ズラかった信吉
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著者名:宮本百合子 

「私工場へ働きに出たことはないし、どうしようと思ってたら、チホーン・アルフィモヴィッチが、ソヴェトに知っている者がいるから、野菜の許可露天商人に世話してやるって云ったんです」
「それが今の職業ですね」
「ええ」
「どうして真直職業紹介所へ行かなかったんですか?」
「……うまく行くだろうと思ったんです」
 咳きばらいをしながら、カサカサした声で女は話した。身持ちになったときグリーゼルは、俺には貯金が五百ルーブリもあるんだから、養育費を出してやると云った。それだのに赤坊が生れて十ヵ月経つのに一文もよこさないと云うわけだ。
「ソヴェトの法律は、女が自分に赤坊を生ませた男から、月給の三分の一までの養育費をその子が十八歳になるまで要求する権利を与えています。然し、それはただの口約束では駄目なんですよ。裁判できめなければ駄目です。――知らなかったんですか?」
「知りませんでした」
 そう云ってエレーナは微に顔を赤くした。
 ふーん。……じゃソヴェトじゃうっかり女に悪戯なんぞ出来ねんだな。
「証人、シンキーチ……」
 女裁判官はよみ難そうに顔を書類に近づけて呼んだ。
「シンキーチ、セリサーワ」
 立ってベンチを出てゆく信吉の後で、物珍しそうな囁きがあっちこっちで聞えた。
 だれ? あの男――
 知らないヨ。
 支那人だろう。
 ――静にしろ!
 女裁判官は、赤い布をかけた机ごしに信吉にきいた。
「いくつです?」
「二十二」
「職業は?」
「煉瓦を、こうやって槌でこわす」
 信吉は仕方をやって見せた。
「それが仕事です」
「よろしい。……あなた、この女を知っていますか?」
 子供の時分、学校の教壇のまえへよび出されたときみたいな心持に信吉はなった。全くソヴェトにはまだ新しいものと古いものがゴッタかえしてる。女裁判官は、そのゴタゴタに新しい社会の定規を当ててハッキリしたけじめをつけてやってるようなもんだ。
「知っています」
 いろいろの質問に知ってるだけ答えた。
「エレーナ・アレクサンドロヴナとグリーゼルが一緒にいるのを見たことがありますか」
「え。庭で」
「そうじゃない。室で……寝床で」
 信吉は、横に並んでる二人の方をジロリと見た。エレーナは細い娘っぽいボンノクボに力をいれてがんこに下を向いてる。
 が、いい年をしたグリーゼルは、女裁判官ぐるみソヴェト裁判そのものをてんからなめてる風でヌーと立ってやがる。
「俺、朝働きに出る」
 信吉は答えた。
「夕方、かえる。グリーゼルは一日家にいる。何をやってるか――悪魔が知ってら!」

 この事件のほかにもう一つ、母親が息子に扶助費請求の聴取を終って、女裁判官はドアの奥へ引こんだ。書類をまとめて、二人の陪審員もついてった。
 休憩なのはこっちの室だけだ。ドアのむこうでは、その間に判決を審議しているんだ。
 四十分ばかりして、女裁判官と陪審員が再び現れ、グリーゼルは月十五ルーブリずつの養育費支払いを宣告された。

    (□)[#「(III)」は縦中横]

        一

 内地で自転車屋に奉公していたことが、計らず信吉の仕合せとなるときが来た。
 ソヴェト同盟では、一九二八年十月から生産拡張の五ヵ年計画という素晴らしい大事業にとりかかってい、五年間に、つまり一九二八年から一九三三年の秋までに、同同盟の
  (一)[#「(一)」は縦中横] 工業生産額を百八十三億ルーブリから四百三十二億に
  (二)[#「(二)」は縦中横] 農業生産額を百六十六億から二百五十八億に
  (三)[#「(三)」は縦中横] 電力を二十一億キロワット時から二百二十億キロワット時に
高めようという大計画だ。一年一年予算を立てて着々とやっている。
 まだアルハラの山奥で××林業の現場に信吉が働いてた頃、松太がこういうこと云った。
「なんでもモスクワは今大した景気で、おっつけアメリカ追い越すぐれえだとよ」
 豪勢なもんだナ。ボンヤリそう思っただけで、そのときの信吉にはもちろんそれが実際にはどういうことだか、見当もつかなかった。
 アメリカに追いつくと云ったって、そう手っとり早く、いかに勤勉なソヴェトの労働者にだって出来るこっちゃない。
 五ヵ年計画は、ソヴェト同盟の農業や工業発達の基礎となる生産手段=機械力をウンと高めるのが第一目的だ。五ヵ年計画では、その生産力で一年に三割ずつソヴェト同盟の全生産があがってゆく。
 その割で十八年経つと、ソヴェトの生産は今大威張な工業国アメリカより五倍も多くなるわけなんだ。
 今になって見れば、あんな山ん中にも、みんなが一生懸命になっている五ヵ年計画の噂はひろがってたことが信吉にわかる。
 それに労働者の日当が三四割がた高まるから××林業は潰れるべと云った源も、案外的に当ったことを云った。
 ソヴェト同盟じゃ、労働者が精出して働き国の富をませば、それを間で〔七字伏字〕って者がないから、みんな一人一人の労働者の毎日の暮しん中へ直に戻って来る。
 賃銀が一年で二割ぐらいずつ全体あがった。アグーシャや劉夫婦なんぞ、絹の形つけ工だが六十二ルーブリだったのが、今じゃ七十五ルーブリ以上だ。
 五ヵ年計画がはじまって、どの工場でも事業拡張だ。
 或る日、区職業紹介所から信吉に呼び出しが来た。
 窓口へ行って見ると、麻ルバーシカの男が、
「お前、自転車工場で働いてたことがあるんだな」
と云った。
「工場たって――小さい、田舎んだ」
「どっちだっていいサ。今、『鋤』で第三交代の旋盤工がいるんだ。行って見ろ」
「鋤? 何だね鋤って――」
「工場だ――農具をこさえる工場で、大きい工場だ」そして「お前が日本で働いてた、田舎の、小ちゃいんじゃないよ」剽軽に、信吉の訛ったロシア語を真似して笑った。
「体格検査をうけて、通ったら見習一週間。給料つき。それから本雇の給料は、工場委員会の技術詮衡委員がきめてくれる。――わかったか? サア、これがところ書だ」
 モスクワ、ヤロスラフスコエ街道。――
 モスクワも北端れだ。長く続いた工場の煉瓦塀の外に青草が生え、白い山羊が遊んでいる。貨車の引こみ線らしいものが表通りからも見えた。
 工場クラブの横に診療所があって、信吉といっしょに健康診断をうける男がほかに三十人ばかりある。
 信吉はズボンだけの裸んなって、腋毛を見せながら、白い上っぱりを着た中年の医者の前へ立った。
「さて……見たところ達者そうだね」
 信吉に舌を出させながら、
「お父さんとお母さんは丈夫かね」
「親父は丈夫です。お母は死んだ」
「何で?」
「知らない」
「肺病か、それとも――気違いじゃないか」
 医者は人さし指をコメカミのところでクルクルまわして見せた。
「そうじゃないです」
「――子供のとき、ひどい病気はしなかったかね?――……餓えたこたァないかね?」
 単純な恐ろしく真実な質問は信吉を深く感動させた。
 体格検査をうけたのはこれで二度目だ。内地で徴兵検査のときと、――市役所で、陸軍の将校が来て、猿又までぬがした。〔九字伏字〕ときみたいな調べかたをしたが、餓えたことはないかとは、訊いてくれなかった。
 信吉は丁寧に、どうにか食えてたと答えた。
「梅毒や淋病は患ってないか?」
 つづけて医者がきいた。
 旋盤の第三交代は、初め四日間、夜十二時から翌朝の七時まで働くと、まる一日休みで、次の四日間は朝八時から四時までにまわる。もう一度休みを挾んで、四時から十二時までの出番になって、その順でグルグルまわるんだ。

        二

 白っぽい樺板の羽目に赤いプラカートや、手描きのポスターが貼ってある。
 この頃また建てましをやった「鋤」の食堂だ。果汁液(クワス)だの一杯二カペイキの茶、スイローク(牛乳製品)なんぞを売ってる売店の上んところに、ラジオ拡声器がつき出ている。
 昼休みの労働者のための音楽放送だ。ところが今日はオーケストラそっちのけで、一つの長テーブルのまわりへ大勢がかたまってる。テーブルへ腰かけて、のぞきこんでる者もある。
「何ごとだい?」
 信吉なんだ。本雇んなって三日目の信吉が、弁当つかってたら偶然みんながいろんな質問をはじめて、こんなにかたまっちゃったんだ。
 水色と黒のダンダラ縞の運動シャツを着た若いのが、信吉のとなりで頻りに本をよみながら、ソーセージとパンをくってた。何心なく見ると、その本には機械の図解があって、むずかしそうな方程式が書いてある。
 ……職工でこれがわかるんだろか……。なお眺めていたら、その若いのがヒョイと顔をあげて、信吉を見た。毛色の違いにすぐ気がついた風だ。両方ともちょっとバツがわるいように見あったが、運動シャツの方が、
「お前ここに働いてるのか?」
と口をきった。
「ああ」
 信吉は、本を指さした。
「それ、わかるのかい? お前に」
「これか?」
 却って質問が合点いかないように運動シャツは本を持ちあげて信吉の顔を見ていたが、
「ああ、お前今度第三交代で入って来たんだろ」
と云った。
「俺は実習生なんだよ、工業学校からの……お前旋盤か?」
 それから、その実習生がきき出した。日本に共産党(×××)があるか? 労働者の賃銀はどの位だ? そこへ、別のテーブルの連中もそろそろやって来た。
「……話わかるのか?」
「通じるよ」
 すると、鞣の前垂れをした四十がらみの骨組みのがっしりした労働者が、
「お前、何てんだ?」
ときいた。
「シンキチだ」
「よし、よし。じゃあシンキーチ、きかしてくれ。お前ん国なんだね、〔四字伏字〕か?」
 テーブルへ肱をついて信吉の方を見ていたカーキ色シャツの青年共産主義同盟員(コムソモーレツ)らしいのが、それをくだいて、
「〔九字伏字〕? まだ。それとも〔三字伏字〕か?」
と云った。
「〔八字伏字〕」
 ガヤガヤみんな一時に口をきいた。
 〔四字伏字〕なんだ。
 そうじゃない。日本には〔十七字伏字〕、〔四字伏字〕だよ、今は。
「まあ、いいや。……それで、赤色職業組合なんかあるか?……メーデーにデモンストレーションやるんか?」
「ああ。トラックで一杯〔六字伏字〕」
 ドッと愉快そうにみんなが互に顔を見合わせながら笑った。鞣の前垂れかけたのが、信吉の肩をたたきながら、
「ナーニいいさ? 今に見てろ。〔十六字伏字〕」
 ギューッと曲げて力瘤の出た二の腕を、ドスンドスンと叩いて見せた。
「わかるだろ? そして、〔十三字伏字〕。そのとき、こっちじゃ五ヵ年計画を三つも四つもやっといて、飛行機で〔十二字伏字〕!」
 菜っ葉服にオガッ屑をつけ、鳥打帽をかぶった鼻の赤い木工らしいのが、
「おめ、おめえんとこに、飛、飛行機あるかね?」
と吃りながらきいた。
「勿論あるさ!」
 信吉は力をいれて答えた。
 コムソモーレツらしいのが口を入れた。
「日本の〔四字伏字〕工業技術は進んでるんだ。水力電気も発達してるんだぜ」
 暫く、みんな黙ってたが、木工が、
「おおお前の方じゃ、ど、どうだね、大体食糧なんざ、た、たんとあるかね?」
 忽ちすべての目が信吉に向ってシーンと引きしまった。飾りのないとこ、これは今のみんなが注意ぶかくきかずにゃいられないことなんだ。信吉にはソヴェト労働者のその心持も、事情も親身に察しられる。信吉自身だって、アルハラの山奥から、いいことずくめを想像してモスクワへ来たときにゃ食糧難で実はびっくりしたんだ。
「日本に食糧はうんとあるんだ。だが、どうにも銭がねえ。……わかるか、俺のいうこと」
 信吉はグルリとみんなを見まわし、
「――これが、ねえんだ」
 指で円く形をして見せた。
「……失業が多いのかい?」
「ひでえ。ソヴェトじゃ、食糧の切符でも、とにかく労働者が第一列だ。〔四字伏字〕、〔六字伏字〕。……わかるか? 俺の云うこと」
「わかる!」
 誰かが言下に答えた。
「わかるよ」
 わきへよってそれ等の問答をききながら鞣前垂が紙巻き煙草をこさえていたが、真面目などっか心配そうな眉つきになって信吉にきいた。
「お前、ソヴェトが今どういう時だか知ってるか?……五ヵ年計画って何だか知ってるか?」
「知ってる……よくは知らないが、知ってる」
「ふむ、そりゃいい。今何より大事なことなんだ、われわれんところじゃな。いいこともわるいこともみんなそっから来てる」
 ……こいつ、党員かしら。――信吉は鞣前垂にきいた。
「お前、党員かい?」
「そうじゃない」
 手巻きタバコをくわえ、それにマッチをつけながら、
「党員の方がよかったか? ハッハッハ」
 いかにも、こだわりない声で笑った。みんな笑った。
「党員だけがいい労働者にゃ限らねえ」
 すると、わきの若い一人が、親指でその鞣前垂の広い胸をつっつきながら、
「これは、一九一七年の英雄だよ。この工場が『白』に占領されそうんなったとき、こいつは涙ポタポタこぼしながら樽のかげからつづけざまに『白』の〔十字伏字〕」
 鞣前垂のゆったりした全身にはどっか際だって心持のいいとこがあった。
 ジッと、潮やけみたいにやけた鼻柱と碧っぽい落付いた眼を見あげながら、信吉は、
「お前、何てんだ?」
と、きいた。
「俺?――ドミトロフだ。……わかったか? ドーミートーローフ。鍛冶部だ。二十年働いてる。お前が知り合いになった男が、『飛び野郎』じゃねえことだけは確かだよ」
 五ヵ年計画で、あっちこっちへ工場が建ち、特に熟練工はソヴェト同盟じゃどこでもひっぱり足りない。
 そこで、一部の労働者が、一つの地方から一つの地方へ、三ルーブリでも賃銀の高い方へ「飛んで」行く。職業組合はそのために予定が狂って、ひどく迷惑してるんだ。

        三

 鉄片の先のトンがった方を電気鑢(やすり)へかまして、モーターを入れると、ツイーッ!
 忽ち深い螺旋がついちまう。
 ホラ来た。もう片方! ツイーッ!
 軽い、規則正しいツイーッ! ツイーッ! という響と鉄が強いマサツで放つ熱っぽい活溌な匂いとがいくつも並んだ台を囲んで仕事場じゅうに満ちてる。
 信吉は、コンクリの床から鉄片をとりあげちゃ鑢にかけ、調子よくやっていた。
「鋤」で働くようになってっから、信吉は満足だ。
 ソヴェトの労働者といったって、道ばたで煉瓦砕きをやってる連中とここの連中とじゃ、違う。先は、顔ぶれが日によって変ったし、第一みんな臨時にこんな仕事やってるんだという腹があったから、仲間同志も、仕事っぷりもどっか冷淡だった。従ってモスクワの張り切った生活をも道ばたから眺めてるような工合だった。
「鋤」じゃ全く違う。
 信吉が日に二百本余の締金を電気鑢でこさえることは、八百人からの労働者のいる「鋤」農具製作工場全体の仕事と抜きさしならず結びついてる。余分な人間は職場には一人もいねえ。――
 ヒョイと跼んだ拍子に見ると、明るくカラリとした仕事場のむこうの入口からピオニェールが二人来る。
 仕事台と仕事台との間の広々した、鉄の匂いのする通路を、赤い襟飾が初夏らしくチラチラした。
 間もなく信吉のところへも来て、
「お前、もうこれへ書きこんだ?」
 鉛筆で罫をひっぱった大判の紙を見せた。
 信吉は片手に鉄片をブラ下げたなり、
「何だね?」
「五ヵ年計画公債を買う人はここへ名を書くんだよ」
 仕事台で並んでるグルズスキーが、撫で肩の上から粘りっこい目つきでチラリとこっちを見たなり、黙って仕事をつづけてる。
 信吉は、ピオニェールの出してる紙をゆっくりとりあげた。
「なんぼなんだ?」
「一枚五ルーブリさ。毎月払いこみゃいいんだヨ。うちの工場、フトムスキー工場と社会主義競争をやってるんだ」
 名と予約金高が書いてあるんだが、どれも二十ルーブリ、二十五ルーブリ、多いのんなると四十ルーブリなんてのがあって、五ルーブリなんぞと書いてあるのはない。
「――お前、なんなんだ?」
「俺?」
 金髪を額へたらして、女の子みたいにふっくりした頬っぺたのピオニェールは、クルッとした眼で信吉を見あげた。
「工場学校の、『五ヵ年計画公債突撃隊』だヨ」
「鋤」附属の工場学校では、四年制の小学を出た男の子や女の子が三十人ばかり技術養成をうけている。
「……お前いくらって書く? 二十ルーブリ?」
「やめとこう」
 信吉は紙をピオニェールにかえした。
「なぜだい?」
 びっくりした様子で、信吉を見た。
「みんな書いたんだヨ」
「俺あ、ここへ来てまだ二週間ぐれえにしかならね。新米だ。もういろんなのに書いた。だから、いいんだ」
 つい三四日前のことだ。職場のコムソモーレツ、ヤーシャがやって来て、オイ、国防飛行化学協会(オソアビアヒム)の会員になりな、と云った。工場の者は大抵会員になってるって云ったから信吉も入ることにした。会費五十カペイキ出した。
 きのうは食堂で国際赤色救援会(モプル)の委員だっていう若い女につかまって、そこへも加盟させられた。一月五十カペイキだ。一週間のうちに、こういうのをもって来るからね、と、その女は自分の膨らんだ胸へくっつけてる徽章を見せた。鉄格子から手が出て赤い布を振っているところだ。世界じゅうの〔約五十字伏字〕。
 こう続けざまじゃ、やり切れねえ。
 信吉は思った。古くッからいる者だけが書きゃいいんだ。年の小さいピオニェールは、信吉にことわられて困った顔をしていたが、
「冗談じゃなくサア」
と云った。
「書くだろ? いくら?」
 しつっこい。そう思った拍子に、
「俺らロシア人じゃねえ!」
 □
 小さいピオニェールは、瞬間平手うちをくったような顔になって信吉を見てたが、ハッキリ一言、
「――お前、プロレタリアートじゃないってのか?」
 ちょいと肩をゆすり、一人前の労働者みたいな大股な歩きつきで、行っちまった。
 チェッ! 低い舌うちをして、信吉はやけに頭をかいた。何だか負けた感じだ。
 なんだ! つい横じゃ、信吉の台から廻す締金の先へ手鑢をかけてるオーリャまで、こっち見て奇麗な白い歯だして笑ってる。
 信吉はムッツリして働き出した。
 暫くすると、
「気にするこたねえ」
 グルズスキーが顔は仕事台へ正面向けたまんま小声で慰めるように云った。
「食堂にかかってる表(ひょう)へみんなが好きで名を書きこんだか?――決してそうじゃねえ。スターリンは、公債を買う買わないは自由意志だって新聞で云ってるが、工場委員会の連中が、見張ってやがるんだ。……それにこの工場じゃ、もう一まわりすんでるんだ」
 コソコソ声で、グルズスキーがそんなこと云うんで信吉はなお気が腐った。
 ボーが鳴った。
 工場へ入って初めていやにはずまない気分で信吉が仕事場を出かけたらオーリャが、
「ちょいと! シンキーチ!」
 後からおっかけて来た。工場学校をすまして信吉と前後して職場へ入って来たばかりの婦人旋盤工だ。
「見たよ」
 人さし指を立てて信吉を脅かすようなふりをしながら、ハハハと笑った。
「…………」
 苦笑いして信吉はそっぽ向いた。
「お前、クラブへ行った?」
「いいや」
「じゃ来ない? いいもん見せてやるわ」
 木工部の横をぬけ、トロの線路を越して、花壇の方からクラブへ入ってった。
 昼休みは、若い連中で賑やかだ。
 運動部の室からフットボールを抱えて出て行く。開けっぱなしにした戸からチャラチャラ、幾挺ものマンドリンが練習している音がする。
 赤い布をかけた高い台にレーニンの胸像が飾ってある入口の広間へ来ると、
「ほら! 見た?」
 壁新聞の前へオーリャは信吉をひっぱってった。
「こりゃ、誰れ?」
 へえ……。仕事台の前へ立った信吉の写真が壁新聞に出てる。
「おきき。読んだげるから。
われわれの工場の旋盤部へ、はじめて一人日本の若者が入って来た。セリサワ・シンキチ。二十二歳だ。貧農の三番息子だ。アルハラの××林業で働いていたが、そこでソヴェト同盟の労働者がどんなに暮しているかという話をきいた。モスクワへ逃げて来た。旅券なしだった。
モスクワではじめ煉瓦砕きをした。それから『鋤』の旋盤第三交代へ働くようになった。
彼は、まだロシア語を読書きは出来ない。だが、もうオソアビアヒムと、モプルの会員となった。
労働通信員 グーロフ」「ふーむ」
「間違わずに書いてある?」
「ああ」
「この写真、誰がとったのかしらん」
 オーリャは、紺の上被りの結びめが可愛くつったってるオカッパの背中をかがめて、シゲシゲ写真を見た。並んで信吉も、ひとの写真を見るようにそれを眺めながら、
「グーロフだ」
「……似てるわ」
 クラブを出て、花壇を歩きながら、オーリャが、
「お前、家族ないんだろ?」
と云った。
「ない」
「私知ってるよ、今、お前自分で自分に満足してやしないんだ」
「…………」
 そりゃ本当だ。
 カンナの花のわきで、オーリャがぴたりと立ちどまった。
「お前、お書き。……そうすりゃすっかりよくなるよ。……書くだろう?」
 太陽はキラキラ照りつけて、工場の三本の煙突も、カンナの大きい花も、オーリャのすらりとした素脚も、青空といっしょに燃えるようだ。
「書く?」
「うん!」
「そうしなくっちゃいけないさ。〔十三字伏字〕、〔四字伏字〕区別なんぞないんだ。そうだろ?」
「俺は……」
「わかってるよ。ブルジュアの魔法さ」
 オーリャは、信吉の顔の前で、艶々した唇をトンがらかして呪文をとなえる真似をした。そして笑い出した。
「さ、握手しよう!」
 信吉[#「信吉」は底本では「信者」と誤植]はしっかり、細い、だが力のあるオーリャの手を握った。
「さきへ行って、食堂んとこで待っといで。いい? 私、コーリャよんで来てやるから。あの子、がっかりしてたよ、さっきは――」
 信吉は、元気に手をふって花壇を足早に工場学校の方へ行くオーリャの後姿を長いこと立って見送ってから、食堂へ行った。

        四

 シッ!
 シッ!
 ひろいモスクワ河を、ボートがゆっくり溯っている。
 上流に鉄橋だ。
 右岸は空地で電車終点だ。西日で燦めきにくるまれた空に遠い建築場の足場が黒く浮立ち、更に遠方で教会の円屋根が金色に閃いてる。
 ボートを借りて来た職業組合ボート繋留場の赤紙の下では、後から来た一団の男女が、手前へかきよせられるボートを見てる。立ってる一人一人の姿が小さく、ハッキリ中流から見えた。
 左手はひろい「文化と休み公園」だ。
 水泳の高い飛び込み台がある。水をはねかしたり、泳いだりする頭、肩、腕がゴチャゴチャ台の下にある。女の貫くような、嬉しそうな叫び声。笑いながら若い男がよく響く声で何か云ってる。バシャ、バシャ水を掻く音。
 公園から音楽が聴えて来る。
 ミチキンは黙ったまんま、休み日の愉しさを一漕ぎごとに味ってるように、力を入れて漕いでる。
 今日はミチキンにとって特別な日だ。命名日だ。その上、個人営業をやめて靴工場で働くようになってからはじめての休みだ。信吉、アンナ、アグーシャはミチキンのお祝によばれてモスクワ河へ遊びに来ているというわけなんだ。
 公園をはずれると、景色がかわった。
 楊柳が濃い枝を水へつけ、水ぎわのベンチに年とった夫婦が腰かけて日没のモスクワ河を眺めてる。
 オールをあげて浮いているボートがあっちこっちにあった。どのボートにも男女の上にも、いっぱいの西日だ。
 河の上の西日は大して暑くない。――
「なに?」
 アグーシャが、アンナの目交ぜにききかえし、訝しそうに自分の膝の下で寝ころがってる信吉の顔を見下した。が、彼女の口元もアンナと同じようにだんだん微笑でゆるんだ。
「……わるくないじゃないか――」
 ひょっくり信吉が頭をもちゃげた。
「何がよ……」
 アグーシャとアンナは声を揃えて笑った。アグーシャが信吉の肩を力のある手の平でポンと叩いた。
「今お前の頭へのっかってた娘は何て名?」
「バカ!」
 信吉は赧い顔した。
「どうして? 結構じゃないの? お前だってもうおふくろの裾へつかまって歩く坊やじゃないんだもの」
 ミチキンがあっち向いて漕ぎながら真面目な声できいた。
「職場にいい娘いるか?」
「いる」
 信吉は、オーリャはここへ来たかしらとボンヤリ考えてたところだったのだ。
 鉄橋の下まで行って戻って来たら、公園の下のところは、集って来たボートでオールとオールとがぶつかるぐらいだ。
 遠く鳩羽毛に霞んだモスクワ市のあっちで、チラ、チラ、涼しい小粒な金色の輝きが現れたと思うと、パッと公園の河岸で一斉にアーク燈がついた。
 コンクリートの散歩道、そこを歩いてる群集。そういうものがにわかに鉄の欄干の上で際立って、水の上は暗くなった。音楽の響が一層高まった。
「さ、行こうよ、早く」
 アンナが、浮々してせき立てた。
「芝居がはじまるよ、直ぐ」
「七時半からだよ」
「――だって……もう直ぐだよ」
 河岸の水泳場のそばに一隻の水雷艇が碇泊している。真白い服をつけ真白い靴をはいた赤衛海軍士官。帽子のリボンを河風にヒラヒラさせている水兵。新鮮な子供の描いた絵みたいな景色だ。彼等は無料で希望者に艇内を観せ説明をしてやってる。
 むこうの丘の上には、政治教程の講堂と図書室。科学発明相談所がある。
 曲馬がかかってる。
 托児所は、千人を収容する大食堂のわき、花園と噴水のかげだ。
 ガラス屋根の絵画展覧会。午後十時まで。
 活動写真館。
 アンナがわいわい云う芝居というのは「農村と都会の結合」広場のわきに、自然の傾斜を利用してこしらえた露天劇場だ。
 ベンチはとうに一杯で、信吉たちが行きついたときは、遠くの芝草へ足をなげ出して、明るい舞台の上で人間の動くのだけを満足そうに見下してる男女も幾組かある。
「これじゃ仕様がないや」
 アグーシャは先に立ってブラブラ行ったが、急に勢よく振りかえっておいでおいでした。
「いいもんが始るヨ! はやくウ」

        五

 数百人の輪だ。
 中央に高い台があって、運動シャツ姿の若い女がアーク燈の光を浴びながらその上に立ってる。テントの方から労働者音楽団が活溌な円舞曲を奏し出すといっしょに、
 ソラ、右へ、右へ、
 一 二 三 四!
 一 二 三 四!
 かえって。
 左へ
 一二 三 四!
 足踏をして!
 一二 三 四!
 ウォウ――!
 合図につれて数百人の男女が笑いながら声を揃えてウォーオ……!
 サア
 手を振って
 高く! 高く!
 一二 三四!
 見ず知らずの者だが仲よく手をつなぎ合って、前へ進んだり、ぐるりと廻ったり、調子をそろえ、信吉たちは汗の出るまで二かえしも陽気な大衆遊戯をやった。
 やっぱり見ず知らずの若い者多勢と、今度は別な砂っぽい広場で「誰が鬼?」をやった。
 一人が目をつぶって片方の肱から手の平を出してる。グルリとかこんだ者の中から誰か、しっかりその手の平に平手打ちをくわして、素早く引こむ。サッとみんなが同じように指一本鼻の先へおっ立てる。中から、誰が鬼か当てる遊びだ。
 ハンケチで顔を拭き拭き、わきから眺めてるうちに、信吉は興にのって、鬼に当った男の手の平をピッシャリやってヒョイと指を立てた。
「お前だ!」
 アグーシャをさした。
「違う」
「そうじゃないよ!」
「さァ、さァ、もう一遍だ」
 ピシャリ!
「そら、今度こそ当った! お前だよ」
 アンナをさした。誰かがキーキー声で、
「お前、どうしてきっと女が自分を打たなきゃならんもんときめてるんだ! 変な奴!」
「――騙すなよ、おい」
 伴(つ)れらしいのが、大笑いしながら、
「本当に、お前が当てないんだから仕様がないよ、サァ、目をつぶったり、つぶったり」
 計らず信吉はその鬼から煙草一本せしめた。信吉の手が小さくて、そのノッポーで感の悪い労働者には、男だと思えなかったんだ。
 金がかからない楽しみでだんだん活気づき、信吉たちは、いい加減くたくたになるまで公園中を歩きまわった。赤い果汁液(クワス)を二本ずつも飲んだ。ベンチに長いこと両脚をつき出して休んだ。
「さ、引きあげようか」
 河岸をブラブラ公園の出口に向った。
 信吉はとっくに鳥打帽をズボンのポケットへつっこんでしまってる。黒い髪をいい気持に河の夜風が梳(す)いた。
 不図(ふと)、何かにけつまずいて信吉は、もちっとでコケかけた。靴の紐がとけてる。
 河岸の欄干側へ群集をよけ、屈んで編みあげかけたら、紐が中途で切れてしまった。
 畜生! やっと結んで、信吉はいそぎ三人を追いかけた。
 ところが、大して行くわけがないのに、見当らない。信吉は、注意して通行する群集、日本の縞の単衣みたいな形の服を着てお釜帽をかぶった、トルクメン人までをのぞきながら逆行して来た。見えない。――
 フフム! 信吉は閉ってる新聞売店の屋体の前までさり気ない風でブラブラ行って、急に裏へ曲って見た。紙屑があるだけだ。
 あんなちょっとの間にハグレたんだろうか。半信半疑だ。
 信吉は、河を見晴すベンチの一つへ腰をおろした。
 もう水泳場は閉められて、飛込台の頂上にポツリと赤い燈がついてる。むこう岸の職業組合ボート繋留所の屋根には青色ランプだ。後を絶間なく喋ったり歌ったりして人が通るが、気がしずまって来ると河の漣(さざなみ)がコンクリートにあたる静かな音もきこえる。
「誰が鬼」で貰った煙草をポケットからひっぱり出し、隣の男に火をもらって、信吉はうまそうに吸った。
 何か後で云ってる女の声にきき覚えがある。振向こうとした拍子に、目かくしをされた。
 アグーシャ!……だが――、本能的に自分の目を抑えた女の手頸を握りながら信吉は考えた。太さが違う。そう云えば目の上にのってる両方の手だって、いやに小さい。
――若しか、……信吉は危く、
 オーリャ!
と叫びそうにした。そのとき擽ったく唇を耳のそばへもって来て柔かい息と一緒に、
「――当てて御覧。だあれ?」
「ああ、お前か!」
 信吉はがッかりして大きな声を出した。女はなお手で信吉の眼を抑えたまんま甘えて足踏みするような調子で、
「だれさ」
「わかってるよ」
「だからさ、誰だってのに」
「ええーと、アクリーナ」
 パラリと手をといて、ベンチをまわって来、信吉へぴったりくっついて腰かけた。
「――煙草もってない?」
 信吉は煙草を出してやった。紅をぬった唇をまるめてフーと煙草の煙をはいてる。アクリーナのしなしなした体つきや凝(じ)っと人を見る眼つきには、いやに抓りたいような焦々した気を起させるところがある。「鋤」工場の職場仲間だ。オーリャなんかと工場学校から来た婦人旋盤工だ。
 ジロリ、ジロリ見ながら信吉が訊いた。
「ひとりか?」
「――みんな先へ行っちゃった!」
 火のついたまんまの吸殻を河へ投(ほう)り、アクリーナは、
「ああくたびれた」
 肩を信吉の胸へもたせかけるようにして、小さい白粉入れをとり出した。蓋についた鏡をのぞきこんで脱脂綿の切れっぱじで鼻の白粉を直しながら、
「……お前の国にもこんな大きい河ある!」
「ある」
「公園あるかい?」
「あるさ」
「フーム。……ね、きかしとくれ」
 パチンと白粉入れをフタしながら急に勢こんでアクリーナがきいた。
「お前の国の女、奇麗かい?」
「奇麗なのも、きれいでないのもいらあ」
「……お前、何足絹の靴下もって来た?」
「絹の靴下?」
 ルバーシカ一枚の胸へぴったり若い女の体をくっつけられ少なからず堅くなりながら正面向いて返事していた信吉は、アクリーナの顔を見直した。
「何だね……絹靴下って……わかんねえよ俺にゃ」
「狡い奴!」
 クスリと笑って横目で睨みながら肩で信吉の胸を小突いた。
「支那の男みんな真珠の頸飾だの靴下だの持ち込んでるじゃないのサ」
「そりゃ支那人のこった。俺ら知らねえよ。俺ら日本から来たんだ」
「どっちだっておんなじさ。――お前んところに勿論あるのさ……フフフ」
 素早くのび上って、アクリーナは、信吉の顎のところへキッスした。そして一層しなしなした熱い体を信吉にすりよせた。
「どう? ある?」
 信吉が返事する間もないうちに、アクリーナは両手で信吉の両手をつらまえ、
「さ」
とベンチから立ち上った。
「行こうよ」
「……どこへだ?」
 捉まえた信吉の両手ごと自分の胸の間へたくし込んで囁いた。
「あっちへ……森へ――」
 アーク燈に数多い葉の表を照らされ菩提樹の下は暗い。落葉や小枝をピシピシ靴の下で踏みながらアクリーナが先へ立って茂みの奥へ奥へと行く。信吉の気分がそうやって歩いてるうちにハッキリとして来た。それと同時に遠方のクラリオネットの音が耳について来た。
「おい」
 アクリーナはサッサ歩いてく。
「おい」
「何さ」
「どこへ行くんだよ……俺行かねよ」
 アクリーナが立ちどまった。信吉は楽な気分になって、からかう気で、
「絹の靴下ねえから、行かないよ」
 妙な顔して、アクリーナがすたすたまた小枝を踏みつけながら戻って来た。ぴったり信吉と向いあい、首をかしげるようにして、
「……嘘云うもんじゃないよ」
 ――あんまり本気な調子だ。思わず信吉はアクリーナの顔を見つめた。森へ行こうと云った本心がわかった。絹靴下が欲しかったんだ。信吉は額に皺をこさえて頭を掻いた。
「……行かないの?」
「ああ。……養育料払う金もねえもん」
「……木槌野郎!」
 ツと信吉の前を抜けアクリーナは、片手で灌木の枝を押しわけ明るい道へ出てしまった。

        六

 信吉はズボンの皮帯を締めながら、クシャクシャな髪をして、隣の室へ出て行った。
 朝日が室へ射してる。
 寝台の上では、長年グリーゼルの大きな図体の下に敷かれて藁のはみ出した布団が捲り上げられたっぱなしだ。埃をかぶったまんま引っぱり出されてる藤づる大籠。カギのこわれた黄色いトランク。得体の知れないボール箱だの新聞包み。
 取り散らされた家財の横で床板がめくられてる。
 信吉はゆっくりそこまで行って、トントンと踵で嵌めこもうとした。
 嵌らない。
 窓前の油布のかかったテーブルに、グリーゼルがその上で食物を拵えてた石油焜炉とコップが置いてある。
 いつもは、通り抜けてばかりいたグリーゼルの室を、そっちこっち歩きまわって見た。
 昨夜信吉が「文化と休み公園」から帰って来たのは十一時過だった。
 果汁液(クワス)を飲みすぎたか、腹の工合が変なんで便所へ入って居睡りこきかけてたら、階段をドタドタ数人が一時に登って来る跫音がした。
 便所の傍を通って、信吉が出て来たグリーゼルの借室の戸をあける音がする。跫音は沢山なのに話声がしない。
 出て来て見て、信吉は一時に睡気を払い落された。
 室の入口に突立ってるのは当のグリーゼルだ。
 若い男が二人、寝台の下から乱暴にトランクを引っぱり出したり、寝台のフトンをめくったりしている。
 卓子からちょっと離れたところに、脊広を着た中年の男と絹織工場の女工で住宅監理者のヴィクトーリア・ゲンリボヴナとが立って凝っとその様子を見ている。
 信吉は閾のところで立ち止った。財産差押えに来たんだナ。そう思った。
 ところが、若い二人の男はトランクを開けて中を検べるとそれをパタンとフタしてわきへどけ、封印なんかしない。
 藤づる籠の古着の下から三本ブランデーの瓶が出て来た。それを中年の男が受けとって卓子の上へキチンと並べた。
 いつの間にやら信吉のまわりは、同じ廊下の幾つもの借室から出て来た男女で一杯だ。
「何だい?」
 次々にヒソヒソ信吉に訊いた。
「知らない」
 しまいには、返事するのをやめた。
 床板がめくられると下から、素焼の、妙な藁に包んだいろんな形の酒瓶が五本も現れた。戸口につめかけてる群集の中から刺すような甲高い子供の声がした。
「アレ! 父っちゃん。何さ? あの瓶? 何サ?」
「……黙ってろ」
 グリーゼルと都合八本の酒瓶と三人の男は、無愛想に人だかりを分け階段を下りて再び行ってしまった。
 忽ち、ヴィクトーリア・ゲンリボヴナが居住人に包囲された。
「みなさん、どうぞ静かに休んで下さい。グリーゼルは強い酒の密売で拘引されたんです。……知ってなさる通り、ソヴェトは勤労者の規律のために強い酒を売るのを禁じているんですから」
 階段を下りかけて、彼女は、
「ああ、ちょっと」
と信吉を呼んだ。
「お前さんの室主は若しかしたら数ヵ月帰って来まいから、室代は直接住宅管理部へ払って下さい」
「――一本の歯になりゃその一本でソヴェトに噛みつこうとしやがる」
 憎々しげに、隣に住んでるブリキ屋が室へかえりながら呟いた。グリーゼルは工場主で、革命まではこの大きい建物を全部自分で持って貸していたんだそうだ。
「土曜日だろう? 今夜は。……ソーレ見な。だから云うのさ、ニキータの婆さんだって今に見な、『軽騎隊』にひっかかるから」
 ソヴェト同盟では、禁酒運動が盛だ。土曜、日曜に、モスクワの購買組合では一切酒類を売らない。ピオニェールや青年共産主義同盟員(コムソモーレツ)が、官僚主義の排撃や禁酒運動のために活動する。その団体が「軽騎隊」なんだ。
 暫くして、
「おい! いい加減にして来ねえか!」
 横になってる信吉のところまで、怒ったブリキヤの声で廊下の女房を呼ぶのが聞えた。
 今朝は、然し何も彼もいつもどおりだ。
 内庭で信吉は建物の別な翼から出て来るエレーナに行き会った。
 腕に買物籠をひっかけたエレーナは、信吉を見ると、後れ毛をかきあげるような風をして持ち前のカサカサ声で挨拶した。養育料請求のとき証人になってやってから、エレーナは信吉と口を利くようになったんだ。
「――知ってるか? グリーゼルが昨夜引っぱられたよ」
「知ってるよ」
 二人は並んで古い木の門を出た。
「……お前困りゃしないのか? 金はどうするんだい?」
 エレーナは、俯いて歩いてはいるが穏やかな悄気(しょげ)てない調子で、
「私は安心してるよ」
と云った。
「お金は、労働矯正所の方からチャンと送ってくれるんだってもの……あすこにはいい紡績工場があって、出て来れば工場へ入れるようにしてくれるんだヨ」
「ふーん」
「お前知らないだろ?」
 熱心な口調でエレーナが云った。
「あすこには、学校も劇場もあるんだってさ。……私は安心してるよ。大抵よくなるんだもの、帰って来ると」
「グリーゼル、前にも行ったのか?」
「あの男は初めてだろう。……でも私知ってるんだもの……」
 ソヴェトでは、監獄というものが資本主義国とはまるで別な考えかたで建てられてる。エレーナの不充分な言葉にこもっている信頼から、信吉はそれをつよく感じた。
「……私の死んだお父つぁんがね、行ったことがあるんだよ。それは工場で、みんなに渡す作業服の買入れをごまかしたからなんだけれど。――本を読むようになって帰って来たもの……そして、それからいい労働者になった……」
 電車通りへ向ってごろた石を敷きつめた早朝の通りは、働きに出る男女の洪水だ。こっちからむこうへ行く者ばっかりだ。
 人波の中から、
「カアーチャ……」
 いかにも調子よくひっぱった若い女の呼び声が起って両側の建物に反響した。ヒラリと三階の一つの窓から若い女が上半身のぞけた。
「今すぐゥ!」
 そして、消えた。
「可愛い小母ちゃん
 早くしてくれ
 お粥がこぼれるよゥ」
 まだ暑くない朝日を受けて陽気に揶揄(からか)って笑う男たちの声が絶間ない跫音の間にする。
 信吉は群集に混って同じ方向に歩いている瘠せたエレーナに訊いた。
「……お前どこまで行くんだい」
「今は店へ行って、それから赤坊を托児所へつれてくんだよ」
「ふーむ。……この頃は預けてるのか?」
「――ここらの人みんな頼んでるもの……私先(せん)、おっかなかったんだよ、――だって、政府に世話して貰うなんて……」
 この女がこんな微笑みを洩すこともあるかと思う清らかな微笑みをエレーナは唇に浮べた。そして云った。
「――ねえ……何故人間って知らないことは何でも、いいことでもおっかながるもんなんだろう……」

    (□)[#「(IV)」は縦中横]

        一

 暑い真昼だ。
「鋤」の旋盤第三交代の連中が、食堂の北側の日かげに転ってる古ボイラーのまわりで喋くってる。だんだん討論みたいな形になって行った。
 職場のコムソモーレツ、ヤーシャの妹が煙草工場へ出てる。昨日その煙草工場見学にどっかの外国人が三人やって来た。ちょうど今みたいに昼休みで、食堂や図書室に婦人労働者連がガヤガヤしていた。すると、その中のニーナという女が、やっとロシア語の少しわかるその外国人をつらまえて、お前さん方、私共ソヴェトで社会主義がどんなにうまく行ってるか見に来たんだろ? サア、よく見て行っておくれ、私共が何を食って五ヵ年計画のために働いてるか。私達は餓えてるんだ! と喚き出した。
「工場委員会の文化宣伝部員の女が案内していたんだそうだ。ひどく泡くって、ニーナに怒りつけ、外国人を急いでそこから連れてっちまったんだとよ」
 ボイラーの下へ片肘ついて横んなりながら草をひきぬいて噛んでた赫毛のボリスが、軋んだような声で呻った。
「――何だってまた、大衆の口へフタをしたんだね? そのスカート穿いた工場委員は?」
「判りきってるヨ。だって、そりゃ……判りきってる!」
 ボイラーに腰かけ足をブラくってるちびのアーニャがせき込んだ。
「外国人て、どうせブルジュアか社会民主主義者じゃないか、恥だわ。階級の敵だよそんな女!」
「――奴等あ、それに、とても素敵な写真機械をもってるんだ。歩きながら写しちまうんだ。パチリ! すんじまう。……俺あ見たことがあるんだ」
 驚歎と憎悪とを半々に浮べた眼付でノーソフが云った。
「そして、新聞へ出すんだ。例えば、ソヴェトの哀れな労働者は社会主義国に暮しながら、毎朝こんな混み合う電車にのって、工場へ通わなければならない。そう書いて出すんだ。……国防飛行化学協会(オソアビアヒム)のクラブ図書室へ行って見な、あるぜ。そのイギリスの新聞が」
 みんな黙った。暫くすると、キャラメルの唾を吸いこみ吸いこみ、
「フン!」
とアーニャが顎をつき出した。
「じゃ大方イギリスの資本家は、さんざっぱら合理化してチョンビリ残した労働者を一人一人馬車へでものっけて運んでるんだろ!」
 ワハハハハハハ。
「でかした小母ちゃん!」
「ついでに一つ英語でやってくれ!」
「――同志(タワーリシチ)!」
 鼻の頭へヨード絆創膏の黒い小さい切(きれ)をはりつけた男が叫んだ。
「俺あ云うね、その煙草工場での経験は、『労働者新聞』の大衆自己批判へ投書しなくっちゃならねえと。その女は、ただニーナというだけじゃなく、何の誰それニーナと書かれて、プロレタリアとして云うべきことと云うべき場所ってものがあるのを知らされなくっちゃならねえ!」
「――事実はどうするヨ」
 グルズスキーがねちねち口を挾んだ。
「購買組合の棚は空だっていう事実は、どうするよ。……お前ら空の小鳥に、家持ちの気持は分らねえんだ」
 膝を抱え、ボイラーによっかかって熱心にきいている信吉からは見えないところで別の太い声がした。
「事実は大事だ。そりゃ、レーニンも云った。だが、そりゃ事実でなくちゃならねえ。――われわれが餓えてる? 一九二〇年のソヴェトじゃ事実だった。今日の事実じゃねえ。食い物は確につめてる。その代り工業生産はわれわれんところ、ソヴェトで一年に二八パーセントも殖えてる。これがわれわれの事実だ!」
「異議なし!」
 アーニャが手を挙げた。
「どっち道、その女工場委員はホントのボルシェビキじゃなかったんだ。何故逃げたんだ? 外国人つれて。――云わしゃいいんだ。大衆の口をふさぐことは許されてねえ。事実で証明すりゃいいんだ」
 信吉は、全力をつくしてみんなの言葉を理解しようとし、オーリャが今に何とか云うかと待った。がオーリャは始めっからしまいまで黙ってボイラーに腰かけ、上被のほころびを繕ってた。

 四日ばかりして、こんなことがあった。
 昼のボーが鳴って、洗面所の水道栓が一時に盛にジャージャー使われるので冷たい滴をいっぱいつけた。
 それから信吉が食堂へ行って見たら、売店のガラス棚の中には、胡瓜がエナメル皿にのっかってるぎりでカランとしてる。蠅とラジオの音楽とがある。
 肩幅のある鍛冶部の連中が所持品棚から手付コップをもってやって来た。ソヴェト同盟では、高熱作業や有害ガスの立つ作業をやる労働者は、組合の労働保護費で毎日牛乳を支給されてるんだ。
 手に手にコップつき出して台の前へ列になった。
「そーら、お母ちゃん、牛乳おくれ!」
 白い上被を着て白い布で頭を包んだ係りの女が、
「今日は、半コップだよ」
 牛乳罐から杓子で、こぼさないようにコップへ分けた。
「――何故ね」
「牛乳組合で足りなかったんだヨ」
「……豪気なことんなりゃがったね!」
 みんなは、渡される手付コップの中に半分だけ入ってる牛乳を眺めちょっとゆすぶって見、それからそこに立ったまんま、或はベンチにかけて、ユッくり注意ぶかく飲んだ。
 飲むと、手の甲で口の端を拭き、
「ドレ……」
 立ってった。
 互同士の間でも、連中は牛乳の足りないことについちゃ、悪態もつかなかったし愚痴もこぼさない。ただいつもより喋らなかっただけだ。
 ジッと見ていて、信吉は思わず自分もシッカリ立ち上った。
 裏の広っぱではギラギラ光る碧い空へ向って起重機の黒い動かない腕が突出てる。
 高く飛行機が飛んでる。
 下で、裸の肩へ赤ネクタイを翻す工場学校のピオニェール達。タッタ今食堂で半コップぎりの牛乳を支給されて来た鍛冶部の連中。古ボイラーのまわりへタカったり、金屑の山をこじったり賑やかに蟻みたいに働いてる。
 今日は「鋤」の「廃物利用突撃デー」だ。
 ソヴェト同盟は五ヵ年計画で、役に立つものなら古桶の箍(たが)でもこねかえして機械にしてしまうという意気込みなんだ。
 信吉も一生懸命ホジっちゃ地べたへ古鋲や変な古金物の端をはじき出してるところへ、ブラリと煙草をまきながらグルズスキーがやって来た。
「……今日は鍛冶部へ牛乳が半コップだけしか渡んなかった……知ってるか?」
「それがどうしたよ」
 信吉は、額の汗を払いながら太い声出した。
「……見ろ。初めてだぜこの工場で。……農民は、だんだん労働者に食わせねえようになって来たんだ。奴等、怒ってるんだ。……二〇年の饑饉だってそこから起ったんだ」
 こいつ何故、俺をつらまえちゃこういうことを云うんだ? 信吉の腹ん中には、さっき自分の眼で見た鍛冶部の連中の態度がうちこまれてる。彼等はこういう風には、そのことを扱ってない。――「おいトッちゃん」
 信吉は立ち上ってグルズスキーの肩を両手で持ちクルリとあっちを向けた。そして指さした。
「あの人にそういうことァ云ってくれ!」
「……どの人よ」
「あの人ヨ」
 信吉はもうしゃがんで掘じくりながら笑ってる。
「……畜生!」
 グルズスキーはプーッと地べたへ唾して行っちまった。信吉は笑ってる。
 信吉が指さした広っぱの端れには、荷馬車からはなされた馬がいる。馬は糞をしてる。
 燦く碧空で、屑の中から有用なものを掘り出してる無数の人間の上で、飛行機のプロペラが唸ってる。――

        二

 全露共産党中央委員会書記が「プラウダ」に報告を書いた。
 何故ソヴェト同盟には食糧困難があるか? なるほどソヴェト農民が昔は食わずに売っていたバタや肉・卵を自分のところでも食うようになって来た。だが、農村のそういう生活向上は、解放されたプロレタリアート国家として非難すべきことだろうか? 否。実によろこぶべき事実だ。
 ソヴェト全同盟の労働者農民の営養はもっともっと高められなければならない。
 五ヵ年計画はこの領域にも手をのばし、農産物の増加と価格の低下で、現在一人当り四九・一キログラムの肉類の消費を六二・七キログラムに、九〇・七個ずつ食われる卵の数は一五五個に。二一八キログラムの牛乳製品は三三九キログラムに、それぞれ高めようとしているのだ。
 現在の肉類の欠乏は、五ヵ年計画のはじめ、集団農場化が行われるとき、階級的意識の低い中農や反革命的な富農が、家畜の共有を嫌がって非常に多くの牛、馬、豚を屠殺した。それを補うために、国営、集団農場で行われた牧畜は僅か一パーセント増しているに過ぎない。その結果肉類の欠乏が来ているのだ。
 ソヴェト同盟内の集団農場の集団牧畜を急テンポに振興する努力だけが、この状態を根本的に救済するんだ。
 野菜類は、決して実質的に不足は告げていない。どこにも旱魃(かんばつ)で悩まされた地方というのはなかった。ところで現在、農村に集団農場、箇人耕作をする中農、及富農と並存している過渡的情勢で、一番、野菜類穀物類を売り出す可能をもっているのはどの部分か。富農だ。
 中農の箇人耕作は消極的性質で行われている。農業の社会化は五ヵ年計画の第一年でプログラムの二倍以上行われた。然し、それにしても、まだ建設期だ。特に野菜類を豊富に大衆へ行き亙らす程度にどの集団農場も発達しているとは云えない。
 最も市場に売り出せる余分の農産品をもっている富農は、ソヴェト権力が益々社会主義的前進をし、急速に資本主義的要素を排撃するのに反抗し、あらゆる方法で、ソヴェト経済を乱そうとしている。富農の売却サボタージュが、野菜その他の欠乏に重大な役割を演じているのだ。
 〔三字伏字〕大衆と党との協力による力強い農業の集団化、機械化によってだけ、プロレタリア経済に必要な農産物の供給は、富農の力を借りる必要なく行われるようになるのだ。
 全ソヴェト同盟の大建設事業に伴ってこの夏は、運輸が従来にない重大な意義をもっているにかかわらず、各所に貨物の渋滞、延着が訴えられている。或る駅ではキャベジ一貨車を腐らした。この事実は、プロレタリアートの建設事業の血管を管理している運輸労働者の大衆的自己批判を求めている。
 同時に、この際消費組合内部機構の批判も活溌に行われなければならない。ソヴェトの消費組合の社会的任務は、商品取引の過程から出来る限り資本主義的仲介人を追っぱらい、それを社会化し、国内市場を組織することにある。国営工業からはその生産品を出来るだけ安く、早く、便利に農村へ送るように。労働大衆が最も有利に賃銀を実質化すことを助けること。農業生産物を集め、それを合理的に都市の使用者まで持って来ること。これが消費組合の任務だ。
 党を支持し、〔二字伏字〕ある社会主義社会の達成に向って進むプロレタリア大衆は、益々広汎に消費組合の隊列に参加し、その正当な運用と活動を監督鼓舞しなければならない。

 みんな、いろんな恰好で、シーンと聞いてる。
 モスクワは暑く、かわいてる。市の鉄道切符売場の前の歩道では毎日朝から、有給休暇で「休みの家」へ旅立つ勤労者たちが切符を受とろうとして列をつくっている。
 まけず劣らずの列がパン配給店や、消費組合売店の角にある。暑いためもあって、そういう列の中で、男も女も怒りっぽかった。ひどく互同志で列の順をやかましく云った。
 胡瓜車だけが目立った。
「鋤」の中でもいつかしらみんなが食糧の問題を盛に喋くるようになった。
 口数の少いオーリャまでが云った。
「『金属』の休みの家では、でも、まだまだよく食べさせるってさ。野菜でも肉でもフンダンだってさ」
 ヤーシャが読んじまっても、みんな暫く黙ってる。
 頻りと爪をかんでたノーソフが不意に、
「ね、おい!」
 例のヤブ睨みになりかけたような眼つきで云った。
「……区の消費組合監督委員たちは一体何してるんだネ」
「……知らないよ。知るのは容易なこっちゃないよ」
 アーニャがプンと答えた。
「――大方、マカロニと石鹸とくっつけて置いちゃ、匂いがついて食えませんよって監督してるんだろ」
 信吉はヤーシャから新聞をうけとり、膝の上へひろげてウンサ、ウンサ一行二行と綴字を辿って、読まれた論文のよみ直しをやってる。
 区の「コムソモールの家」に文盲撲滅の講習会が開かれている。信吉は一晩おきに欠かさず通い、どうやら読めるようになったところだ。
 新しい世界が信吉の前へ一層深くひらきかけてる。
 オーリャの声だ。
「われわれんところじゃ、随分『機能清掃』がやられてるけれど、まだ消費組合の内じゃ、バタの大きい塊りが頭の黒い鼠にひかれたりするんだ」
 信吉は、昨日アグーシャから聞いた話を思い出して云った。
「――『赤いローザ』じゃ工場ん中の女代議員が、消費組合監督の突撃隊をこしらえたそうだぜ」
「……あすこはドダイ女が多いんだ」
「ちょっと!」
 オーリャが、のり出して強い美しい目で皆をグルリと見た。
「そういう問題に男と女の区別がある? まして、直接大衆の食糧問題と結びついてるとき、男と女の区別がある?」
「異議なァし! タワーリシチ!」
 ヤーシャが半分冗談みたいに、陽気に叫んだ。
「これは、階級的な問題だ。オカミさんだけの問題じゃない。ソヴェト経済の社会化に結びついたプロレタリアート大衆の問題だ――」
 が、そこまで云うと急にヤーシャはピタリと口を噤(つぐ)み、顔つきをかえた。真面目な声になって相談するように云った。
「だが――何故『鋤』工場でも、食糧配給監督の突撃隊をこしらえちゃいけないんだ?」
「ヤーシャ! いいこと思いついた! ほんとに、何故われわれんとこで、食糧配給監督をやることに思いつかなかったんだろう!」
 キラキラ輝く顔になって、オーリャが手を叩いた。
「ヤーシャ! いいわ。ステキだよ、やろう! え? やろう! どう? みんな?」
「ふむ」
 ノーソフが、ゆっくり頭を掻きながら満足げに呻った。
「こりゃ、プロレタリアートの自発性だ」
「そうだとも! われわれは積極的にやらなくっちゃ。直ぐみんなにこのこと話そう!」
「待ちな」
 ヤーシャが、半袖シャツからつき出ているガン丈な腕を曲げて金網をかぶせた時計を見た。
「これからじゃ間に合わない。帰りにしよう。所持品棚のところへはどうせみんな来るんだ」
「そいでさ、交代の連中だって一緒に聞くもん、なおいいや」
 勢づいたアーニャが信吉の髪の毛をひっぱった。
「こんなに真黒な毛生やしてても、為になることも覚えてるんだね」
「俺ら直ぐアジプロ部へ行って来る」
 ヤーシャは、はじめ歩いていたが見ているうちにだんだん大股になり、とうとう駆け出した。駆けて作業場の建物の角を事務所の方へ曲った。

        三

 コムソモーレツ、ヤーシャが大きな紙に赤インキで書いたビラを両手でもってやって来た。仕事場の横の、生産予定表だの、小さい壁新聞だのの張ってある壁にそいつを貼ろうとしてのび上った。
 一人じゃうまく行かない。
 それと見て、オーリャが手鑢にかけてた締金を放り出し、可愛く紐の結び目のおったった紺の上被りの端で手を拭いて、貼るのを手伝ってやった。
 モーターは唸ってる。
 真夏の午過の炎暑の中へ更に熱っぽい鉄の匂いがある。
  ツウィーッ!
  ツウィーッ!
 ビラにはこう書いてある。

  仕事がスンだら所持品棚のところへ集れ!
  三十分を惜しむな!
  食糧問題の自主的、階級的解決は俺達の任務だ!
  ボルシェビキ的積極性で、ヤッテ来イ□
職場アジプロ委員
 全体赤い字のところへ、「食糧問題」とだけ黒だ。パッと目をひくように、うまく書かれている。
「何だい?」
「何ヲ考え出したんだネ、暑いのにヨウ」
 わざわざ仕事台から離れてビラを壁のところまで読みに行く者もある。
 読んじまっても、みんな、すぐには行っちまわない。党員で、職長のペトロフまでゆっくり奥から出て来て、ビラの前へ立った。
「こりゃ、いい思いつきだ」
 もう一遍よみかえして見て、
「――ほかの職場連中知ってるのかネ?」
 アーニャがゴシゴシ手鑢をつかいながら、暑気を震わすような甲高い自信のある声で返事してる。
「グーロフがかけずりまわってるヨ」
 確にビラは金的を射た。みんなの注意をひきつけた。
 丸まっちい鼻の頭から下瞼の辺にかけて粒々汗をかきながら赤いムッツリした顔して信吉は働いてる。
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