道標
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著者名:宮本百合子 

        十三

 伸子の瞳のなかに、ドゥモンのいらくさの間の金の小さい輪が光っている。彼女の額の上には、女靴の踵のあとが銀杏(いちょう)の葉のようについている。伸子は自分の瞳であっていつもの自分の眼ではないような視線で、運転手とその三人の仲間が近くのテーブルのまわりでカード遊びをしている光景を眺めていた。
 六人の日本人が要塞見物を終って、ヴェルダン駅前の出発点へ戻って来たのは、日がとっぷり暮れてからだった。ホテルは、昼間つかっていた正面入口わきの正食堂をしめて、横通りから入るカフェー・レストランだけあいていた。そこの一隅で六人がちょっとした夜の食事をすませた。案内役をかねた運転手も、その店の一方の隅のテーブルで食事をし、いまはタバコをくわえて男たちばかりの仲間でカード遊びをしている。
 同行の男のひとたちをタバコの煙のなかにおいて、伸子はすこしはなれた長椅子のところで脚をのばしているのだった。タイルで床をはられた店内に、あまり十分でない明りにてらされている十三四人の人間がその夜ヴェルダンで生きている人間のすべてであるようだった。
 マース河の河岸よりにひとかたまり旧ヴェルダン市の破片がのこっていて、そこに土産物を売る店があった。ごたごたしたその小店とその内に動いていた人々の姿を思い浮べることができるが、その河岸の店の灯の色と伸子がいるカフェー・レストランの内部との間には、深い沈黙の夜がひろがっている。
 生きているもののない夜の沈黙の深さは、何と独特な感じだろう。六人の日本人はみんな口かずの少い一日をすごした。一日の周覧を終って、いくらか葡萄酒のほてりが顔色にあらわれていても、男のひとたちのテーブルから笑声は立たなかった。どこでも同じことだなあ。一将功なって万骨枯る、というのはまったくだ。ドゥモンの要塞から下って来るとき、一行のうちの誰かが感じふかそうにつぶやいた。その感慨は、六人の、みんなの心に流れているのだったが、伸子には、疲労ともつかない肉体と心の苦痛の感覚があった。その感覚は、とらえどころなく伸子の内心にひろがっている激しい抗議の感情に通じた。そしてしずかにカード遊びをしている四人の男を見まもっている彼女の瞳のなかに、黒い、きつい焔をもえたたせているのだった。
 午後じゅう、ひき裂かれた戦跡をめぐって来た伸子の体と心を、いま貫いて焦(い)らだたせているのは率直な、譲歩のない生への主張だった。巨大な死への抗議だった。ヴェルダンというところは「フランスのために」という言葉で現実を欺瞞する人々の作品だと、伸子には思えて来るのだった。悲壮に、英雄的な行動の記念としてしつらえられているすさまじい破壊の跡は、戦争の罪ふかさとそれが誰のためにたたかわれたものであるかということを考えるより先に、破壊力の偉大さで人々をおどろかせる。おどろいて心をうごかされた善良な人々は涙もろくなり、戦争そのものと、それをおこす者どもがあることをいきどおり拒むよりも、そこで命をおとした人々をいとおしみ、神よ、彼らに平安を与えたまえ、と祈ってヴェルダン発の汽車につみこまれてゆくにちがいなかった。
 西日のさすドゥモン要塞のいらくさの中に光っていた小さいあの金の口は、伸子の瞳に重かった。やけついたこの思いが、「ヴェルダン記念」に予定されている効果に終らせられることを伸子は自分に許せなかった。生命感が伸子の内部にせきあげた。人生は生きるためにあるのだ。レーンの「戦争」は、奥歯をかみしめた戦争への憎悪と、それを男らしい意志で制御した観察によって書かれていた。その実感の幾分かが伸子にわかった。――
 国際学生会館の人々は、帰りも線のちがう汽車で、伸子と蜂谷良作の二人は、五十分ばかりあとから出発することになった。
「佐々さんは大分疲れているんじゃないのかな」
 蜂谷良作が、伸子のいる長椅子の方のテーブルへ移って来た。
「そうでもないわ」
「かえってすこし葡萄酒でものんで見た方がいいんじゃないか」
 伸子は首をふった。
「疲れているんじゃないのよ――ね、蜂谷さん、わたし考えていることがあるの」
「云い給えよ。きみは、きょう、まるで口をきかなかったみたいだ」
「わたしが考えているのはね、モスク□がああして、うるさいほど帝国主義戦争の罪悪、帝国主義戦争の欺瞞と云っているのは、ほんとだった、ということなの」
「…………」
「わたしが、ときどき、どうしてこんなにくりかえすんだろう、もうわかっているのに、と思ったりしたのは、生意気至極のことだったと、わかったの」
 蜂谷良作は、だまったまま、身じろぎをして灰皿の上でタバコをもみ消した。
「そしてね、もう一つわかったのはね、なぜソヴェトでは今でもレーニン廟へ参る人が絶えないかということ」
 ロンドンの夏の日曜日、セント・ポール寺院の、その一段ごとに失業者が鈴なりになっていた正面大階段を見あげる石だたみの広場のはずれに、第一次大戦で戦歿したロンドン市民の記念塔がたっていた。「祖国のために死せる人々の名誉のために」と鋳つけられた記念塔は、セント・ポールに棲んでいるどっさりの鳩の糞をあびて、いかにもきたなかった。ロンドンの晴れた日曜日の風景の中で鳩の糞にまびれていたその記念塔を伸子は思い出した。生きている人は忙しい。痛切に社会のエゴイズムを感じた、その感じも思い出される。伸子のロンドン風景をつづっているのは利根亮輔の怜悧な黒い二つの眼と気のきいた形の鼻ひげの下で伸子に向ってほほ笑んだ独特の微笑である。もしも彼が、こんやこのヴェルダンでおそろしく深い沈黙の中にカルタをしている数人の人間を見ていたとしても、彼はリッチモンド公園の鹿の遊んでいる草原によこたわって、伸子に云ったようにモスク□のレーニン廟をああ皮肉に批評することができただろうか。利根亮輔は云った。レーニン廟は未開なロシア民衆の聖物崇拝を、共産主義に利用したものだ、と。民衆はそのことを意識していないであろう。民衆がその程度の知的レベルだから、ロシアではソヴェト政体がなりたっているのだ、と。
 伸子はそのとき、民衆を無知なものとしていう利根亮輔の言葉をその一人としての自分に加えられた侮辱のように感じた。そして彼と云いあらそった――彼をその一人として自分を知的優越者だと認めている人々の、ソヴェトは未開だ、ときめて置こうとする偏見に反抗した。利根には、一生、民衆の歴史の扉を生に向って開いた指導者への感動というようなものは実感されないのかもしれない。――彼はおそらく伸子より幾倍か聰明であるのだろう。しかし彼の聰明さは批評しかしない聰明さのようだ。そこに伸子が感じたいらだたしさがあった。いらだたしさは、現在、タイルばりの床に明るくない光のさしている夜のヴェルダンのカフェーで、レザー張りの長椅子の上にいる伸子の感情のどこかに通じている。一日の戦跡周覧の果てに感じている広汎な根ぶかくゆれる抗議、それがどのようにあらわされるのかわからないためにおこっている内部の圧力の高まり。
 沈黙の裡に時々トランプの投げられる音がしている。
 伸子が不意に、
「わたし、今夜ここへ泊ってみたい」
と云った。蜂谷良作は、急にどこかを小突かれたように目をあげて伸子を見た。
「一つぐらい、あいた部屋あるでしょう?」
 伸子は、今夜の異様に苦しく、反抗にかりたてられるような激情をそのまま、沈黙のヴェルダンに過してみたかった。眠れない夜ならば、その眠れないひと夜というものを、ヴェルダンで経験してみたいのだった。
「――ここへ泊るって――」
 そういう蜂谷の額の上に、ぼんやりした混乱のあらわれているのに伸子の視線がひかれた。
「あなたは、お帰りになって下すっていいのよ、もちろん」
 ながいこと黙っていて、蜂谷良作は決論するように、
「きょうは帰りましょう」
と云った。――きょうは? このヴェルダンへ二度来ることは考えられない。
「帰りましょう」
 一層決論をつよめるように蜂谷はくりかえした。
「――帰った方がいい」
「ベルネのうちのひとたちに対して?」
 その心づかいなら、今夜クラマールへ帰ってから、蜂谷がちょっとベルネの家へまわって伸子が泊ることを知らせてくれたらそれでいいと、伸子は考えているのだった。しかし、蜂谷は、がんこに伸子が一人でヴェルダンにのころうとするのをさえぎった。
「僕には、佐々さんをひとりここへおいて帰るなんて、出来ないことなんだ」
 もうあと十分でパリへ帰る列車が出るというとき、
「さ」
 蜂谷が伸子のハンド・バッグをとりあげてわたした。
「出かけましょう」
 旅行用のいくらか大型のそのハンド・バッグには、マース河岸の土産屋で伸子がベルネの細君のために買った銀の記念スプーンがはいっているのだった。

 朝来たと同じ道を、パリへ向って進んでゆくのだけれども、沿線の風景が濃い闇に包まれている夜ふけの汽車は、いかにもカタリコトリと寂しかった。一つの箱に乗客もまばらで、伸子たちのいる仕切りは、伸子と蜂谷きりだった。坐席にかけている人の背たけ越しにベンチの背板がずっと高くつけられているから、外の景色を見ることの出来ない夜汽車で伸子の視野は古びた茶色の板仕切りにはばまれて何となし家畜運搬車にはいっているような感じがするのだった。
「あら、この汽車! ランプよ」
 車内がひどくうす暗く思えたわけがわかった。丁度伸子たちがかけている後の羽目の高いところにガラスのおおいのついたランプがおかれている。同じ箱のあっちの端にも同じあかりがついているが、その光りでものを読むことは不可能だった。
 ひろい闇の中に小さく電燈をきらめかせているいくつかのステーションをすぎたとき、伸子が、
「すこし寒くなって来たようじゃない?」
と云った。蜂谷が自分の合外套をぬいで、伸子に着せかけようとした。
「それじゃあなたが風邪をひくわ」
「僕はいいんだ」
「ほんとに?」
 蜂谷はうなずいた。
「じゃ、かして」
 その外套を羽織って伸子は窓とうしろの羽目の隅に肩をよせかけるようにして目をつぶった。
「眠るとほんとに風邪をひくから駄目だ」
「眠りゃしないわ」
 背中は少しぞくぞくするようなのに、頭のしんはあつくて、それは、一日じゅうオープンの自動車にのって風をつっきって走ったからだ、と伸子は思った。
「気分がわるい?」
「いいえ」
 シャロンのステーションは、この地域でもいく分大きい町らしく、明るい駅頭に乗り降りする人影が黒く動いたが、伸子たちの車室へは入って来る乗客も降りてゆくものもなかった。もしかすると、伸子たちのところからは見えない仕切板のあっち側には、誰ものっていないのかもしれなかった。
「何だか僕もすこし寒くなって来たみたいだ。もっと近くに坐ろうよ」
「この汽車ったら、あんまり、がらあきなんだもの……」
 伸子は、窓ぎわの隅からはなれて、ベンチのまんなかにいる蜂谷のわきにかけ直した。
 夜に響く単調な車輪の音にひきこまれたような沈黙を破って蜂谷がぽつんときいた。
「佐々さん、ほんとに十一月いっぱいでパリをひきあげるつもりなのかな」
「そうよ」
「――ぜひもう一遍、どこか近いところへ行きましょう。ね、こんなに長い汽車にのらないでいいところへ」
「どんなところ?」
「そりゃ、いろいろある」
「だって、わたしたち、どっちもろくにお金をもってないくせに」
 伸子は、笑いだした。
「わたし、モスク□へ帰る旅費だけは、大事にとっておくんだから」
 眉をしかめるような斜かいの見かたで、蜂谷は、彼のかたわらに笑っている伸子を見た。
「僕は、きょうだって、外の連中と来たのは失敗だったと思っていたんだ」
「どうして?」
 ぼんやりしていた伸子の注意がめざまされた。伸子は、はっきりした声の調子にもどった。
「丁度六人で、きっちり、都合がよかったと思うわ」
「そんなことじゃない……佐々さんは、きょうは、いつものきみじゃあなかった」
 たしかに、ヴェルダンの一日、伸子は口数が少なかった。伸子の受けた感銘がそうさせたのだった。
「それは、わたしが感じたことは、言葉にすると、どれもこれもセンチメンタルみたいだったから……」
「ほかの連中がいなけりゃ、佐々さんはもっと自由だったにちがいなかったんだ。僕はそれが残念だというんだ」
 伸子にものをいうひまを与えず、
「僕には、大体わからないんだ。伸子さんともあろうひとが、どうして、そんなにいつもセンチメンタルになることをおそれていなけりゃならないのか」
 蜂谷の云いかたは腹をたてているように、圧しつけられた声だった。
「センチメンタルであるにしたって、それは感情の真実であり得る」
「それはそうね。――でも……感情の真実であっても、情熱の真実とはちがうことだってあるわ。感情と情熱とはちがうんだもの――感情を情熱といっしょくたにするのが、いやなの。――」
「僕にそんな区別はない」
「あら!――変だ」
 云いかけた伸子の腕が並んでかけている蜂谷の手にとらえられた。
「――こんなひとが――もうじき行ってしまう」
 体をしざらせようとして蜂谷の方へ向いた伸子の顔の上に、蜂谷の重い頭が急に落ちかかって来た。息をつめて仰向かげんにすこし開いていた伸子の二つの唇の上に、蜂谷の唇が重なった。そしてきつく圧しつけられたとき、蜂谷の唇は不意で全くうけみでいる伸子の歯にふれた。悲しそうに、ゆっくり蜂谷の唇がどいた。
「ああ。伸子さんは、接吻のしようもしらない!」
 ひき裂かれるような苦痛の感覚と屈辱の感覚が、伸子をさし貫いた。伸子は低くうめいた。蜂谷の頭が伸子の手の間にとらえられた。そして、伸子の顔の上へひき下げられた。

        十四

 まったく不安定なものになった蜂谷良作とのつきあいに伸子は抵抗しないで、自分をただよわせた。
 二人の生活の外見には変化がなかった。ベルネの家の食堂へ蜂谷が来て、そこのテーブルで「資本論」を講義し、つれだって散歩し、市中で映画や芝居を観た夜は、十二時すぎてねしずまったクラマールの通りに男女づれの足音がきこえ、やがて伸子の靴音だけがベルネの門から玄関までの小砂利道に響いて来る。
 そのようにして流れる時間のうちに、川の水が何かにあたって思いがけない時、白い波の小さい、しぶきをあげて行くように、伸子と蜂谷との間に短いはげしいもつれがおこった。
「だめよ、ね、ほんとにだめ!」
 伸子は蜂谷の顔をさけ、ときには、手で蜂谷の顔を柔かくおしのけながら、自分の顔をそむけたり、暫くの間離れて歩いたりした。蜂谷良作はそういうとき、伸子を名でよんだり姓でよんだりした。
「あんまり無理だ。いっぺんきりなんて――それなら、僕がはじめて接吻したとき、どうして君は、自分からしかえしたんだろう」
 あの夜の瞬間の感情の激発を伸子は蜂谷にどうわからせることができただろう。伸子さんは、接吻のしようもしらない! そのひとことがあれほどひどく伸子をさしつらぬき、そのために伸子は火花になって蜂谷の唇をとらえた。蜂谷に向ってほとんどとびかかったと言えるように動いたせつな、しんから傷けられ怒っていた自分の感情を伸子は忘れることができない。それは女の動物が襲ってゆくときの感情だった。あれが、接吻だと云えるだろうか。
 伸子は、考えこんでいるためにふだんよりちんまりした顔つきで蜂谷を見た。
「あれは、やけどだったんだわ。だからくりかえしはないの」
「や、け、ど? そんなことを云って――」
 二人がそのとき歩いていたクラマールの森と町との間にある畑道の上で、蜂谷は立ちどまった。
「僕はそう思わない。――僕が思わないんじゃなくて、実際にそんなもんじゃない。――佐々さん、何をおそれているんだろう、僕にはわからない」
 蜂谷は伸子の腕をとって歩きはじめた。
「佐々さんは全く自由なんじゃないか」
「そうよ」
 自分の心を見張っているように、伏目になって歩きながら、ゆっくりした二人の歩調にあわせて伸子が答えた。
「それは、わたしは自由だわ……だけれど、わからないことは、やっぱりわからない」
「何がわからなくちゃならないのさ」
「――わたしにはわたしの気持。あなたには、あなたのきもち」
「そんなことは、もうわかりすぎてる。僕は毎日毎日考えつづけたんだ」
「――なんて?」
「佐々さん、どうしてきみはそんなにいつものきみでなくなろうとしているんだろう」
 恋とはちがう衝動、むしろ憎みに近かったとっさのふるまいが自分と蜂谷との間にある――接吻という形にあらわされて――。蜂谷良作に会うことを拒まず、肩を抱かれるようにして田舎道を歩いているけれども、伸子の心のどこかはいつも目を明いていて、これは恋でない、と云っている。ああ、伸子さんは接吻のしようもしらない! そのひとことが、あんなに自分を猛々(たけだけ)しくした。蜂谷に深い傷をつけようとするように唇を圧しつけさせた――そこに伸子のおどろきがある。わからなさがある。ヴェルダンの夜、死の都のうす暗いカフェーで、あのように自分を苦しくしていた抗議の感情、欺瞞にいきどおっていた感情、それらの激情の底まで浸りたいと願っていた感情――ヴェルダンへ泊りたいと云った伸子のこころもちと、それをきいてひそかにあわてた表情になった蜂谷良作の気持との間に、くいちがいがあった。蜂谷良作と伸子の要求はくいちがいのまま、その流れを流れて、瀬におちかかろうとしている。男と女の瀬に――。だけれども、これが恋だろうか。愛でない恋――伸子には、わからない。
 蜂谷良作が、感情の投げ繩を投げることにだけ熱中していて、しきりに繩を投げながらも動こうとしないで立っている自身の位置――彼の生活と思想がたっているところ――に目を向けないでいることも、伸子をわからなくする。しかし、蜂谷の投げ繩は伸子の体すれすれにとどいたし、蜂谷の知らない瞬間に全く伸子の感覚をとらえていることがある。たとえばこんなとき――
 ベルネの食堂のテーブルで、例の煖炉よりの側に蜂谷良作が、ドアよりに伸子がかけておきまりの勉強がはじまっている。蜂谷はもち前のチューブから圧し出す声で伸子にノートさせる。
「先ずロビンソンをその島に出現させよう。ロビンソンは本来質素な男であったとは云え、充足させるべき諸種の欲望を有し、したがって種々な有用労働をしなければならなかった。彼は道具や什器(じゅうき)をつくったり、騾馬(らば)を馴らしたり、漁をしたり、狩をしたりせねばならなかったのである」
 ああ、これが有名なロビンソン物語――伸子は鉛筆を働かせながらそう思った。利根亮輔をロンドンで、大英博物館図書館にかよわせていたロビンソン物語――
「彼の生産的機能は種々異っていたとは云え、いずれも同一なるロビンソンの相異った活動形態にすぎず、換言すれば人間労働の相異った様式にすぎないことは、彼の知るところであった」
 それは当然そうであろう。ノートの手を止めず伸子はうなずく。難破船から時計、帳簿、インク、パンなどを救い出すことのできたロビンソンは、やがて種々な生産物の一定量を得るについて平均的に必要な労働時間を示す表をつけはじめるようになった。ロビンソンは、彼自身の必要のために働く時間を、それぞれの働きの間にわりふらなければならず、
「いずれの機能が彼の全活動の上により大なる範囲をしめ、又いずれがより小なる範囲を占めるかは、所期の利用上の効果を得るにあって、うちかつべき困難の大小にかかるものであった」
 何とおそろしく四角ばった云いまわしだろう!
「ロビンソンと彼自身の手で造り出された富を構成する諸物件との間における一切の関係はこの場合きわめて単純明瞭である」
 伸子の理解の段階にあえて必要でない引用の固有名詞をとばして、蜂谷良作はつづける。
「しかも価値決定の上のあらゆる本質的要素は、この関係の中にふくまれているのである。今、ロビンソンの明るい島から陰暗な中世ヨーロッパに目を転じよう。ここには独立した人間はいないで――」
 伸子はノートから頭をあげた。
「ちょっと――ごめんなさい。ロビンソンはそれでおしまい? いきなり中世ヨーロッパとなるのかしら」
 中断されて、蜂谷は手にもっているテキストへ視線をおとし、伸子を見ずに答える。
「それでいいんだ」
「『金曜日(フライデー)』は出て来ないの?」
 伸子は、こちらを見ようとしない蜂谷の顔を見て訊いている。
「価値の原形を分析しているこの部分は、フライデーの出現からきりはなして扱われているんだ」
 視線をさけ、まじめな表情で答えている蜂谷の顔に向って、突然伸子の感覚がかきたてられた。その唇にひきつけられて。――だが、蜂谷は心づかない。伸子がどんな渦巻にまきこまれかかったか。――伸子はノートの上に瞼をおとし、自分の動悸とともに蜂谷の声を、すこし遠いところからきく。
「いかなる人も農奴と領主、家臣と藩主、俗人と僧侶という風に相倚存――倚(き)存の倚(き)は倚(よ)るという字ね、ニンベンの――相倚存していることが見出される」

 クラマールの朝と夜は冬らしい寒さになって来た。
「お早う(ボン・ジュール)、マドモアゼル」
と、朝の八時すぎに伸子の室のドアをノックしてはいって来るベルネのお婆さんの手はますます赤く、彼女は煖炉の火種を運んで来た。
 伸子がまだ寝台にいるわきのジュータンの上へ大前かけの膝をついて、彼女は上手に火をおこした。ベルネの家庭では、朝と夜しか煖炉の火をこしらえなかった。ベルネの家の煖炉を見て伸子はパリの屋根屋根に林立している煙突のどれもが細いわけをのみこんだ。パリの人々は、豆炭を煖炉につかっているのだった。豆炭の熱は、カッときつく顔ばかりのぼせるようで、こころもちがわるかった。煖炉の豆炭がすっかりおこるまで、皮膚をさすような匂いがなくなるまで、伸子は洗面所の窓ぎわで新聞を見ていることがある。
 アメリカの恐慌は、十一月にはいり、月の半ばに進んでも、たしかな安定は見出していなかった。これまでウォール街で働かせられていたヨーロッパの金が、大量に逆流して、ヨーロッパへ戻って来つつあった。ヨーロッパでアメリカの資本輸出とはりあうことのできるのはイギリスとフランスだけであることが明瞭だった。ベルネの一家は恐慌の打撃にたえたフランスの手堅さに満足して、食卓で息子のジャックをはげましながら洗濯工場の燃料泥棒をつかまえなければならないことについて相談している。
 伸子の生活は、ベルネのおばあさんやアルベール夫婦にとって興味をひく特別の何もないようだった。ヴェルダンから伸子がおみやげに買ってかえった記念スプーンを、
「――銀ですよ!」
 おばあさんが目顔でうなずいて、
「御親切にね(トレ・ジャンティ)」
とあらためて伸子に礼を云いながら、娘であるベルネの細君にわたし、細君はそれをベルネの主人にまわして一同が見たほかには。
 だがそんなベルネの一家のなかで、十六歳のフランシーヌのそぶりは、伸子に何かを感じさせた。
 伸子はある午後、クラマールに住んでいる画家の柴垣とモンパルナスの美術書籍の店と、いくつかの画廊を見に行く約束をしていた。その店にマチスのデッサン集があった。そのデッサン集を伸子は見飽かなかった。マチス自筆の署名いりで、番号のはいった限定版であった。パリを出発する準備にいくらかずつ画集をあつめていた伸子は、他の三四冊あきらめてもそのデッサン集がほしくて、柴垣にも見てもらいたかった。
 約束の午後、どうしたわけか柴垣は誘いに来なかった。待ちぼけになった伸子は、日ぐれがたモスク□へ出す手紙をポストしに町へ行って、思いがけず郵便局のわきで柴垣に出会った。
「あら」
 柴垣と伸子とは互に目を大きくして眺めあった。
「きょう、御都合がわるかったの?」
「いいや」
 いぶかしそうに、そしてしらべるように柴垣は伸子を上下に見た。
「あなた午前中から留守だったんじゃなかったんですか」
「いいえ」
「うちにいたんですか?」
「いたわ。あなたがいらっしゃらないから、これを書いたわ」
 素子あての厚い角封筒をふってみせた。
「ふーん」
 考える目つきで伸子を見つめながら、柴垣は片腕を大きく肩からふって指をはじき鳴らした。
「いっぱい、くったかな」
 約束の時間にベルネの玄関へ行ったら出て来たのはフランシーヌで、伸子はひる前から出かけていると告げたのだそうだった。二階にいて伸子は知らなかった。
「ちょいとしたことをやるんだな、あの娘。――僕はそうとは思わないでね、急に何かの都合で、あなたの予定が変更されることもあり得るんだろう、と思ってね」
 ほほ笑みとも云えないしわが、柴垣の口辺によった。このごろ蜂谷良作とばかり歩いている伸子への感想が、総括してそこに意味されているのだった。
「おめにかかってよかったわね」
 強いて何も説明しないが、誤解をのぞんでいない者の表情で伸子が云った。
「どなたとでも、お約束はお約束よ」
「いや、それで僕もさっぱりしましたよ」
 伸子はベルネの家の方へ柴垣は郵便局のある電車通りを先へ、わかれた。
 その秋の展覧会(サロン・ドオトンヌ)には、パリで客死した磯崎恭介の作品と遺骨をつれて日本へ帰って行った須美子の作品が入選している。ほかに、石井柏亭の「果樹園」が二科から特別出品されて注目をひいていた。アマンジャンのシャボン箱の絵のようにただきれいな翡翠(ひすい)色と瑠璃(るり)色の効果を重ねた婦人像と同じ壁の一方にかけられて「果樹園」は現代古典のおもむきを示した。日本の展覧会場でその絵を見たとき、伸子は「果樹園」の画面に線がこれほど特色のある役割をもっているとは心づかなかった。サロンの出品画が多くが、気がきいて警抜な色の効果、コムポジシォンなどばかりを目ざしているので、「果樹園」の正統派のつまらなさが面白かった。そのころパリに滞在していた日本のある漫画家も、支那靴をはいた足で鬼を踏まえている鍾馗(しょうき)の大幅絹本を出品したりもしている。その墨絵は伸子に五月節句の贈りもののようにしか見えなかった。
 もう一度、みんなで観ておこうという話がクラマールに住む日本の人々の間にきまった。
 その午後、伸子は早すぎると思ったが、定刻より三十分も早く、物置の二階をアトリエにしている画家の亀田夫妻のところへ行った。蜂谷良作も来るはずだった。それで伸子も早めに来たと思われはしまいか。伸子はめずらしくすこし気をひけてアトリエをあけたら、意外にも、そこには一座の顔ぶれがそろっていたのだった。
「みなさん、たいへんお早かったのね」
「ええ。ですから、お迎えにあがったんですわ」
 絹の外出着の上からはでな色模様のゴム製エプロンをかけた亀田の細君が若々しくさえずるような調子で料理兼用のストーヴのわきから伸子に云った。
「おもったより、早くいらっしゃれてよかったわ、ねえ、あなた」
「うん」
 むかえに行ったって――誰が、誰を、迎えに行ったのだろう――伸子は誰からも迎えなどうけなかった。まだ早いかな、と白い猿の腕にかけておいた時計を見ながら考え考え出かけて来たのだった。
「いやですわ、伸子さんたら!」
 短い刈りあげにしているおかっぱの頭を愛嬌よくかしげて亀田の細君は笑った。
「フランシーヌのおことづてで、お約束の時間よりも早くは来られないっておっしゃったじゃない?」
「わたしが?」
 あんまり思いがけなくて、伸子は茶の冬外套を着ている自分の胸のところをおさえた。
「しらないことよ」
 格子縞の毛布のひろげられている長椅子にねころがっていた柴垣が、
「じゃ、例のてだ」
 パイプの灰をはたきおとしながら、塩から声で云った。
「彼女はこのごろ、何かのイマージュにつかれているらしいよ。僕も経験ずみだが――イマージュが答えさせるんだ」
「いやだ――どういうことなの?」
「いいさ、いいさ」
 良人である画家の亀田が細君をおちつかせるように彼女の肩をたたきながらあっさり云った。
「きみが行ったことはたしかなんだし、伸子さんも早く見えたんだから、それでもういいさ」
 細君の好奇心は消えないで、伸子とつれだって電車の停留場へ行く道、彼女は低めた声できいた。
「ね、伸子さん、教えて下さってもよくはない? わたし気味がわるいわ、イマージュなんて……」
「わたしにもよくわからないんだけれど、蜂谷さんがベルネのところにいらしたときは柴垣さんや皆さん、ちょくちょくあすこへ遊びにいらしてたんじゃないの?」
「ええ、宅もフランシーヌを描いたりしていましたわ」
「わたしが社交的でないからフランシーヌ淋しいんでしょう……」
 細君は、ちょっと考えるようにして、
「ああ、ね。若い娘さんとしてはそうかもしれないわね」
 そのまま数歩行って、彼女は急に、
「だって、あの娘さん、まだ子供じゃありませんか、柄こそ大きいけれど……こっちのひと、早熟だわ」
 抗議をふくんで、体にあわせては太いような声を出した。それで伸子は感じるのだった。柴垣や亀田たちは、もしかしたら細君をつれてよりもより度々、男たちだけでフランシーヌを訪問したこともあったのだろうと。
 フランシーヌの小さい細工を蜂谷良作は不快がった。
「ああいう陰性でしめっぽい娘は、にがてだ。困るな、どうも。――混乱ばかりおこって」
 ひとくみの男女の感覚の嵐が彼女の身ぢかいところでそよいでいるとき、どうしてフランシーヌに冷静がもとめられよう。フランシーヌのつやのわるい十六歳の顔の上にはそばかすがあった。このごろ、そのそばかすが濃さをましたように見える。その頬にたれている捲髪と同じように、長すぎるルーマニア風の鼻から、彼女は、
「だって――寒いんですもの」
 寒い、ということにあたりまえでない意味がふくまれているような鼻声と目つきで母親を見ながら食卓に向っている体をくねらせた。ベルネの細君は、娘の血色を美しくさせようとして、食後自転車にのって、すこし外をまわって来るようにとフランシーヌにすすめているのだった。
「ジャック、彼女といっしょに行きなさい」
 兄息子のジャックは、だまって長い膝をゆすっている。
「二人でいっておいで。ね、少し運動した方がいいんですよ」
「――寒くて」
 やがてベルネのおばあさんが、両肩から何かを払いおとすようにまずテーブルから立ち上る。つづいて細君も、主人も。彼らには午後から工場の仕事がある。そして、伸子も。奇妙なとりつぎについて伸子は、ひとこともフランシーヌにふれないのだった。
 一日が一日とすぎてゆく。伸子のパリを去る時が近づいている。蜂谷と伸子との間にある緊張はつよまるばかりだった。蜂谷良作は感情の投げ輪を一層つよく投げ、伸子は、なるたけ蜂谷以外のひとたちと行動をともにしようと考えながら、実際につれ立って出歩くのは蜂谷ばかりであったし、しかもその間に伸子は一度ならず蜂谷の投げ繩にとらえられた。彼女自身のうちにわきたつはげしさと同じ分量の疑わしさの間にいつも中途半端にたたずんだまま。伸子はもう自覚していた、自分が正気を失えないことを。そのように正気でありながらも、官能というものはほだされるものだということを。伸子の本心は恋を求めているのだった。愛にまでふかまる恋を。――ほだされている自分。伸子は手鏡をとってしげしげとそこに映る自分をながめた。そこに何か新しい美しさの添えられた顔が見出されるのだろうかと。

        十五

 ある晩、伸子は三人ぐらいならんで臥られそうな大きい寝台の真白いシーツのまんなかに上半身おき上って、煖炉の白くなった豆炭の奥にのこっているかすかな赤い光をじっと見つめていた。
 世帯もちのいいベルネのおばあさんは、葡萄酒をのまない伸子のために、いくらか食卓のたのしみがあるような心づかいをすることはなかったが、クラマールの夜が寒くなってからは、毎晩、白いナプキンできちんとくるんだゆたんぽを伸子の寝床の裾へ入れておいてくれた。
 あつい湯でさっぱりと洗った足さきに伸子はこころもちよくゆたんぽのあたたかみを感じている。伸子が部屋へかえって来るまでに、のぼせるような豆炭の火気をはきつくした煖炉は適度に部屋をあたためて、夜更けらしい余燼(よじん)を見せている。おだやかな夜の室内の光景だが、白地にほそいピンク縞丸形カラーのねまきを着て起きている伸子の顔はけわしかった。寝台のかけものの上にのばしている手のところに、二つに裂かれた手紙がある。手紙はわりあいあつくて、原稿用紙が四五枚重なったままをまんなかから、さかれたときの紙の重りのずれをそのまま、そこにある。
 モスク□とロンドン。モスク□とパリ。素子と伸子とが別々に暮すようになってから二ヵ月あまりたつ。わりあいに筆まめな伸子は、気がむくと随分細かく長い手紙をモスク□へ書いて来た。素子も一週に一通のわりぐらいでロンドンにいた伸子、パリへかえって来てからの伸子に、たよりをよこしているのだった。
 でも、今夜の手紙は、混乱した表情に口もとをゆがめ、白いブラウスの左方の肩をつきあげたような素子が、こわい眼つきで、伸子の前に迫って来るようだった。一ヵ月もひとに無駄な手紙をかかせるひとだということがやっとわかった。もうぶこがモスク□へ帰って来ることなんかちっともあてにしていない。全く帰って来なくなったっていい。――きみというひとは、どっちみち、自分のしたいようにしかしない人なんだから、わたしがここからこんな風に云うのさえ、云わば滑稽なことだろうがね。
 ――一ヵ月も無駄な手紙をかかせた、と素子は云って来ているけれども、それはどういうことなのだろう。伸子は、自分が素子のよこしたどの手紙かに返事をしなかったことでもあったろうか。素子のどんな手紙やハガキに対しても、必ずこたえて来ていたという確信が伸子にある。佐々の家のものがモスク□経由で先へ帰ってから、パリにのこった伸子の滞在は、クラマールへ移ったりして長びいてはいるけれども、それだって、素子に無断でずるずるのばしにしているのではなかった。ベルネの家へ引越したとき、あらましの予定は伸子から告げてあった。パリには十一月いっぱいぐらい居たいからと。
 素子の手紙は、くりかえし伸子の不実をせめた。そして、終りに、わたしは、このごろちょくちょく徹夜して弄花する。これも、二晩つづけて、帰って来て、部屋で書いている。とかかれているのだった。
 その晩、伸子は蜂谷良作といっしょに、パリ東南部の労働者地区のあるところで行われた集会へ行って、おそく帰ったところで、白い猿によせかけておかれている素子からの手紙を見つけたのだった。
 その夜伸子と蜂谷とが行ったところはセーヌ河の停車場河岸とよばれているあたりだった。倉庫のような建物が並んでいるその界隈は、すれちがう通行人の顔も見定められない暗さだった。掘割の上に板の橋がかけられている、それもそこを通ってゆく足音できき分けられるほど暗いところをぬけると、空倉庫を集会所に直したような建物があって、そこで、パリにいるポーランド人労働者を中心に、ファシズム反対の集会がもたれた。ポーランドのファシスト政府は、十月三十日に、軍隊の力で議会を襲い、議事中止をさせた。翌日それに抗議した社会党主催の大会は解散させられ、社会党代議士と労働者八名が傷を負わされた。社会党の機関紙「労働者(ラボートニク)」は発行停止をうけた。フランスには、ポーランドからの移民労働者が多数働きに来ている。ファシズムに対して労働戦線の統一を努力しているC・G・T・Uは、祖国ポーランド人民の自由を守ろうとする労働者の熱情を統合して、C・G・T・Uのみならず、どんな組合に属している労働者も、どんな政治的立場に立つ労働者も、それにかかわらずその夜のファシズム反対の集会に集るように、よびかけた。
 夏のころから、フランスの共産党への弾圧がひどくなっていた。C・G・T・Uが提唱した集会だということから、警官がふみこむかもしれず、また雑多な会衆の間にどんな挑発者がまぎれこんでいるかもしれないというので、会場の空気は緊張していた。何かのつてで、蜂谷良作はその夜の入場券を手にいれた。ピルスーズスキー政府に窒息させられたその年のワルシャワのメーデーの印象は、伸子に忘れられず、四五百人の男たちばかりの会衆にまじるたった一人の外国人の若い女であることも頓着せず演壇に近いベンチにかけていた。
 人々は、次々に立って演説した。ほんとに工場から来た労働者らしい若者。職長ぐらいな年配と恰幅(かっぷく)の労働者。組合事務所の役員らしいカラーにネクタイをした男。なかに、黒いボヘミヤン・ネクタイをふっさり下げた長髪の男さえ混った。みんなフランス語の演説だった。伸子のために蜂谷がかいつまんでつたえる演説の主旨は、どれも同じファシズムへの抗議とポーランドの人民の自由のためのアッピールであった。が、やがて、伸子は、一つの興味ある事実を演説者たちの上に見出した。伸子に言葉そのものがよくわからないということが逆に作用して、演説者の身ぶり、会衆へアッピールする表情などの一つ一つを注意ぶかく見ているうちに、いま演壇で話しているのは、どんな傾向のもち主か、あらましが推察されるようになった。発言は注意ぶかく整理されているらしくて、演壇をみつめている伸子の特別な関心をひく、無駄のない身振り(ジェスチュア)で、理性的に話す演説者は三、四人の間に一人ぐらいの割ではさまれていた。
 開会前の物々しい警戒の雰囲気にかかわらず、集会はことなく終った。最後に、全会衆が起立してインターナショナルを合唱した。背の小さい伸子の体をつつんで、倉庫めいた会場に歌声が満ちた。この間の朝早いメトロの中で、「リュマニテ」の白い波が伸子をそのインクの匂う波の下にかくしたように。伸子は、ロシア語で歌にあわせた。フランス語もロシア語も、ああインターナショナル、というひとふしのなかではすべてが一つの高まるメロディーのうちにとけあって、歌い終ったとき、伸子のとなりにいた五十がらみの労働者が、
「非常にいいです(トレ・ビアン)」
 きつく伸子の手を握って、ふった。
 そのようにしてインターナショナルが歌われた間、蜂谷良作は、まじめに口をつぐんだまま立っていた。蜂谷はインターナショナルの歌を知っていないのだった。知らない歌は、うたわずに起立している。そこにうそもなく、彼として不自然な態度でもなかった。しかしある程度の危険をおかして今夜この寂しい場所に集っている会衆の高揚した共感が歌声となって溢れているときに、ひとり口をむすんで重く立っている蜂谷のありかたは、腕と腕とがふれ合うほど身近に立っているだけよけいに、いつも蜂谷と自分とについて伸子が感じている奇妙な感じを、きわ立たせた――蜂谷と自分がときに唇をよせるほどこんなに近くあるという意外さと、その意外さをよそよそしいものにする、互の生活の本質のところにあって消えない距離の感じ――そのくいちがった感じが伸子の心につよめられた。
 やっとクラマール行の終電車に間に合ってベルネの家のあるサン・クルー街の並木の下を歩いているとき、蜂谷良作は、
「実際、佐々さんは、理論だけじゃない火をもっているんだなあ」
 長い道中、かんがえて来たことのように云った。
「ああいう場所へ、すぐぴったりできるんだから。――僕なんかには、つくづくいくじがないインテリ根性があると思った。――てれちゃうんだ」
 会場で伸子が感じたことが、蜂谷の側から語られているのだった。
「ここまで来ればもうついそこなんだから、ちょっと休んで行きましょう、いいでしょう?」
 冬の並木の裸の枝々を照している灯かげからすこしはなれて、石のベンチがあるところだった。伸子は、またまた、彼にほだされながら意気銷沈する自分を見とおし、それに抵抗するように、
「十一月の夜って、石のベンチにいい季節?」
 はじめから、いそいで歩いているのでもない二人の歩調をゆるめなかった。
「僕は、実のところ、伸子さんに会ったのがおそろしいんだ」
「…………」
「僕に、新しい人生が見えはじめている。それを追求しずにはいられなくなってしまった。――だのに、佐々さんは、パリからいなくなろうとしているんだ……ね、伸子さん、僕は、どうしたらいいんだ」
 ファシズム反対の労働者集会からのかえり路に、自分と蜂谷という男女の間には、こうした会話がかわされる。それは、伸子をばつのわるい思いに赤面させ、また悲しくさせる蜂谷の甘えだった。
「ね、蜂谷さん、ほんとに、お願いだから、甘ったれっこなし――。折角、ああいう集会へつれて行ってくれたのに……」
 ベルネの門の、小さいくぐりへ手をかけようとする伸子をおさえて、蜂谷は、
「ひとつだけ」
 顔を近づけた。伸子は、頬っぺたと耳との間を掠(かす)めた蜂谷の唇を感じたまま、門のくぐりへ入ってしまった。
 寝しずまっているベルネの家の階段を、伸子は滅入(めい)った気持でしずかにのぼって行った。蜂谷に抵抗することは、伸子の内に揺れかかる何かにさからうことだった。それは伸子の神経をつからせる。落付かない眼色で部屋の電燈をつけたとき、伸子は枕元の小テーブルの上におかれているマスコットの白い猿によせかけて、素子からの手紙があるのを見出したのだった。
 はじめその手紙を見つけたとき伸子のおもざしがうれしさに輝いた。わざと手をふれずにおいて手紙を眺めながら、伸子は着がえをした。それから浴室で顔と手足を洗った。寝間着にかわって、寝台に入って、足の先でゆたんぽのありかをたしかめてから、伸子は、たのしみに、ゆっくりロシアのスタンプ、フランスのスタンプがいくつも押されている素子からの封筒をひらいたのだった。この前のたよりに、素子は五ヵ年計画第一年度の生産予定に成功したモスク□の様子を活々した筆で知らせてよこした。ぶこちゃんは、きっとおどろくだろうな。モスク□は変ったよ。アホートヌイ・リャードの闇露店は、すっかり影をひそめたし、いたるところで大建築が開始されている。街は起重機のつき立っている風景だよ、と。
 素子は、この手紙でどんなモスク□の話をしているだろう。この期待は、今夜のような伸子の感情に一層切実だった。ところが、封をきられた素子の手紙から伸子に向って立ちのぼったのは、もうもうとした黒煙であった。伸子が勝手にパリに滞在しているということにたいする非難と怨みごとの末に、このごろまたちょくちょく花をひいている、二晩つづけて、帰って来た部屋でこれを書いているという文句をよんだとき、伸子は、思わずぎゅっとつかんだ素子の腕を、自分の手の下に感じるような激情にとらえられた。吉見素子! 何といういやさだろう。わざと伸子の大きらいな昔の花遊びをしていることを書くなんて――。
 伸子が、そういう遊びごとをきらうことを素子はよく知っている。ところもあろうにモスク□にいてそんなことにまた耽りはじめるとすれば、そのみじめさの動機は、伸子がパリに勝手に暮しているからだ、素子はそう云おうとしている。伸子にはそうとしかとれなかった。だけれども、吉見素子はれっきとした一人前の人間であり、三十をこした女ではないか。伸子の気のよわさで、冷淡でいられない下らない習慣にたよって、はらはらさせて、それで伸子をパリから帰らせようとするのだったら――伸子は、声に出しておこった。悪魔(チョルト)!
 手のなかに感じる素子の腕を、ブラウスごとつかんではげしくゆすぶるように、伸子の心は素子をせめつけた。これまでの手紙で、一度でも伸子に早く帰れと云ってよこしたことがあったろうか。佐々のうちのものがモスク□経由でシベリア鉄道にのりかえ、日本への帰途についたとき、素子がよこした手紙に、伸子のパリ滞在についての素子の意見は示されていなかった。同時に、モスク□への土産に伸子がおくったこまごました土産袋についても、素子はひとこともふれなかった。ことづかって行ったつや子から、果して素子がその袋をうけとったのかどうか。それが気に入ったのか、いらなかったのか。土産ぶくろが黙殺されていることで、伸子は自分がパリにのこったことについて素子の不賛成を感じとったのだった。
 伸子は、あてこすりで自分の行動が支配されるのをこのまなかった。年を重ねた素子との生活のうちに、そういう場合がなかったからではなく、反対に、伸子はいまは自分の卑屈さとして、そういう場合をうけ入れすぎていたと思いかえしているのだった。伸子は妻というもののそういう立場に堪えがたくて佃と離婚した、それと同じような素子からの暗黙の制約を素子が女だからということでうけいれるというのは、おかしなことだった。
 いま、こんな手紙をかく素子が、それならロンドンから、どうしてあんなにあっさり伸子をのこして立って行ってしまったろう。はたと思いあたるという、その字のとおりに思いあたって、伸子は息のとまるような気がした。あのとき、ロンドンには佐々の一行がみんないた。その家族的な環境を伸子の安全保障のように素子は考えたのだ。だから、親たちがパリにいた間は、伸子がパリにいることも、素子を不安にすることではなかったのだ。
 ――伸子は、ゆっくりと、だが決定的な手つきで素子からのその手紙をひきさきはじめた。五年くらした二人の生活ではじめて、こうして素子からの手紙をやぶいている自分を意識し、そして、これは素子との生活における新しい何ごとかであるということを意識しながら。

 暗く燃え乾いた眼を、煖炉の燠(おき)に据えている伸子の指は、やがて、自働的に動きだし、大きく二つに裂かれたままになっていた素子の手紙を、更にほそいたてにさき、またそれを、もっとこまかいきれにちぎって行った。舞台にふる紙雪のような手紙のきれは、伸子の手に掬(すく)われ、指の間からチラチラと寝台のかけものの上におとされる。また掬われ、またおとされ、手紙のきれは伸子の心に、初冬のモスク□の街の上に、そして、アストージェンカのかし間の、一つきりしかない内庭に面した窓にふるのだった。一つしかない窓いっぱいにデスクがおかれている。ダッタン人の男の外着のような太い縞の室内着をきた素子が、そこに向ってかけている。パイプをくわえているだろう。刈上げたかぼそいぼんのくぼを見せ、厚ぼったい部屋着が、大人のかり着めいて見えるなで肩で――。彼女が送って来た九十九円七十五銭の為替と、それをもらってよろこんだ伸子が、素子にかいた下手ながら愉しい絵入りの手紙が思い出された。すすり泣きにかわりそうなふるえが伸子をつらぬいて走った。伸子のパリの生活は、素子をだましていることになるのだろうか。
 モスク□へかく手紙から伸子は、最近おこっている蜂谷良作とのふたしかな感覚のひきあいについて省略している。それが一つのうそであるというならば、伸子は素子に対して正直ではなくなっている。けれども、三十歳になっている一人の女として、素子の立ちいらないどんな感情の小道も経験してはいけないとされても、それは伸子に出来ないことだった。佐々の家のものがみんなでロンドンにいたことで、伸子のロンドンでの生活感情の全部が素子に確保されていたと思うなら、素子はひとの心というものを知らなすぎる。利根亮輔の、人生と学問との上に機智をたのしんでいる態度に、伸子が多くの批評をもったからと云って、それが伸子の意識の底にどんな地位も彼が占めなかった証拠ではなかった。
 伸子は、たしかに、ひとりになってからの生活に起伏する何ごとかについては沈黙して来ている。長年かくしだてなくいっしょに暮して来ている素子が、モスク□にいて、パリの伸子がよこす手紙の下から、何か語られていないものがある感じをうけるのは、当然だと思わなければならなかった。ほんとに、このごろの伸子は素子に話さないこころの揺れにゆられているのだから。
 それを字にかいてしまえば、もうそれは現実なものとなってしまいそうに不安だものだから、水が渦巻くように怨みごとをつらねながら、なお率直に、きみは、おおかたわたしのいないところで恋愛でもしているんだろう、ときめつけることもできずにいる素子の、素子らしい苦しみかた。――
 素子にうちあけていないのはよくないとして、でも、このごろの蜂谷との微妙な格闘を、伸子は何と素子にしらすべきなのだろう。寝台のかけものの上で掬ってはおとしていた手紙のきれを、伸子は少しずつつまんで傍の封筒へいれて行った。結局蜂谷良作は蜂谷良作であり、伸子は伸子としてのこるだろう。その予感が、こんなにはっきりしているのに。その予感にかかわらず、伸子のこころは、あるところまで決して退場することなしに、この経験を追求しようとしているかたい決心のようなものがあるとき。――伸子は、このすべてがここであるままに、素子に話せようと思えないのだった。
 あくる朝、ベルネの家の朝飯がすむとすぐ、伸子はクラマールの郵便局へ行った。そして、モスク□の素子へ電報をうった。ブ コアヤマル キゲ ンナオセ モスク□デ オコツテイルトアタマニワルイ。素子の不安の動機には伸子の責任がある。伸子はそれをすなおにみとめずにいられない。だけれども、素子が苦しんでいるからといって、伸子はどんな風に自分のコースを曲げるとも考えられないのだった。それらの点について、伸子は素子にごめんなさい、というこころもちだった。

        十六

 ことわりなしで、蜂谷良作がおきまりの講義に来なかった。あくる朝になっても、おとさたがなかった。
 伸子は、どうしたものだろう、と思った。考えてみれば、彼の下宿先は、年をとって孤独な画家未亡人の二階で、ちょっと気軽に使いをたのめる人も、そこの家にはいないわけだった。そとでは、冬のはじめの雨が降っている日だった。散歩がてら、蜂谷の下宿へよってみる気で、伸子はひる前にベルネの家を出た。
 雨にぬれて人通りのないパリ郊外の街は静かで、日ごろから門の扉もあけはなされたまま荒れるにまかされている蜂谷の下宿の前庭には、浅い水たまりが出来ている。伸子は、誰も住んでいない一階の隅から、二階への階段をのぼって行った。ぬれた靴が、階段に跡をつけるのを気にしながら。
 伸子は、下宿の未亡人が暮している一つの室のドアをノックした。
「おや、マドモアゼル」
「こんにちは、マダム。蜂谷さんはおいででしょうか」
「ええ、ええ、おいでですよ。彼はすこし工合がわるいようです、ゆうべも、けさも食事をなさいませんでしたよ」
 いまは、どうしているかしら、という風に下宿の未亡人は、先にたって階段ぐちの廊下の右手にある蜂谷良作の室をたたいた。
「おはいり」
 ぐったりした蜂谷の声だった。
「マドモアゼル・サッサですよ」
 戸口に伸子と並んで立って寝台によこになっている蜂谷を見、茶色のエプロンをかけた未亡人は頭をふって戻って行った。
「どうなすったの?」
 伸子は寝台に向ってふたあしみあしすすみよった。
「かぜ?」
「――どうしたんだか、わからない」
「きのうから?」
 枕につけている頭で、蜂谷はこっくりするようにした。彼のその頭の髪が、いかにもきちんとととのえられていて、きのうから気分をわるくして寝床にいる男のようでなかった。そう気がついてみると、胸から下へ毛布をかけてねている蜂谷のパジャマも、うすいクリーム色にグリーン縞の洗濯したてのさっぱりしたものだった。とりちらされた寝床にいる彼を見るよりも、それは目に楽であるけれど、伸子は何となし瞬きをした。
「熱がでたの?」
「熱はないんだろう」
 行儀よい姿で、枕の上からいつもの彼の、額に横じわをよせて眉をしかめるような見かたで自分を見つめている蜂谷の顔を眺めているうちに、伸子の気持は、女らしい母親めいたあたたかさで柔らいで来た。煖炉のよこから質素な椅子をもって来て、伸子は蜂谷のベッドのわきにかけた。
「工合がよくなければ、早くちゃんとしなくちゃ」
「うん」
「ここのマダム、誰か、ちゃんとしたお医者を知っていないかしら」
 磯崎恭介が歯をぬいたばかりで敗血症になり、一晩のうちに死んでから、伸子は行きずりのパリの医者のすべてに信用がもてないのだった。
「もしかしたら、ベルネのうちできいて来てあげましょうか。――亀田さんのところでも知っているかもしれない」
 蜂谷は、こざっぱりしたパジャマの中で、胸がつまって息がほそくしか通わないような声を出した。
「いいんだ、伸子さん」
「ほんとに、放っといていいの?」
 うなずくといっしょに、蜂谷は強いひと息を内へ引いた。
「僕は、きっと佐々さんは来てくれると思っていたんだ」
 涙の出ないすすり泣きのようなものが、枕についている蜂谷の顔を走った。
「佐々さん、僕は苦しいんだ」
 片手をつかまえられたまま、伸子は、蜂谷の体のどこかが工合わるくて苦しいという意味と、二人の間にある緊張が苦しいという意味とを、ごっちゃにうけとった。
「伸子さんがいま入って来て、僕を見たときの、あんな優しさ」
 伸子の手をはなして、蜂谷は、小さい子供がやるように、両方の腕を伸子に向っていっぱいにのばした。
「僕はくるしいんだ、伸子さん」
 いつの間にか伸子は椅子から立ちあがっていた。そして、首をかしげ、目鼻だちのぱらりとした顔の上に不思議なかがやきを浮べながら、黙って、まじめに枕についている蜂谷を見おろした。いつ、靴がぬがれたとも知れず、伸子の体が、軽く、なめらかに、蜂谷の寝台のかけものの下にすべりこんだ、厳粛な、そしてやさしい表情で蜂谷を見つめたまま。――
 シーツごしに蜂谷の全身がふるえ、てのひらいっぱいの力が、伸子の背中を撫でおろした。それと同時に、伸子は、破れたような一つの声をきいた。
「ああ、伸子さんは、すっかりきものを着ている!」
 すっかりきものを着ている――? 何のことだろう。すっかりきものをきている。…………
 伸子は、そのかけものの下へすべりこんだと同じ軽さとしなやかさで、いつの間にか蜂谷の寝台からぬけ出た。そして、そばの椅子につかまった。蜂谷から目をはなさず。
「なんてひとだろう! そんなに僕を苦しめなくたっていいじゃないか」
 伸子は蜂谷を苦しめようと思ったことは一度もない。だけれども、すっかりきものを着ていない自分というものは、伸子に考えられない。
「僕ははじめからよくわかっているんだ、僕が佐々さんを愛しているように愛していてはくれないんだ……だからって、侮辱しなくたっていい」
 侮辱――? それも伸子におぼえのあることではない。
「こっちへ来て」
 そういう蜂谷の顔は、伸子に見なれないものだった。
「…………」
 反対に伸子は椅子のむこう側にまわって、寝台と自分が立っているところとの距離を大きくした。
「ね、来て」
「だめ」
 混乱して、かすれた伸子の声だった。
「どうして?」
「だって……ちがうんだもの」
「何が」
「――タワーリシチじゃないもの」
 むっくり、蜂谷の上体が寝台で起きあがった。
「じゃ、タワーリシチなら、君にはどんな男でもいいわけか」
「どうしてそういうことになるのかしら……」
 まだすっかり自分をとり戻していない伸子が、不自然にゆっくりした口調で反問した。
「だって――そういうわけでしょう」
「わたしはコロンタイストではないわ」
「僕は君にとってタワーリシチじゃないってわけなのか」
「それはそうじゃないの」
 伸子の答えは抵抗しがたくものやわらかで、同時にはっきりしていた。伸子は急に自覚しはじめるのだった。自分でさえ思いがけずに云ったタワーリシチであるということと、そうでないということの区別を説明することは、何とむずかしいことだろうか。と蜂谷良作も予期しない瞬間に、感情の焦点を移されたようだった。彼は壁にもたれて立っている伸子をめずらしいものをしらべるように、眺めた。
「じゃ、吉見素子は、どうなんだ、佐々さんにとって。――彼女は、同志なのか」
 しばらく考えていて、伸子は、答えた。
「そうだと云えると思うわ――あなたよりも」
 蜂谷はおきあがっていた上体を倒して枕の上に頭をおとした。伸子は、やがて外套をきた。そして、パジャマの両腕を目の上にさしかわして顔を覆っている蜂谷を寝台の中にのこして、廊下へ出た。

        十七

 翌朝、ベルネの家の朝飯が終って、伸子が二階へあがろうとしているところへ、蜂谷良作が来た。
 彼は、伸子を見ると、
「きのうはほんとに失敬した」
 手をさし出した。
「おこって、もうパリを立つ仕度でもはじめているんじゃないかと思った」
 伸子は、だまったまま眼をしばたたいた。
「すこし歩きましょう、僕はどうしても、きみにわかっておいて貰わなければならないことがある」
「――だって、病気は?」
「かまわない――いいんです」
 雨あがりの快晴で、ベルネの家の落葉した庭も初冬の趣をふかめた。伸子と蜂谷とは、クラマールの人々がそれぞれに働いている午前の街なかをさけて、畑へ出てから森へ向う道をえらんだ。
「僕はあれから、ずっと考えていて、やっとわかったことがある。僕は、佐々さんというひとの本質を、実はきのうまでちっとも理解していなかったんだ。そういうことが、つくづくわかった」
 伸子は、三四間さきの、枯れた草道の上を見たまま歩きつづけた。
「もう決して、あんな陳腐な思いちがいなんかしない。こんどこそ、よくわかった。伸子さん、許してくれるでしょう」
 たやすく口のきけないのは、伸子も自分がわるかったと考えているからであった。きのうは、あれから帰って来て、伸子も起きていられなかった。体の下で揺れているような寝床の中で、伸子は自分への思いがけなさを鎮めかねた。どうしようとして伸子は、蜂谷の寝台のかけものの間へはいったろう。
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