道標
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著者名:宮本百合子 

 神経のくたびれが段々ほごされて来て艷やかな顔色にもどった伸子がきまじめな疑問を出した。
「みんなヴィクトリア通いにいそがしいからさ」
 素子が云った。ベルリンには、日本人専門の女たちがいるそういう名のカフェーがあるのだった。
「でも、――まじめにさ」
「つまりお互の牽制がひどいんだな」
 大きい眼玉をいくらか充血させた川瀬勇が答えた。
「あの連中のなかにだって一人や二人、ものを考えている男がいるにきまってるさ。そういう連中はソヴェトへも行って見たいんだろうが、うかつに動いて睨まれた揚句、将来を棒にふったんじゃ間尺にあわないんだろう――何しろベルリンの日本人てのは、うるさいよ」
「それはお互のことでしょう」
 あっさりと、それだけユーモラスに中館が口を挾んだ。
「むこうからみれば、われわれは日本人のつらよごしなんだそうですからね」
「へえ、いやだなあ。じゃ、わたしたちは、いつの間にやらつらよごしの仲間入りってわけなのか」
「――それは心配しなくていいだろう。君たちは、ともかくベルリン在留日本人の最高権威を任じている木曜会から招待されているんだ」
 笑い声の中から、それまで黙っていた村井という青年が、
「中館さん、あれ、どんな風に行きそうです?」
 ビール店内のざわめきに消されまいとしてテーブルへ首をのばすように訊いた。
「――何とか行くでしょう」
「なんの話です?」
 村井からタバコに火をつけて貰いながら素子がききとめた。
「中館さんが日本を立つ前に制作した映画が、近くこっちで封切りされるらしいんです」
「いいじゃありませんか」
「いいことはいいんですがね」
 中館公一郎はベルリンでウファの製作所へ出入し、歌舞伎の来たときはモスク□でソヴ・キノの撮影所も見て来ている。どこかに渋る気持があるのもわかるのだった。
「旧作だってわけですか」
 芝居や映画が好きな素子らしく追求した。
「それもありますがね――」
 すると村井が、中館にかわって説明するという風に、
「中館さんは、いわゆる髷ものの制作に、一つのアンビションをもっておられるんです。――そう云っていいんでしょう」
 中館の承認を求めた。
「髷ものは、日本の封建社会の批判として制作されるんでなくては存在の意味がないという主張なんです。そして、そういう芸術としての日本映画の髷ものは、全く未開拓だと云うわけなんです」
 こんどベルリンで公開されようとしている作品は、徳川末期の浪人生活をリアリスティックに扱って、武家権力が崩壊してゆく姿を物語っているのだそうだった。
「――結構じゃありませんか」
「なにしろ、二年たっていますからね。――われながら見ちゃいられないなんてことになったら、参っちゃうと思って」
「案外なんだろうと思うな」
 モスク□で公開された一つの日本映画について、素子が話した。日本のプロレタリア作家の作品から脚色されたもので、孤児の娘が、孤児院の冷酷な生活にたえかねて、遂にはその孤児院へ放火し、発狂してゆく悲劇であった。
「娘が逃げ出しても逃げ出しても警察につかまってひきもどされて、益々ひどい扱いをうけてゆく過程なんかリアルでしたがね。わたしは芸術的にそれほどいい作品だとは思えなかった。でも、モスク□じゃ好評でしたよ」
「ああ、ありゃわかるんだ」
「テーマでわかって行くんだ」
 中館公一郎と川瀬勇が同時に、互の言葉でぶつかりあった。
「ああいうテーマは、国際的なんでね。――あれは、これまでの日本映画の空虚さを、ああいう国際的なテーマへまでひきずり出したところに意味があったんだ」
 そう云えば、伸子が思い出しても、「何が彼女をそうさせたか」というその悲劇の手法は、ドイツ映画の重さ、暗さを追ったものだった。
「中館さんの、それ、何ていう題?」
「こっちの会社の案じゃあ、シャッテン・デス・ヨシワラ、に落ちつきそうなんです」
「シャッテンて?」
 伸子がききかえした。
「影、ってんでしょう」
「――じゃあ……吉原の影?」
 みんな黙りこんだなかへ川瀬勇がプーとつよくタバコの煙をふいた。そのタバコの煙のふきかたは、だまっているみんなが、そういう改題には不満である気持を反映した。
「やっぱり、そんなもんかなあ」
 遺憾そうに素子がつぶやいた。
「それにしちゃあよく『太陽のない街』がそのまんまの題で出るんだな」
「そりゃちがうもの――出版屋からしてこっちのだもの。そういう意味から云えば、いっそ『何が彼女を』なら、そのまんまで行くのさ」
「そりゃそうですがね」
 中館は伸子にききわけられなかったベルリンの興行会社の名を云った。
「あすこじゃ、あれを蹴ったんだ」
 その同じ会社が、こんど中館の作品を買おうというのだった。
「ふうむ。そこなんだ、いつも……」
「――だろう?」
 川瀬勇の眼玉のギロリと行動的な相貌と、太い黒ぶち眼鏡と重なりあっている濃い眉のニュアンスのつよい中館公一郎の顔とが、瞬間まじまじと互の眼のなかを見つめあった。
 中館のこころもちはモスク□に来ていたときより、ずっと実際的な問題にみたされている。伸子はベルリンへ来て間もなくそれに気づいていた。モスク□で会ったときは、ふるい歌舞伎の世界にいたたまれなくなって、そこから脱出しようとしていた長原吉之助の方が思いつめていた。あれからベルリンへかえって、七八ヵ月の生活が中館公一郎に何を経験させたかは、伸子にはかり知られないことだった。しかし、川瀬勇との話しぶりは、いつも会っていて、何か継続的な問題について論じあっている友達同士のもの云いであり、省略の中に二人に通じる何か根本的な問題がふれられていることを、伸子に感じさせるのだった。
「――実際、映画や演劇って奴は、ギリギリまで近代企業でいやがるからね」
 眼玉の大きい顔を平手で撫でて、川瀬勇はいまいましそうに巻き舌をつかった。
「ドイツ映画にしたって、もう底をついたさ。エロティシズムにしろ、異常神経にしろ、マンネリズムだ。パプストにしたってうぬぼれるがものはありゃしないんだ。そうかって、一方じゃラムベル・ウォルフでもう限界なんだから」
 映画制作が大資本を必要とするために、左翼の芸術運動が盛なように見えるベルリンでも、プロレタリア映画の制作は経済上なり立ちにくいということだった。
「このまんまトーキーにでもなったら、ドイツ映画も末路だね」
「そうさ、目に見えていら。アメリカ資本にくわれちまうんだ」
 そのビール店では、入って来るなりいきなりバアに立って、たんのうするだけのむと、さっさと出てゆく人々も少くない代り、片隅へ陣どったら容易に動き出さない連中もかなりいた。それらの男女の姿が店内に煌く鏡にうつり、伸子のいる隅からは、すっかり夜につつまれた大通りの一角が眺められた。ベルリンが世界に誇っているネオンが、往来の向い側にそびえている建物の高さにそって縦に走り、初夏の夜空へ消える青い光のリボンのように燃えていた。わきの映画館の軒蛇腹に橙色の焔の糸が、柔かい字体で、GLORIA(グロリア)・PALAST(パラスト)と輝やいている。色さまざまなネオン・サインは、動かない光の線でベルリンの夜景を縦横に走り、モスク□やウィーンで味わうことのなかった大都会の夜の立体的な息づきを感じさせる。ベルリンの夜には、闇が生きものでもあるかのように伸子を不気味にするものがある。伸子は、そういう夜の感覚の上に、中館公一郎と川瀬勇とが、なお映画、演劇の企業性について論じているのを聞いていた。

        九

 伸子と素子とがベルリンへ来ると間もなく、中館公一郎と川瀬勇とはつれだって、彼女たちをウンテル・デン・リンデン街のしもてを横へ入ったところにあるプレイ・ガイドのような店へつれて行った。光線の足りない狭い店の壁からカウンターの奥へかけて、ドイツ特有の強烈な色彩と図案の広告ビラがすきまなくはりめぐらされていた。そこで、二人は、この二週間のうちに伸子と素子とが、シーズンはずれのベルリンで見られる芝居、きける音楽会のプログラムをしらべた。そして、伸子たちのために数ヵ所の前売切符を買わせた。ドイツ劇場でストリンドベリーの「幽霊」をやっている。その切符。ふたシーズンうちとおしてなお満員つづきの「三文オペラ」。演奏の立派なことで定評のあるベルリーナア・フィルハルモニッシェス・オルケスタアが珍しくシーズン外にベートーヴェンの第九シムフォニーを演奏する。それと、旅興行でベルリンへ来るスカラ座のオペラがききものであったが、どっちも切符はほとんど売りきれで、伸子たちは、第九の方では柄にない棧敷席(ロッジ)のうれのこり二枚、オペラでは「カルメン」の晩三階の隅っこで二つ、やっと切符を手にいれることができた。
「さあ、これでよし、と」
 背のたかい体でその店のガラス戸を押して、伸子たちを先へ往来へ出してやりながら川瀬勇が云った。
「いま、このくらいの番組がそろえば、わるい方じゃないや――じゃ、いい? 君たちきょうは美術館なんだろう?」
 役所風に堂々とはしているけれども無味乾燥なウンテル・デン・リンデンの大通りへでたところで、伸子たちはその大通りのつき当りにそびえている元宮殿の美術館の方へ、川瀬たちは地下鉄の方へとふたくみにわかれた。
 その日、伸子たちは、川瀬や中館の仲間がよくそこで昼飯をたべているらしい、一軒の日本料理店で彼らとおちあった。外国にある日本料理店には、ほかのところにないしめっぽくて重い一種のにおいがしみこんでいる。それは味噌だの醤油だの漬けものだのという、それこそ恋しがって日本人がたべに来る食料品から、壁やテーブルへしみこんでいるにおいだった。ときわとローマ字の看板を出しているその店の、そういうにおいのある食堂の人影のない片隅で、醤油のしみのついているテーブルに向いながら、伸子、素子、中館、川瀬の四人がおそい昼飯を終った。
「ここのいいところは、ちょいと時間をはずすと、このとおりがらあきなことなんだ。――食わせるものは御覧のとおり田舎くさいがね……」
 ベルリン生活のながい川瀬は、懐(ふところ)都合とそのときの気分で、月のうちの幾日かは、顔のきく、そして大してのみたくもないビールをのまなくてもすむこのときわへ食事に来ていた。ベルリンのたべもの店には、ビールか葡萄酒がつきもので、それをとらない伸子たちは、食事ごとに、料理の代以外の税金みたいなものを酒がわりにはらわせられるのだった。
 その日それから伸子たちは美術館へゆく予定だときくと、川瀬勇は、
「丁度いいや。ね、きょう行っちまおう、どうだい?」
 大きい眼玉をうごかして、中館公一郎をかえりみた。
「ああ、いいだろう」
「なんのことなの?」
 二人の問答にすぐ好奇心を刺戟されたのは伸子だった。
「あなたがたも、美術館に用があるの?」
「そうじゃないんだが、どうせ君たち、ウンテル・デン・リンデンへ出るんだろう?」
「ほかに行きようがあるんですか」
 素子がきいた。
「やっぱり、あれが道順ですよ」
 柔かに説明する中館を見つめるようにして考えをまとめていた川瀬が、
「君たち、いま金のもちあわせがあるかい?」
 おもに素子に向って云った。
「――たいしてもっちゃいないけど……なにさ」
「君たちに、芝居の切符を買わせようと思うんだ。――どうせ観る気でしょう」
 川瀬はそこでウンテル・デン・リンデン街のわきにあるプレイ・ガイドのような店のことをはなし、伸子たちがあらかじめ順序だてて、ベルリンにいる間、見たりきいたりしたいものの切符を買っておく方が便利だろうとすすめたのだった。
「なるほどね、それもわるくないかもしれない」
 万更でもなさそうな素子の返事を、しっかりつかまえるまじめな口調で川瀬は、
「こうみえてても、われわれはいそがしいんでね」
と云った。
「君たちにはせいぜい、いろいろ見ておいて貰いたいんだけれど、とてもくっついて歩いていられないんだ。おたがいに負担にならない方法がいいと思うんだ」
「――わたしたちは、はじめからなにも君たちの荷厄介になろうなんて気をもってやしないよ」
「そりゃよくわかっているさ、だからね――妙案だろう?」
 川瀬はいくらか口をとがらして、大きな眼玉をなおつき出すように素子を見た。その拍子に、まじめくさっている川瀬の下瞼のあたりをちらりと掠めた笑いのかげがあった。伸子はそれに目をとめて、おや、と万事につけて川瀬のあい棒である中館公一郎を見た。例のとおりたださえ濃い眉の上に黒く丸く大きく眼鏡のふちを重ねた中館は、眼鏡がもちおもりして見える細おもてを、さりげなく窓の方へ向けて指の先でテーブルをたたいている。その中館の、表情をかえずにいる表情、というようなところにも何だか伸子をいたずらっぽい気持へ刺戟するようなものが感じられる。伸子は、
「あら……なんなんだろう」
 まばたきをとめて、当てっこでもするように中館を見つめた。
「――なにがあるの?」
「相談でしょう」
 芝居のせりふをいうときのような口元の動しかたで中館が答えた。
 自分たち二人分の勘定をはらったついでに、素子がテーブルのかげでこれから切符買いに行くために金をしらべはじめた。街頭に面して低く開いている窓から、ベルリンの初夏の軽い風が吹きこんで来て、その部屋のかすかな日本のにおいをかきたてる。
「川瀬さん!」
 ずるいや、という感じで溢れる笑い声で、ほどなく伸子が川瀬をよんだ。
「なに?」
「わかったわ――これはわたしたちにとって妙案であるより以上に、川瀬勇にとっての妙案だったんでしょう?」
「ふーん。そういうことになるかな」
 眉のあたりをうっすり赧らめたが、川瀬は青年らしくいくらか気取っているいつもの態度を崩さなかった。中館が、またせりふのように、
「小細工というものは、とかく看破されがちだね」
と云ったので、みんなが笑い出した。彼らのグループの間では公然のひとになっている愛人を、川瀬はどういう都合か伸子たちに紹介しなかった。伸子たちの方でもそれにはふれず、彼とつきあっているのだったが、川瀬はそのひとと過す夜の時間をつぶさないで、伸子たちにも不便をさせまいと、二人に前売切符を買わせておくという便法を思いついたにちがいなかった。
 金をしらべていて、三人の間の寸劇を知らなかった素子が、
「そろそろ出かけましょうか」
 女もちの書類入の金具をピチンとしめて立ち上る仕度をした。そして四人は、もよりの駅からウンテル・デン・リンデン街まで地下鉄にのりこんだのであった。

        十

 数日たってゆくうちに、伸子は、素子と二人ぎりで行動できるように前もって切符の買ってあったことに、思いがけない便利を発見した。一方に、伸子のまたいとこである医学博士、木曜会の幹事である津山進治郎がいることから、ベルリンで伸子たちが動く軸が二つになった。
 木曜会で伸子が小講演したあと、素子と二人が誘われたセント・クララ病院とベルリンの未決監病舎の見学は、どちらも全く官僚的な視察だった。セント・クララ病院は婦人科専門で、レントゲン設備が完全なことと、その医療的効果の高いことで知られているということだった。二十人ばかりの男にたった二人の女がまじっている日本人の視察団一行に応対したのは、六十ばかりの言葉が明晰で快活な尼だった。糊のこわい純白の頭巾が血色よく健康そうな年とった女の顔をつつんでいて、黒衣の上に長く垂れている大きい金色の十字架を闊達に揺りながら、一行を案内し、説明する動作には、現実的な世間智と果断さがあった。いかにも尼僧病院らしく、レントゲン室の欄間も白い天井をのこして、白、水色、紫の装飾的なモザイックでかこまれていた。伸子たちは、素人らしくそういう外観のドイツ趣味にも興味を感じ、おのずからモスク□の病院を思いくらべて参観するのだったが、木曜会の医者たちは、専門がちがうのか、それともセント・クララ病院のレントゲン室が噂ほどでなかったのか、質問らしいまとまった質問をするひともなかった。
 ベルリンの未決監獄は、アルトモアブ街に、おそろしげな赤錆色の高壁をめぐらして建っていた。一行が案内されて、暗い螺旋(らせん)階段をのぼって行くと、明りとりの下窓から中庭が見おろせた。中庭が目にはいった瞬間、伸子は激しく心をつかれ、素子をつついた。あまり広くない中庭のぐるりに幅のせまいコンクリート道がついていた。真中に三本ばかり菩提樹が枝をしげらしている。その一本ずつを挾んで稲妻型に、これも人一人の歩く幅だけのコンクリート道がついている。その道の上に、同じように褐色のスカートにひろいエプロンをかけた十人たらずの女が一列になって歩いていた。伸子は男連中にまじってその窓のところを更にもう一階上へとのぼりつづけて行ったが、その光景は心にやきついた。伸子は小声で、
「同じね、ローザの写真と」
と素子にささやいた。ローザ・ルクセンブルグが投獄されていたとき、女看守に見はられながら散歩に出ているところをうつした写真をモスク□で見たことがあった。ローザは、エプロンをかけさせられていた。そして、散歩場は、その窓からちらりと見えた散歩場そっくりに、せまい歩道が樹のある内庭をまわっていた。
 病舎の見学と云っても、見学団の一行は、舎房の並んでいる廊下をゾロゾロとつっきったばかりだった。丁度、昼食の配ばられている時間で、伸子たちが廊下を通りすぎるとき、一人の雑役が小型のドラム罐のような型の入れものから、金じゃくしで、液体の多い食餌をアルミニュームの鉢へわけているときだった。灰色の囚人服に灰色の囚人帽をかぶった雑役は、水気の多いその食べものを、乱暴にバシャバシャという音をたててわけていた。その音は伸子に日本の汲取りのときの音を連想させた。そこだけ一つドアがあいていて、ベッドの上に起きあがった病衣の男の、両眼の凹んだ顔がちらりと見えた。
 目に入るものごとが伸子に苦痛を与えた。伸子は、段々湧きあがって来る一種の憤りめいた感情でそれに堪え、一同についてレントゲン診察室に案内された。ひる間だが、その室は電燈にてらし出されていた。ぐるりの壁に標本棚のようなものがとりつけられていて、そのガラスの内部には、変な形にまがったスープ用の大きいスプーン。中形のスプーン。フォーク、そのほか義歯、何かの木片、櫛の折れたの、大小様々なボタン、とめ金などが陳列されている。津山進治郎の説明によると、それらの奇妙なものは、ことごとく囚人の胃の中からとり出されたものだった。未決監獄へいれられた囚人たちは、屡々(しばしば)自殺しようとしたり、病気を理由に裁判をひっぱろうとして、異物をのみこむ。その計画をこのレントゲン室はすぐ見破って、彼らは適当な処置をうける、というのだった。
 日本人の医学者たちは、未決囚の胃の中からとり出された異様な品々に研究心をそそられるのか、その室の内に散ってめいめいの顔をさしよせ、ガラスの内をのぞき、そこに貼られているレントゲン写真の標本を眺めた。標本写真の中には、靴の踵皮をのんでいる、二十二歳の男の写真というのもあった。自分の毛をむしってたべて、胃の中に毛玉をもっている男の写真もあった。伸子はある程度まで見ると、胸がわるいようになって来て、自分だけこっそりドアの方へしりぞいた。どういうずるい考えがあったにしろ、人間が自分の口からあんなに堅くて大きいスプーンをへし曲げてのみこんだり、靴の踵皮をのみ下したりする心理は普通でない。それほど、彼らを圧迫し、気ちがいじみたことをさせる恐怖があるのだ。監獄にレントゲン室が完備しているのを誇る、そのことのうちに、伸子は追究の手をゆるめない残酷さを感じた。気も狂わしく法律に追いつめられた男女の胃の中から、正確に気ちがいじみた嚥下(えんか)物をとりのぞいたとしても、人間の不幸はとりのぞかれず、犯罪人をつくりだしつつある社会も変えられない。それにはかまわずレントゲン室はきょうもあしたも科学の正確さに満足して、働きつづけるだろう。機械人間の冷酷さ! そうでないならば、ベルリンの警視総監ツェルギーベルはメーデーに労働者をうち殺したりはしなかっただろう。
 その日の見学には、伸子としてひとしお耐えがたいもう一つの場面がつづいた。レントゲン室から出ると木曜会の一行は、食堂へ案内されることになった。昼食の時間だから、この監獄の給食状態を見てくれるように、と云うことだった。伸子は、そこにも陳列棚があって、その日の献立にしたがって配食見本が陳列されているのだろうと思った。さっき廊下で雑役がシチューのようなものを金びしゃくでしゃくっていたときの音を思い出した。ああいう音は、陳列されているシチューからはきこえて来ないのだ。しかも、ここに入れられている人々にとって切ないのは、シチューそのものより、あの食わせられる音だのに。――
 伸子は、陰気なきつい眼つきで、人々のうしろから明るい食堂へ歩みこんだ。そして、そこへ立ちどまった。食堂に用意されていたのは、簡単ながら一つの宴会だった。
「どうも、こりゃ恐縮だな」
 いくぶん迷惑そうに日本語でそういう誰かの声がきこえた。案内の役人は、特に女である伸子たちに、
「どうぞ(ビッテ)、どうぞ(ビッテ)、席におつき下さい」
 自分が立っている真向いの席をすすめた。食堂には五六人の雑役が給仕のために配置されている。灰色服に灰色囚人帽の彼らは軍隊式な気をつけの姿勢で、テーブルから一定の距離をおいて直立しているのだった。どの顔にも、外来者に対するつよい好奇心がたたえられていた。伸子が、その示された席に腰をおろそうとしたとき、うしろに立っていた若い一人の雑役が、素早い大股に一歩ふみ出して、伸子のために椅子を押した。
 みんな席について、さて格式ばった双方からの挨拶が短くとりかわされて、見学団一行の前に、ジャガイモとキャベジの野菜シチューの深皿が運ばれて来た。
「これがきょうの囚人たちの昼飯だそうです。さっき廊下を通られたとき配給されていたのと全くおなじものだそうです」
 役人のとなりに席を与えられた幹事の津山進治郎がみんなに説明した。同じもの……と心につぶやいた。同じもの――そう――でも、何と別なものだろう。伸子は、えづくように、バシャバシャいっていたあの音を思い浮べた。
「ほかに御馳走はありませんが、この皿はどうかおかわりをなすって下さるように、ということです。なお、いまここに出ているものは、みんな囚人たちのたべるものばかりだそうです」
 真白い糊のきいたクローズをかけたテーブルの上には、各人にパンの厚いきれとバターがおかれているほか、皿にのせられたチーズの大きい黄色いかたまり。四角いのと円い太いのとふた色のソーセージを切ってならべた大皿。ガラスの壺にはいった蜂蜜。菓子のようにやいたもの、干果物などがならべられている。これはみんな囚人たちのたべるもの――でも、それは、いつ、どれを、どれだけの分量で、彼ら一人一人に与えられるというのだろう。客たちが説明され、そしてたべるのをじっと目をはなさず見守っている雑役たちの瞳のなかに、伸子は、彼らが決してこういうものをいつもたべているのでない光を認めずにいられなかった。雑役たちは、じっと視線をこらして客のたべるのを見ている。全身の緊張は、いつの間にか彼らの口の中が、つばでなめらかになっていることを語っていた。テーブルの上にのっているものはみんなお前たちのものだと云われながら、現実にはそれの一片にさえ自由に手を出すことを許されていない人々に給仕され、見まもられて、客としてそれらを食べることは、何という思いやりのない人でなしのしうちだろう。姿勢を正して立っている雑役たちの眼の表情に習慣になっているひもじさがあらわれている。皮肉も嘲笑も閃いていない。そのことが、一層伸子を切なくした。その明るい未決監獄の客用食堂の光景は静粛で、きちんとしていて諷刺画の野蛮さがかくされていた。
 このアルトモアブ街の未決監獄からのかえり、伸子はすぐ下宿へもどらず素子と二人、ながいこと西日のさすティーア・ガルテンの自然林の間を散歩した。こんなとき、伸子たちが川瀬たちとの約束にしばられず二人ぎりで行動できることはよかった。
 伸子たちはまた同じ木曜会の一行に加って、ベルリン市が世界に誇っている市下水事業の見学もした。下水穴へ、日本人が一人一人入ってゆくのを通行人がけげんな目で見てとおり過る大通りのわきの大型マンホールから、鉄の梯子を地下数メートル下って行ったら、そこがコンクリートのトンネル内で河岸のようになっていた。湿っぽい壁に電燈がともっている。その光に照らされて、幅七八メートルある黒い川が水勢をもって流れていた。それは、ベルリンの汚水の大川だった。自慢されているとおり完全消毒されている汚水の黒い大川からは、これぞという悪臭はたっていない。ただ空気がひどく湿っぽく、皮膚にからみつくようなつめたさと重さだった。大都会の排泄物が清潔であり得る限界のようなものを、伸子は、その大下水の黒い水の流れから感じた。
 こうして、伸子と素子とは川瀬や中館たちが彼女たちに見せるものとはまるでちがったベルリンの局面を見学するのであったが、案内する津山進治郎にとって、こういう見学は云わば公式なものというか、木曜会の幹事という彼の一般的な立場からのものだった。津山進治郎自身としては、もっとちがった、もっと集中的な題目があった。それは「新興ドイツ」の再軍備についての彼の関心である。

        十一

 ウィーンに滞在していた間、伸子はそこの数少い日本人たちが、公使館を中心にかたまっているのを見た。ものの考えかたも、汎ヨーロッパ主義だとか、ソヴェトに対する云い合わせたような冷淡さと反撥と、オーストリアの社会民主党政府の、そのときの調子とつりあった外交団的雰囲気にまとまっているようだった。ベルリンへ来たら、伸子は寸刻も止らず動いている大規模で複雑な機構のただなかにおかれた自分を感じた。ベルリンにいる日本人にとって大使館はウィーンの公使館のように、そこにいる日本人の日常生活の中心になるような存在ではなく、大戦後のインフレーション時代からひきつづいてベルリンに多勢来ている日本人は、めいめいが、めいめいの利害や目的をもって、互に競争したり牽制しあったりしながらも、じかにベルリンの相当面に接続して動いているのだった。だから、噂によれば医学博士としてベルリンで専心毒ガスの研究をしているという津山進治郎がドイツの再軍備につよい関心を抱き、一方に同じ日本人といっても川瀬勇や中館公一郎のグループのように、映画や演劇、社会科学と国際的なプロレタリア文化運動に近く暮している一群があることは、とりもなおさずベルリンの社会の姿そのものの、あるどおりのかたちなのだった。
 ある午後、伸子はいつものとおり素子とつれだってドイツ銀行へ行った。文明社から伸子のうけとる金が来た。不案内で言葉も不自由な二人は手続が前後して、二度ばかり一階と三階との間を往復しなければならなかった。百貨店を思わせるほど絶え間ない人出入りのある一階正面で、上下しているエレベータアには、手間と時間をはぶくというベルリン流の考えかたからだろう。ドアもなければ、それぞれの階で止まってゆくという普通の方法もはぶかれていた。エレベータアにのるものは、あけっぱなし無休止の箱(ケージ)が自分たちの前へゆるくのぼって来たり下って行ったりした瞬間をとらえて、せわしくその中へ自分をいれるのだった。その乾きあがった気ぜわしさがどうにもなじめなくて、伸子は一台の箱(ケージ)をやりすごしたまま、立っていた。折から下りて来たエレベータアの箱(ケージ)が、床からまだ十数センチもはなれて高いところにあるのにそれを待てないで、とじあわせの紙をヒラヒラさせながら若い一人の行員がその中からとび出て来て、半分かける歩調で窓口の並んだホールの奥へ姿を消して行く。必要以上に全身の緊張を感じて箱(ケージ)へ入るとき、必要以上に脚をもち上げるような動作で伸子と素子はやっと三階へ往復する用事をすませた。そしてほっとして窓口のならんでいる一階のホールへ行ったときのことだった。大理石の角柱がたち並んだ下に重りあってこみあって動いている外国人のあまたの顔の間から、伸子はちらりと一つの日本の顔を発見した。伸子は、
「あら」
 小さく叫んで素子の手にさわった。
「あすこにいるの、笹部の息子じゃない?」
 そう云うひまも伸子の視線は、人ごみをへだてて、一本の角柱の下に見えがくれするその特徴のある日本の顔を追った。伸子は異様な錯覚的な感覚にとらわれた。見もしらない、よそよそしい外国人の顔に満ちているこの雑踏のなかに、偶然、写真ながら伸子が少女時代から見馴れている文豪笹部準之助の顔があったことは、伸子の感情をとまどった興奮で波だたせた。笹部準之助がなくなってから、その長男が音楽の勉強にベルリンへ来ているということは、きいていた。ゆたかな顎の線と眼の形に特徴があって、笹部準之助の晩年の写真には、渋くゆたかな人間の味が一種の光彩となり量感となってたたえられていた。伸子は、その人の文学の世界への共感というよりも、その人を囲んだ人生のいきさつとして、心にうごくものなしに、その写真を見ることができなかった。
 笹部準之助その人がなくなってから、夫人の思い出が発表された。それには、夫人の現世的でつよい性格がにじみ出ていた。良人である明治大正の文学者笹部準之助が自身の内と外とに、ヨーロッパ精神と東洋、特に日本の習俗との矛盾や相剋を感じながら生きていた、その内面のこまかい起伏に対して、妻として、むしろわけもわからず気むずかしい人としてだけ語られていた。
 笹部準之助の文学の世界に目を近づけてみれば、そこには男女の自我の葛藤が解決を見出せないままに渦巻いている。伸子は、相川良之介の、遂に生き得なかった脆(もろ)く美しい聰明に抗議を抱いて生きる一人の女であった。それと同時に、もう一つ前の時代の笹部準之助の文学が、無解決のまま渦の巻くにまかせてそれを観ている人生態度にも服さないで、自分の生活で、きょうの歴史には別の道をきりひらく可能があるということをたしかめたくねがっている女である。ベルリンの機械化されたテンポに追い立てられて、まごつきながら抵抗を感じ、不機嫌な表情でドイツ銀行のホールに現れた伸子は、せっかちぎらいの気持でいっぱいになっていた。そこへはからず笹部準之助そのままの顔だちを見つけた瞬間、伸子の感情のつりあいはやぶれて、いきなり自分が人生や歴史のうちに模索していて、まだ解決していない課題が、生きた顔でいきなりそこへ現れたような感じだった。あら、と小さく叫んで手袋をはめている自分の手を素子の手にふれたとき、自分の爪先まで走った衝撃は伸子の体じゅう、生活じゅうに通うものだった。
 大理石の角柱の下に誰かを待ち合わせていたらしい笹部準之助の顔は、遠くから、やきつくような視線が向けられていることを感じたらしく、人のゆき来の間からいぶかしそうに伸子が立っている方角へ眼を向けた。すると、その顔も伸子が伸子であることを間接に認めたらしく、視線にかすかなほほ笑みの影をうつした。その表情で、顔は一層写真にある父笹部準之助の顔だちに近くなるのだった。
 伸子は風に吹かれるように異様な心持につつまれた。ベルリンのこの人ごみで、伸子をこんなに衝撃する笹部準之助の顔が、つまりは顔だちばかりのもので、生の過程そのものは二度と父であり得ない息子のものだということは、何ときびしい暗示にみちた現実だろう。その顔が、いま伸子の見ているところでどことなく気弱そうに人波にもまれ、ある瞬間には見え、次の瞬間にはまたかくされて、見えがくれしている姿も、伸子に人生というものを感じさせずにいない。
 伸子は、あんまり父そっくりな顔だちをもって生れた笹部準之助の息子にいたましさを感じた。彼は彼の顔からにげ出すことは出来ないのだ。その顔は、ベルリンにいようとロンドンへ行こうと、そこに日本人がいて、その日本人が笹部準之助という名を知っているかぎり、写真を見おぼえているかぎり、この親の立派な顔だちをうけついだ青年のぐるりに一応は、父の文学への連想によって調子のつけられた環境がつくられてしまうにちがいないのだ。どんな力で彼はその境遇から身をふりほどくだろう。
 あくる日、プラーゲル広場の角のカフェーで川瀬たちと落ちあったとき、伸子はドイツ銀行の人ごみの間で見かけた笹部準之助の息子のことを彼らにはなした。
「ああいう人はあなたがたと、ちっともつき合わないの?」
「――まあ別世界だね」
 大きい眼玉をうごかして川瀬勇が返事した。
「ああいう連中は、どこへ行っても、ちゃんと、とりまきってものがあってね。――いわばお仕着せの人生なんだ」
「そんなもん、蹴っちまったらいいじゃないか、ばかばかしい」
 むっとした口元で素子が云った。
「かんじんのおやじは、牛鍋が御馳走で、あれだけの仕事をのこしたんじゃないか。そのことを考えりゃいいんだ」
「子供の時分から、何のかの、とりまきに馴れて育ったものは、やっぱりそれがないと淋しいんだろう。それに、はたもいけないさ、てんでに目下俗人に堕しちまっているもんだから、あの顔をみると、いやにセンチメンタルになって、笹部準之助の作品をよんだ自分の若かりし日を回顧する気になったりするのが多いんだから。それが所謂相当の地位にいるからなお毒なのさ」
 ベルリンには、伸子や素子のように、短い滞在の間、あれにも、これにも触れようとしているもののほかに、また、ドイツ銀行の人ごみで偶然見かけてもう二度と会うこともなさそうなこういう笹部のような名流子弟もいるわけだった。互に知らないベルリン在住の日本人の、ほとんどすべての顔をそこの主人は知っている一つの場所があった。それは「神田」という日本人のやっている土産店だった。

        十二

 津山進治郎は、ベルリンで出会った伸子の心の日々にはこういういきさつもあり、同時に、モスク□の一年四ヵ月というそこでの生活から彼女がここへもって来ているいろいろの生活感情がある。という事実にとんじゃくのないところがあった。
 伸子たちが会うときは、とかくいつもくたびれているソフト・カラーがものがたっているように、金の使いかたのこまかい津山進治郎は、女づれでも、塩豚とキャベジを水っぽく煮たようなベルリンの小店の惣菜をふるまった。津山進治郎は世間でいうりんしょくからそうなのではなくて、彼のやりかたには、万事万端、何か一つのことを激しく思いこんでいて、わきめもふらずそれを追いこむことに没頭している人間の、はたにとん着ない馬力とでもいうようなものがあるのだった。
 大柄のがっしりした体に灰色っぽい合服をつけ、ソフト・カラーで太い頸をしめつけている津山進治郎は、すこしねじれたように結んでいる、くすんだ色のネクタイをゆすって伸子たちに云うのだった。
「とにかく日本人はドイツのやりかたをもっともっと本気で研究する必要がある。大戦後のあのドイツが、どうです、もうそろそろ英仏を追いぬきかけて来ている。クルップだって、ジーメンスだってイー・ゲーだって――これは世界有数な染料工場ですがね。おどろくべき発展をとげている。レウナの窒素工場と云えば世界最大のものだが、これなんか、御覧なさい。現在生産しているのは肥料ですよ。ドイツの農業を躍進させたのはレウナだという位だが、一旦ことがあればこの大工場が、そっくりそのまま強力な軍需工場に転換するような設備をもっている。日本でもだいぶこのごろは生産の合理化っていうことが云われて来ているらしいが、どうして! どうして! ドイツのやっていることにくらべれば、おとなと子供だ。――まあ、それにしろ云わないよりはましですがね」
 そして、津山進治郎は、伸子たちにもっとすすんだ説明をした。
「御婦人のあなたがたには無関係なことだろうが、これというのも、ドイツが戦後、高度なトラスト法をとるようになって、はじめて成功したわけです。トラスト法というのはね。『わかれて進み合してうつ』という有名なモルトケ将軍の戦術を、産業上に応用した独特の方法なんです」
 こういう話のでたのは木曜会員の一行がベルリンの下水工事を見学し、解散したあとのことで、津山進治郎、伸子、素子の三人がその辺の小店で昼飯をたべたときのことであった。津山進治郎の話がすすむにつれて伸子の眼は次第にみはられた。しまいにはくいいるような視線で彼のきめの粗い、ほこりっぽいほどエネルギーにみちた顔を見つめた。伸子は、しんからおどろいたのだった。資本がますます独占されてゆく形として第一次大戦後のドイツにトラストが発展して来ている。それは世界平和の危険として注目されているのに。――ドイツの少数の企業家たち、軍需企業家たちが寡頭政治で独裁権をつよめて来ているからこそ、ドイツの大衆の固定的窮乏と云われるものが生じているのに。――伸子が、おどろきと、好奇心を動かされたのは、津山進治郎が、トラストというものを、ほんとに彼の説明どおりのものとして――モルトケ将軍の戦術という側からだけ理解しているらしいことだった。何につけても、ドイツの再軍備の面に関心を集中させている津山進治郎は、ドイツが国をあげてこの次の戦争には是が非でも勝とうと復讐心をもって準備している、そのあらわれとして、トラストも説明してきかせるのだった。彼の話をきいていると、トラストやコンツェルンというものは、ドイツの軍国主義から発明されて、ドイツにしかないものであるかのような錯覚があった。石炭液化とか人絹工業のように。でも、伸子がよんだり聞いたりしてもっている知識や実例のどこをさがしても、トラストは、資本主義の経済のしくみそのものからおし出されて来る資本集中の過程だった。そうでないなら、どうして、こんにちのヨーロッパの経済を動かしているものは僅か三四百人の実業家であると云われているのだろう。三四百人の軍人であるとは云われないで。――
 産業合理化はドイツの国内に進んでいるばかりでなく、製鋼その他は国際カルテルにまでひろがっているということを、津山進治郎は「新興ドイツ」の制覇として話すのだった。おそろしく素朴で、しかも自分の云っていることにゆるがない確信をもっている津山の話しぶりは、世界経済についてよく知らない伸子をも、ますます深くおどろかした。
「じゃあ、津山さんも、またああいう戦争がおこった方がいいと思っていらっしゃるの?」
「――いいというわけはないが、どうみたってドイツとして、このままじゃすまんでしょう」
「どこが相手?」
「そりゃ、ドイツにとって伝統的な敵がある」
 それは、フランスというわけだった。
「むこうだって、このまんまの状態が永久につづくとは思ってはいない。国境に、あれほど大規模な要塞建造をやろうとしているじゃないですか」
 フランスに対してばかりではなく、ドイツの一部には、国境の四方へ憎しみの目をくばっている人々がある。それは伸子もわかっていた。でも――
「もう一遍戦争すればドイツはきっと勝つと、きまってでもいるのかしら」
「そんなことは、時の運だ」
 いかにも伸子の女らしいこわがりと戦争ぎらいをおかしがるように、津山進治郎はこだわりなく大笑いをした。
「ドイツとしちゃ飽くまで勝つべくやるのさ。それが当然だ、そして十分の可能性がありますね」
「――へんだわ」
 伸子が若い柔かな体ごとそこへ坐りこんだような眼つきになって津山を見つめた。
「そんなことしたって、やりかたがもっともっと残酷になって行くばっかりじゃありませんか――土台を直そうとしなけりゃ……」
 一九一八年十一月七日、ドイツの無条件降伏のニュースがつたわって、酔っぱらったようになったニューヨーク市の光景が閃くように伸子の記憶によみがえった。ニューヨークじゅうの幾百というサイレンが、あのときは一時に音の林を天へ吹きつけた。ウォール街(ストリート)を株式取引所の横道へかつがれて来たカイゼルの藁人形に火がつけられ、その煙が流れる往来でニューヨーク市民は洪水のような人出によろけながら笑って、叫んで、紙ぎれをぶつけあって、見も知らない男女がだきあって踊った。夜じゅう眠らないでニューヨークの下町に溢れた群集は、どの顔も異様な興奮で伸子にとってはみにくくおそろしかった。征服欲の満足と歓喜で野蛮になっている群集の相貌というものを、伸子はそのときはじめて見たのだった。それからひきつづき伸子は心のうちに深い疑問をめざまされたものの目色で、次第に虹の色をあせさせながら実利の冷たさにかたまってゆく人道主義的な標語と、ニューヨーク・タイムズにあらわれる兇猛な辻強盗(ホールド・アップ)の増加と、ヨーロッパから着く船ごとにエリス・アイランド(移民検疫所)へおくられるおびただしい戦争花嫁と戦争赤坊の写真を見たのだった。伸子が痛感したのは、世界大戦について最も厳粛な感想をもっているのは、必ずしも平和克復という舞台の上でいそがしくしゃべっている人々ではないということだった。夫や愛人や父をもう二度とかえらぬものとして戦死させた家族の思いは、大戦を通じてその富を益々ふくらませた「永遠の繁栄」の、厚かましいほどの溢れる元気とは、おのずからちがったしらべをもって戦後というものを生きている。そのことを伸子は感じずにいられなかった。得意と、偽善に気づかない一人よがりで生きているものへの反感が、伸子の場合には自分の育った家庭の空気への反撥ともつれ合った。佃と結婚するようになって行った伸子の気もちは伸子自身がそれほど自覚していなかったにしろ、もえる大気のように不安定にゆれていた一九一八年の秋からのちの雰囲気ときりはなせないものだった。
「わたしは戦争ってものは、むごたらしいものだと思うの」
 なお苦しげなまなざしを津山の眼の中にすえたまま伸子がつづけた。
「そして、悪いことだわ。一番わるいことは戦争で得をする人間に限って、決して自分で戦争しないですまして来ていられた、ということよ。津山さん、そうお思いにならない? そして、戦争なんて、ほんとにひどい間違ったことだっていうことを決して正直に認めようとしないことだわ。むき出しの資本主義の病気だのに。愛国心だの、正義だのって――何て云いくるめるんでしょう」
 伸子はつきささるような口調になって行った。
「もし、まだ戦争がしたりないっていうんなら、こんどこそ、あなたのおっしゃる『モルトケ戦術』で儲けている人たちだけの間でやってもらいましょうよ。結局、自分たちの儲けのためにやる仕事なら、その人たちの間だけでやるがいいんだわ」
 そう云ったとき、伸子はテーブルの下で、痛いほど靴のつまさきをふみつけられた。伸子はさとった。素子が合図をしたのだということを。気をつけて口をきけ、そう警告しているのだということを。
 津山進治郎は、伸子のいうことをだまってきいていたが、やがて相手の話から一つも本質へ影響をうけないものの平静さで、
「あなたのような考えも、或は正しいかもしれんさ。しかし理想だ」
 意外なようにおだやかな語調で云った。
「あるいは、現代の人類がまだそこまで進歩していないのかもしれない」
「そうは云えないと思います。だって、ソヴェトがあってよ。社会主義は、とにかく、もうはじめられているのよ。それだのに、世界じゅうは、一生懸命それを認めまいとしているのじゃないの、それはなぜなの?」
 重い大柄な体のつくりのわりに額は低く、濃い生えぎわが一文字に眉へ迫っている津山進治郎の顔には、伸子の言葉でどういう表情の変化もあらわれなかった。彼は、おちついて、
「そりゃ、まだ社会主義ってものが一般法則になっていないからだ」
と云った。
「例外は、いつだってありますよ。しかし例外は一般法則ではないんです。そうでしょう? ロシアはああなっても、よそはよそで、まだ別の方法を信じているし、それで成りたってゆく条件をもっているんだ。だから、より普遍な法則の中で行われる生存競争には、その方法でもって勝たねばならんというわけですよ。ドイツはヨーロッパの中の『持たざる国』なんだから」
 そして、伸子は津山進治郎から、ドイツ軍備の内容をきかされた。国際連盟は、ドイツの軍国主義を監視して国防軍十万ときめている。けれども、その十万人の陸軍の中に、出来るだけ旧ドイツ軍の将校たちを保有していて、この十万と、やっぱり旧軍人からなる警官隊十五万とに、連盟の規定を最大限にくぐりぬけた武装を与えている。そのほか自衛団、応急技術団、将校同盟団、いろいろの名目で旧い、軍隊組織を仮装させている。
「海軍だって、一万トン以上の軍艦はつくれないことになっているんだが、この頃ジュラルミンと云ってアルミニュームより軽くて丈夫な新発見の軽金属をつかうことをやりはじめているんです。ドイツじゃ商船だって、ちゃんと規格があるし、航空路だって無意味にこんにちだけ拡げたわけじゃない」
 ことしのメーデーにベルリンの労働者が殺されたとき、すべての新聞はそれを警官隊のしわざと報じた。メーデーの労働者群と警官隊とはつきもののように思う習慣がつけられている国の人々は、ひどいことだが警官のしたことと、そこにまだ何かゆるされるべき余地があるように印象づけられている。だが、津山進治郎が話してきかせるとおりなら、メーデーに労働者を射ち殺したのはつまりドイツの軍隊だったのだ。タンクをもって、機関銃をもって、ベルリンの労働者を掃射したのは、ドイツの軍隊だったのだ。国内でもう彼らは人殺しをはじめている。国際連盟が、ドイツ国内の治安という口実で、十五万人もの武装警官隊を許可したとき、ことしのメーデーに起ったようなことは、見ないふりする用意をもったのだ。津山進治郎が現にドイツの国内におこっているそういうおそろしいことには全く無頓着で、ドイツ再軍備のぬけめなさとしてばかり称讚するのを、伸子は言葉に出して反撥するより一層の注意ぶかい感情をもってきいた。ドイツについてこういう考えかたをもつ人が、自分の国の日本へかえって別の考えようになるはずはない。その意味ではいまベルリンの小料理屋にいる津山進治郎と、労農党の代議士へ暗殺者をけしかけた人々との間に共通なものがある。そして、津山進治郎は、自分がそれを意志するわけでなくても日本における同じような考えかたの人々の間で、ドイツ式最新知識の伝授者となるだろう。医学博士という彼の科学の力を加えて。――この考えのなかには、伸子の気分をわるくさせるようなものがあった。伸子は津山進治郎に説得されず、津山進治郎も伸子の考えから影響されることなく、やがて三人はシャロッテンブルグ通りの横丁の小店から出た。
 伸子と素子とはそこから、ニュールンベルグ広場まで地下鉄にのった。ベルリンの地下鉄は日本の山の手線のように、のんびりと一本の環状線で市の周辺をとりかこんでいるのではなかった。いくつかの比較的短い距離の循環線に区切られて、一つ一つの区切りが、鉄道の幹線駅に接続している。津山からああいう話をきいたあとでは、自分がのってゆられているベルリンの地下鉄のこういう区切りかたにも、伸子は軍事的な意図を感じた。底意をかくしながら几帳面な都会。ベルリンには意趣がふくまれている。
 清潔で広々した地下鉄のプラット・フォームから、伸子たちは街上へ出た。もう二日三日で六月になろうとする太陽の熱は、大気のなかへかすかにアスファルトに匂いをとかしこんでいる。ニュールンベルグ広場の四つの角に、ベルリン得意の自動交通信号機がそびえたっていた。機械が人間の流れを指揮するぎくしゃくしたいかめしさで、縦通りが赤、橙、青と、三つ並んだ眼玉の色をかえてゆくと、それに交叉する横通りのシグナルは、青、橙、赤の順で信号を与える。
 伸子と素子とがその角へさしかかったとき、丁度信号がかわって、二人が行こうとしているプラーゲル街の方向に赤が出た。伸子は神経のつかれた感じで行手をいそがず、頭をあげて信号の色を眺めていた。白昼の外光を巧みにさえぎった黒い庇の中で、濃い橙色が、人工的に鮮やかな青色のシグナルにとびうつった。そのとたん、まるで映画のタイトルでも読んだようにはっきり、日本のファシスト、ベルリンで孵(かえ)る、という文句が伸子の心にうかんだ。そのひとつらなりの言葉は、病的なはやさでそれ自身を配列させながら津山進治郎の額の低い顔やきれいでないソフト・カラーにしめつけられている太い頸にからみついて、表現派映画のように伸子の心の中で大きくひと廻転した。

        十三

 雨の夜で、伸子が窓ぎわに立って外の往来を見おろしていると、レイン・コートを着た男と女のひと組が、むこう側の歩道をいそぎ足に通りすぎて行くとき、ネオンの光が、おもやいにさしている濡れた雨傘の上に赤々と流れた。
 クリーム色と緑の配色で壁や椅子が飾られている下宿ルドウィクのその室に伸子は一人で、テーブルの上に「戦旗」の旧い号が二冊ひろがっている。伸子は、初めてその雑誌を見た。一冊の表紙にはソヴェトの石油工場らしい写真が、もう一つの方には、外国の鉱山夫らしい男が片手に安全燈のようなものをぶら下げながら笑い顔でこっちへやって来る写真がつかわれている。全日本無産者芸術連盟機関誌として去年のなかごろから発行されるようになったその雑誌には、伸子がこれまで日本の雑誌で触れたことのない新鮮さと、国際的な触手と、闘争の意志があふれているのだった。川瀬勇が「戦旗」へ、伸子もなにか寄稿するようにと云ったとき、伸子ははじめてその名を知った。
「ほう、見たことないの。モスク□へは送ってるのかと思っていた。――こっちのリンクス・クルフェ(左翼曲線)みたいなものだがね」
 川瀬がそう説明した「戦旗」には、評論家篠原蔵人や詩人の織原亮輔、森久雄などの論文のほかに、在ベルリン鈴村信二という名でドイツ労働者演劇に関する覚え書という記事もあり、ピスカトールの演劇論と大戦後の有名な反戦諷刺小説「勇敢な兵士シュウェイクの冒険」の舞台が紹介されていた。一冊の、ソヴェト革命記念号には、小林多喜二というひとの「一九二八年三月十五日」という小説がのっていた。「前哨戦」という同人語の欄で篠原蔵人が、その小説について書いていた。「成程そこには非常に多くの芸術的欠陥がみられる。だが、作者が我々に最も近い、最もヴィヴィッドな問題を小さなエピソードとしてではなく、大きな時代的スケールの中に描き出そうとした努力のなかには、プロレタリア文学の今後の発展に対する一つの重要な暗示が含まれている」と。
 伸子は「戦旗」をかりて来た日から、折にふれてはその二冊をかわりばんこにくりひろげて、読んで見るのだった。そこにのっている小説は、どれも戦争反対の主題や権力の横暴をばくろした作品だった。プロレタリア作家とよばれている人々がそういう主題を選んで書くことや調子に激しさのあることは、伸子にもその必然がよくわかった。三・一五の事件があってから、ひろくもない日本のなかで、革命的な大衆は、弾圧の二十四時間の中で生きなければならなくなっているのだから。その余波は、形こそかわっているがモスク□の伸子の生活にまで及んだ。
 けれども――それにしても、と、伸子の心はこれらの小説についての疑問をいだいた。そこではすべての小説が叫びのようだった。これらの小説には何とたくさんのエキスクラメーション・マークがあるだろう。そして、小説の世界は、その小説を書いている人たちが階級的な亢奮で力を入れてこわばらしている肉体そのもののように、主題を主張し、こわばって、封鎖されている感じがした。読むものが、そのときどきの心のまま、ひとりでにその小説の世界へはいって、いつかそこに表現されている世界にとけ入るような戸口がついていないように、伸子には息づまって感じられるのだった。
 無産派の小説は伸子がまだ日本にいたころにあらわれはじめた。「セメント樽の中の手紙」「施療室にて」「三等船客」そんな小説があった。それらはそういう人々の生活と文学とから遠く暮している伸子にも感銘を与える強烈なものがあった。そこには、金のない民衆、みじめな人間、破綻におかれた人間の生な情熱の爆発があった。しかし、プロレタリアートというものの意味はつかみ出されていなかった。それから、丁度伸子たちがモスク□に立って来る前後から、ひとくるめに無産派の文学と云われていたグループの中に階級性の問題がとりあげられ、アナーキズムとマルクシズムの対立、そして分裂がおこった。伸子と素子がモスク□で暮した一年半ばかりの間に、マルクス主義に立つ文学を求める人々のグループが「文芸戦線」から分離して、やがていま伸子が見ているような「戦旗」も出されるようになった。伸子が川瀬にかりてルドウィクの部屋へもって来た二冊の「戦旗」のこまごました記事は、「文戦」が社会民主主義者のあつまりでしかないこと、新労農党を支持する日和見主義者たちであることを痛烈に非難しているのだった。
 去年の夏、レーニングラードにいたとき弟の保が自殺した。それから、伸子は一つも小説をかいていなかった。旅行記もかいていなかった。保の自殺から打撃を蒙って、ものがかけなくなったというよりも、伸子の場合は、その深い打撃から立ち直って来たとき、伸子はどこやらもとの伸子でなくなってしまったからだった。これまでのとおり自分の小説の世界へおちつけず、それならばと云って、自分を何に表現していいか分らないようなところのできた伸子として、伸子は、ベルリンに来ているのだった。
 ルドウィクのベルリン風に清潔だが情趣にとぼしい室のなかで、雨の降る夜の街を窓の下に眺めながら、伸子は、テーブルのまわりをぶらついていた。小林多喜二という人の「一九二八年三月十五日」という小説は、連載の一部だった。その小説には、ほかの作品にない骨格の大きさが感じられ、人間の心と体の動きのあったかく重い柔軟さもにじんでいた。闘士龍吉の妻であるお恵が、スパイをいやがり、残虐な横柄さをきらい憎む感情の描写が、伸子に共感された。お由も伸子にわかり、会社員佐多とその母親の素朴で真情のある描きかたは、この小説の背景となっている北の国のどこかの港町に生きている人々へ伸子を結びつける。でも、どうしてこの小説にはこんなにビクビクとかモグモグとかネチネチ、モジモジ、ウロウロという表現がばらまかれているのだろう。手数をいとわず、そして実感をもって描写されている小説の他の部分とくらべて、伸子にはそれが不可解だった。作者が、気づかずつい書いてしまっているのだとは思えなかった。不注意ということで、こんなにくりかえしがされるものだろうか。
 伸子は、雨にぬれた街の夜空に赤くネオンが燃えている窓からはなれて、テーブルへもどり、またその小説のところどころをあけて見なおした。同じ号に「解決された問題と新しき仕事」という織原亮輔の論文があり、その前月号に篠原蔵人の「芸術運動における左翼清算主義」森久雄の「プロレタリア大衆文学の問題」というのがあった。レーニンやルナチャルスキーの引用にみちているこれらの論文はどれもプロレタリア文学そのほか階級的な芸術運動が、大衆の生活へ結びついて行かなければならないということについての討論だった。結論として、誰にでもわかるような小説の必要ということが力説されていた。小林多喜二という人は、もしかしたらやさしい小説をかこうと思って、ビクビクとかモジモジとかいう表現を、こんなに多すぎるほどとり入れたのではなかろうか。伸子は、このモグモグビクビクのために、せっかくしっとりした小説の世界は安価にさせられ、重量を失っていると感じた。しかし、と、伸子はまた視点をうつして考えるのだった。伸子がそう感じるということが、とりもなおさず、ルナチャルスキーが排除しなければならないものと云っている、そして森久雄がこの雑誌の論文に引用している「あらゆる芸術的条件性及び洗煉性」だと云うのだろうか。伸子自身は、「洗煉性」の中で腐ってゆく文学に反抗しつづけて来ている自分として感じているのではあったが。――
 二冊の「戦旗」の記事には伸子にわかるところと、わからないところがあった。全日本無産者芸術連盟は略称をナップNAPFと云っていた。その常任委員会の名で「論争の方法に関する意見書」というものが「戦旗」にのっていた。その文章は、伸子をひそかにおどろかすのだった。云われている意味は、議論のための議論にとらわれてしまうのは間違っている、という尤(もっと)もな、わかりやすいことらしかった。そのわかりやすいことをいうのに、この意見書の云いまわしはその趣意とは正反対に、口のはたがこわばっている人がいう言葉のようにぎごちなくて、大がかりに理窟っぽい言葉をひきずりまわしている文章だった。それでも、マルクシストであるこの人々が、こういう文章をかくのは正しくて、悪文というのは間違いなのだろうか。同じような伸子の当惑は、篠原蔵人そのほかの人々が書いている論文からも与えられた。これらの人の云いまわしから、伸子にとってはよけいだと思える箇所をみんな一応どけて見て、はじめて伸子に論文の趣意がつかめた。そういうしまつだけれども、そのむずかしく混雑した論文は、プロレタリア文学は、誰にでもわかるものでなければならないことを主張するために、かかれているものなのだった。
 こういうことは、みんな伸子によくわからなかった。日本のマルクシストという人々の間に習慣づけられている特定の用語法。あたりまえの言葉づかいをしているものには変に思えるまわりくどさ。そこにある不思議な矛盾を、伸子はまじめに苦しさをもってうけとった。駒沢の家へ見知らぬ人が訪ねて来たときのように、篠原蔵人の書くものはわからないわ、引用だけのようで、とほほえんでいる気持は、もうきょうの伸子にはなかったから。それらの人々の目に映る伸子が何であるにしろ、伸子自身は明日に自分をむすびつけずにはいられないし、そういう云いまわしと無縁な自分を感じて居られなくなっているのだから。――
 一見非常に堅牢そうに、理論で組みたてられているように見えるもののうちにあって、誰からも気づかれずにいる奇妙な矛盾。伸子は、ふと似たようなものが、ベルリンにいる川瀬勇たちの生活気分のうちにもあるのではないかしらと思った。
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