道標
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著者名:宮本百合子 

「そう思える?」
 二人の前に贅沢らしく照り輝やいているその公園通りのどこの隅にも、きょうがメーデーだという雰囲気はなかった。伸子たちが、公園裏の陰気な広場で目撃して来た光景は、夢魔にすぎないとでも云われかねない様子だった。
 伸子と素子とは、くたびれて、がっかりした気持で、おそい昼飯にホテルへ戻った。そうやって歩いて来てみると、ワルシャワのステーションから伸子たちをのせて来た馬車が、雨の中を街まで出て大まわりして来たのがわかった。ステーションから灌木の茂みの見える小公園を直線にぬけると、ついそこがホテル前の広場だった。
「これだからいやんなっちゃう! あの爺、あらかた街をひとまわりして来てやがる」
「いいじゃないの。どうせ街見物(サイト・シーイング)なんだもの」
 いちいち腹を立てていたら、これから言葉もわからない国々を旅行するのに、たまったものではない、と伸子は思った。
「抜けめない旅行をしようなんかと思って、気をはるの、わたしいや。どうせ土地の連中にかないっこないんだもの」
「ぶこはいい気なもんだ。――おかげでわたし一人がけちけちしたり気をもんだりしてなけりゃならない」

 ひる休みのあと、伸子と素子とはもう一度ホテルを出た。こんどは本式にワルシャワの街見物のために。二人はまたステーション前から馬車をやとった。伸子たちがそれにのってウィーンへ向う列車はその晩の七時すぎにワルシャワを出発する予定だった。
 ワルシャワの辻馬車が街見物をさせてまわる個所は大体きまっているらしく、毛並のわるい栗毛馬にひかれた伸子たちの馬車はいくつかの町をぬけて、次第に道はばの狭い穢い通りへはいって行った。やがて、ごろた石じきの横丁のようなところへさしかかった。馬車の上から手がとどきそうに迫った両側の家々の窓に、あらゆる種類の洗濯物が干してある。それらの洗濯物は、そうやってぬれて綱にはられているからこそ洗濯ものとよばれるけれど、どれもみんな襤褸(ぼろ)ばかりだった。上半身裸体のようななりをした女が、その窓際で何かしているのが見える。貧相な荒物店。ごたごたした錠前や古時計などが並んでいる店があって、やっと人のすれちがえる歩道の上で子供たちがかたまって遊んでいた。こちらを向いてしゃがんでいる女の子の体がむき出しに馬車にのって通りすぎてゆく伸子たちの目にふれた。子供たちの体も服も不公平なしによごれていた。どっか近くの窓のなかから、ドイツ語に似たユダヤ語で、男と女が早口に云い合いする声が起った。それはじきやんだ。狭い穢いその町すじ全体に貧困と人口過剰と漠然として絶間ない不安がのしかかっているようで、馬の足なみにまかせてごろた石の上に蹄の音をたてながら通ってゆく伸子たちの馬車は大きな塵芥すて場のわきにあるような一種のにおいにつつまれた。そこは、ワルシャワの旧市街とよばれ、昔からユダヤ人の住んでいる一廓だった。モスク□ではユダヤ劇場があり、トゥウェルスカヤの角から芸術座へ曲るところに大きい清潔なユダヤ料理店があった。伸子と素子とは、ときどきそこで一風かわった魚料理だの揚ものだのをたべた。そこの店では、いつもこざっぱりとした身じまいの女が給仕した。
 ワルシャワのここではその不潔で古い町すじに密集して建っている建物のすき間というすき間に、その内部にぎっしりつまって生きている不幸な老若子供よりもっとどっさりの南京虫が棲息していることはたしかだった。幌をあげた馬車の上から、通りの左右に惨めさを眺めて行く伸子の顔に苦しく悲しい色が濃くなった。現代になっても、こんなに根ぶかく、血なまぐさくユダヤに対する偏見がのこっていることは、ヨーロッパ文明の暗さとしか伸子に思えなかった。東京に生れて東京で育った伸子は、日本の地方の特殊部落に対する偏見も実感として知っていなかった。これまでポーランドが自分の国をあんなに分割され、自身の悲劇と屈辱の歴史をもって来たのに、そのなかでなお絶えず侮蔑するもの、人づきあいしないもの、虐殺の対象としてユダヤの人々をもって来ていることを思うと、伸子は苦しく、おそろしかった。関東の大震災のとき、東京そのほかで虐殺された朝鮮人の屍の写真を見たことがあった。虐殺という連想から伸子は馬車の上で計らずその記憶をよびおこした。
 その旧市街(スタールイ・ゴーロド)にも、きょうがワルシャワのメーデーだという気配はちっともなかった。おそらくはきのうと同じような貧しさ。不潔さ。溝ぶちに群れている子供たちのあしたもそうであろう穢さと虐げられた民の子供らの変なおとなしさ。
 伸子と素子とをのせた馬車は、葬式のような馬の足どりで旧市街を通過した。一つの門のようなところをぬけると御者が、自分もほっとしたように御者台の上へ坐り直して、ロシア語で云った。
「さて、こんどは新市街へ行きましょう」
「あっちはきれいです。立派な公園もあります」
 ついでに自分も一見物というような口調だった。
 なるほど暫くすると、伸子たちの馬車は、その馬車のいかにも駅前の客待ちらしいうすぎたなさが周囲から目立つように堂々とした住宅街にのり入れた。近代的な公園住宅で、一つ一つの邸宅が趣をこらして美しい常緑樹の木立と花園に包まれて建っていた。芝生の噴水のまわりで小さい子供が真白いエプロンをつけた乳母に守りされながら、大きい犬と遊んでいる庭園も見えた。この界隈では、富んでいるのが人間として普通であるようであり、どの家もそれを当然としてかくそうとしていなかった。旧市街の人々が、せま苦しい往来いっぱいに貧を氾濫させて、かくそうにもかくしきれずにいたとは反対に。
 その住宅街を貫いて滑らかな車道と春の芽にかすみ立った並木道が、なだらかに遙か見わたせた。自分たちが決してこれらの近代的館(マンシャン)の客となることはないのだと感じながら、伸子は贅沢に静まっている邸宅の前を次々と馬車で通りすぎて行った。伸子は、ふと、こういう邸宅のもち主にユダヤの人は一人もいないのかしら、とあやしんだ。いるにきまっていた。たとえば、ここのどの屋敷の一つかがロスチャイルド一門に属すものであったとしたら、近所の召使いたちは何と噂するだろう。うちのお隣りはロスチャイルドの御親戚なんですよ。そう云わないだろうか。そういう召使自身はポーランド人であり、旧市街(スタールイ・ゴーロド)へは足もふみ入れたことがない、ということを誇りとしていることもあり得るのだ。そのようにあり得る現実を伸子は嫌悪した。
 馬車は馬の足並みにまかせてゆっくりひかれてゆく。美しい糸杉の生垣の彼方に黄色いイギリス水仙の花が咲きみだれている庭があった。その美しい糸杉の生垣も早咲きのイギリス水仙の花も、繊細な唐草をうち出した鉄の門扉をとおして、往来から見えるのだった。まるで、ここにある人生そのものを説明しているようだ、と伸子は思った。その人生は、旧市街(スタールイ・ゴーロド)のくさい建物につめこまれている夥(おびただ)しい人生とはちがうし、伸子が名を知らないあの陰気な広場へ赤旗をもって行進して来た人々の人生ともちがう。そして、糸杉と黄水仙のある人生は、それが無数の他の人生とちがうことについて満足している。――
 伸子はかたわらの素子を見た。素子は火をつけたタバコを片手にもち、手袋をぬいだもう片方の指さきで、舌のさきについたタバコの粉をとりながら、馬車の上から、とりとめのない視線を過ぎてゆく景色の上においている。焦点のぼやけたその表情と、むっつりしてあんまりものも云わないところをみれば、素子も特別気が晴れていないのだ。ゆうべホテルの食堂でモスク□馴れした自分の目をみはらせたワルシャワのパンの白さ。それが、象徴的に伸子に思い浮んだ。パンはあんなに白い。――パンのその白さを反対の暗さの方から伸子に思い出させるようなものがワルシャワの生活とその市街の瞥見のうちにあった。メーデーさえ何だか底なしのどこかへ吸いこまれてしまって、しかも、それについては、知っているものしか知っていてはいけないとでもいうような。ワルシャワの街そのものが秘密をもっているような感じだった。
 折から、伸子たちをのせた馬車が、とある四辻のこぢんまりした広場めいた場所にさしかかった。その辺一帯の公園住宅地のそこに、また改めて装飾的な円形小花園をつくり、伸子たちの乗っている馬車の上からその中央に置かれている大きい大理石の塊(マッス)の側面が見えた。大理石の塊(マッス)から誰かの記念像が彫り出されている。記念像は下町に向ってなだらかにのびている大通りにその正面を向けて建てられているのだった。
「ショパンの記念像です。有名なポーランドの音楽家のショパンの像です」
 御者は、御者台の上で体をひねってうしろの座席の伸子たちにそう説明しながら、ゆっくり手綱(たづな)をさばき、その記念像の正面へ馬車をまわしかけた。
「どうする?」
 少しあわてたような顔で素子が伸子を見た。
「見るかい?」
「いい。いい」
 伸子もせかついてことわった。この首府の名物ショパンの像と云ったものを見せられたところで、伸子がワルシャワの街から受けた印象がどうなろうとも思えなかった。
「まっすぐゆきましょうよ」
 素子は御者に向って片手を否定的な身ぶりでふりながら、
「ハラショー。ハラショー。ニェ・ナーダ(よしよし、いらないよ)」
と云った。
「プリャーモ・パイェージチェ(まっすぐ行きなさい)」
 うすよごれた馬車は、伸子と素子とをのせてそのまま下町を見晴らす大きな坂へさしかかった。かすかにあたりをこめはじめた夕靄と、薄い雲の彼方の夕映えにつつまれたワルシャワの市街にそのとき一斉に灯がともった。

        二

 ヨーロッパ大戦の後、オーストリアの伝統を支配していたハップスブルグ家の華美な権威がくずれて、オーストリアは共和国になった。首府ウィーンをかこんで、そこからとれる農作物では人口の必要をみたしてゆくことのできないほど狭い土地が、共和国のために残された。外国資本があらゆる部面に入りこんでいた。
 それでも、ウィーンは、さきごろまでヨーロッパにおける小パリ・ヴィエンナと呼ばれていた都市の特色をすてまいとしていて、大通りに並んでいる店々は、その店飾りにもよその国の都会では見られない趣を出そうと努力している。
 伸子と素子とは、ウィーンまで来たらいかにも五月らしくなったきららかな陽を浴びながら、店々がその陽にきれいに輝やいている大通りを歩いていた。婦人靴屋のショウ・ウィンドウには、ウィーンの流行らしく、おとなしい肌色の皮にチョコレート色をあしらった典雅な靴が、そのはき心地よさで誘うようにガラスのしゃれた台の上に軽く飾られている。大体ウィーンはヨーロッパでも有名な鞣細工の都だった。目抜きの通りのところどころに、用心ぶかく日よけをおろして、その奥に色彩のゆたかなウィーン金唐皮(きんからかわ)のハンド・バッグやシガレット・ケースを売っている店がある。そういうものに興味をもっている素子は、鞣細工店を見つけると、必ずその店先にたちどまってショウ・ウィンドウをのぞいた。ウィーンで伸子と素子とは、これから先の旅行のためにいくらか身なりをととのえる必要があった。素子はここでそういう用をはたすひまに、ちょっとした身のまわり品を入れる気のきいたカバンと、婦人用のシガレット・ケースを買おうとしている。気に入った品があったにしても素子は、決して、はじめてそれを見つけた店で買ってしまわなかった。ホテルを出てウィーンの街を歩くにつれ、目につく鞣細工品の店のあれからこれへと丹念に飾窓を見くらべた。そのあげくきょうは、伸子たちの服をこしらえている服飾店のある大通りから一つ曲った横通りで目ぼしをつけておいた一軒の店でその買物をしようというのだった。
 伸子は、素子とならんで賑やかな目抜通りを歩いていた。その辺の店ではどこでも英語が通じた。それはウィーンへはこの頃アメリカの客がふえていることを物語っている。伸子は沈んだ顔つきで午前十一時のウィーンの街を歩いていた。何を売るのか二本の角を金色に塗られた白い山羊が、頸につられた赤い鈴をこまかく鳴らしながら、クリーム色に塗られた小さな箱車をひいて通ってゆく。トラックが通り、そうかと思うと蹄の大きい二頭の馬にひかれた荷車が通ってゆく。頻繁で多様なそれらの車馬の交通は、街の騒音を小味に、賑やかに、複雑にしている。こうしてウィーンの街はどっさりの通行人にみたされて繁昌しているように見える。だけれども、こんなに店があり、こんなに使いきれないのがわかっているほど品物があり、しかもどの店の品も真新しく飾りつけられているのを眺めて歩いていると、伸子はウィーンがどんなに商売のための商売に気をつかっているかということを感じずにいられなかった。ウィーンは、パリともロンドンともニューヨークともちがった都会の味――小共和国の首府としての気軽さをもちながら、その程よい貴族趣味と華麗で旅行者をよろこばせるように工夫されている。オペラと芝居のシーズンがすんでしまっているウィーンでも、ウィーンという名そのものにシュトラウスのワルツが余韻をひいているようだった。
 鞣細工品の店頭の椅子にかけて、素子は自分たちの前へ並べられた男もちの財布の一つを手にとり、しかつめらしくそのにおいをかいでいる。店員が、
「これはすばらしい品です。かいで御覧なさい。いいにおいがしていましょう? すぐわかります」
と云ったからだった。伸子は、気のりのしない表情で、皮財布のにおいをかいでいる素子の様子を見ていた。伸子は、そんなにして買物をたのしんでいる素子に対して、傷つけられた自分の気持を恢復できず、離れた気分でいるのだった。
 けさ、ホテルで、素子はどうしてあんなに伸子をおこらなければならなかったのだろう。自分の着がえのブラウスが、手まわりのスーツ・ケースに入っていなかったからと云って。ベッドのわきで着がえをはじめた素子は、さきに着てしまっていた伸子に、スーツ・ケースからブラウスを出すことをたのんだ。伸子はスーツ・ケースの下まで見た。が、素子のいう白いクレープ・デシンのブラウスは見当らなかった。伸子は、うっかりした調子で、
「どうしたのかしら、……ないわ」
と云った。
「ないことあるもんか。あれはたった一枚のましなんだから、入れなかったはずありゃしない。見なさい」
「ほんとに入っていないのよ……どうしたのかしら」
 手ごろなスーツ・ケースが伸子の分一つしかなくて、その一つに、素子のと伸子のと、二人ぶんの手まわりを入れて来ているのだった。
「ぶこがつめたんじゃないか」
 まだカーテンをあけず、電燈にてらされている寝室の中で、スリップの上にスカートだけをつけた立ち姿の素子が、こわい眼つきと声とで、
「出してくれ!」
 伸子に命令した。
「わたしが、出さなかったはずは絶対にないんだ。ほかに着るものがないのに、忘れる奴があるもんか。ぶこの責任だ。つめたのは君だもの。――どっからでも、出してくれ――」
 どっからでも出せと云ったって、伸子と素子と二人で、そのたった一つのスーツ・ケースしかもっていないのに。――
「無理よ。そんなこと」
 伸子は、自分のベッドの上で、ひっくりかえしたスーツ・ケースのなかみをまたもとどおりにしまいながら云った。
「二人分を一つに入れているのがわるかったんだわ」
「出してくれ!」
 素子は腹だちで顎のあたりがねじれたような顔つきになり、寝台に近づいて来て、その上で片づけものをしている伸子の腕を服の上からぎゅっとつかんだ。
「あのブラウスがなくて何を着たらいいんだ」
「…………」
 いっしょにつめるように素子が揃えて出したすべてのものを、スーツ・ケースに入れたとしか伸子には思えないのだった。伸子は途方にくれた。
「もしかしたら、衣裳ダンスにかけっぱなしで来たんじゃないのかしら――着て来ようとでも思って」
「そんなことないったら!」
 痛いように伸子の腕をつかんでゆすぶりながら、
「自分のものは何を忘れて来た? え? 何一つ忘れたものなんかないじゃないか。わたしだけ、よごれくさったものを着て歩かなくちゃならないなんて!」
 くいつくように睨んでそういう素子の顔に赤みがさして来て眼のなかに涙がわいた。
「わたしのことなんかどうでもいいと思っている証拠だ。いいよ! いつまでだってこうしてここにいてやるから!」
 あのとき、ウィーンの公使館からきいて来たと云って、黒川隆三という青年が二人を訪ねて来なかったら、素子はほんとに一日ホテルの寝室から出なかったかもしれなかった。
 二つのベッドの間のテーブルの上で電話のベルが鳴ったとき、素子は、そっちを見むきもしないで、伸子の腕をつかんでいた。自然、伸子もその場から動けず、答えてのない電話のベルは、重いカーテンで朝の光を遮られた寝室のなかで、三四へんけたたましく鳴った。やがてベルがやんだ。しばらくして、ドアをノックするものがあった。それが、黒い髪の毛に黒い背広を着た、若いのに世なれた調子の黒川隆三だった。
「やっぱり、おいででしたね、下で、電話に出る方はないが鍵が来ていないっていうもんですから。――いきなりお邪魔しました」
 黒川という客の来たことが素子にとっても局面打開のきっかけだった。仕方なくきのう着た白いブラウスを着た素子と伸子とは互同士では口をきかず、しかし黒川に対してはどっちもあたりまえに応対しながら、寝室のとなりの室で朝食をすました。やがて三人でホテルを出、伸子たちは約束のある服飾店へ、黒川は次に会う日どりをきめてわかれた。黒川は、二週間近くウィーンに滞在する伸子と素子とのために、下宿(パンシオン)をさがすことをすすめ、その仕事をひきうけた。ホテルを出て、明るい街頭を行きながら、伸子はそれとなく並んで歩いている素子のブラウスに目をやった。もういく度か洗われている素子の白絹のブラウスは、きついその純白さをおだやかな象牙色にくもらしているけれども、細いピンタックでかざられた胸のあたりにも、アイロンのきいているカラーにも、よごれらしいものは一つもなかった。モスク□から来れば、はじめてヨーロッパの都会らしいウィーンの通りを歩きながら、伸子は素子のブラウスがみっともないようには着古されていないことに安心した。同時に、ウィーンまで来たのに、まだ駒沢のころのように、或はモスク□ぐらしのあるときに素子がそうであったように自分に対してこじれからまる素子の感情が伸子に苦しかった。
 これからの旅の先々では片言ながらどうしても伸子の英語で用を足してゆかなければならなかった。素子が自分の言葉の通用しないもどかしさと、伸子のうかつさとに癇をたかぶらしてきっかけがありさえすれば又けさのような場面が起るのかと思うと、伸子はその鞣細工品で、自分のために気の利いた小鞄を選びながら自分たちの旅行について銷沈した気分になるのだった。

 ウィーン風にいれられたコーヒーには、ふわふわと泡だってつめたいクリームが熱く芳しいコーヒーの上にのっている。その芳しいあつさと軽くとけるクリームの舌ざわりとをあんまりかきまぜず口にふくむ美味さが、特色だった。
 そういう飲みようを知らない伸子と素子とは、クリームをすっかりかきまわしたコーヒーの茶碗を前において、とあるカフェーにかけていた。空いている椅子の上に、買って来た、暗緑色とココア色の二つの婦人用カバンがおいてある。暗緑色で、角のまっしかくに張った方は素子のだった。こってりしたココア色で四隅に丸みのつけてあるのが伸子用だった。
 そのカフェーも、ウィーンの目抜き通りにあるカフェーがそうであるように、通りに向って低く苅りこんだ常緑樹の生垣(いけがき)の奥に白と赤の縞の日覆いをふり出している。初夏がくれば、ウィーンの人々は、オペラの舞台にでも出て来そうなその緑の低い生垣の陰で休みもするのだろう。五月もまだ早い季節で、英語を話している婦人づれを交えた人々はみんなカフェーの室内に席をとっていた。その室の、すっきりした銀色の押しぶちで枠づけられた壁の壁紙には、うす紅の地に目のさめるような朱ひといろで、大まかに東洋風を加味した花鳥が描かれていた。大胆で、思いきってあかぬけしたその壁紙の色彩と図案は、そこにとりつけられている浮彫焼ガラスの、扇を半ば開いて透明なガラスの上に繊細な変化をつけたようなランプ・シェードと、しっくり調和していた。
 おそろしい戦争が終り、ウィーンの飢餓時代がすぎた一九一八年このかた、ロシアはソヴェトになってしまったけれども、ヨーロッパのこっちはこれまでの貴族をなくしただけでそのまま小市民風の安定と安逸に落付こうと欲している人々の感情を反映し、またその気分にアッピールしてウィーンの最新流行は、室内装飾まで、このカフェーのようにネオ・ロココだった。
 そのカフェーの一隅で、伸子は途中で買った英字新聞をひろげた。二人がモスク□をたったのは四月二十九日だった。五月五日のその日まで、あしかけ七日、伸子たちは新聞からひきはなされていたわけだった。何心なく新聞を開いた伸子の眼が、おどろいたまばたきとともに、第一面に吸いよせられた。「ベルリン市危機を脱す。騒擾やや下火。」という大見出があった。「暴民(モップ)はウェディング・ノイケルン地区に制圧さる」そうサブ・タイトルがつけられている。ロイター通信五月四日附だった。見出しがセンセーショナルに扱われているのにくらべると、本文は簡単だった。五月一日の暴力的なメーデー行進にひきつづいて、ベルリン全市の各所におこった亢奮と騒擾は、この二日間に漸次鎮静されつつある。現在なお一部の暴民(モップ)はノイケルン地区で彼らの抵抗をつづけている。しかし、ウンテル・デン・リンデンその他中心地の街上は、外国人の通行安全である。そういう意味が報道されている。ウンテル・デン・リンデンは外国人の通行安全とあるのが、いかにもウィーンの英字新聞らしかった。ドイツは、世界から旅行者を吸収するために、入国手続を簡単にしてヴィザのいらない時期であった。
「――どういうことなのかしら、こんなことが出ているけれど」
 伸子は素子にその新聞をわたした。ドイツの共産党は合法的な政党として大きな組織をもっていた。K(カー)・P(ペー)・D(デー)という三つの字は、モスク□の生活をしている伸子たちにとっていつとはなしの親しみがあった。そのベルリンで、暴力的メーデーというのは、どういうことがおこったのだろう。その新聞記事につたわっている調子から、激しい武装衝突がおこったことだけはわかる。伸子と素子とは、ワルシャワで、ああいうせつないメーデーの断片とでもいう光景を目撃して来た。
「比田礼二や中館公一郎、大丈夫かしら」
 伸子はあぶなっかしそうに、そう云った。ベルリン全市がただならぬ事態におかれたとすれば、日本の新聞記者である比田礼二や映画監督である中館公一郎にしても、その渦中にいるかもしれないと伸子は考えた。二人は、どちらも、この人々がベルリンからモスク□に来たときに伸子が会った人たちだった。二人がベルリンからモスク□へ来て見る気持の人々だということは、メーデーの事件がおこったとき、彼等がカーテンをひいてベルリンの自分の室にとじこもってはいまいと伸子に思わせるのだった。
「何かあったらしいが、これだけじゃわからない」
 ニュースにおどろいて、その朝から二人の間にあった感情のわだかまりを忘れている伸子に、しずかに新聞をかえした。
「いずれにしたって、あの連中は大丈夫さ。外国人だもの」
「わからないわ。どっちもじっとしていそうもない人たちなんだもの」
 ワルシャワのあの広場のカフェーに逃げこんだときの女二人の自分たちの姿を伸子は思い浮べた。雨あがりの空に響いてパン、パン。と二つ鳴ったピストルのような音も。――どういう意味で、ベルリンにそれほどの混乱がおこったのか、わけがわからないだけ、伸子はいろいろ不安に想像した。
「きのうの新聞をぜひ見つけましょうよ、ね」
 カフェーを出ると、伸子はさっきのキオスクへとってかえした。その店には、前日のしかなかった。青く芽だっているリンデンの街路樹の下に佇んで、伸子は五月三日づけの外電をよんだ。ベルリン騒擾第二日という見出しで、数欄が埋められている。できるだけはやく、事件の輪廓をつかもうとして、伸子は自分の語学の許すかぎり、記事をはす読みした。ベルリンでメーデーの行進が禁止されていたことがわかった。それにかまわず、多数の婦人子供の加った十万人ばかりの労働者の行進がベルリン各所に行われて、警官隊との衝突をおこし、ウェディング、モアビイト、ノイケルンその他の労働者街では市街戦になった。警官隊は、大戦のときつかわなかった最新式の自動ピストルまでつかったとかかれている。ウェディングとノイケルンにバリケードが築かれた。二日の夜は附近の街燈が破壊され、真暗闇の中で、バリケードをはさんだ労働者と警官隊とが対峙した。夜半の二時十五分に、装甲自動車が到着して、遂にその明けがた、労働者がバリケードを放棄したまでが、夜じゅう歩きまわった記者の戦慄的なルポルタージュに描写されている。一日二日にかけて労働者側の死者二十数名。負傷者数百。そして千人を越す男女労働者少年が検挙されつつあるとあった。政府がベルリンのメーデー行進を禁止したという理由が、伸子にはまるでのみこめなかった。ドイツは共和国だのに。――政府は社会民主党だのに。――こんな風なら、ワルシャワのメーデーも、行進が禁じられていたのだったろうか。でもなぜ? いったいなぜ? メーデーに労働者がデモンストレートしてはいけないというわけがあるのだろう。不可解な気もちと、腹だたしさの加った不安とで伸子は、眉根と口もとをひきしめながら、その記事をよみ終り、あらましを素子に話した。
「これだから、モスク□の新聞がないのは不便なのさ。何が何だかちっともわかりゃしない」
 もどかしそうに素子が云った。そう云いながら、さっきカバンやなにかの買物をした鞣細工店の前をまた通りすぎるとき、素子は、つとそのショウ・ウィンドウへよって行ってまたその中をのぞいた。

        三

 メーデーにおこったベルリン市の動乱は、五月五日ごろまでつづいた。政府は禁止したが、それを自分たちの権利としてメーデーの行進をしようとしたベルリンの労働者の大群を、武装警官隊が出動して殺傷したことは、ドイツじゅうの民衆をおこらしているらしかった。ハンブルグでジェネラル・ストライキがおこる模様だった。「メーデー事件公開調査委員会」というものが、ドイツの労働団体ばかりでなく、各方面の知識人もあつめて組織されようとしているらしかった。
 ウィーン発行の英字新聞だけを読んでいる伸子と素子とにとって、それらすべてのことがらしいとしかつかめなかった。その英字新聞は五月三日のベルリン市の状況を報道するのに、何より先に外国人はウンテル・デン・リンデンを全く安全に通行することができる、と書いたような性質の新聞であった。ハンブルグにジェネストがおこりかかっていることも、調査委員会が組織されたことも、その英字新聞は、直接ベルリンのメーデー事件に関係したことではないように、まるでそれぞれが独立したニュースであるかのように同じ頁のあっちこっちにばら撒いてあるのだった。
 伸子と素子とは、黒川隆三が世話してくれた下宿(パンシオン)の三階の陽あたりのいい窓の前におかれたテーブルのところで、ゆっくりそういう新聞紙に目をとおした。
 繁華なケルントナー・ストラッセからそう遠くない静かな横通りにあるその下宿(パンシオン)は、伸子たち女づれの旅行者にホテルぐらしとちがった質素なおちつきを与え、黒い仕着せの胸から白いエプロンをきちんとかけ、レースの頭飾りをつけた行儀のいい女中がパン、コーヒー、ウィンナ・ソーセージの朝飯の盆を運んで来たりするとき、伸子は明るいテーブルのところにかけていて、このウィーン暮しが二週間足らずで終るものだということを忘れがちな雰囲気につつまれた。
 ベデカ(有名な旅行案内書)一冊もっていず、金ももっていない伸子と素子とは、オペラや演劇シーズンの過ぎた五月のウィーンの市じゅうをきままに歩いて、いくつかの美術館を観た。リヒテンシュタイン美術館でルーベンスの「毛皮をまとえる女」を見ただけでも、伸子としては忘られない感銘だった。そこには、ベラスケスの白と桃色と灰色と黒との見事に古びた王女像もあった。
 モスク□を出発して来てから十日ばかりたって、伸子ももうウィーンでは下宿(パンシオン)の食事に出るパンの白さに目を見はらなくなった。モスク□からの冬仕度はすっかりぬぎすてられ、明るい大通りの雑踏に交って、思いがけない角度からちらりと店さきの鏡やショウ・ウィンドウのガラスに映る伸子のなりはウィーンごのみの、渋くて女らしい薄毛織格子の揃いの服と春外套になった。素子のスーツも春らしく柔かなライラックめいた色合いだった。モスク□の生活の習慣で、夜の服がいるなどと思いそめなかった伸子と素子とは、一組二組新調した服装にたんのうして、きのうもきょうも一つなりなのを気にもせず黒川隆三と郊外のシェーンブルンを見物に行ったり、公使夫妻の自動車にのせられて市外にある中央墓地(ツェントル・フリードホーフ)で、ヨーロッパの音楽史さながらの歴代音楽家の墓地を見たりした。
 そのおとなしい公使夫妻は、ヨーロッパの中でも国際政治の面でうるさいことの比較的すくないウィーンのような都会に駐在していることを満足に感じている風だった。公使館が植物園ととなり合わせだった。公使館の庭をかこむ五月の新緑の色が寂(さ)びた石の塀をこして一層こまやかに深く隣りの植物園の緑につづき溶けこんでいる。ドイツのグラフ・ツェペリン号が世界一周飛行へ出ようとしているときだった。もう若くない公使夫人は洋装をした日本婦人の一種の姿で客間の長椅子にかけながら、
「丁度この窓からよく見えましてね、ほんとに綺麗でございましたよ、あの大きい機体がすっかり銀色に輝やいておりましてね、まるで、空の白鳥のように」
などと、伸子に話してきかせた。公使夫人は、ウィーンが世界の音楽の都であるという点を外交官夫人としての社交生活の中心にしていて、日本へ演奏旅行に行ったジンバリストの噂が出た。最近イタリーで暫く勉強してウィーンへまわって来た若いソプラノ歌手の話もでた。大戦後はオーストリアも共和国になって、伝統的な貴族、上流人の社交界がすたれてしまったために、シーズンが終るといっしょにウィーンの有名な音楽家たちは、アメリカへ長期契約で演奏旅行をするようになった。
「そんなわけで当節はウィーンも、いいのはシーズンのうちだけでございますよ。いまごろになりますと、せっかくおいでになった方々にお聴かせするほどの演奏会もございませんでねえ」
「でも、そのおかげで日本にいてもみんながジンバリストをきけたと思えばようございますわ」
 日本へヨーロッパの演奏家たちが来るようになったのは、夫人のいうように、第一次大戦のあとからのことだった。ジンバリストが日本へ来たのは伸子がモスク□へ立って来た年の初秋ごろのことだった。それはジンバリストの二度めの来訪で、彼はアメリカへの往きと帰りに日本へよった。二度めにジンバリストが東京へ来た期間の或る日、上野の音楽学校でベートーヴェンの第九シムフォニーの初演があった。いかにも明治初年に建てられた学校講堂めいた古風で飾りけない上野の音楽学校の舞台に、その日は日本で屈指な演奏家たちが居並んだ。第一ヴァイオリンのトップは音楽学校教授であり、日本のヴァイオリニストの大先輩である有名な婦人演奏家だった。その日伸子は母親の多計代、弟と妹、二人の従妹たちという賑やかな顔ぶれで、舞台に近すぎて、音がみんな頭の上をこして行ってしまうようなよくない場所できいていた。演奏者たちも、せまい講堂に立錐のよちのなくつまった聴衆も、日本ではじめて演奏される第九シムフォニーということで緊張が場内にみなぎった。第一楽章が、入れ混ったつよい音の林のように伸子たちの頭の上をふきすぎ、短いアントラクトがあって、第二楽章に入ろうとする間際だった。ヴァイオリンを左脇にかかえ、弓をもった右手を膝の上に休ませてくつろいだ姿勢で聴衆席を眺めていた第一ヴァイオリンのトップの伊藤香女史が、何を見つけたのか急にうれしそうな笑顔をくずして、いくたびもつよく束髪の頭でうなずきながら、弓をもった右手を軽くあげた。数百の聴衆は、何ごとかと伊藤女史が頭で挨拶している方角をさがした。谷底のような伸子の場所からは何も見えなかった。が、じきジンバリストだ、ジンバリストが来ている、という囁きが満場につたわった。すると、どこにそのジンバリストがいるのかわからないなりに熱心な拍手がおこって、伸子も、どこ? 見えないわね、と云いながら誰にも劣らず拍手した。ジンバリスト自身は演奏中に思いがけずおこった歓迎を遠慮するらしくて何の応答もなかった。かえって静粛を求めるシッシッという声がどこからかきこえた。それはほんの一分か二分の出来ごとだった。第九シムフォニーの第二楽章がはじまった。その日の指揮はセロのドイツ人教授だった。指揮棒が譜面台を軽く叩き、注意。そして、演奏がはじまる。
 一呼吸はやく、第一ヴァイオリンのトップが弾き出した。伸子は、はっとした。次に罪なくほほえまれる感情につかまれた。ジンバリストが来ている。そのうれしさで全員の感じた亢奮が、率直にもう若くないしかも大家である女性ヴァイオリニストによってあらわされたように感じたのだった。その演奏会から、伸子も多計代も、ほかの連中もひどく刺戟に疲れてかえって来た。多計代は、まず一服という風に外出着のまま食堂に坐ってお茶をのみながら、一つテーブルをかこんでこれもお茶とお菓子を前にしている伸子たちに、
「さすがはベートーヴェンだけあるねえ。わたしはほんとに感激した。おしまいごろには、涙がこぼれて来てしかたがなかったよ」
と云った。その瞬間和一郎と小枝とが、顔を見合わせようとしてこらえたのが伸子にわかった。伸子は、何にしてもきょうの場所はわるかったと思っているところだった。シムフォニーとして一つにまとまり調和しあった音楽の雲につつまれることができず、伸子たちの席では、はじめっからおしまいまで厖大な音響の群らだつ根っこの底にかがんでいるようなものだった。それは素人である伸子の耳に過度に強烈な音響の群立であり、音楽に感動するよりさきに逃げようのない大量な烈しい音響に神経が震撼させられた感じだった。日本ではじめて演奏される第九シムフォニーだったのに、と切符を買いおくれたことを残念に思っていた。伸子は自然なそのこころもちのまま多計代に、
「場所がわるかったわねえ」
と云った。
「あれじゃ、涙も出て来てしまうわ」
 そして何心なく、
「人間て、あんまりひどい音をきいていると涙が出るのよ」
と云った。そう云ったとき伸子に皮肉な気分は一つもなかった。すると、多計代が亢奮でまだ黒くきらめいている美しい眼で伸子を不快そうに見ながら、
「また、おはこの皮肉がはじまった」
と云った。
「わたしが感激しているんだから、勝手に感激させとけばいいじゃないか」
 伸子はだまった。けれども、多計代はどうして、ベートーヴェンだから感激しなければならないときめているのだろう、と誇張を苦しく思った。
 モスク□へ来てから、伸子はずいぶんいろいろのオペラをきき、音楽会をきいた。日本ではまだハルビン辺から来るオペラ団を歓迎していた。オペラはもとより、ソヴェトになってから組織されたフェル・シン・ファンスという、コンダクターなしの小管絃楽団の演奏にしろ、伸子が日本できいていたオーケストラとはくらべられない熟練をもち、音楽の音楽らしさをたたえていた。モスク□の音楽学校で演奏者たちが舞台の上に円くなって、第一ヴァイオリンが指揮の役もかねて演奏するフェル・シン・ファンスのモツァルトをききながら、伸子は、はじめてモツァルトの音楽の精神にふれることができたように感じた。フェル・シン・ファンスの演奏するモツァルトは、ただおのずから華麗な十八世紀の才能が流露しているばかりではなかった。そこには、意識して醜さとたたかいながら美を追求しそれを創り出そうとしている意志と理性とがあり、人生が感じられた。伸子は、モツァルトを自分のこころの世界のなかに同感した。
 その演奏会があったのは一九二八年の雪のつもった日曜の午後だった。雪道をきしませてホテルへかえって来ながら伸子は最後に上野できいて来たベートーヴェンの第九シムフォニーの演奏を思いおこし、それが、どんなに不手際な幼稚なものだったかを理解した。同時に、あのとき、裾模様を着て第一ヴァイオリンの席につきながら束髪の頭を、あんなにうれしそうにこっくり、こっくりした伊藤香女史の特徴のある平顔を思い出し、一つの息を吸うほどの間、早く鳴り出した彼女のヴァイオリンの音を思いおこした。モスク□へ来てみると、それらはすべて途方もないことだったのが、伸子にもわかるのだった。しかしまた、ヨーロッパの輝やかしく技術の練達した、社交性に磨きぬかれた音楽の世界に馴れたジンバリストにとってそういう真心にあふれ鄙(ひな)びた日本音楽家とその愛好家たちの表情は、素朴に感動的だったにちがいないこともわかった。有名なピアニストやセロイストがそのころ幾人か日本へ演奏旅行に来たがその人たちは、来て、演奏して聴衆の質がよいことをほめて、帰った。日本におけるヨーロッパ音楽の発達そのものに深い関心を示したのはジンバリストだった。そのことを、いわゆる通な人々は、ジンバリストが、エルマンやハイフェッツのような世界的に第一流の演奏家でなくて、むしろ教育者風の人だから、とそのことにどこか二流というニュアンスをこめて云ってもいた。モスク□へ来てみれば、音楽にしろ演劇にしろその専門の教育は名誉をもって考えられつとめられている。
 ウィーンにいる日本公使夫人として、東から西からの音楽交驩に立ち会う機会の多い夫人は、話している対手の伸子が社交界に関係をもっていず、また音楽家でもないことに、くつろぎを感じるようだった。
「こちらにこうしておりますとね、ウィーンへ音楽の勉強にいらっしゃる日本の方々の御評判のいいことも嬉しゅうございますが、ジンバリストのような偉い方が日本へいらして、お帰りになると、きっと、日本の聴衆は静粛で、まじめでいいとほめて下さるときぐらい、うれしいことはございませんよ。そのときは、ほんとに肩身のひろい思いをいたします」
 アメリカへ演奏旅行したウィーンの音楽家たちは、アメリカの聴衆は入場券を買って入った以上その分だけ自分たちが楽しませられることを要求している、と云う印象をうけて来るそうだ。まじめ一方な日本の聴衆にさえ好感をもつ人々が、もしロシアのしんから音楽ずきに生れついている聴衆の前で、刻々の共感につつまれながら演奏したら、どんなに活々した歓びがあるだろう。思えばおかしいことだった。ソヴェトへはヨーロッパの音楽家の誰も演奏旅行に行かなかった。ふたをあけるともう鳴り出すオールゴールのように音楽の可能にみちみちているロシアは、避けられている。それは、外国の政府が音楽家がモスク□へ行くのをのぞんでいないためなのだろうか。
 伸子からそういう質問をうけた公使夫人、どこやらのみ下しにくいものを口の中に入れたような表情をしたまま、
「さあ――。どういうものでございましょうねえ」
 すらりと手ごたえのない返事をしたきり、その質問を流しやった。ウィーンでは、そして、この客間では、そういう風に話をもってゆかないならわしである、ということが伸子にさとれるようなそらしかたで。
 伸子たちが、社交と音楽のシーズンがすぎてからウィーンへ来たことは、伸子たちのためにもむしろよかった。冬のシーズン中には、その日の午後新緑の光りにつつまれ静寂のうちに小鳥の囀りさえきこえている公使館の客間にも、幾度か公式に非公式に、華々しい客たちが集められるらしかった。シーズンはずれの旅行者であるために、モスク□から来た社交になじまない伸子と素子にも、公使夫人として気をらくに対せていることを、伸子は感じるのだった。
 数年前、ウィーンで自殺した日本のピアニスト川辺みさ子の、自殺するまでにつめられて行ったせつない心のいきさつが、彼女の名も忘られはてた今、ウィーンに来た伸子に思いやられるようになった。

        四

 川辺みさ子は、伸子が十ばかりのときから五年ほどピアノをならったピアニストだった。ある早春の晩、肩あげの目だつ友禅の被布をきた伸子が父の泰造につれられて、はじめて川辺みさ子の家を訪ねたとき、門の中で犬が吠え、伸子たちが来たのでぱっと電燈のついた西洋間に、黒塗のピアノが一台、茶色のピアノが一台、並んでおいてあった。川辺みさ子は、その春、上野の音楽学校を首席で卒業したばかりの若いピアニストだった。細面の、瞳の澄んだ顔は、うち側からいつも何かの光にてらし出されているように美しく燃えていた。少女の心にさえ特別な美しさがはっきりと感じとられるその川辺みさ子がひどい跛(びっこ)であることが、伸子を厳粛にした。弟の和一郎の小児麻痺をして左の足くびの腱に故障があった。赤坊のときから家じゅうの関心がそこに集められていて、和一郎が四つの春、はじめて乙女椿の花の咲いている庭を一人だちで歩いたとき、二歳の姉娘である伸子は母の多計代より先によろこんで泣きだした。その弟をかばいつづけて少女になった伸子は、自分のピアノの先生が激しい跛だということにつよく心をうたれた。そのことについて、うちへかえってひとこともふれなかったほど、川辺みさ子に同情と尊敬をもった。親たちは、伸子の感情が早くめざめていることに気づいて、ピアノを習わせはじめたのだったが、伸子はうちにベビー・オルガンを一台もっているきりだった。そのベビー・オルガンで伸子は教則本を習いはじめた。
 やがて、チンタウから来たものだという、中古のドイツ製のピアノが買われた。古風な装飾のついた黒塗りのピアノの左右についている銀色のローソク立てに火をとぼし、伸子は夜おそくまで、少女の心をうち傾けて練習曲をひき、また出まかせをひいた。それらは、光そのものの中に生きるような時の流れだった。伸子はやがてソナチネからソナタを弾くようになった。そのころの川辺みさ子は有名な天才ピアニストであり、音楽学校の教授だった。ベートーヴェンを専門に勉強していた川辺みさ子のリサイタルは、そのころの音楽会と云えば大抵そうであったように上野の音楽学校で開かれた。飾りけない舞台の奥のドアがあいて、そこから裾模様に丸帯をしめた川辺みさ子が出て来ると、聴衆は熱烈に拍手した。美しく燃え緊張した若い顔を聴衆にむけ、優しい左肩をはげしく上下に波立てながら、左手を紋服の左の膝頭につっかうようにしてピアノに向って歩いて来る川辺みさ子の姿には、美しい悲愴さがあった。その雰囲気に狂い咲いた花のようなロマンティシズムが匂った。彼女の演奏は情熱的であるということで特徴づけられていた。うす紫縮緬の肩にも模様のおかれている礼装の袂をひるがえしてベートーヴェンのコンチェルトが弾かれ、熱中が加わるにつれて、川辺みさ子のゆるやかに結ばれた束髪からは櫛がとんで舞台におちた。コンチェルトはその時分誰の場合でもオーケストラはなしで、ピアノだけで演奏されていた。
 伸子に、二人のあい弟子があった。二人とも伸子が通っていた女学校の上級生であり、その人々は、伸子よりずっと上達していた。伸子は、ピアノに向って弾いているとき、よくその横についている川辺みさ子から、不意に手首のところをぐいとおしつけられて、急につぶされた手のひらの下でいくつものキイの音をいちどきに鳴らしてしまうことがあった。川辺みさ子の弾きかたは、キイの上においた両手の、手くびはいつもさげて十の指をキイと直角に高くあげて弾らす方法だった。それは、どこかに無理があってむずかしかった。われ知らず弾いていると、いつの間にか手くびは動く腕から自然な高さにもどってしまって、川辺みさ子の二本の指さきで――いつもそれはきまって彼女の人さし指と中指とであったが、ぐいときびしく低められるのだった。
 伸子が、一週に二度ずつ通っていたピアノの稽古をやめてしまったのは、偶然な動機だった。伸子が十六になる前の冬、川辺みさ子は指を、ひょうそうで痛めた。激しい練習のために、ひょうそうになったのだそうだった。稽古は四ヵ月休みにされた。その四ヵ月がすぎて、川辺みさ子が削がれて尖(さき)の細くなった左の人さし指をもって病院から帰って来たとき、伸子は、それまでピアノの前ですごしていた時間の三分の二を机の前にいるようになっていた。音楽と歌にだけ様々な少女の気もちの表現を托していた伸子は、川辺みさ子がひょうそうで指をいためた間に、急速に小説にひかれて行った。その真似をして書く面白さにとらわれた。メレジュコフスキーが、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を描いた小説だの、ワイルドの「サロメ」、ダヌンチオの「死の勝利」などが、伸子をひきつけた。そこには恋愛があった。肉体の動きとして表現された情熱と、声として、行為としての思想とがあった。十六歳の伸子は、愛し、憎み、思考し、はげしくもつれあう人生を生のままに目で見、耳できき、ふれられる体の表現として、とらえられている小説にひかれた。
 こうして、伸子は川辺みさ子から離れた。離れたと云ってもピアノの稽古をやめたというだけであったが。――伸子はその後もかかさないで彼女の演奏をきいた。
 伸子が女学校を終ったばかりの早春、川辺みさ子の身の上に思いがけない災難がおこった。或る晩、友人のところから帰りがけ、赤坂見附のところで川辺みさ子は自動車に轢(ひ)かれて重傷を負った。夜ふけの奇禍だったのと、本人が昏倒したままであるのとで、どこの誰とも判明しないままに築地の林病院に運びこまれた。その婦人がピアニスト川辺みさ子であると知れたとき、世間はおどろいた。川辺みさ子の負傷は頭部だった。脳底骨がいためられて重態だった。伸子は、林病院のうすぐらくて薬のにおう病室の控の間で、小声にひそひそと告げられる川辺みさ子の病状に戦慄した。
 その年の秋もふけてから、川辺みさ子は病院から自宅へかえって来た。伸子は見舞に行った。ピアノのおいてある、そこで伸子が教則本をひきはじめた洋間に、手軽なベッドをおいて、川辺みさ子は、伸子がその部屋に入って行ったときは、うしろのカーテンをひいて、ほの暗くしたなかに横たわっていた。
「おお、伸子はん!」
 川辺みさ子は、おお! という外国風な叫びと京都弁とをまぜて、ベッドの上におき直った。
「よう来てくれました!」
 つよくつよく伸子の手をとって握りしめた。
「これからやりますよ、わたしは生れかわったのやもの! なあ、そうやろう?」
 伸子が口をさしはさむ間を与えず、川辺みさ子は話しつづけた。伸子は、暫く話をきいているうちに、せつなくて体から汗がにじみ出した。川辺みさ子は、脳のどこかに負傷の影響を蒙ったと思わずにいられなかった。早口に、だまっていられないように勢づいて話す川辺みさ子の言葉は、明瞭をかいていた。そして、これからの自分こそほんとの天才を発揮するのだとくりかえし川辺みさ子が云うとき、伸子は滲み出た血がこったような涙を目の中に浮べた。それをきくのはこわかった。そして、いやだった。天才! 伸子がそのひとことでおぞけをふるうには、深いわけがあった。その前後にはじめて小説を発表するまわりあわせになった十八歳の伸子は、天才という人の心をそそるような、同時にマンネリズムによごされた言葉の裏に最も辛辣冷酷なものを感じていた。それをまったく感じようとしていない母の多計代の人生への態度との間に、伸子の一生にとって決定的なものとなったとけ合うことのできないへだたりを感じはじめているときだった。川辺みさ子がまだ弾くことのできない閉されたピアノのよこの薄暗いベッドで、伸子の手をにぎり、ほとんどききわけにくいまでに乱された舌で、未来の自分の音楽における成功と天才についてとめどなく話すのをきいていることは、伸子にとって苛責だった。
 伸子は、川辺みさ子のところからほんとに逃げて、うちへ帰って来た。そして、自分の小部屋にひっこんで長いこと姿をあらわさなかった。川辺みさ子は、怪我(けが)によってどうかなってしまった。それを否定するどんな徴候も彼女に会っていた間の印象の中から見出せなくて伸子は人生の恐ろしさに身じろぎできないようだった。川辺みさ子に対する無限の気の毒さ、哀れさには、いつか伸子自身が自分の運命をそうはさせまいとしている本能的な抵抗がこめられていたのだった。
 川辺みさ子がまだ療養生活をしていたころのあるときのことだった。近所にすんでいる伸子のところへ迎えの使いが来た。川辺みさ子は、文学の仕事をはじめた伸子に、音楽と関係のある作品を教えてくれというのだった。伸子は、立派な文学作品で音楽に関係のないというものがあるだろうかと思った。そのどちらもが、人生にかかわっているとき。――伸子は「ジャン・クリストフ」と「クロイチェル・ソナータ」をあげた。それから「ジャン・クリストフ」の作者ロマン・ローランによる「ベートーヴェン」とを。その日、川辺みさ子は、何が動機だったのか日本の音楽家の思想の貧しさをしきりに伸子に話した。
 更に月日がすぎて再び川辺みさ子がピアノの前に立ち、弟子たちの練習に立ち合うようになったとき、伸子は心ひそかにおそれていたことを噂としてきくようになった。川辺みさ子は、あの怪我から少し誇大妄想のようになったというのだった。伸子は子供のころからのおなじみなのだから、何とか注意してあげたら、と云う人もあった。でも伸子に何と云えたろう。伸子は伸子として自分のぐるりとたたかうことで精一杯だった。
 しばらくして、川辺みさ子のウィーン行きが発表された。日本へアンナ・パヴロヴァが来たり、エルマンが来たりしていた。川辺みさ子は、日本のピアニストである自分の芸術で、少くとも自分の弾くベートーヴェンで世界の音楽界を揺すぶって見せる、とインタービューで語った。伸子は、その談話を新聞でよんで覚えず手の中をじっとりさせた。
 どこかはらはらしたところのある思いで伸子は川辺みさ子がウィーンへ立つ前の訣別演奏会(フェアウェルコンサート)をききに行った。それはベートーヴェンの作品ばかりのプログラムで上野の講堂にひらかれた。一曲ごとに満場が拍手した。そして熱演によって彼女の櫛が、またふりおとされた。伸子は、座席の上で苦しく悲しく身をちぢめた。せめて、日本で最後の演奏会であるその日だけ、川辺みさ子の櫛はおとされないように、と伸子はどんなに願っていただろう。川辺みさ子のピアノは情熱的で櫛をふりおとしてしまうそうだ、という噂はいつかひろまっていた。その様子を、きょうは現実に見られるだろうかと半ばの期待でステージに視線をこらしている聴衆が、川辺みさ子のゆるやかな束髪のうしろから次第にぬけかけて来た櫛に目をつけ、やがて音楽そのものよりいつその櫛が落ちるだろうかという好奇心に集中されてゆくのが、聴衆にまじっている伸子にまざまざと感じられた。川辺みさ子が糸桜の肩模様の美しい上半身をグランド・ピアノへぶつけるようにしていくつかの急速に連続するコードをうち鳴らしたとき、彼女の髪のうしろからとんだ櫛はステージの上にはずんでおちて、ころがった。瞬間の満足感が聴衆の間を流れた。
 演奏はつづけられたが、伸子は、どうせとんでしまうものならステージへ出る前に、なぜ櫛なんかとって出て来ないのかと、川辺みさ子自身の趣味をうたがった。伸子がごく若い娘の作家であることを娘義太夫にあつまる人気になぞらえて、娘義太夫のよさは、見台にとりついてわあーっと泣き伏す前髪から櫛がおちる刹那にある、佐々伸子にこの味が加ったら云々と書かれていたのを読んだことがあった。伸子はそれを忘れることができず、意識してそれに類するどんなその注文にも応じまいとかたく決心していた。伸子のそのこころもちは、川辺みさ子の演奏会と云えばステージにおとされる櫛を期待させているような点に伸子を妥協させないのだった。彼女の天才主義に疑問をもちつづけた伸子は、櫛のことから、芸術家としての川辺みさ子と自分のへだたりを埋めがたいものとして感じた。稚いながらも川辺みさ子に対しては伸子も一人の芸術にたずさわるものとしての主張をもちはじめていた。
 川辺みさ子がウィーンへ行ってから半年たつかたたない頃だった。川辺みさ子は世界を征服すると大した勢で出かけたが、案外なんだそうだ、某というコンセルバトワールの教授に、これから三四年みっしり稽古したら月光の曲(ムーンライトソナタ)ぐらいは一人前にひけるようになるだろうと云われた。そういう噂が伸子の耳にはいった。川辺みさ子の運指法がめちゃめちゃなんだそうだ、そういう話もつたわった。そういうひとこと、ひとことは伸子の全存在の内部へしたたりおちた。何も云わず伸子は自分の若いしなやかさを失っていない十本の指を目の前にひろげて長いあいだそれを眺めた。ピアノのキイの上においた両手の、手くびをさげて、指をあげて! と命じた川辺みさ子の声を思いおこしながら。
 下宿の窓から鋪道へ身を投げて川辺みさ子がウィーンで自殺した。そのニュースが新聞へ出たのは、それから程ない時だった。伸子は、頬のひきつったような表情でその新聞を見つめ何にも云わず、息を吸いこんだ。吸いこんだその一つの息がはきどころないように胸がつまった。伸子は誰に向っても、がんこに口をつぐみつづけた。
 数ヵ月たって川辺みさ子の遺骨が故国へ送り届けられた。それは単衣の季節だった。はかばかしい喪主もなくて、まばらに人の坐っている寺の本堂を読経の声とともに風が通った。遺骨は、錫製のスープ運びの罐のようなものに入れられていた。その罐に外国語でタイプされた小さな貼紙がついていた。京都に埋められる遺骨の一部を東京にのこすために分骨するとき、こころを入れてその日の世話を見ているたった一人の弟子であった土井和子の貴族的な美貌の上をいくたびも涙がころがって落ちた。――おかわいそうに。土井和子は真実こめてそうささやきながら骨をひろった。伸子は、土井和子の誠意にうたれ、謹んでかたわらに坐っていた。川辺みさ子その人に対して芸術家としての疑問や異種なものである感じは、死によっても伸子の心からは消されなかった。伸子はそのころ佃との生活紛糾のただなかにいて、自分にもひとにも鋭く暗い気分だった。
 音楽という広いようで狭い世界では、ウィーンと日本との距離がはたで思うよりはるかに近いものであることを、こんどウィーンに来て見て伸子は実感した。当時川辺みさ子の評判やそれに対する期待、好奇心は、おそらく川辺みさ子そのひとが、ウィーンに現れるよりさきまわりして、彼女の登場の背景を準備していたことだろう。いま公使館の客間は五月の深い新緑に青ずんでしまっている。ここへはじめて川辺みさ子が日本服姿を現したとき、まだ傷(きずつ)けられず、うちのめされていない彼女の気魄はとうとうウィーンに来たという亢奮でどれほどたかまって表現されたか。その情景は伸子にも思い描かれるようだった。
 三四年みっちり稽古すれば月光の曲(ムーンライトソナタ)ぐらいは一人前に弾けるようになるだろうと、そのままをウィーンのその教授が云ったのだろうか。川辺みさ子は、日本に一つしかない官立音楽学校教授という肩書のまま遊学した。そして、そのベートーヴェンの演奏で世界をふるわせることができると信じてウィーンへ着いた。川辺みさ子が、そういう評価を与えられたとき、そしてその噂がおどろきに人々に顔を見合わさせながら野火のように彼女の周囲の日本人間にひろまって行くのを見たとき、十四歳で音楽修業をしている少女にとってそれは運指法の問題でありえたとしても川辺みさ子にとっては、生涯の暗転の瞬間であった。三十歳になっている伸子にはっきりそう理解された。自分の仕事というものによって工面した金で外国を女旅している伸子には川辺みさ子の経済問題も深刻にうかがわれた。川辺みさ子の兄は、両親の亡いあとむしろ彼女の経済力で支えられているらしかった。川辺みさ子はおそらく一定の旅費をもってただけだったろう。あとはウィーンをはじめ各地の演奏旅行で収入を得ながら、より高い勉強もつづけようと計画していたにちがいなかった。演奏旅行で収入を得ながらウィーンにくらすという生活と、指の練習からやりなおしをはじめなければならない三十をこした一人の日本婦人としてのウィーンでの朝夕。――日本服の細い肩にゆるやかに束ねられた束髪のほつれ毛を乱して、寂しいウィーンの下宿の窓べりに立った川辺みさ子が、自分の脚の不自由さを音楽家として破局的な時期にまったく致命的な意味をもって自覚した瞬間を想うと、伸子はあわれに堪えがたかった。川辺みさ子のひどい跛が雄々しい優美さをもってあらわれるのは、音楽の光につつまれてこそであった。そのころの日本では、どこへ行くにも俥(くるま)にのってゆけたからこそであった。その光の波がひいてしまったウィーンの生きるためにせめぎ合っている朝夕の現実で、やがてはくたびれて見すぼらしくなるだろう日本の着物の裾をみだして、馬車に乗ってばかりいられなくなった川辺みさ子が街を行く姿は、ヨーロッパへ来て見なければわからないみじめさとして彼女の前に描きだされたにちがいない。一日一日を食べて行くことさえこまかく計算されなければならないとき、外国人弟子からはおどろくような月謝をとるのが風習であるウィーンのピアノ教授への謝礼をつづけることはどうして可能だろう。川辺みさ子が、日本を出発したとき、彼女のボートは焼きすてられていた。ふたたび故国へ帰るときの川辺みさ子は、凱旋者でなくてはならなかった。川辺みさ子は、ウィーンでピアノを修業するものとしてではなく、自分のベートーヴェンで世界を征服して来る、と云って出発して来たのだったから。嫉妬ぶかい日本の音楽界は、ひとたび自分たちの耳に聞いた彼女のその言葉を忘れることはないだろう。川辺みさ子が、自分で自分をとりこにしたその言葉の垣のすき間から、彼女の一挙一動は見まもられているのだ。ウィーンでの川辺みさ子には、彼女を支持する大衆というものもなかった。よしんば音楽そのものはよくわからないにしても彼女の勇気と努力とを愛して、櫛のおちる演奏に拍手する素朴な人々はいなかった。
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