道標
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:宮本百合子 

 頭に黒いキャップをかぶって部屋着をきた野沢の話しかたは、せき立たない考えの展開にしたがって、言葉を一つ一つ、それぞれの場所に置いてゆくような静かな的確さがあった。彼の日頃からのそうした話しぶりに伸子は野沢の天質の特色を感じているのだった。野沢義二の専門は哲学であったが、彼は詩作もした。フランスの有名な反戦作家のルネ・マルチネの家の私的な団欒(だんらん)に伸子をつれて行ったのも野沢であった。
「ソヴェトが、こんどの五ヵ年計画をほんとに実現できれば、たしかに大した仕事だな。――おそらく、やるんだろう」
 蜂谷良作は、チューブからねっとりした何かが押し出されて出て来るような風に話した。
「しかし、大体、世界じゅうが第一次大戦後は計画経済の方向に向ってはいるんだがね――資本主義を何とか救おうとすれば、その方向しかないのは、誰にもわかって来ているんだ」
 書物や紙ばさみや新聞がその上にちらかっている野沢の大型デスクのはじにもえているアルコール・ランプのよこで、伸子は、ズボンのポケットに両手を入れて話している蜂谷良作を見つめた。そんなのって、おかしい! 伸子の心が異議をとなえた。社会主義の計画生産と資本主義を救うための計画生産とが、どうして同じ本質の「計画生産」であり得るのだろう。
「蜂谷さん、この間、資本・労働協定(キャピタル・レーバー・パクト)の話のとき、あなたは、資本主義生産に、ほんとの合理性はあり得ないんだって教えて下さったことよ」
「それはそうさ」
 同じ姿勢のまま、はなれたテーブルのわきにいる伸子を、蜂谷は例の、眉をしかめるような見かたで見て云った。
「それはそうにちがいないんだ。しかし、実際には、資本主義の枠の内でも過渡的に、部分的に計画性をもち得る面もあるわけなんだ。資本主義だってやっぱり生きているもんだし、生きようとしてあらゆる方法を求めるのは必然なんだから、……」
「すると、それは、資本主義の生態の必然てわけなんだろうか、それとも生きようとする資本主義のたたかいの方法の一つなんだろうか」
「あとの方だね」
「そんなら、つまり改良主義じゃないの。それは『偽瞞的な社会民主主義』であるって、あなたが教えて下さる、そのものじゃないの」
 蜂谷良作は、椅子にかけている片膝をゆすりながら、ややしばらくだまっていた。それから、おもむろに云った。
「本質はそういうものであるにしろ、資本主義も自由主義時代がすぎて、計画性をもたなくちゃならなくなって来ているという事実そのものが今日の歴史の因子(ファクター)なんだ。社会主義へ発展すると云っても事実資本主義の中をぬけて行かなけりゃならないんだし、その過程でいま改良主義と云われている方法にもプラスとしての価値転換を与えるべきだと思うんだ。国によってみんな具体的な事情がちがう。したがって社会主義へ向うことは疑いないにしたって、一つ一つの過程はどこも同じコースというわけもあり得ない」
 蜂谷良作のいうことをきいているうちに、伸子は見えない精神の扉がすーとひらいて、そのすき間から、彼の考えの遠い奥が見えたように感じた。彼は伸子に資本論の講義をはじめ、アメリカの恐慌についてマルクス主義の立場から解説する。その面だけみると蜂谷はマルクス主義者のようだけれども、彼の存在の底には、しつこく絶えず触覚をうごかして、マルクス主義とは別の、何かの道を見出そうとしているものがあるらしい。そういうことができるものなのだろうか。だが現実として彼は、たしかに何かさがしている。蜂谷の生活感情を不安定にしているものの本質は、内心のごくふかいところにあるそのさぐりではないだろうか。もしそうだとすればホームシックなんかではないと彼が伸子に云ったのもうそでない。
 三人がいる古ぼけて大きい室の中にこそ静かな夜があるが、往来へ出ればごたついて喧噪なパリの裏町のがらんとしたホテルに、がたついたダブル・ベッドも気にならなそうに納っている野沢。さらにそこですごされるたのしい時間をものがたるように書物や紙のとりちらかされているデスク。彼としての秩序で統一されている野沢の生活の雰囲気においてみると、蜂谷の不安定さは、これまで伸子が気づいていたどのときよりも明瞭に性格づけられてわかるようだった。
 野沢のベッドのところへ、玉子のおかゆを運んだり、蜂谷と自分とはチーズをはさんだパンをかじってコーヒーをのんだりしながら、伸子は、モスク□の下宿にでもいるようにくつろいだ気持になった。
「来てよかったわね、おかゆだってわるくないでしょう」
「久しぶりに煮えたての熱いものをたべるっていいきもちなもんだな。体のなかが清潔になってゆくようだ」
 伸子が野沢の室でらくらくした気分なのは、その室が十分歩きまわれるだけ広くて、言葉の心配のいらない三人のひとがいて、そこにはベルネの家族の間にはさまっているときのような裏表のひどい、うざっこさがないからだけではなかった。――伸子がいない今ごろ、ベルネのうちのものは、おおっぴらに葡萄酒の瓶を食卓の上に立てて、念入りのオールドゥブルをたべているのだろう。伸子が酒類をのまないことがわかると、ベルネの一家は、食卓から全く葡萄酒をひっこめてしまった。伸子を二階からよんで食卓へつく前に、一家のものは自分たちだけで食堂のうらの台所で、食事の前半をすますらしかった。家のものは気もちよさそうにほんのりあからんだ顔をならべていて、テーブルの上には、伸子のためにほんの申しわけのかたいソーセージが前菜として出されているような食卓は、酒をのまないからと云って、伸子に親しみぶかいこころもちを与えるやりかたではなかった。
 伸子はフランシーヌの英語を通じてベルネの細君にそのことをどう云っていいかわからなかったし、蜂谷にも告げていない。今夜はベルネの食卓をぬけ出して来ている気軽さばかりでなく、蜂谷と伸子との間にある心理的なひきあいが、彼女の側として恋愛的でないことの自然さが段々会得されて来て、伸子は快活になっているのだった。
 C・G・T・Uの本部で、ゴーリキイの「小市民」の公演をすることになっていた。野沢はその切符を伸子と蜂谷とに一枚ずつくれた。マルチネの家へつれて行ってくれたのが野沢であり、C・G・T・Uの芝居の切符をくれるのが、蜂谷でなくて野沢であり、その野沢は、伸子とまるで別なところで自身の生活を統一させている。
 天体は、宇宙そのものの力で充実しているから運行しながら互にぶつかりあうことが少い。――野沢義二はそんな風に生きようとしている人なのかもしれない。伸子はそう思った。それにくらべると、蜂谷良作は、全体が柔かくてふたしかで、潰れると液汁が出る。自分はどうなのだろう。ぼんやり考えながら、メトロにゆられていた伸子は急に目がさめたように、ああ、そうだ、こんやこそ忘れずに、帰ったら、手紙を書かなければ、と思った。最近になって伸子は、マダム・ラゴンデールの稽古をことわろうと思っているのだった。パリにいるのもあと半月たらずだったから、マダム・ラゴンデールの稽古のために、観たいものの多いパリの十一月の午後のまんなかの時間をうちにいなければならないことは、伸子にとって不便になって来ている。市内から遠くはなれたクラマールまで来るマダム・ラゴンデールのためには、月謝もよけい支払われている。
 あと半月でパリにいなくなる――それは伸子にとってわかり切った計画だった。それがそんなにわかりきっていて、動かせないようにきまっているということが、伸子に奇妙に思えた。

        十一

 人々の眠りをさまさないように、伸子はそっと部屋のドアをあけて、廊下へ出た。階段のところに、やっと白みかかったばかりの初冬のつめたい光が漂っている。伸子は足音を立てないように階段をおりて食堂へはいり、そこを通りぬけて更に台所へ出た。ゆうべ、きちんと後片づけされたまま、けさはまだ誰にも触れられていない台所道具は、煉瓦じきの床の一方にどっしりとすわっている料理用炉だの、並んでぶら下って、磨かれたアルミニュームの光を放っている大小の鍋類だの、ひっそり人気ない中で、不思議に生きものめいた感じだった。鍵穴をのぞいて台所口のドアをあけている伸子のうしろから、それらの台所の生きものが無言で見はっているようで、外の踏石へのったとき、伸子はやっとほっとした。そして、いつの間にかかくれんぼでもしているように、われ知らず緊張していた自分に、声を立てないひとり笑いをした。
 おかしいこと! けさ、みんなが起きないうちに家を出て、伸子がヴェルダン見物に行くということは、ベルネ一家にゆうべから告げられていることだった。ベルネのおばあさんが、昨夜ねる前に、自慢半分、よく整頓されている台所へ伸子をつれて行って裏口の錠のあけかたを教えた。一つの秘密もないしわざだけれども、人々がそれぞれの部屋で寝しずまっている家の中で、いくつものドアをそっとあけたてしたり、静かに一人で出てゆくそのことが、どこかの部屋では誰かが目をさまして耳をすましていそうに思えるだけ、伸子の胸をかすかにどきつかせるのだった。
 門まで爪先下りの砂利道を、伸子は遠慮なく歩いて、うすら寒い明けがたの通りをサン・タントワン街の方へ下りて行った。陽が出れば、これでいい天気になるのか、それとも曇天なのか、見当のつかないつめたい早朝の往来で、タバコを吸いながらこちらへ向ってゆっくり歩いて来る蜂谷良作に出逢った。
「おはよう」
 伸子は、遠足へ出かける朝の快活さで声をかけた。
「早かったんだな。僕は、あやしいもんだと思っていたんだ」
「わたしが寝坊だから? でも、わりあいしつけがいいのよ、起きなけりゃならないときには、目をさませるんです」
 二人は、電車通りへ出て、街角のカフェーへはいった。店内はまだ暗く電燈に照らされているカウンターのところで三四人の労働者がコーヒーをのんでいた。人の眠っている時間に起きて一日の働きに出かけようとしている労働者たちの体つきには、どことなくはらいきれない眠気ののこりがあった。伸子のわきでコーヒーをのみ終った一人が、何か考えごとをしているようにゆっくりマッチをすって咥(くわ)えているタバコに火をつけ、手首をやっぱりゆっくりと動かしてそのマッチを消し、やがて、気をとり直したように、ボタンをかけた上着の裾を左右両手で下へひっぱってから、カウンターの上においてある長方形の新聞包を脇の下にはさんで出て行った。
「――いそがなければ、いけないかしら」
 蜂谷良作は、コーヒー茶碗をもっているもう一方の手首の時計をのぞいた。
「大丈夫でしょう、七時四十分までにモンパルナスへ行けばいいんだから」
 ヴェルダン行の近距離列車はモンパルナス停車場から発車した。別の線をとおって行く国際学生会館の日本留学生の人たち四人と、ひるごろヴェルダン駅前のホテルの食堂で落ちあう約束だった。この間、蜂谷と伸子とが国際学生会館へその人々を訪ねたとき、誰もまだヴェルダン見物をしていないことがわかった。ちょいちょい話には出ているんだが、四人で、六人分の自動車代を払う勇気がないんでね。そういう話だった。そのとき、伸子はすぐ、わたしをつれて行って頂けないかしら、とたのんだ。一九一七年から八年、第一次ヨーロッパ大戦の終局に、ヴェルダンという名、ソンムという名は、畏怖なしにはふれられない二つの名であった。ドイツ軍にとって、それらのところは果しない潰滅の谷を意味し、連合軍にとって、そこは、果しない犠牲の谷であった。ヴェルダンをもちこたえた、その沈勇が連合軍の勝利を決定したと語られていた。休戦のとき、はたちにならない娘として偶然ニューヨークにいあわせた伸子は、ヴェルダンという名に対して無関心でいられない感銘を与えられているのだった。
 この夏、ロンドンで数週間すごしたとき、イギリスではルドウィッヒ・レーンの「戦争」が非常によまれていて、チャーチルも「戦争」を読む、と、イギリスの政治家らしく雨傘を腕にかけたチャーチルがその本を手にもっている写真が広告につかわれたりしていた。
 親たちはつや子をつれて五階にひろい部屋をとっていた。同じホテルの七階の小部屋で、伸子は毎晩その小説の、全く新しい理性と心情とにひき入れられながら数頁ずつ読みつづけた。レーンはドイツ軍の特務曹長として、音楽と花と国歌とで戦線に送り出された兵士たちとともにフランスへ入り、マルヌの戦闘、ソンムのたたかいを経験し、自身負傷した。遂に一九一八年ドイツに革命がおこってカイザーはオランダに亡命し、彼の属していた部隊をこめてドイツの全線が壊滅する。それまでを、レーンは冷静に、即物的に、ヒューマニズムとはどういうものか、戦争とはどういうことなのか、考え直さずにはいられない透徹した筆致で描いているのだった。ヴェルダンときいて、とっさに自分も観たいと思った伸子のこころもちは、レーンの小説がそのなまなましい描写とともに、いつかのこして行った、何かの問題の疼きが、計らず目をさまさせられたからだった。
 ヴェルサイユ門からモンパルナスまで、パリを南から北へ走る午前七時の地下電車にのりこんで、伸子はしばらくの間、息のつまるようなおどろきにうたれた。車内は労働者の群でぎっしりこんでいる。それはとりたててどんな混雑もない代りにもうこの上三人のひとのはいりこむ余地はどこにもないという事務的な詰りかたで、小柄な伸子の肩は隣りに立っている労働者の荒い縞(しま)の上衣の腕の辺にぴったり押しつけられているのだった。伸子が心からおどろいたのは、車内につまってそれぞれ工場へ運ばれている労働者たちが、手に手にひろげているのは「リュマニテ」であるという発見だった。早朝のメトロにのりこんでいるこれらの人々はみんな鳥打帽をかぶっている。カラーをしていない頸筋のところを、パリの労働者らしい小粋な縞のマフラーできちんとつつんで上衣のボタンをかけている。弁当の新聞包みを脇の下にはさんで「リュマニテ」をよんでいる人々の間に、話声はなかった。轟音をたて、パリの地底を北へ北へと突進しているメトロの中で、つめこまれ、かたまって揺られている労働者たちは、無言で、ひとりひとりの生活につながる注意ぶかさで共産党の機関紙をよんでいる。そこには労働者である人々の、階級の朝の光景があるのだった。
 朝出の労働者の黒い林と、うちつづく「リュマニテ」の波の下に、背の低い伸子の体がうずまった。動揺につれて隣りの労働者がよんでいる新聞の端が伸子のベレー帽をかすめる。そのたびに伸子は、印刷されたばかりの真新しいインクの強いにおいをかぎとった。
 いつも十時ごろのメトロにのって、腹の太くなりはじめた年輩の山高帽の男たちが、云いあわせたように「人民の友(アミ・デュ・プープル)」をひろげている光景ばかりを伸子は見なれて来た。そして、「マ・タン」をよむような階級の男女は、大抵自動車をつかって居り、メトロにのるにしても一等車にのり、伸子がいつものっている並等には入って来ないことをも知っていた。だけれども、朝七時のメトロがこんなにも壮観な労働者階級の生活を満載して走っていようとは。――
 モンパルナス停車場は、パリ市内へ向ってはき出されて来る通勤人でこみあっているけれども、その時刻にパリから出てゆく人は少くて、伸子と蜂谷良作の乗った車室は、ほとんどがらあきだった。働きに出る多勢の人をつんで、いそいでやって来た汽車は、こんどはゆっくり市外へ引かえしてゆくという風に、一つの駅に停るごとにバタンと重い音を立てて狭いドアを開閉させながら、上天気になった郊外の朝景色の間をだんだん東へ、丘陵の重なるロレーヌ地方へとすすんでゆく。
 車窓には、眩(まぶ)しくない方角からの朝日がきらめいた。伸子は、窓ぎわへかけて飽かず外の景色を眺めた。蜂谷良作は、車体いっぱいの幅にはられている奥ゆきの深い板の座席の、伸子からはなれたところに脚をくんで、ポケット地図をひろげている。伸子は何か云いたそうにして、一二度蜂谷の方を見た。すがすがしい初冬の朝の景色、閑散な汽車のなかは伸子を遠足の気分にくつろがせ、ものを云いたい気持にさせている。トロカデロを長く歩いた夜以来、蜂谷良作はそれまでのように伸子のために資本論を講義し、つれだって出かけもしているが、二人きりになると、とけないぎごちなさがのこった。それは蜂谷の正直なぎごちなさからだと思われ、ときには、彼として伸子に傷つけられた感情のあることを知らしている態度かとも思われた。同じ座席にはなれてかけて、地図を見ている蜂谷良作の沈黙をやぶって自分のおしゃべりにまきこんで行くほど、伸子は天真爛漫でもないのだった。
 ヴェルダンの駅へおりて、伸子はあまり深いあたりの静けさと、その静けさにつつまれて輝いているステーションの建物の白さにおどろいた。どこからどこまで真白いステーション。それは目に馴れない宗教的な清潔さだった。ほんのちらり、ほらり駅前広場へ散ってゆく人々にまじって、伸子と蜂谷良作とは、国際学生会館からの人たちと落ち合う約束になっているホテルへ行った。小規模なそのホテルの食堂も、白と金とレースカーテンのほのかなクリーム色に飾られて、喪服の年とった婦人がひとり、むこうのはじの小食卓についている。すらりとしたその黒い姿も、クリーム色のレースのひだに柔らげられて、あたりは寂しい昼間の明るさにみちている。伸子は思わず小声で、
「しずかねえ」
と云った。
「何て、どこにも音がしないんでしょう」
 注文をききにきた給仕に、
「町はどっちの方角にあるのかね」
 蜂谷良作が訊いた。
「ムシュウ」
 給仕は、ナプキンを下げている左腕を心臓のところへあてて重々しく答えた。
「われわれのヴェルダンは、市そのものが記念塔です。ヴェルダンは、沈黙の都です。ここで暮している住民はごく少ししかいません」
 伸子たちの今いるところが、もう、その生きている者は少ししか住んでいないというヴェルダン市街のどこかなのだった。
「ほかのかたたちも来てから、みんなで御飯にした方がよくはないかしら」
「――あっちの連中の着くのはどうせ十二時すぎだし、もしすましてでもいたら却って厄介なことになる。僕らは僕らだけですませておきましょう」
 むしろ二人だけで食事をすることをいそいでいるように、蜂谷良作は、簡単な昼食を命じた。
「見物にどの位時間がかかるのかしら」
「さあ……四五時間のものだろう。しかし、佐々さんはここを見たら、きっとセダンやメッツへも行って見たいって云い出すんだろうな」
「そうお?」
 セダンもメッツも第一次大戦史のなかで有名な地名であった。
「ここから行けるの?」
「メッツは、二時間もかからないんじゃないかな、ここからなら――セダンはランスの北だから、シャロン、ね、さっき通って来た、あの辺で乗換えになるかもしれない」
 ランスといえばそこにあるフランス中世期の、美しいことで知られているサン・ルミ寺院の尖塔形が伸子に思い出された。
 それにしても、ヴェルダンというここの静けさ! どんなにしずかに話しても、その声が自分に耳だつほどしんからひっそりとして、しかも明るいヴェルダン。
 澄明な静寂を、いちどきに肉体の影でかき乱すように国際学生会館の小さい一団があらわれた。
「やあ」
「お待たせした」
「食事は?」
「すませた」
「じゃ、コーヒーの一杯ものんで、すぐ出かけるか。――みんな観るには大分時間がかかるらしい話だよ」
 ひとくちにヴェルダンとよばれているけれども、見物すべきいくつかの要塞は互に数マイルずつはなれて、国境よりの丘陵地帯に散在しているということだった。

        十二

 ヴェルダンをまもっているものは人間ではない。獅子である。これは第一次大戦の終りごろ、はげしい十ヵ月間の包囲をもちこたえていた不落のヴェルダンについて云われた言葉だった。その言葉をかたどって、ホテルから一丁ほど歩いた往来の右手にきりたった崖のようにつくられている記念碑の頂には、堂々と横(よこた)わっているライオンが置かれている。
 せまいその通りをぬけて、六人の日本人をのせたオープンの自動車が家もなければ、人通りもない道の上を快速ですすんでゆくにつれ、ヴェルダンという、かつて一万三千余の人口をもって繁栄していた都市が、今は全くの廃墟であることがわかった。ヴェルダン市役所の跡は、よく整理されている廃墟にいくらかの土台石と数本の太い迫持(せりもち)の柱列が、青空をすかして遺っているばかりだった。第一回の砲撃をうけた月日。そののちそこが野戦病院として使われていたとき蒙った最後の砲撃とそこで二百人の負傷者が殺された日と月。白いところに黒くよみやすい英語とフランス語で書かれた説明板が、空の下に残っている柱列の間に立てられているのだった。学校のあったところ。病院のあったところ。六人の日本人は、ポンペイの廃墟の間を行くように、すべてそれらの建物のあったところを辿って歩いた。天井をとばされくずされた壁の一部をのこしているところに、ぽっかりあいている窓からは、晴れた空の青さが一段と濃く目にしみる。案内する自動車の運転手のたっぷりした声が、人気ない空気の遠くまで響いた。そのあたりは砂地のような地質になっていて、その上に黒い影をうつしてゆく少人数の靴音も、高い虚空までつたわる感じだった。四十がらみの世帯もちらしい運転手は、廃墟らしい無人境を、何か弁明でもするように、
「週日はこんなに静かですが、土曜、日曜はいつもかなりの人出です。休戦記念日にはホテルも満員です」
 誰かが、
「ここを、ぞろぞろ人通りがあったんじゃ興ざめだ」
と云った。
 市の中心部であったところをぬけて、一望に遠くの丘陵を見晴らす場所へ出た。そこはヴェルダンで戦没した兵士の墓地だった。七千の墓は、白い十字架の列をそろえて、彼らが生きていたとき、鉄兜の庇を並べ、になえ銃をして整列していたままの規律で、果てしなく林立しているのだった。白い沈黙の林の彼方には陽にぬくもった山並がかすみ、墓地の境界に幾本かの糸杉がみどりを繁らし、すこし離れた右手に思いがけなく人の住んでいるらしい一軒の小家があって、その横手に白い洗濯ものが微風にふくらんでいる。あたりには、日がうつる音のきこえそうな明るい暖い寂寞がある。あたりがひろびろといい景色で、明るくて、遠くで洗濯ものが生活の光をまきながらふくらんでいることは、伸子の胸に、七千の人々の墓へのいとしさをかきたてた。伸子は、近くの十字架の一つをかがんで見た。白い十字架が、兵士の不動の姿勢をとって並べられているように、その墓標の上で第一に目につくように記されているのは、彼らの生きていたときの兵士番号であった。626・アレクサンドル・550R――フランスのために死せり(モルト・プール・ラ・フランス)。

 自動車は速力を増して、丘陵に向う一本の広い道をのぼって行った。ヴェルダン市の廃墟からは東北にあたって、ルクセンブルグの国境とアルザス地方につづく丘陵地帯に大小三十数箇所かの要塞がつくられていて、第一次大戦時代、フランスの一等要塞をなしていたのだった。
 ここが戦場であったときから十数年の星霜を経ている。それだのに、伸子たちの乗っている大型セダンがエンジンのうなりをどこか遠い空のかなたにふるわせながら疾走してゆく道路の左右は、うちつづく砲弾穴に薄(すすき)のような草が高く生えている傷だらけの地面だった。あたりに一本の立木ものこっていない。荒涼とした道がつづいて、いつとはなしみんなのこころに感傷がしのびこんだころ、行手に、黒と白の大理石で建てられた壮大な建物があらわれた。ギリシアの神殿になぞらえた納骨堂であった。柱列の間に高くはめこまれている白大理石の板に、おびただしい名前が金で象嵌(ぞうがん)されている。その一つ一つの姓名の前に、軍隊での階級がついていて、殿堂の内壁に名を記されているのは、みんな将校の身分だった。その身分の中にも階級の区別が守られている。少尉、中尉、大尉。その階級の人々は一方の壁に。少佐から大佐は他の壁の大理石板の上に。そして、少将、中将の階級の軍人の名は、その殿堂の一番天井に近い位置に、特別誰の目にもよみやすい大文字で金象嵌されているのだったが、その大文字階級の軍人の名の数は、その殿堂の大理石板の面をうずめている戦死将校の数の千分の一にも満たないかと思われた。
「このヴェルダンでは四十万人のフランス人が死にました。ドイツ軍は六十万の損害でした」
 だが、大文字の金象嵌は、殿堂の頂き近く文字のとおり暁の星のまばらさできらめいているのだった。
 殿堂の正面からは、ヴェルダン市の廃墟をふくむ豊沃なシャムパーニュの地平線が平和に展望される。納骨堂はさながらその豊沃なフランスの平野に君臨しているようだった。同時に二万の兵士をヴェルダンの風雪の中にさらしたまま、永久の閲兵式を行っているようでもある。殿堂に正面を向けて二万の白い十字架が整列しているのだった。彼らが何を考えて生き、そして何を苦しんで死んだかということについては語らず、彼らの番号と名だけを十字架の上にしるされて。
 伸子の眼の中に悲しみとはちがう涙がにじんだ。一行の人々は、天井へ仰向いて有名な将軍の名をよんでいる。一人はなれて佇んでいる伸子の唇からうめくようにロシア語がもれた。何のために(ドリヤ・チェヴォー)□ じっさい、何のために? これらの人々は死に、死んでまでものこる階級による殿堂がつくられ、風光明媚なジェネ□で、贅沢な道具だてにかこまれながら快適に軍縮会議が演じられている。
「フランスのために死せり(モルト・プール・ラ・フランス)」しかし、それはフランスの誰のためだというのだろう? フランスの政治がひとにぎりの人々パリ・オランダ銀行の重役たちに支配されていることは周知の事実である。そのパリ・オランダ銀行はドイツの軍需会社クルップ――そこでこそ一九一八年にパリを砲撃した長距離砲ベルタが製造されたクルップと、毒ガスのイーゲー染料工業と結んでいる。国際連盟(リーグ・オブ・ネーションズ)の提唱者はウイルソン大統領であった。けれども、そうしてできた連盟にアメリカは参加しないでいる。一方で国際連盟は、ソヴェト同盟の参加を拒みつづけている。あらゆる機会をうかがって、反ソヴェト十字軍が準備されている。――ふたたび戦争をしまいとする意志。番号順に整列させられているこの二万の白い十字架こそは、マクベスの城のぐるりにあった森のように動いて、シルクハットをかぶって平和を語っている人々をとり囲み、その真実を問いつめる権利をもっているのだ。

 スーヴィユの要塞。それからヴォー要塞。伸子たち一行の自動車が、ヴェルダンで最も苛烈な戦闘の行われたというドゥモン要塞への道にかわったとき、よく晴れていたその一日も終りに近く、傾いた西日に山容が黒く近く迫って見えた。朝夕のうす霜で末枯(すが)れはじめたいらくさの小道をのぼって行くと、思いがけず茶色の石でつくられた祭壇風の建造物のよこへ出た。二メートルほどの高さで斜面から数本の柱が立っている。そのかげはもうたそがれて薄暗い。そこでは三四十本の銃剣が、いらくさの間から地上に突き出ているのだった。
 銃剣は赤くさびている。この斜面に密集して進もうとしていたフランスの歩兵が、隊列のまま土の下に埋められた。
 どこか人工の加えられた記念物という感じがしなくもないその「歩兵の塹壕(ざんごう)」から一ヤードほどのぼった前方の草むらの間に、伸子は何かキラリと光って落ちているものを発見した。近よって、かがんで、いらくさの蔭に小さく光っている金色の輪のようなものの正体を見さだめたとき、震えが伸子の背筋を走った。それは、一つの銃口であった。地面にのぞいているその小さい一つ口は、そこに在った命を訴え、彼が生きていたことを訴え、だが今は死んで久しくなったことについて訴えている。伸子は、おもわずその金色の口を撫でた。金色の口は小さく、円く、あわれにかたかった。
 伸子は、しばらくそこにかがんでいた。この金の口が光っているわけがわかった。ここへ来て、いらくさの間におちているこの一つの輪を見つけたとき、おそらく、どこの国の女でも、彼女が平民の女であるならば、思わずかがんでそれを撫でずにはいられないであろう。
 ドゥモンの砲台のわきから細い裏道づたいに下ってゆくと、すすきに似た草の穂がゆらいでいる砲弾穴に、さびた鉄兜や空罐(あきかん)がころがっている。朝の霜にゆるんだまま程なくふたたび夕闇に沈みこもうとしている丘かげの、足許のあやうい赫土(あかつち)の小道の上に伸子は一つの女靴の踵の跡が、くっきりと印されているのを見た。

        十三

 伸子の瞳のなかに、ドゥモンのいらくさの間の金の小さい輪が光っている。彼女の額の上には、女靴の踵のあとが銀杏(いちょう)の葉のようについている。伸子は自分の瞳であっていつもの自分の眼ではないような視線で、運転手とその三人の仲間が近くのテーブルのまわりでカード遊びをしている光景を眺めていた。
 六人の日本人が要塞見物を終って、ヴェルダン駅前の出発点へ戻って来たのは、日がとっぷり暮れてからだった。ホテルは、昼間つかっていた正面入口わきの正食堂をしめて、横通りから入るカフェー・レストランだけあいていた。そこの一隅で六人がちょっとした夜の食事をすませた。案内役をかねた運転手も、その店の一方の隅のテーブルで食事をし、いまはタバコをくわえて男たちばかりの仲間でカード遊びをしている。
 同行の男のひとたちをタバコの煙のなかにおいて、伸子はすこしはなれた長椅子のところで脚をのばしているのだった。タイルで床をはられた店内に、あまり十分でない明りにてらされている十三四人の人間がその夜ヴェルダンで生きている人間のすべてであるようだった。
 マース河の河岸よりにひとかたまり旧ヴェルダン市の破片がのこっていて、そこに土産物を売る店があった。ごたごたしたその小店とその内に動いていた人々の姿を思い浮べることができるが、その河岸の店の灯の色と伸子がいるカフェー・レストランの内部との間には、深い沈黙の夜がひろがっている。
 生きているもののない夜の沈黙の深さは、何と独特な感じだろう。六人の日本人はみんな口かずの少い一日をすごした。一日の周覧を終って、いくらか葡萄酒のほてりが顔色にあらわれていても、男のひとたちのテーブルから笑声は立たなかった。どこでも同じことだなあ。一将功なって万骨枯る、というのはまったくだ。ドゥモンの要塞から下って来るとき、一行のうちの誰かが感じふかそうにつぶやいた。その感慨は、六人の、みんなの心に流れているのだったが、伸子には、疲労ともつかない肉体と心の苦痛の感覚があった。その感覚は、とらえどころなく伸子の内心にひろがっている激しい抗議の感情に通じた。そしてしずかにカード遊びをしている四人の男を見まもっている彼女の瞳のなかに、黒い、きつい焔をもえたたせているのだった。
 午後じゅう、ひき裂かれた戦跡をめぐって来た伸子の体と心を、いま貫いて焦(い)らだたせているのは率直な、譲歩のない生への主張だった。巨大な死への抗議だった。ヴェルダンというところは「フランスのために」という言葉で現実を欺瞞する人々の作品だと、伸子には思えて来るのだった。悲壮に、英雄的な行動の記念としてしつらえられているすさまじい破壊の跡は、戦争の罪ふかさとそれが誰のためにたたかわれたものであるかということを考えるより先に、破壊力の偉大さで人々をおどろかせる。おどろいて心をうごかされた善良な人々は涙もろくなり、戦争そのものと、それをおこす者どもがあることをいきどおり拒むよりも、そこで命をおとした人々をいとおしみ、神よ、彼らに平安を与えたまえ、と祈ってヴェルダン発の汽車につみこまれてゆくにちがいなかった。
 西日のさすドゥモン要塞のいらくさの中に光っていた小さいあの金の口は、伸子の瞳に重かった。やけついたこの思いが、「ヴェルダン記念」に予定されている効果に終らせられることを伸子は自分に許せなかった。生命感が伸子の内部にせきあげた。人生は生きるためにあるのだ。レーンの「戦争」は、奥歯をかみしめた戦争への憎悪と、それを男らしい意志で制御した観察によって書かれていた。その実感の幾分かが伸子にわかった。――
 国際学生会館の人々は、帰りも線のちがう汽車で、伸子と蜂谷良作の二人は、五十分ばかりあとから出発することになった。
「佐々さんは大分疲れているんじゃないのかな」
 蜂谷良作が、伸子のいる長椅子の方のテーブルへ移って来た。
「そうでもないわ」
「かえってすこし葡萄酒でものんで見た方がいいんじゃないか」
 伸子は首をふった。
「疲れているんじゃないのよ――ね、蜂谷さん、わたし考えていることがあるの」
「云い給えよ。きみは、きょう、まるで口をきかなかったみたいだ」
「わたしが考えているのはね、モスク□がああして、うるさいほど帝国主義戦争の罪悪、帝国主義戦争の欺瞞と云っているのは、ほんとだった、ということなの」
「…………」
「わたしが、ときどき、どうしてこんなにくりかえすんだろう、もうわかっているのに、と思ったりしたのは、生意気至極のことだったと、わかったの」
 蜂谷良作は、だまったまま、身じろぎをして灰皿の上でタバコをもみ消した。
「そしてね、もう一つわかったのはね、なぜソヴェトでは今でもレーニン廟へ参る人が絶えないかということ」
 ロンドンの夏の日曜日、セント・ポール寺院の、その一段ごとに失業者が鈴なりになっていた正面大階段を見あげる石だたみの広場のはずれに、第一次大戦で戦歿したロンドン市民の記念塔がたっていた。「祖国のために死せる人々の名誉のために」と鋳つけられた記念塔は、セント・ポールに棲んでいるどっさりの鳩の糞をあびて、いかにもきたなかった。ロンドンの晴れた日曜日の風景の中で鳩の糞にまびれていたその記念塔を伸子は思い出した。生きている人は忙しい。痛切に社会のエゴイズムを感じた、その感じも思い出される。伸子のロンドン風景をつづっているのは利根亮輔の怜悧な黒い二つの眼と気のきいた形の鼻ひげの下で伸子に向ってほほ笑んだ独特の微笑である。もしも彼が、こんやこのヴェルダンでおそろしく深い沈黙の中にカルタをしている数人の人間を見ていたとしても、彼はリッチモンド公園の鹿の遊んでいる草原によこたわって、伸子に云ったようにモスク□のレーニン廟をああ皮肉に批評することができただろうか。利根亮輔は云った。レーニン廟は未開なロシア民衆の聖物崇拝を、共産主義に利用したものだ、と。民衆はそのことを意識していないであろう。民衆がその程度の知的レベルだから、ロシアではソヴェト政体がなりたっているのだ、と。
 伸子はそのとき、民衆を無知なものとしていう利根亮輔の言葉をその一人としての自分に加えられた侮辱のように感じた。そして彼と云いあらそった――彼をその一人として自分を知的優越者だと認めている人々の、ソヴェトは未開だ、ときめて置こうとする偏見に反抗した。利根には、一生、民衆の歴史の扉を生に向って開いた指導者への感動というようなものは実感されないのかもしれない。――彼はおそらく伸子より幾倍か聰明であるのだろう。しかし彼の聰明さは批評しかしない聰明さのようだ。そこに伸子が感じたいらだたしさがあった。いらだたしさは、現在、タイルばりの床に明るくない光のさしている夜のヴェルダンのカフェーで、レザー張りの長椅子の上にいる伸子の感情のどこかに通じている。一日の戦跡周覧の果てに感じている広汎な根ぶかくゆれる抗議、それがどのようにあらわされるのかわからないためにおこっている内部の圧力の高まり。
 沈黙の裡に時々トランプの投げられる音がしている。
 伸子が不意に、
「わたし、今夜ここへ泊ってみたい」
と云った。蜂谷良作は、急にどこかを小突かれたように目をあげて伸子を見た。
「一つぐらい、あいた部屋あるでしょう?」
 伸子は、今夜の異様に苦しく、反抗にかりたてられるような激情をそのまま、沈黙のヴェルダンに過してみたかった。眠れない夜ならば、その眠れないひと夜というものを、ヴェルダンで経験してみたいのだった。
「――ここへ泊るって――」
 そういう蜂谷の額の上に、ぼんやりした混乱のあらわれているのに伸子の視線がひかれた。
「あなたは、お帰りになって下すっていいのよ、もちろん」
 ながいこと黙っていて、蜂谷良作は決論するように、
「きょうは帰りましょう」
と云った。――きょうは? このヴェルダンへ二度来ることは考えられない。
「帰りましょう」
 一層決論をつよめるように蜂谷はくりかえした。
「――帰った方がいい」
「ベルネのうちのひとたちに対して?」
 その心づかいなら、今夜クラマールへ帰ってから、蜂谷がちょっとベルネの家へまわって伸子が泊ることを知らせてくれたらそれでいいと、伸子は考えているのだった。しかし、蜂谷は、がんこに伸子が一人でヴェルダンにのころうとするのをさえぎった。
「僕には、佐々さんをひとりここへおいて帰るなんて、出来ないことなんだ」
 もうあと十分でパリへ帰る列車が出るというとき、
「さ」
 蜂谷が伸子のハンド・バッグをとりあげてわたした。
「出かけましょう」
 旅行用のいくらか大型のそのハンド・バッグには、マース河岸の土産屋で伸子がベルネの細君のために買った銀の記念スプーンがはいっているのだった。

 朝来たと同じ道を、パリへ向って進んでゆくのだけれども、沿線の風景が濃い闇に包まれている夜ふけの汽車は、いかにもカタリコトリと寂しかった。一つの箱に乗客もまばらで、伸子たちのいる仕切りは、伸子と蜂谷きりだった。坐席にかけている人の背たけ越しにベンチの背板がずっと高くつけられているから、外の景色を見ることの出来ない夜汽車で伸子の視野は古びた茶色の板仕切りにはばまれて何となし家畜運搬車にはいっているような感じがするのだった。
「あら、この汽車! ランプよ」
 車内がひどくうす暗く思えたわけがわかった。丁度伸子たちがかけている後の羽目の高いところにガラスのおおいのついたランプがおかれている。同じ箱のあっちの端にも同じあかりがついているが、その光りでものを読むことは不可能だった。
 ひろい闇の中に小さく電燈をきらめかせているいくつかのステーションをすぎたとき、伸子が、
「すこし寒くなって来たようじゃない?」
と云った。蜂谷が自分の合外套をぬいで、伸子に着せかけようとした。
「それじゃあなたが風邪をひくわ」
「僕はいいんだ」
「ほんとに?」
 蜂谷はうなずいた。
「じゃ、かして」
 その外套を羽織って伸子は窓とうしろの羽目の隅に肩をよせかけるようにして目をつぶった。
「眠るとほんとに風邪をひくから駄目だ」
「眠りゃしないわ」
 背中は少しぞくぞくするようなのに、頭のしんはあつくて、それは、一日じゅうオープンの自動車にのって風をつっきって走ったからだ、と伸子は思った。
「気分がわるい?」
「いいえ」
 シャロンのステーションは、この地域でもいく分大きい町らしく、明るい駅頭に乗り降りする人影が黒く動いたが、伸子たちの車室へは入って来る乗客も降りてゆくものもなかった。もしかすると、伸子たちのところからは見えない仕切板のあっち側には、誰ものっていないのかもしれなかった。
「何だか僕もすこし寒くなって来たみたいだ。もっと近くに坐ろうよ」
「この汽車ったら、あんまり、がらあきなんだもの……」
 伸子は、窓ぎわの隅からはなれて、ベンチのまんなかにいる蜂谷のわきにかけ直した。
 夜に響く単調な車輪の音にひきこまれたような沈黙を破って蜂谷がぽつんときいた。
「佐々さん、ほんとに十一月いっぱいでパリをひきあげるつもりなのかな」
「そうよ」
「――ぜひもう一遍、どこか近いところへ行きましょう。ね、こんなに長い汽車にのらないでいいところへ」
「どんなところ?」
「そりゃ、いろいろある」
「だって、わたしたち、どっちもろくにお金をもってないくせに」
 伸子は、笑いだした。
「わたし、モスク□へ帰る旅費だけは、大事にとっておくんだから」
 眉をしかめるような斜かいの見かたで、蜂谷は、彼のかたわらに笑っている伸子を見た。
「僕は、きょうだって、外の連中と来たのは失敗だったと思っていたんだ」
「どうして?」
 ぼんやりしていた伸子の注意がめざまされた。伸子は、はっきりした声の調子にもどった。
「丁度六人で、きっちり、都合がよかったと思うわ」
「そんなことじゃない……佐々さんは、きょうは、いつものきみじゃあなかった」
 たしかに、ヴェルダンの一日、伸子は口数が少なかった。伸子の受けた感銘がそうさせたのだった。
「それは、わたしが感じたことは、言葉にすると、どれもこれもセンチメンタルみたいだったから……」
「ほかの連中がいなけりゃ、佐々さんはもっと自由だったにちがいなかったんだ。僕はそれが残念だというんだ」
 伸子にものをいうひまを与えず、
「僕には、大体わからないんだ。伸子さんともあろうひとが、どうして、そんなにいつもセンチメンタルになることをおそれていなけりゃならないのか」
 蜂谷の云いかたは腹をたてているように、圧しつけられた声だった。
「センチメンタルであるにしたって、それは感情の真実であり得る」
「それはそうね。――でも……感情の真実であっても、情熱の真実とはちがうことだってあるわ。感情と情熱とはちがうんだもの――感情を情熱といっしょくたにするのが、いやなの。――」
「僕にそんな区別はない」
「あら!――変だ」
 云いかけた伸子の腕が並んでかけている蜂谷の手にとらえられた。
「――こんなひとが――もうじき行ってしまう」
 体をしざらせようとして蜂谷の方へ向いた伸子の顔の上に、蜂谷の重い頭が急に落ちかかって来た。息をつめて仰向かげんにすこし開いていた伸子の二つの唇の上に、蜂谷の唇が重なった。そしてきつく圧しつけられたとき、蜂谷の唇は不意で全くうけみでいる伸子の歯にふれた。悲しそうに、ゆっくり蜂谷の唇がどいた。
「ああ。伸子さんは、接吻のしようもしらない!」
 ひき裂かれるような苦痛の感覚と屈辱の感覚が、伸子をさし貫いた。伸子は低くうめいた。蜂谷の頭が伸子の手の間にとらえられた。そして、伸子の顔の上へひき下げられた。

        十四

 まったく不安定なものになった蜂谷良作とのつきあいに伸子は抵抗しないで、自分をただよわせた。
 二人の生活の外見には変化がなかった。ベルネの家の食堂へ蜂谷が来て、そこのテーブルで「資本論」を講義し、つれだって散歩し、市中で映画や芝居を観た夜は、十二時すぎてねしずまったクラマールの通りに男女づれの足音がきこえ、やがて伸子の靴音だけがベルネの門から玄関までの小砂利道に響いて来る。
 そのようにして流れる時間のうちに、川の水が何かにあたって思いがけない時、白い波の小さい、しぶきをあげて行くように、伸子と蜂谷との間に短いはげしいもつれがおこった。
「だめよ、ね、ほんとにだめ!」
 伸子は蜂谷の顔をさけ、ときには、手で蜂谷の顔を柔かくおしのけながら、自分の顔をそむけたり、暫くの間離れて歩いたりした。蜂谷良作はそういうとき、伸子を名でよんだり姓でよんだりした。
「あんまり無理だ。いっぺんきりなんて――それなら、僕がはじめて接吻したとき、どうして君は、自分からしかえしたんだろう」
 あの夜の瞬間の感情の激発を伸子は蜂谷にどうわからせることができただろう。伸子さんは、接吻のしようもしらない! そのひとことがあれほどひどく伸子をさしつらぬき、そのために伸子は火花になって蜂谷の唇をとらえた。蜂谷に向ってほとんどとびかかったと言えるように動いたせつな、しんから傷けられ怒っていた自分の感情を伸子は忘れることができない。それは女の動物が襲ってゆくときの感情だった。あれが、接吻だと云えるだろうか。
 伸子は、考えこんでいるためにふだんよりちんまりした顔つきで蜂谷を見た。
「あれは、やけどだったんだわ。だからくりかえしはないの」
「や、け、ど? そんなことを云って――」
 二人がそのとき歩いていたクラマールの森と町との間にある畑道の上で、蜂谷は立ちどまった。
「僕はそう思わない。――僕が思わないんじゃなくて、実際にそんなもんじゃない。――佐々さん、何をおそれているんだろう、僕にはわからない」
 蜂谷は伸子の腕をとって歩きはじめた。
「佐々さんは全く自由なんじゃないか」
「そうよ」
 自分の心を見張っているように、伏目になって歩きながら、ゆっくりした二人の歩調にあわせて伸子が答えた。
「それは、わたしは自由だわ……だけれど、わからないことは、やっぱりわからない」
「何がわからなくちゃならないのさ」
「――わたしにはわたしの気持。あなたには、あなたのきもち」
「そんなことは、もうわかりすぎてる。僕は毎日毎日考えつづけたんだ」
「――なんて?」
「佐々さん、どうしてきみはそんなにいつものきみでなくなろうとしているんだろう」
 恋とはちがう衝動、むしろ憎みに近かったとっさのふるまいが自分と蜂谷との間にある――接吻という形にあらわされて――。蜂谷良作に会うことを拒まず、肩を抱かれるようにして田舎道を歩いているけれども、伸子の心のどこかはいつも目を明いていて、これは恋でない、と云っている。ああ、伸子さんは接吻のしようもしらない! そのひとことが、あんなに自分を猛々(たけだけ)しくした。蜂谷に深い傷をつけようとするように唇を圧しつけさせた――そこに伸子のおどろきがある。わからなさがある。ヴェルダンの夜、死の都のうす暗いカフェーで、あのように自分を苦しくしていた抗議の感情、欺瞞にいきどおっていた感情、それらの激情の底まで浸りたいと願っていた感情――ヴェルダンへ泊りたいと云った伸子のこころもちと、それをきいてひそかにあわてた表情になった蜂谷良作の気持との間に、くいちがいがあった。蜂谷良作と伸子の要求はくいちがいのまま、その流れを流れて、瀬におちかかろうとしている。男と女の瀬に――。だけれども、これが恋だろうか。愛でない恋――伸子には、わからない。
 蜂谷良作が、感情の投げ繩を投げることにだけ熱中していて、しきりに繩を投げながらも動こうとしないで立っている自身の位置――彼の生活と思想がたっているところ――に目を向けないでいることも、伸子をわからなくする。しかし、蜂谷の投げ繩は伸子の体すれすれにとどいたし、蜂谷の知らない瞬間に全く伸子の感覚をとらえていることがある。たとえばこんなとき――
 ベルネの食堂のテーブルで、例の煖炉よりの側に蜂谷良作が、ドアよりに伸子がかけておきまりの勉強がはじまっている。蜂谷はもち前のチューブから圧し出す声で伸子にノートさせる。
「先ずロビンソンをその島に出現させよう。ロビンソンは本来質素な男であったとは云え、充足させるべき諸種の欲望を有し、したがって種々な有用労働をしなければならなかった。彼は道具や什器(じゅうき)をつくったり、騾馬(らば)を馴らしたり、漁をしたり、狩をしたりせねばならなかったのである」
 ああ、これが有名なロビンソン物語――伸子は鉛筆を働かせながらそう思った。利根亮輔をロンドンで、大英博物館図書館にかよわせていたロビンソン物語――
「彼の生産的機能は種々異っていたとは云え、いずれも同一なるロビンソンの相異った活動形態にすぎず、換言すれば人間労働の相異った様式にすぎないことは、彼の知るところであった」
 それは当然そうであろう。ノートの手を止めず伸子はうなずく。難破船から時計、帳簿、インク、パンなどを救い出すことのできたロビンソンは、やがて種々な生産物の一定量を得るについて平均的に必要な労働時間を示す表をつけはじめるようになった。ロビンソンは、彼自身の必要のために働く時間を、それぞれの働きの間にわりふらなければならず、
「いずれの機能が彼の全活動の上により大なる範囲をしめ、又いずれがより小なる範囲を占めるかは、所期の利用上の効果を得るにあって、うちかつべき困難の大小にかかるものであった」
 何とおそろしく四角ばった云いまわしだろう!
「ロビンソンと彼自身の手で造り出された富を構成する諸物件との間における一切の関係はこの場合きわめて単純明瞭である」
 伸子の理解の段階にあえて必要でない引用の固有名詞をとばして、蜂谷良作はつづける。
「しかも価値決定の上のあらゆる本質的要素は、この関係の中にふくまれているのである。今、ロビンソンの明るい島から陰暗な中世ヨーロッパに目を転じよう。ここには独立した人間はいないで――」
 伸子はノートから頭をあげた。
「ちょっと――ごめんなさい。ロビンソンはそれでおしまい? いきなり中世ヨーロッパとなるのかしら」
 中断されて、蜂谷は手にもっているテキストへ視線をおとし、伸子を見ずに答える。
「それでいいんだ」
「『金曜日(フライデー)』は出て来ないの?」
 伸子は、こちらを見ようとしない蜂谷の顔を見て訊いている。
「価値の原形を分析しているこの部分は、フライデーの出現からきりはなして扱われているんだ」
 視線をさけ、まじめな表情で答えている蜂谷の顔に向って、突然伸子の感覚がかきたてられた。その唇にひきつけられて。――だが、蜂谷は心づかない。伸子がどんな渦巻にまきこまれかかったか。――伸子はノートの上に瞼をおとし、自分の動悸とともに蜂谷の声を、すこし遠いところからきく。
「いかなる人も農奴と領主、家臣と藩主、俗人と僧侶という風に相倚存――倚(き)存の倚(き)は倚(よ)るという字ね、ニンベンの――相倚存していることが見出される」

 クラマールの朝と夜は冬らしい寒さになって来た。
「お早う(ボン・ジュール)、マドモアゼル」
と、朝の八時すぎに伸子の室のドアをノックしてはいって来るベルネのお婆さんの手はますます赤く、彼女は煖炉の火種を運んで来た。
 伸子がまだ寝台にいるわきのジュータンの上へ大前かけの膝をついて、彼女は上手に火をおこした。ベルネの家庭では、朝と夜しか煖炉の火をこしらえなかった。ベルネの家の煖炉を見て伸子はパリの屋根屋根に林立している煙突のどれもが細いわけをのみこんだ。パリの人々は、豆炭を煖炉につかっているのだった。豆炭の熱は、カッときつく顔ばかりのぼせるようで、こころもちがわるかった。煖炉の豆炭がすっかりおこるまで、皮膚をさすような匂いがなくなるまで、伸子は洗面所の窓ぎわで新聞を見ていることがある。
 アメリカの恐慌は、十一月にはいり、月の半ばに進んでも、たしかな安定は見出していなかった。これまでウォール街で働かせられていたヨーロッパの金が、大量に逆流して、ヨーロッパへ戻って来つつあった。ヨーロッパでアメリカの資本輸出とはりあうことのできるのはイギリスとフランスだけであることが明瞭だった。ベルネの一家は恐慌の打撃にたえたフランスの手堅さに満足して、食卓で息子のジャックをはげましながら洗濯工場の燃料泥棒をつかまえなければならないことについて相談している。
 伸子の生活は、ベルネのおばあさんやアルベール夫婦にとって興味をひく特別の何もないようだった。ヴェルダンから伸子がおみやげに買ってかえった記念スプーンを、
「――銀ですよ!」
 おばあさんが目顔でうなずいて、
「御親切にね(トレ・ジャンティ)」
とあらためて伸子に礼を云いながら、娘であるベルネの細君にわたし、細君はそれをベルネの主人にまわして一同が見たほかには。
 だがそんなベルネの一家のなかで、十六歳のフランシーヌのそぶりは、伸子に何かを感じさせた。
 伸子はある午後、クラマールに住んでいる画家の柴垣とモンパルナスの美術書籍の店と、いくつかの画廊を見に行く約束をしていた。その店にマチスのデッサン集があった。そのデッサン集を伸子は見飽かなかった。マチス自筆の署名いりで、番号のはいった限定版であった。パリを出発する準備にいくらかずつ画集をあつめていた伸子は、他の三四冊あきらめてもそのデッサン集がほしくて、柴垣にも見てもらいたかった。
 約束の午後、どうしたわけか柴垣は誘いに来なかった。待ちぼけになった伸子は、日ぐれがたモスク□へ出す手紙をポストしに町へ行って、思いがけず郵便局のわきで柴垣に出会った。
「あら」
 柴垣と伸子とは互に目を大きくして眺めあった。
「きょう、御都合がわるかったの?」
「いいや」
 いぶかしそうに、そしてしらべるように柴垣は伸子を上下に見た。
「あなた午前中から留守だったんじゃなかったんですか」
「いいえ」
「うちにいたんですか?」
「いたわ。あなたがいらっしゃらないから、これを書いたわ」
 素子あての厚い角封筒をふってみせた。
「ふーん」
 考える目つきで伸子を見つめながら、柴垣は片腕を大きく肩からふって指をはじき鳴らした。
「いっぱい、くったかな」
 約束の時間にベルネの玄関へ行ったら出て来たのはフランシーヌで、伸子はひる前から出かけていると告げたのだそうだった。二階にいて伸子は知らなかった。
「ちょいとしたことをやるんだな、あの娘。――僕はそうとは思わないでね、急に何かの都合で、あなたの予定が変更されることもあり得るんだろう、と思ってね」
 ほほ笑みとも云えないしわが、柴垣の口辺によった。このごろ蜂谷良作とばかり歩いている伸子への感想が、総括してそこに意味されているのだった。
「おめにかかってよかったわね」
 強いて何も説明しないが、誤解をのぞんでいない者の表情で伸子が云った。
「どなたとでも、お約束はお約束よ」
「いや、それで僕もさっぱりしましたよ」
 伸子はベルネの家の方へ柴垣は郵便局のある電車通りを先へ、わかれた。
 その秋の展覧会(サロン・ドオトンヌ)には、パリで客死した磯崎恭介の作品と遺骨をつれて日本へ帰って行った須美子の作品が入選している。ほかに、石井柏亭の「果樹園」が二科から特別出品されて注目をひいていた。アマンジャンのシャボン箱の絵のようにただきれいな翡翠(ひすい)色と瑠璃(るり)色の効果を重ねた婦人像と同じ壁の一方にかけられて「果樹園」は現代古典のおもむきを示した。日本の展覧会場でその絵を見たとき、伸子は「果樹園」の画面に線がこれほど特色のある役割をもっているとは心づかなかった。サロンの出品画が多くが、気がきいて警抜な色の効果、コムポジシォンなどばかりを目ざしているので、「果樹園」の正統派のつまらなさが面白かった。そのころパリに滞在していた日本のある漫画家も、支那靴をはいた足で鬼を踏まえている鍾馗(しょうき)の大幅絹本を出品したりもしている。その墨絵は伸子に五月節句の贈りもののようにしか見えなかった。
 もう一度、みんなで観ておこうという話がクラマールに住む日本の人々の間にきまった。
 その午後、伸子は早すぎると思ったが、定刻より三十分も早く、物置の二階をアトリエにしている画家の亀田夫妻のところへ行った。蜂谷良作も来るはずだった。それで伸子も早めに来たと思われはしまいか。伸子はめずらしくすこし気をひけてアトリエをあけたら、意外にも、そこには一座の顔ぶれがそろっていたのだった。
「みなさん、たいへんお早かったのね」
「ええ。ですから、お迎えにあがったんですわ」
 絹の外出着の上からはでな色模様のゴム製エプロンをかけた亀田の細君が若々しくさえずるような調子で料理兼用のストーヴのわきから伸子に云った。
「おもったより、早くいらっしゃれてよかったわ、ねえ、あなた」
「うん」
 むかえに行ったって――誰が、誰を、迎えに行ったのだろう――伸子は誰からも迎えなどうけなかった。まだ早いかな、と白い猿の腕にかけておいた時計を見ながら考え考え出かけて来たのだった。
「いやですわ、伸子さんたら!」
 短い刈りあげにしているおかっぱの頭を愛嬌よくかしげて亀田の細君は笑った。
「フランシーヌのおことづてで、お約束の時間よりも早くは来られないっておっしゃったじゃない?」
「わたしが?」
 あんまり思いがけなくて、伸子は茶の冬外套を着ている自分の胸のところをおさえた。
「しらないことよ」
 格子縞の毛布のひろげられている長椅子にねころがっていた柴垣が、
「じゃ、例のてだ」
 パイプの灰をはたきおとしながら、塩から声で云った。
「彼女はこのごろ、何かのイマージュにつかれているらしいよ。僕も経験ずみだが――イマージュが答えさせるんだ」
「いやだ――どういうことなの?」
「いいさ、いいさ」
 良人である画家の亀田が細君をおちつかせるように彼女の肩をたたきながらあっさり云った。
「きみが行ったことはたしかなんだし、伸子さんも早く見えたんだから、それでもういいさ」
 細君の好奇心は消えないで、伸子とつれだって電車の停留場へ行く道、彼女は低めた声できいた。
「ね、伸子さん、教えて下さってもよくはない? わたし気味がわるいわ、イマージュなんて……」
「わたしにもよくわからないんだけれど、蜂谷さんがベルネのところにいらしたときは柴垣さんや皆さん、ちょくちょくあすこへ遊びにいらしてたんじゃないの?」
「ええ、宅もフランシーヌを描いたりしていましたわ」
「わたしが社交的でないからフランシーヌ淋しいんでしょう……」
 細君は、ちょっと考えるようにして、
「ああ、ね。若い娘さんとしてはそうかもしれないわね」
 そのまま数歩行って、彼女は急に、
「だって、あの娘さん、まだ子供じゃありませんか、柄こそ大きいけれど……こっちのひと、早熟だわ」
 抗議をふくんで、体にあわせては太いような声を出した。それで伸子は感じるのだった。柴垣や亀田たちは、もしかしたら細君をつれてよりもより度々、男たちだけでフランシーヌを訪問したこともあったのだろうと。
 フランシーヌの小さい細工を蜂谷良作は不快がった。
「ああいう陰性でしめっぽい娘は、にがてだ。困るな、どうも。――混乱ばかりおこって」

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:1695 KB

担当:undef