道標
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著者名:宮本百合子 

「――わたしが読めないからだわ。眼と足とで見るしかないからよ」
「そうばかりじゃないな。――部屋をみて歩いていたときね、あのとき僕は気がついたんだ」
 伸子は、ぼんやり、
「そうお」
と答えた。クラマールへ引越してゆくことがきまる前、伸子の部屋さがしを蜂谷がたすけた。二人づれで歩いて、いくところ見ても、伸子の住めるような場所が見つからなかったとき、伸子は、蜂谷をいつまでもきりのない仕事にひっぱっておいてはわるいと思って彼のたすけをことわろうとしたことがあった。そのとき、蜂谷良作は伸子のことわろうとしている意味をさぐるように伸子をみて、ゆっくりと、
「僕は、あなたのように事務一点ばりには考えていないんだがな」
と云った。蜂谷のその言葉を、伸子はその日の会話の全体のなかへ流しこみ、とかしてしまった。いまも、伸子は、忘れていないそのときの蜂谷の言葉を忘れたように、そうお、と答えたぎりで、歩いているのだった。

 ソヴェト映画の「アジアの嵐」を見おわって、伸子と蜂谷良作が往来へ出たのは、その日の宵も、やがて九時近い時刻だった。
「ああ、おもしろかった!」
 映画館内の空気から解放されると、伸子は、秋の外套をきている体をのばすようにして歩きながら云った。
「面白かったわ。『アジアの嵐』をああいう風にカットしなければ、フランスでは観せられないのねえ。何てお気の毒!」
「フランスは植民地問題じゃ、いつも神経質なんだ。――よく蒙古独立なんか扱ったものを公開したと云えるぐらいだ」
 蜂谷良作が、「アジアの嵐」へ伸子を誘ったのであったが、スクリーンを見てゆくうちに、伸子は、いくども、
「あら。また飛ばしちゃった!」
 並んでかけている蜂谷に注意した。エイゼンシュタインが製作した「アジアの嵐」は、蒙古人民が植民地としての隷属に反抗して、独立のために奮起する物語がテーマだった。「十月(オクチャーブリ)」につぐエイゼンシュタインの代表作と云われていて、モスク□第一ソヴキノ映画館で伸子がそれを観たとき、彼一流の辛辣な諷刺が、画面をきもちよくひきしめていた。西洋式の寝室の大鏡の前に立って、どこにも美しさのない大柄な老夫人が、小間使にコーセットの紐をしめさせている。鏡の中の自分を見つめながら、もっとかたく、もっと細く、と口やかましく指図しながら。するとそのとなりの室のこれも大鏡の前で、大きい髭をはねあげた老紳士が、侍僕あいてに、だぶつく腹に黒繻子の布を巻きつけて威厳ある容姿をこしらえている。「野蛮な蒙古」のわるくちを云いかわしながら、ダライラマの謁見式に出かけるために、身仕度をしている外国使節夫妻の寝室の情景は、一方、かれらに観せるために準備中のラマの踊りの原始的でありグロテスクである扮装の次第とたくみに対置されていて、観衆は、ヨーロッパの野蛮、について感銘をうけずにいられなかった。
 シャンゼリゼー映画館のふっくりした坐席で、場内のうすら明りに緊張した顔をてらされながらスクリーンを観ている伸子の唇から、
「あ、とばしちゃった!」
 鋭いささやきが洩れたのは、「アジアの嵐」の印象づよいその部分が、完全にカットされてしまったからだった。帝国主義のもつ未開とのコントラストを消されてしまったラマの踊りは、ただ未開アジアの異国風景だった。「アジアの嵐」という一篇の物語の筋は、場面場面の変化につれてのみこめるけれども、エイゼンシュタインが、ひとこま、ひとこまを、強烈に構成して、観衆の実感を湧き立たせたアジアの嵐への呼びかけは、全く気をぬかれてしまっているのだった。
 伸子は、蜂谷良作に向って熱心に、パリの「アジアの嵐」ではカットされている部分の面白さや意味について話すのだった。
「エイゼンシュタインは、『十月(オクチャーブリ)』でも、そういう手法をつかっているんです。パッ、パッと、ツァーの写真と日本のおかめの面なんかが、かわりばんこに出たりするの。すこし観念的みたいなところがあるけれども、でも、雄弁よ。あんなに切りこまざいた『アジアの嵐』では、まるでアジアに嵐がおこって来る必然性を消しちまってあるんだもの――自然現象みたいに、まるで、ひとりでそんなことが蒙古では起るというお話みたいにごまかしてあるわ、民族の独立ということを――」
 話の内容にふさわしい元気な、比較的速い足どりをそろえて、二人はコンコード広場をセイヌ河にかかった橋の方へつっきっているところだった。
「しかしまあ、パリでは、ああいうものも見られるだけいいとするのさ」
 蜂谷良作の分別くさい云いかたが、ふと伸子の反駁を誘った。
「……蜂谷さんのような、学者っていうものは、何にでもあんまり感動しない習慣?」
「そんなことあるもんか」
「そうかしら。――わたしからみると、あなたがたは、何となし、自分にわかったことの範囲でおちついているみたいなんだけど」
「たとえば、どういう場合?」
「いまみたいな場合。――あなたは、肝心のところがカットされていても、ともかくここで『アジアの嵐』が見られればまあいいって、おっしゃるでしょう? わたしなら、そういうとき、きっとどうかしてカットのないのが見たい、と思うと思うわ。カットは、映画にされているばかりじゃないんだもの。そして、その気になれば、見られるんだわ」
「どういう風にして?」
 モスク□へ行ってみればいいのだ。けれども、伸子はそのことについてはだまった。二年以上もパリにいる蜂谷良作が、まじめにそれを希望すれば、モスク□へ行けないわけはなかっただろう。しかし、伸子がベルリンであった日本の医学者たちがそうであり、ロンドンにいる利根亮輔がそうであるように、蜂谷良作も、絶えずソヴェト同盟というものの存在を意識におきながら、じかに自分でそこの生活にふれることは微妙にさけて来ている人たちの一人なのだった。
「わたしは、こんどの恐慌についても感動なしにいられない。アメリカの繁栄は一九三〇年を包括しないであろう。そう云ったとき、世界の随分たくさんの人たちがフンと思ったろうと思うんです。また、はじまったって。でも、いまは現実でそれが証明されているわ。本質をつかむってことは、ほんとに凄いとわたしは思うの。実につよい、云うに云えない美しさがあるわ」
 足早に歩きながら伸子は、ベレーをかぶったおかっぱの頸すじをちょいとちぢめるようにした。
「――もっとも、ちょっと、こわくもあるけれども……」
 しばらく黙って歩いてゆく二人の靴音がセイヌの河岸通りの静かな夜に響いた。
「僕は、このごろになってちょくちょく思うんだ。……佐々さんに会うのがおそすぎた」
 伸子は思わず、並んで歩いている蜂谷良作の体温が急に自分に近くなったように感じた。
「僕が佐々さんから、どんなに新鮮にされているか、とても佐々さんにはわからないだろうな」
「ものの見かたで?」
「そうばかりじゃなく、万事のやりかたで、……こないだ、クラマールの往来のまんなかで、佐々さんはソヴェトの切手を僕にくれたろう、ああいうやりかた」
 蜂谷の会話の調子にひきこまれそうになってゆく自分と、それを知って抵抗する自分とを、伸子は同時に一つ自分のうちに感じた。
「感傷的な旅行(センチメンタル・ジャーニー)」
 伸子はそう思った。そして歩いてゆく夜の街の灯かげを黒いソフトのふちで遮られている蜂谷良作の横顔を見た。蜂谷のぽってりとして、不明確だけれども正直そうな表情を見たら、伸子はかえって気持が自由になり、責任感のようなものを目ざまされた。
「蜂谷さん、少しホームシックなのかもしれないことよ」
 ほんとに伸子はそう思った。
「そろそろ、メトロへのりましょうよ。その方が無事よ」
「僕は無事でなんかなくていいんだ」
「だめ! そんな駄々っ子みたいなこと云って……」
 伸子は、こだわりの去った笑いかたをした。すると蜂谷良作は、しんからむっとしたような顔を伸子に向けた。
「僕は、決してホームシックなんかじゃない。僕の結婚生活って、そういうんじゃないんだ」
 じゃあ、どういうの? 誘われそうになる言葉を、伸子は自制した。日本に暮している蜂谷良作の妻は小児科の女医だった。蜂谷は、いろいろの場合、細君と子供の生活は、彼にかかわりなく自立してゆける方がいいと考えて、そのひとと結婚した。少くとも進歩的な立場で経済学なんかをやってゆこうとすれば、一生のうちに、いつ、どんなことで失職するかもしれない。日本のようなところではもっとわるいことさえ起るかもしれない。それでもいいという人とでなければ、いざというとき、財産もない自分に結婚なんかできない。いつだったか伸子は蜂谷良作からそういう話を、きいたことがあった。
「トミ子は、しっかりものかもしれないけれど、時によるとやりきれないぐらい経済主義なんだ」
「もしそうなら、それはあなたの責任じゃない?」
 伸子は、蜂谷良作のわきからはなれ、彼と足をあわせるのをやめて歩きだした。
「そういう話はおやめにしましょうよ――賛成して頂戴」
「…………」
「こんなこと話していつまでも歩いているの、なんだかいや」
 デピュテの角で地下電車の停車場へゆっくり石段を降りてゆきながら、伸子は、
「蜂谷さん、約束して」
と云った。
「わたしたち、センチメンタルにならないって約束しましょうよ、その方がいいわ」
 電車が出て行ったばかりのところと見えて、プラットフォームにはまばらに乗客が待っている。蜂谷良作は伸子の前を往ったり来たりした。
「こんやの佐々さんは、いやに何でも避けるんだなあ」
 彼は伸子の前にぴったり立ちどまった。
「僕は第一ホームシックで云っているんじゃない。それから、あなたのいうようにセンチメンタルになっているんでもない。それだけは承認して下さい」
「――むずかしい註文だわ」
 云っている言葉のがんこさに似あわず、伸子は優しい目つきだった。
「わたしは、そう感じないんですもの」
 ベルネの家の、鉄門のくぐりの外まで蜂谷良作は伸子を送って来た。
「じゃ、さようなら、どうもありがとう」
 門を入って行こうとする伸子のあとを追って、
「あした、五時、やるんでしょう?」
 蜂谷が声をかけた。資本論の講義のことだった。
「あなたは?」
「僕はもちろんつづける」
「じゃ、どうぞ。わたしもいいわ」
 門から玄関までの、小砂利をしきつめた爪先のぼりの小道をふんでゆく伸子の足音の中で、蜂谷良作の重い靴音が往来の彼方へ遠ざかった。

        九

 蜂谷良作は伸子と歩くことを迷惑がらなすぎる――
 一日外を歩いて来て、ほこりっぽくなった顔をすっかり洗い、おかっぱの髪にブラッシュをかけ、体も拭き、さっぱりした寝間着姿になって寝床によこたわりながら、伸子は天井を見ていた。室内には電燈が明るくついていて、枕元の小テーブルの上では白い猿の前肢に、伸子が手くびからはずしてかけた腕時計がかがやいている。
「僕は無事でなんかなくていいんだ」
 そう云った蜂谷良作のおしつけられた声と、そう云いながら自分のわきを歩いていた蜂谷良作の重い体の感じが、伸子の感覚に印象されている。でも、どうして彼は、伸子が柔かくこまった気持になりながら、同時にその半面で批評的にならされたほど感情的だったのだろう。
 素子がパリにいた夏のころ、クラマールの終電車にのりそこなった蜂谷が、ヴォージラールのホテルで素子の部屋へ泊ったことがあった。夜なかまで三人は露台のところで話していた。何でもなく、さっぱりとあれこれのことを話していた。
 伸子ひとりがロンドンからパリへ帰って来て、モンソー公園を一緒に散歩したりしたとき、蜂谷には、格別なところがなかった。伸子は、そういう彼に安心して、親しいこころもちをもった。
 伸子が彼との間に求めているのは、あぶなっかしいところのない友達としての感情だった。女同士の友達で女が感じあうものとは、自然どこかちがった趣のある男の友達としての蜂谷良作を、伸子は親しく感じているのだった。クラマールへ越して来る前後から、蜂谷良作は伸子の日常生活の習慣のなかに、きまった場所を占めるようになった。伸子はそれを拒絶していない。だからと云って、伸子は蜂谷に魅せられているのではないのだった。蜂谷良作は、伸子にとって、魅力があるというたちのひとではない。きわだった魅力というようなものがなく、誰の目にも彼の人柄として映っているあたりまえの身なり、あたりまえの向学心、そのすべての彼のあたりまえさが、伸子にとっての親しさであった。
 こんやは、そのあたりまえの蜂谷良作から、ちらり、ちらりと、低く揺れている焔の舌のようなものが閃いた。その焔は伸子がかきたてたのだろうか。伸子はそう思えなかった。クラマールの往来のまんなかで、伸子が、きれいなソヴェトの切手を蜂谷にやった。そして、二人は往来に立ちどまって、その小さくていきいきとしたきれいなものをのぞきこんだ。蜂谷良作だから、伸子はそうしたのだったろうか。伸子は、自分の気に入っているものをやりたいと思うような人に対してだったら、誰にでも、あんな風に感興をもって行動するたちだった。蜂谷が、そういうたちの女として伸子を理解しないで、特別彼にだけ、彼がすきだから伸子があんな風にしたと解釈しているとすれば、それは彼のあたりまえさのうちの、乙下の部分で、凡庸だ、と伸子は思った。理づめな蜂谷は、ともかく伸子が自分を好きなのにはちがいないだろうと、つめよるかもしれない。もし彼がそんなことを云ってつめよったら、あんまり中学生だ。いたずらっぽい眼をして、伸子は明るい寝台の上に仰向いたまま素直に笑った。きらいでない、という線からはじまるひろくぼんやりしたこころもちの、どの地点に蜂谷良作はおかれるのだろう。伸子の感情に、恋のかげはちっともさしこんでいないのだった。自分の心が恋にとらわれていないことをはっきり知っている伸子は、おちついて、こまかい景色のあらわれはじめた感情の小道について、吟味をつづけた。その過程で無意識にあまやかされながら。
 蜂谷良作が、細君にふれて話したのは、伸子をいやに感じさせることだった。蜂谷の細君と伸子とは互にあったことさえなくて、まるで別なものなのだし、蜂谷にとっても全く別な角度で存在しているもののはずだのに、細君と伸子とをおきならべ見てでもいるような比べかたで彼が話した。そのことは、伸子を傷つける。伸子にとって、蜂谷良作の細君であるという女の立場は、全然関心がないのだ。――
 永い間大きい寝台の真中で仰向いていた伸子は、清潔なシーツの間で勢よく寝がえりをうって体をよこにした。あした、もしそんな折があったら、蜂谷良作にはっきりそう云おう。伸子はゆっくりと辿っていた考えに、しめくくりをつけた。伸子の気持を誤解しないように、ということを。もう一つは、彼が伸子に興味をひかれている点を分析してみれば、そこには伸子の生れつきそのものよりも、伸子がモスク□で暮して来ている女であるということからつけ加えられている、さまざまの要素があるという事実に着目して、蜂谷が現実的な気分になるようにしようと思うのだった。それらの要素が、伸子を蜂谷の細君とちがう一人の日本の女にしているのはほんとうであるかもしれないし、また蜂谷がフランスへ来てから知って来ているに相異ないどこかの女とも、当然、ちがう伸子であらせているだろう。そこには、微妙ないりくんだものがある。伸子が蜂谷にソヴェト同盟の切手をやる気持になったのも、彼がすき、という動機からだとばかり考えるとしたら、それは二人の間にある事実ではないのだから。――一九二九年の十月二十九日という恐慌の日がなかったら、そして、伸子が、ソヴェト同盟を中心に目ざめはじめている人類の理性のたしかさに感動することがなかったら、蜂谷は、あの一枚の水色と赤と白の切手を伸子からもらう機会はなかっただろう。そのことを、彼は理解しなければいけない。伸子はそう思うのだった。そういう機会に、そんなやりかたで感動をつたえるのが伸子のたちだということは、もう一つ別の事実にちがいないけれども。

 翌日の夕刻、おきまりの講義に来たとき、蜂谷良作は、いつもよりいくらか自分自身に対して気むずかしげな表情だった。昨夜の気分は明らかに遠ざけようとされていた。彼は幾分ぎごちなく伸子の質問に答え、ブリアンにかわって新しく組閣されたばかりのタルデュー内閣がもっている困難について説明した。フーヴァーの資本・労働協約(キャピタル・レーバア・パクト)は、現にアメリカ国内生産の矛盾と対立とを鋭く意識させる役に立っているばかりであり、フランスの資本主義は、自動車生産の部門から恐慌の影響を示しはじめている。毎土曜と日曜の夜エッフェル塔にイルミネーションをきらめかせて、6シリンダー・6・6・シトロエン・6とせわしく広告しているシトロエン自動車会社、エッフェル塔の上に火事のまねを描き出しその火の上へ滝のように水が落ちかかる仕掛けイルミネーションをつかってまで人目に訴えているシトロエンはじめ、フランスの自動車会社は、フォードの価下げによる深刻な打撃をさけられない。日本生糸のアメリカ向輸出はがた落ちだが、浜口内閣は、来年一月に金解禁をするという公約を実行しようとしている。金解禁とともに浜口内閣は、日本の小企業者と労働大衆にとってはっきりと失業を意味する産業の合理化を示している。しかし同じ産業の合理化が、大資本家にとっては、国営企業を名目だけの価格で個人の大資本家たちの所有にふりかえてゆく、という仕事になって現れている。そして、少数の大資本は強められる。しかし、世界恐慌からのぬけ道は、結局彼らの前にもふさがれている。
 蜂谷良作が、ぶっきら棒に、そういう、必要な時事解説だけしかしまいと決心しているのはいいことだった。伸子も女学生のように、自分の前にひろげられている帳面の幅だけに、雰囲気をせばめるのだった。

        十

 野沢義二の暮しぶりを見たら、蜂谷良作のおちつけなさ工合が、伸子にまざまざとわかるようになった。
 パリの郊外に国際学生会館が建って、そこには日本からの留学生も何人か滞在している。ある日、伸子は蜂谷良作と一緒に、それらの人々に招かれた。郊外列車が、原っぱのなかに急造されているバラック風の駅へとまると、そこが国際学生会館を中心として、一つの町になろうとしている地域だった。トロッコのレールが掘りかえされた地面の上を走っていて、人々の歩くところだけやっと歩道ができている。そこに、木造の、粗末だけれども清潔なキャフェテリア(自分で給仕する方式)の大食堂や、簡単な日用品の売店があって、本建築の仕上った本館は、すこしはなれたところに灰色と白で、清楚な四角い姿を浮き上らせていた。アトリエのようにガラスの面がひろくて、天井の低い新様式の室の窓から、建設のためにごったかえしている敷地を眺めながら、渋い結城紬(ゆうきつむぎ)の袷(あわせ)とついの羽織を重ねた日本の学者が、宗教哲学の話などをしている。伸子は、それらの人々から、ガラスの中にはいっている翼の大きい黒い鳥というような印象をうけた。留学生と云っても、その日その室に集った人たちは、みんな相当の年配で、日本には家庭があり、子供のある人たちだった。国際学生会館の一室にかたまって、これらの人々は論理的に、あるいは頭脳的に、愉しくあろうとしている風だった。けれども、ただ一人の女としてその座に加っている伸子の直感は、そこにかもしだされている空気に、みんなのもちよっている無意識のかわきがあることを、感じずにいられなかった。この人たちには、誰にとっても家庭がないという状態が自然でないのだ。伸子はそう思った。日本の男のひとたちは、何と家庭になれているだろう。国際学生会館の人々は、蜂谷良作と似た三十五から四十歳の間の年ごろであり、どこか晴れやらぬ空といったところのある気分においても彼と似ている。
 伸子の父の泰造がロンドンに留学していたのは、丁度いまここに集っている人々と同じ年ごろであり、五つだった伸子の下に小さい二人の男の子がいたという事情も似ていた。ここにいる人たちの、ふっきれない神経の複雑さが理解されるように感じたとき、伸子は、父親のロンドン生活の、いままでは見えなかった側面にふれたように思った。そこには、多計代ばかりでなく、多くの妻が嫉妬をもって想像したりするよりも、もっと人間らしい何かの飢渇があるのだ。そして、伸子は、年月はいつの間にかあのころ五つだった娘の自分が、そんな風にも考える女の年ごろになってパリに一人いることにおどろくのだった。

 郊外からサン・ラザールの停車場まで帰って来たとき、蜂谷が伸子を誘った。
「思ったより早かったな。――ここからだとつい近くだから、野沢君のところへよって見ませんか」
「よってもいいわね」
 佐々のうちのものがパリを立つとき、ペレールの家へ来あわせた蜂谷良作と野沢義二が、荷づくりの手つだいをして北停車場まで送ってくれた。それから伸子は野沢に会っていなかったし、手紙も書いていなかった。
 夜のパリの裏通りをいくつか折れて、空倉庫かと思われる薄暗いがらんとした入口から、伸子は一つの建物に案内された。
 狭くて賑やかな裏通りの錯綜した光の中を来た伸子の眼には、ぼんやり何か大きく積みあげられている物の形しか見えない埃っぽいコンクリートの床から、じかに幅のひろい鉄製の階段が通じていた。がらんとした入口がほとんど暗かったように、その鉄製の幅ひろい階段も、やっと足もとの見当がつく暗さだった。だまって蜂谷良作に肱を支えられながら、そこをのぼり、伸子は、上へ出たらそこは明るいのだろうと思った。ホテルらしい帳場のようなところもあるのだろうと思った。
 ところが、二階のおどり場には電燈こそついているけれども、燭光の弱い光にぼんやり照し出されて、無味乾燥に何ひとつなく、そこに面していくつかの戸が無愛想にしまっている。
 めずらしいのと、多少気味がわるいのとで足音をしのばせるようにしている伸子の先に立って、蜂谷が一つのドアをノックした。語尾が澄んでいて、そこにきき覚えのある野沢の声が、
「お入りなさい(アントレ)」
 部屋のひろさを思わせて響いた。
 ドアを入った伸子の最初の一瞥にうつったのは、正面に夜の空を映している二つの大きい窓と、紙や書籍のとりひろげられている大きいデスク。いくつか椅子のあるひろくて古びた、茶色っぽい室内だった。
「やあ、これはめずらしい」
 その室の小壁のでっぱりで、ドアからかくされている寝台の上で野沢義二が起きあがった。
「ようこそ、この辺へ来たんですか?」
 それは伸子に云って、
「かぜひきなんだ」
 野沢は寝台の裾にぬいであった部屋着をとって羽織った。
「いつぞやは、ありがとうございました」
「いいえ。――クラマールへ越したんですって?」
「そうなんです」
「いまごろの郊外はいいな」
 伸子は、手近にある椅子をひきよせてかけた。
「じき失礼いたしますから、臥(ね)ていらした方がいいわ」
「いや、もういいんです。熱もないし」
 蜂谷は、最近ここへよったらしく、
「あれから、ずっとかい?」
ときいた。
「うん。僕はいくらか慎重すぎるのかもしれないんだ。しかし、すっかりなおそうと思ってね」
 野沢は喉熱を出して数日来臥ているのだった。ホテルとよばれているけれども、どこにもホテルらしい設備も見当らないこんな建物の中で、臥たきりの野沢のために食事を運ぶ誰かがいるのだろうか。野沢の生活ぶりには、万事について一定の節度があった。伸子はそこを立ち入ってふれにくいのだった。
「お大事にね。わたしはフランスで病気したくないと思っているわ」
「特別フランスでというのは?」
「いつか、夏のころ、吉見さんがひどい歯いたを起して大さわぎしたことがあるんです。そのときわたしたち何も薬をもっていないでね、薬屋へ行ったら、三色菫(パンジー)の花の乾したのを煎じてのめってよこしたのよ。――あなたも、何かの葉っぱを煎じて、のまされていらっしゃるんじゃないのかしら」
 野沢は、おもしろそうに笑った。
「僕は、幸(さいわい)、バイエルのアスピリンをのみましたがね」
「佐々さんのいう葉っぱってのは、カモミユのことだろう」
 蜂谷良作は、笑いもしないで註釈した。
「ああ――カモミユ――あれはよくのむものらしいね」
 次の日の午後六時ごろ、また伸子と蜂谷良作とは、野沢義二の住んでいる建物の埃っぽい鉄製の階段をのぼって行った。蜂谷良作は片手に紙包みを下げ、伸子はそれより小形のやっぱり紙の包みをもって。前の日、かえりぎわに、ふと野沢が云った。あしたは僕の誕生日だから、臥てさえいなければ、三人で御飯でもたべたいところなんだがな、と。――残念そうな野沢の声には、ひとりきりで臥ていなければならない彼の、単調さにあきた響があるようだった。立ちかけていた伸子は、その感じにひかれた。ちょっと足をとめて思案していた伸子は、わきの蜂谷に、
「蜂谷さん、あしたの夕方、お忙しい?」
ときいた。
「いいや」
「じゃあ、こうしてはどうかしら」
 三人で輪になって協議するという風に伸子が提案した。
「野沢さんは動いちゃいけないんだから、わたしたちで動いて来ましょうよ、その案はどう? そして三人で、お誕生祝のおかゆをたべましょうよ、わたしがここでこしらえるわ」
「誕生祝のおかゆっていうのは――風変りな思いつきだな。しかし御迷惑をかけちゃいけない」
「平気だわ」
 伸子は、
「ね、蜂谷さん」
 あいまいに立っている蜂谷にたしかめた。
「そうしましょう、ね」
 次の日の四時半に伸子がクラマールの停留場に近い蜂谷のところへよって、それから来る約束になった。
 鍋とくみ合わせになっているアルコール・ランプ。小さいコーヒーわかし、日本の茶、海苔(のり)などというものを二つの包みにこしらえて、伸子は約束の時間に、マダム・ベルネの家を出て、サン・トアンの蜂谷の室へよった。すると宿の女主人である画家の未亡人が、黒繻子の大前掛をかけた姿で、いぶかしそうに伸子を出迎えた。
「ムシュウ・アチヤは、たった今、出かけましたよ」
 伸子は、腕時計を見た。四時半という約束の時間には、まだ五分もあった。早かったとしても、伸子はおくれて来ているのではなかったのに。――
 蜂谷の下宿はクラマールの山の手にあたる住宅区域のだらだら坂を下りきったところに在って、電車の停留場まで、二三分の距離だった。伸子は短いその距離を、いそがず、一人で歩いて行った。伸子の時計がおくれていたのかもしれない。だけれども、三分や五分おくれたと云って、彼のところへよると約束している伸子をおいてきぼりにして、蜂谷良作が先へ出かけてしまった意味が、伸子にのみこめなかった。伸子は野沢義二の住所をはっきり知っていない。そのことは蜂谷によくわかっている。もしきょう病気をしている野沢の誕生日のために、おかゆをこしらえてみんなでたべようなどと興じている伸子に彼が不同意なら、あっさりぬけていいのだ。伸子はとめはしないのに。――待ち合わせる約束をしておきながら、一人で先へ出かけてしまったりして、そのことで蜂谷が伸子に何かの意味をさとらせようとするなら、伸子は、そんなおかしくすねたようなやりかた、絶対にわかってやらない。そう思った。彼は、じぶくりたいように、ひとりでじぶくればいいのだ。
 停留場のところへ来てみると、そこで蜂谷が、十一月の夕風に吹かれて面白くもなさそうに立っているのを見出した。彼は伸子を見ると、むっつりした顔のまま、包みをうけとるために手をさしのばした。
「――どうして先へ来ておしまいになったの?」
「ここでおち合うことになっていたんじゃなかったのかな」
「あなたのところへ四時半ていう、お約束だったわ」
 蜂谷良作は、
「――僕がおぼえちがいしていたかなあ」
と云いながら、なぜか、黒いソフトをぬいでかぶり直した。
 伸子と蜂谷良作とは、途中、あんまり口をきく気分にならずに野沢義二の下宿へついた。
 野沢義二の古びた茶色のひろい室、それはゆうべ伸子が見たままの様子だった。とりたててどこが片づけられてもいず、彼は、やっぱり片隅のバネのゆるんだようなダブル・ベッドの上におきかえっていて、そのありのままの様子が、クラマールからひっかかっていた伸子の気分をのびやかにした。
「ほんとにおかゆだけよ」
「結構ですとも。――久しぶりだなあ、日本のおかゆなんて」
「わたしは、モスク□で三ヵ月入院していて、癒(なお)りかけのとき、それは、それは、つめたい、そうめんをたべてみたかったわ。それから、日本の海の、つよい潮のかおりね、波がさあっと来たとき匂う――あの匂いへ顔をつっこみたかった」
「そう云えば、日本の海辺ぐらい、潮のにおいがつよいところって、ほかにないんじゃないかな」
 野沢の部屋には、入口と別の隅にもう一つドアがついていた。その外にうす暗い廊下があって水道栓とちょっとした流しがついていた。そこで伸子はボール箱からカロリン米を鍋にうつして洗って来た。そして野沢の大きいデスクのはじへアルコール・ランプをおいて鍋をかけた。玉子、果物が、紙袋のままそのわきに置かれている。鍋の番をする伸子は、デスクへ横向きの位置にかけていて、はなれたところに蜂谷と、寝台の上の野沢と、ゆったりした三角形の二つの点になって話している。
 男二人は、ソヴェト同盟の五ヵ年計画について話していた。「リュマニテ」は、アメリカの恐慌、世界の資本主義生産の矛盾とするどく対照する新事実として、ソヴェト同盟の五ヵ年計画第一年度の成績が、ソヴェトの人々にとってさえ予想よりはるかに好成績であったことを告げている。ソヴェト同盟の経済年度は、十月で区切られる。一九二八―九年の経済年度に、新事実として公表された生産向上の五ヵ年計画を、資本主義の国々では、例のソヴェトの誇大な計画だとか、実力のない共産主義者のこけおどしの妄想だとか批評していた。重工業の生産技術がおくれているソヴェト同盟が、おとくいの国家計画(ゴス・プラン)なるものの、自己陶酔で描き出した「巨大な光栄ある計画」を実現する現実の根拠をもっているとは思われない。外国の専門家たち、実業家たちの意見はおおむねそういう風であった。
 伸子は、五ヵ年計画について、ぼんやりした理解をもったまま、モスク□から来てしまっていた。ソヴェト同盟の生産は、本来いつも国家計画(ゴス・プラン)にしたがって行われて来ている。それぞれの生産部面は、映画制作でさえも、ゴス・プランを検討して、行っている。年々に実行されて来ている生産計画が二八―二九年経済年度から一九三三年までの五年間に、特別五ヵ年計画として意義をもつのは、この五年間に生産各部門が、これまでの平均生産額を、倍から二倍以上に上昇させる計画であるという点であった。そのことによって、ソヴェトの人民は自分たちの社会主義社会を、一層現実的に強固な基礎におくことが出来る。資本主義生産の破綻にうちかって、社会主義国家の独立と自由をまもり、戦争挑発をうちやぶることができる。
 新しく企てられる五ヵ年計画についてどの論説も、演説も強調している点は同じであった。モスク□でそれらをたどりたどりよんでいたころ、伸子は、声に出して「わかっている(パニャートノ)」ということがあった。そのくらい、五ヵ年計画について語られるすべての言葉は一致していて、この計画の意味は明瞭である。と、伸子は当時思っていたのだった。
 文学的な角度からモスク□の生活にはいった伸子は、世界経済について全く貧弱な知識しかもっていなかった。階級的生産の知識が不足なところへ、伸子はいきなり彼女流の率直さでソヴェト同盟の計画生産の方式を肯定した。その肯定のしかたも伸子流に単純で、しかし具体的であった。工場、労働者クラブ、産院、託児所、子供の家、学校、劇場、映画製作所、ソヴェトの運営などと、見学しつづけた伸子は、労働者男女が互にわけあっている社会保障の現実を社会主義の社会というもののよさとして、うけいれずにはいられなかった。伸子は、そういう現象から逆に帰納して、社会主義の計画生産の意義をうけいれているのだった。
 一九二七年の十二月に初雪のふるモスク□へついたときから、十数ヵ月の間、伸子はいたるところに――首府であるモスク□市内ばかりでなく、石油のバクー市でも、石炭のドン・バス地区でも――そこに工業化(インダストリザーチヤ)、電化(エリクトリザーチヤ)というスローガンがかかげられてあるのを見つづけた。農村の集団化(コレクティヴィザーチヤ)とともに。伸子のあいまいな知識に「五ヵ年計画(ピャチレートカ)」は、それらのスローガンの延長のようにも映った。或は、いくつかの連続したスローガンが順次にかたまって、その一点へ来て強い光りを放ち出した、という風にもうけとれていたのだった。
 茶色に古びたパリの大きい部屋の隅に漂着したふる船の中から小柄な上半身をおきあがらせているようなどことなくユーモアのある姿で、野沢義二は蜂谷良作と話している。
「僕なんかにでも、今のような国際経済の事情になってみると、五ヵ年計画の意味ってものが、いくらかのみこめて来るようだな」
 頭に黒いキャップをかぶって部屋着をきた野沢の話しかたは、せき立たない考えの展開にしたがって、言葉を一つ一つ、それぞれの場所に置いてゆくような静かな的確さがあった。彼の日頃からのそうした話しぶりに伸子は野沢の天質の特色を感じているのだった。野沢義二の専門は哲学であったが、彼は詩作もした。フランスの有名な反戦作家のルネ・マルチネの家の私的な団欒(だんらん)に伸子をつれて行ったのも野沢であった。
「ソヴェトが、こんどの五ヵ年計画をほんとに実現できれば、たしかに大した仕事だな。――おそらく、やるんだろう」
 蜂谷良作は、チューブからねっとりした何かが押し出されて出て来るような風に話した。
「しかし、大体、世界じゅうが第一次大戦後は計画経済の方向に向ってはいるんだがね――資本主義を何とか救おうとすれば、その方向しかないのは、誰にもわかって来ているんだ」
 書物や紙ばさみや新聞がその上にちらかっている野沢の大型デスクのはじにもえているアルコール・ランプのよこで、伸子は、ズボンのポケットに両手を入れて話している蜂谷良作を見つめた。そんなのって、おかしい! 伸子の心が異議をとなえた。社会主義の計画生産と資本主義を救うための計画生産とが、どうして同じ本質の「計画生産」であり得るのだろう。
「蜂谷さん、この間、資本・労働協定(キャピタル・レーバー・パクト)の話のとき、あなたは、資本主義生産に、ほんとの合理性はあり得ないんだって教えて下さったことよ」
「それはそうさ」
 同じ姿勢のまま、はなれたテーブルのわきにいる伸子を、蜂谷は例の、眉をしかめるような見かたで見て云った。
「それはそうにちがいないんだ。しかし、実際には、資本主義の枠の内でも過渡的に、部分的に計画性をもち得る面もあるわけなんだ。資本主義だってやっぱり生きているもんだし、生きようとしてあらゆる方法を求めるのは必然なんだから、……」
「すると、それは、資本主義の生態の必然てわけなんだろうか、それとも生きようとする資本主義のたたかいの方法の一つなんだろうか」
「あとの方だね」
「そんなら、つまり改良主義じゃないの。それは『偽瞞的な社会民主主義』であるって、あなたが教えて下さる、そのものじゃないの」
 蜂谷良作は、椅子にかけている片膝をゆすりながら、ややしばらくだまっていた。それから、おもむろに云った。
「本質はそういうものであるにしろ、資本主義も自由主義時代がすぎて、計画性をもたなくちゃならなくなって来ているという事実そのものが今日の歴史の因子(ファクター)なんだ。社会主義へ発展すると云っても事実資本主義の中をぬけて行かなけりゃならないんだし、その過程でいま改良主義と云われている方法にもプラスとしての価値転換を与えるべきだと思うんだ。国によってみんな具体的な事情がちがう。したがって社会主義へ向うことは疑いないにしたって、一つ一つの過程はどこも同じコースというわけもあり得ない」
 蜂谷良作のいうことをきいているうちに、伸子は見えない精神の扉がすーとひらいて、そのすき間から、彼の考えの遠い奥が見えたように感じた。彼は伸子に資本論の講義をはじめ、アメリカの恐慌についてマルクス主義の立場から解説する。その面だけみると蜂谷はマルクス主義者のようだけれども、彼の存在の底には、しつこく絶えず触覚をうごかして、マルクス主義とは別の、何かの道を見出そうとしているものがあるらしい。そういうことができるものなのだろうか。だが現実として彼は、たしかに何かさがしている。蜂谷の生活感情を不安定にしているものの本質は、内心のごくふかいところにあるそのさぐりではないだろうか。もしそうだとすればホームシックなんかではないと彼が伸子に云ったのもうそでない。
 三人がいる古ぼけて大きい室の中にこそ静かな夜があるが、往来へ出ればごたついて喧噪なパリの裏町のがらんとしたホテルに、がたついたダブル・ベッドも気にならなそうに納っている野沢。さらにそこですごされるたのしい時間をものがたるように書物や紙のとりちらかされているデスク。彼としての秩序で統一されている野沢の生活の雰囲気においてみると、蜂谷の不安定さは、これまで伸子が気づいていたどのときよりも明瞭に性格づけられてわかるようだった。
 野沢のベッドのところへ、玉子のおかゆを運んだり、蜂谷と自分とはチーズをはさんだパンをかじってコーヒーをのんだりしながら、伸子は、モスク□の下宿にでもいるようにくつろいだ気持になった。
「来てよかったわね、おかゆだってわるくないでしょう」
「久しぶりに煮えたての熱いものをたべるっていいきもちなもんだな。体のなかが清潔になってゆくようだ」
 伸子が野沢の室でらくらくした気分なのは、その室が十分歩きまわれるだけ広くて、言葉の心配のいらない三人のひとがいて、そこにはベルネの家族の間にはさまっているときのような裏表のひどい、うざっこさがないからだけではなかった。――伸子がいない今ごろ、ベルネのうちのものは、おおっぴらに葡萄酒の瓶を食卓の上に立てて、念入りのオールドゥブルをたべているのだろう。伸子が酒類をのまないことがわかると、ベルネの一家は、食卓から全く葡萄酒をひっこめてしまった。伸子を二階からよんで食卓へつく前に、一家のものは自分たちだけで食堂のうらの台所で、食事の前半をすますらしかった。家のものは気もちよさそうにほんのりあからんだ顔をならべていて、テーブルの上には、伸子のためにほんの申しわけのかたいソーセージが前菜として出されているような食卓は、酒をのまないからと云って、伸子に親しみぶかいこころもちを与えるやりかたではなかった。
 伸子はフランシーヌの英語を通じてベルネの細君にそのことをどう云っていいかわからなかったし、蜂谷にも告げていない。今夜はベルネの食卓をぬけ出して来ている気軽さばかりでなく、蜂谷と伸子との間にある心理的なひきあいが、彼女の側として恋愛的でないことの自然さが段々会得されて来て、伸子は快活になっているのだった。
 C・G・T・Uの本部で、ゴーリキイの「小市民」の公演をすることになっていた。野沢はその切符を伸子と蜂谷とに一枚ずつくれた。マルチネの家へつれて行ってくれたのが野沢であり、C・G・T・Uの芝居の切符をくれるのが、蜂谷でなくて野沢であり、その野沢は、伸子とまるで別なところで自身の生活を統一させている。
 天体は、宇宙そのものの力で充実しているから運行しながら互にぶつかりあうことが少い。――野沢義二はそんな風に生きようとしている人なのかもしれない。伸子はそう思った。それにくらべると、蜂谷良作は、全体が柔かくてふたしかで、潰れると液汁が出る。自分はどうなのだろう。ぼんやり考えながら、メトロにゆられていた伸子は急に目がさめたように、ああ、そうだ、こんやこそ忘れずに、帰ったら、手紙を書かなければ、と思った。最近になって伸子は、マダム・ラゴンデールの稽古をことわろうと思っているのだった。パリにいるのもあと半月たらずだったから、マダム・ラゴンデールの稽古のために、観たいものの多いパリの十一月の午後のまんなかの時間をうちにいなければならないことは、伸子にとって不便になって来ている。市内から遠くはなれたクラマールまで来るマダム・ラゴンデールのためには、月謝もよけい支払われている。
 あと半月でパリにいなくなる――それは伸子にとってわかり切った計画だった。それがそんなにわかりきっていて、動かせないようにきまっているということが、伸子に奇妙に思えた。

        十一

 人々の眠りをさまさないように、伸子はそっと部屋のドアをあけて、廊下へ出た。階段のところに、やっと白みかかったばかりの初冬のつめたい光が漂っている。伸子は足音を立てないように階段をおりて食堂へはいり、そこを通りぬけて更に台所へ出た。ゆうべ、きちんと後片づけされたまま、けさはまだ誰にも触れられていない台所道具は、煉瓦じきの床の一方にどっしりとすわっている料理用炉だの、並んでぶら下って、磨かれたアルミニュームの光を放っている大小の鍋類だの、ひっそり人気ない中で、不思議に生きものめいた感じだった。鍵穴をのぞいて台所口のドアをあけている伸子のうしろから、それらの台所の生きものが無言で見はっているようで、外の踏石へのったとき、伸子はやっとほっとした。そして、いつの間にかかくれんぼでもしているように、われ知らず緊張していた自分に、声を立てないひとり笑いをした。
 おかしいこと! けさ、みんなが起きないうちに家を出て、伸子がヴェルダン見物に行くということは、ベルネ一家にゆうべから告げられていることだった。ベルネのおばあさんが、昨夜ねる前に、自慢半分、よく整頓されている台所へ伸子をつれて行って裏口の錠のあけかたを教えた。一つの秘密もないしわざだけれども、人々がそれぞれの部屋で寝しずまっている家の中で、いくつものドアをそっとあけたてしたり、静かに一人で出てゆくそのことが、どこかの部屋では誰かが目をさまして耳をすましていそうに思えるだけ、伸子の胸をかすかにどきつかせるのだった。
 門まで爪先下りの砂利道を、伸子は遠慮なく歩いて、うすら寒い明けがたの通りをサン・タントワン街の方へ下りて行った。陽が出れば、これでいい天気になるのか、それとも曇天なのか、見当のつかないつめたい早朝の往来で、タバコを吸いながらこちらへ向ってゆっくり歩いて来る蜂谷良作に出逢った。
「おはよう」
 伸子は、遠足へ出かける朝の快活さで声をかけた。
「早かったんだな。僕は、あやしいもんだと思っていたんだ」
「わたしが寝坊だから? でも、わりあいしつけがいいのよ、起きなけりゃならないときには、目をさませるんです」
 二人は、電車通りへ出て、街角のカフェーへはいった。店内はまだ暗く電燈に照らされているカウンターのところで三四人の労働者がコーヒーをのんでいた。人の眠っている時間に起きて一日の働きに出かけようとしている労働者たちの体つきには、どことなくはらいきれない眠気ののこりがあった。伸子のわきでコーヒーをのみ終った一人が、何か考えごとをしているようにゆっくりマッチをすって咥(くわ)えているタバコに火をつけ、手首をやっぱりゆっくりと動かしてそのマッチを消し、やがて、気をとり直したように、ボタンをかけた上着の裾を左右両手で下へひっぱってから、カウンターの上においてある長方形の新聞包を脇の下にはさんで出て行った。
「――いそがなければ、いけないかしら」
 蜂谷良作は、コーヒー茶碗をもっているもう一方の手首の時計をのぞいた。
「大丈夫でしょう、七時四十分までにモンパルナスへ行けばいいんだから」
 ヴェルダン行の近距離列車はモンパルナス停車場から発車した。別の線をとおって行く国際学生会館の日本留学生の人たち四人と、ひるごろヴェルダン駅前のホテルの食堂で落ちあう約束だった。この間、蜂谷と伸子とが国際学生会館へその人々を訪ねたとき、誰もまだヴェルダン見物をしていないことがわかった。ちょいちょい話には出ているんだが、四人で、六人分の自動車代を払う勇気がないんでね。そういう話だった。そのとき、伸子はすぐ、わたしをつれて行って頂けないかしら、とたのんだ。一九一七年から八年、第一次ヨーロッパ大戦の終局に、ヴェルダンという名、ソンムという名は、畏怖なしにはふれられない二つの名であった。ドイツ軍にとって、それらのところは果しない潰滅の谷を意味し、連合軍にとって、そこは、果しない犠牲の谷であった。ヴェルダンをもちこたえた、その沈勇が連合軍の勝利を決定したと語られていた。休戦のとき、はたちにならない娘として偶然ニューヨークにいあわせた伸子は、ヴェルダンという名に対して無関心でいられない感銘を与えられているのだった。
 この夏、ロンドンで数週間すごしたとき、イギリスではルドウィッヒ・レーンの「戦争」が非常によまれていて、チャーチルも「戦争」を読む、と、イギリスの政治家らしく雨傘を腕にかけたチャーチルがその本を手にもっている写真が広告につかわれたりしていた。
 親たちはつや子をつれて五階にひろい部屋をとっていた。同じホテルの七階の小部屋で、伸子は毎晩その小説の、全く新しい理性と心情とにひき入れられながら数頁ずつ読みつづけた。レーンはドイツ軍の特務曹長として、音楽と花と国歌とで戦線に送り出された兵士たちとともにフランスへ入り、マルヌの戦闘、ソンムのたたかいを経験し、自身負傷した。遂に一九一八年ドイツに革命がおこってカイザーはオランダに亡命し、彼の属していた部隊をこめてドイツの全線が壊滅する。それまでを、レーンは冷静に、即物的に、ヒューマニズムとはどういうものか、戦争とはどういうことなのか、考え直さずにはいられない透徹した筆致で描いているのだった。ヴェルダンときいて、とっさに自分も観たいと思った伸子のこころもちは、レーンの小説がそのなまなましい描写とともに、いつかのこして行った、何かの問題の疼きが、計らず目をさまさせられたからだった。
 ヴェルサイユ門からモンパルナスまで、パリを南から北へ走る午前七時の地下電車にのりこんで、伸子はしばらくの間、息のつまるようなおどろきにうたれた。車内は労働者の群でぎっしりこんでいる。それはとりたててどんな混雑もない代りにもうこの上三人のひとのはいりこむ余地はどこにもないという事務的な詰りかたで、小柄な伸子の肩は隣りに立っている労働者の荒い縞(しま)の上衣の腕の辺にぴったり押しつけられているのだった。伸子が心からおどろいたのは、車内につまってそれぞれ工場へ運ばれている労働者たちが、手に手にひろげているのは「リュマニテ」であるという発見だった。早朝のメトロにのりこんでいるこれらの人々はみんな鳥打帽をかぶっている。カラーをしていない頸筋のところを、パリの労働者らしい小粋な縞のマフラーできちんとつつんで上衣のボタンをかけている。弁当の新聞包みを脇の下にはさんで「リュマニテ」をよんでいる人々の間に、話声はなかった。轟音をたて、パリの地底を北へ北へと突進しているメトロの中で、つめこまれ、かたまって揺られている労働者たちは、無言で、ひとりひとりの生活につながる注意ぶかさで共産党の機関紙をよんでいる。そこには労働者である人々の、階級の朝の光景があるのだった。
 朝出の労働者の黒い林と、うちつづく「リュマニテ」の波の下に、背の低い伸子の体がうずまった。動揺につれて隣りの労働者がよんでいる新聞の端が伸子のベレー帽をかすめる。そのたびに伸子は、印刷されたばかりの真新しいインクの強いにおいをかぎとった。
 いつも十時ごろのメトロにのって、腹の太くなりはじめた年輩の山高帽の男たちが、云いあわせたように「人民の友(アミ・デュ・プープル)」をひろげている光景ばかりを伸子は見なれて来た。そして、「マ・タン」をよむような階級の男女は、大抵自動車をつかって居り、メトロにのるにしても一等車にのり、伸子がいつものっている並等には入って来ないことをも知っていた。だけれども、朝七時のメトロがこんなにも壮観な労働者階級の生活を満載して走っていようとは。――
 モンパルナス停車場は、パリ市内へ向ってはき出されて来る通勤人でこみあっているけれども、その時刻にパリから出てゆく人は少くて、伸子と蜂谷良作の乗った車室は、ほとんどがらあきだった。働きに出る多勢の人をつんで、いそいでやって来た汽車は、こんどはゆっくり市外へ引かえしてゆくという風に、一つの駅に停るごとにバタンと重い音を立てて狭いドアを開閉させながら、上天気になった郊外の朝景色の間をだんだん東へ、丘陵の重なるロレーヌ地方へとすすんでゆく。
 車窓には、眩(まぶ)しくない方角からの朝日がきらめいた。伸子は、窓ぎわへかけて飽かず外の景色を眺めた。蜂谷良作は、車体いっぱいの幅にはられている奥ゆきの深い板の座席の、伸子からはなれたところに脚をくんで、ポケット地図をひろげている。伸子は何か云いたそうにして、一二度蜂谷の方を見た。すがすがしい初冬の朝の景色、閑散な汽車のなかは伸子を遠足の気分にくつろがせ、ものを云いたい気持にさせている。トロカデロを長く歩いた夜以来、蜂谷良作はそれまでのように伸子のために資本論を講義し、つれだって出かけもしているが、二人きりになると、とけないぎごちなさがのこった。それは蜂谷の正直なぎごちなさからだと思われ、ときには、彼として伸子に傷つけられた感情のあることを知らしている態度かとも思われた。同じ座席にはなれてかけて、地図を見ている蜂谷良作の沈黙をやぶって自分のおしゃべりにまきこんで行くほど、伸子は天真爛漫でもないのだった。
 ヴェルダンの駅へおりて、伸子はあまり深いあたりの静けさと、その静けさにつつまれて輝いているステーションの建物の白さにおどろいた。どこからどこまで真白いステーション。それは目に馴れない宗教的な清潔さだった。ほんのちらり、ほらり駅前広場へ散ってゆく人々にまじって、伸子と蜂谷良作とは、国際学生会館からの人たちと落ち合う約束になっているホテルへ行った。小規模なそのホテルの食堂も、白と金とレースカーテンのほのかなクリーム色に飾られて、喪服の年とった婦人がひとり、むこうのはじの小食卓についている。すらりとしたその黒い姿も、クリーム色のレースのひだに柔らげられて、あたりは寂しい昼間の明るさにみちている。伸子は思わず小声で、
「しずかねえ」
と云った。
「何て、どこにも音がしないんでしょう」
 注文をききにきた給仕に、
「町はどっちの方角にあるのかね」
 蜂谷良作が訊いた。
「ムシュウ」
 給仕は、ナプキンを下げている左腕を心臓のところへあてて重々しく答えた。
「われわれのヴェルダンは、市そのものが記念塔です。ヴェルダンは、沈黙の都です。ここで暮している住民はごく少ししかいません」
 伸子たちの今いるところが、もう、その生きている者は少ししか住んでいないというヴェルダン市街のどこかなのだった。
「ほかのかたたちも来てから、みんなで御飯にした方がよくはないかしら」
「――あっちの連中の着くのはどうせ十二時すぎだし、もしすましてでもいたら却って厄介なことになる。僕らは僕らだけですませておきましょう」
 むしろ二人だけで食事をすることをいそいでいるように、蜂谷良作は、簡単な昼食を命じた。
「見物にどの位時間がかかるのかしら」
「さあ……四五時間のものだろう。しかし、佐々さんはここを見たら、きっとセダンやメッツへも行って見たいって云い出すんだろうな」
「そうお?」
 セダンもメッツも第一次大戦史のなかで有名な地名であった。
「ここから行けるの?」
「メッツは、二時間もかからないんじゃないかな、ここからなら――セダンはランスの北だから、シャロン、ね、さっき通って来た、あの辺で乗換えになるかもしれない」
 ランスといえばそこにあるフランス中世期の、美しいことで知られているサン・ルミ寺院の尖塔形が伸子に思い出された。
 それにしても、ヴェルダンというここの静けさ! どんなにしずかに話しても、その声が自分に耳だつほどしんからひっそりとして、しかも明るいヴェルダン。
 澄明な静寂を、いちどきに肉体の影でかき乱すように国際学生会館の小さい一団があらわれた。
「やあ」
「お待たせした」
「食事は?」
「すませた」
「じゃ、コーヒーの一杯ものんで、すぐ出かけるか。――みんな観るには大分時間がかかるらしい話だよ」
 ひとくちにヴェルダンとよばれているけれども、見物すべきいくつかの要塞は互に数マイルずつはなれて、国境よりの丘陵地帯に散在しているということだった。

        十二

 ヴェルダンをまもっているものは人間ではない。獅子である。これは第一次大戦の終りごろ、はげしい十ヵ月間の包囲をもちこたえていた不落のヴェルダンについて云われた言葉だった。その言葉をかたどって、ホテルから一丁ほど歩いた往来の右手にきりたった崖のようにつくられている記念碑の頂には、堂々と横(よこた)わっているライオンが置かれている。
 せまいその通りをぬけて、六人の日本人をのせたオープンの自動車が家もなければ、人通りもない道の上を快速ですすんでゆくにつれ、ヴェルダンという、かつて一万三千余の人口をもって繁栄していた都市が、今は全くの廃墟であることがわかった。ヴェルダン市役所の跡は、よく整理されている廃墟にいくらかの土台石と数本の太い迫持(せりもち)の柱列が、青空をすかして遺っているばかりだった。第一回の砲撃をうけた月日。そののちそこが野戦病院として使われていたとき蒙った最後の砲撃とそこで二百人の負傷者が殺された日と月。白いところに黒くよみやすい英語とフランス語で書かれた説明板が、空の下に残っている柱列の間に立てられているのだった。学校のあったところ。病院のあったところ。六人の日本人は、ポンペイの廃墟の間を行くように、すべてそれらの建物のあったところを辿って歩いた。天井をとばされくずされた壁の一部をのこしているところに、ぽっかりあいている窓からは、晴れた空の青さが一段と濃く目にしみる。案内する自動車の運転手のたっぷりした声が、人気ない空気の遠くまで響いた。そのあたりは砂地のような地質になっていて、その上に黒い影をうつしてゆく少人数の靴音も、高い虚空までつたわる感じだった。四十がらみの世帯もちらしい運転手は、廃墟らしい無人境を、何か弁明でもするように、
「週日はこんなに静かですが、土曜、日曜はいつもかなりの人出です。休戦記念日にはホテルも満員です」
 誰かが、
「ここを、ぞろぞろ人通りがあったんじゃ興ざめだ」
と云った。
 市の中心部であったところをぬけて、一望に遠くの丘陵を見晴らす場所へ出た。そこはヴェルダンで戦没した兵士の墓地だった。七千の墓は、白い十字架の列をそろえて、彼らが生きていたとき、鉄兜の庇を並べ、になえ銃をして整列していたままの規律で、果てしなく林立しているのだった。白い沈黙の林の彼方には陽にぬくもった山並がかすみ、墓地の境界に幾本かの糸杉がみどりを繁らし、すこし離れた右手に思いがけなく人の住んでいるらしい一軒の小家があって、その横手に白い洗濯ものが微風にふくらんでいる。あたりには、日がうつる音のきこえそうな明るい暖い寂寞がある。あたりがひろびろといい景色で、明るくて、遠くで洗濯ものが生活の光をまきながらふくらんでいることは、伸子の胸に、七千の人々の墓へのいとしさをかきたてた。伸子は、近くの十字架の一つをかがんで見た。白い十字架が、兵士の不動の姿勢をとって並べられているように、その墓標の上で第一に目につくように記されているのは、彼らの生きていたときの兵士番号であった。626・アレクサンドル・550R――フランスのために死せり(モルト・プール・ラ・フランス)。

 自動車は速力を増して、丘陵に向う一本の広い道をのぼって行った。ヴェルダン市の廃墟からは東北にあたって、ルクセンブルグの国境とアルザス地方につづく丘陵地帯に大小三十数箇所かの要塞がつくられていて、第一次大戦時代、フランスの一等要塞をなしていたのだった。
 ここが戦場であったときから十数年の星霜を経ている。それだのに、伸子たちの乗っている大型セダンがエンジンのうなりをどこか遠い空のかなたにふるわせながら疾走してゆく道路の左右は、うちつづく砲弾穴に薄(すすき)のような草が高く生えている傷だらけの地面だった。あたりに一本の立木ものこっていない。荒涼とした道がつづいて、いつとはなしみんなのこころに感傷がしのびこんだころ、行手に、黒と白の大理石で建てられた壮大な建物があらわれた。ギリシアの神殿になぞらえた納骨堂であった。柱列の間に高くはめこまれている白大理石の板に、おびただしい名前が金で象嵌(ぞうがん)されている。その一つ一つの姓名の前に、軍隊での階級がついていて、殿堂の内壁に名を記されているのは、みんな将校の身分だった。その身分の中にも階級の区別が守られている。少尉、中尉、大尉。その階級の人々は一方の壁に。少佐から大佐は他の壁の大理石板の上に。そして、少将、中将の階級の軍人の名は、その殿堂の一番天井に近い位置に、特別誰の目にもよみやすい大文字で金象嵌されているのだったが、その大文字階級の軍人の名の数は、その殿堂の大理石板の面をうずめている戦死将校の数の千分の一にも満たないかと思われた。
「このヴェルダンでは四十万人のフランス人が死にました。ドイツ軍は六十万の損害でした」
 だが、大文字の金象嵌は、殿堂の頂き近く文字のとおり暁の星のまばらさできらめいているのだった。
 殿堂の正面からは、ヴェルダン市の廃墟をふくむ豊沃なシャムパーニュの地平線が平和に展望される。納骨堂はさながらその豊沃なフランスの平野に君臨しているようだった。同時に二万の兵士をヴェルダンの風雪の中にさらしたまま、永久の閲兵式を行っているようでもある。殿堂に正面を向けて二万の白い十字架が整列しているのだった。
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