道標
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著者名:宮本百合子 

 ひとくみの男女の感覚の嵐が彼女の身ぢかいところでそよいでいるとき、どうしてフランシーヌに冷静がもとめられよう。フランシーヌのつやのわるい十六歳の顔の上にはそばかすがあった。このごろ、そのそばかすが濃さをましたように見える。その頬にたれている捲髪と同じように、長すぎるルーマニア風の鼻から、彼女は、
「だって――寒いんですもの」
 寒い、ということにあたりまえでない意味がふくまれているような鼻声と目つきで母親を見ながら食卓に向っている体をくねらせた。ベルネの細君は、娘の血色を美しくさせようとして、食後自転車にのって、すこし外をまわって来るようにとフランシーヌにすすめているのだった。
「ジャック、彼女といっしょに行きなさい」
 兄息子のジャックは、だまって長い膝をゆすっている。
「二人でいっておいで。ね、少し運動した方がいいんですよ」
「――寒くて」
 やがてベルネのおばあさんが、両肩から何かを払いおとすようにまずテーブルから立ち上る。つづいて細君も、主人も。彼らには午後から工場の仕事がある。そして、伸子も。奇妙なとりつぎについて伸子は、ひとこともフランシーヌにふれないのだった。
 一日が一日とすぎてゆく。伸子のパリを去る時が近づいている。蜂谷と伸子との間にある緊張はつよまるばかりだった。蜂谷良作は感情の投げ輪を一層つよく投げ、伸子は、なるたけ蜂谷以外のひとたちと行動をともにしようと考えながら、実際につれ立って出歩くのは蜂谷ばかりであったし、しかもその間に伸子は一度ならず蜂谷の投げ繩にとらえられた。彼女自身のうちにわきたつはげしさと同じ分量の疑わしさの間にいつも中途半端にたたずんだまま。伸子はもう自覚していた、自分が正気を失えないことを。そのように正気でありながらも、官能というものはほだされるものだということを。伸子の本心は恋を求めているのだった。愛にまでふかまる恋を。――ほだされている自分。伸子は手鏡をとってしげしげとそこに映る自分をながめた。そこに何か新しい美しさの添えられた顔が見出されるのだろうかと。

        十五

 ある晩、伸子は三人ぐらいならんで臥られそうな大きい寝台の真白いシーツのまんなかに上半身おき上って、煖炉の白くなった豆炭の奥にのこっているかすかな赤い光をじっと見つめていた。
 世帯もちのいいベルネのおばあさんは、葡萄酒をのまない伸子のために、いくらか食卓のたのしみがあるような心づかいをすることはなかったが、クラマールの夜が寒くなってからは、毎晩、白いナプキンできちんとくるんだゆたんぽを伸子の寝床の裾へ入れておいてくれた。
 あつい湯でさっぱりと洗った足さきに伸子はこころもちよくゆたんぽのあたたかみを感じている。伸子が部屋へかえって来るまでに、のぼせるような豆炭の火気をはきつくした煖炉は適度に部屋をあたためて、夜更けらしい余燼(よじん)を見せている。おだやかな夜の室内の光景だが、白地にほそいピンク縞丸形カラーのねまきを着て起きている伸子の顔はけわしかった。寝台のかけものの上にのばしている手のところに、二つに裂かれた手紙がある。手紙はわりあいあつくて、原稿用紙が四五枚重なったままをまんなかから、さかれたときの紙の重りのずれをそのまま、そこにある。
 モスク□とロンドン。モスク□とパリ。素子と伸子とが別々に暮すようになってから二ヵ月あまりたつ。わりあいに筆まめな伸子は、気がむくと随分細かく長い手紙をモスク□へ書いて来た。素子も一週に一通のわりぐらいでロンドンにいた伸子、パリへかえって来てからの伸子に、たよりをよこしているのだった。
 でも、今夜の手紙は、混乱した表情に口もとをゆがめ、白いブラウスの左方の肩をつきあげたような素子が、こわい眼つきで、伸子の前に迫って来るようだった。一ヵ月もひとに無駄な手紙をかかせるひとだということがやっとわかった。もうぶこがモスク□へ帰って来ることなんかちっともあてにしていない。全く帰って来なくなったっていい。――きみというひとは、どっちみち、自分のしたいようにしかしない人なんだから、わたしがここからこんな風に云うのさえ、云わば滑稽なことだろうがね。
 ――一ヵ月も無駄な手紙をかかせた、と素子は云って来ているけれども、それはどういうことなのだろう。伸子は、自分が素子のよこしたどの手紙かに返事をしなかったことでもあったろうか。素子のどんな手紙やハガキに対しても、必ずこたえて来ていたという確信が伸子にある。佐々の家のものがモスク□経由で先へ帰ってから、パリにのこった伸子の滞在は、クラマールへ移ったりして長びいてはいるけれども、それだって、素子に無断でずるずるのばしにしているのではなかった。ベルネの家へ引越したとき、あらましの予定は伸子から告げてあった。パリには十一月いっぱいぐらい居たいからと。
 素子の手紙は、くりかえし伸子の不実をせめた。そして、終りに、わたしは、このごろちょくちょく徹夜して弄花する。これも、二晩つづけて、帰って来て、部屋で書いている。とかかれているのだった。
 その晩、伸子は蜂谷良作といっしょに、パリ東南部の労働者地区のあるところで行われた集会へ行って、おそく帰ったところで、白い猿によせかけておかれている素子からの手紙を見つけたのだった。
 その夜伸子と蜂谷とが行ったところはセーヌ河の停車場河岸とよばれているあたりだった。倉庫のような建物が並んでいるその界隈は、すれちがう通行人の顔も見定められない暗さだった。掘割の上に板の橋がかけられている、それもそこを通ってゆく足音できき分けられるほど暗いところをぬけると、空倉庫を集会所に直したような建物があって、そこで、パリにいるポーランド人労働者を中心に、ファシズム反対の集会がもたれた。ポーランドのファシスト政府は、十月三十日に、軍隊の力で議会を襲い、議事中止をさせた。翌日それに抗議した社会党主催の大会は解散させられ、社会党代議士と労働者八名が傷を負わされた。社会党の機関紙「労働者(ラボートニク)」は発行停止をうけた。フランスには、ポーランドからの移民労働者が多数働きに来ている。ファシズムに対して労働戦線の統一を努力しているC・G・T・Uは、祖国ポーランド人民の自由を守ろうとする労働者の熱情を統合して、C・G・T・Uのみならず、どんな組合に属している労働者も、どんな政治的立場に立つ労働者も、それにかかわらずその夜のファシズム反対の集会に集るように、よびかけた。
 夏のころから、フランスの共産党への弾圧がひどくなっていた。C・G・T・Uが提唱した集会だということから、警官がふみこむかもしれず、また雑多な会衆の間にどんな挑発者がまぎれこんでいるかもしれないというので、会場の空気は緊張していた。何かのつてで、蜂谷良作はその夜の入場券を手にいれた。ピルスーズスキー政府に窒息させられたその年のワルシャワのメーデーの印象は、伸子に忘れられず、四五百人の男たちばかりの会衆にまじるたった一人の外国人の若い女であることも頓着せず演壇に近いベンチにかけていた。
 人々は、次々に立って演説した。ほんとに工場から来た労働者らしい若者。職長ぐらいな年配と恰幅(かっぷく)の労働者。組合事務所の役員らしいカラーにネクタイをした男。なかに、黒いボヘミヤン・ネクタイをふっさり下げた長髪の男さえ混った。みんなフランス語の演説だった。伸子のために蜂谷がかいつまんでつたえる演説の主旨は、どれも同じファシズムへの抗議とポーランドの人民の自由のためのアッピールであった。が、やがて、伸子は、一つの興味ある事実を演説者たちの上に見出した。伸子に言葉そのものがよくわからないということが逆に作用して、演説者の身ぶり、会衆へアッピールする表情などの一つ一つを注意ぶかく見ているうちに、いま演壇で話しているのは、どんな傾向のもち主か、あらましが推察されるようになった。発言は注意ぶかく整理されているらしくて、演壇をみつめている伸子の特別な関心をひく、無駄のない身振り(ジェスチュア)で、理性的に話す演説者は三、四人の間に一人ぐらいの割ではさまれていた。
 開会前の物々しい警戒の雰囲気にかかわらず、集会はことなく終った。最後に、全会衆が起立してインターナショナルを合唱した。背の小さい伸子の体をつつんで、倉庫めいた会場に歌声が満ちた。この間の朝早いメトロの中で、「リュマニテ」の白い波が伸子をそのインクの匂う波の下にかくしたように。伸子は、ロシア語で歌にあわせた。フランス語もロシア語も、ああインターナショナル、というひとふしのなかではすべてが一つの高まるメロディーのうちにとけあって、歌い終ったとき、伸子のとなりにいた五十がらみの労働者が、
「非常にいいです(トレ・ビアン)」
 きつく伸子の手を握って、ふった。
 そのようにしてインターナショナルが歌われた間、蜂谷良作は、まじめに口をつぐんだまま立っていた。蜂谷はインターナショナルの歌を知っていないのだった。知らない歌は、うたわずに起立している。そこにうそもなく、彼として不自然な態度でもなかった。しかしある程度の危険をおかして今夜この寂しい場所に集っている会衆の高揚した共感が歌声となって溢れているときに、ひとり口をむすんで重く立っている蜂谷のありかたは、腕と腕とがふれ合うほど身近に立っているだけよけいに、いつも蜂谷と自分とについて伸子が感じている奇妙な感じを、きわ立たせた――蜂谷と自分がときに唇をよせるほどこんなに近くあるという意外さと、その意外さをよそよそしいものにする、互の生活の本質のところにあって消えない距離の感じ――そのくいちがった感じが伸子の心につよめられた。
 やっとクラマール行の終電車に間に合ってベルネの家のあるサン・クルー街の並木の下を歩いているとき、蜂谷良作は、
「実際、佐々さんは、理論だけじゃない火をもっているんだなあ」
 長い道中、かんがえて来たことのように云った。
「ああいう場所へ、すぐぴったりできるんだから。――僕なんかには、つくづくいくじがないインテリ根性があると思った。――てれちゃうんだ」
 会場で伸子が感じたことが、蜂谷の側から語られているのだった。
「ここまで来ればもうついそこなんだから、ちょっと休んで行きましょう、いいでしょう?」
 冬の並木の裸の枝々を照している灯かげからすこしはなれて、石のベンチがあるところだった。伸子は、またまた、彼にほだされながら意気銷沈する自分を見とおし、それに抵抗するように、
「十一月の夜って、石のベンチにいい季節?」
 はじめから、いそいで歩いているのでもない二人の歩調をゆるめなかった。
「僕は、実のところ、伸子さんに会ったのがおそろしいんだ」
「…………」
「僕に、新しい人生が見えはじめている。それを追求しずにはいられなくなってしまった。――だのに、佐々さんは、パリからいなくなろうとしているんだ……ね、伸子さん、僕は、どうしたらいいんだ」
 ファシズム反対の労働者集会からのかえり路に、自分と蜂谷という男女の間には、こうした会話がかわされる。それは、伸子をばつのわるい思いに赤面させ、また悲しくさせる蜂谷の甘えだった。
「ね、蜂谷さん、ほんとに、お願いだから、甘ったれっこなし――。折角、ああいう集会へつれて行ってくれたのに……」
 ベルネの門の、小さいくぐりへ手をかけようとする伸子をおさえて、蜂谷は、
「ひとつだけ」
 顔を近づけた。伸子は、頬っぺたと耳との間を掠(かす)めた蜂谷の唇を感じたまま、門のくぐりへ入ってしまった。
 寝しずまっているベルネの家の階段を、伸子は滅入(めい)った気持でしずかにのぼって行った。蜂谷に抵抗することは、伸子の内に揺れかかる何かにさからうことだった。それは伸子の神経をつからせる。落付かない眼色で部屋の電燈をつけたとき、伸子は枕元の小テーブルの上におかれているマスコットの白い猿によせかけて、素子からの手紙があるのを見出したのだった。
 はじめその手紙を見つけたとき伸子のおもざしがうれしさに輝いた。わざと手をふれずにおいて手紙を眺めながら、伸子は着がえをした。それから浴室で顔と手足を洗った。寝間着にかわって、寝台に入って、足の先でゆたんぽのありかをたしかめてから、伸子は、たのしみに、ゆっくりロシアのスタンプ、フランスのスタンプがいくつも押されている素子からの封筒をひらいたのだった。この前のたよりに、素子は五ヵ年計画第一年度の生産予定に成功したモスク□の様子を活々した筆で知らせてよこした。ぶこちゃんは、きっとおどろくだろうな。モスク□は変ったよ。アホートヌイ・リャードの闇露店は、すっかり影をひそめたし、いたるところで大建築が開始されている。街は起重機のつき立っている風景だよ、と。
 素子は、この手紙でどんなモスク□の話をしているだろう。この期待は、今夜のような伸子の感情に一層切実だった。ところが、封をきられた素子の手紙から伸子に向って立ちのぼったのは、もうもうとした黒煙であった。伸子が勝手にパリに滞在しているということにたいする非難と怨みごとの末に、このごろまたちょくちょく花をひいている、二晩つづけて、帰って来た部屋でこれを書いているという文句をよんだとき、伸子は、思わずぎゅっとつかんだ素子の腕を、自分の手の下に感じるような激情にとらえられた。吉見素子! 何といういやさだろう。わざと伸子の大きらいな昔の花遊びをしていることを書くなんて――。
 伸子が、そういう遊びごとをきらうことを素子はよく知っている。ところもあろうにモスク□にいてそんなことにまた耽りはじめるとすれば、そのみじめさの動機は、伸子がパリに勝手に暮しているからだ、素子はそう云おうとしている。伸子にはそうとしかとれなかった。だけれども、吉見素子はれっきとした一人前の人間であり、三十をこした女ではないか。伸子の気のよわさで、冷淡でいられない下らない習慣にたよって、はらはらさせて、それで伸子をパリから帰らせようとするのだったら――伸子は、声に出しておこった。悪魔(チョルト)!
 手のなかに感じる素子の腕を、ブラウスごとつかんではげしくゆすぶるように、伸子の心は素子をせめつけた。これまでの手紙で、一度でも伸子に早く帰れと云ってよこしたことがあったろうか。佐々のうちのものがモスク□経由でシベリア鉄道にのりかえ、日本への帰途についたとき、素子がよこした手紙に、伸子のパリ滞在についての素子の意見は示されていなかった。同時に、モスク□への土産に伸子がおくったこまごました土産袋についても、素子はひとこともふれなかった。ことづかって行ったつや子から、果して素子がその袋をうけとったのかどうか。それが気に入ったのか、いらなかったのか。土産ぶくろが黙殺されていることで、伸子は自分がパリにのこったことについて素子の不賛成を感じとったのだった。
 伸子は、あてこすりで自分の行動が支配されるのをこのまなかった。年を重ねた素子との生活のうちに、そういう場合がなかったからではなく、反対に、伸子はいまは自分の卑屈さとして、そういう場合をうけ入れすぎていたと思いかえしているのだった。伸子は妻というもののそういう立場に堪えがたくて佃と離婚した、それと同じような素子からの暗黙の制約を素子が女だからということでうけいれるというのは、おかしなことだった。
 いま、こんな手紙をかく素子が、それならロンドンから、どうしてあんなにあっさり伸子をのこして立って行ってしまったろう。はたと思いあたるという、その字のとおりに思いあたって、伸子は息のとまるような気がした。あのとき、ロンドンには佐々の一行がみんないた。その家族的な環境を伸子の安全保障のように素子は考えたのだ。だから、親たちがパリにいた間は、伸子がパリにいることも、素子を不安にすることではなかったのだ。
 ――伸子は、ゆっくりと、だが決定的な手つきで素子からのその手紙をひきさきはじめた。五年くらした二人の生活ではじめて、こうして素子からの手紙をやぶいている自分を意識し、そして、これは素子との生活における新しい何ごとかであるということを意識しながら。

 暗く燃え乾いた眼を、煖炉の燠(おき)に据えている伸子の指は、やがて、自働的に動きだし、大きく二つに裂かれたままになっていた素子の手紙を、更にほそいたてにさき、またそれを、もっとこまかいきれにちぎって行った。舞台にふる紙雪のような手紙のきれは、伸子の手に掬(すく)われ、指の間からチラチラと寝台のかけものの上におとされる。また掬われ、またおとされ、手紙のきれは伸子の心に、初冬のモスク□の街の上に、そして、アストージェンカのかし間の、一つきりしかない内庭に面した窓にふるのだった。一つしかない窓いっぱいにデスクがおかれている。ダッタン人の男の外着のような太い縞の室内着をきた素子が、そこに向ってかけている。パイプをくわえているだろう。刈上げたかぼそいぼんのくぼを見せ、厚ぼったい部屋着が、大人のかり着めいて見えるなで肩で――。彼女が送って来た九十九円七十五銭の為替と、それをもらってよろこんだ伸子が、素子にかいた下手ながら愉しい絵入りの手紙が思い出された。すすり泣きにかわりそうなふるえが伸子をつらぬいて走った。伸子のパリの生活は、素子をだましていることになるのだろうか。
 モスク□へかく手紙から伸子は、最近おこっている蜂谷良作とのふたしかな感覚のひきあいについて省略している。それが一つのうそであるというならば、伸子は素子に対して正直ではなくなっている。けれども、三十歳になっている一人の女として、素子の立ちいらないどんな感情の小道も経験してはいけないとされても、それは伸子に出来ないことだった。佐々の家のものがみんなでロンドンにいたことで、伸子のロンドンでの生活感情の全部が素子に確保されていたと思うなら、素子はひとの心というものを知らなすぎる。利根亮輔の、人生と学問との上に機智をたのしんでいる態度に、伸子が多くの批評をもったからと云って、それが伸子の意識の底にどんな地位も彼が占めなかった証拠ではなかった。
 伸子は、たしかに、ひとりになってからの生活に起伏する何ごとかについては沈黙して来ている。長年かくしだてなくいっしょに暮して来ている素子が、モスク□にいて、パリの伸子がよこす手紙の下から、何か語られていないものがある感じをうけるのは、当然だと思わなければならなかった。ほんとに、このごろの伸子は素子に話さないこころの揺れにゆられているのだから。
 それを字にかいてしまえば、もうそれは現実なものとなってしまいそうに不安だものだから、水が渦巻くように怨みごとをつらねながら、なお率直に、きみは、おおかたわたしのいないところで恋愛でもしているんだろう、ときめつけることもできずにいる素子の、素子らしい苦しみかた。――
 素子にうちあけていないのはよくないとして、でも、このごろの蜂谷との微妙な格闘を、伸子は何と素子にしらすべきなのだろう。寝台のかけものの上で掬ってはおとしていた手紙のきれを、伸子は少しずつつまんで傍の封筒へいれて行った。結局蜂谷良作は蜂谷良作であり、伸子は伸子としてのこるだろう。その予感が、こんなにはっきりしているのに。その予感にかかわらず、伸子のこころは、あるところまで決して退場することなしに、この経験を追求しようとしているかたい決心のようなものがあるとき。――伸子は、このすべてがここであるままに、素子に話せようと思えないのだった。
 あくる朝、ベルネの家の朝飯がすむとすぐ、伸子はクラマールの郵便局へ行った。そして、モスク□の素子へ電報をうった。ブ コアヤマル キゲ ンナオセ モスク□デ オコツテイルトアタマニワルイ。素子の不安の動機には伸子の責任がある。伸子はそれをすなおにみとめずにいられない。だけれども、素子が苦しんでいるからといって、伸子はどんな風に自分のコースを曲げるとも考えられないのだった。それらの点について、伸子は素子にごめんなさい、というこころもちだった。

        十六

 ことわりなしで、蜂谷良作がおきまりの講義に来なかった。あくる朝になっても、おとさたがなかった。
 伸子は、どうしたものだろう、と思った。考えてみれば、彼の下宿先は、年をとって孤独な画家未亡人の二階で、ちょっと気軽に使いをたのめる人も、そこの家にはいないわけだった。そとでは、冬のはじめの雨が降っている日だった。散歩がてら、蜂谷の下宿へよってみる気で、伸子はひる前にベルネの家を出た。
 雨にぬれて人通りのないパリ郊外の街は静かで、日ごろから門の扉もあけはなされたまま荒れるにまかされている蜂谷の下宿の前庭には、浅い水たまりが出来ている。伸子は、誰も住んでいない一階の隅から、二階への階段をのぼって行った。ぬれた靴が、階段に跡をつけるのを気にしながら。
 伸子は、下宿の未亡人が暮している一つの室のドアをノックした。
「おや、マドモアゼル」
「こんにちは、マダム。蜂谷さんはおいででしょうか」
「ええ、ええ、おいでですよ。彼はすこし工合がわるいようです、ゆうべも、けさも食事をなさいませんでしたよ」
 いまは、どうしているかしら、という風に下宿の未亡人は、先にたって階段ぐちの廊下の右手にある蜂谷良作の室をたたいた。
「おはいり」
 ぐったりした蜂谷の声だった。
「マドモアゼル・サッサですよ」
 戸口に伸子と並んで立って寝台によこになっている蜂谷を見、茶色のエプロンをかけた未亡人は頭をふって戻って行った。
「どうなすったの?」
 伸子は寝台に向ってふたあしみあしすすみよった。
「かぜ?」
「――どうしたんだか、わからない」
「きのうから?」
 枕につけている頭で、蜂谷はこっくりするようにした。彼のその頭の髪が、いかにもきちんとととのえられていて、きのうから気分をわるくして寝床にいる男のようでなかった。そう気がついてみると、胸から下へ毛布をかけてねている蜂谷のパジャマも、うすいクリーム色にグリーン縞の洗濯したてのさっぱりしたものだった。とりちらされた寝床にいる彼を見るよりも、それは目に楽であるけれど、伸子は何となし瞬きをした。
「熱がでたの?」
「熱はないんだろう」
 行儀よい姿で、枕の上からいつもの彼の、額に横じわをよせて眉をしかめるような見かたで自分を見つめている蜂谷の顔を眺めているうちに、伸子の気持は、女らしい母親めいたあたたかさで柔らいで来た。煖炉のよこから質素な椅子をもって来て、伸子は蜂谷のベッドのわきにかけた。
「工合がよくなければ、早くちゃんとしなくちゃ」
「うん」
「ここのマダム、誰か、ちゃんとしたお医者を知っていないかしら」
 磯崎恭介が歯をぬいたばかりで敗血症になり、一晩のうちに死んでから、伸子は行きずりのパリの医者のすべてに信用がもてないのだった。
「もしかしたら、ベルネのうちできいて来てあげましょうか。――亀田さんのところでも知っているかもしれない」
 蜂谷は、こざっぱりしたパジャマの中で、胸がつまって息がほそくしか通わないような声を出した。
「いいんだ、伸子さん」
「ほんとに、放っといていいの?」
 うなずくといっしょに、蜂谷は強いひと息を内へ引いた。
「僕は、きっと佐々さんは来てくれると思っていたんだ」
 涙の出ないすすり泣きのようなものが、枕についている蜂谷の顔を走った。
「佐々さん、僕は苦しいんだ」
 片手をつかまえられたまま、伸子は、蜂谷の体のどこかが工合わるくて苦しいという意味と、二人の間にある緊張が苦しいという意味とを、ごっちゃにうけとった。
「伸子さんがいま入って来て、僕を見たときの、あんな優しさ」
 伸子の手をはなして、蜂谷は、小さい子供がやるように、両方の腕を伸子に向っていっぱいにのばした。
「僕はくるしいんだ、伸子さん」
 いつの間にか伸子は椅子から立ちあがっていた。そして、首をかしげ、目鼻だちのぱらりとした顔の上に不思議なかがやきを浮べながら、黙って、まじめに枕についている蜂谷を見おろした。いつ、靴がぬがれたとも知れず、伸子の体が、軽く、なめらかに、蜂谷の寝台のかけものの下にすべりこんだ、厳粛な、そしてやさしい表情で蜂谷を見つめたまま。――
 シーツごしに蜂谷の全身がふるえ、てのひらいっぱいの力が、伸子の背中を撫でおろした。それと同時に、伸子は、破れたような一つの声をきいた。
「ああ、伸子さんは、すっかりきものを着ている!」
 すっかりきものを着ている――? 何のことだろう。すっかりきものをきている。…………
 伸子は、そのかけものの下へすべりこんだと同じ軽さとしなやかさで、いつの間にか蜂谷の寝台からぬけ出た。そして、そばの椅子につかまった。蜂谷から目をはなさず。
「なんてひとだろう! そんなに僕を苦しめなくたっていいじゃないか」
 伸子は蜂谷を苦しめようと思ったことは一度もない。だけれども、すっかりきものを着ていない自分というものは、伸子に考えられない。
「僕ははじめからよくわかっているんだ、僕が佐々さんを愛しているように愛していてはくれないんだ……だからって、侮辱しなくたっていい」
 侮辱――? それも伸子におぼえのあることではない。
「こっちへ来て」
 そういう蜂谷の顔は、伸子に見なれないものだった。
「…………」
 反対に伸子は椅子のむこう側にまわって、寝台と自分が立っているところとの距離を大きくした。
「ね、来て」
「だめ」
 混乱して、かすれた伸子の声だった。
「どうして?」
「だって……ちがうんだもの」
「何が」
「――タワーリシチじゃないもの」
 むっくり、蜂谷の上体が寝台で起きあがった。
「じゃ、タワーリシチなら、君にはどんな男でもいいわけか」
「どうしてそういうことになるのかしら……」
 まだすっかり自分をとり戻していない伸子が、不自然にゆっくりした口調で反問した。
「だって――そういうわけでしょう」
「わたしはコロンタイストではないわ」
「僕は君にとってタワーリシチじゃないってわけなのか」
「それはそうじゃないの」
 伸子の答えは抵抗しがたくものやわらかで、同時にはっきりしていた。伸子は急に自覚しはじめるのだった。自分でさえ思いがけずに云ったタワーリシチであるということと、そうでないということの区別を説明することは、何とむずかしいことだろうか。と蜂谷良作も予期しない瞬間に、感情の焦点を移されたようだった。彼は壁にもたれて立っている伸子をめずらしいものをしらべるように、眺めた。
「じゃ、吉見素子は、どうなんだ、佐々さんにとって。――彼女は、同志なのか」
 しばらく考えていて、伸子は、答えた。
「そうだと云えると思うわ――あなたよりも」
 蜂谷はおきあがっていた上体を倒して枕の上に頭をおとした。伸子は、やがて外套をきた。そして、パジャマの両腕を目の上にさしかわして顔を覆っている蜂谷を寝台の中にのこして、廊下へ出た。

        十七

 翌朝、ベルネの家の朝飯が終って、伸子が二階へあがろうとしているところへ、蜂谷良作が来た。
 彼は、伸子を見ると、
「きのうはほんとに失敬した」
 手をさし出した。
「おこって、もうパリを立つ仕度でもはじめているんじゃないかと思った」
 伸子は、だまったまま眼をしばたたいた。
「すこし歩きましょう、僕はどうしても、きみにわかっておいて貰わなければならないことがある」
「――だって、病気は?」
「かまわない――いいんです」
 雨あがりの快晴で、ベルネの家の落葉した庭も初冬の趣をふかめた。伸子と蜂谷とは、クラマールの人々がそれぞれに働いている午前の街なかをさけて、畑へ出てから森へ向う道をえらんだ。
「僕はあれから、ずっと考えていて、やっとわかったことがある。僕は、佐々さんというひとの本質を、実はきのうまでちっとも理解していなかったんだ。そういうことが、つくづくわかった」
 伸子は、三四間さきの、枯れた草道の上を見たまま歩きつづけた。
「もう決して、あんな陳腐な思いちがいなんかしない。こんどこそ、よくわかった。伸子さん、許してくれるでしょう」
 たやすく口のきけないのは、伸子も自分がわるかったと考えているからであった。きのうは、あれから帰って来て、伸子も起きていられなかった。体の下で揺れているような寝床の中で、伸子は自分への思いがけなさを鎮めかねた。どうしようとして伸子は、蜂谷の寝台のかけものの間へはいったろう。自分に、はっきり思い出されるのは、枕の上にある蜂谷の顔を見まもっているうちに、伸子の気持をやさしく、やさしくみたした不思議な明るさ、透明の感じだけだった。それは愛のこころもちに似ていた。伸子は、これまで一度も彼に対して、あれほど自分を忘れた状態になったことはない。
 蜂谷は、伸子の動作の意味をとりちがえた。それは二人にとって、ばつのわるいことだった。けれども、伸子は、このことではむしろ自分がわるいと認めることができた。男であり、考えかたや感じかたの大部分が常識的である蜂谷に、伸子があのときそうであったような状態――全身一つの光ったものになって、肉体が昇華されてしまっているようなあんな状態が、かんちがえされたのは無理もない。だけれども、あれが蜂谷のかんちがえだけだったと云えるのだろうか。蜂谷は伸子より率直に、伸子を光りもののようにした欲望を、ありのままに解釈したのではなかったろうか。
 自分へのおどろきとともに、伸子は自分自身のわからなさへ、わけ入った。人間のこころの不思議さ。あのとき、欲望を欲望として自覚していなかった伸子が、そういうものとして行動したことを、伸子はやっぱり自分に許すしかなかった。でも、あのタワーリシチ、という言葉。――考えれば考えるほど伸子を考えこませる言葉――伸子の欲望とともに自覚されない奥底に育っていて、あのとっさに、動かしがたく作用したこのひとこと。――
 これらはどれも、みんな伸子自身にとって不意うちだった。だれをどうとがめるよりも、蜂谷と自分との間に起って、そのどちらをもはねとばした電撃のあとを、伸子はびっくりして見直しているのだった。
 伸子は歩きながら、いつもより疲れの感じられる声で蜂谷に云った。
「わたしも、ごめんなさい」
「僕は、伸子さんがそんな風にいうのは、いやだ。伸子さんてひとは、僕なんぞからみると、おどろくほどヒューマニスティックなんだ。僕を心から可哀そうに思って、きみは、あんなにやさしくなっていたのに――僕が全く野卑だったんだ」
 自分に対してきびしくあることに、蜂谷の安定が見出されているらしかった。
「わたしだって、そんなに聖なるものみたいな者じゃないわ」
 伸子は、現実にあるままの自分を見失いたくないのだった。
「蜂谷さん、でもあなたどうしてあんなにおこったの? わたしが、あなたはタワーリシチじゃないと云ったとき――それは、ほんとのことだのに」
 黒いソフト帽をぬいで、またかぶって、蜂谷良作は、苦しい表情をした。
「僕は嫉妬を感じたんだ。どうにもできないほど烈しく嫉妬したんだ。いつかそういうタワーリシチがあらわれたら、自信をもって伸子さんのその全部を自分のものにするんだろうと思うと……」
 その全部を自分のものにする――タワーリシチでも? ぼんやりして、しかしつよい疑いの色が伸子の瞳に浮んだ。
「もう今は、ちがう。もしそういう選手があらわれたら、僕は彼を祝福することができる」
「――わたしの全部を自分のものにした、ということで?」
「それもあるだろう。けれども、それよりももっと、きみ自身のために。僕としては、水火(すいか)をくぐったようなもんだから、これからこそほんとの友情でやって行けると思うんだ。それは否定しないでしょう?」
「そうかしら……」
 あのことは、そんなに二人の間で、もうすんでしまったことなのだろうか。二人が別の新しい道の上に出たということが、伸子によくわからなかった。伸子の感覚は、まだどこかゆれている。こんなにして、朝からクラマールの森道へ歩いている二人が、なみな感情だと云えるだろうか。伸子をプラトニックな存在のように自身に思いこまそうとしているような蜂谷、その蜂谷の気もちもふたしかだった。その蜂谷の気もちのふたしかさに対して、伸子ははっきり地上的な自分を対置させて感じている。そこに伸子は自分のふたしかさを感じる――だまって歩きつづけている伸子の腕を、蜂谷がきつく自分の方にひきよせた。
「佐々さんは、まるで天使みたいに無邪気でやさしい時があるかと思うと、悪魔みたいにつめたくて鋭い時がある。どうして? そうかしら、なんて――」
 伸子は、息がとまったような気がした。蜂谷の訴えをこめた批評は、つきなみな表現そのもので、じかに伸子のつきなみさをついた。あいまいなまま何かにひかれている伸子の態度のよくなさが、悪意も計画もない蜂谷の言葉でまざまざそこに描かれた。
「僕はもう決して佐々さんの困るようなことはしない。それだけは自信がある。――だから、せめてことしいっぱいパリにいることにして」
 それは伸子にできないことだ。それよりも、蜂谷に、自分が、そんな女としてあらわれているということの恥しさ。――恥しさは、このひとつきほどのパリ生活間に、蜂谷ともたれたさまざまな情景における伸子自身の姿を、全く別の光で照し出すのだった。

        十八

 モスク□の素子から、伸子の手紙への返事が来た。「ブジシンパイスルナ」と。うすいグリーンの用紙に、クラマール郵便局の電信係がかきつけたローマ綴の電文は、いかにもフランス人らしいおかしなまちがいで区切られている。スルナのはじまりのSの字を、パイPaiのおしまいへくっつけて、Paisとかいてある。まだ佐々のうちのものがパリにいた時分、ペレールの家へ磯崎恭介の死去をしらせた電報をうけとったとき、ギリシャ語のようにスケシスと綴りちがえされていたように。
 素子からの電報がベルネの二階の伸子の机の上におかれてある。そのわきに、茶色のノートが重ねられている。蜂谷良作の講義は、モスク□へ立とうとしている伸子の意志とはりあうようにつづけられている。伸子は、合図のドラが一つ鳴れば、出帆するばかりになっている船のように自分を感じる。ドラが鳴らされなければならない何が自分と蜂谷との間にあるのだろう? ほだされから自分を解くのが自分の責任だと、これほど明瞭にわかって来ているのに。――しかし伸子はドラの鳴るのを待っている。自分の心のどこかで、ドラが高く鳴るのを待っている。
 そういう一日のことだった。亀田夫妻が、手軽な御飯の会を催した。クラマールやパリ市内に独身ぐらしをしている友達たちのある人々に、日本風のお香物や番茶の味をたのしましてやろうという、夫妻のもてなしであった。伸子と蜂谷もよばれた。野沢も来ているし、ほかに二人ほど、日ごろ伸子のつき合っていない画家たちも来あわせた。毎日数時間は亀田のアトリエですごしているような柴垣は、そこが気に入りの場所と見えて長椅子の上にパイプをくわえてころがっている。野沢はマルチネの家でそんな風にかけていたように、室の隅によって低い椅子の上にまとまりよく、中央のストーヴのまわりに主人夫妻や伸子、パステルを描く豊岡という画家などがかたまっている。
 亀田のアトリエには、主人公である亀田という画家そのひとについている一種のゆとりの雰囲気があって、クラマールの生活で伸子のいちばん心やすい場所だった。亀田の細君は、夫の芸術を理解し、それをたすけようとしているこころもちを、やすくて、うまい手料理の上手さや生れつき器用な洋裁の稽古にあらわしている。
「どうせ、うちのようにおとなしい人は佐賀多さんみたいな巨匠になれっこはないんですもの」
 その晩も、男連中の間にかわされている話の中にいながら、女たちだけの話題で、彼女はそのころ日本人画家としてパリで名声を博していたひとの名にふれた。
「貧乏画家ぐらしは一生つづくとかくごしていますわ。だから、わたしは、かえってのんきよ。いまの生活をわたしなりにたのしんでいますの――幸福ってそういうもんじゃなくて? ありあわせでも、おいしくたべる術だわ」
 格別伸子の返事をもとめるわけでもなく、さえずるような調子で云って、亀田の細君はフランス女をまねてちょっとコケティシュな身のすくめかたをした。亀田の細君の膝の上では、縫いかけの婦人帽の蕊がいじられていた。
「感心でしょう? わたしはこれでもうじき一人前の裁縫師になれますのよ、三年つづけたんですもの。ですからね、そろそろ帽子の方も、ものにして置こうと思いますの、そうしたら心づよいですもの、ね」
 亀田の細君は、おかっぱの前髪を伸子の方へ低めておかしそうにささやいてくすりと笑った。
「とのがたは、なんにんいらしても指をタバコのやにで茶色にするか、売れない絵の油でしみだらけにするしか能がおありなさらないけれど、その間にこうやってわたしの可愛い指は稼いでいる――それは一向御存じなしなのよ」
 デュト街の古びた家の壁の間で、痛々しい生命を芸術の焦躁のうちに削ってしまった磯崎恭介と須美子の自分というものを最後までおさえた暮しぶりと、クラマールのここにある亀田たちの暮しかたは何というちがいだろう。亀田の細君は、あるときは意識してそうしているかのような小猫めいた賑やかさ、暮し上手の女がもっている笑声、いつも身のまわりにとりちらされている柔かくて色彩のきれいな布きれなどの雰囲気で、夫である画家の絵の精神を女の陽気な仕事部屋へひっぱりこんでいることが気づかわれるようでさえある。
 みんなでサロン・ドオトンヌを観に行ったとき、パリで亡くなった磯崎恭介の「花」や須美子の「花」の絵は、亀田たちの格別の注意をひかなかった。――というよりも、ひろいパリという都の中でたたかわれている生の間では、磯崎という一日本人画家の運命について、それが巨匠的に成功していない限り、嫉妬も同情も刺戟するものではないらしかった。
 中指の尖(さき)にはめた西洋指ぬきに針を当て、かたい婦人帽の生地を縫いつけながら、亀田の細君は、
「わたしにはね、ひとつ大願がありますのよ」と云った。
「お笑いなさらなけりゃ、云いましょうか。どうかして、わたしは亀田をイタリーへやりたいんです、そして、思いっきり才能をのばさせてやりたいわ」
 あらまし形のつきはじめた帽子を左手にかぶせて、それを自分からすこしはなして亀田の細君は、注意ぶかくしらべた。
「伸子さん、あなたなら云って下さるわね、亀田の絵、どれも暗いでしょう」
「暗いって云えるかしら――地味なのじゃなくて?」
「――どっちみち沈んでいるでしょう?」
 伸子は、そういうところに亀田のじたばたしない人柄を感じているのだった。
「亀田のようなたちの絵はね、どこへ出しても損なのよ」
 経験による確信と心配とのある内助者の調子で、彼女は云うのだった。
「わたしたち貧乏でしょう、だから亀田の絵もああいう風にくすんだ色ばかりつかうんじゃないかと思うわ――マチスの生活なんて、すばらしいもんですってねえ。佐賀多さんなんかも、いまめきめきうり出していらっしゃる最中だから、相当派手にやっていらっしゃるんですって」
 カリエールは? モジリアニは? あの人々のところにあるのは何だろう? デュト街のよごれた壁の色をみたとき、伸子は、ああここにカリエールの色があると感じた。寂しいセピアと白いチョークのような光の消えた白さ。そこにパリの貧しい人々の人生の思いが語られている。「モンパルノ」というモジリアニを主人公とした小説がよまれているころであった。モジリアニの素晴らしい才能を独占するために――あとで価の出ることを見とおした画商が、彼の生活の破綻につけこんで、紙屑同然のはした金を与えては、モジリアニから制作をまきあげていた。モジリアニの生涯のいつ、うり出したときがあったろう。
「お金のいくらでもつかえるかたは、いいわねえ」
 いくらでもお金のとれるかた、とこの細君が云わないところに伸子は、クラマールに住んでいる人々らしさを感じた。パリの市民からはなれてクラマールに住んでいるということは、その人たちがモンパルナスの流行カフェーに出入りしようとしていないということであったし、巨匠たちと顔見知りになって置こうとする欲望や野心をすてている人たちであることを語っているのだった。同時に、ここの人たちには、十月末から世界を不安にしているアメリカの経済恐慌も、同じクラマール住人であってもベルネの夫婦やおばあさんがそのニュースをうけとった現実的な表情とは全く別のうけとりかたをされていた。描いている絵に、パリの市価をもたないというそのこころやすさ……ここの人たちは、どっちみち、われわれにたいした関係はないさ、と、自分たちの超然をたのしんでいるのだった。
 伸子がクラマールへ引越して来た秋のころ、それからひとつきたって、冬が来て、伸子の心にモスク□へ! と絶えずささやくものが生れても、このままじっと年を越そうとして、降誕祭(ノエル)の酒の品評をしている人々。酒の話から、ひき出されてパリでアルコール中毒にかかっているある男の噂をしている人々。
「仕事の方は、どうなんだね、すこしは変ったのかい?」
「どうだかな――むしろ益々救いがたいんじゃないか」
「そいじゃ、彼はただのアル中にすぎないじゃないか」
「僕がいつも云っているとおりさ。かんじんのものをもち合わさないくせに、中毒ばかり模倣したって、どんな画家も生れちゃ来ないんだ。さか立ちしてディフォルメだけまねたってそれでピカソになれた奴は一人もいないんだ」
 そう云っているのは長椅子によこになっている柴垣だった。
「どういう自分が生れて来るか、そのおれの誕生を待ちきる辛抱が修業第一課さ」
 そう云う間も柴垣は唇からはなしたパイプを宙にうかせて持ったまま、視線に注意をあつめて、亀田の細君の手もとを見守っている。ストーヴのよこに立って、彼女はコーヒーを入れかけているところだった。親友の家庭で、そこの主人よりも細君の料理に関心を示す男がある。いつかそういう習慣になっている友達の目つきで、柴垣は、亀田の細君の手もとを見ているのだった。
 去年の冬もおそらくここでこんなにして、柴垣は、自分の誕生を待っていたのではなかったろうか。ほとんどすべてのひとはしばしば行動的に考える。だけれども、ほとんどすべての人が考えるように行動的には行動しない。――いまこの亀田のアトリエのはてしない雑談にまじっている自分に、伸子はそれを感じるのだった。
「ああこりゃうまい!」
 パステルの研究をしているというひとが、亀田の細君のコーヒーの腕前をほめた。
「これだけにのませるところは、少くともここいらにはないだろう」
「実のところ万更(まんざら)自信がなくもありませんのよ。かえりましたら、いずれ店を出すことになりましょうから、どうぞよろしく」
「――うまい、で思い出したが、気がすこしどうにかなると、女の手がうまそうに見えるものだろうかね」
 柴垣が、もちまえのポーズをくずさず云った。
「耳が気になったという例は、美術史にある」
「ゴッホだろう? 俺の話は手なんだ、女の手なんだ」
「くった奴があるのか」
 みんなが笑い出した。
「都久井俊吉、ね」
 それはひろく知られている作家の名であった。
「あのひとが、すこし頭の調子をおかしくしたときのことだがね、何しろ普通の病人じゃないから、家のひとも医者も、ひととおりならない苦心なんだ。本人を不安にしたり絶望させたりしないために、すこし強度の神経衰弱ということにして、静養が第一、まあ、おなかをすかせないようにするんですな、って云ったんだな。だもんだから、先生ひとすじに、おなかがすいたらもう駄目だと思いこんでしまったわけなんだ。いま食べたばっかりだのに、すきやしまいかと心配になると、たしかに空いて来た気がするんだ」
 伸子はその話に耳をすまさせられた。そのひとの作品を知っている伸子には、彼が医者のいうことをひとすじに信じた、ということもうなずけるのだった。
 その都久井をつれて、家族のひとと彼とが箱根へ行く途中、小田原へ降りた駅の前で、いつの間にか、都久井の姿を見うしなった。どこをさがしても見当らない。あわてていると、そのあたりに客待ちしている俥夫が、旦那、なんですかい、帽子をかぶってない、ちょいと変った旦那をさがしているんじゃないんですか、ときいた。
「うんそうだ、ってわけさ。きいてみるとたった今その俥夫が、待合へおともしたっていうんだ。じゃあ、そこへ行こうってわけで、行ってみると、都久井先生、座敷でのたうちまわっている。腹がすいてたまらんから、ここへ来たのに、何もくわさんと云って、苦しがっていたんだ」
 そこで下へ行って、あの男はすこし病気だから、何でもいい、たべるものがありさえすればいいんだからとたのんで、二階へあがって来て見ると、
「おどろいたね」
 床の間にきれいなバラがいけてあった。
「先生その前へ行って、両手でその美しいバラを食っているじゃないか」
 そこまできいて、伸子ははっとした。すべてのいきさつは、何とその作家らしいだろう。バラが美しくて、そんなに美しいものなら、命のたしに食べていいものだと思えてバラを両手でたべたところ。同じ作家について同じころにいくつかの話もつたえられたが、都久井俊吉とバラの花のこの物語は、この作家のこころの精髄をしぼり出している。常識の平均は失われていて、しかも美しさを感じる心がそのように切なく発露する都久井らしさに、伸子はうたれたのだった。
 この切実な逸話が、話しては美術家だというのに、ただバラをくった、というところから語られているのは何としたことだろう。人々の笑いが伸子に堪えがたかった。笑わない伸子に蜂谷の視線が向いた。伸子はそれを感じる。だが、伸子はこたえない。蜂谷に笑える。――それは彼の生活のことなのだった。
 都久井は花柳界のある土地に、一人の情人をもっていたが、日ごろからはにかみやで、親しい友人であるその美術家と一緒でも、決して人前でその情人の手をにぎったり、接吻したりはしない。箱根へ行っての帰りその女と来て、山の手にある都久井の家の近くで、その女のひとが自動車をおりた。
「じゃ、ここで失礼するわ、そう云って女がおりるとね、都久井先生、日ごろになく物も云わないで女の手をぎゅっと握った。何しろ五年の間、ただのいっぺんもそんなことをされたことがないんだから、万感交々さね。涙ぐんでしまった。すると、都久井、いきなりその女のきれいな白い手をかじりはじめたんだ――。はらが空いたんだ」
 こんどの話では人々はあまり笑わなかった。それは、愛情の表現だという議論がおこった。
「そう思うのは、常識さ。断然、そうじゃない。彼ははらがすいたんだ」
 話してを非難するのでもなく、話題に興じている人々を批評するのでもない。自分として苦しい気もちが、伸子の内に渦まきたった。はらが空いたというひとことに云われている感じ。だが美しいもの、いとしいもの、それを自分の口からたべようとする人の心。この社会に、渇望をもって生きているということに関連して、都久井の話には伸子の心をつかむものがある。晩秋のヴェルダンの日暮、ドゥモン要塞の霜枯れはじめた草むらの中に、落ちている小さな金の輪のように光っていた一つの銃口。その無言の小さな金の口が伸子に訴えた、そのような生の訴えが、常識のつりあいのこわれた芸術家のふるまいのうちにも疼いているように思われて、伸子は苦しいのだった。
 伸子は椅子から立ちあがった。そして、二三歩自分のいたあたりを歩いた。蜂谷の視線が、アトリエの対角線のところから、伸子を追った。それを無視して、同じところを伸子は一、二度往復し、アトリエのドアの前で向きなおったとき、伸子は、そこに立ちどまった。そして瞬きをとめた目で、蜂谷を見つめた。長椅子の奥にかけている蜂谷と、ドアのところに立っている伸子との間にはそこに人々の顔がある。タバコの煙とコーヒーの匂いと声がある。蜂谷はあまりじっと伸子から見つめられて工合わるそうに身じろぎした。伸子の眼はそれらを見ている。けれどもほんとに見えてはいない。伸子は耳をすましているのだった。伸子の心で、微かにドラが鳴りだしていた。伸子がモスク□へ、いよいよ出発するときが来た、そのドラが段々はっきり鳴りはじめているのだった。


    第四章


        一

 七ヵ月前にモスク□からのって行ったとき、国境はやっぱりこんな風にして通過されたにちがいなかった。けれども、どうしてだか伸子には、そのときの模様は思い出せない。
 いまベルリン発モスク□行きの列車はポーランドの国境駅をあとにして、十二月にも緑の濃い樅(もみ)の原始林に沿って、ゆっくり進んでいるところだった。国境駅を出たときから列車の速力はぐっとおちている。車窓に迫って真冬の緑をつらねている樅の樹の梢に白い煙が前方から吹きなびいて来てからみつき、それが消え、太い枝、次に細い枝と現れる。伸子の視線がそれを追っかけられるのろさで列車は進行をつづけているのだった。
 伸子は、踵のひくい靴をはいている脚を男の子のようにすこし開いて窓に向って立ち、手をうしろにまわし、ベージ色のスウェターの胸に派手なネッカチーフをたらして、目をはなさず窓外の景色を見ている。伸子は熱心に国境沿線の景色を見ながら、ベルリンへついたとき、あわてて降りて、パリからの列車の中に置き忘れて来てしまった絵の具箱とおもちゃの白い猿のはいったボール箱のことを思い出しているのだった。
 ああ、ほんとに眠って、来てしまった! パリを出る最後の十二時間は、伸子をそれほどくたびれさせた。
 簡単に考えていた荷づくりが案外ごたついた。親たちがパリを引きあげるときペレールのアパルトマンの食堂のテーブルの上へ、敷布類だのテーブル・クローズ類をのこして行った。伸子の数少い手まわりのどこにもそれらを入れる余地がなくなって、蜂谷良作が下宿へもどって伸子のために中型鞄を一つもって来てかしてくれた。そんなごたつきの合間合間に、蜂谷は、自分ひとりパリにのこされる事情になったことを歎いた。
 ベルネの家の二階の、伸子の室の床の上で画集をつめた紺色のトランクに鍵をかけながら、蜂谷は訴えた。
「こんなに、きみを離したくない僕が、誰よりもきみの出発を手つだっているなんて――」
 きのう百貨店ルーヴルへ一緒に行って、伸子がそのトランクを買う手つだいをしたのも蜂谷だったし、モスク□までの切符をととのえたのも蜂谷だった。
「これから、僕はひとりで、パリで、どうして暮していいのか、わからない」
 伸子は、一旦平らにして入れた敷布を又とり出して、こんどはくるくるまいて借り鞄のよこへつめこむ手をやすめずにいうのだった。
「だって、蜂谷さんはもう二年もパリで暮したんじゃないの、わたしのいたことの方が偶然だったんです。あなたはちゃんと暮せてよ」
「だから、佐々さんには分っていないんだ、きみがいなかったときはいなかったときだ、まるで、今とはちがう」
「じゃあ、どうすればいいと思うの?」
 おこった瞳になって、伸子は蜂谷の、悲しげなしかめ顔を見据えた。
「あなたは、わたしをパリにひきとめようとばかりなさるけれど、いっぺんだって、モスク□へ行こうとはおっしゃらなくてよ、知っていらっしゃる? そのこと。――」
 窓に向って衣裳箪笥と壁との間に、窮屈にはさまれているデスクの上から伸子はこまごまとした手帳、文房具、手紙の束などをもって来て、女持ちの旅行ケースにつめはじめた。ケースには、パリ、ロンドン間の飛行機でとんだときの赤と白とのしゃれたラベルが貼られている。
「ね、わたしたちは、ぎりぎりまでお互を知りあったのよ、それはそう思えるでしょう? そして、わたしはもうモスク□へ帰る時だということが、はっきりしたんだわ――惰勢で、お互を妙なところへ引きずりこむなんて――それは、わたし、したくないの」
「そうだ、きみは――そうなんだ」
 二人の間に荷づくり仕事のごたごたをおいて、伸子と蜂谷とが床の上にかがんだり、椅子においたトランクの前に立ったりしてそういう会話をとりかわしたのは、夜なかの二時すぎであった。ベルネの家族たちはねしずまり、少くとも寝しずまっているように見え、あけはなしたドアから明るい燈の流れ出しているのは伸子の室だけだった。
 伸子と蜂谷は、そうして夜明しした。伸子は意識して、夜なかじゅうくつろぐ空気をつくらなかった。朝早く北停車場から出発するベルリン行列車の車室はうす暗い、そのうすら寒さとうす暗さの裡で、蜂谷良作はしびれるようにきつく、外套の上から伸子の腕をつかんだ。
「佐々さん!――最後なんだから――少くとも僕にとって、これが最後なんだから……」
 蜂谷との間にそういう機会をもつようになってはじめて、素直に、自発的に、伸子は蜂谷の顔を両手の間にはさんで接吻した。彼と自分とのために、いい生活の願いをこめて。クラマールの生活で二人が経験したことの中に、蜂谷を軽蔑し、伸子自身を軽蔑すべき何があったろう。二人はそれぞれに、これまで知らなかった男と女とを知り、そのように存在する男である自分、女である自分を見出した。微妙で、はげしく、限界のきまっていない男と女のひきあいの間で、伸子と蜂谷とは、きわどく近づき、またはなれ、舞踊のように自身をためしながら格闘した。その格闘は、ひきわけに終りつつある。格闘のなかには、幾世紀もの間、男と女とが互の上にくりかえして来た征服の意欲とはちがった互格のはりあいがあり、それは何かの新しい意味をもっている。結論として、伸子が、断然モスク□へ向って出発するという形をとって表現されるような。――
「じゃ、ほんとうに、さようなら。いろいろありがとう、よく暮しましょう、ね。きっと、ね」
 伸子の言葉を縫って発車のベルが響いた。蜂谷は、うめくような喉声といっしょに伸子をつよく抱擁して背骨がくじけそうにしめつけた。そして、あとを向かず車室を出て行った。
 伸子は、眠りはじめた。くたびれきって、同時に云いようのない自身からの解放の感じにつつまれながら。フランスとドイツの国境を伸子は夢中ですぎた。ベルリンの数時間は、伸子が眠りと眠りとの間に目をあいて、たべて、日本語を話して、ファイバーのスーツ・ケースを買った数時間であった。ネオンが夜空に走っていた。更に東へ、東へ。大きい窓をもった国際列車の車室のなかでは座席の隅の外套かけで質素なイギリス製の茶色外套が夜から朝へ、朝から昼へと無言に揺れ、その下で、伸子は眠りつづけて来たのだった。
 眠りたりて新鮮になった伸子の感覚の前を、国境の伐採地帯がゆるやかに過ぎた。数十ヤードの幅で、自然にはないくっきりとした規則正しさで樅の原始林がきりひらかれている。彼方に、北の国の地平線がある。遠くに、木をくみたててつくった哨所が見えている。
 しばらくの間樅林に沿って走って来た列車は、車室のなかへまで緑っぽい光線がさしこんで来る林のそばで、一時停車した。そこで一分間ほど停っていて、また動き出した。列車の速力は一層おちていて、機関車はあえぎあえぎ、ゆっくり草地にかかっている。まぎらわしいというところの一点もない風景がそこにあった。草地も、それを左右からふちどっている樅林のきりそろえられた直線の出口にも。人気ない、北方の自然のうちに、約束がきめられてあって、どんな信号も人影もないのに、列車が約束にしたがってある地点で停り、改めて速度をきめ、そして一定の地点を通過するとまたそこで停る。その行程、その小停止、小発進は、不思議に伸子の心をゆすった。ヨーロッパで、伸子はいくつもの国境を通過した。あるところで、国境は彼女にとって、そこから、役に立たなくなった数箇の銀貨と、それに代って食堂車の真白いテーブル・クローズのはじに並べられた、別の銀貨の数片としてあらわれた。それらのところにはいつも気ぜわしい人々があった。屋根と屋根との間に、国境があった。
 こんなにひろく無人で、樅林と草地と地平線しかない地帯、その地点をこうして列車は、儀式をもってのろのろとすぎつつある。機関車の重苦しいひと喘ぎごとに、旧いヨーロッパはうしろになる。前方から新しい土地、ソヴェト・ロシアがひろがって来る。きりひらかれた草地の上で樅林の右側の出口が緑の壁のようになって遠ざかった。左側の樅の林の入口が近くなって来る。伸子は、窓に向って立ったままいつの間にかネッカチーフの前で握りあわせていた両手をきつく胸におしあてた。伸子は、ひびきとして感じたのだった、舞台がまわる、と。――その舞台を選択してかえって来ている自分。パリをはなれて来た自分。その自分というものが確信されるのだった。
 ストルプツェの国境駅についたとき、北方の夜の木造建物の中は、赤っぽい電燈にてらされていた。粗末な板張りの国境荷物検査所。白樺板の間仕切りの上に「五日週間(ピャチ・ドニエフカ)」とはり紙されている。「五ヵ年計画を四年で!」とかいた発電所のポスターがある。粗末な机、粗末な床几(しょうぎ)。すべては粗末で無骨だが、荒けずりなその建物に漂っている木の匂いも、そこに働いている女のプラトークで頭をつつんでいる姿も、すべては他のどの国の、どの国境駅にもなかったものだ。ここにロシアがあった。七ヵ月前ここを通ったときには、伸子の知らなかった建設のスローガンが新しく響いているソヴェト同盟の国境駅があるのだった。
 両手にさげて運んで来た手荷物を、体ごと検査所の台の上におろしたとき、伸子は思わず、
「とうとう(ナコニエーツ)!」
と云った。
「帰って(ダモイ)来ました(プリィエーハラ)!」
 水にぬれると紫インクのように変化して消えない鉛筆を手にして、偶然伸子が立った荷物置台の前にいた係りの若い金色の髪の男が快活に訊いた。
「どこから来たんです?」
「パリから(イズ・パリージャ)」
 パリから――? 伸子は旧いヨーロッパから帰って来たところだった。モスク□にいた間の伸子は知らなかった自分の動揺から、一つの選択から帰って来たところなのだった。

        二

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