そう書かれている評論のその部分を、伸子はくりかえし自分の感情をさぐりながら読みかえした。エセーニンの詩は、いわゆる母なるロシアの感覚そのものから歌い出されていて、その憂愁とロシアへの愛はイサドラ・ダンカンのような外国の舞踊家までを魅した。「母への手紙」を素子が抑揚うつくしくよめば、伸子の胸にもエセーニンの魂の啜泣(すすりな)きがつたわった。去年あたりからソヴェトの一部の人々はやかましく、エセーニンへの愛好を批判している。現在ソヴェトの青年がエセーニンの詩に心をひかれるなどということは、時代錯誤であり、反社会主義的だという議論だった。しかし、すべての、「ABC(アーズブカ)、コンムニズマ」の下にエセーニンがあるときまっていない。伸子のところにアーズブカがある。でも、その下にエセーニンはない。よしんばエセーニンの詩の一巻があるとして、それがABCと同じ比重で感情のうちに対立するということは伸子の実感ではわからなかった。伸子はソヴェト社会そのものの力におされて、いつしか感情統一におかれている自分を自覚しないのだった。
 だが、石田重吉は、ABC(アーズブカ)とエセーニンとの間に自分の存在をおいて語っているのではなかった。「我々は相川氏との間におかれた距離を明かにしなければならない」「いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向ってツルハシを打ちおろさなければならない」「敗北の文学を――そしてその階級的土壌を我々はふみ越えて往かなければならない」一九二九年四月。――これが石田重吉の論文の結語だった。
 伸子は、その評論をよみ終っても、なおじっと考えこんでいた。それから、もう一度、頁をあけて、最後にのっている小さい石田重吉の写真を見た。眉の濃い、肩幅のひろい、スマートと云われることから遠そうな青年だった。私自身については多くを語りたくない――伸子は、思わずほほ笑んだ。もうこんなに、語ってしまっているのに! そして、石田重吉という青年の生年月日にあらためて目がとまったとき、伸子は、心臓の鼓動が一瞬急にはやまって、やがてつまずいてとまるような気がした。自殺した伸子の弟、保と同いどしなのだった、その石田重吉というひとは。――

        五

 きのうの雪の上にけさの雪が降りつもり、また明日の新しい雪がその上に降りつんで、モスク□の十二月は、厳冬(マローズ)に向ってすすんでいる。
 伸子の毎日にも、あたらしいことが次から次へとおこった。そして、絶え間なく降る雪が、ソコーリスキーの自然林公園のどこかで、やがて雪どけと同時に一番早く花を咲かせる雪のしたの根を埋めて行っているように、雪景色を見晴らすアストージェンカの下宿の室では、伸子の新しい日々の下に石田重吉という一人の青年の名とその青年のかいた文芸評論についての印象がうずめられて行った。
 一月二十一日の「赤い星(クラースナヤ・ズヴェズダー)」に、スターリンの「階級としての富農(クラーク)絶滅の政策に関する問題について」という論文が出た。
 モスク□全市は真白い砂糖菓子のようになって、厳冬(マローズ)の太陽の下に白樺薪の濃い黒煙をふきあげながら活動している。そのモスク□が、外国人であり、何の組織に属しているのでもない伸子にさえ、それとわかる衝撃を、この一つの論文からうけた。
 富農(クラーク)がソヴェトの穀物生産計画を擾乱(じょうらん)している事実は、おととし、一九二八年の穀物危機とよばれた時期から、誰の目にもはっきりした。この実情が、レーニングラード、モスク□その他の都市の労働者に、集団農場(コルホーズ)化へ協力しなければならないという関心をよびさました。翌年の春の種蒔き時をめざして、モスク□の「デイナモ」工場や「槌と鎌工場」その他からコルホーズを組織するための協力隊がウクライナ地方を主とする各地の農村へ出かけて行った。伸子が肝臓の病気になって入院する前の秋から冬にかけてのことだった。
 工場の仲間におくられて賑やかに都会を出発したコルホーズ協力の労働者たちは、やがてあちこちの農民の間で予期しない経験をするようになった。工場からの労働者たちは、多くの場合その危害からとりのけられたが、コルホーズ指導のために村へ先のりした若い政治部員たちや、村ソヴェトの中でその村の有力富農やぐずついている中農に反対して集団農場化を支持する少数の貧農の青年たちなどが、富農に殺されることが少くなくなった。
「コムソモーリスカヤ・プラウダ」には、そういう事件の内容が、わりあいこまかに報道されていて、なかには伸子の忘れられない、いくつかの物語があった。
 ある村へ、二人の若い集団農場(コルホーズ)化のための指導員が行った。その辺は富農たちの勢力のつよい地帯で、二人の若者は警戒して行った。ところが実際着いてみると、村ソヴェトでの集会も思ったよりはるかに集団農場(コルホーズ)化を支持している空気であったし、村の富農は非常に丁寧に二人の若い指導員たちをもてなした。正式の集会のあと、富農の家で村の多勢が集って活溌な討論をつづけ、「二人の客」が疲れて眠りについたのは、もう大分の夜更けだった。ロシアの村でよくもてなされた、というからには、二人の若い指導員たちは、話すことと同量にたっぷり食べ、また、たっぷり飲んだことだったろう。「二人の客」は特別のもてなしの一つとして、柔かくて、いい匂いがして、最も寝心地のよいところとされている乾草小舎に泊められたのだった。
 すると、夜あけ前に、その乾草小屋から火が出た。「村の連中は何しろ、おそくまでうちこんで討論したあげくだから、疲れていた」と、その通信員は村の誰かれの話を引用していた。「主人も、ぐっすり寝こんで、火が乾草小舎をつつんでしまうまで気づかなかった」。やがて火事が発見され、村のスリ半(ばん)がうちならされた。村人たちが現場へかけ集った。焔はすでに乾草小舎をつつんでいる。勇敢な一人の若者が火をくぐって小屋にかけよったが、錠がかけられていて手の下しようがなかった。「二人の客」は完全な二つの焼死体となって焼跡から発見された。地方の警察につれてゆかれるとき、その主人である富農は、こう呟いて地面へつばをはいた。「ウフッ! 指導員! 乾草小舎でタバコは禁物だってことさえ知りやがらねえ。奴らのもって来るのはいつだって災難きりだ」。しかし、その晩、「二人の客」を乾草小舎へ送りこんだ連中の中の一人の農民は次のことを目撃していた。タバコを吸っていた一人の指導員は、小舎に入る前に戸の手前でタバコをすてて、それをすっかりふみ消した。「二人の客」は酔っているというほどではなかった。どうして、乾草小舎に錠をかけたかという質問に対して、富農は答えた。ヘエ、訊きてえもんだ。お前のところじゃ、乾草どもが、自分で内から小舎の戸じまりでもしているところなのかね。俺は客人に間違ねえように、と願っただけだった。自分でやけ死んで、こんな迷惑がおころうとは思わなかった。――
 この物語や、討議しているうしろの窓から狙撃されて死んだ政治部員の話。橇で林道を来かかった地方ソヴェトの役員の上へ、大木が倒れかかって来てその下につぶされて死んだ話。それらは、みんな伸子に、二十歳を越したばかりだったゴーリキイが、人民主義者(ナロードニク)のロマーシンといっしょに暮したヴォルガ河の下流にある村での経験を思い出させた。ゴーリキイとロマーシンとはその村で、農民のための雑貨店を開きながら「人間に理性をつぎこむ仕事」を試みたのだった。しかし、二人の外来人に敵意をもつ村の富農のために店に放火され、そのどさくさにまぎれて、包囲されたロマーシンとゴーリキイとは、もうすこしで殺されるところだった。シベリアの流刑地で様々の場合を経験して来ているロマーシンが、ゴーリキイにささやいた。ぴったり背中と背中をくっつけるんだ。このまんまで輪をつっきるんだ。ゴーリキイとロマーシンに好意をもって日ごろ仕事を助けていた貧農のイゾートは、この事件が起る前ヴォルガ河のボートの中で頭をわられて殺された。それは一八〇〇年代終りのことであった。ツァーの時代のことであった。
 一九二八年に、富農がコルホーズ化を進行させまいとしてとった手段は、やっぱりそのころとちがわない兇暴さだった。
「話のわかる指導者」ブハーリンの一派に庇護されて、一九二一年このかたソヴェト社会の間で一つの階級にまで育って来た富農に対して「赤い星(クラースナヤ・ズヴェズダー)」にのったスターリンの論文は「これまでのように、個々の部隊をしめ出し克服する」のではなくて、「階級としてのクラークを絶滅させる新しい政策へ転換」したことの宣言であった。「階級としてのクラークをしめ出すためには、この階級の反抗を、公然たる戦いにおいて撃破し、彼らの生存と発展の生産上の諸源泉(土地の自由な使用、生産用具、土地の賃貸借、労働雇傭の権利等々)を彼らから剥奪してしまうことが必要である。これが即ち、階級としてのクラークを絶滅する政策への転換である」
 この論文は、新しくつもったばかりの雪の匂いが、きびしい寒気とすがすがしさとで人々の顔をうつ感じだった。伸子が帰ってきたとき、狩人広場(アホートヌイ・リャード)から消えていたモスク□の露天商人――闇市の、その根が全国的にひきぬかれようとしている。「生産の諸源泉を彼らから剥奪する」ほかに何と解釈しようもないこの決定的な表現は、それが必ず実現されるものであることを伸子にも告げるのだった。伸子がモスク□へ来てからの経験では、スターリンの名で何ごとかが発表された場合、それはもう既に実現されてしまったことか、さもなければ、これから必ず実現されるべき何ごとかなのだった。そして、この論文に示されているのは、まさに、一つの画期的な決意であった。ソヴェト社会の確保と建設のために一層はっきりとした方向にそのハンドルがしっかり握られたことを告げる。――
 ロンドンで行われる軍縮会議は、とことんのところではソヴェト同盟の存在をめぐっての軍備拡充のうちあわせのようなものだったから、ソヴェトの人々が自身の社会を護るために、その社会を内部から崩壊させようとしている階級を、とりのける決意をしたことは当然だった。
 雪につつまれた厳冬(マローズ)のモスク□が新しい雪の匂いよりもっと新鮮できつい雪の匂いをかいだように感じたのは、スターリンの論文がもっている理論の明確さのせいばかりではなかった。論文を支えている階級的な決意の動かしがたさが、その身はもとより富農ではなく、日々モスク□の工場や経営で働いているすべての人々にまでなまなましく迫って自分を調べなおさずにいられないこころもちにさせた。そのころ、誰かが誰かと会って「読みましたか(チターリ)?」ときけば、それは「赤い星」の論文のことであった。
 伸子がパリにいた間に、素子はオリガ・ペトローヴァという、語学上の相談あいてになってくれる女友達を見出した。素子は一週に一度、数時間ずつ彼女の部屋で過すのだった。オリガの住んでいるのはモスク□の町はずれに近いところで、まだ五ヵ年計画の都市計画がそこまではのびて来ない昔風な大きな菩提樹のかげの門の中だった。古びたロシア風の丸木造りで小さい家の下には誰も住んでいず、二階に、三十をいくつか出ている年ごろのオリガが石油コンロ一つ、ブリキのやかん一つという世帯道具で暮していた。食事は、つとめ先の組合食堂ですますのだった。
 素子の勉強がすんだころ、散歩がてらに伸子もそこへ行くことがあった。
 オリガの故郷は、ミンスク附近のどこかの村だった。田舎には母親と弟妹たちがいるらしくて、弟の四つばかりになる息子を、オリガは「私の英雄(モイ・ゲロイ)」とよんで、可愛がっているのだった。ソヴェトでは、まだ珍しいその甥のスナップ写真が伸子たちに見せられた。
「あなたがたに、ほんとうのロシアの田舎というものを見せてあげたい!」
 長年の勤人生活になれたオリガの丸っこくて事務的な頬と眼の中に、あこがれが浮んだ。
「あなたがたがどんなに夢中になるか。わたしによくわかる!」
 シガレット・ケースをあけてオリガにもすすめながら素子が、「外国人」である自分を自分でからかうように、
「わたしたちだって、いくらかは『ロシアの田舎』を見ていますよ」
と云った。
「すくなくとも、タガンローグの蠅は、ワタシの鼻のあたまを知っている」
 アゾフ海に向って下り坂になっている大通りのはずれに公園をもっているタガンローグの町は、チェホフの生れたところだった。タガンローグの町に唯一のチェホフ博物館があって、そこにはチェホフに直接関係があってもなくても、とにかく町の住人たちにとって見馴れないもの、あるいは日常生活に用のないものは、みんなもって行って並べることにしてあるらしかった。昔、アイヌがイコロとよんで、熊の皮や鰊(にしん)の大量と交換に日本人からあてがわれていた朱塗蒔絵大椀や貝桶が、日本美術品として陳列されていた。伸子と素子とは、タガンローグの住人にとってめずらしい二人の日本婦人として子供に見物されながら町を歩き、メトロポリタンという堂々とした名前のホテルに一晩泊った。
 田舎の町やホテルの面白さ。――だが、タガンローグの町で、チェホフが一日じゅう蠅をつかまえて暮している退屈な男を主人公にして小説をかいたわけだった。その蠅のひどいこと! 少しおおげさに云えば、伸子と素子とは蠅をかきわけて食堂(ストローヴァヤ)のテーブルにつき、アゾフ海名物の魚スープといっしょに蠅をのみこまないためには、絶えずスプーンを保護して左手を働かせていなければならない程だった。
「タガンローグの五ヵ年計画には、必ずあの蠅退治がはいっているだろうと思いますね」
「わたしたちの村では清潔ですよ」
 オリガが、ほこらしげに、単純な満足で目を輝かした。
「村のぐるりに森があって、森は素晴らしいんです。大抵の家で手入れのいい乳牛をかっていてね――クリームで煮たキノコの味! あなたがたが、あすこを見たら! 彼らは、生活しているんです」
 オリガのむき出しな四角い部屋の一方に寝台があり、その反対側の壁によせておかれているテーブルの上に三つのコップが出ている。三人は茶をのみながら話しているのだったが、伸子はオリガの話しかたをきいていて彼女の郷愁と村自慢にしみとおっているモスク□生活の独特さを感じた。オリガの善良な灰色の瞳は、森や耕地の景色をそっくりそのまま浮べているような表情だった。いまにも、村の家の暮しの物語があふれて出そうだった。けれどもオリガは決して必要以上に田舎の家族についておしゃべりでなかった。くりかえして、伸子たちがあれを見たら! と村の自然のゆたかさを語りながら、彼女は決して、わたしの田舎へいっしょに行きましょう、とは云わない。そこにモスク□の節度があった。オリガがまじめな勤め人であり、伸子たちが私的にモスク□に暮している外国人である以上、その節度は当然であり、いわば、それがソヴェトの秩序でもあるのだった。

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